鬼棲む球磨川

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 鬼 棲 む 球 磨 川
花見 正樹

一 職場                

城址内にある人美市役所の二階に上がると、大部屋のカウンタ−に土木建築課の案内看板があり、内側で作業テ−ブルを囲んで五人の男女が打ち合わせをしている。
「深水光男、出勤しました」
 五十歳前後の男が振り向いた。
「おう、四月から赴任するちゅう新卒さんな?」
「ハイ、深水光男です」
「はよ来い、仲間ば紹介する。ワシが課長の工藤たい」
「ハイッ!」
 光男は、遠慮がちに割り込んでイスに座った。
 工藤が、光男を紹介する。一人だけ若い魅力的な女性がいた。
「こん人は一週間早かが、四月から正式に職員になる深水光男くん、水資源開発研究所の深水局長の甥ゴさんたい。行革で無理かと思うとったが、一人でも補充ばついたちゅうのはありがたことよ」
「深水光男です。よろしくお願いします」
「課長補佐の遠藤棟二たい。がんばいなはい」
「係長の月岡佐太郎です。よろしゆう頼んます」
「ヒラの甲斐敏夫たい。頼んます」
「霧島景子といいます」
 その女性が光男を見た。彫りの深い顔だちで目が大きい。
 光男の心臓が高鳴りハ−トがときめいた。これだけで、臨時職員で拾われたコンプレックスが消える。
「入院中の浜田を入れて七人。ま、少数精鋭ってとこかの……」
 霧島景子が「フッ」と笑った。
「景子。なにがおかしかと?」
「精鋭じゃなか人もおるです」
 課長補佐の遠藤が図面から目を放さずに、のんびり応じる。
「景ちゃん。精鋭ばかりじゃとな神経が疲れるとよ」
 工藤がニヤリと口許をゆるめて頷く。険しい空気が和んだ。
 光男はスタッフに入ったのを感じた。工藤が話を続ける。
「昭和四十二年の調査開始以来約三十年、六木村では、一昨年十一月の代替え地着工記念式典から、すでに二年と四カ月、工事の遅れはわれわれの責任に転嫁されとる。もう、ひと頑張りじゃけん。ばってん酒の席でも市民との口論は厳禁ぞ。ケンカで入院しとる浜田なみに自業自得にされっとからな」
「あのう……なんの工事ですか?」
「水資源の叔父に聞いておらんのか?」
「なにも聞いてません」
「大きなダムを造るんじゃ」
「なんのために?」
「ダムを知らんとか。月岡係長、新入りに教えちゃれ」
「ダムには、いくつかの重要な目的があるとですが一般的に考えれば、まず水量と落差を利用しての水力発電があって、原子力発電や火力発電と違ってクリ−ンエネルギ−で……」
「そのぐらいは知ってます。どこに造るんですか?」
「球磨川の支流の山辺川の上流、六木村地域内です」
「あの子守歌で有名な?」
 それから、延々とダムの必要性について説明を受けた。
「この地図の上の、点の色分けや点線は何ですか?」
「赤線内は反対派の根城のあるエリア、青は日よりみ、黒線で囲んだ地区内は買収済みたい」
「反対する人がいるんですか?」
「なかにはビデオまで作って配付しとるヤツまでおる」
「どうしてですか?」
「減水すると川が汚れるの、生態系が狂って大鮎が捕れないだの。
ダムの氾濫による洪水で人美市が壊滅するなどと言うとる」
「川と洪水は分かりますが、なんで鮎なんかで?」
 全員が、いっせいに責めるような目で光男を見た。
 工藤が手を上げて、さえぎった。
「仕事にならん。甲斐、こいつを市内見物に連れてき」
 二人が出て行くと、工藤が吐き捨てる。
「あの役立たずも、邪魔だけんな……」
 光男は不服だった。質問をかわされたのが気になる。
 その光男の思いを知ってか駐車場に向かう甲斐がいさめた。
「球磨川は世界一のウオ−タ−シュ−トというてな、最上川、富士川と並ぶ三大急流の一つたい。川下りと大鮎はこの地方の貴重な観光資源で、これをけなすのを聞かれたら間違いのう袋叩きたい」
「たかが川下りと鮎で?」
「浜田先輩も飲み屋で川下りはいらんちゅうて、居合わせた連中に殴られアバラ三本と足の骨を折って入院たい。今なら、先輩の隣りのベッドが空いとるがの」
 駐車場には車が並び、地続きに藩祖を祭った相良神社と城跡が森に包まれて続き、ここ人美市役所は、相良藩城跡の石塀内ある。
 運転席に乗り込んだ甲斐が、自嘲気味にさとした。
「黙って仕事するのが一番たい」
「不満ですが、そうします」
 胸川にかかる大手橋を渡り、日本で一つしか現存しないという重要文化財の堀合門のある武家蔵を左に、ゆうれいの掛け軸で知られる永国寺の山門前を右折して、球磨川にかかる人美橋を渡ると、波立って走る川の水は、青く澄んでいて底石まで見通せる。
 その人美橋から眺めると、上流には公園になっている中州があり、その上にも大橋がかかっている。さらに、球磨の山々の彼方には、神々の山といわれた高千穂の峰の稜線が空の下はるかに遠く、黒々と連なっている。

 

二 歴史の町

 

「どこか行きたかとこあるとか?」
「昨日着いたばかりでどこも見てませんが、まず川のことを知りたいんで川下りをさせてください」
「エラく仕事熱心じゃな。五十ケ所以上の源泉があって大衆温泉が十六もある温泉の町に来たんじゃ。のんびり湯でも浸かって旨い地酒でもと思っとったて……」
「川下りがイヤならまたにします」
「だれがイヤというた。川下りで冷えとうたら動物専門の川下りの湯にでも入っていかんな」
こうして、光男の就任一日目は川下りの実地見聞となる。
午前十時半の定期便にぎりぎりで間に合い、広島から温泉三日泊まり旅という老夫婦、福岡のレストランの社内旅行の男女一行八名と一緒に十二名の乗船で、三月いっぱいは清流コ−ス限定となる球磨川下りを体験することになった。
甲斐の顔は知られているらしく、地元の人が気軽に挨拶する。
川下りのチケット場の事務員が冷やかす。
「トシさん。舟で酒飲んで、役所はサボり?」
「新入りの案内ばしとる」
「なら、内緒で一人分優待券だしとくわね」
船頭にも冗談めいた脅しをかけられ、反論したりする。
「トシ! その若しゅもダム派ちゅうなら川に落としたる」
「なに言うちょる。会社はな、補償金たんとぶっかけとるたい」
甲斐敏夫も口はうるさいが、人がいいのは、すぐ態度に出る。
「清流コ−スは流れもおとなしいで、濡れんと思うが船頭が荒っぽいけん、このビニ−ルスッポリかぶっとれ……」
光男と甲斐が、船首に立つ舵取りの下に座り、社内旅行ご一行は真ん中、老夫婦は後部に座ってロを漕ぐ船頭と会話をしながら球磨川下りを楽しんだ。
橋を一つ潜ったところで、早瀬があり、舟が大きく揺れる。
「すごいスリルですね」
甲斐が笑った。
「こいはイカダ口の瀬で、球磨川下りの五大瀬と比べれば赤子みたいなもんたい。近く始まる急流コ−スじゃと高曽、二俣、網場、槍倒しの瀬と荒瀬が続くが、どこも底石が荒いけん水量が三割減ったら川下りは危険ででけんじゃろな」
織月大橋、西瀬橋、天狗橋を越え、永野川、草津川、万江川に次いで馬氷川の流れ込みがあって水量の増えた流れは速度を増す。
さすがに、右手の石水寺の森がうっそうとせり出た栗林の瀬では、しぶきを浴び肝を冷して全員が叫び声を上げ、社内旅行の一行は男女が意識的にか抱きついている。さすがに、甲斐も真剣な表情で船板に掴まっていた。これでも、おだやかな清流コ−スなのか。
「夏になるとな、この瀬の石に大鮎が棲みつくんじゃ」
鮎に興味のない光男が生返事をしていると、甲斐が言った。
「興味なきゃ結構、鮎好きはウチの職場には向かん」
舟が岸に寄る間川底をのぞくと、清冽な流れの底で岩に沿って小魚が群れている。
舟から下りると、寒さと快い興奮で身体が震え腰がふらつく。
車は有料配送で降船場に回されていて、甲斐の運転でその場からすぐ国道二一九に出て、市内と逆方向の八代市方面に向かう。
助手席からはるか下を見ると,激流が岩を噛んで白い波がしぶいている。甲斐が対岸を見た。
「ついでに旨い飯でも食うてくか?」
川向こうに、昨日、兄の運転するワゴン車から見た、JR線の八千洞駅が見える。自転車、本、オ−ディオ、少しばかりの所帯道具を積んだ車の助手席で、無性に悲しい思いで眺めた景色だった。
急坂を下って車幅いっぱい一台がやっとという松本橋を渡る。
「車で待っとれ」
八千洞駅下の道路脇に車を止め、光男を助手席に置いたまま、割烹・仕出し弁当「カワウチ」と看板のある店内に入ってゆく。
厨房からエプロン姿の女性が出て来た。
「トシさんば、まだ役所やめんの?」
「オヤジさんは?」
「名誉駅長会の集まりで、熊本まで行っとるから帰りは夜とね」
「オヤジさん、八千洞駅の名誉駅長じゃもんな」
「車ん中のあの若い衆は?」
「今日から役所に入った新人じゃが……」
「祝ったるけん球磨チャンポンでもどやんね」
「すまんね。深水、こっちけえや」光男が、入ってゆくと、駄菓子から食料、飲料、雑貨や釣り用品が雑然と並んでいて、川にせりでたテラス側に食堂の大テ−ブルがあり、その上に球磨焼酎の瓶が何本か置いてある。
壁には紙の色が変色しかかった写真や、日付け入りの魚拓が張られ、釣り竿釣り道具がところ狭しと並んでいる。
小学校入学前ぐらいの男の子がヨ−ヨ−で遊んでいる。
「ゲンちゃん。ジイちゃんに釣りば習ったか?」
その子の母の陽子という娘が、お茶を運んでくる。
「新入りはん、名前は?」
「深水光男。深い水に光る男と書きます」
「鮎はやるの?」
「美味しいとは思いません」
「鮎掛けのことよ……」
「深水。釣りじゃ。鮎釣りはやるのかって聞いとるんじゃ」
「釣りも嫌いです」
「ウチのト−ちゃんが聞いたら、川に突き落とされっとよ」
母親が笑顔で湯気のたつチャンポンを運んでくる。替わって娘が厨房に入った。
「就職祝いのオゴりたい。おいしかよ」
「なんで甲斐さんは、ここのご主人に嫌われてるんです?」
「役所の土木建築課勤めが気にいらんのでしょ」
「役所勤めが?」
「六木ダムの建設計画が嫌いなんよ……」
甲斐が、チャンポンを箸で引き上げながら床を指さした。
「昭和四十年の大水で、ここまで床上浸水だったと」
「ウチの横に浸水の記録標が立っとるから、帰りに見とくたい」
「川の流れは、はるか数十メ−トルも崖下じゃないですか?」
「つい、この横を濁流が渦巻いとって、溺れ叫ぶ人が水に呑まれとるのを手を合わせて見送ったそうね。まるで地獄絵じゃったと」
「ひどかったんですね」
「豪雨のさ中、上流の市房ダムが満パイになった水を一気に放水したによって、球磨川流域の市町村が濁流に襲われたんじゃ」
おカミさんが「若いころの体験ばってん」といい添えた。
光男が甲斐に聞く。
「今度のダムが完成すれば、洪水の被害は防げるんですか?」
「多分な……」
「バカバカしか。そんなウソば信じるんじゃなかよ」
呆れた、という口調で母親が引っ込んでゆく。
ともあれ、海の幸山の幸がコッテリと入った「カワウチ」特製の球磨チャンポンは格別に美味、最高に旨かった。

