第一話

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第一話 ふな亀

1、安部屋敷の茶会

桜咲き水温む春たけなわの頃、筆頭老中・阿部正弘の屋敷で私的で小さな茶会が開かれた。
 ささやかで私的な茶会とはいえ、筆頭老中の屋敷での茶会が周囲に知られぬわけがない。
「また、あの連中か? なにも出来んくせに」
 日頃から、温厚で慎重な安部老中の施政に反発する武闘派大名は眉を潜めて噂した。
 この数年来、内患憂の状態が続いていた。
 イギリス、アメリカ、フランスなど外国艦船が来航し幕府に通商を求めて性急に開国を迫っている。
 さらに、この前年には土佐の漁民、万次郎なる者がアメリカ船に送られて琉球に上陸し、帰国の途についている。
 万次郎は何年か前に鯨捕りに出た難破して溺れ死ぬところを日本近海で操業中のアメリカの漁船に助けられアメリカで生活した後に返されている。その万次郎が取り調べで語った内容は余りにも衝撃的で、にわかには信じ難いものだった。
 アメリカには天皇のような支配階級もなく、才覚があれば誰でも金持ちにもなれるし政権にも参加できるというのだ。
 アメリカには士農工商の差別もなく、出世は実力次第だと供述して役人を笑わせ、「虚偽を言うな!」と叱られている。
 しかも、アメリカには日本侵略の意図はない、などと万次郎は答え、幕府に監視を付けられて拘束されいる。
 この万次郎の供述も、神経細やかで用心深い筆頭老中・安部正弘の心と五臓六腑をかなり痛めていた。
 外国が攻めて来たら? これはあり得ないことではない。
 幕府は江戸市中の緒藩士や旗本の鉄砲訓練を許可した。
 その上で各藩に沿海の警備強化を命じ、外国船に対する薪水の給与を禁じた。
 さらに、観音崎砲台を構築、佐渡海岸にも台場を築き、韮山代官・江川英龍に大砲製造のための反射炉の築造を命じた。
 世相は騒然となり津々浦々の治安が乱れ凶悪な犯罪がはびこっていた。
 当然ながら、江戸市中の治安の乱れは犯罪の激増につながり、町奉行や火盗改めの手に負えるものではなかった。
 そんな時に、老中・安部正弘は自分が幕僚に推挙したした三人を屋敷に招いて茶会を開き、策を練ったのだ。
 しかし、そのような会合はすぐ巷の噂になって広がってゆく。
 当日の客は、人材登用の巧みな安部老中自らが幕閣に取り立てた以下の三人とされている。
 南町奉行所の遠山景元、韮山代官江川英龍(ひでたつ)、奈良奉行の川路聖謨(としあきら)、いずれも安部正弘の息のかかった三人だから、緊迫した世相の打開策を語り合ったと見られても何の不自然さもない。

 だが、その茶会にもう一人、密かに招かれていた者がいた。
 上の三人は正門から、その者は裏口から出入りしたため誰の目にも止まっていない。
 実際に招かれた客は四人、一人だけ名が抜けていた。それが勝麟太郎(りんたろう)だった。
 麟太郎は巨大な岩のような三人と比べれば小石のような存在だが、なぜか、その三人に推挙されて招かれたのだ。
 老中を囲んで彼らが何を語り合ったのか? 記録は何もないが推測はつく。
 緊迫した内外の情勢をこと細かに語り合ったに違いない。
 古今東西、密室である茶会での会話はそのまま外に漏れることはあり得ない。
 密室での会話は全てが密事だからだ。
 当人らは口をつぐんで真実を語らず、周囲は余分な憶測で考えて解釈する。
 国としても危機存亡のとき、時局を語り合うのに何の不思議もない。
 だが、その日を境に幕府内に大きな変化が起き始めている。
 まず、備後日田の代官の子から異例の出世で奈良奉行を務める川路聖謨に、さらに勘定奉行への内示が出た。
 江川英龍は、アメリカから帰国して幕府の厄介物になっていた万次郎を正式に江川家手代として迎えた。
 さらに、幕府には激震が走った。
 その茶会から数日後、遠山金四郎景元が江戸南町奉行を辞任したいと申し出たのだ。
 まず、江戸の治安を守るべき南町奉行・遠山左衛門尉景元(さえもんのじょうかげもと)が職を辞した。
 嘉永五年(1852)三月末のことである。
 江戸の名奉行で鳴らした通称・遠山の金さん退任の噂は、たちまち江戸中の話題になり瓦版をも賑わした。
 隠居願いを出した金四郎は南町奉行所を辞し、寄合席扱いになったが、体調不良を理由に登城することはなかった。
 体調不良を理由とはいえ、つい数日前までは元気で職務を全うしていただけに幕閣内でも疑わぬ者はいない。
 それでも金四郎は病気静養と称して屋敷に籠ったまま、公儀の席には姿を見せなくなっていた。
 この茶会に参加した麟太郎もまた、この日を境に大きく変わった。
 麟太郎は病の床に伏す師・島田虎の助を見舞って、火砲の時代が来たことを話すと、師は「そうか」と頷いた。
 さらに、江戸には西国の脱藩浪士などが流入して強請(ゆすり)たかり強姦など勝手放題だと話すと、しばし瞑目して言った。
「火器の世になろうとも我が師・男谷精一郎と共に剣をもって金四郎殿を支え、まず江戸の治安を守るのだ」
「精一郎は身内だから分かるが、なぜ遠山さまを?」
「金さんが奉行を辞めたのは、安部さまと合意の上だ。あの人じゃなきゃ出来ないことをやる気だからだ」
 さらにこう加えたのである。
「外国との戦いの後は内乱になる。大きな戦が始まったら、たんなん(担庵・江川英龍)の生き方に倣ってどちらにも与せず、お前だけは生き残って国の立て直しに励むのだぞ」
 その後、麟太郎は赤坂田町に開いたばかりの蘭学塾で、今まで片手間に作っていた江川英龍、佐久間象山仕込みの鉄砲の鋳造に加えて大砲(おおづつ)も作り始めた。諸大名が競って麟太郎に、外国と戦うための大砲を発注してきて塾の学生は銃砲造りに熱中した。若い彼らは、この火砲が「国を守る」と信じていたのだ。
 そんな時代の変わり目を境に、金四郎は幕閣を去った。、
 金四郎は、茶席で起こった意見の食い違いで安部正弘の怒りを買い、町奉行を辞任せざるを得なかった、と見られている。
 しかし、この辞任は江戸市民の失望を買った。
 悪を懲らしめ善を救けるはずの奉行が、息子に家督を譲って悠々自適の隠居では庶民は納得できないのだ。
 それでも「長い間ご苦労さん」とのねぎらいの声も少なくはない。
 江戸市中の噂では是々非々半々、それらの声は当然ながら本人・金四郎景元の耳にも届いている。

