利根川心中

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利 根 川 心 中
花見 正樹

第一章 七ツ場(ナンバ)ダム

1 死の川        

「栄太郎。見てみろ!」
下流の小野上村に入ったところで、吾妻川沿いの土手道を走る車の運転席から多吉が呼びかけて車を停めた。
栄太郎が見ると、川の中に釣り人が五人ほどいて、上流の荒瀬に立ち込んだ五十男が、竿を立てて魚を取り込む様子が見えた。
「まさか?」 栄太郎が目を見張る。
本格的な釣り人をこの川で見たのは初めてなのだ。
二人は生い茂る雑草を分けて土手道を降り、川原の石を踏んで水際まで近づき、大声でその男に声をかける。
「なにを釣ってるですか?!」
川の瀬音に負けず、多吉の大声は充分に届いたはずだ。何回か呼びかけると、男が振り向きもせずに怒鳴った。
「やかましい。黙って見とれ!」
随分と横柄な対応だ。ケンカっ早い多吉だし先刻から虫の居所が悪いこともあってか、さすがに腹に据えかねて怒鳴り返した。
「なんだオヤジ、その言いぐさは!」
その声に反応せず、男は横に構えていた長い竿を弓なりに立てると、見事な姿勢で上流に投げ上げ、糸をすばやく逆手でつかみ二尾の鮎をタモに落とし込み、振り向きもせず手網だけを二人に向けて突き出した。別に腹を立てている様子もない。
「鮎ですか?」
多吉が、靴も靴下も脱ぎ、ズボンをまくり上げて川に入った。男は、すでに腰を屈めていて背中越しの会話になる。
「この鮎は、どこから来たんですか?」
「漁協が少し放したが、利根川からもかなり上るな」
「詳しいようだが、あんた、土地の人ですか?」
ムッとした表情で男が答えた。
「役人みてえな口ききやがって、オメエらはどこのもんだ?」
「その役人で…ナンバダム現場の岸田多吉、こちらは田原湯の里中栄太郎…」
「ほう、敵味方がつるんで闇取引でもしてんのか?」
「闇取引とは何だ、あんた、ケンカ売るのか!」
「コッパ役人なんか知るもんか。ワシは子持村の嶋野玉蔵だ」
多吉が振り向いて栄太郎を見た。川釣りに興味のない二人でも利根川の暴れ者といわれて近辺に鳴り響く「ケンカ玉蔵」の名は知っている。血の気が多いのか、農水産行政の不正を暴いて県議会に乗り込んだ事でも知られるが、大鮎の全国激流バトル選手権に初参加して準優勝して、今や鮎の世界では知らぬ者がいない、と「時の人」欄で地元紙に写真入りで載っていた。
「子持ち村の嶋野? あの鯉沢の角のペット屋ですか?」
「なんだと、ペット屋で悪いのか?」
男が振り向いて多吉を睨んだ。
「オレ、子供のとき、手乗りインコを三羽も買ってる…奥さんは親切だったが、オヤジさんは無愛想で…あ、その顔だ」
「余計なお世話だ。なにか用があるなら早く言え!」
「この川で魚が釣れるのを、この目で確かめかったんで…」
「なら、とっとと帰れ。ワシはオメエラに用はない」
また、石まわりを探っていた玉蔵の竿が上がった。
玉蔵は引き舟にご用済みの野鮎を入れ、いつ鼻環を通したのか素早く掛けたばかりの鮎を流心に泳がせてゆく。その一連の流れには髪の毛ほどのムダもない。
二人は、その妙技にただ感心して目を見張った。死の川といわれた吾妻川は、いまよみがえって目の前にある。八月初旬の日曜の遅い午後、これが、二人の青年と嶋野玉蔵の出会いだった。
玉蔵は、岸田という名に聞き覚えがあるが、思い出せない。

 

2 宿命

二十八歳の多吉と栄太郎は親友ではあったが、共に両親を失い、どちらも親の意思を継いで、ダムを造る側、ダムに沈む側という相容れない宿命のライバルになっていた。
栄太郎は家業の里中旅館を継いでいて、病弱な五歳上の出戻りの姉、多恵子が手伝っている。経営不振の里中旅館はすでに銀行管理になっていて、いつ競売に付されてもおかしくない。
この日、屋根の雨漏り修理で休業中の里中館の工事休みを利用して、栄太郎の中学時代の同窓会を昼食会形式で開いた。
ここでは、人が集まればダムの話題になる。
たった一軒だけ「ダム建設絶対反対!」の里中館が、条件付き賛成派に変われば、この町からダム反対の声は消える。
同窓会の宴たけなわのとき、栄太郎がいつものダム建設絶対反対論を口にしたことから、建設省七ツ場ダム現場事務所で働く親友の岸田多吉の猛反発を食い口論になった。
「ダムなんか百害あって一利なしだ。オヤジもオフクロもな、ダム騒ぎで寿命を縮めて、お前らを恨んで死んだ…」
「オレの親も苦しんで死んだ。その死を生かすんだ」
多吉は、尊敬する上司の鷹橋一徹副所長の感化を多分に受けていて、ダム建設が既成事実になった以上は、一日も早く補償問題を解決し、代替地で新しい温泉街を開き観光客を誘致することが、地元の利益と生活の安定に結びつくことと確信していた。
すでに条件闘争に入っている仲間とも激論を交わし、酔った勢いで取っ組み合いになるのも年中行事になっている。結局、多恵子が割って入って、また仲良く飲みなおす。
同窓会がお開きになり多吉だけが残った。栄太郎が絡む。
「ダムが完成したら自殺して、関係者全員を呪い殺してやる!」
「オレだって自分の家がダムに沈むのは辛い。でも、ダム建設は既成事実なんだ。このままだとこの狭い土地で共倒れになる…」
多恵子がコ−ヒ−と手作りのケ−キを運んで来て、険悪な空気が少し和んだ。多恵子と多吉は年は違うが昔から仲がいい。
「多吉クン。よかったら泊まってきなさい。どうせ一人でしょ」
「ネエちゃん、よせよ。こんなヤツ…」
「でも、昔はいつも多吉クンが泊まってたじゃない…」
「ネエちゃんは、多吉に甘すぎる。ウチが沈められるんだぞ」
「別に多吉クンが悪いわけじゃないでしょ?」
「でも、東京やヨソの県に水を供給するために、なんで田原湯だけが犠牲にならなきゃいけないんだ?」
「国が決めたことだ。だから、代替地の広い土地に移って…」
「代替地にという裏山の崖上は、ブナやケヤキの原生林に守られているからこそ安全なのに、山を壊してどうする?
パンフだと、公園、緑地、広場、町営駐車場を確保した上に、バリアフリ−を考慮した住宅の提供、駐車場完備で今以上に広々として立派になる温泉街、田原湯駅、駅前広場、その他の公共施設を造ることになってるが、それだけの土地がどこにある?」
「だから、一緒に探して開拓するんだ」
「ダメだ。親の遺言とオレの意思だ。ダムは絶対に造らせん!」
「ダムは出来る。そのために、死んだ川を生き返らせた…」
「意味が分からん。中和工場のことか?」
「そうだ。オレも現場で働くようになって知ったんだが、上流の硫黄鉱山から流れ出る強酸性の水を石灰で中和したのは、ここに造るダムのコンクリ−トを溶かさないのが目的だったんだ。仕組んでから十八年もかけて完成させたんだぞ」
「飲み水や川魚のためだけじゃなかったのか?」
「深慮遠謀でな…」
「他にどんな手を使った?」
「ここから先は言えん。今でも尾を引いてる問題だからな」
「じゃあ、オレが言ってやる。養生館の先代を条件付き賛成派、柾樹館を反対派の拠点にしたのも役所が絡んでたな?」
「ほう、栄太郎でもその程度までは分かるのか」
「条件付き賛成派の養生館の先代が、各界の有識者まで動員してニュ−田原湯のモデル造りを研究して自分達での街造りを目指し、役所の思惑と大きな食い違いが生じた。とたんに行政側はそれまで味方だった養生館の先代を見限って、孤独な死に追いやった…」
「そんな目で見てたのか?」
「…その上で、反対派の急先鋒の柾樹館の前社長を町長にさせて、一方的に代替地探しやダム推進を押しつけて、骨抜きの死に体にして辞めさせた…違うか?」
「そこまでは言い過ぎだぞ。でも、行政側に組み込まれたら、国や県の決定事項に反対は出来んからな」
「だからって、何がどう変わったんだ?」
「何年か前までは、ここは死の川で魚もいなかっただろ?」
「新しいクギを川に浸けるとわずか数日で溶けて消え、コンクリ−ト片などもたちまちやせ細って崩れる…赤茶けた川だった」
「それが今では、上流に建設した中和工場から一日百トン近い石灰を流してPh6・5、川が生き返ったのは事実じゃないか」
「それで溜まった大量の石灰の汚泥をダムの底に溜めてバキュ−ムで吸い上げている。ムダなことだ」
「だが、今はな、イワナ、ヤマメ、鮎だって釣れるぞ」
「まさか? この川に釣りに来る物好きがいるのか?」
「いるさ。下の方に行けばな…」
この議論の結果、意地になった栄太郎は多吉の車の助手席に乗って、釣り人の姿を求めて川沿いの道を下ることになり、そこで嶋野玉蔵に出会ったのだ。
四季それぞれの景観で知られる吾妻(あがつま)渓谷の下流部を残して、川沿いの懸崖が天然記念物の岩脈で知られる名湯・田原湯温泉がダムに沈む。悲しいことだが既成事実だから仕方がない。
ときどき、弱いセキをして多恵子がグチることがある。
「あたしが結婚で家を出て、あんたが就職して寮に入ったら、とたんに心労と過労が重なったのか母さんが持病の心筋梗塞で倒れたまま逝って、父さんも自殺。残ったのは借金だけ、家も抵当に入っていたし、保険嫌いの両親だったから保険金も少しで…」
「なにが言いたいんだよ?」
「あそこで廃業してれば…栄太郎だって八王子の自動車工場勤めをやめてまで、家を継いで苦労しなくてもよかったのよ」
多恵子は渋川の女子高からR大の英文科を出て、新宿の商社に勤めた。そこで、妻に先立たれた上司に口説かれ、両親や栄太郎の猛反対を押し切って後妻に入ったが、先妻の子供の面倒と家政婦のような生活に疲れて身体を病み、両親の死を契機に離婚して家に戻り栄太郎を手伝っていた。だが、体調を崩して地元の医院に行ったところ肝臓に潰瘍があると言われ、院長の紹介で日本ガンセンタ−に行き精密検査を受けたばかりだった。
里中館の改修工事が終わる頃には、渋川の世界シャンソン館で開かれる「竹下ユキ・コンサ−ト」の前夜、多恵子の友人のユキが、ファングル−プ一行約二十名と泊まりに来る。藤岡に実家があるもう一人の友人の中山恵子も来る約束だった。二人とは、多恵子のR大英文科時代に聖歌隊で活躍した仲だが、ユキと恵子の二人がプロ
の歌手になっている。三人が会うのは久しぶりだったし、多恵子にとっては、ユキと恵子の歌が聴けるのも楽しみだった。その日までには静養して体調を整えておく必要がある。
多吉は、栄太郎以上に多恵子の健康を気にしていた。多恵子と栄太郎の姉弟が、力を合わせて頑張れば里中館は立ち直る。多吉としてはもっと里中館の復興に協力したいが、現場事務所で働く百六十人の中の一人にすぎない身としては、与えられた仕事内で便宜を図ることしか手はない。だからこそ、条件付きでいいから多吉には、ダム建設賛成派に変わってほしいのだ。
吾妻川は、長野・群馬の県境の鳥井峠を源流として七十六キロ流れて利根川に合流する。第二次世界大戦の傷痕は、この地にも暗い影を投げていた。火薬の原料になる硫黄を採掘した鉱山が、吾妻川源流の山々のあちこちに放置され、雨が降るとその廃坑跡から流れ出る強酸性の土砂が川を破壊した。
この吾妻川の中流域をせき止めて完成する七ツ場ダムは、昭和二十七年に調査に着手して以来、四十七年の歳月を経たがいまだに完成していない。長い住民闘争の末、平成十一年六月にようやく、水没に関係する地区の連合補償交渉委員会が発足したばかりで、建設省では平成十八年の完成予定と発表していたが、実際のところ完成
までにあとどのぐらいの歳月を要するかを知る者はいない。
ただ、国と群馬県知事、永野原町長が合意して覚書を締結した以上は、この決定事項を大義名分に工事を押し進めるのが建設省関東地方建設局七ツ場ダム工事事務所に与えられた仕事である。
多吉は、高崎の工業高校を卒業後、父の後を追い公務員になり自分から望んで、生まれ故郷を水没させるダム建設の現場事務所に勤めている。赴任した頃は、車を壊され石を投げられケンカを売られて袋叩きにあったこともあり、その地元の人の冷たい視線と態度に何度か退職を考えたこともある。
しかし、その都度、役場の土木建築課に働いていた父が生前、多吉に残した言葉を思い出して耐えた。
「田原湯を湖の見える温泉場にして、繁栄させるんだぞ」
今はもう、ダムが必要かどうかは論点にはなっていない。敵と味方、二代に続く怨念が暗く絡み合って、先の見えない工事だけが続いていた。

 