 

三 子守歌の村

初めての休日、自転車を駆って光男は、六木村を訪れた。
市内から国道四四五号を北に約五キロ、相良村に入ると、のどかな山里が目に入る。すれ違った耕運機の青年に手を振り、畑仕事の老人に声をかけてサドルを踏む。
そこからが遠かった。六木村には二十キロ以上もある。しかも上り坂だから、山が深くなるとさすがに息が切れ足も重くなる。やがて人家が見え隠れしてくる。
ナラやブナの密生する曲がりくねった山道から、六木村という矢印に沿って下ると山辺川の清流沿いの道に出て、橋際に、建設省と熊本電力の工事予定図などがある。
まさしく巨大ダムの建設計画が進行中だった。身が引き締まる思いで、光男は六木村に踏み込んでいった。
村の入り口に、少女が赤子を背負ったチャンチャンコ姿で手拭い鉢巻きの像があったのでカメラを向けたが、汚れている上に伸び放題の雑木の枝が邪魔して写真にならない。いずれ、ダムの底に沈むので、もう誰も手入れをしないのか。
村は日曜日のせいか人影もなくひっそりと静まり返っている。
小じんまりした村役場の前には、アニメキャラクタ−の像があり、掲示板には行事案内ビラや村の観光ポスタ−が張られている。
役場前を通って川に出る。川原に遊ぶ子供たちの声を耳に頭地橋を渡り、月曜休館のカワセミという資料室に行く。建設省と村の協力で建てた施設で、ダムの底に沈む村の資料があるという。
うっそうとした森を背にした一階建てのシャレた白亜の資料館に入ると、正面に特産品、右に民具、観光コ−ナ−があり、左に埋蔵文化財、地質、動植物昆虫、心に残る故郷の村コ−ナ−もある。ここでは、この村はすでに過去になっていた。
広い館内には、小学四、五年生と思える女の子が三人、展示物を見るでもなく元気に走りまわっている。
人目を引くためか、正面奥には代替え地の完成予想模型が、五百分の一の縮尺で美しい色彩で築かれ、あたかもこれが現実であるかのように飾られていて、ダム建設を納得させられることになる。
民意を操りながら、既成事実を巧妙に積み重ねてゆくのは、中央行政の常套手段だが、その姑息なやり口をこの山村の片隅で見るとは思いもよらなかった。
光男は、背筋の寒くなる思いを打ち消す。ダム建設の先兵として働く立場なら、むしろこの環境こそ喜ぶべきではないのか。
通説では、山深い土地の狭いやせた耕地ばかりの貧しい六木村の小作農では、家族が増えると生活が成り立たたなくなるために、口減らしのために娘を売ったという。
だが、村を自転車で走ってみたところ、光男が先入観で抱いていたような貧困の村の姿はどこにもない。どの家の狭い庭先にも車が二台以上もあり、子供たちの表情も生き生きして屈託がない。
しかし、出会った村人に気軽に声をかけてみて、反応の鈍さが気になった。それに、光男を見る村人の目がどこかおかしい。
球磨に来てまだ日は浅いが、土地の人の開放的で温かい人情に触れることに慣れすぎた光男にとって、この村の人々の身構えるような姿勢はなにか気になる。
代替え地があるとはいえ、住み慣れた先祖伝来の土地を捨てる悲しみが、村人の心を閉ざし、その心の壁が外来者への防波堤となるのかとも考えたが、村人の顔には悲しみの表情ではない、むしろ、よそ者に対する警戒心が強く出ていた。ソツのない言葉のはしはしにも表情にも見え隠れしているようにも感じられる。
それに、垣や庭の手入れ、家屋の破損箇所の修復などには興味がないのか、貧しさとか豊かさとは違う、心の荒廃した村人の姿が浮き彫りになってくる。子供たちを呼び止めて、村人に聞きたかった質問を投げかけてみた。
「おウチが、ダムの底に沈んじゃうけど、どう思ってるの?」
当然のように「悲しい」とか、「ここを離れるのはイヤだ」と、返事するだろう。それ以外には考えられない。そう信じた光男の思いは裏切られた。
「早く新しいおうちに引っ越したいな、自分の部屋があるんだ」
「二階建てに住めるし、子供部屋にも全部、テレビが入るのよ」
口々に、大きくふくらんだ新しい生活への期待を伝えてくる。
「両親との約束かい? なんで、そんなぜいたくできるの?」
子供たちが走り去った。
資料館を出て自転車で北上し川沿いの子守歌公園に行くと、まばらだが人がいた。彫刻コンク−ルの入賞作品が並び、古い茅葺きの民家が保存されている。ここも、ダムの底に沈む。
その中の二人連れに聞くと、この村がダムになると聞いて、一度だけでも見ておこうと、熊本から三号線を南下して車で来たが、何もなくてガッカリしたという。光男も同感だったが、聞きかじりの宣伝をしたのは早くも役人の血に染まったのか。
「シ−ズンオフだからですよ。でも、いまは、のけぼし山で福寿草が見頃ですし、ここの豆腐の味噌漬けも美味しいそうですよ」
子守り茶屋で名物の田舎まんじゅうで茶を飲み、帰路に着く。
もう一度、沈み行く村を見るべく頭地橋に出てみると、川原には、資料館にいた小学生が合流して六人ほどの男女の子供たちが、歌いながら川原で遊んでいた。
「おどみゃ かんじんかんじん あん人たちゃ よかしゅ よかしゅ よかおび よかきもん……」
橋の上から透き通った清流を見つめると、小魚が岩の間に群れ、ときおり外気を楽しむかのように水音をたてて跳ね、淵では小魚が追いつ追われつして遊んでいる。岸辺のウメの白い花が風に震えてはいたが、土手には、若草が黄緑の新芽を出していて、この山里にも確実に春の訪れが来ているのを知らせている。
子供たちの歌声は、歌のもつ意味とは裏腹に底抜けに明るい。
光男は、そのあどけない子供たちに呼び寄せられるように、自転車を橋際に置いて、梅の木の横手から川原に続く細い急坂を降りかけ、途中で足を止めた。視線の先に、岩に腰掛けて睦まじく話し合う男女の姿があり、若い女性の横顔が霧島景子に似ていたのだ。
見てはいけないものを見たのか。二人が、あまりにも仲よく見えたので、身をひるがえして坂を登りかけたとき、光男の背後から、女の子の声が追って来た。
「オジちゃ−ん。またおいでなあ−」
振り向くと、資料館にいた子供たちが手を振っている。
その声で、岩に腰掛けていた二人が振り向き、女性が驚いたように立ち上がった。やはり霧島景子だった。景子が口に手をあて、瀬音に負けない張りのある声で叫んだ。
「深水さん。なにしてると? ここさ、きなっせ……」
間が悪いところに来合わせたバツの悪さを感じながら、降りて行くと、景子が、ヒゲの男に光男を引き合わせた。
「役場で同僚の深水光男はん。こちらは山辺川を守る会の佐宗良一はん、本職は学習塾で副業は映像制作ですけど、どちらも儲かっとらんみたい」
「仕方なか。親がダム建設の補償で浮足だっとる。子供たちも勉強どころじゃなか。ダムに反対した村人も大金をチラつかされて、条件闘争に切り換えて三年前に村として同意しおった。補償金を握ったとたんに村を捨てて出ていく村人が続いとる……」
「村を捨てたのは何人ぐらいですか?」
「三千人の人口のほぼ半分かな、高額の補償金を得て村に残った人も代替え地に建てた新築の家でゼイタク三昧の生活をし、いつか、また貧しか暮らしに戻るじゃろ。ダムはやめにゃいかん」
景子が反論する。この二人は意見が違うらしい。
「二千六百億円に膨らんだ予算の内、もう千四百億円近い金額が消えとるのよ。こんどの漁協との補償問題が妥結すれば工事は大きく前に進むとです」
「え、漁協は反対じゃないんですか?」 つい光男も口を出す。
「そうね。半々ね。約二千人いる漁業組合員の半分は、ダム工事で稼いで、あとは補償交渉で大金を獲得するのを考えとるのよ」
「そりゃ違う。彼らはまだ、行政のワナに嵌まって、ダムが出来ても大鮎は育つと信じとるから、補償金は貰い得だと思うとる。
以前、ある県の漁師らが埋め立てで補償金貰ったとじゃが、たった二年で自己破産者が続出した。金融投機、暴力団、外車メ−カ−、旅行業者などが放っておかんのじゃ。遊びとバクチで離婚、子供の非行化、一家離散、自殺、自己破産がつづいとる。汗水流さぬアブク銭が入れば人間なんて、すぐ堕落して地獄行きたい。それに、六木ダムが出来たって、六木村はもう観光客は呼べん」
「それでも、かならずダムはできます」
「ま、これが両派の意見たい」
「これ、シュミレ−ションなんですか?」
「本気で話し合うとる。そうじゃ、あんたも土木建築課なら、ぜひ山辺川の源流を見ときなさい。一緒に行くかね?」
ためらっていると、景子がすすめた。
「来週の日曜に、みんなで源流に行くのよ」
「毎年の秋、山辺川と球磨川の源流の水を、流域の市町村の大勢のみなさんの協力でリレ−して河口の八代市まで運び、神社に奉納ばしちょってから不知火海へ注ぐ。そのイベントがあるけん初参加の人と下見にいく打ち合わせをしてたんじゃ」
「それと、機会があったら東京の、釣りキチで有名な〔つり人間社〕の名物社長を呼んで講演会を開くことも話し合ってたのね」
「霧島さんは、ダムの完成を望むのに矛盾してませんか?」
「それとこれは別でしょ、源流は残るんですから……」
佐宗の塾の生徒なのか子供たちが来て、光男に語りかける。
「さっきの、お話のつづき……ほしょう金よ!」
「お金、イッパイもらえるの」
その声を聞いて川沿いの家の窓が細く開き、村人の不安そうな顔がのぞいたがすぐ閉ざされた。

 