2、帰雲の由来

遠山金四郎景元は職を辞して数日後、密かに深川の下屋敷を出て本郷丸山の法華宗陣門流・本妙寺護法院(ほっけしゅうじんもんりゅう・ほんみょうじごほういん)の日善上人(にちぜんしょうにん)を訪れた。
 体調が悪いはずの金四郎が、桜の街路樹に囲まれただらだらと長い本妙寺坂を一気に上って息切れもしない。
 五十九歳どころか二十歳の若者より足取りが軽いし気も若いのがよく分かる。
 職務での市中見回りと違って笠も被らず、羽織袴姿ではあるが無紋の木綿着姿だから目立たない。
 それでも擦れ違ってから気づく者もいて「遠山さまだ」と小声で囁きあい、駆け戻ってきて丁寧に挨拶を交わす者もいる。
 その時は必ず、「元気でな」とか「親を大切にしろよ」などと一言かけるのが金さん流なのだ。
 なかには、生き神様でも拝むように手を合わせる老婆までいて金四郎を困惑させる。
 坂を上りきる手前に本妙寺の立派な瓦門があり、徳栄山と横文字がある。金四郎は竹箒で門前を掃く小坊主に「日善さんはいるかね?」と聞き、案内するというのを断って、本堂斜め裏の竹林に囲まれた日善上人の私宅に向かった。
 お互いに年齢も近いから気兼ねがない。
 並みの器量の奥方の煎れた茶を前に「相変わらずの別嬪さんで、和尚は幸せですな」と、歯の浮いた世辞を軽く言えるのも庶民派奉行で慣らした金四郎の特技だった。これで奥方が笑顔で去り、陰でこそこそ檀家の後家を何人か愛妾にして睦事を重ねているという噂のある日善上人にも救いになる。
 三年前、遠山家の菩提寺だった下谷の本光寺が手狭になったこともあり、この徳栄山本妙寺に移したのも、かねてから親交のあった日善上人の勧めによるものだった。
「昼間から挑戦かね?」
 碁敵でもあり和歌仲間でもある金四郎の来訪をいぶかる和尚を前に「甘い物だが」、と横柄に土産を置いて和尚の膝元に押し出して金四郎が切り出したのは、「僧籍が欲しい」という無理難題だった。
 いくら旧知の仲でも、妙雲院、円立院、本蔵院など七院の塔頭を束ねる責任ある第二十五代護法院の立場では、そんな無体な申し出を安易に承認できるわけがない。ましてや、わずかな手土産で僧籍を譲った、などと世間に知れたら大変なことになる。
 上人は「悪いが断る」と、言いながら手土産を手元に引き寄せ、袱紗をめくって箱を覗いたら、障子越しに差し込む午後の陽光に中の品が黄金色に燦然と輝いた。あわてて蓋を閉めた上人が「甘い物は好物でな」と言ってわざと渋面をつくり、両手で箱を持ち上げ、重さを測ってから即座に金四郎の僧籍を認めたのは人情として当然のことだった。
 金四郎とて一昨日までの奉行職であれば許されぬ事だが、今は奉行を辞めた身、かつての田沼時代の処世術はやはりまだ生きていた。いや、未来永劫に続く特効薬とも考えられる。
「ところで和尚、名は何がいい?」
 甘い物の効果があるうちに決めないと、また手土産が生じるから金四郎が畳みかける。
「そうじゃなあ」と、日善上人がもったいぶって白くなったあご髭を撫で、考える振りをした。
「どうじゃ、七院の中からまず一字取ってみるかね?」
「なるほど・・・」
 日善上人が指を折る。
「円立院の円か立、妙雲院の妙か雲、本行院の本か行か・・・」
「もういい、何だか頭が混乱するから二番目でいいよ」
「二番目は妙雲院だ。だとすると妙か雲だな?」
「妙なものよりは雲の方が好ましいな」
「ならば、もう一字は拙僧の日か善を進ぜよう」
「雲に日か善、雲日、雲善でござるか?」
「そうではない。日雲か善雲じゃ」
「なるほど、日に雲、善い雲か?」
 金四郎が膝を叩いて頷いた。
「日も善もいいが、自由な昔に帰りたいからな・・・帰る雲、これでいい。帰雲(きうん)にするぞ」
「しかし」
「いや、お上人のお寺から一時頂いた。これで充分、帰雲、これに決めた」
 これで僧名が決まった。しかも金四郎自身が決めたのだからお布施も関係ない。