3 坊主の瀬

玉蔵の死んだ父を土地の人は、親しみと尊敬の念をこめて「ホタカの仙人」と呼ぶ。
玉蔵の父は武尊(ほたか)山の中腹に、ボランティアで避難小屋を運営していた。玉蔵は小学生の頃から山小屋への荷物運びでこき使われ、お蔭で足腰だけは人並みはずれて頑健に鍛えられた。ただ、玉蔵は素直に父の仕事を継げなかった。父の死後は山小屋運営から撤退し、オヤジが山ならオレは川とばかりに川釣りにのめり込み、こうして利根川水系のヌシのような存在になっている。
JR上越線沼田駅から岩本駅間の久呂保橋上流、川額の崖下の人を寄せつけない激流には、白い牙を剥いて釣り人をあざむく荒瀬がある。そのダマシに一役買っているのが嶋野玉蔵とその一味だった。人は、その一団を玉蔵軍団と呼ぶ。
例年、七夕の季節を過ぎた七月の中旬になると、大きく育った鮎が釣り人を避けて、人間の背も立たない利根川一の荒瀬に姿を隠す。その流心に棲む縄張り鮎は、たっぷりと苔を食んで二十八センチ級に育ち、それぞれが川底の大石を縄張りとして棲み付きつき泰平の夢をむさぼる。玉蔵軍団はその激流の大鮎を狙って竿を出す。
とはいっても、軍団の誰もがその一等地の大鮎を手にすることは出来ない。大鮎同様、それを仕留める人間にも必然的に縄張りが出来てゆくが、それには理由がある。その荒瀬には場所ごとに難易度があり、立ち込める釣り人が限られているからだ。
その荒瀬の最上流にある大きな丸石が坊主の頭に似ていることからか誰がいうともなく坊主石といい、その前後に牙を剥く激流を坊主の瀬という。
国道十七号の渋川北の川沿いで路肩に車を停めて窓から眺めると、片品川の流れを飲み込んで川幅を広げた利根本流の東側に岩に飛沫を飛ばす、その坊主の瀬が一望できる。
運がよければ、その激流から弓なりになった竿で抜きあげた二尾の鮎を上流に投げあげ、流れ戻る糸をつかんで軽々と手網に取り込んでいる名手の姿が見えるはずだ。
そこで、腕に覚えのある釣り人は車を川原に乗り入れて、竿を出すことになる。その辺りは西側から入り込む冷たい水と、東の片品川から流れ込む温流とに挟まれた利根本流の流れが混じり合っていて三通りの温度差による川相を形成している。
新参の釣り人は百人中百人、まず手前の国道側から竿を出し小鮎をそこそこに釣る。ところが、目の前で大鮎を釣りまくっている男達を見て、人が釣れれば自分も釣れるとばかりに勇躍して荒瀬に踏み込むことになる。
これが地獄の三丁目の別れ道。腰まで入ったところで押しの強さに気づいて、鮎に出会う前に危険を感じて戻った人は常識を持ち合わせた釣り人だから危険はない。無謀にもそこで鮎を掛けた人は、ただ下流に引きづりこまれて為す術もなく溺れ、玉蔵軍団の一人に救助されて水を吐き、二度と坊主の瀬近くには近寄らない。
同じことが毎年繰り返され、この年も五人ほどのヨソ者が坊主の瀬の犠牲になって命からがら逃げ帰っている。
その坊主岩の周辺を縄張りにして大鮎を掛けるのが嶋野玉蔵で、そこに他の者が入っても鮎は釣れない。鮎を掛ける前に流れに呑み込まれるのがオチで、命があったら幸せというものだ。
玉蔵の足裏にはタコがある。山歩きに加えて、鮎釣りの激流に耐えて足が靴底を通してがっしりと岩を噛むからだ。背も立たない深い場所でも大石に乗り、片足で踏ん張っても鮎を掛ける。鮎のシーズンも真っ盛りになるとそのタコが割れ、それをナイフで削る。
最近は、その激流釣りに憧れて弟子入りし後継者の位置を狙う命知らずの若手も何人かは育って来て、激流の鮎釣りの全国大会でも入賞が続いている。だが、その優秀な弟子達も人間臭さという意味では師匠に遠く及ばない。
渓流釣りが解禁になると、鮎釣り人はじっとしていられない。イワナ、ヤマメで足ならしを始めるからだ。玉蔵とて変わりはない。
大鱒が釣れると聞けば夜明けの氷を渡って、湖の真ん中に穴を開けて竿を出し、遅い午後に大釣りして岸に戻る。薄くなった辺地の氷が重い獲物を担いだ玉蔵を割れ目に誘い込み、結局は冷たい水中を泳ぐ羽目に…。
あるときは、イワナ釣りに山奥に入って車止めに停めた四駆車からスノ−バイクで飛び出して、そのまま雪に沈んで一日スノーバイク堀りで日が暮れるから、釣りはできない。
ある日、仲間と新潟県のある川に行った。
川に潜り食み跡の過多と大小を見極めて、その川で最大の鮎がどこにいるかを見定めてから竿を出す。石調べに川に潜った。泳ぎながら下流に下がったが気にいったいい場所がなかなか見つからない。その内、子供たちがモリで雑魚を突いているのに出会って、水中でそれを見た。尺に近いヤマメが逃げまどっている。
「おい。オジちゃんに貸してみろ!」
川漁師ハダシの腕だから、一瞬でヤマメを仕留めた。
「オジちゃん、すげえ! オイラにも獲ってくんろ」
「かならず家で食べるんだぞ! モリは反則なんだからな」
川に潜った玉蔵の頭から仲間のことが抜け、子供らと一日中遊び呆けて日が暮れる。仲間も心得ていて、夕方になるまでは誰も探しになど来ない。こんなことが五度や六度じゃないから、人には真似できないし誰も真似などしない。
この嶋野玉蔵、目茶苦茶に人の面倒みがいい。謙虚に教えを乞う者がいればとことん面倒をみて、家まで連れて行って食事まで振る舞って鮎釣りの講義をする。もっと驚くのは、それを嫌な顔一つ見せずに、土産にキノコやジャガイモなどを持たす恋女房ヒロ子の存在で、土産を持たせた相手の名前を、夫婦のどちらも知らないこと
などザラだから呆れる。

4 シンポジューム

ある日、川から帰った玉蔵に永野原町名の封書が来ていた。
「あとで、ツヨシや岡さんたちが来るからメシ頼むぞ…」
妻が心配そうに、封を切る玉蔵の顔を覗き込む。
「あんた、また何かしでかしたのかい?」
「こいつはサツじゃない、町役場だ…」
そこには、まず嶋野玉蔵先生という宛て名が踊っている。
「ケッ、先生だって抜かしやがる…」
ワ−プロ印字の文面に目を通したが意味不明だったのか、黙って手渡すと妻のヒロ子が声を出して読む。
「この度、永野原町主催の第XX回七ツ場ダム活用公開シンポジュームのパネルデスカッションにおけるパネラ−の特別ゲストとして、鮎釣りに詳しい貴殿および、貴殿の推薦される方を二名ご招待申し上げます、ですって。日時は…」
「なんだ、そのパネラ−ってえのは?」
「さあ、なにか聞かれたら答える役じゃないの?」
「ダムの争いは向こうの問題だ。なんだか気乗りしねえなあ…」
「誰か…度胸のいい人に付いてってもらえば?」
「誰がいい?」
「カズミさんは? 吾妻川に通って来てたでしょ?」
「愛知から呼ぶのか?」
「あんたよりは上手にしゃべるから…」
「それもそうだが…理屈じゃ菊知のノブさんには叶わねえ」
「それも、お願いしてみたら?」
結局、好敵手ながら気の合う栃木の菊知伸方、愛知の福王一己の名手二人に交通費も払わずに来てもらうことになった。玉蔵はさっそく窓口の担当者に電話で自分と二人の名を伝え、永野原の町民会館でのシンポジュ−ムに出席することを了承した。
「ああ、そうですか…」と、招待した割りには担当者の対応が素っ気ないが、そんなことを気にする玉蔵でもない。自分でも、悪意のない素っ気なさは日常茶飯ごとだからだ。
当日、内容も知らずに三人は永野原に乗り込んで行った。国道一四五号を永野原町内に入ると、左右の二階から道路いっぱいに「歓迎、シンポジュ−ム参加のみな様」の横断幕がはためいている。
「ほう、けっこうワシらも歓迎されてるんだな…」
三人は満更でもない表情で会場に向かった。すでに広い駐車場に車がいっぱい、駐車場所に迷っていると、腕章を巻いた整理係の若者が腕を振って玉蔵の車を招いた。
「嶋野さん。こっちです!」
「なんだ、オメエは?」
若者が運転席の横窓に顔を寄せて、なれなれしく挨拶する。
「オレです。こないだ川で挨拶した岸田多吉ですよ…」
「あのときのダム屋か。ここで何してる?」
「嶋野さんをお待ちしてたんで…、車はこっちです」
車を降りた三人は、多吉の案内で会場に入った。玉蔵が柄にもなく緊張している。
「こないだの調子でしゃべってください。すぐ係が来ます」
生意気な口調で玉蔵をリラックスさせ、外に去った。
しかし、どうも様子がおかしい。会場に入ると客席はすでに満員で、鉢巻き姿の老人などもいて気勢をあげている。
「なんだ? このジイさんバアさんに鮎釣りの話するのか?」
玉蔵の素朴な疑問ももっともだが、福王にも答えようがない。
「ゲ−トボ−ルに飽きた老人に、鮎釣りを奨励するんだな…」
さすがに理詰めの菊知名人、それらしい回答がすぐ出る。
役場のバッジを胸に付けた男が出て来て、玉蔵に挨拶をした。
「なんだ? ワシのこと知ってるのか?」
「顔つきで嶋野さんだと、すぐ分かりました」
玉蔵としては複雑だが親がくれた顔だから感謝するしかない。
男が三人を壇上に案内する。
「どこに座るんだ?」
左右の長テ−ブルに名札があり、すでに五人づつ座っている。
「お席はこちらでございます…」
長テ−ブルの裏側の殺風景なスチ−ルイスが三人の席で、ここには名札がない。
「おい、ワシらをナメとるのか?」
「いえ、特別ゲストでございますから、特別扱いに…」
「台本はないのかね?」
菊知名人の質問に、担当者の顔が不安で曇った。
「ありません。司会がいますので安心してください」
三人をイスに座らせて、担当者はそそくさと姿を消した。
司会の村田教育長が境助役を紹介する。
町長代理で出席した境助役が「七ツ場ダム活用公開シンポジューム」の開会の辞と挨拶を述べ自己紹介を添える。
堺助役の長い挨拶をそのまま並べると三十分はかかるが、その要旨をまとめれば数秒で済む。要は次期に町長の座を狙う自分のPRに加えて「七ツ場ダムを巡る抗争の歴史は前任者達の残したものである」という趣旨の言い訳で、さして内容のある話でもない。
会場から、かなり激しい怒声が出ている。
「町は、どっちの味方なんだ!」
「田原湯を見殺しにするのか!」
誰よりも不満が残ったのは玉蔵だった。
「挨拶に、鮎の話なんかねえじゃねえか…」
玉蔵の声にパネラ−達の全員が非難の目で振り向き、玉蔵が睨み返す。司会の村田教育長があわててマイクを握った。
「それでは、まず建設省を代表してナンバダム現地事務所副所長の鷹橋一徹さんを紹介します。当地出身の鷹橋さんは、東京の大学で設計工学を学び建設省に就職、ご家族を前橋に置いての単身赴任で、この七ツ場ダム建設の陣頭指揮をとっています。それでは、鷹橋副所長に七ツ場ダム建設事業四十七年の歴史と経緯を簡単にご説明いただきます」

5 ダム闘争の歴史

それでは簡単に、と前置きして鷹橋副所長が説明する。
「昭和二十七年に利根川改定改修計画の一環として調査に着手して以来、昭和四十二年に現地調査事務所を開設。昭和四十八年、建設省では水源地域対策特別措置法を適用、翌四十八年に永野原町議会にその説明会を開催しました。
その後、六十一年にダム建設に関する基本計画が告示され、六十二年に建設省と吾妻町および永野原町とで現地調査に関する協定書を締結、平成二年には水没五地区関係全所帯に再建地域居住計画を配付し、平成四年からは用地補償調査も開始され、現在では水没する田原湯地区において、補償交渉勉強会が開かれています。なお、進入路の工事を含めて、すでに七ツ場ダム建設は本格的に始まっていますのでご協力をお願いします」
会場で立ち上がった老人が手を振って叫んだ。
「おらんとこの田畑に、いくら払うかも決めねえで工事をやろうってえのか!」
「んだ!」「んだ!」と大衆が迎合し、教育長が冷静にさばく。
「お静かに…、建設省側から今日までの経緯を簡単にご説明いただきましたが、つぎは水没五地区を代表して、長年にわたって七ツ場ダム建設反対同盟の拠点となっていた川原湯温泉柾樹館の飛騨富太郎さまにこれまでの経緯と、土地収用法の適用もあり得るという一触即発の緊迫した現情についてもお話しいただきます」
飛騨富太郎が立ち上がると盛大な拍手が沸いた。住民側の期待の大きさが感じられる。
「飛騨富太郎です。本来ですと、かつてダム建設反対派代表でもあった元永野原町長の父・雄一郎が出席してご報告すべきですが、高齢でもありますので私が父に代わって出席しました。父は、現在でも七ツ場ダム建設には反対ですが、周囲のダム建設反対の火は徐々に勢いを失い、弱者を犠牲にした五十年近い歳月での闘いに疲れ果てた父は、国の横暴には勝てない、と時々弱音を吐いています。
ここで、敗者がものを言うのもただ唇寒い思いをするだけですので、この先は、亡きご尊父がダム建設後の開発計画を早くから研究されていた養生館の萩野丸人さんに頼みます」
「それでは、萩野さん、お願いします」と、司会の教育長。
「萩野丸人です。父が『七ツ場ダムの闘い』という本を書き残してこの春、八十二歳で無念の死を遂げているのは、ここに集まった方々はご存じだと思います…」
「知らんな…」 大きな声が壇上から響いた。
会場の目に萩野も振り向き、腕組みをしている玉蔵を見た。
「これは…事情を知らないゲストの方に失礼しました。とにかくワシのオヤジは、イワナミ書店から本を出しました。まだ読んでない人は、ぜひ二千円を投じて、新天地を夢見たオヤジの真意を読み取ってほしいと思います。ダム完成後の繁栄する田原湯を見ずに死んだオヤジの無念さを思うとき、その死をムダにしないためには、現実を見据えた上で、今まで以上のよりよき環境を次の世代に残したいと思うものです。父の話ですと、四十数年前のある日、建設省の高官がこの辺りにやって来て『ここにダムをつくる』と地元民に何の相談もなく冷酷かつ一方的に宣言したそうです。その瞬間から、
ここは血みどろの闘いの場になりました。
田原湯地域の内部でも、お互いが疑心暗鬼になり、条件付き賛成派と絶対反対派に別れて殺し合うような勢いで争って来ました。今でこそ反対の声も消え、全員が闘いの場を建設省側との条件闘争に移していますが、それとても足並みが揃っているわけではありません。現に私の父が条件付き賛成派に転向した時点では、柾樹館さんは反対同盟の委員長でしたから、隣同士で顔を合わせるのも辛い時期がありました。ただ、私個人の考えとしては、新源泉は田原湯温泉神社の境内に確保してあることですし、多少の不満はあっても補償金の問題を一日も早く解決し、代替地に新たな温泉街を築いて、田原湯を今まで以上に大きく繁栄させるべきだと思います。そのための皆様のご意見を、ぜひお聞かせください」
会場から野次がとんだ。
「水没するのは田原湯の温泉宿だけじゃねえんだぞ!」
「そうでした。田原湯、田原畑、林、横壁、永野原の五地区三百四十所帯の内訳は、商業五十四、農業六十八、工業など十四、勤め人など百八十六、旅館・民宿はつい先頃まで二十二軒ありましたが廃業などで減少し現在は十六、ダム絶対反対の中里旅館を加えると十七軒、このダムに沈む田原湯の温泉旅館の盛衰が、この町の未来に大きな影響を与えるのは間違いない事実です」
萩野の説明ももっともだから反論もない。玉蔵があくびをし、菊知は居眠りをはじめ、福王は手相など眺めている。それを見た司会者が声を張り上げる。
「ここからは、私の手元に寄せられました質問からスタ−トして、会場のみなさまとの質疑応答になります。はじめに建設省側におうかがいします。ナンバダム工事の予算をお答えください」
現地事務所副所長の鷹橋一徹が手を挙げて発言する。
「総予算は、反対が長引き完成が遅れるだけ膨脹しますので、ここでは数字を申し上げることは出来ません。工事用の現場予算としては年間百七十億円となっております。二十年前に両者が歩み寄っていたら、今頃は、完成して新田原湯の繁栄が見られたはずです」
会場がどよめく。六年弱で一千億円が消えてゆくことになる。
「完成予定日、規模、目的などはいかがでしょうか?」
また鷹橋一徹が答える。
「ナンバダムは、高さ百三十一メ−トルのコンクリ−トダムで総貯水量約一億トン、調節放水量一秒間二千四百トン、流域面積は約七百平方キロの規模で、順調に代替地と補償問題が解決すれば十年後には完成します。ダムが完成したら、洪水調節の他に群馬、埼玉、千葉、東京の一都三県四百万人に匹敵する飲料水の供給、または、かんがい期用農業用水に役立ちます」
「そんなもの必要ない。いまからでも中止できないのか!」
客席からの怒号、質疑応答が乱れ飛び、そこからはパネラ−五人対五人の激論、口論、客席をまじえて騒ぎが大きくなる。
「ゲストの意見を聞きます!」
教育長が手を叩いて、パネラ−の背後を見た。この騒ぎなのに、菊知に続いて玉蔵までが舟を漕いで頭が揺れている。