四 初夏の球磨川

深水光男が、九州球磨の人美市に住み着いて二カ月が過ぎた。
景子とヒゲの佐宗に誘われての山辺川の源流行は、光男の川に対
する認識を変えた。
大岩を縫う清流に顔をつけ、遊泳するイワナを眺めながら飲んだ冷たい山辺川源流の水の味は、一生、忘れがたい貴重な体験として記憶に残るるだろう。ブナの原生林を抜け、快い汗をかいての昼食に景子の用意した握り飯を食べたときの感激も、景子への思いのたかぶりと共に、青春の一ペ−ジに刻まれよう。生きている喜びが溢れてくる。兄の車で、球磨の峠道の原生林を見て心細さから涙したことがウソのようだ。
光男は、徐々に球磨の風土になじんでいった。
新緑の季節に入って、甲斐に誘われ、あるいは景子を誘い、何度か川にも遊び、球磨川の急流下りのスリルと興奮も味わった。
景子は、職場では、六木村の「山辺川を守る会」についても、六木村で光男に出会ったことも、ダム建設の是非についても語ることはない。不審に思った光男がそれを糾すと、以前、ダム建設に疑問を抱いた発言をして、「女のくせに、立場をわきまえろ!」と、上司の叱声を浴び、それからは貝になったのだという。
甲斐敏夫は、相変わらずダム反対派を説得するという名目で、光男を連れて歩き、情報の収集に励んだ。ただ、その情報をそのまま課の会議に持ち出すこともない。上司から怠慢を責められてもヘラヘラと話を逸らし、出先での苦情や不当な脅しを自分だけのものにして呑み込んでいる。
甲斐に連れられて、球磨川上流の建設省自慢の自然工法によるという市房ダムに行ってみると、ダムの上の水は濁って淀み、放流が絶えた時間帯だったのか本流なのに水がない。
川底や川原の石と岩盤には、ダムから流れ出る腐敗したシュ−トと呼ばれる粘土状の小さな丸いヘドロの粒がベッタリとへばり付いて、そこから有害な微生物がただようのか臭い。これでは魚の住めない川になるのは明らかだ。
水涸れの川で、逃げ場を失った小魚をついばんでいる小鳥も、やがては、有害物質にやられて死を迎えるだろう。
鮎どころの沙汰じゃない。川がすでに死んでいる。
「見たか。これが、自然を破壊するダムの実態だぞ!」
無念の思いが甲斐の顔に浮かぶ。
「変ですねえ……」
「なにがね?」
「いつもの清流も、このドブ川も、同じ球磨川ですか?」
「そうだ。この下から球磨川と山辺川の合流点に辿り着くまでに、小河内川、牧良川、都川、柳橋川など大小の河川が無数にあって、一度死んだ川を浄化して生き返らせているんだ」
「球磨川で最大支流の山辺川にダムができたら?」
「ま、川は残るが、清流は消える」
「甲斐さんは、ダム建設に反対しないんですか?」
甲斐が、いつもと違った凄い形相で光男を睨んだ。
「プロ野球の選手が監督に逆ろうて、バットも振らんで三振の山ば築いとったらすぐクビじゃ。いざというとき試合で働けん!」
五月下旬のある日、球磨チャンポンの味が忘れられない光男が甲斐を誘い、八千洞駅下のカワウチに遅い昼食をとりに出かけた。
駐車場には、KNH(近代日本放送)テレビ熊本支社のバンなど数台の車が詰まっていて、来客の多いことを示している。
道路脇に駐車して店内に入ろうとすると、店内から出て来たジャンバ−姿のAD(アシスタント・ディレクタ−)が、丸めて手に持った台本を振って二人を押し止めた。
店内からプロ用の大型撮影機を右肩に担いだカメラマン、照明班、音声係、ディレクタ−に続いて、カワウチのアルジだと甲斐が教えてくれた川内という長身で痩せぎすの男が登場し、用意した看板を両手に持って表の壁に掛けるシ−ンの撮影が始まった。
掛け終わった看板には、大鮎の挑戦的なイラストと、「オトリ鮎あります」の字が躍っている。川内が、ADが渡したマイクを手にリハ−サルのせりふを喋っている。ADが甲斐と光男を見た。
「邪魔ですから、早く入ってください!」
あわてて、店内に走り込むと、食事を終えたばかりの乱雑に散らかった食堂のテ−ブルを囲んでいた五、六人の男たちが、不意の侵入者を非難する目で睨んだ。甲斐は挨拶もしない。しかし、全員が甲斐を見知っているのは、態度で分かる。
光男が目を見張った。ヒゲの佐宗良一が腕組みをしている。
「こんちは……」
光男の挨拶にも反応がないのは、居眠りしているらしい。
「そっちはダメ。二人とも、こっちへ来てて……」
奥の厨房からカミさんが怒鳴った。この家の娘の陽子が、厨房横の雑然と菓子折りや酒ビンの積まれた家族用のテ−ブル側に二人を座らせ、お茶を煎れながら言う。
「撮影の邪魔だから、このお弁当食べて、さっさと消えてよ」
勝手口のガラスの開き戸越しに、カワウチのアルジが看板を背に熱弁を振るっているのが聞こえる。
「全国から集まる釣り人が失望せんようにと、あれこれ準備しとるで、解禁前は、心臓がパクパクするぐらい興奮しとります」
甲斐が声をひそめて、陽子に聞く。
「なんの取材だい?」
表で、ディレクタ−が「カット!」と、叫び、戸を少し開き店内に怒鳴った。撮影が始まっていたのだ。
「本番中は静かにしてください……」
再び、番組が進行し、隣接する別館にあるオトリ鮎の水槽を説明する場面のために、表にいた撮影隊が川内を撮りながら動いた。
「オトリ鮎は二、三日ほど餌切りをして、身を引き締めて……」
声が遠のいて行く。
その間に、光男ら二人が陽子の出した仕出し弁当を食べる。
沈黙を守っていた男達が緊張を解きほぐすように、お茶代わりに球磨焼酎のウ−ロン茶割りなどを口にして騒ぎ始めた。
「塚木の昭ちゃん。今年のデキはどんなね?」
「不知火海の稚アユを三百万尾近く、トラックでピストン輸送しとるけん、いい年になるばい」
「塚木さんまで手伝うて、ダム下の河口で遡上できずに溜まっとるのを、網で掬うて運ぶんやから大変な労力たい」
「秋に、ダムに阻まれて河口ば行けん落ち鮎を捕え、卵を絞ってな、孵化させて海に放流する作業から思うたら、どげん楽か知れん。
寒い時期に徹夜ばして、すぐ仕事に行かにゃならんからな……」
「漁協のメンバーの仕事じゃろが?」
「半分以上は、補償金目当てに寝返えっとる。当てにゃならん」
「昭ちゃんは、JR勤め時代からのボランティアだけんな」
「底意地わるう上司をば殴って辞めたと話ば、ホントか?」
「パンチを二発かませとる」
「仕事ば棒に振って、バカな話や……」
「河原さんも、幼稚園の経営ばオトに任せて鮎狂いやなか?」
「その弟の健二もな、夏休みの間、五ヶ瀬で鮎に狂っとる」
「八月いっぱいか?」
「大鮎の出る九月中旬まで夏休みにしよってな」
「九月中旬まで?」
「父兄から苦情ば出て、夏休み八月に戻したがオトはおらん」
「急用ばあったと、困りゃせんのか?」
「胸ポケに携帯電話持参たい。深みには入れんがの」
「河原さんの相棒の田神さん。あんたも上司とケンカばして、大分のテレビ局辞めたと?」
「夏の休暇くれんで衝突したばい。いま、鮎の合間に出来る仕事ば探しとる」
「こん人はよか。カミさんが美容院やっとるで……」
「なら、冬と春だけ働くだけでよか」
「なんの、冬と春は海釣りで忙しいで」
「解禁まで五日。ワシ、今年はバンバン尺アユを掛けたるで」
「吉江さんは、去年もそう言うとったのう」
ふと、昭ちゃんと呼ばれた男が甲斐を見た。
「トシ。そん人は誰か?」
トン汁を運ぶ陽子が、甲斐に代わって無愛想に応じる。
「トシさんの下に入った新人やけど……」
全員が会話を中断して改めて二人を見た。
「へ、部下が出来たとか。どや、座談会に参加せんか?」
塚木名人の発言に、眠っている佐宗以外の全員が賛成した。
「いい機会や。どこまで本気か、語ってみい」
甲斐が光男を見た。光男は佐宗を見る。
目覚めたヒゲの佐宗が光男を見て驚き、意味もなく頷いた。
こうして、二人は場違いなテレビ取材の座談会に参加した。

 

五 鮎宿に集う激流の男たち

構成作家を兼ねた温厚な守田ディレクタ−が、説明する。
「まず、球磨川の激流をアップで出して、つぎに〔鮎宿に集う激流の男たち〕と、いうタイトルが出ます。その後で女性アナが、六月一日の解禁風景を描写し、そこに、今日お集まりの皆さまが激流に胸まで入って鮎を掛けるシ−ンを写します。
実際にはカメラ二台で一時間ほど撮影して編集しますが、うちはヤラセはないですから絶対に鮎を掛けてください。
一時間枠の特番で全国放送ですから、その成果によっては球磨川に来る人の数も飛躍的に増える可能性もあります。
そのシ−ンの後で、鮎宿カワウチの川内和義さん、厨房を任されている奥さん、会計と仕入れ担当の娘さん、それぞれの苦労話が五分づつあります。
続いて、今日の座談会が入ります。皆さま、ご自由に普段の言葉でお話しください。正味十五分程度ですが、全員のお顔とお名前は必ずオンエアすることを約束します。ただし、内容は、こちらで編集させていただきますのでご了承ください。
それに続いて、後日撮影する解禁前夜の鮎宿風景が入り、その直後に、今日お見えの球磨川名人と評判の高い塚木さん、山口の吉江さん、今日は見えてませんが群馬の嶋野さん、栃木の菊知さん、世田谷の丸福さんなど各地の名手や常連さんのエピソ−ド、解禁を迎える気持ちも入れる予定です。では、解禁前日の昼間という設定で、私、守田が進行係を勤めますのでよろしくお願いします」
光男と甲斐、川内、塚木、吉江、河原、田神、佐宗の八人に、司会の守田が加わってテレビ撮影が始まった。
ADが台本を見て川内にマイクを渡し、守田が口火を切る。
「明日はいよいよ鮎解禁ですね。大鮎が釣れると評判の球磨川には、日本全国から自称他称の鮎名人や、腕に覚えのある常連さんが集まって、激流で掛けた大鮎の強い引きを楽しみますが、まず、鮎宿の川内さん。尺鮎は、いつごろから出始めますか?」
「そうやな。昨年は解禁日に何本か出とるで……」
光男が小声で甲斐に聞く。
「尺鮎って、鮎の種類ですか?」
「カット! 失礼しました。たしかに尺貫法ではいけませんね。ハイ、スタ−ト五秒前!」
守田が、言いなおす。
「川内さん。三十・三センチの鮎はいつごろから出ますか?」
「知らん。ワシらは尺鮎いうたら、それでいいんじゃ」
「ま、そう言わずに。ここ球磨川では、解禁日に三十・三センチの大鮎が釣れるんですか? すごいもんですね。ここにも、それ以上の魚拓がずらりと並んでいますが、これからも、このような大鮎が釣れるんでしょうか?」
返事がない。全員の目が、甲斐と光男に注ぎ、河原が言う。
「こいつらが、ダムを造ったら球磨川に尺鮎はおらんだろ?」
「カット! ダメ。河原さん、発言には挙手が先です。マイクを渡します。それと、ダムは止めてください。鮎が中心ですから」
「鮎の話だからダムが出るんや。この下の瀬戸石ダムなんぞ土砂で埋まって、ただの堰になっとる。おかげで昔は崖の上にあった民家が少うし水が出ただけで床上浸水じゃ。ダムの下見てみい、ドブ川で、ガキどもが膝まで入って網でウグイを獲っとるばい」
甲斐が平然という。
「小砂利で埋まってヘドロを溜めないだけマシたい」
「カット! あんた誰? さっき、コソコソと逃げ込んだ二人連れですな。名刺を出しなさい。いつの間にか紛れ込んで……」
「そいつらに呼ばれて参加しとったに。深水、帰るぞ」
立ち上がりながら出した名刺を守田が見て、態度が変わる。
「市役所の土木建築課? まあ座って。いい機会です。ぜひ、ダムの効用をお聞かせください。カメラ、用意! スタ−ト」
守田が矛先を変え、鮎を無視してダムの話題に入る。
「土木建築課の職員として、六木村を呑み込む総工費二千六百億円という巨大な六木ダム建設をどう思いますか? ダム建設継続の是非をめぐって市議会で紛糾していますが……」
甲斐が胸を張って答える。
「もう、ダムは、ここまで進んだら止められません。ぼう大な発電量もさることながら、洪水防止にも役立ち、山辺川にダムが出来ても放水をしますから水量は安定します」
「球磨川の鮎は、どうなります?」
「心配ありません。それに、鮎だけのために……」
「鮎だけのために、なにか特別な対処を考えているんですか?」
「鮎だけのために、特別扱いしたら公共投資は進みません」
「なんじゃ、こん野郎!」
少しアルコ−ルのまわってきた河原が、幼稚園経営者とは思えない形相で掴みかかり、守田が必死で押し止どめる。