「流れる雲のごとく、自然に帰って余生を送る・・・ま、確かにいい名ではあるな」
「ご坊がそう言って下されば、では、では、帰雲に決めますぞ」
 甘い物の効果といっても、黄金は表面だけで下は本物の甘い物なのだ。
「ところで隠居は認められたのかね?」
「一応、家督は倅の景纂(かげつぐ)が継ぐことで了承されたが、家督相続が済まないと隠居は認められんでな。それまでは無益の寄合衆の仲間入りで、出仕に及ばずじゃ」
「隠居料は、出るのかね?」
「奉行の役料千石はなくなったが所領の下総豊田郡他五百石は倅が継ぎ、わしは倅が頂いていた三百俵をそのまま隠居料として頂くことになった」
「隠居にしては高禄じゃな。景元殿は余生を存分に楽しめますな」
「和尚と違って、世のため人のために使おうと考えておりますから金は残らん」 
「ほう?」
 景元が改まった。
「ところで和尚」
「なんじゃね?」
「わしの慰労会を精さんが考えてくれるそうでな」
「男谷が?」
 この日善は御家人の次男坊で、昔は男谷精一郎と並ぶ直心影流団野真帆斉門下で竜虎といわれた剣の達人だった。
「ご坊のすご腕は、精さんから聞き及んでおりますぞ」
「男谷は宝蔵院の槍に吉田流の弓も免許皆伝じゃが、わしは何も出来ん」
「ご謙遜で」
「しかも、男谷はご養父が祐筆であったから書も画も超一流だった。そういえば・・・」
「なにか?」
「男谷とは昔、いずれは一緒に世直しでもするか? と言ったことがある」
「では、その時期が来たのでしょうな。和尚にも声をかけてくれ、と言われたのじゃ」
「それは嬉しいことじゃ。ぜひとも参加させて頂きますぞ」
「では、そのように伝えておく」
「で、場所と時刻は?」
「明後日、神田お玉が池のふな亀で酉の上刻(午後五時)」
「承知! あそこの鰻の蒲焼はタレがいいから絶品じゃ」
「置いてある酒もいいし」
「最近、美人の娘が新しく入ったという噂も聞きましたぞ」
「それほどでも・・・」
 言いかけて金四郎があわてて言い直した。
「それは気付かなかった。さすが日善和尚、耳が早い」
「なあに、檀家の一人が蒲焼を食べに行っての土産話でしてな」
 金四郎が話題を変えた。
「できれば、お坊さんと悟られないように編み笠使用で・・・」
「ほう、僧以外なら何でもいいか?」
「昔の武家に戻ってみては?」
「いや、俳諧師がいいな、頭巾もあるし」
「結構です」
「名前は・・・伊集院玄洋ではどうだね?」
「いやに早く出たが、どこから出た名前ですかな?」
「当院の墓石から拝借しただけじゃよ」
「玄洋さんは死人ですか?」
「前から、この名が気に入ってな」
「拙者が坊主になり、ご坊が俳諧師か?」
「男谷は?」
「精さんは、そのままで表の役をやってもらう」
「例えば、あの身ぎれいで整然とした男を無精ひげの零落した浪人風に変えるとか?」
「それは無理な注文ですな。精さんは将軍とも会わねばならんし」
「ところで何を企んでるのかね?」
「和尚には隠し立ては出来ん。国のドブ掃除とでも思ってくれればいい」
「なるほど、ドブ掃除でねずみ退治か?」
 日善上人が話題を変えて立ち上がった。
「ところで、自由放免になった身だ。景元殿も一首詠むかね?」
 書の道具を持って来た和尚が言った。
「どうせ、いい歌は無理じゃろうがな」 
 そこで景元が詠んだのが次の一句、短冊に書いて声に出して詠む。、
「天つ空 照らす日影に曇りなく 元来し山に帰る白雲・・・まずまずですな」
 金四郎が自画自賛し、和尚が首を傾げて「今一歩じゃな」と言うのはいつも通りだった。
 木々が芽吹く広い境内を表門まで送られ、別れ際に景元が笑顔で和尚に告げた。
「あの箱の下は、今話題の日本橋屋長兵衛の鯛焼きですから早めに召し上がりを」
「重さですぐ下は菓子だと分かっておった。拙僧は上に乗った甘いもので充分感謝しとるよ」
 日善上人が、笑顔で金四郎を見送った。