第二章 新たな争い

6 田原湯再生案

 

「それでは、ゲストの嶋野玉蔵さん。よろしくお願いします」
福王が、玉蔵のひざを叩いて起こす。
「なんだ痛えじゃねえか!」
「今回お招きしました嶋野玉蔵さんは、このアガツマ川下流の子持村におりまして、ご同席の菊知伸方さん、福王一己さん同様、日本国内有数のアユ釣りの名手です。先日、鷹橋副所長の部下の方が嶋野さんのアユを釣る姿に感動して、ゲストにお招きしました」
客席の町民も唐突に鮎の話題が出たから、キョトンとしてパネラーの背後に隠れて座った三人を見つめる。
「嶋野さん、菊知さん、福王さん、前の席に詰めてください」
ただ座っていただけのパネラ−三人が遠慮して下がり、堺助役、鷹橋副所長、飛騨富太郎、萩野丸人と三人が並んだ。
「このアイディアは、鷹橋さんの部下の提案を受けて、鷹橋さんが養生館の萩野さんに相談したものです。まだ海のものとも…いや、ダムのものとも分かりませんが、ナンバダム湖を琵琶湖のような天然アユの宝庫に出来ないかということ、その可能性を探るのが今回の大きなテ−マです。それでは、萩野さんからご発言ください」
萩野がゴソゴソと書類をとり出した。
「アガツマ川は、つい数年前まで香草・草津など北側の鉱山から流れ込む強い酸性水のために、魚が棲むなど思いもよらなかったのは事実です。この川が、酸性水を中和工場での石灰混入で中和、その汚泥は品木ダムで浚って除去しています。そこから流れ出る白砂川のきれいな流れが長野原上部で合流して、ついに魚の棲む川が実現したのです。もともと、この川の南側の沢は水質もよく美味しいヤマメやイワナもよく育ちます。そこで嶋野さんのアユ釣りからヒントを得て、このダムをアユの養殖場か、それが無理なら大規模なニジマス、ヤマメなどの管理釣り場にすることを思い立ちました」
「補償の話が先だぞ!」
野次の中、萩野が続ける。
「この計画をひそかに進めて利権の独り占めという手も考えましたが、死んだ父の考えがダムの被害者は共存共栄という考えでしたので思い直しました。聞きたくなければやめますが?」
「いまさら何だ、全部話してみろ!」 野次がとぶ。
「ただし、アユの生態や釣りに関しては私はまったくの素人です。
そこで、三人のアユ研究家の方をお招きして……」
「ワシらは、研究家じゃないぞ」
玉蔵のうんざりした顔をチラと見て、萩野が無視する。
「ダム湖に沈む三百四十戸の方の希望者を中心に、ナンバダムの上下流を含む主要生産物にアユを加えれば、起死回生の大チャンスがもたらされる可能性があります」
会場から声がとぶ。
「アユは、そんなに儲かるのか?」
「北の海ではニシン御殿、ハタハタ御殿、宮城の塩釜ではマグロ御殿、西ではセキサバ御殿にフグ御殿、公民一体になって努力すれば、この田原湯を中心にアユ御殿も夢ではありません。岐阜県の郡上八幡の野アユは皇室御用達もあって五尾一万円の高値が付いているそうです。ゲストの嶋野さん、いかがですか?」
「話にもならん…」 憮然とした顔の玉蔵が吐き捨てる。
渋い顔の玉蔵に代わって福王が答える。
「十年前は、琵琶湖で育つアユの出荷量は年間七百トン・二十億円でした。いまは冷水病という厄介な病原菌に侵されたとかで出荷量も売り上げも半減しています」
「半分でも、十億円か?!」 客席にどよめきが広がる。
「琵琶湖とナンバダム湖では、諸条件に天と地ほどの差があります
。今からではアユ御殿は建たんでしょう。ただし、いいアユが育つ川には釣り人は通いますから、近くにある温泉街は繁盛します」
「ダム湖が出来たらアユの宝庫になりますか?」
助役の質問に、玉蔵が手を横に大きく振った。
「ナンバダムの上流はアユの宝庫になど無理だ。石灰で中和される合流点から上の本流は、酸性が強くてアユも小魚も棲めないし…、ダム湖の底は上流から流れ込む土砂で埋まってアユの育つ環境じゃあない。このままじゃ、産卵する瀬付き場もダム湖の上流のわずかな小砂利場だけだ。まず、いいアユが育つには、ダム湖の上流にア
ユの食料になるいい苔を充分に育てるいい石があって、充分の広さをもつ水量豊富な瀬や淵が必要になる」
玉蔵が菊知を見た。菊知伸方が沈黙を破る。
「山奥にまた十七億かけて中和工場と中和ダムを造っても、自然破壊が進むだけです。今回のダム計画を見ますと、アガツマ渓谷のすぐ上流から白砂川との合流点のすぐ下までが貯水池になりますね。
したがってダムの上の本流ではなくて白砂川だけがアユの釣れる川になります。これじゃあダム湖上流の入漁料収入も知れてます。釣り人は、年券を買う気にもらんでしょう」
「じゃあ、アユはダメですかね?」
村田教育長が未練口調で残念そうな表情をする。
「いや、ダムの下流に大量の稚アユを放流して、アユの棲む川と温泉としてPRすれば永野原町だけでなく吾妻町、東村、子持村にも釣り人は集まり、その中の何人かは釣れても釣れなくても田原湯温泉で冷えた身体を温めることになります」
「釣れなくてもいいんですか?」
気の毒に思ったのか、玉蔵が多少投げやりに発言する。
「群馬県は、琵琶湖のアユに依存していた時代とはサヨナラした。
今は、県の人工産アユを二百五十万尾、来年はその倍を放流する。
その県の収入源を減らすのは忍びないが、ダム湖に沈む田原湯の人たちの収入源を考えると協力したくなる。研究すれば出来ないことはないだろう。ま、手っとり早いのは、ダムをイワナやヤマメ、ニジマスなどの管理釣り場にして、水量の増減による水位の高低に合わせられるように両岸の水辺沿い全域に段々型の遊歩道兼釣り座にする…ルア−やフライフィッシング,餌釣りなどで女子供でもガンガン釣れるようにするのがいい。手っとり早のは、漁業権魚種免許を申請して、気に食わんがブラックバスだな…」
鷹橋副所長が手を上げて遠慮がちに発言する。
「実は先日、部下の岸田と丹沢湖の三保ダム見学の帰途富士五湖めぐりをして来たのですが、ある湖ではバスの幼魚や成魚の放流に年間数億を投じて、観光・宿泊、日用品雑貨・食料、釣り具・ボートなど関連売り上げだけで数十億だそうで、週末など若者が溢れてコンビニでは朝から、食料は売り切れ続出だそうです」
思わぬ展開に福王と菊知が顔を見合せ、玉蔵が口を出す。
「たしかに、漁協の管理がしっかりしているところは人気も収益も
上がり、つぎの年にも投資が出来るからローテーションが楽になる。ところが、五年前には誰でも釣れたバスが、いまはめっきり減っている。集めた組合費や入漁料を飲み食いに使って、湖水を管理する漁協が努力を怠って自然増だけに頼っていたツケが、今頃からはっきりしてくる。これはバスだけじゃなく鮎にも言えるが、最新情報も活用しないし改革もせず、健全な放流など省みない漁協もいっぱいあるからな」
「と、いうことはバスの方が儲かるんですか?」
「いまはバス全盛だがこれからは分からん。鮎は基本的に一年魚だから釣り帰っていいが、バスなどはキャッチ&リリースというスポーツフィッシングの時代になって人気が出た。現代の釣り人口の大半を占めるバス・フィッシャ−の大部分は、若者から四十代までで、鮎世代よりはかなり若いんで金払いがいいし、昔風の食料確保のための魚釣りが廃れてるからな」
「でも、鮎にとってバスは天敵じゃないんですか?」
「冗談いうな。鮎は神代の昔から日本に棲み着いた純粋の和物だ。
そう簡単に洋モノに駆逐されてたまるか…。ただ、これが淡水の釣りブ−ムを支えてるとしたら、湖や沼にはブラックバス、清流には鮎と縄張りを分ければ何の心配もない」
「ここでもうまくいきますか?」
「ここで言えばダム湖はイワナ、ヤマメ、バスとなんでもOKにす
る。鮎は、白砂川の品木ダム下流全域から永野原合流点までと、ナンバダムから下のアガツマ川全域に放流して、下流の板東漁協とも折り合いを付ける。どの魚種もOKの年券と日釣り券、それに温泉の入浴券と田原湯温泉旅館の割引券も付けると完璧だな」
「ブラックバスの影響はないんですか?」
「ないさ。川に落ちたバスが淵に居ついて小魚を餌にしたって、そんなのは知れてる。生き抜いた鮎が激流の岩に縄張りをつくって生き抜くから心配ないさ。ブラックバスは瀬付きで産卵する習性がないから川では繁殖しないんだ」
「すると、ダム湖にはバス釣り、川では鮎釣りと釣り人が群れることになる。そうなると、旅館もみやげ屋も食堂も大繁盛、ダム放水口からの安全距離をきめれば貸し舟、貸しボ−トも可能だし、軽井沢方面からの観光客も、絶景のアガツマ渓谷から田原湯温泉に誘致できますね?」
「逆に、若者向きのナンバダム湖&田原湯温泉から軽井沢観光へのフィッシングツア−がヒットするかも知れんぞ」
「そうなれば、『ダム湖と渓流釣りの宝庫・絶景の温泉峡』というキャッチフレ−ズで、永野原町全体がうるおって…」
「…この町に年間数億円のカネが落ちる」
ヤケ気味の玉蔵が、田村教育長の言葉に落ちを付けた。
会場が一瞬静寂に包まれた。拍手もない。玉蔵は不味いことを言ったと思って、福王と菊知を見た。
村田教育長が堺助役に目線で合図を送り、助役が発言した。
「あんた、名誉町民になって漁協をやって下さらんか?」
玉蔵があわてた。自分の地元漁協の理事長さえ断っている。
「そんなの、地元でヤル気のあるヤツにやらせりゃあいいんだ」
「ならば、ゲスト三人で顧問になって指導してくれませんか?」
三人が顔を見合せ、菊知が応じた。
「条件を出します。私らはバスはダメですが、鮎なら責任をもって指導します。鮎釣りに興味と理解のある三十代ぐらいの人を二、三人選んでください」
村田教育長が場内を見まわした。
「と、いうわけです。ブラックバス研究は後にして、まず町の発展のために一年更新の町役場臨時職員という待遇で、薄給ですが漁協とアユの勉強を希望する人はいませんか? いたら立ち上がってください!」
ざわめいた会場の男たちが、いっせいにイスを蹴って立った。小遣いを貰って釣りが出来るなんて夢のようだし「数億円」というフレ−ズが効いている。村田教育長が会場を指さした。
「そこの平吉ジイは七十越えてるだろ? 三十代ぐらいと言ったんだ。冗談じゃない。二十八から四十歳までの人だけにします」
これで、あらかたの人が席に着き、八人ほどが残った。
三人のゲストが小声で内輪もめしている。
「ノブさんが言いだしたんだ。責任とってくれよな!」

 

7 利権をめぐって

永野原町で開催されたシンポジュ−ムは、玉蔵らゲストの提案を受け、必要な予算を議会で計上することで幕を閉じた。
だが、この結末は必ずしも成功とはいえない。その新たな提案が、ダム建設をめぐって死者まで出した紛争の町に、利権絡みの新たな争いの火種を蒔く可能性があるからだ。
もちろんゲスト三人には何の罪もない。それどころか、新たな町の発展に有益な情報をもたらした功績を讃えて表彰しようとの提案が、後日、司会を務めた村田教育長から町議会に提出され満場一致で可決されている。
その日、シンポジュ−ム終了後すぐに、釣りの弟子にと名乗り出た八人に対しての面談が、公民館の小会議場を借りて行われた。
審査員は、田原湯を代表して養生館の萩野社長、柾樹館の飛騨社長、役場側は堺助役と村田教育長、建設省側は鷹橋副所長、それに玉蔵ら三人のゲストが務める。
どうしたことか、八人の漁協役員希望者の中に鷹橋の部下の多吉や里中旅館の里中栄太郎が紛れ込んでいる。鷹橋があわてた。
「岸田、冗談だろ? おまえに抜けられたら工事が遅れる…」
「どうせ遅れてるんです。ダム完成後の町に協力します」
「退職するのか?」
「席はそのまま残して、給料もそのまま払ってください」
「それで毎日、釣りで遊ぼうってわけか?」
「釣りの効用の勉強で、全国のダム付き河川に応用できます」
萩野が里中に聞く。
「栄太郎、里中館はどうする、いよいよ廃業か?」
「まだ頑張りますよ。でも、どうせ暇だから姉に任せます」
他の六人も、それぞれの動機や意見を語った。
「大金持ちになれれば何でもいい…」
「失業中だから…」
「まだ、釣りをやったことないんで…」
「遊んで暮らせそうだと思って…」
「鮎の塩焼きが大好きだから…」
「一儲けしたいからです…」
「浮気がバレて、女房に追い出されそうだから…」
不純な動機のヤツもいて、好ましくない。
結局、『管理釣り場化研究員』には、町側から里中栄太郎、建設省側からは岸田多吉が選ばれた。栄太郎には教育事業費予算から薄給を出すが、多吉には建設省群馬県支庁からの給料がそのまま支払われることになる。
堺助役が、三人のゲストにはそれぞれ、なにがしかの謝礼を支払うと言い、玉蔵の怒りを買う。
「金なんか貰えるか! 話の成り行きでこうなった以上は、二人をシゴクのは引き受けるが金はいらん。万が一、川で死んだときに責任がかかるのはご免だからな」
「この二人も危険ですか?」
「高額保険をかけとけ。そこの二人、あんたら泳げるか?」
「自信あります」と、競泳選手体験のある多吉が胸を張る。
多吉が県民大会四百の優勝者だったのを、玉蔵も思い出した。
「犬っかきぐらいなら…」と、栄太郎。
「なんでもいい。流されたら岸にたどり着けばいい」
「頼むぞ。田原湯の繁栄、永野原町漁協組合を背負って立つ立派な人になるんだぞ」
堺助役の言葉に、玉蔵が驚いた。
「おい、今なんて言った? 立派な人だと!」
「気に障りましたか?」
「そいつはお角違いだ。漁協長なんぞ立派じゃなくても勤まるんだ。漁協の役割は、自然環境をよくして川と魚を育て、釣り客を集めて収益を出すことだ。役所と折衝して補助金をとり、民間の養魚場や県の水産試験所から安い価格で買った稚魚や幼魚を放流して成魚に育てる。釣り人から金を集めて収支決算を黒字にして、どれだけ組合員にいい思いをさせるかだ」
「それだけですか? 釣りが上手で頭が切れて…」
「冗談だろ。釣りなんか下手でいい。たとえばな、川を大切にしていい鮎を育てたところへ、ここにいる福王やノブさんみたいな名手がオトリになって、いい釣りをして田原湯に泊まってもらえばな、釣り新聞や業界誌に掲載されるから、たちまちここが有名になって釣り客がワンサと集まり、遊漁料がゴッソリ集まる。その上、温泉宿が繁盛し飲食店も土産屋もニコニコだ…」
「釣れなかったら逆効果ですね?」
「バカにするな、川に魚がいれば必ず釣るから名手なんだ」
「ふつうの人と、そんなに違うもんですか?」
「なんだその言いぐさは、自分の目で確かめたらどうだね?」
「見せてもらっていいですか?」
「いつでもいいさ…」
「さっそく日程を組ませていただきます。いつがいいですか?」
「ちょうど、この三人が近いうちに球磨川に行く…」
「どこですか? そのクマ川は?」
「熊本県の山奥の球磨郡…」
「冗談じゃない、この近くにしてください」
「じゃあ、明日、片品川の昭和町役場下で九時ってえのは?」
三人の釣り具は玉蔵の車に収まっているから、いつでもいい。
「承知しました。このメンバ−で出掛けます。服装は?」
「運動靴でいい。川に入りたければ股引き地下足袋かな。そこの若い二人は七時に鯉沢に寄ってくれ、うちは知ってるな?」
「今晩は、田原湯に泊まってアユ釣りの講義してください」
玉蔵が自宅に電話して、丁度居合わせた弟子に指示を出す。
「ツヨシか? オトリ用の野アユ…いい案配に獲ってある? 初心者を二人、朝七時にうちへ寄らせるから岡さんとオメエで一人づつ面倒見てくれんか。道具と仕掛けは任せる。片品川の昭和町役場下で先に釣っててくれ。オレは、ノブさんとカズミと一緒に温泉で羽をのばして…バカ! 鼻の下じゃねえ、羽をのばすんだ。ヒロ子には間違って伝えるなよ。とにかく朝湯に入って飯食って十時前には行くからな。そうだ、永野原の助役たち何人かが見学するそうだから、そっちの相手も誰か…、そうか上野のメガネ屋の本田社長たちが来るんだったな。とにかく、任せたぞ」
こうして三人は、町の接待で田原湯養生館泊まりになる。