 

六 巨大ダムの功罪

甲斐が河原を無視して、カメラに向かって調子づく。
「ご承知の通り、球磨川系に造ったダムは、合わせると七カ所です。その中で瀬戸石ダムが毎時三千キロワット、荒瀬ダムが四千キロワット、今度の計画の六木ダムは最大一万六千五百キロワット、一気に四倍から五倍の巨大ダムが誕生するとです。これは、熊本県が誇る大きな財産になるとです」
「だれに誇るんですか?」
「だれって、まあ未来の人類への遺産とでもいいますか」
「今までのダムがフル回転すると、すでに発電量はあり余るというデ−タがあるそうですが、まだ余分に要るんでしょうか?」
「これからは電化の時代です、将来のために必要になるとです」
「人口が減りつつあるのにですか? 関東地区の東電では、水力発電なんて〇・九パ−セントですよ。以前は、火力が一位でしたが今は原子力五・一、火力四、水力〇・九の割合です。水力発電は金が掛かり過ぎるんです」
「発電は不要だとしても、ダムの目的には農業用のかんがい用水など利水という役目もあるとです」
「それは、行政のお題目でしょう? 現に、三年前から利水事業の柱となるはずの流域七市町村の酪農家や茶農家の千人近い人が、ダム反対の訴訟を起こしてるではないですか? 水が涸れると、霧状に常時補給された川の周辺農地が乾燥してダメになるそうです」
塚木が割って入り、ADがあわててマイクを差し出す。
「仮にじゃな、数軒の農家が利水を望んだとしても、アメリカ式に安上がりの遊水池で充分間にあうたい。ダムは要らん」
「なら、六木ダムが百歩譲って発電、利水にたいして無用としても、一つだけ、大切な目的があるとです」
「それは、なんですか?」
「洪水防止のための流量調節で、これで洪水が防げる……」
守田があわててバッグから、資料をとり出す。
「なるほど、発電、利水は目じゃないということですな。
この球磨川の流域では、昭和三十八年八月の死者・行方不明四十六人、三十九年も死者九人、四十年の流失家屋千二百八十戸、死者行方不明六人の大洪水をはじめ、四年に一度は濁流に呑まれて家屋の損壊や死者が出ています。
今まで記録されている大洪水だけでも一〇〇回はくだりません。
その度に尊い人命が失われていますね?」
「それを防ぐためには、山間部から出る大量の水を上流でくい止める大型のダムが必要になるのです。なにしろ、六木ダムは、台風が来ても毎秒六千トン分溜めることができるとです」
「今は平常時で、どのぐらいの流量なんですか?」
「かなり以前は、合流点までの球磨川本流の流量六に対して山辺川四の割合でしたが、いまは球磨川が毎秒約二千六百五十トン、山辺川約三千五百トンと完全に逆転しとるです」
「と、すると山辺川に依存している球磨川は、ダムが出来ると、放流時だけ増水になり、いつもは渇水状態になりませんか? 鮎どころか生態系が狂って川魚は絶滅し、両岸と底岩が突き出して川下りも危険で出来なくなりますね?」
「それは、完成した六木ダムの予定水位に、水が溜まるまでの間です。たしかに一時期はカラカラに干上がって川の生き物は死滅するとでしょう。でも、水が溜まれば、ア−チ式ダムの高さ百七・五メ−トル、表面積約四百ヘクタ−ル、総貯水量一億三千三百万トンから、毎秒五百トン放流することになっとるのです」
「と、いうことは、山辺川からの水が三千トン減って合流点下の球磨川本流は、半分の水量になるってことですね。間違いありませんか? たった、半分ですね?」
「それでも、川遊び程度の清流下りは出来るとです」
「清流は消えますからドブ川下りですね。だれも来ませんよ」
「ヘドロの臭い隅田川でも、納涼船が出とるですから」
「環境が違いますよ。ところで、鮎はどうなります?」
「鮎は、放流さえすれば水質は悪くても育つとです」
「こん野郎、ぶっ殺してやる!」
「河原さん、放送が終わるまで、まだ殴らないでください!」
塚木が「フフッ」と笑った。守田がムッとしてとがめる。
「なにが、おかしいですか?」
「鮎どころじゃなか。ダムの水を台風前に半分に減らしておいても、毎秒六千トンの水ば受けると、半分の三千トンを流しっぱなしにしとっても六時間で満杯になる。空っぽダムも、十二時間大雨ば降れば、ダム決壊で大惨事じゃ。そうだなトシッ!」
「雨は、そんなには降らん。その計算だって信用できん」
「建設省六木ダム工事事務所の青写真によるとじゃな、豪雨で予定水位を越えた場合、放っておくとダムが決壊する。
決壊したら下流は地獄じゃ。ダムの決壊を防ぐために、四門の非常用水門をいっせいに開いて、余分な量を放水する計画になっとる。ま、それを避けるための放水じゃから仕方ない。
ところがじゃ、通常の人吉市内を流れる球磨川の流量は、毎秒二千から三千トンの間、堤防はぎりぎり四千トンまでは持ちこたえる設計になっちょる。それ以上はお手上げたい。
さっきの計算で毎秒六千トンは貯められるという六木ダムの水門の全開放水量は、毎秒五千百六十トン、流域の堤防の許容量は四千トンじけん溢れた毎秒一千百六十トンの大きな濁流水ば、人吉市街や沿岸の村落をを一気に呑み込んで、家屋は崩壊、流れに巻き込んでみな殺しじゃ。今まで以上にタチがわるい。ダムが貯水限界を越えるると被害は大きくなる。どうじゃ、トシ。違うとるか?」
甲斐が怒る。図星だったらしい。
「その通りだというたら、どうなんじゃ?」
「なんだと!」
「まあまあ、話題を変えます。最近、なぜか、地元の反対運動が尻つぼみになって、六木村の半数の村人が、先祖が命がけで守り通した家と土地を捨てて村を出てるそうですが……」
「それは村人が、新しい生活を求めとるからです。
六木村では、三十年も前からダム建設をめぐって賛成派と反対派が争って来ました。人美市の福中市長、六木村の北村村長をはじめ、国政と結びつく為政者側の殆どが、今はダム建設推進派側に付いとりますので、ダムはかならず完成するとです。
このダムが、発電、利水、洪水防止になんの価値がなかとしても、大型公共投資としての役割は果たしとります。二千六百億円がバラまかれるのです。それが、社会に還元され、地域振興に役立ち、村人を貧しい生活から救い、政治家のふところを……、アッ、これはボツです」
「二千六百億円のほとんどは中央のゼネコンや政治家の手でどこかに霧散し、ここでは、工事の下請けで潤うか補償金で終わって、あとは辛く暗い、貧しい球磨になる……、そうですか?」
「公共の電波が偏見で見んでください。住民への補償や生活の保証と向上には万全の配慮で対応しとるとです。補償金の額も公平かつ適切に見えるように苦心しとります」
「ダムが不要なら、最初から二千六百億円の一部を、球磨地方の方に均等割りでさしあげてもよかったんですね?」
「それはできません。全国の皆さまから集めた、大切な税金ですから一応、ダムというフィルタ−を使うておるのです」
「ダムがムダなのにですか? アメリカでは一九九四年、当時の内務省開拓局のダニエル総裁が自然環境保護の大切さを訴え、ダムの時代は終わったと、ダム建設集結宣言をしていますね?」
「それは、アメリカの話です。日本は水害の多い国ですし……」
「待ってください。ミシシッピ−川の氾濫はダムによる被害だといわれています。日本でもアメリカでも、多額の資金を投じたダム建設が洪水を防いでいるとは言い切れません」
「たしかに、アメリカの条例が厳しくなっています。
テネシ−川の支流では建設寸前のダムが、生物の生存を約束する法律によって中止に追い込まれましたし、日本でも、ダム見直しを訴える各市民グル−プや利水訴訟原告団と、建設側との対立は深まるばかりです。ここも同じですが、すでに、代替え地の造成も道路の整備も進み、平成十二年の春には、七つの集落の全所帯が転出や
移住を終えるんですよ。村では、今、いい場所に住むための陣取りの争いが起こってるんです。もう、村ではだれも反対しません」
「でも、球磨地方の人にとっては、球磨川の清流があってこそ、住民の生活向上、地元の繁栄があるんじゃないんですか。球磨川が、ぼう大な観光資源を生むことに政治にたずさわるエライ人が気づかない訳はないでしょう。住民のアンケ−トだって過半数の人が、この地方の発展のための項目に観光とこたえてるんですよ。巨大ダムが球磨川をダメにしたら、知事も市長も村長も、この地方の人々から未来永劫、永久に恨まれますよ」
釣り人側は、そろそろ球磨焼酎の酔いが効きはじめる。
「うるさい。いつまでやっとる!」
「大鮎の自慢話ばしに来とるんぞ」
「ダム造り続けるなら頭ばかち割ってやる」
「退職のときのパンチで、上司は鼻曲がりになっとるたい」
かなり全員がイラ立ち殺気だっている。
「静かに! ガタガタいわんでください。こんなくだらない場面を全国の人に見せられません。さあ、続けて!」
ヒゲの佐宗が応じる。カメラ慣れしてるのは本職だからだ。
「この川も、六木ダムが完成すれば、水量が激減するから鮎の成育に必要な川藻の繁茂もダメだし、水質の悪化は目に見えている。このまま、あんたら役人の思うがままにさせとけば、球磨川の大鮎なんて遠い伝説になろうし、この川もいずれドブ臭い川に変貌するって結論だな。ま、ダムが完成すればの話ばい」
「ダムは完成させてみせる」
「まあ、名刺には肩書もないし責任者じゃないんですから」
守田がまとめに入る。
「これで球磨川の清流は、何兆円もの球磨の財産であることがお分かりと思います。建設省のダム建設基本構想では、余剰になる電力供給以上に、洪水防止と利水事業の推進を掲げていますが、利水も利なく、洪水への不安も消えないどころか、むしろ大災害を招く要因にも成り得ることも判明しました。
完成予定の平成二十年までに、巨大ダムのために犠牲になる六木村ですが、家屋四百九十三戸、居住区のほとんどが、三・九一平方キロメ−トルという広大な表面積のダムに沈みます。こんなことのためにバブル以前から続行中とはいえ、財政赤字の今日、二千六百億円を投じる価値があるのでしょうか? その反面、一時的にしろ
地域振興、地元の活性化、過疎地の近代化などに役立つという説も一理あります。これが前代未聞の愚策か善政であるかは、テレビをご覧の皆さまの判断にお任せします。大鮎で知られる熊本県球磨郡一勝地八千洞下の鮎宿カワウチで、鮎解禁を明日に控えた皆さまにおうかがいしました」
スッキリしない顔で、守田がマイクを置いた。
「鮎の話はどうなる! ワシらのギャラは?」
田神が守田の首をつかむ。
「く、苦しい。手を放せ!」
守田がマイクを握り直して反撃する。
ADが守田に加勢して、田神の頭を殴り、台本が破れ散る。
台本通りに進行しないから、ADもヤケになっていた。
「さあ、再開して鮎の話題に入りましょうや」
冷静な塚木が、守田と田神、ついでにADに蹴りを入れる。
「こうなりゃ、とことんやるぞ。カメラまわせ」
「台本がない」 守田の指示にADがボヤく。
「そんなのいらん。解禁前日の皆さま、お待たせしました」
守田が笑顔で全員の顔を見まわし、顔を曇らせた。
テ−ブルに突っ伏しているのは山口の吉江名人で、テ−ブルの下で寝ているのは、この家のアルジらしい。イビキが聞こえる。
佐宗までが得意の居眠りを始めた。
「明日は解禁じゃ。さあ飲め」
「それは番組の話ばい。本当の解禁は五日後じゃぞ」
塚木名人が一升ビンを持ち上げ、河原が湯飲み茶碗を出す。
田神が自己陶酔のおもむきで、演歌を歌いはじめた。
怒った守田が、テ−ブルを叩くと皿がとび醤油が顔に跳ねた。
それを、まじめなADの指示で、カメラが忠実に追っている。
甲斐と光男は立ち上がり、呆れ顔の母娘に挨拶して脱出した。
ふと、光男の視線に壁の大鮎の魚拓が入った。前に来たときは気付かなったが三十二センチ、釣り人、T・KAIとある。