3、火消しの剣術

勝麟太郎は幼い頃から、剣聖の名もある従兄弟の男谷精一郎に鍛えられたが、高弟の島田虎之助が浅草新堀に道場を開いたのを機に住み込みの内弟子になり、心身ともに鍛えられて免許も得て、剣技では誰にも負けない自信があった。だが、如何せん幕府内での立場は仕事のない旗本小普請組だから剣の道を生かす術もなく出世の望みもない。
 それが、わが国にとって正念場と思えるような大きな出来事が続き、ここのところ麟太郎を取り巻く環境も大きく変わりつつあった。
 数年前の嘉永二年三月、長崎に寄航したアメリカの軍艦プレブル号がやっと退去したのに、閏四月にはイギリス軍艦マリナー号が相模湾に現れて図々しく江戸湾の測量を始めるという始末。しかも、その挙句に堂々と下田に入港するという出来事があった。
 この異国の巨大な戦艦を次々に目にした人々は仰天して世相騒然となり、この異国の軍艦に攻撃されたら江戸の町は焦土と化して、この世の終わりが来ると嘆き悲しむ者まで出た。
 その異国に対する恐怖は幕府の弱腰に対する怒りとなり、将来への不安からか江戸の人々は勤勉さや隣人愛をも失っていた。押し込み強盗、誘拐、窃盗、火つけ盗賊、犯罪も増加して、もはや奉行所の役人だけでは江戸の治安は守れなくなっていた。
 そんな時に、江戸市民の期待と信頼を一身に浴びていた 金さんこと遠山金四郎景元が南町奉行所を辞めたことは、二日目にして江戸中が大騒ぎするほどの噂になって人から人にと風のように伝わっていたのも無理はない。
 ある日、赤坂田町で蘭学塾を開いている無役の麟太郎にも幕府からの呼び出しがあった。
 いよいよ出番かと張り切って登城すると、将軍家慶公にお目見した席で、顧問格の徳川斉昭から海防についての意見を求められた。
 麟太郎はこの時とばかりに、持論の軍艦と大砲の増強を強く進言したのだが、その場で命じられたのはの取るに足らない鉄砲鋳造の指導と現場監督だった。主命とあっては仕方なく受けたが、麟太郎にとってはおおいに不満だった。
 麟太郎は鉄砲鋳造の現場に顔は出したが実務は人任せ、その鬱々とした気持のはけ口を、いつもの剣術の出張指導に向けたらしい。
 以前から麟太郎は、もしも江戸が鉄の軍艦と破壊的な火力を持つ外敵に攻撃されたら太平に慣れた幕府の武力では到底太刀打ちできないという発想から町民による自衛を考え、それに賛同した大先輩の遠山景元の指示に従って、浅草の辰五郎という鳶の親分の元に剣術の指導で通っていた。
 この日も、若い時代からの親しい遊び仲間の芳三郎を連れて鳶職相手の稽古に出かけた。
 辰五郎といえば、その豪快で優しい人柄を慕って集まる命知らずが三千人とも言われる江戸で一番の侠客だから、血の気の多い乾分も多かった。その辰五郎宅の庭先は、いつもながら張り切った男たちで黒山の人だかりだった。
 これはいつものことで、誰もが強くなりたいから楽しみにして待っていたのだ。
 鳶職で町火消し「を組」の親分の辰五郎は金四郎景元より三歳下だが、金四郎がまだ仕官もせずに無頼の徒と博打や喧嘩に明け暮れていた頃からの遊び仲間で、その縁から麟太郎も辰五郎とは親しく付き合っている。
 鳶職を主体とした町火消しは、大火の多い江戸の町の自衛手段として必然的に出来たものだが、隅田川の西をいろは48組、東を本所・深川十六組に分けたのは大岡越前という百年以上も昔の名奉行だったそうだが、昔の人は偉かった・・・麟太郎はいつもそう思っている。
 辰五郎は、つねに鳶職衣装の股引き黒足袋に火消し半纏姿で客人を迎えるのを常としていて、麟太郎の剣術稽古の間にも膝に手を置き、あぐら姿で微動もせずに見守っていた。
 麟太郎が羽織を脱ぎ、袴に白足袋で草履のまま竹刀を持って庭に出ると、われこそと思う喧嘩上手の鳶職人が、貧乏旗本の頭をかち割ってやろうとばかりに気合をこめて袋竹刀を振り回して立ち向って来る。だが、麟太郎が軽くさばくから竹刀が麟太郎の身体に触れることなどない。
 ところが、この日の麟太郎は機嫌が悪いのか感情剥き出しに竹刀を振るうから、子分共は打たれた頭の芯にエレキが走るのか悲鳴と苦悶してのたうちまわり、中には失神して桶の水を掛けられて息を吹き返し、麟太郎の顔を恐ろしい怪物でも見るように呆然と口を開けて眺めている者もいる。
「さあ、次は誰だ!」
 なにしろ、麟太郎は自分の機嫌の悪いのを袋竹刀に込めて叩くからたまらない。そこで、火消しの子分共も自衛手段を考えた。火消し半纏を丸めて頭の上に縛りつけて、叩かれても痛くないように考えたのだが、今度は胴を叩かれて呼吸ができずに転げまわって苦悶する。そこで胴周りの左右に座布団を巻きつけて防備を傾けたら、今度は小手を打たれて手首が腫れ上がって鬼瓦のような顔で涙を流して腰を抜かしている。
 五十人ほど怪我人を出したところで、辰五郎が手を上げた。
「勝さん!」
 あわてた辰五郎が遠慮しがちに麟太郎に頭を下げた。
「容赦なく仕込んでくれと頼んで面目ねえが、ちと手加減を・・・」
 麟太郎が景色ばむ。
「なんだと! 親分がそれじゃあ子分共が弱腰になるのも無理はねえ。さあ、てめえが出ろ!」
 今度は辰五郎が怒った。
「おい麟太郎! 三十も違う年長に、てめえ呼ばわりはねえだろう」
 厚い座布団に座って座敷で脇息に寄りかかって高見の見物をしていた辰五郎が顔色変えて裸足で飛び降りると、袋竹刀を握るやいなや間髪を入れずに麟太郎目がけて片手打ちで殴りかかった。