 

8 田原湯温泉

宿に着くと、おとなしかった福王が日頃の調子を取り戻す。
「せっかく来たんだ。うまい酒飲んで、芸者を呼んで…」
「ダメだ。今は温泉宿も寂れてな、そんなの一人もいねえよ」
それに玉蔵は、酒が一滴も飲めない。
「いい景色だなあ!」
吾妻渓谷側の部屋の窓を開けた菊知が感嘆の声を上げた。
緑濃い山の下には、地層の割れ目にマグマが噴出して形成したという国の天然記念物に指定されている吾妻川沿いの田原湯岩脈の懸崖が目に入る。玉蔵が説明する。
「若山牧水って人が泊まってな、なにか書いたそうだ」
「どんな? 田原湯慕情…とか?」
「中身までは知らん…」
そこに宿主の萩野が入って来て、言葉を引き取った。
「ここを詠んだ歌は、『岩山のせまりきたりて落ち合へる…峡の底ひを水たぎち流る』、歌以外にも『この吾妻の渓谷を、これほど好ましい渓とは想像しなかった…』みたいに紀行文もあるんです」
「その先は?」
「途中は抜きますが、ここで見た通りの景色も書き残しています。
『私の泊まった養生館という宿は、見るさえ気味の悪い数百間も高くそそり立った断崖の尖端のところに建てられていた。そして通された三階の窓をあけると、ツイ眼の下に、しかも随分はるかな下に渓が流れていた』ま、こんな調子ですかね」
「よく記憶したねえ」
「宿のパンフに載せてあります、あとで読んでください」
「たしかに、いい眺めですな…」 菊知が遠くを眺めた。
「あの国道にかかるトンネルが久森洞門といいまして、下は…」
萩野がはるか下の吾妻の流れを指さした。
「若山牧水は『山と山の間に一すじ白く瀬の音を流れているのを見ると遙かな想いが湧く』とも書いています」
少し感動したはずの菊知が、牧水に反抗して持論をぶつ。
「でも、あの白い川の本当のよさを知るのは、もの書きとか詩人じゃなくて、あの水辺から一生離れられない渓流釣り狂いのワシらかも知れんですよ。それにしても、関東耶馬渓といわれたこの景色も、この宿もダムの底に沈む、いや、沈められる。行政ってえのはムゴいことをする…」
福王が頷き、誰にともなく語りかける。
「家を沈められた人は、ダムが完成してからが辛いんだ。岐阜の高山から世界遺産の白川村へ行く途中に御母衣(ミボロ)ダムが出来て、荘川沿いの村が谷底に沈んだ。そのダム湖の記念碑がある高台に、沈んだ村から移した桜の木があって…、その桜が満開になるころ、各地に散った村の人たちが何処からともなく三々五々集まってくる。酒酌み交わして歌が出て、涙ながらの花見の宴が、毎日、人が入れ代わって続くんだ。なかには、知ってる人に会いたくて毎日顔を出す人もいた…」
「悲しいことですな…」 萩野が目をしばたかせ、福王を見た。
「もっと悲しいのは、そこに咲く異様に赤い桜の花が散るときだった。風に巻かれた真っ赤な花吹雪が地面と湖面を朱に染めて、その日を境にバッタリと誰も姿を見せなくなる…」
「なんで?」
「花の散ったその高台に一人でポツンと立ってると、ダムの底に沈んだ先祖代々の土地や住み慣れた家、子供のときアユを掛けて遊んだ荘川の川原や野菊の乱れ咲く野原が無性に懐かしく、ただ、泣けて来て…」
福王が一瞬言葉を詰まらせたが、声を出して明るく締めた。
「だから無性にアユを釣りたくて、今のありさまなんだ」
「そうか、福王さんもダムの犠牲者だったんですか…」
萩野が見直したように、浴衣に着替えはじめた福王を見た。
「さあ、温泉街をブラついてみるか…」 玉蔵が言った。
「七時の食事に助役や鷹橋さんが来ます。それまで出ましょう」
「着替えちゃったけど…」
「ここは温泉街ですから浴衣でいいんです。ここにも野天風呂がありますけど、あちこちの風呂も覗いてみましょう」
宿の名入り浴衣でタオル持参の三人と、ポロシャツ姿の萩野とが全員、田原湯と焼き印入りのゲタ履きで宿を出た。
「まず、この角が飛騨さんの柾樹館で、一時はうちの先代との意見違いで争った間柄ですが、いまは田原湯再生のために協力し合う仲になっています」
福王がその先の旅館をのぞく。
「玄関の中にムササビがいっぱいぶら下がっていますが?」
「宿の裏に、近くの森からムササビが来る池がありましてね」
萩野が足を止めた。
坂を下ると右側にスナック、左側に更科のソバ屋などもある。
「この階段の下に、笹湯という共同風呂があるんですが行ってみますか? 無人ですので入浴料は一人三百円を箱に入れるんですが、旅館泊まりのお客さんは宿で発行する入浴券で入ります」
「無料の露天風呂があるって聞いたが?」
「それでしたら、その吾八寿司の先を右に登ると朝六時半から夜九時までオ−プンの無料の聖天様の露天風呂があって、うまくいけば混浴もありです。どちらにしますか?」
「聖天様の露天がいいな…」
すぐ三人が賛成したが萩野が冷たく言い放つ。
「この時間だと、女は狸かバアさんぐらいです。いいですか?」
「いや、オレは笹湯がいい…」 玉蔵が二人を裏切る。
「冗談です。いつもは男女別になってますから行きましょう」
萩野の言葉で、道を曲がりかけた福王が前方の坂下を見た。
「この先に橋が見えますね?」
「大沢川にかかる大沢橋です。下流に講道館の嘉納治五郎先生の別荘跡があって…この坂を下ると、駐在所、ドライブイン、田原湯駅の方角になります」
「別荘も駅も興味ない。その沢を見よう」
四人の足が聖天様の露天風呂を避けて橋に向かう。
「ヤマメやイワナがいますが、その橋のたもとで民宿をやってる鱒屋さんが、川の脇で釣り堀をやってましてね、下手なお客や子供がそこで掛けたニジマスやヤマメを勢い余って川に釣り落とすから、場所によっては群れていて、川で大釣りする人もいるそうです」
「このアガツマ川の南側の沢は、酸性じゃないんだね?」
「ええ、この沢の他に、田原湯の西に落差九十メ−トルの不動の滝から落ちる不動沢にも野性のヤマメやイワナが棲んでます」
「そこの沢はダムが出来ても残りますか?」
「いや、下の沢は消え、不動滝だけが残るでしょうな」
「すると、大沢川だけは管理釣り場も可能ですな」
橋の下を眺めて福王が首を振った。
「これだけ傾斜が強くて流れが細いとアユは無理だな」
大沢川の水を取り入れた鱒屋の釣り堀には、ニジマス、ヤマメの他に大きなコイが遊泳している。ダムがこの延長になるのか。
「それより、共同風呂はどうなるんだ?」と、玉蔵がこだわる。
萩野が腕時計を見た。
「聖天の露天風呂へ行きますか?」
「八百年前に頼朝さんが見つけたってえのはどの風呂だね?」
「それでしたら、私の宿のすぐ上にある王湯のことです」
「聖天よりそっちがいいや」
そこで三人は再び橋を渡り、坂を上がって湯の街に戻った。
「ここは狭くて駐車場がまるっきりないんだな?」
菊知が不思議そうに温泉通り沿いの旅館の空き地を覗き込む。
「この狭い道路では駐車も無理ですし、むしろ私どものように少し引っ込んだところにある宿の方が土地に余裕があるんです」
じゃあ、車では共同温泉にも来られないじゃないですか?」
「養生館の看板の先が王湯で、その前の道で湯掛け祭りという奇祭が行われるんです。その突き当たりに鳥居が見えますね?」
「ええ…」
「あれが田原湯温泉神社といいまして、境内に新源泉が湧き出ていて温泉タマゴの茹で場になっています。そこに駐車場があって六台は停まれます」
「神社に駐車場があるのかね?」
「本殿は、そこから階段を上がった高台にあるので、ダムができても湖畔に残ります」
「お参りしていくかね?」と菊知。
「温泉タマゴがいいな」と福王はいう。
萩野が足を止めた。

9 新源泉

「この店で玉子を売ってます」
「ノブさん。小銭ある?」
福王が当然のように菊知を見た。栃木で工作機械製造会社を経営するリッチな菊知名人の財布には、いつでもお金があり余っていると釣り仲間は信じている。実際の年収は福王の方が多い。
土産店マツイと看板の出ている店には、田原湯名物と書かれた煎餅、饅頭、豆菓子や温泉名入りタオル、キイ−ホルダ−などの田原湯土産が店内狭しと並べられていた。
菊知が生タマゴ十個入り二百四十円のパック二個と絵葉書などを仕入れる。
「エミ子さん、どうだい景気は?」
萩野の問いかけに明るい表情の若奥さんの顔が曇った。
「さっぱりよ。ダムがハッキリしないから、客が遠のいて…」
「ここのジイちゃんも、ダム騒動の中で死んだんだもんな…」
「悔しい思いで死んだのは、養生館の先代も一緒でしょ?」
萩野の世間話を無視してタマゴを受け取った三人は、神社の鳥居をくぐった。車が四台駐車していた。
空き地の中央に木柵で囲まれた屋根付きの源泉があり沸騰した湯が地下に配管された湯道に溢れて流れている。
源泉に漬けたタマゴパック入りのカゴに付けた棒の先を、柵越しに持った小三ぐらいの男の子っぽい少女が、立ってコミックを読んでいる二歳ほど上の姉らしい子に声をかけた。
「シオリちゃん、もういい?」
姉が、駐車中の車で休憩中の父を見た。
「パパ。あれから何分?」
「十七分たったぞ」
「チヒロ。上げていいよ」
少女が棒を持ち上げると、カゴから湯が溢れた。
「このタマゴをパックごとカゴの中に入れるのか?」
福王が真似をする。
長身の父親が車から出て玉蔵ら三人に挨拶をした。
「利根の嶋野さんですね? 釣り雑誌でみてます」
「ほう、親子で釣りと温泉かね?」
「不動滝の下の沢でいい型のヤマメを上げましたよ」
少女が福王に、木の台に乗せたタマゴパックを指さした。
「オジちゃんたち、お腹空いてたら食べてもいいよ」
「いいのかい?」
嬉しそうに福王が手を伸ばすと、玉蔵と菊知も続いた。
三人が、その親子と一緒に温泉タマゴを賞味する。
「旨かった! 茹だったら一箱持ってっていいよ」
「いいよ、ボク、もう帰るから…」
「やっぱり男の子だよな?」
少女が首を振った。どうでもいいことだ。
親子が車内に戻った。
萩野が近づいて来て、玉蔵達三人に声をかける。
「タマゴが茹であがるまで、王湯に入って来てください。三人分払っときましたから」
「じゃ、身を清めてから神社に参拝するか」
「頼朝の気分で露天風呂に入って…景色を眺めて」
王湯に向かう三人に、動きだした車の窓から少女二人が叫ぶ。
「あそこのお湯、熱すぎるからね!」
「お風呂屋の下の山吹ってお店の天プラソバも美味しいよ」
萩野があわてた。
「これから宴会で食事ですから、食べて来ないでください!」
萩野が茹でタマゴのカゴを棒で上げていると、一台の乗用車が駐車場に入って来た。運転席のドア−を開けて浦田町長が「やあ…」
と萩野に手を振る。
「町長、なんの用で?」
車から降りた浦田町長が説明する。
「出張でシンポジュ−ムに出られなかったんで、境助役が勝手に決めたアユ顧問の三人に会いに来たんだ…。いるのかね?」
「いま王湯に入ってます。温泉タマゴでも食べてますか?」
「頂きますかな」
町長と萩野が温泉タマゴを食べていると、玉蔵ら三人が来た。
「こちらは浦田町長、アユ名人の嶋野、福王、菊知さんです」
「よろしく…」 お互いが挨拶を交わす。萩野が言う。
「わたしたちは明日、片品川でアユ釣りを見物するんです」
「助役に聞いたよ。ワシもお供していいかな?」
「見るだけじゃなく、皆さんにアユ釣りを体験して貰います」
永野原町の無報酬顧問に就任した福王が胸を張る。
「それは有り難い」 町長があたまを下げた。
「温泉神社へ行くぞ…」
玉蔵に続いて二人が温泉神社への階段を上がる。
菊知が小金を賽銭箱に入れ、三人が神妙に柏手を打つ。
拝み終わると高台に出た。眼下はるかに、狭い温泉街の屋根の先に緑濃い樹木と切り立った崖が迫る。深い谷底の清流までは視界が届かない。対岸の家々の切れ間に国道を走る車が見え隠れする。
玉蔵がしみじみと言う。
「この下の道路から対岸の同じ稜線までの一面が、ダム湖の水で埋められ、いつかブラックバスの釣り堀になっちまうのか…」
玉蔵の危惧に菊知が救いを出す。
「ヒメマスの養殖に命を賭けた十和田湖の和久内貞幸翁のように、誰か高級魚の養殖でもやれば、巨額の財を成すことになるが…」
福王が大きく頷いてから呟く。
「ここに移り住んでやってみるか…」