 

七 解禁日

肌寒い月曜日の朝、遅刻気味の光男は役所に急いでいた。
自転車で橋を渡りながら球磨川を眺めると、平日なのにどこからこんなに人が湧いてくるのか。上流下流、左岸右岸と十メ−トルぐらいの間隔で、釣り人が長い竿を出しているのが見える。
あちこちで歓喜や狂喜の声が上がるが、興味がないのと急いでいるので振り向く気にもならない。どこが面白いのか。
役場に着くと、先に出勤していた工藤課長の機嫌がわるい。
挨拶だけして、自分のデスクに向かうと、前の席の月岡係長が「無断欠勤じゃ」と、光男の隣りの甲斐の机をあごで指した。
「まだ時間前なのに、なんで、分かるんですか?」
月岡が、剣道の手つきで両手の拳を重ねて頭上に上げた。
「鮎ですか?」
「月曜休むなと課長に言われとったが、解禁日じゃ仕方なか」
鮎宿で見た魚拓の横文字のサインが、頭に浮かぶ。
「甲斐さんは、鮎釣りをやるのにダム派なんですか?」
「大事な会議んときは外まわりさせちょる」
工藤が外線からの電話に出て、言い合っている。
電話を切って、陰気な顔で光男に近づいて来る。
「新入り! いま、KNHからや。ヒラであれだけの演説はできんと甲斐の肩書をば聞いてな、新人が一緒にいたというちょるが、お前にきまっとる。あいつ、許可もなくなにを喋ったとか?」
「ダムの必要性を、分かりやすく説明してました」
「勉強もせんで説明できん。変なこと喋られとったら大変なことになる。役所の車で探して来い!」
「どこにいます?」
「どこに? 球磨川に決まっとるたい」
「全長百十五キロもありますが……」
「竿出しとるのを探せばいいんじゃ。霧島も手伝ったれ」
言い捨てた工藤が、月岡を見た。
「どうだ。六木村からの報告は?」
「例の反対分子グル−プの一人に、補償金は一オクとか呟いたら、腰を抜かして仮立ち退き約定書に印を押したそうです」
「口の中で、補償金は一応九だって呟いたんだな。九万でも九千万でも九のつく金額を払ってやればいい。予算はあるんだ」
「あのボロ家と茶畑じゃ九十万でも買い手はないです」
「多分、補償金は一律に、一億という噂が伝わって、間違いなく全員コロぶぞ。あとは、裁判で言った言わないの争いだな」
光男は霧島景子と連れ立って、二階の大部屋を出た。
「補償金一億なんて、正気の沙汰じゃないな?」
「でも、六木村には前から一律一億円って噂が出てるのよ」
光男の運転で、人美市役所と名入りのライトバンが駐車場を出ると、助手席の景子が球磨川漁協発行の鮎マップを広げた。役所の制服から伸びた白い手がまぶしい。形のいい胸も気になる。
役所に来て二カ月、景子を日一日と好きになる自分が苦しくて切なかった。若さからただ女が欲しいだけか、とも思ってみた。
引っ越して十日ほどたった夜、アパ−トのどの女性か分からず仕舞いだが、鍵を閉め忘れた夜部屋に忍び込まれて「声をださないで」と言われ、思うがままに遊ばれた逆夜這いの経験もある。夢かうつつか気まぐれな訪問客のために、鍵は開けてある。
どうも、そんな次元と違う純な感情に光男の心は揺れていた。
光男の頭の中に、花嫁姿の景子が浮かんでは消えた。女性との交際が苦手な光男は、景子が光男を嫌っていないのが感じられるだけでも嬉しかった。
「どこかオトリ屋を探しましょ。道具を預けとるはずよ」
「テレビ取材のあったカワウチかな?」
「八千洞駅下の鮎宿ね?」
二一九号の織月大橋を渡ると川には釣り人が群れていた。
岩の上から漫然と竿を出しているのや、首まで流れに浸かって弓なりの竿に引かれて溺れかかっている者もいる。
相良橋を越えて山道に入ると、渓相が険しくなり瀬にしぶく白波が流れの速さと岩盤の起伏を物語っている。
一勝地の橋から南岸に渡り曲がりくねった狭い山道を走るが、駐車している車が多くて、対向車とすれ違うのに往生する。
車のナンバ−プレ−トを覗くと、九州、四国、中国地方は当然として、秋田、長野、山梨、栃木、東京、千葉、札幌など全国各地から釣り人が来ているのが分かる。東京からでも千数百キロ近い距離を走って球磨川に来る釣り人の車が山道の渋滞を招いている。
こうしてたどり着いた鮎宿だったが、カワウチの前には、オトリを求める釣り人が並んでいて、店内にも人が群れていた。
車を降りた光男が、店内を覗くと娘の陽子が怒鳴った。
「今日は、予約以外はお断り!」
「役所の甲斐さんを探してるんですが……」
「あん時の新入りさん? トシさんは佐宗さんと、山辺川で竿を出すって言うてたわよ」
「どの辺りか知ってますか?」
「山辺川の下からだと、柳瀬橋の下流、白木谷川の合流点、柏川の流れ込み、あとは第一発電所の下と上ね」
「ありがとう、この前のお昼、美味しかったです」
「嬉しいこというね。お握りセットば持ってくかね?」
「じゃ、二人分……」
「トシさんは、持ってっとるよ」
「いや、役所の先輩が一緒なんです。いくら?」
「今、忙しいからトシさんに付けとく……、ハイ、二つ」
陽子が店先に停めた役所のバンを覗いて、景子が手を振るのに合わせて軽く手を上げ、捨てぜりふを投げて厨房に去った。
「あの霧島の娘、じき嫁さんばい」
「そんなんじゃないよ」
心の内を見透かされたように、顔を赤らめて車に戻った光男は、まともに景子の顔を見ることが出来なかった。
頭の中で、光男の花婿、景子の花嫁がツルんでいる。
渋滞で市内に戻るだけでも、そこからの移動が一苦労だった。
市内から農道に入って柳瀬橋周辺を探したが、甲斐はいない。
天候が崩れて、雨が少し落ちて来た。
国道四四五号線に入って北上すると、夫婦橋、相良橋があって、川には釣り人が大勢いるが、甲斐もヒゲの佐宗もいない。
なにやら雲行きが怪しくなっていて、小雨がパラついている。

 