4、狂言作者

麟太郎があわてずに、余裕をもって辰五郎の打ち込みを避けた。
「齢まで誤魔化しやがって、おれとは三十六違うのは先刻承知じゃねえか」
 麟太郎が辰五郎の攻撃を巧みに避けて逆襲するが、意外や意外、日頃の麟太郎の指導がよくて辰五郎の腕が上がったのか、辰五郎が麟太郎の必殺の面打ちを叩き払って逆胴を狙って打ち込み、麟太郎に竹刀で受けさせて、固唾を飲んで見守っている子分どもを驚かせて喝采を浴びた。得意になった辰五郎が攻勢に転じて打ち込むが、さすがに麟太郎の身体に竹刀を触れさすことは出来ない。暫く打ち合っているうちに辰五郎の息が荒くなる。
「参った! いや、これは引き分けだ。親分はさすがに強えな」
 平然と呼吸の乱れもない麟太郎の声を待っていたように、辰五郎は竹刀を投げ捨てて、地面に這いつくばって荒い息を吐き頭を下げた。
「さすがに麟太郎師匠だ。てえしたものだ」
 子分どもは大喜びだった。
「勝先生が先に参ったんだ」
「親分の勝ちだ!」
「さすがに親分」
「先に音を上げたのは勝先生だぞ」
「二人ともすげえな」
 辰五郎に八分、麟太郎に二分の賞讃を浴びせて拍手喝采で叩かれた痛みを忘れて大騒ぎになっている。
 麟太郎といい勝負をして大歓声を浴びただけに、辰五郎は上機嫌だった。
「てめえたちも、お疲れさんだった。痛みには石田散薬が一番だ。酒に入れて飲んでくれ。今日は無礼講だぞ」
 子分どもの歓声を背に、「さあさあ」と麟太郎を奥の座敷に案内するが、当然のようにお供の芳三郎もついてゆく。
 辰五郎が嬉しそうに笑顔を見せた。
「麟さん、済まなかった。これであっしの顔が立ちました」
「それにしても辰五郎親分もてえしたもんだよ。よくまあ台本通りに攻めも防ぎも出来たもんだ」
「あの後、あっしが胴を払うところを麟さんが竹刀で払って、すぐ頭を狙って打って来るところをこっちが体を右に避けて、崩れた体勢から胴を狙って打ち込むというところの前で声が掛けてくれたから助かった・・・あそこは多分、台本通りにはいけなかっただろうな」
「おれが適当に合わせたから心配はねえさ」
「二人には借りができた・・・」
 辰五郎が振り向いて、小声で芳三郎に言った。
「台本屋、そう言えば芳三郎から河竹新七って名前に変えたんだったな?」
「そんなの、どっちでもいいですよ」
 麟太郎が言った。
「そりゃあいけねえ。おれも今日から新七さんって呼ぶから、辰五郎親分もそうしてくれ」
 吉村芳三郎は、麟太郎より六歳ほど上の文化十三(1816)年二月三日、江戸日本橋生まれの狂言作者で、いくつも名前を変えた挙句、最近では二代目河竹新七を名乗って羽振りがいいらしい。
 この芳三郎は十四歳で道楽が過ぎて実家から勘当されているのだが、その仲間の一人がこの新門辰五郎で、少しは責任を感じたのかよく面倒をみて、知り合いの貸本屋の番頭に紹介したりしていた。
 麟太郎も辰五郎の紹介で剣術を教えたが芳三郎には素質がないと突き放している。
 その芳三郎が、いつの間にか狂歌や俳句から狂言作家になって、今は四代目市川小團次のための書き下ろしで「三人吉三」などという素人には分からないような作品に取り掛かっているという。
 奥の部屋に入ると、子分三人が煮物と焼き魚に銚子と杯を載せた膳を運んで来て消えた。
「ところで麟さん、折り入った話って何だね? 芳三郎が居てもいいのかい?」
「その河竹新七が考えた筋書きだから、これからは新七さんて呼んでやってくれ」
「さん付けは無理だが、新七ぐらいなら言えるぞ」
 麟太郎が言った。
「おれもそのうち海舟って名前を使おうと思ってるんだ」
「そいつは無理だ。麟さんは麟さんだからな」   
 麟太郎が芳三郎を見た。
「芳さん、いや新七さん。おめえから話してやってくれ」
 小柄な新七が胸を張って説明を始めたが声は小さい。
「辰五郎親分は、昨今の荒れた江戸の町をどう見てますかな?」
「毎日どこかで押し込み強盗や殺しや火事で救いがないから、せめて火事だけは防がんとな」
「その江戸の大掃除に、命を投げ出してみませんか?」
「台本屋、急に何を言い出すんだ。おれはいつでも命を投げ出してるぞ。火事場は芝居じゃねえんだ」
「分かってます。親分には腹を割って話します」
「何を言い出すんだ。麟さん、おめえさんも仲間ですかい?」
「仲間だったらどうする?」
「そうだなあ。話だけは聞きますが」
 芳三郎がきっぱりと言った。
「そいつは無理です。二つ返事で仲間に入れねえような男には密事は明かせません」
「密事? 芳、おめえら何を考えてるんだ?」
「ま、いうなれば世直しってことです」
「世直しか? 腹を決めた。芳じゃ不安だが、麟さんに賭けやしょう」
「では明後日、お玉が池のふな亀に酉の上刻(午後五時)、内密で」
「明後日? ばかに急ぎじゃねえか? なにがあるんだね?」
「それは、金さんから聞いてください」
「おいおい、麟さんだけじゃなく、金さんまで絡んでるのか?」
「男谷精一郎先生もです」
「先にそう言えば、二つ返事だったんだぜ」
 麟太郎が笑った。
「辰五郎親分、人は見かけに寄らないものだ。この芳さんは辰五郎親分とは違うんだぜ」
「どう違うんだ?」
「与力の桃井春蔵に鏡新明智流の剣をみっちり仕込まれてるから、少々骨があるんだ」
「禄高二百俵の新入りご家人の甚助、今は桃井春蔵、その弟子? まさか、この芳が?」
「しかも免許皆伝だぞ」
「試しを!」
 辰五郎が突然、空になった煮物の碗を膳から取り上げて芳三郎の顔面目がけて投げつけた。
 一瞬、ふらっと身をかわした芳三郎が左手で椀を掴んで、何事もなかったように辰五郎に返した。