 

第三章 鮎狂い

10 片品川

片品川は赤沢山を源流として、三ケ峰、武尊山、赤城山などから流れ出る支流を集めて利根川に注ぐ。鼻曲りの名で知られる美味な片品川の鮎は、闘争心が高いだけ追いもよく引きも強い。
朝、堺助役に誘われた浦田町長、村田教育長も同行して、萩野、鷹橋の五人が約束の時間より早く、昭和町役場から五百メ−トルほど下の東岸の川原に腰掛けて雑談をしながら、タバコを吸ったり缶コ−ヒ−を飲んでいたりして、多吉と栄太郎達の現れるのを待っていた。
早くもあちこちで釣り人が竿を出している。
「あと、十分だな?」
「ここで待ってればいいのか?」
堺助役が時計を見た。
「掛かったよう!」
上流の二恵橋の方角で大きな声が響いた。
萩野が思わず岩の上に立ち、背伸びをして上流を見た。
「栄太郎たちだ! 先に来て釣ってたのか?」
鷹橋も立ち上がる。川の中に二人と水際の岩伝いに二人、鮎支度の四人が近づいて来る。
その一人、腰までを水に漬けた栄太郎は、弓なりの竿に引きづられてよろめいていたが、やがて竿が延びて糸が切れたのか「わっ!」と叫んで流れの中に倒れて沈んだ。
コ−チ役の長身の島田青年が手を叩いて笑う。
その上流で多吉のオトリ鮎が底石にハリ掛かりしたのを潜って外したばかりの岡石という四十前後のやせぎすの男が叫ぶ。
「ツヨシ、笑ってねえで助けてやれ!」
島田が流れに入り、立ち上がってビショ濡れで苦しそうに咳き込んで水を吐く栄太郎には見向きもせず、竿をもぎ取る。
「どうだ、水中の景色は?」
「いっぱい鮎がいた…」
「よし、それを釣れ。今度は竿を放さなかったから上出来だぞ」
「なんで、なにも教えないんだよ?」
栄太郎が食ってかかる。
「これでいいんだ。オトリはあと一つ残してあるからな…」
島田が、手際よく仕掛けを替える。
「あの下流の岩の上で、手を振って怒鳴ってるのは仲間か?」
「立ってるのが旅館のオヤジと岸田の上司で、町長と助役、教育長が座ってる…」
「スポンサ−か? じゃあ、カッコいいとこ見せてやれ」
「無理だ、掛かっても上げ方が分からん…」
島田が今度は真顔になった。
「大丈夫だ。今までは勝手にやらせたが、今度は釣り上げないとオトリがゼロになる。いいか、竿先を上流に向けて構えて、掛かったらモタモタせずに足を踏ん張ってすぐ竿を立てて、鮎の頭が見えたら構わずに思いっきり引っ張って上流に投げろ。手元まで下ったら糸をそっとつまみ竿を肩に背負ってオトリ鮎の十センチ上あたりの糸を掴んで、タモに落とし込む。簡単なことだ。いいな?」
「そんなの先に教えてくれればいいのに…」
「失敗しないと、オレの言うことを聞かないからな」
「分かった、教えられた通りにやるよ。センセイ…」
「お、センセイはいいぞ。ただし人前では言うなよ。師匠なんかに聞かれたら、川底に沈められちゃう…」
島田が、引き舟から出したオトリを流れに浸けて鼻環を通す。
「ここでモタつくとオトリが弱る。あとで教えるからな…」
鮎を流心出してから、竿先を上流に倒して栄太郎に手渡す。
「さあ、すぐ来るぞ! 岸に寄って下のたるみで足元を固めろ」
一分もしないうちに、竿先にはげしい当たりが出た。
「来た、来たぞ!」
歓喜の声の栄太郎だが、たちまち竿が弓なりになる。
「大きいぞ。今度は釣る番だ…竿を立てて腰を落とせ!」
栄太郎が必死で竿を立てていると、オトリ鮎が見え隠れする。
「腰を立てて、上流に引っ張って放り投げろ!」
二尾の鮎が空中飛行して、上流に水しぶきを上げて落ちた。
「竿を立てたまま、戻って来た糸を軽くつまめ!」
ヨロめきながら栄太郎が糸をつかむ。
「竿をかついで糸をたぐるんだ」
竿を肩にした栄太郎が糸をたぐる」
「左手で腰からタモを抜いて! そうだ。オトリの十センチ上の糸をつかんで一気に持ち上げてタモに入れろ!」
栄太郎が掛けたのを見た川原のギャラリ−が寄って来る。
「がんばれ、栄太郎!」
栄太郎が左手に持った手網(タモ)に二尾の鮎を入れた。
「やったあ!」
川原に集まった萩野らが大声援を上げた。
その騒ぎに驚いて上流の多吉が体形を崩してよろめいたから、オトリ鮎も動いて縄張り鮎を怒らしたのか鋭い当たりが出た。岡石が「竿を立てろ!」と叫んだが遅かった。一気にのされた竿先の弾力が失せて野鮎とオトリ鮎が消え去り、多吉は水中でよろける。
温泉でのんびり休養した玉蔵ら三人が、釣り支度で竿を担ぎ川原を歩いてくる。
「なんの騒ぎだ?」
「誰か溺れたかな?」
「お、ツヨシと岡さんが、あのシロウトに釣らせてるな」
近づいて川を眺めると、鮎を手網に取り込んだ栄太郎が拍手を浴び、一人はその上流で水遊びをしている。
「さあ、お待たせしました」
合流した三人は、のんびりと大石に腰掛けた。
「さあ、コツは教えた。逃がしたオトリの分だけ掛けて来い!」
仕掛けを付け替えた島田が、栄太郎にハッパをかける。
玉蔵が岡石に声を掛けた。
「岡さん、どうだ、この二人は?」
「二人共、素質はないが凝りそうだな」
「そうか、好きになってくれればいい」
町長が玉蔵に頭を下げた。
「ワシにもやらせてくれんか?」
何でも実行型の町長の発言がきっかけで、何でも真似型の境助役が対抗心をあらわにすると、萩野と教育長もその気になる。
そこへ、二重橋の上下にいた上野のメガネ屋グル−プ三人も参加して、菊知、福王の二名手を中心に、島田、岡石の実技指導で時ならぬ鮎釣り教室が開かれた。参加初心者全員がベテランの叱声や怒声、蔑視に耐えて転んだり溺れたりしながら無邪気に鮎を追う。
栄太郎はたちまち友釣りの初歩的なコツを覚えて数を釣ったが、多吉はどうも調子が出ない様子で投げやりになる。これは指導者の問題ではない。
やがて、メガネ屋グル−プに玉蔵までもが参加しての勢十五人が、上下流を縦横にムキになって釣りまくったから収穫は数百尾となり、その日を境に昭和村近辺の片品川からは野鮎の姿がめっきり減った。罪なことだ。それでも、得た鮎は、初心者の土産と町の老人会にも寄付されて大いに喜ばれたというから救われる。
救いがたいのは、鮎はゼロの浦田町長が不運な尺バヤ一尾を掛けたことだった。

11 二つの研究会

永野原町には、いずれ完成するダムの活用をめぐって二つの研究会ができた。町長と助役が主宰して、それぞれ別の研究会を始めたのだ。
それにしても、オトリ五尾を失って一度も野鮎を掛けなかった浦田町長に対して、境助役が初挑戦で八尾を得たのは永野原町の平和のためにはよくなかった。しかも、浦田町長の掛けバリに三十センチを越える品の悪いハヤが掛かったのを見た境助役が「ハヤは外道ですぞ…」と、バカにして笑ったのもまずかった。町長にとっては川魚に上下の差などない。魚釣りは下手な人ほどムキになる。
「助役の発言は人種差別と同様だ、ハヤを侮辱するのか! ハヤの方がアユよりはるかに面白い。町の発展をハヤに託すんだ」
町長が胸を張ってうそぶき、役場内に「ハヤ釣り研究会」を発足させたが入会者は一人もいない。そんなもの研究しなくたって子供でも釣れる。それならと町長は、ヤマメ・イワナを対象とした「渓流魚研究会」にしたら清掃局の係長一人だけが入会した。
しかし、ダムにはブラックバスが相応しい、全国から大勢の若者男女を呼べるし、キャッチ&リリ−スだから、魚なのに「金の成る木」と同じだ、などとどこかで聞きかじって来た部下が町長に進言して、最終的な名称は「ブラックバス研究会」になる。
片品川で栄太郎に差をつけられた多吉は、鷹橋との富士五湖巡りでバスでの成功例を聞き、自分も一尾釣っていただけに迷わず栄太郎や嶋野らを裏切り、「ブラックバス研究会」に入って実行委員に納まり「バッサ−」という専門誌を買い研究を始めていた。
こうなると、次期町長を狙う境助役としても対抗上やむを得ず「鮎釣り同好会」を発足させた。
次の町長改選で境助役有利と見た村田教育長が町長派から鮎派に転向、鮎が宿泊客を呼ぶという名手三人の言葉を頼りに萩野が幹事を引き受け、萩野と親しい鷹橋副所長もバスが高収益になるのを知りながら鮎派に加担し、鮎と相性のいい栄太郎も入会した。
こうして役場内外、町全体がニジマスだのブラックバスや鮎だのと、ダム絡みの思惑から醜い争いを繰り返すことになる。この時ならぬ釣りブ−ムで、永野原町近辺のヤマメやイワナはもちろん、ハヤやオイカワなどの雑魚までが釣り尽くされた。
町では、臨時予算を計上し、大沢橋のたもとの鱒屋から買い上げた少量のイワナとヤマメと大量のニジマスを大沢川に放流したが、大雨が降ったとたん吾妻川本流に落ちてそのまま姿を消し、鱒屋だけが儲かった。
やがて、下流に落ちた大量のニジマスが吾妻町、東村、小野上村、子持村沿いに群れる。当然、永野原町からも大挙して吾妻川下流に出漁する。そこで板東漁協の高い日釣り遊漁券を買わされ、下手だからほとんど一尾も釣れずに複雑な思いを抱いて町に帰った。
この事件で得た教訓から永野原町議会は、自分の町の権益を守るために、完成後のダムを町営の管理釣り場にする案を可決した。
この噂は、東京で行われた全国市町村会議でも話題になり、各地で抗争中のダム計画の攻防にも大きな影響を与えることになる。
ダムという水量豊富な深場を持つ全国の湖水を、その上下流域の渓流を含めて鮎やヤマメなど渓流魚の、大衆的かつ安全で楽しい家族連れのフイッシィングゾ−ンとにするというアイディアは、日頃は犬猿の中である建設省と農水産省の担当者レベルでの談合にも持ち出され、法規制で堰上五十メ−トル地点に水上フェンスを敷設し、ダム周囲には柵付きの一メ−トル毎高度別釣り座を巡らせるなどの具体的な提案も出たことがテレビ・ラジオ・新聞などのマスメディアでも報じられた。このニュ−スにボ−ト製造業、釣り具メ−カ−や釣り具屋が狂喜した。
だが、真の利益享受者は関係各省庁、水資源開発公団関係者、ゼネコン、土木建築業などダム関連工事関係者だった。
既成のダムも水位の変化に合わせて柵付きの一メ−トル毎高度別釣り座の工事や、それに伴う護岸工事の新規発注が二百年ぐらいは続き、現在抗争中のダム問題などアッという間に片づく。ダムの町の復興に健康的な「釣り」はマスコミの注目を浴び評判もいい。
やがて、ダムを管理釣り場にとの願いをこめた永野原町主催の、日帰り「第一回芦ノ湖バス釣りバスツア−」が発表された。
町長の発案と強権で参加費は無料、釣り具はメ−カ−数社が争って無料で貸し出す。旅館や商店街からの豪華景品多数が期待できるイベントだけに町中がこの話題で持ちきりになる。
広報によると、それなりの若いテスタ−や講師が同乗して車内でルア−の投げ方、取り込み方を教え、現地では一人一人に手をとって釣れるまで指導すると記載されている。参加希望者は、当初のバス一台分四十八人までの予定が、申し込みが殺到、すでに百人を越え、締め切りまでにはまだまだ増えそうな勢いだという。多吉も張り切っている。
こうなると堺助役も対抗せずにはいられない。しかし町の予算はバス釣りにまわされている。だからといって手をこまねいていたら町長のイス強奪の夢も消えてしまう。
そこで、境助役は萩野と飛騨に相談して、田原湯だけでなく中之条、軽井沢、前橋のホテル、旅館組合にゲキをとばした。ダムが鮎の稚魚生産地になれば、やがて、ダム上部から下流までも鮎の住む川にするとPRして鮎釣り大会への賛同を得た。
片品川など利根水系の河川なら予算もさほど掛からない。
ダムを囲む管理釣り場が完成すれば、全国各地から大勢の釣り客を誘致できる、との村田教育長のアピ−ルも援護射撃として功を奏している。やがて養生館の萩野の働きかけが効を奏して、旅館関係から寄贈される品々は全て鮎釣り大会の景品にまわる。この時点で、芦ノ湖バス釣りツア−の高額景品は消滅した。

 