八 山辺川

土手道の路肩に傾いて、甲斐の汚れた四駆が停まっていた。
白木谷川との合流点で腰までを水中に浸けた二人がいた。
車の窓から眺めていると、甲斐と佐宗が立て続けに鮎を掛け、笑顔でののしりあっている。鮎宿カワウチで激しくやり合った二人とはとても思えない。景子が、その心を見透かした。
「あの二人は、イトコなのよ」
雨が本降りになりそうな気配で、川にも雨音が響いている。
「まだ、工事現場が崩れなければいいわね……」
「まだって?」
「六木村のダム現場周辺の山岳部の地質は、地質学的にみても危険で、一億三千万トンもの重量の水を支えるダムなど夢のまた夢、いつ崩れてもおかしくないと、地質学の権威でダム研究家の九州熊大の杉本名誉教授が警鐘を鳴らしてるのよ」
「なぜ、二千六百億円もかけて、危険を承知でダムを?」
「利権よ。この地方の権力者は欲で目がくらんで、利権の奪い合いをやってるのよ。ダム建設に関わることで巨額の富を得ている人も沢山いるし、お互いに私腹を肥やしてるから、後には引けない。
相良藩七百年の歴史にも、こんなチャンスはなかったから」
「利権か?」
「いまは十一万の人口だけど、小さな二万石の相良藩が、南の島津七十七万石、北の細川五十四万石という強大な国に囲まれて、外から侵略されずに七百年も生き延びたのは、いつも時の権力者側に寝返って外からの侵略を防ぎ、内部からの反逆を防ぐために藩内の有力者を、個人ではなく一族をみな殺しに滅ぼして、実力者の台頭を防いだからなのよ。
わたしの祖先の犬童一族も、関が原や島原の乱で功があって相良姓を許されていたのに、おしも屋敷というところで、謀叛の疑いありとされて男女百二十一人が皆殺しにされたの。その、わずかな生き残りが、こうして私に復讐の血を残したとです……」
「なにで復讐する?」
「ダムを利用します」
「それが、なぜ復讐になるんだ?」
「わたしの祖先の一族を絶やしたその殺りく者の子孫は、いまでも市の中枢にいてのうのうと利権をむさぼりおります。町の有力者はほとんど彼らの子孫の縁者です」
「だから?」
「この巨大ダムが完成すれば、いずれ崩壊して、相良一族の築いた一世紀に近い栄華は、一瞬のうちに濁流に呑まれて消えます」
「まさか……」
「わたしの一族は、ダムの完成を待ち続けとるとです」
佐宗が二人に気づいて、竿を引き岸近くにオトリを休ませ車に向かって大声で叫ぶ。
「おう。式の前から間男とドライブか?」
光男がムッとして佐宗を睨む、品がなさすぎるし景子に対しても失礼だ。だが、その景子は意にも介せず笑顔で応じている。
「課長の指示で、甲斐を呼びに来たの」
これも変だ。先輩を呼び捨てとは慣れ慣れしい。
佐宗が、振り向いて怒鳴った。甲斐が竿を立てて耐えている。
「トシ。上がって来い。無断欠勤はダメだと!」
「明日出勤する。この筋の石にいい鮎が付いとるんだ」
「クビになったら元も子もない。嫁さんが困るじゃろ」
「仕方なか、深水。ちょっとここえ来なっせ!」
光男が雨を気にしながら水際まで行くと、甲斐が言う。
「取り込みは、オトリ鮎の鼻先十センチの太い糸を摘んで一気に掛かった鮎と一緒に持ち上げ、さっとタモの中に落としこむ。な、網の中でおとなしくしとるじゃろ」
まるで興味のない光男の前で、甲斐が真剣に説明しながらオトリ鮎を背肩に打ち込んだ棒カンから外して引き舟に入れ、網の中で暴れている金色の円形マ−クを胸にもつ黄味がかった二十五センチほどの鮎を網から出し、背肩にその棒カンを打ち込み、尻ビレにもハリを掛けると、水中で放し、竿を光男に手渡した。
「トウシロじゃで、棒カンを刺すときは網の中でやるんぞ。あとは、糸をたるませず緩めずたい。鮎は勝手に沖に泳いで仲間を掛けてくる。まだデカいのはおらんから軽く上げられる。ズボンは濡れるが、皮靴は滑るから脱いで入りや」
竿を渡された光男がキョトンとして、糸の先の川底を見ると、水底を三本イカリを引いた鮎が流心に向かって泳ぐのが見える。
「これ、どうするんだ?」
「ただ持っとればいい。ほら、引き舟をベルトに……」
ズボンのまま水に入った光男の腰に、引き舟の金具と手網をはさみ、さっさと水から上がり、ヒゲの佐宗を見た。
「良一。深水を頼む。用が済んだらすぐ早退して来るからな」
ウエ−ダ−を脱ぎ、パンツ姿で着替えのある車に向かう。
景子と甲斐、二台の車が去ってからが苦戦の連続だった。鮎が掛かった瞬間の衝撃で足が滑って水中に倒れる、掛け鮎をバラす、オトリに使おうとした野鮎は逃がす、糸は切る、というありさま。
竿をたたんで指導してくれた佐宗のおかげで、光男は興奮しながら五尾を得た。ただ、水が冷たく骨が凍るほど寒い。
雨が激しくなって釣りどころではない。濁りも出て来た。
やはり鮎釣りなどは嫌いだ、好きになる理由などない。
「釣りは中止じゃ。車もないし、橋の下で雨やどりするばい」
あわてて道具を片付けてずっしりと重い鮎缶を担いで、歩きやすい土手道を歩き、すぐ下流に見える橋まで移動する。
「本当は石の川だから雨でも濁らんのが、いまは工事現場の土砂が流れ込むでな」
細い道にかかる橋柱に、ふかみばし、と彫られている。
「ふかみばし?」
「ほら、あの深い竹ヤブが一族の墓たい。この先の村落でワシのご先祖さまも深水館を囲んで住んでおった。分家じゃからな」
「分家って、どこの?」
慣れた足取りで、佐宗がさっさと橋際の土手を降りる。
周囲の雨にけぶるのか、橋の下がもやっている。水が近い。
橋の下には、半纏に紺の細はかま長髪の老人と、農作業に出たままの風袋の老人がいて、顔をクシャクシャにさせて嬉しげに二人を迎えた。焚き火が橋裏を焦がして炎を上げ、くし刺しの鮎が焼けていい匂いを漂わせている。
ヒゲの佐宗が、半纏の老人の肩を叩く。
「竹下の勘ジイ。どうじゃ?」
「ダメだ。六助とも話してただが、この川もお終えだな」
勘ジイが、ジャ−から熱い酒を茶碗に注ぎ二人に振る舞う。
「相変わらず勘ジイは、焼酎を生の熱燗でやっとるのか?」
「こんな旨えもの、薄めて飲むなら死んだ方がましよ」
酔いがまわり寒さも消えた。
カワウチ特製のにぎり飯を食べ、満腹すると外の雨も気にならない。光男は睡魔に勝てず、横になった。じつに快い。
この老人たちは光男の名すら聞かない。関心がないのか。
今日も夢を見た。いつもの新妻の景子を抱く夢だ。鮎の夢など見たくても……いや、見たくもない。
「さ、光男さま、ごゆるりと、おやすみなされ」
その声を、熟睡しているはずの光男の耳が捉えている。
なんだ、オレの名を知ってるのか?
六助がゴザを広げ、勘ジイが光男を抱えて、そこに移した。
どこから現れたのか、焚き火を囲む人数が増えている。
「さあ、そろそろ本題に入ろうか……」
ヒゲの佐宗良一が、座を見渡して口を開いた。
「一族の墓の竹ヤブが、上流のダム工事のとばっちりで移転させられることになった。ご異存は?」
「なにが異存じゃ。四百年も安らかに眠っておるというに」
「されば……」と、勘ジイこと竹下勘兵が低い声で応じた。
「今を去る四百有余年の天正十五年春、九州討伐の羽柴秀吉と、島津に加担して戦った相良軍は、敗走して逃げ帰った。
強大な秀吉軍に球磨一帯が荒らされるとみた、我らが主家の深水宗方(ふかみむねかた)さまは、藩主のお命ごいに、八代に布陣した秀吉に、島津軍に逆らえず戦陣に加わったが本意にあらず、わが一命を差し出すゆえに相良藩の安堵を、と願い出たのじゃ。
この戦いで、長男を失いながらも主を思い命を惜しまぬ宗方さまの忠誠心に心うたれた秀吉は、藩主相良頼房(さがらよりふさ)の切腹、相良藩の解体、重臣一族死罪の命をとりやめ、相良藩に旧領安堵を約束した。
藩主は、宗方さまの功績に恩義を感じ藩の執政を任せられた。
宗方さまは、補佐役に犬童頼兄(いんどうよりもり)を選び、戦費で底をついた藩の財政再建に力を合わせ、この二家は、互いに一族の力を結集して競いながら相良藩に重きを成した。
ま、ここまでは順当じゃった。じゃが、この二家の繁栄を喜ばない人がいる。それが、誰あろう、藩主じゃった。
藩主の耳に、深水一族でわが家の祖先の竹下献物が、犬童家に刃向かうかのようなざん言が届き、藩主はまず深水一族の取り潰しを画策した。
藩主は、病床に伏して朝鮮出兵が不能になった竹下一族の者の領地を没収し、深水方には、犬童頼兄の策との噂を流した。
その噂を信じて湯前の城に立て籠もった六百人のわが深水一族を、犬童一族を中心とする藩の軍勢が包んで攻め滅ぼした。途中経過は省くが、深水一族はほぼせん滅されて歴史から消えたのじゃ。
しかし、この戦いに勝った犬童一族も、やがて謀叛の疑いありとされ、頼兄の下屋敷に集結した百二十余人がみな殺しにあって消滅、頼兄は津軽藩預かりで死亡、その怨念もいかばかりであろうと、我らが祖の仇敵でありながらも、同情を禁じ得ない……。藩主の仕打ちはまるで鬼じゃともいわれた」
質問が出た。水位が上がって足元を濡らしている。
「なんで、そげな話ば持ち出したとか?」
「再び、犬童と結び、ダムを利用して積年の恨みを晴らす」
佐宗の発言に反発して、怒りと恨みに震える声が低く続く。
次々に、「そのために、我らの恨みを捨てるとか」「この身に刃を入れし犬童と和解せよと言われるのか」「腕がない」「首が裂けたままだ」「目が飛び出ている」「下半身が燃え落ちた屋敷の下になって砕け散った」「まだ、怨念で魂魄がさまよい続けている」「永国寺の幽霊の掛け軸にもぐり込んどるのも辛いものだ」と、聞く
に耐えない怨嗟の苦しい呻きが続き、犬童一族への怒りの声が怨念となって雨音を圧して響く。光男も胸の苦しさにもがいた。
「やかましい!」
怒った勘ジイが、半纏を脱いだらしい。
「おう……」という驚きと嘆きが聞こえる。
「見ろ。この肩、腹、手に達した十余の刀傷を! ワシと六助とて、全身傷だらけで死んだ身じゃ。この機会を待ちつづけて何度生まれ変わったことか。その度に、身体中傷だらけで生まれた鬼っ子だとか、ワシはいい。六助なんぞ毎回片手片足が短いまま生まれて、いつも苛められて暮らしてきとる。この苦しみが分かるか!」
「わるかった。二人には辛い役を押しつけた。すまん」
「この謀りごとを、本家のご当主はご承知なのか?」
「宗一さまには、十月、二月と来て頂いて、この館で相談した。ここに休んでいらっしゃる光男さまをお連れされた三月にも、冷凍だが、いずれ食せなくなる山辺川の鮎を食し堪能されて帰られた」
「そこまで決まっとるなら異論は言えん。なあ皆の衆」
「これで決まった。勘兵どの、策と役割りを話しとくれ」
「待て。光男さまを起こさんでもいいのか?」
「いい。聞かせたくないこともあるでな。六助がちと強い球磨酒を効かせとる。目が覚めりゃあ少しは聞こえるが、仕方ない。聞いても聞かなくても結果は同じことじゃ」
「なにか、役がありなさるのか?」
「一番、大事な役をお願いする」
「それなら安心ばした。さあ、始めてくれ」
「ここからは、分家筆頭の良一の出番だ。さ、話しなされ」
「ご当主宗一さまは、いま、着々と国政に出られる準備をしてなさる。いずれ、今まで、一部の特権階級が吸い取っていた大型公共事業の甘い汁もなくなり、この地方のうす汚いダムも取り壊す法案も、通過するじゃろう。ダムのない美しい球磨が戻れば、いずれ日本中、いや、世界中からダムが消えてゆくのは間違いない、そのため
の情報集めに、ご当主の叔父は、水資源開発研究所を築かれた」
「ここにダムが出来れば、そんなのは大風呂敷で終わりだ」
「ワシらは例年、大勢の仲間の協力を得て、山辺川と球磨川の源流の水を不知火海までリレ−して、自然の大切さを訴え続けた結果、賛同者、支援者は飛躍的に増え続けとる。じゃが、建設省をはじめ市や村の役所、この頃は保証金に目が眩んだ村人まで、口も耳も閉ざして逃げるばかりじゃ。そこで、戦略を転換した」
「なんじゃ、良一まで裏切るとか?」
「じつは、犬童もはじめは、ダム反対じゃった。だが、一族の霧島が、本家筋の娘を養女にして市役所の土木建築課に入れ、情報収集を始めた。その結果、ここは、欠陥ダムで必ず決壊するという結論が出て、犬童一族は共に死ぬる覚悟で賛成派にまわったのじゃ」
「どのぐらい先の話じゃ?」
「ワシは、何代でも生まれ変わって、このダムの決壊を見届けたろうと思ったが、心配が二つあって作戦を変えた」
「なんだ、それは?」
「一つは、ヒゲのまま生まれて、母親が卒倒すること……」
「医者だって卒倒する。いま、一つは?」
「腹ん中にいるうちに、ダムが壊れることじゃ」
「そんな簡単に壊れるもんか……」
「一億三千万トンの重量を何百年も持ち応える地質じゃなかことは、関係者全員、推進派の学者も分かっとる。
彼らは、配当だけ得て自分たちの生きとる時代さえ保てばいいと思うとる。いずれ、ダム決壊でこの球磨川流域は濁流に呑まれて壊滅する」
「その前に、行政にも地元にもダムがなかっと、こう繁栄ばするちゅう手本ば見せてやることは出来んかのう?」
「それも考えた。みすみす犬童の案で動くのも口惜しい。六木ダムを造らせん手段があれば一番じゃが、二千六百億をかけるダムの利権を捨てさせるのは容易でない」
「完成後、水を抜いてから破壊する案はどうじゃ? 洪水もないし。またゼネコンと政治屋に稼がすのはシャクの種じゃがな」
「じつは、どの案も生かせる最善の手を考えとる」
「早う、それを言え」
「その全てが出来る最高の政治家を、まず市長にする」
「どういうことだ?」
「相良藩七百年の歴史上、最高の軍師はだれだ?」
「決まっとるじゃろ。深水宗方さま以外にはおらん」
「つぎは誰じゃ?」
「敵ながら悔しいが、宗方さまの補佐役だった犬童頼兄か?」
「この両家を結ばせて子を生ませ、その成長を待って、球磨地方、さらには熊本県を治めさせ、五十年以内に全ダムを撤廃させる。これなら被害は出ん。万が一、志ならぬときは止むを得ん、そん時は、一連託生、鬼になり、皆の子孫も運命を共にしてもらう」
「それで誰じゃ。その男と女は?」
「仇敵、犬童本家の血筋が、市役所に努めている霧島景子じゃ」
「こっちは、この光男さまか?」
神経を集中している光男の血が、心臓に逆流してくる。大事な役割りはこれだったのか。この地に就職させた兄の意図にも納得がいくし、先刻までの妙な会話の謎も解ける。歓喜の心が湧く。
信心などない光男も、今だけは心から運命の女神に感謝した。
だが、これが夢だったらどうしよう。それだけが心配になる。
周囲を見たいが、どうしても目が開かない。
美しい花嫁、そのあとに続く幸せを、夢で終わらせたくない。
光男はもがいた。まだ、身体が自由にならない……。
このままでは、雨で増水した山辺川の水に洗われる。