5、名主と与力

南町奉行所与力の東條(ひがしじょう)八太夫が、名主の普勝(ふかつ)伊十郎を訪れた時のことである。
 江戸の名主ともなれば、大地震発生やコロリの流行などでの支配下の町の人々の苦しみを助けたり、甚大な被害の回復のために尽くすのだが、同時に市中の取締や人別なども兼務していた。
 伊十郎が小網町名主普勝伊兵衛の養子として迎えられたのは、五年前の弘化四年三月だった。
 それからは、穀物、青物、水菓子から乾物類に至るまでの物価の安定や、若者の結婚や仕事などに至るまでに気を配り、住みよい町づくりに力を注ぎ、結婚、離婚、再婚、病気、葬儀、犯罪などの他に、江戸に滞在する異人の動向にも気を配っていた。
 したがって、名主の伊十郎に聞けば町内の出来事はどんな些細なことでも一目瞭然なのだ。
 その伊十郎が、先に聞いた。
「東條さま、遠山さまは本当にご病気でお奉行を辞められたのですか?」
「その通りだ。前から心の臓が弱っていたのだ」
「で、東條さまのご用は?」
「最近、報告が少ないが奉行所に上がっていない揉め事などがないかと思ってな」
「事件なら必ず奉行所にお届けします」
「事件になっていない出来事を聞きたいのだ」
「どのようなことです?」
「ここのところ、日本橋の丸福呉服屋をはじめ家族皆殺しの押し込み強盗が続いたので奉行所でも苦労しておる」
「困ったことです。お奉行所は何をしてるんだ、と誰もが言っています」
「それらも原因で、遠山さまは病に倒れられたのだ」
「それは大変です。遠山さまがいない江戸の奉行所など北も南も空っぽ同然ですよ」
「それは手厳しいな。われらがいるではないか」
「東條さまは別ですが・・・でも江戸から悪党を一掃したい気持は同じです」
「ならば手を貸してくれるか?」
「いつでも」
「拙者を信じている眼ではないな」
「いえ、そんなことは」
「では聞くが、伊十郎は、遠山さまのためなら一肌脱ぐか?」
「当たり前ですよ。私が名主になれたのも遠山さまが養子縁組を勧めてくれたからです」
「では明かす。これは遠山さまからの頼みだ」
「それを先に言ってくれりゃあ」
「うるさい。わしじゃ不足なんだな?」
「とんでもない。それより用件は?」
江戸中の宿という宿の宿泊客と他境からの新住民を調べてくれ」
江戸中のですか?」
「飛脚を使ってもいい。金は奉行所でいくらでも出す。江戸中の名主に触れて調べてくれ」
「なるほど、不審者のあぶり出しですね?」
「それも今すぐ」
「そんなに急ぎますか?」
「実は明後日、お玉が池のふな亀で酉の上刻。そこで待ってるぞ。誰にも言うなよ」
「そこで何があるのですか?」
「遠山さまの長い役人生活と病気回復を願って、その慰労会を男谷精一郎さまが計画してな」
「男谷さまが?」
「勝さんも来るぞ」
「あの麟太郎さんもですか?」
「まだ、何人か来ると思うがな」
「それで、何を?」
江戸のドブ掃除だ」
「て、ことは、遠山さまは元気なんですね?」
「当たり前だ。奉行所じゃ動きがとれないから辞めたのだ」
「でしたら、命がけでお手伝いします」
「かたじけない」
「そう言えば・・・」
「なんだ?」
「北町奉行所の秋山さまが」
「久蔵がどうした?」
「やはり、江戸の人別の動向を聞いてきました」
「いつだ?」
「一昨日です」
「そうか、やつも同じことを考えてるんだな?」
「どうしますか?」
「構わん。江戸の掃除は味方が多いほど効き目は大きい。ただし、こちらの動きは内密だぞ」
「なぜです?」
「遠山さまが北町奉行当時、拙者と久蔵は遠山さまの懐刀の双璧で互いに援けたり張りあったりする仲だった」
「知りませんでした」
「今から十年前の天保十三年、北町奉行が遠山さまで、拙者と久蔵が遠山さま配下の与力として働いていた。その当時、南町奉行鳥居甲斐守耀蔵さまの与力だった仁杉五郎左衛門の米相場操作の不正を暴いて一味を捕縛したのも、久蔵と拙者だった。それが遠因になってマムシの鳥居さまが失脚し、遠山さまが残ったのだ」
「そうでしたか」
「鳥居、遠山の時代こそ北と南は犬猿の仲だったが、江戸の治安が最悪になった今は、身内の争いをしている余裕はない。力を合わせて凶賊を退治するのが先だ」
「ならば、いずれ秋山さまも味方に引き入れますか?」
「当然、そうなるだろうな」
「分かりました。私など小さな力ですがお貸しいたします」
「かたじけない。これこの通りだ」
 東條八太夫が深々と頭を下げた。