12 球磨川行き

鮎釣り大会企画中の八月初旬、玉蔵のもとに、菊知、福王と三人出演で「球磨川の尺鮎激流バトル」という来春発売のビデオを制作する案が「釣り人間社」から提出された。
すぐに菊知、副王の両人とも相談して快諾する。例年のように球磨川通いで尺鮎釣りを味わっている三人にとっては、好きな鮎釣りでギャラが貰える、こんないい話を逃がす手はない。
さらに永野原町の予算も狙えるから、鮎釣り大会の開催を計画中の堺助役に連絡する。
「大会より、つぎの土曜日からのアユ・ツア−はどうだね? この時期だとシロウトでも大物が釣れる最盛期なんだがな…」
「また片品川かね?」
「球磨川だ。三十センチ級のどでかいアユを釣らせるぞ」
「球磨川? いつか言ってた熊本県の?」
「金曜夜七時に出て翌日の昼に着く。宿で三泊、火曜の午後立ちで水曜の朝には仕事に間に合う」
「予算は、宿と食事代だけかね?」
「年券入漁料購入、球磨焼酎飲み放題、参加二十人で一人五万円、百万の予算をとってくれれば大名旅行だな」
「とんでもない、せいぜい、その半分以下だ…」
「ダム予算数千億円からみれば、微々たるものじゃねえか」
バス釣りツア−の臨時出費で町の予算はすでに赤字だが、町の将来に役立つという助役の熱意で、鮎ツア−に五十万が確定した。
町が五十万なら、国は百万という堺助役の勢いに呑まれた鷹橋副所長の説得で、現地事務所からの臨時出費も五十万で合計百万。ガソリン、高速道路費用は別枠で町払いになった。
役場の大型バスはブラックバス釣りに取られて使えないが、旅館組合の提供で二十四人乗りの小型バスが確保できた。
飛騨が辞退して町からの参加者は境助役、村田教育長、鷹橋、萩野、栄太郎のたった五人、これでは恰好がつかない。それを聞いた玉蔵が喜んだ。こんないい思いは子持村では永久にできない。
嶋野組は、福王、島田、岡石、メガネ屋の本田社長、玉蔵本人の五人。菊知組は、ノンフィクション作家の守田、自営業の生岸、釣り具屋の加東、ボ−リング工学の福原、自動車整備の沢泉に菊知本人の六人。この十一人が大挙して参加することになったから総勢は十六人、体裁は整った。バス派から鮎派に寝返った旅館関係の豪華景品と鮎用具が全部乗るから小型バスは満員になるはずだ。
いい案配に、釣りに興味のある町民はすべて「バス釣りバスツアー」に申し込み済みだったから追加申し込みもない。
いよいよ鮎組の出発のときが来た。
夜、運転役の栄太郎を含む五人が乗った小型バスは、見送る者もない永野原町を、こそこそと夜逃げ同様に出発した。
子持村で嶋野組の五人と合流、とたんに賑やかになる。都庁内駐車場で栃木から車で来た菊知組六人を乗せて総勢十六人、飲めや歌えやの大騒ぎの中でも大いびきで眠りこけるのもいて、首都高から東名高速に出て一路、九州に向かう。
鮎組が夜明けの神戸を抜ける頃、盛大な「芦ノ湖日帰りバス釣りツア−」組が町役場を出発した。
打ち上げ花火と、家族などに見送られて総勢百十二人に膨れ上がった「バス釣りツア−」組は大型バス二台、ワゴン車五台を連ね、カラオケで騒ぎながら夜明けの町を派手に出発した。
闇に紛れて町を出た鮎組とでは、天と地ほどの差がある。
その地味な鮎組は、やがて球磨川を眼下に眺め、トンネルを幾つも越えて人吉インタ−に到着、山間の町を通過する。
宿は、球磨郡一勝地にある町営温泉「やませみ」だが、まず活きのいいオトリをおくことで知られる鮎宿「かわうち」に寄る。多数決で、宿へ着く前に竿を出すことになったのだ。
正午過ぎ、すでに少々酒気帯びの鮎宿アルジと、別行動のワゴン車で到着している「つり人間社」ビデオ制作隊の矢富ディレクター
、演出指導として同行している東京の下町で釣り具店を経営するヒゲのヤマトモ、中小路と丸山とかいうカメラマン二名が、笑顔で一行を迎えた。

 

13 ビギナ−ズラック

ヒゲのヤマトモは、またの名を「名人殺しのヤマトモ」という。
あちこちのテスタ−や自称鮎名人が、対戦するたびに恥をかかされるから、その精悍なヒゲ面を見るとコソコソ逃げ出す。そこで、誰言うともなく「名人殺し」の名がついた。本名は誰も知らない。
「新メンバ−がいるな?」
ヤマトモが横柄な口調で聞くと、福王が頷いた。
球磨川常連組の福王が、助役や教育長、萩野、飛騨など初対面のメンバ−を一人づつ紹介し始めたが、玉蔵に止められる。
「ここのアルジは、初対面じゃあ名前なんぞ覚えやしねえ」
昼食が出て、全員がテーブルを囲むが、早くも球磨焼酎のウーロン茶割りに手を出す者も多い。ヤマトモがエラそうに説明する。
「カメラは二台ある。三人を中心に釣り姿を撮影するが、ゲストに塚木名人や周囲の景色や他の釣り人も入れる…」
「食事を終えたら、実技撮影に入ります」
矢富ディレクタ−の一言に、福王が質問した。
「数釣りかね?」
「競技ではありません。ただ掛けるシ−ンをいっぱい撮って、恰好よく写ったのだけ編集します」
「今回はそれだけ?」
「とんでもない。夜は宿で仕掛け作りとアユ釣りのコツを語ってもらい、それを撮ります。明日は尺アユ釣りのシ−ン、地元の人との対抗戦を撮ります…」
「冗談じゃない。対抗戦なんて聞いてないぞ」
「ここのオヤジさんとヤマトモさんが勝手に決めたんです」
「景品が山ほどあるのに…」 堺助役が口をはさむ。
「アユ釣りに来たんだ。景品なんて地元に寄付したらどうだ?」
玉蔵が提案する。景品の内容を知らないから気前がいい。
助役が顔をしかめる。
「惜しいな、ハワイ航空ペア券、カーナビとか…」
「なんだって? いま何て言った?」
「ハワイ航空ペア券、カーナビ、マイコン、CDプレイヤーなど二十点ぐらいはあるかな…」
「待て。やっぱり景品は必要だな」
玉蔵が簡単に前言を撤回する。カ−ナビが欲しいのだ。
鮎宿アルジと顔を見合わせたヤマトモが、口をはさむ。
「景品があれば明日は大会ができるな。塚木の昭ちゃんと玉さんら三人はギャラを貰って仕事するんだから景品はいらんだろ?」
玉蔵が怒る。
「ギャラより景品の方が高いぞ」
ヤマトモは玉蔵に返事もせずテ−ブルを見まわす。
「明日、撮影の三人と塚木名人は外して、地元と合同で大会をやろう。ベテランが初心者の面倒を見て、初心者がゼロなら二人分釣る。これで個人の数釣りと、各人二尾づつの長さでも競技できる」
不服そうな玉蔵ら以外のメンバ−が奮い立った。
「ようし、今日中に腕を上げとこうな」
鷹橋が張り切って栄太郎を見た。
食事を終えて立ち上がった玉蔵が撮影隊をうながし、食事中の菊知、福王にもせかせる。
「今日中に仕事を終わらせて、明日は景品稼ぎに参加だ!」
撮影隊の矢富とヤマトモが顔を見合わせてほくそ笑んだ。どうせ、次々に注文を出して三人を開放する気はないから、これで玉蔵らがハッスルしてくれればいい絵が撮れる。
ともあれ、午後、一行はそれぞれ思い思いの瀬に入り、思う存分、型揃いの鮎を釣りまくって夕刻、鮎宿に戻った。
さすがに手慣れたベテラン達は、午後からの正味四時間ほどの釣りで尺鮎こそないが二桁以上の良型鮎を得ている。遠征組では島田が竿頭で二十八センチまじりで二十五尾の良型を得ていた。
この日は、二十九・三センチを上げた地元の幼稚園経営の川原園長が大型一番で球磨焼酎を旨そうに飲んでいる。
初心者組では栄太郎がオトリこそ二つも逃がしていたが、島田の指導で二十七センチの大鮎を釣り上げ、鷹橋も三尾を得た。
まだ、これがビジナ−ズラックだとは気づいていない。あとの初心者は流れが恐ろしいのか川にも入れない。
「今年はまだ尺が出ておらん」
球磨川の塚木名人が、尺鮎を求めて千六百キロを走破して来た十六人に冷水を浴びせる。ヤマトモと玉蔵が顔を見合わせた。
撮影隊の矢富が暗い表情で「今回、尺アユが無理なら、タイトルを変えますか?」と、ヤマトモに話しかける。
それを耳にした玉蔵がポツリと言い残して立ち上がった。
「明日の朝、尺モノを狙うぞ…」
遠征組は、宿泊する温泉施設「やませみ」に向かう。
残った塚木名人や、鮎宿に長期滞在中の川原、森武、田神などの大分組が鮎宿アルジを囲んで、焼酎タイムを楽しむ。
「玉さんが珍しく、尺アユ釣りを宣言したな」
「激流の底には大物もいる。普通の人には入れんがな…」

14  尺鮎

朝、「やませみ」で朝食を済ませた遠征組が鮎宿に集結した。
大鮎を釣り上げた栄太郎はもう鮎に満足していて、田原湯の将来を鮎に託すつもりになっていた。残りの初心者は悔しいから今日こそはと張り切っている。
「やみくもに釣るより、名手の技を見た方が勉強にならんか?」
鮎宿アルジが栄太郎に語りかけ、それを聞いた島田が喜ぶ。
「それはいい。これでオレはカ−ナビが狙える」
厄介な初心者のお荷物なしで二人分釣る方が楽なのは当然だからだ。カ−ナビと聞いて玉蔵が島田を睨んだが、すぐ顔がほころぶ。
あとで巻き上げればいいことに気づいたのだ。
「その意気だ。がん張ってカ−ナビを獲って来い」
島田が暗い顔をした。玉蔵の陰謀が読めたらしい。
「ワシも見学するか…」
地元の川原が同調する。保護者が消えて鷹橋副所長があせった。
玉蔵が気を利かす。
「岡さん、おめえダム屋のダンナの面倒見てやれ」
航空チケット狙いの岡石の顔が曇る。ただ、これも手に入れたとたんに、ごく自然に玉蔵夫婦に進呈することになるだろう。
鮎支度の地元の塚木名人が車で到着した。
「予報では午後から雨だ」
雨が降ったら撮影が進まない。矢富が玉蔵らを急かせる。
「尺鮎を掛けるなら朝のうちにしてください」
鮎宿で地元組と遠征組が合流し、それぞれが作戦を立てて元気にとび出して行く。栄太郎は川原のお供で見学にまわった。
やがて、玉蔵、菊知、福王、そこに栄太郎から開放されて自由を得た島田、ゲストとしてビデオに登場する塚木、撮影を矢富に任せて「オレを写すなよ」と、我慢できずに竿を出すヤマトモらが天狗岩上流の瀬に入った。二人のカメラマンが岸から突き出た岩場に望遠を構えてその姿を追う。
そのカメラマンに並んで、岩場に座った川原と栄太郎も釣り人を目で追う。
「鮎を掛けそうな人に気づいたら、早めに知らせてください」
矢富が川原と栄太郎に頭を下げた。
やがて撮影が開始された。
それぞれの名手が、つぎつぎに竿を立てて良型の鮎を掛け続け、球磨川鮎の強烈な引きに耐えて、取り込みの技を競う。それを矢富の指示でカメラが追い、二人のギャラリーが見た。
やがて、川原が呟く。
「玉さんが掛けるぞ!」
流心の底石に激突して大きく隆起した激流の上流で、玉蔵の持つ九・五メ−トル竿の竿先がかすかに揺れた。
川原の声から数秒過ぎて、玉蔵が上流に向けて竿を立てた。竿先が一度弓なりになって前後にブレてから空に向かって佇立した。
「バレたんですか?」と、栄太郎が川原に聞く。
「いや、オトリを引っぱって上流へ遡るんだ、デカいぞ!」
すぐ、穂先が大きく湾曲して上流に向かうと、玉蔵が耐えた。
「岩の上に足を掛けて踏ん張って、戻りを狙うんだな…」
しばらくの時間力比べをすると、激流を遡った大鮎が根負けしたのか身をひるがえして一気に下流に走った。それを待っていたのか巧みに竿を身体に寄せた玉蔵が、顔の前を走る糸を逆手で抑えて止め、肩に竿を担ぐと同時に、腰から流れに乗せていたタモを引き寄せ、流れに乗った大鮎をすばやく手繰り寄せ先糸をつかむとタモに落とし込んだ。スリルも何もない息もつかせぬ早業だった。
「さすがだ…」 尺鮎釣りに慣れている川原がうなった。
玉蔵は、胸までのゴム長を履いて重い撮影機を担いで水中に入ったカメラマンの目の前まで近づいて網に入れたままの獲物を突き出す。カメラマンの手がかすかに震える。
手のひらを広げて大きさを計った玉蔵が、尺鮎であることを確認して満足げに頷き、バカでかい木製の手作り引き舟の糸を引き寄せ、編み糸を口にくわえて、慎重に掛けた大鮎を引き舟に移した。
川原と栄太郎が拍手をすると嶋野が手を振った。
「玉さん、仕掛けの解説を!」 岩場から矢富が叫ぶ。
「仕掛け? 竿は九・五、天糸ナイロン二号、水中糸は金属の〇・四、摘まみ糸にナイロン二号。鼻環はいつものフックに換えてワンタッチ七・五、背バリなし、一・五のオモリに大鮎スペシャル十号の三本イカリ…そんなところかな」
川原が感心した。
「大物にのされたら、オトリは外れてもいいようにワンタッチ鼻環を使った…すごい読みだな」
栄太郎には意味が分からない。
この日、他の名手もそれぞれ尺に近い鮎を何尾か上げたが、尺をはるかに超えたこの玉蔵の鮎が、この年球磨川一の大鮎だった。
「さあ、あんたにも大鮎を釣らせるぞ…」
川原がうながし、矢富に挨拶して二人がその場を離れた。