 

九 球磨川へ

佐宗良一が、声をひそめた。
「本当は、このワシが望んだ役じゃった。左宗のソウの字は、分家になったときに宗方さまの一字を頂いたそうじゃ。あの娘はいい。
早まって所帯を持ったことが悔やまれるわい」
「往生ぎわのわるいことよ。光男さまに礼を失しておらんか?」
光男は呻いた。ヒゲの佐宗にもそんな野心があったのか。
六木村の川原で、景子と親し気に話していた佐宗の楽し気な笑顔が気になる。もう、美しい花はオレのものだ。だが……。
橋にしぶく雨音で、佐宗の声が切れ切れになって聞こえる。
「犬童から嫁を娶るのはな、光男さまじゃなか。深水家の分家筋にあたるトシじゃ。前から婚約は決まっておる。トシ以外にはあの娘に太刀打ちばできん」
衝撃的な一言に光男は耳を疑い、気が動転した。こんな冷たい現実があってたまるものか……。やはり夢だ、夢なのだ。
静かな沈黙の後で低い勘ジイの声が、救いとなって聞こえる。
「光男さまでは、何故、いかんのじゃ?」
この質問こそ光男の望むところだ。まだ希望はある。
「もっと大切な役割りをお願いすると言うたじゃろが……」
「その役割りちゅうのは?」
「日本中に、ダム建設が愚策だと知らせる。どうすればいい?」
「球磨川が、いかに大切かをアピ−ルする手かのう?」
「球磨川が日本一有名なのは、大鮎だ。河口から運んだ天然の稚鮎が、水温の高い水量の多い激流で豊富な藻を食んで育ち、釣り人の夢を満たす。近隣の他の河川でも大鮎は育つ、しかし、山辺川の清流が残り、球磨川流域のダムが無くなれば、球磨川流域の大鮎の味に勝るものはない。
美味で川臭くない三百グラム以上もある球磨川の尺鮎を日本中の食卓に提供し、関サバ以上の高級ブランド品に育てる。そのために解禁日を遅らせる。そうなれば全ダムを撤廃して球磨川流域本支流数百キロの範囲を漁場にし、数千万尾の稚魚を放流し、八千円の年券、二千円の日釣り券で郡上鮎並の買い上げシステムを完成すれば、交通、宿泊、温泉、飲食、オトリ鮎、入漁料、用具、川下り、観光などで、漁協、村、郡、市、県で推定、年間数兆円の経済効果が見込まれ球磨川は宝の川になる。その利権と繁栄を、いずれ行政の長となる我が一族の血縁につなぐ……」
「その前の布石か? ダムが出来ても出来なくても球磨川の鮎は永遠に語りつがれ、日本中の釣りファンを球磨川に呼ぶ……」
「分かってくれたか。ワシと勘ジイが光男さまのお供をする」
「なにをする?」
「不びんだが一族のため、大鮎になっていただく」
光男は息を呑んだ。甲斐は花婿で自分は鮎、鬼は身内にいた。
「ワシらが釣り人の手元で姿を見せれば、この季節にも球磨川には大鮎がいる、と、全国に話題が広まる。効果はすぐ出るぞ」
「万が一に、もし、ハリ掛かりしたらどうする?」
「網だって軽く食い破れる、まして糸なんか……」
「光男さまは、どうなる?」
「安心しろ、ワシらがお守りして不死身の主になっていただく」
「球磨川の主か……」
「悪かろうはずがない。これも一国一城ではないか」
悪い。なにが一国一城だ。
「それもそうじゃ。住めば都、また喜びもあろう。さらば……、我らは竹ヤブに戻り、しばし、太平の夢をむさぼる」
なにがさらばだ。オレの青春はどうなる。鮎なんか嫌だ。夢が覚めたら片っ端から石で殴り殺してやる。
だが、景子を失った自分になにが残る。生きていても仕方ない。
川に身を投げて死ぬ……ならば、鮎でも同じ理屈になるのか?
そこからが気になる。激しい戦闘の喧騒が響きわたる。
妙な夢だった。目がうすく開いたのか、おぼろげに周囲の光景が見える。焼け落ちた屋敷で火花を散らして触れ合う剣槍の金属音と断末魔の悲鳴、組み打ち争う甲冑姿、傷つき呻く人、死体……。
景色がおぼろげなのは、水中からそれを見たからだった。
水際で、六助らが手を振っている。夢にしても手が込んでる。
「ごきげんよう……」
目の前の大鮎が大きく背ビレを振る。光男もそれを真似た。
水面がぼやけて水中から続く周囲の景色が変わった。水際の石、土手の緑が目にやさしい。光男は開きなおった。これは夢だ。
夢なら恐れるものなどない。ナマズよりはまだ鮎がいい。
土手道で四駆が停まり、窓から周囲を見た甲斐が叫ぶ。
「良一、深水。どこにいる!?」
未練はあるが、吠えない負け犬だっている。勝手にしろ。
先を行く重量感のある佐宗の大鮎は、戦闘的な顔つきで黄金に胸を染め、鮎には珍しくヒゲがある。光男に先を譲って後部を泳ぐ勘ジイ鮎は、年越しの鮎のように皮膚が黒ずみ深い傷跡が紋様のように縦横に走って貫祿がある。残念だが自分の姿は見えない。
三体の大鮎は、物見遊山の旅にでも出るかのように、深みを探りながらのんびりと流れに乗って山辺川と球磨川の合流点に出た。
石に群がる鮎が逃げ惑う。中にはオトリが背負う掛けバリに間違って哀れにも衝突し、自殺行為で水面に引かれて行く鮎もいる。
湯前線の鉄橋をくぐると川幅が広がる。
山辺川下流にも多かったが、釣り人の数はかなり増えている。
流れのゆるやかな淵にさしかかったとき、オトリの少し上の錘を石に噛まれた釣り人が水中に潜って、三体の大鮎を見て驚き、思わず竿を立てて糸を切り、水を呑んで岸に叫んだ。
「大鮎が群れとるぞ! その岩の裏側にまわったが」
釣り人の間で、時ならぬ騒ぎが起こった。
例年、解禁初日での大物は、せいぜい二十五、大物でも二十八センチ、それが、目の前に尺をゆうに超す大鮎が群泳するとなると、釣り人の目の色が変わるのも無理はない。
四方八方から、胸までも流れに浸けて竿を出すが、その時はすでに、三体の大鮎は、かなり下流を遊泳していた。
勘ジイが二人に合図して、わざとハリ掛かりしてオトリに付いて浮き、チラッと姿を見せて軽く糸を切って川底に戻った。
大鮎の姿を見て水中で倒れ大石で頭を打った男が、蒼い顔で口をパクパク震わせ両手を広げて、仲間に逃げた獲物の大きさを示しているが、実際に見た鮎の倍はある。これが釣り人の常識なのだ。このビッグニュ−スは、下流に伝言ゲ−ムのように伝わる。大鮎
がまだ市役所脇の水の手橋を潜った時点で、二十キロ下の一勝地周辺までも、大鮎が群れて下っている、と伝えられていた。
KNHの守田ディレクタ−は、鮎宿カワウチにいてこのニュ−スを聞いた。球磨川の解禁初日の風景と、鮎宿のアルジの提案で、栃木の菊知、山口の吉江、地元の塚木の三名人対決という余興も撮り終えて、あとは夕刻に釣り客の戦果を撮るだけだ。
そこに、「大鮎の大群が遊泳し下流に向かっている」という、ビッグニュ−スが飛び込んだ。三名人は川のどこかにいる。
二階で昼寝中のADやスタッフを叩き起こして飛び出す。
「ワシも行くぞ」
カワウチのアルジの声など耳にも入らない。
まず、三名人の一人でも捕まえて、大鮎と対決させるのだ。
塚木昭二は、そのニュ−スを一勝地の二俣の瀬で聞いた。
JRを退職して以来、知人が営む熊本市内の釣り具店に相談役として所属し、頼まれれば海や川に出て実地で釣り技を指導したりしていた。球磨川は、川底の石まで熟知している。この日は、解禁初日の球磨川を訪れた旧知の会社役員にアドバイスをしていた。
魚体の表面が傷つき黒くサビている七十センチ鮎を掛けた釣り人がいて、逃げた大鮎が群れて下っていると聞く。とっさに年越しの鮎と判断し、話半分の三十五センチとして仕掛けを考える。
温泉の多い地方だけに、温泉の湯が滲んで水温が高い淵があったりする。そこに、餌場を見つけた鮎が棲みついて冬を越す。
おだやかに過ごして餌場に解禁に群れた釣り人が殺到したので、驚いて動いた。落ち鮎だから当然、川を降下するしかない。
越冬鮎には興味がないが、解禁当日に大鮎を掛けると、一年を通じて釣果だけでなく、公私共好調が持続できるというジンクスが続いていて、この機会を逃がす手はない。
ただ、釣人の虚言癖から大群の情報も、真実は数尾とみた。
塚木は時計を見て、竿をたたみ、慎重に選んだ三尾の鮎をブク缶に移し、掛けた数十尾の鮎を惜しげもなく同行者に進呈して車に急いだ。大鮎を迎え討つためにに上流に向かう。
仕掛けも太めに変え、オトリ鮎を休めて闘争心を高めておく。
塚木は落ち鮎の速度からみて、夕方の餌場は沖鶴橋下流の熊太郎瀬の下、ワタリとみて待ち伏せが最善と判断したのだ。