6、その夜の客

景元の長い役人生活を慰労しての会合を考えたのが、幼馴染の男谷精一郎信友だった。
 神田お玉が池の畔の川魚料理ふな亀、といえば弘化二年(一八五四)創業で、大和田と並ぶ江戸名物のうなぎ屋だった。
 その二階の奥の座敷で景元と信友、共通の仲間での会だから気は楽だった。
 うなぎの蒲焼専門の店がなぜ「ふな亀」なのかという疑問は店主の亀吉もよく聞かれる。
 これは、千住で幕府御用で鯉や鮒などの川魚問屋をやっている鮒屋亀五郎の次男の亀吉がうなぎ屋を始めるにあたって、本家の鮒屋という屋号に順じたという。
 お玉ヶ池は、今では小さな池だが、江戸の町づくりに埋め立てるまではかなり大きな池だったらしい。
 その名の由来は、どこの地にもあるような哀れな恋物語だった。
 好きな男に恋い焦がれて振られた「お玉」という娘が、生きる希望を失って身を投げたという伝説だった。
 亀吉の女房のお定と、金四郎景元の知人の娘だという賄い見習いの若い加奈が配膳を始めたところに、男谷精一郎が若い弟子を連れて現われた。
「いらっしゃいませ。今日もお元気そうで何よりでございます」
「なんだ、わしらが一番乗りか?」
「いえ、先ほど小網町の名主さんと辰五郎さんがいましたが、後から来た勝さんに誘われて散歩に出ています」
「麟太郎が伊十郎と辰を? 早く来たなら手伝わせればいいのに」
「そう申し上げて、逃げられました」
「お定さんじゃなく、加奈さんに言わせれば二つ返事で手伝ったのにな」
「そんな言いよう・・・でも、その通りでしたね」
「この男、ここでは初顔だが健さんと呼んで、あごで使ってくれ」
「健さんですか? こんないい男、もったいなくてあごでなんか使えませんよ」
「じゃあ、どこで使うんだ?」
「わたしの体で・・・いえ、冗談です。お手打ちはご免ですよ」
「許す、たしかに金さんをはじめ、こんな若いいい男は我々の仲間にはいないからな」
「金さんが加奈を連れて来てから、千葉道場の若者が沢山来てくれて、この店も大繁盛ですのよ」
「それはいい。できるだけ店に出すといい」
「ところが、本人は料理が好きらしく台所に入りっきりで四郎吉さんを手伝ってます」
「あな変わり者の板前じゃ、相手にされまい」
「ところが、それが妙なもので相性がいいらしく、すっかり気に入られているようです」
「そうか、それはよかった」
 そこに、料理の膳を運んで来たのが加奈だった。
「男谷の先生、いらっしゃい!」
「噂をすれば、だな。加奈さん、この男はわしの弟子だ。健さんと呼んで、よろしく頼むよ」
「お弟子さん? ずいぶん、もの好きもいるものですね?」
「余計なお世話だ。それより、手伝わせるものはないか?」
「あります。お膳運びですが、健さん、いいですか?」 
 健さんと呼ばれた男は「お手伝いします」と、大人しく加奈に従って階段を下りて行き膳を運び始めた。
 間もなく、南町奉行所与力の東條八太夫が二階に上がって来た。
「八太夫、久しぶりだな?」
「男谷先生も、お元気で」
「なあに空元気さ。八大夫、その先生ってえのはやめてくれ」
「では、男谷さん? それとも陰で言うように、信友さんってえのはどうです?」
 精一郎が笑った。
「陰でそう言うなら、表でも言えるじゃねえか。ノブさんでいいよ」
 そうこうしているうちに三々五々集まって来て、軽口の挨拶を交わしながら適当に席に着く。
 そのうち、散歩していた三人も戻り、次いで戯作者の新七が現われる。
「おう来たか、細かい料理と酒の手配は、新七に任せるからな」
「承知しました」
 新七と呼ばれた男が、それぞれの好みに合わせた料理をお定に通している。
 そこに、着流しの遠山金四郎景元が本妙寺の日善上人と連れ立って現われた。
「おう主賓のご来場だ・・・」
 と、言いかけた男谷信友が、景元の頭を見て「なんだ?」と驚いて言葉もない。
 まさか、景元が剃髪で現われるとは思っていなかったからだ。
 早い順に奥から座るという無礼講の席についていた一同も声もない。
「まあ、この通り坊主になった。お経は読めんが、お布施は堂々と頂けるぞ」
 若い時からの遊び仲間の辰五郎が冷やかす。
「金さん、それが目的ですかい? 坊主丸儲けとかで」
「おい火消し! 日善和尚の前でそいつは失礼だぞ。図星だからな」
 男谷信友が立ったまま言った。
「さあ、これでほぼ全員揃ったかな。ぼちぼち始めるか?」
 見ると自分を入れて全員で十人、なかなかの顔ぶれがそろっている。
 金四郎、精一郎、麟太郎、榊原健吉、東條八太夫、普勝伊十郎、新門辰五郎、河竹新七、日善上人、加奈の顔がある。