第四章 川に生きる
15 報告試写会

遠来の初心者になんとか釣らせようという地元の名手らも協力して指導したから、二日目からは初心者全員が幾つかの鮎を釣り上げ記念の映像も残り、景品もほぼ均等に行き渡った。
最後までビデオ撮影に追われて景品がないと思われた塚木、菊知ら撮影続行中の名手にも余った景品が配られて、その翌日は雨で釣りにならなかったが、全員が大満足で帰途につく。
大物賞でカ−ナビは玉蔵の手に入ったが「師匠と弟子は親子も同様…」と泣き脅しで島田が強奪。ペアでのハワイ航空チケットは地元の田神に奪われて、岡石と助役を悔しがらせている。
町の予算が出ているから町議会では当然、報告会がある。
バス、鮎、どちらのツア−記録も町議会で上映された。
盛大に行われた芦ノ湖のバス釣りは雨、数人のビデオ愛好者が家庭用撮影機で撮った映像を編集して完成したビデオは天候のせいもあってか、手の震えが邪魔する上に画面が暗い。
緑濃い山々は霞んで見えず、湖面を叩く氷雨が寒々しい。低下する山上湖の気温の中で、黙々として震えながら若い講師の指導でキャストを続ける背中にゼッケンをひらめかせた永野原町の若者や中年の男女の真剣な姿が延々と続く。たまにバスが掛かると本人ははしゃぐが、気候のせいか周囲の視線は冷たい。
カメラは優勝した釣り人の喜びの顔に続いて、その獲物の四十センチ級の大型バスの牙を剥いた猛々しい顔をアップで写し、釣り人が名残惜しそうにリリ−スする。指導員の青年が解説する。
「以前は、こんなのが一人一日に十本は釣れたものです」
「それが、こんなに釣れなくなっちゃったのか…」
議員の一人が苦い顔をすると、オデコだった町長が同調する。
「だから、ワシはハヤ釣り大会にしたかったんだ」
表彰状は十五位まであるが釣れたのは十人もいない。
魚影を見なかった多吉はジャンケンで勝ち抜いて十二位入賞を果たした。これで満足、どうせ釣ってもリリ−スするから同じだ。
二位の景品は、ダイコク酒店からの「一ダ−ス分ビ−ル券」、三位が土産店マツイの「湯かけマンジュウ」、四位が郷土料理故郷からの「いずみやの甘納豆」、後はバスタオルやタワシなど等級の付け難い品が参加者全員に行き渡ったから不満はない。
優勝賞品は、町長提供のナベ物セット、真夏には不要だが冬になると重宝することを見込んでの景品だからすばらしい。
画面を見終わった議員全員から盛大な拍手が沸いた。
続いて球磨川の鮎ビデオが写される。
この時点では、鮎組に豪華景品があるのを誰も知らない。
本格的な映像だからテレビの釣り番組以上に鮮明で、釣れたシーンばかりを追っていて出演者全員がかっこいい。
激流に入ったベテランも浅瀬で釣る初心者組も、次々に弓なりになった竿を絞って釣りまくっている。しかも、なにをやっても上達の遅い村田教育長までが大鮎を仕留めるシーンを見せるから、鮎などは誰にでも釣れるという気にさせる効果も出た。
議員のほとんどは鮎の友釣りなど知らない。オトリを追った野鮎が掛かって、下流に引きずられながら二尾の大鮎を手網に取り込む堺助役の真剣な顔を見てけげんな顔をする。
「欲張って二尾掛けるから苦労するんだ。一尾なら楽なのに…」
鮎には表彰状はない。だが山のような豪華景品が地元と遠征組で分けられ、全員の満足げな顔が画面にでると「オ−ッ」と議員たちがどよめいた。もう、これで町の復興に鮎派が優位に立ったのは間違いない。だが拍手はなく、羨望のため息がもれる。
最終日まで撮影に付き合わされた地元の塚木名人がCDプレイヤー、川原園長が小型カメラ、鮎宿アルジがスイス製腕時計と配当品を手にそれぞれが「来年こそ尺アユを」「町長さんも来てください」「景品も忘れずに」と、笑顔で語りかける。
「アユもいいな」 町長が素直に鮎を認めた。
この球磨川への鮎旅は、永野原町と田原湯の将来だけではなく、栄太郎にも大きな希望をもたらした。
これを契機に田原湯で唯一ダム反対だった中里栄太郎が、初志貫徹の方針を曲げ条件付き賛成派にまわり、本格的に鮎の研究を始めたという噂が町の話題になっていた。ただ、中里館の経営は相変わらず思わしくない。それ以上に心配なのは、姉の多恵子の病状がかなり悪化していることだった。
中里館の改装工事が終わって数日後、市川で花園を経営する須和田フラワ−ガ−デン副社長の江添寿子をリ−ダ−とするワゴン車を含む車四台を連ねた総勢二十人の「竹下ユキとガ−デングル−プ」
一行が中里館を訪れた。多恵子にとって旧友に会えて嬉しいのは当然だったが、それ以上に栄太郎が喜んだ。
R大生時代のユキが夏休みに長期滞在していて、受験生ながら遊び盛りだった栄太郎の家庭教師役をボランティアしてくれた懐かしい想い出がある。そのお蔭で学力は下がったが、学んだ雑学は世の中に出て大いに役立っている。
鮎ツア−の帰路、栄太郎がつい知り合いの有名歌手が泊まりに来ると言ったために、群馬組だけで歓迎会をやろうということになっていた。中学、高校時代に中里館に遊びに来てユキを知っている多吉は当然として、玉蔵をはじめ、堺助役、村田教育長、萩野、飛騨、島田、岡石らが夕食を共にすることになる。
特別ゲストに浦田町長を招き、さらに藤岡から来た中山恵子も参加して、ガ−デングル−プとの合流で総勢三十人の宴会になった。
手不足な面は、昔から働いている板前が仲間の料理人をバイトで呼び、手伝いの女性は多恵子が集めた。
温泉でくつろいだ後の単なる食事会のはずが、景品づいた堺助役の発案で田原湯温泉土産付きのカラオケ大会になり、久しぶりに中里館に明るい歌声と笑いの賑わいがよみがえった。
ユキは本職のジャズやシャンソンでなく、他の歌手や俳優の形態模写を巧みに演じて喝采を浴びた。ガ−デングル−プ一行も挙ってマイクを握り多恵子や中山恵子も歌うと、島田が肩を組む目的もあってか積極的に飛び出してデュエットを試みる。
一滴も酒を飲めない玉蔵も場違いな兄弟仁義などを唸ると、酔った岡石が座興で舞い浴衣の肩口から刺青の般若の面などが覗く。その宴会芸に安心した萩野がロシヤ民謡を原語で、助役が民謡、町長が都々逸を唸って芸の有るところを披露する。
多吉や栄太郎も若者らしいパンチの効いた横文字まじりの曲を歌った。歌が苦手な人は、聞き役にまわってひたすら酒を飲む。しかも、話の成り行きで旅館仕事の栄太郎を除く全員が、明日の午後、渋川の世界シャンソン館に集結し竹下ユキ・コンサ−トに参加することを約束したのも酔っていたせいに違いない。
中里館泊まりの多吉を残して、町長ら地元組が酔った足取りで帰り、しらふの玉蔵が酔った島田や岡石を乗せて去った後も、多恵子ら同級生三人は旧交を温め、ガ−デングル−プは江添寿子を中心に花と歌の話題で盛り上がる。栄太郎は泊まりになった多吉と、いつも通りのダム論争で酒を飲む。
やがて晩夏の夜も更けて、それぞれが健康と美容に最適な、田原湯独特のカルシュ−ムと食塩含有の硫化水素温泉でくつろぎ夢路につく。それでも眠れない者もいた。
深夜、どちらが誘ったでもなく多吉と多恵子が外に出て、大沢橋の上に立ち、肩を並べて蒼みがかった下弦の月を眺めていた。
「多吉クンのおかげで、栄太郎がやる気になってよかったわ」
言葉少ない二人だったが、充分に心は通じている。月の光の下で二人の顔が重なる。唇を離した多恵子が涙を拭いて囁いた。
「後悔しないのね?」
やがて、二人は宿に戻った。後から玄関に入る多吉の呟きは、多恵子に届かない。
多吉は中学時代の甘酸い思いを噛みしめていた。                 「…初めての女(ひと)なんだから…」

 

16 別れ橋

玉蔵としては勝手が違った奇妙な体験だった。
島田や岡石に囲まれて、ドレスアップした妻のヒロ子が妙にきれいに見えたことだけではない。自分の家からすぐ近くにある世界シャンソン館のアシダヒロシ館長が、勲何等かの叙勲に輝きパリの名誉市民であることも初耳だが、特別参加で歌った「黒い瞳のナタリー」の渋い歌声、友情出演の中山恵子、そして、パリ祭出演の経歴をもつ竹下ユキの軽妙な語りとジャズからブルース、カンツオーネ、シャンソンからブギウギへと声量豊かで変幻自在な美声に圧倒されしびれたのだ。
「……たった一つの 夢がやぶれても……」
竹下ユキの「誰もいない海」の絶唱に思わず涙ぐむ。
夏の昼日中に行われたコンサ−トは盛会裏に幕を閉じ、激流にも酔わない玉蔵が演歌以外の歌声に酔った。
ユキを待つ市川のガ−デングル−プに別れを告げて、仲間の車を見送った玉蔵は、笑顔で挨拶した多吉が多恵子を助手席に乗せて出発したのに続いて駐車場を出た。
四輪駆動の愛車の助手席に妻を乗せた玉蔵が、心はすっかりパリジェンヌなのか、うろ覚えのモン・パリなどを口ずさむ。
その玉蔵のパリム−ドに水を差して、妻が声を上げた。
「見て、あの人たち右に曲がったわよ!」
「変だな。火葬場に出ちゃうだろ?」
玉蔵も妙な胸騒ぎを感じて右折し多吉に続く。通常、渋川から永野原へは国道十七号を北上して吾妻橋を渡り、嶋野ペット店前の鯉沢交差点を左折して一四五号を西に走るはずだ。
「落合橋に向かうぞ」
ほとんど車も人通りもない火葬場の横の道を進んだ車が橋の手前で停まって、二人が車を降りた。玉蔵も橋の手前で停車した。
夏の太陽が西に傾き、橋の上を歩く二人を照らす。
「あたしたち、ヤボなことしてるんじゃないの?」
玉蔵が徐行する車内から前方を見ると、橋の手前脇に停めた車から降りた二人が、手をつないで小走りに橋の中央に走ると靴を脱ぎ、腰をかがめてチラと振り向き玉蔵夫婦を見て、ためらいもせずに肩を組みそれぞれの片手を広げて下流側にとんだ。はげしい水音がはじける。
「あんた!」
妻の声を背に受けて、半袖のシャツを脱ぎ捨てながら玉蔵は走った。多吉たちの靴の中それぞれに白い封筒があるのが目につく。水面までの距離を考えて足からとぶ。
(しまった、靴が…)と思った時はもう遅い。玉蔵は、真新しい革靴から利根川の合流点に近い吾妻川最下流の流れに落ちていた。玉蔵は、靴を脱ぎ捨て下流に向かって泳ぎながら必死で水中の二人を探し求めた。確かに手をつないでとび下りる姿を見たはずなのに、二人の姿はどこにも見当たらない。
大正橋下の荒瀬にいた鮎釣り仲間が、玉蔵を見て驚く。
「玉さん! こんどは鮎の手づかみかえ?」
「…男と女が…流れて…なかったか…?」
泳ぎながら叫ぶが意味が通じなかったようだ。
妻の通報があったのか、沿岸に消防署員や警官の姿があり、なにか叫んでいる。河川敷の渋川市民ゴルフ場下、利根川橋手前の両岸にゴムボ−トが待機していてロ−プを張って玉蔵を待っていた。
結局、数多く人命救助をしてきた玉蔵が逆に救われた形になったから本人は面白くない。飽きるまで二人を探したかったのだ。
「たしかに、二人が飛び込むのを見た…」
この嶋野夫妻の証言を裏付けたのが、橋際の魚菜市場の職員だった。息抜きにザコ釣りをしていたら、男女に続いて男が一人とび込んだのを見て、仰天して事務所に駆け戻り警察に通報している。
渋川署からの緊急通報で県警本部では、直ちに落合橋下流流域の市町村各警察署に捜索を命じたが、二人の死体は深みに沈んだのか流されたのか、この日はまだ発見されていない。
担当の刑事が、ヒロ子が提出した遺書を玉蔵に見せる。それが、橋の上の靴の中にあった白い封筒の中身だった。
「…私、中里多恵子は、この手紙を世界シャンソン館の中庭にある洒落たカフェ−の店内で書いています。親友ユキの心にしみる哀感溢れる歌声を聞いているうちに感動で涙がとまらず、途中でそっとホ−ルを抜け出してしまいました。長い間、プロ歌手として成功したユキの歌声を聞く機会を待ち望んでいた今、もう、思い残すことはありません。
私は、手術不能の末期の肝臓ガンに侵されています。精密検査の結果、入院してもあと数カ月の命の様子です。弟の栄太郎には心配をかけたくないので検査の結果は話してありません。いままで不調だった旅館の仕事は、弟が新たな目標をもって再興することと信じています。私に同情して一緒に道行きしてくださる岸田多吉さんは、仕事にも目鼻がつき、もう思い残すことがないから一緒に死ぬといってききません。お互いに愛しあっていますし、父の死んだこの吾妻川から利根川への旅を楽しみにしています。最後に皆さまに多大なご迷惑をお掛けすることをお許しください……」
びしょ濡れのまま渋川署に運ばれた玉蔵は、妻が自宅から運んだ衣類に着替えはしたが、不機嫌な顔で事情聴取を終えた。そこに呼び出された栄太郎が、蒼白な表情で入って来た。
警察では栄太郎にも事情を聞き、多恵子と多吉が心中しなければならない状況に追いやられた背景を調べた。日本ガンセンターにも問い合わせたが、病院では多恵子が精密検査を受けた事実は認めながらも、生命の危機云々については秘守義務を理由に答えない。
多吉については、鷹橋副所長の証言などから、父の遺志を継いで建設省に入り、自ら志望して七ッ場ダム現場に働き、同郷の人々に裏切り者と罵られながらも生真面目に職務を全うしていたことが分かった。田原湯の将来に希望を見い出した多吉は、愛する人に忍び寄る死の影に同情して命を絶ったとも思えた。
母の死後父を自殺で失っていた天涯孤独な多吉にとって、選ぶべき道は、ただ愛する人との道行きだけだったのかも知れない。
警察では、夕刻になってその日の捜査を打ち切った。死体はいずれ、下流の岸辺に打ち上げられるかして発見されるだろう。
家路に向かう車の中で、ヒロ子が一通の封筒を出した。
封は破いてある。心配気な妻の口ぶりが気になる。そういえば、両方の靴に白い封筒が見えていたのを忘れていた。
「なんで、警察に渡さなかった?」
「迷ったけど、内容を見たら出せなくなったのよ」
「読んでみろ」
「…以前、ある人を間違って殺してしまった過去をもつ私は、その事実をひた隠しにしていままで毎日苦しんできました。死んで罪をつぐなわなければ、とそればかり気にしてきました。でも、その秘密はそっと胸に納めて、初恋の人でもあり…永遠の愛を捧げる多恵子さんと旅立ちます。この故郷の清流に魂魄を止どめて、ダムが完成して日本一のバスの管理釣り場になり、その上下流が鮎のメッカとして栄えることを祈ると共に、永野原町、田原湯温泉、中里館の繁栄を未来永劫に見守り続けます。お世話になった鷹橋副所長、栄太郎、先輩、友人、町の皆さん、有り難うございました」
玉蔵が急ブレ−キをかけて車を路肩に寄せた。

17 心中

玉蔵がエンジンは掛けたまま思案の表情をした。日焼けした赤銅色顔で他人には判別できないが、妻のヒロ子にはそれが読める。
「あんた、なにを疑ってるの?」
「渋川で水泳の県民大会があって、中学の部に出たうちの寿広の応援に行っただろ?」
「そんなこと、あったわね…」
「あのとき一般の四百で優勝したのが、岸田だったんだ…」
「だから?」
「その遺書は変だ。ヤツは泳ぎのプロだぞ」
「そういえば…」 ためらいがちに妻が言う。
「なんだ?」
「一年以上も前だけど、東洋生命の代理店を兼ねている稲垣食品店の友だちが、左前の中里旅館の出戻り娘とその年下の彼が高額の掛け捨て保険に入ったって、チラっと言ってたのを聞いたことあるわよ。きっと、この人ね」
「死体が出なくても保険金は下りるのか?」
「状況証拠が揃ってて、警察が死亡を認めれば出る見たいわよ」
「そうか…保険金か? 受取人は誰になってるんだ?」
「そこまでは知りません」
「女だけが死んで、こいつが受取人だったら許せん」
玉蔵は球磨川の奸智に長けた尺鮎を思い出した。縄張りに入ったオトリを追ってハリ掛かりした大鮎は、釣り人を騙して上流に泳ぎ、反転して一気に下流に走って糸を切る。
「おまえ、オレが橋から川に落ちて死ねると思うか?」
「バカね。カッパのあんたなら上流に遡っちゃうでしょ」
「あいつもだ…」
玉蔵は目を閉じて腕組みをしたまま、一言も発しない。こうなると思考が一点に集中し哲学者の風貌になる。
「落合橋に行くぞ!」
あのとき、玉蔵は下流側に目を向けて橋から飛び込み、そのまま下流に泳いだ。しかし、水泳が得意だったあの男が飛び込んだとき、女を抱えてすぐ上流に反転して橋の下に隠れたとしたら…?
玉蔵は橋際に車を止めた。
「ちょっとここで待ってろ…」
車を停めた玉蔵は、夕暮れの川原を慣れた足取りで進む。
川原の草影で午後の陽光を浴びれば、濡れた着衣などはすぐに乾く。あとは暗くなってから人目を避けて逃げればいい。
体内に仙人の血が流れる玉蔵は、常人には計り知れない特殊なカンが働くことがある。あの球磨川のときも無意識のうちに、激流の底石まわりに縄張りを死守する尺鮎の殺気を感じて流れに身を乗り入れていったのだ。そのときと同じに背筋がゾクゾクする。吾妻川の流れが小さな枝川に分かれて入り、葦やススキの雑草の生い茂った草むらの近くで腰をかがめた。そこに何かの気配を感じたからだ。だが、男と女がいるとなると遠慮もいる。
「おい、ダム屋のアンちゃんか? 嶋野だ。邪魔するぞ」
しばしの間をおいて重い声が石を伝わってくる。
「そこから話してくれんですか…」
「オメエ、死ぬ気はあったのか?」
「それが、本能的に泳いじゃって…」
「死ねなきゃズ−ッと泳いでればいいじゃねえか…ところでだ、あの遺書はなんだ? 話してみろ」
多吉が、ためらいがちに語りだした。
「…オフクロを病気で亡くしたときオレは高一、オヤジは建設省職員でナンバダム建設で仕事をしてたが、オフクロが死んだ後は毎日深酒で荒れて絶望的な毎日だった…。
そんなある日、まだ日が長い夏休み前の初夏の夕暮れどき学校からの帰りに、泥酔状態のオヤジがケンカしていて、一人の酔った男に袋叩きにされている現場に出っかしてしまったんだ。思わずカッとなって、その相手を力任せに羽交い締めにしたら、ぐったりと力が抜けちまって。驚いて顔を見ると、オレが日頃からオジさんと呼んで慕っていた栄太郎の父親だったんだ。ダム現場に働くオヤジと、ダム絶対反対のオジさんは日頃から犬猿の仲でいがみ合ってたんでね。あわててカツを入れたところ、息を吹き返してよろめきながら起き上がったようなんで安心して、オレは、息も絶え絶えで倒れているオヤジを抱え起こしてから周囲を見ると、中里のオジさんが見えなくなってたんで、家へ帰ったと思ってホッとしたたんだ。
そのままオヤジを背負って帰宅してしばらくすると、サイレンを鳴らした救急車や消防車が遠くを走って、そのうち、オジさんが川に落ちて死んだという声が外で聞こえて、心臓が止まるほどたまげた…。聞くと、対岸から見ていた人がいたんだ。ヨロヨロと一人で崖際に歩いて来たから…危ないな…と思って見てたら、そのまま墜落して岩場に激突して即死…オレが殺したんだ。
警察では酔った上での事故死として処理したから、真相は誰にも知られない。オレは、その夜の争いをおぼろげに記憶しているオヤジに問いただされても、知らぬ存ぜぬで通して警察にも通報しなかった。オヤジはその日から一切オレとは口をきかず、事件から二週間後に川に身を投げて死んじゃった。遺書はなかったが、オヤジはオレがオジさんを殺したのを知ってたんだ。それにしても、中里のオジさんの葬儀には参列者が大勢集まったのに、うちのオヤジのときは仕事関係と栄太郎姉弟だけで、近所からは誰も来なかった。ダム造りがそんなに悪いことなのかと腹が立って…。
オレは、その頃は嫁いでいた初恋の多恵子さんと、親友栄太郎の父親を手にかけた。これは死をもってしても償い切れん。
オレはこの罪滅ぼしにも、多恵子さんと栄太郎を幸せにしなければ、と決意したんだ。一年半前に、多恵子さんが離婚して帰って来たときは涙が出るほど嬉しくて、すぐに結婚を申し込んだ。でも、その返事は無情にも病状悪化で生き抜く自信がない、という悲しいものだった。これも宿命で仕方がない。
それでも、栄太郎が新たな目的を見いだしたことで希望が見えたから、これでオレも心残りがなくなって…」
「それで、多恵子さんを保険に入れて、自分もか?」
「そこまで知ってたんですか…?」
「偽装心中で女を殺して、金をだまし取るつもりだったな?」
「嶋野さん!」
「なんだ?」
「天下のオトコ玉蔵が、恥ずかしくないですか?!」
「うるさい! へ理屈を並べる前に説明してみろ…」
「じゃあ話すが、誰にも話さないと約束できますかね?」
「分かった。約束しよう…」
「じゃあ言います。二人が限度いっぱい契約した保険の受取人は栄太郎です。これで里中館は立ち直れます。多恵子さんは身体が弱くて精密検査の必要な高額保険には入れません。それで、オレも協力したって訳です。身内もなく仕事も目鼻がついたし、惚れた人と一緒に死ぬのは本望で命なんか惜しくもない。あとは嶋野さんに任せます。ダムが完成したらダム湖にバス、川にはいいアユを育てて、田原湯を繁栄させてください」
「バスは好かんが、バス放流禁止条例のある琵琶湖だって、一時はブラックバスに占拠されたんだ。誰かが必ずバスを放すさ」
「そんな自然増殖を待ってられません。山を切り開いてダム湖の周辺を温泉付きの洒落たペンションやログハウスの山小屋でリゾート地にして、田原湯とダム湖に全国の釣り人を集めるんです。清里高原のように若い男女が集まるといいですね」
「ワシはアユだけで沢山だ。バスなど知らん」
「オレと勝負して、負けたらバスを育てますか?」
「どういう意味だ? チビアユもまともに釣れねえくせに」
「バカにしましたね。じゃあ五日後、坊主の瀬で…」
「あそこは、オメエには無理だ」
「あんたが負けたら、アユからバス派に転向してください。嶋野さんが川から消えれば利根川のアユも平和に暮らせますよ…」
「うるさい。テメエが消えて、ず−っと泳いでろ!」
玉蔵が、雑草を分けて草むらに入った。
一瞬、死んだような女を抱えた多吉の姿が消え、枝分かれの支流に水しぶきが上がり、背後の草むらが風に揺れた。
二つの大きな波が、浅瀬の水を割いて流心に去った。
(バカな…坊主の瀬がどうしたというのだ?)
玉蔵が首を傾げながら夕闇迫る川原を歩いて車に戻った。
「なにか、手掛かりあったの?」
「橋ゲタに二人の死体が引っ掛かってやがってな、引き上げようとしたら流れに呑まれちまった…」
「そのことを警察に届けましょう」
夫が橋の下など見ていないのは、上から眺めていて百も承知なのに事情を察して先手を打つ。これだから玉蔵は頭が上がらない。

 

18 挑戦
あの奇妙な心中事件から四日ほど過ぎた日の夕刻、玉蔵夫婦の証言で警察の死亡確認の裁定も出て、死体が出ないまま里中館で二人の葬儀が行われた。身寄りのない多吉を哀れんだ栄太郎は、死体が出たら里中家の墓に姉と一緒にを葬ることにしたのだ。
保険の調査員も警察の説明で納得したらしい。
葬儀から帰宅した夕刻、玉蔵と島田ら師弟が、ヒロ子夫人得意の手打ちソバを食していたとき、午後六時からのテレビでHNK関東圏ジャ−ナルの男性アナウンサ−が、利根川の風物詩に触れた。
「今朝、利根川上流の前橋近くでキャンプを楽しんでいた人から、季節外れのレンギョの豪快ジャンプの映像が届きました」
テレビに、見慣れた利根川の光景が写し出される。
「関越高速が見える…たちばな村の六地蔵下だな?」
「レンギョが飛ぶのは産卵時期、梅雨のさ中、アシなど餌場の多い下流の栗橋あたりに決まってるのにな…」 島田が目を見張る。
「昔、九十センチ級を三本掛けた。川に引きずり込まれたがな」
岡石が懐かしそうに腕をなでた。
土手から撮影したビデオ映像が、周囲の景色を写してから遠景のまま利根川の流れにパ−ンし、また無粋な顔が出る。
「これは視聴者の方から寄せられたビデオですが、専門家によりますと、利根川の栗橋地区以外で巨大魚レンギョのジャンプが見られるのは極めて珍しい光景だということです。この映像は、たまたま家族で釣りに来ていた富士見村の…」
アナウンサ−の顔からまた画面が川に変わり、二体の巨大魚が水面から数メ−トルもの豪快な跳躍を繰り返しつつ、流れに逆らって上流に向かうのが写る。一・五メ−トルをはるかに超す大物だ。
「ツヨシ! あいつは何だ?」
「白っぽいからハクレンだな…」
岡石と島田が身震いし、玉蔵の頬の筋肉が引きつった。
ホ−ムビデオの映像ではっきりはしないが、レンギョがここまで遡上するのは珍しい。利根川上流は石川原が続いていて餌になる葦などの草が岸辺にない。と、すると…。
「あいつら、飢えると鮎を襲うぞ!」
玉蔵が見たようなことを言う。
島田が黒い顔を蒼くして玉蔵を見た。こんなのが鮎の味を覚えたら間違いなく利根上流の鮎は食いつくされる。
玉蔵は黙って、部屋の片隅に立てかけてある竹の太竿を見た。
あの男はこの巨大魚が川にいるのを知っていて、これを釣るために玉蔵と競おうというのか? 五日の期限は明日になる。あの男が言った坊主の瀬での勝負とはこれだったのか…継ぎ目を補強したブリキが錆びているが、この竿なら絶対に折れない。
「あんなガキになめられてたまるか」
玉蔵は、こみ上げて来る怒りで身震いした。
「あいつは明日の朝、ワシが獲る」
「師匠、オレも行くよ!」と、島田が言うと岡石が勇んだ。
嶋野が二人を制した。
「こいつはワシの仕事だ…絶対に川に来るな」
田島と岡石は不服そうに帰って行った。この二人には利根川流域の鮎の将来を守ってもらえればいい。
妻は、大物用の仕掛けを黙々とつくり竹竿を磨く玉蔵の表情の異様さに気づいたが、口には出さない。
玉蔵は(あれがヤツだったら?)とも考えたがすぐ首を振る。そんなバカらしい話があってたまるか。しかし、その仮説は徐々に真実味を帯びて迫り、玉蔵の心に黒い恐怖となって忍び込む。
一睡もしないまま夜明けを迎えた玉蔵は、朝もやをついて坊主の瀬に入った。恐れは消えている。仮説が現実なら餌も要らない。相手は自分から空バリに掛かって玉蔵を引き込むだろう。そうなれば、相手が疲れるまでどこまでも耐え、泳ぎ抜いて仕留めてやる。
八月下旬、上流の山岳地帯に雨が多かったのか、増水した利根川の激流は岩を噛み渦を巻く。久しぶりに重量感のある竹の太竿を手にした玉蔵は、尺鮎や一メ−トル級の大鯉を豪快に仕留めていた若い日を思い出していた。その姿は自信に溢れている。
その玉蔵を相手は待っていた。恐怖の仮説が現実になる。
重い前触れの直後にハリ掛かりして竿が一気に曲がる。この衝撃で、岩場を踏み締めていた玉蔵の足が一瞬にして剥がされた。
竹竿独特のたわみで円相になった竿に引かれて玉蔵は流れに乗った。先を走る巨大魚のパートナーなのか並走する怪魚がいる。
玉蔵は、両手でがっしりと竿を立てたまま、流れに逆らうように岸辺目掛けて足を煽った。相手に抵抗することで体力を消耗させ弱らせた。どんな巨大魚でも弱れば呼吸困難になり酸素を求めて浮上する。玉蔵は長時間水中にいても苦にならない。
ただ、玉蔵が恐れたのは坊主の瀬から数百メ−トル下った東電佐久発電所の取水口のある関水の堰の手前で相手がどう出るかだった。水流が淀む深みに潜られる前に勝てば相手を岸に寄せられるが、負ければ糸をかみ切って泳ぐしかない。竿を手放すことは死んでも出来ないからだ。あるいは西岸の国道側に移動し、自分たちが泳ぎ上がって来た魚道の段々滝になだれ込もうというのか?
その玉蔵の目論見は外れた。堰が近づくと水面に一度浮上した二尾の怪魚は一気に潜り、コンクリート壁の放水孔に自らを投じて吸い込まれ、玉蔵共々堰の中腹から溢れる水に巻かれて二十メートル余の宙を飛んだ。長い滞空時間の直後、水面に全身を打つ衝撃、天空から叩きつける水流に潰された玉蔵は気を失いかけた。
だが執念が勝ったのか玉蔵は生きていた。二体の巨大魚は堰下で水中深く潜航して玉蔵を引きづってどこまでも下流に走る。
幾つかの橋をくぐり景色が変わった。玉蔵もさすがに酸素欠乏で息が詰まる。玉蔵は、岩に足が噛む度に竿を立てて獲物の走りを止め顔を上げて空気を吸い、相手の抵抗でまた流された。片足が岩を捕らえると相手が必死で逃れようとして暴れ、また流れる。
何キロ流されたのか、やがて相手の抵抗が弱まった。玉蔵もいくどかは水を呑んで意識を失いかけたが、勝利を確信して竿だけは放さない。玉蔵の耳に息絶え絶えの低い声が聞こえる。
「ダム湖を漁場に、一緒に田原湯の将来を…」 語尾が消えた。
ハッとした玉蔵が目をこらすと、いつ巨大魚に変わったのかサケ用の大バリの先に、シャツを通して肩口にガッチリとハリ掛かりした多吉がいる。すでに力つきたのか、手足が水の流れに揺らいでいるが、片手にはしっかりと愛しそうに女性の身体を抱えていた。
あわてた玉蔵が、水中で糸を手繰って多吉に近づくと目と目が合った。生気を失った多吉の表情が何かを訴えている。
(アユで田原湯を繁栄させてやる。安心して女と成仏しろ…)
心で語りかけ肩に食い込んだハリを外し手を合わせ、しっかりと抱き合って流れて行く二人を見送り、岸に向かって水を蹴った。
人情紙のごとき今の世に、愛する女と友情のために死ねる男がいたことに玉蔵は感動し、救いを感じた。約束した以上、この一連の事実を口外は出来ないが、ダムと川魚を結び付けて町を救おうとした男が存在したことを深く心に留めて、生涯忘れないだろう。
幼児から老人までが楽しく川遊びできる環境づくりに一生を捧げる覚悟の玉蔵は、その使命を再確認させられる思いがした。
泳ぎながら見渡すと南岸の景色に見覚えがあり、吉岡町あたりと見当がつく。はるか下流で一対の巨大魚が跳ねた。それを玉蔵は別れの挨拶と見た。愛し合って身を投じたあの二人は栗橋地区まで下って、同じような境遇の仲間達と合流して利根川で生きるのか。
岸に泳ぎつき石にしがみつくと、安堵からか気が遠のく。
(ヒロ子…) 薄れる意識の中で愛する妻を想い、生きている喜びに泣いた。これでまた鮎が釣れる……。