7、闇奉行誕生

金四郎景元が座りながら周囲を見回した。
「虎は?」
 島田虎之助は男谷精一郎門下の英才で勝鱗太郎の師匠、この集まりの常連で今までに欠席したことがない。
「虎は体調不良で出席できん。皆さんによろしく、と伝言です。その代わり、虎に負けない新入りを連れて来た」
 男谷精一郎信友が、隣に座っている温厚そうな若者を全員に紹介した。
「こいつは榊原健吉という弟子で、芝狸穴(まみあな)の道場までは遠いから桃井か大石に行け、紹介状を書くと言っても首を縦に振らん。まったく変わったやつだが、わしの言うことは聞く」
 戯作者の新七が言った。
「師匠が変わってりゃあ、弟子だって変人に決まってるのは勝さんを見てれば分かりまさあね」
 麟太郎が怒った。
「なんだ嘘八百屋、おれの今の師匠は精さんじゃないぞ」
「麟の言う通りだ。わしでは扱い切れんから虎に預けたんだからな」
 二十四歳ほど年上の従兄弟の言葉を麟太郎が引き取った。
「今だから正直に言う。おれは精さんに毎日こっぴどく殴られるのが嫌で自分から飛び出して、その弟子に弟子入りしたんだ」
「虎は、手加減してくれたか?」
「とんでもない。今の師匠も荒くて体中傷だらけで痛くてたまらねえ。その上・・・」
「なんだ?」
「王子稲荷まで走っての夜中参りまで命じられて、眠る暇もありはしねえ」
「そうれ見ろ、わしが手加減してたのが分かったか?」
「いや、それは分からなかった」
 その麟太郎が杯を持った。
「ひとまず、遠山さまのお役ご免を祝して献杯を!」
 一同杯を乾して、そこからはいつも通りの無礼講、手酌での飲み食いで好き勝手に喋り出す。
 般若湯は碗に限る、と茶碗酒を煽った日善上人が早速、得意の禅問答ならぬ謎掛けを始めた。
「金さんが奉行を辞めて泣いて喜ぶのは誰かな? ご本人からまず聞きたいな?」
「うーん、巷にうごめく悪党どもかな?」
 与力の東條(ひがしじょう)八太夫が真顔で言った。
「表向きは、奉行が変わっても南に拙者、北に秋山がいる以上は江戸は安泰、悪党共に枕を高くはさせん、ですが?」
「金さん一人が辞めたぐらいで、何も変わるまい?」
「そう思いたいのだが、そうとも言えない情勢だから困るのです」
 辰五郎が、酒席とも思えぬ真剣な顔で聞いた。
「与力さん、何が心配なんだね?」
「遠山さまが南を辞めると、北町奉行の井戸対馬守覚弘さまが張り切り過ぎて勝手に動く気配がありまして」
「そうなるとどうなる?」
「怪しき者は捕縛する、責めて自白させ罰するが、濡れ衣の誤審も増えるから奉行所の権威が落ちて犯罪は増えるだろうな」
「でも、南の新奉行がいるじゃないか?」
「遠山様の後任の池田播磨守頼方様は、まだ何も所信を述べませぬ。多分、お遠山様よりは厳しいかと」
「それでどうなる?」
「ますます北も南も厳しいお裁きになるから、その反動で江戸の治安は乱れ悪がはびこるのは間違いありませんな」
 麟太郎が笑った。
「だから、辰さんにも手伝ってもらってドブ掃除をするんじゃねえか」
 町名主の普勝伊十郎が言った。 
「私のところに北町与力の秋山久蔵さまから江戸中の人別を調べろとの指示が這入ってます」
 金四郎が頷いた。
「久蔵はわしの手の者だ、いずれ皆と一緒に仕事することになるさ」
 かつては金四郎景元の懐刀で犯罪取締りの頭として活躍した秋山久蔵なのは誰でも知っているが、北町奉行所の切り札だけに今は何とも言えないのだ。
 新門辰五郎が言った。
「池田頼方といえば、火事場見回りの役職の頃は江戸の火消しに随分と寄付をさせたもんです」
 戯作者の新七がしみじみと言った。
「それにしても、老中の水野と組んだマムシの耀蔵が芝居小屋の撤廃を決めたときに、遠山さまが猛反対して残してくれたので、わたしらは飯が食える。その恩返しでお手伝いします」
 いつの間にか末席に、賄い女中のはずの加奈が榊原健吉と並んで膳を前に座っている。
 金四郎が言った。
「全員顔なじみだと思ったが、二人ばかり新入りがいる。あの若いのが精一郎の弟子で今売り出し中の剣客榊原健吉、麟太郎の弟弟子みたいなものだ。その隣の娘が加奈、ここの女中になっているが、今日はここの主の亀吉が気を利かして、皆と同じ客として扱ってくれた。奉行時代からのわしの密偵じゃ。あと一人いるが、こいつは勘弁してくれ」
「なぜ、言えんのです?」
 麟太郎の質問に精一郎が応じた。
「それを言えば金さんは切腹だ。いずれ分かることだが、それまではそっとしといてくれ」
 金四郎が頭を下げた。
「かたじけない。わしを叩けば埃はいくらでも出る。今度は江戸の大掃除で埃叩きをする番だがな」
江戸の大掃除をやれば死人も出る。必要なら無縁仏は拙僧が引き受けよう」
 日善上人が茶碗酒を呑み、「骨地獄」などと名のある小魚の骨せんべいをかじりながら続けた。
「ただし、供養の費用は奉行所もちですぞ。いいですな東條さん」
 東條八大夫が仕方なく頷いた。
 酒を飲む者もいたり、肝の佃煮を酒の肴にしたりで徐々に座は盛り上がってゆく。
 江戸の大掃除を目的に集まったにしては、あまりにも緊張感がない。
 ふな亀の料理といえば、江戸の食通のまでは知られたものだけにどれもが美味、誰もがそれを知っている。
 白焼きやうな茶などあり、鰻の頭を揚げて甘辛いたれをかけた「お玉が池」という名物も出た。
 すぐ近くの千葉道場の稽古後の時刻には、疲れた各藩の武士が好んで食すという刻みうなぎの「うながれ丼」なども出たが、やはり、白飯に蒲焼きと味噌汁、漬け物が全員に好評だった。
 酒が気持よく酔いを運んで来たころ立ち上がった男谷精一郎が周囲を見回して言った。
「これから我々は一団となって秘密裏に江戸の大掃除を行う。つなぎは加奈と店主の亀吉だ。それと・・・」
 精一郎が一息入れてから告げた。
「辰五郎親分と八太夫殿は悪の世界の裏表に通じての情報網、名主の伊十郎さんは人別に詳しい。新七は風聞を聞いて来たり、起こったことを瓦版に流したりで役に立つ。それに、いざ斬り合いになったら健吉と麟太郎の出番だ」
「もう斬り合いの時代じゃねえ。おれは鉄砲を持ちだしますぜ」
「冗談じゃない。そいつは異国との戦さに使ってくれ」
「冗談だよ」
「今後、金さんを闇奉行として、われわれ全員が与力同心十手持ちのつもりで役割を担う、よろしく頼みますぞ」
 今度は金四郎が立ち上がって、剃り立ての頭を深々と下げた。
「日善上人と違ってなまぐさ坊主だが、よろしく援けてくだされ」
 こうして神田お玉が池の川魚料理屋「ふな亀」を舞台に、闇奉行帰雲和尚が誕生したのだ。