 

十 対決

上流の人の動き叫び声で、大鮎が熊太郎の瀬に入ったのを塚木は知った。緊張して目印を睨み「へいじょうしん」と呟く。
すでに、その周辺にいた鮎は、運んで来たオトリを酷使し三番鮎までを掛けまくって排除し、この場所で掛けた黄金マ−クぎんぎんの一番鮎を、その大石裏に戻してある。活性のいい二十八センチの鮎が、彼らの通る川底の道筋で悠然と遊んでいる。
雨は小降りだった。
球磨川鮎の名手・塚木の鮎に対する哲学は、「はやる心を抑え、あせりをコントロ−ルし、平常心で野鮎に立ち向かう」にある。
塚木は、岩陰に身を隠すように腰までを流れに入れ、この闘志満々のオトリ鮎を襲う無法者のいないことを祈って、竿を張り気味に錘を効かせて立ててチャンスを待った。
二十メ−トルほど上流で、興奮しながら竿を出していた顔見知りの釣り人が声を上げた。穂先が大きく揺れ、かなり形のいいオトリが大鮎に脅されて逃げまどったのか水面に跳ねた。この瞬間、塚木は、自分の判断が甘かったのを悟った。
相手が、冬をやっと越して精力も失せた図体だけが大きい落ち鮎なら、竿でためて十メ−トルほど下がれば取り込める。
だが、この鮎は、とてつもなく果敢な闘争心をもつ巨大な鮎で、なにか目的を抱いて下降しているのだ。それでなければ、チビ鮎でも尺鮎に体当たりするどう猛な本性をもつ鮎が、恐怖で水面まで跳ぶなど考えられない。
「よしっ、行け!」
穂竿を少し張ってから緩めて送り込むと、五号の錘を引いて元気いっぱいのオトリ鮎が狂ったように動いた。竿がきしみ、糸がフケ、竿を立てると、突然、暴れたオトリ鮎に強烈な当たりが来た。予想以上の衝撃を受けた塚木は、とっさに作戦を変えて猛然と自分から長身の身を流れに乗り入せ、足元を確かめながら跳ねるように下った。性格は短気だが、釣りになると根比べには自信がある。
激流の底では異変が起きていた。
大岩裏にいた縄張り鮎が、三体の大鮎を見たとたん逃げようとして狂ったように暴れ、勘ジイを避けて光男の横腹に体当たりし、引いていた十号のキツネ型三本イカリの内、一本を根元まで深々と一本を背寄りに浅く刺し貫いた。光男は苦し紛れに暴れたが、そのまま強烈に引かれて流れに乗っている。血が流れて糸を引く。
「お−い、塚ちゃんが大鮎を掛けたぞう!」
やっかみとも歓喜とも分からぬ叫びが山々の緑に包まれた球磨川に響き、手網を出して、「お節介するな!」と仲間に殴られる者や、塚木を避けようとして流れに滑って溺れる者もいて、ギャラリ−で崖上の道も岸も埋まる。
この騒ぎにKNHの撮影隊が間にあったのは幸いだった。
「ギャラリ−の表情も撮れ! ライトアップ!」 守田が叫ぶ。
照明が塚木を照らした。水中は流れの波で見えない。
日暮れには寒さも厳しくなる。雨が本降りになり、さすがの塚木にも焦りが出た。一か八か、身体を下流に先行させて竿を肩に入れ、沖へ沖へと逃げる獲物を思い切って岸に寄せる。それが無理で、竿が折れると判断して、また下流に移動し同じ動作を繰り返す。
もはや、平常心などという哲学など、どこにもない。
首まで水中に没して弓なりに竿をためている塚木の雄姿が、くっきりと照明に浮かび、多分、鮎も水面近くまで寄せれば撮れるはずだった。水面にどでかい大鮎が跳躍し、竿が戻った直後、もう一度竿が絞られて、塚木の身体はよろめき、激流に引き込まれた。
一瞬、塚木の目に、川底の石裏にいる三体の大鮎が見えた。オトリ鮎はすでに鼻カンから身切れして姿もない。
どす黒いさめ肌に無数の傷をもつ大鮎が、腹を見せている大鮎の、裂けて広がった傷口に刺さるハリを歯でくわえて必死に抜く。その水中に浮いたハリを自分の背にからげて流れに乗り、深くがっちりとハリ掛かりさせた。塚木の竿を持つ手が強く引かれる。
一体の大鮎が川底から浮き、塚木の顔の下で白い歯を剥いて威嚇した。あるいは挨拶をしたのか。どこかで見た顔だが冗談じゃない、生意気にヒゲなど生やしてる。そんな鮎がいてたまるか。そういえば、横になり傷ついた大鮎の悲壮な目つきにも覚えがある。
塚木は寒さと恐怖に震えて、必死に水を蹴り、さすがに竿を放さず巧みに泳いで岸に泳ぎつく。
塚木は、竿を立て感触を確かめるように、しばらく呼吸を整えていたが、再び竿先が激しく絞り込まれたのを機に、一気に下に走り竿先を上流の岸よりに倒して肩に竿を乗せ、指先で糸を出し入れしながら獲物を寄せて必死で引き上げ、大鮎を手網に収めた。
この一部始終をテレビ局のカメラが収めている。
「いや、お見事!」 拍手と歓声が球磨の山にこだまする。
「塚さん。今年はいいことあるで」
だが、当の塚木の顔色が冴えない。守田が心配する。
「塚木さん。もう一度、撮らせてください」
手網の柄をベルトに挟んで、両手で重そうに持ち上げると、黒っぽい大鮎が暴れ、塚木もそれを待っていたように川に放した。
「あ、逃げた!」
わざとらしく叫んだが、惜しいという感じではない。
「悪かったですねえ、余計なことを言って……」
守田が、申し訳なさそうに頭を下げる。
テ−プを戻してモニタ−を見たADが叫んだ。
「この大鮎、傷だらけです!」

 

十一 あばら屋の一夜

光男は、雨風の音に混じる低い人声で目覚めた。
気がつくと布団の中にいる。頭が重いのは、なにか悪い夢を見ていたせいらしい。それでも、目が覚めているだけマシだった。
あの凄まじい苦痛に襲われた脇腹の痛みがない。見ると裂け傷がなく虫刺され程度の二つのキズがわずかに残っている。
あばら屋が相当古いのか、風で屋根や板カベがギシギシ泣いている上に、杉皮屋根に乗せた石が落ちて、バタついている屋根穴からも雨がしぶいている。川が近いのは水音で分かった。
上半身を布団から出して、ボロふすまの破れ目から隣りの部屋をのぞくと、座卓を囲んで老人が三人、酒を酌み交わしている。
一人は汚れた作業着を着た老人、一人は衿布に文字入りのお遍路さん風の半纏を着ている。もう一人の、よれよれの着物姿がこの宿の主人らしく、時折杖を巧みに使って台所に立つが片足の膝から下がない。まだ、あの暗い戦乱の夢が続いているのか。しかし、今度は完全に正気だから、この三人の会話こそ現実なのだ。
「水は吐いとるから回復するじゃろ。ヒゲはどうした?」
「川にいるもう一人を探しとるが、この雨の闇夜じゃ無理ばい」
「陰気な夜は飲むがよか。いい話はなかかのう?」
「治平さんは、昔、溺れ人を八人も救けとる。明るい話題じゃ」
作業服の老人が、忌ま忌ましげに吐き捨てる。
「旨い酒を飲み残した。あの大水さえなきゃあ、あん日は、雨で土方仕事になんねえから朝っから一人で呑んでたら、大水が出たと半鐘がなって、夢中で何人か川から引きずり上げたが、疲れてしもうた、じゃが、わしを救けに来たもんがおらん。これが腹が立つ」
「そいで酒が未練ちゅうことになるのか。甚兵衛はんは、まっこと、その衿に書いた南無妙法蓮華経の人生じゃ。尺鮎を掛けるのが夢で願をかけ、その姿で尺鮎を掛けちょうとか?」
「岡山から通い詰めて、大鮎を掛けたときはな、もう嬉しゆうて、これで、いつ死んでもいいと思ったら涙が止まらんでしたな」
「九十三歳では、体力もなかったじゃろが?」
「高曽の荒瀬で掛けた鮎に一気に引き込まれて流され、下流の人がやっとワシを助けた。手に持つ竿に尺鮎が付いていた。ただ、自分の手でこの尺鮎を握っておらん。これだけが心残りなんじゃ」
片足が不自由な老人が座り直して二人を見た。
「甚兵衛さんは尺鮎を掛け、治平さんは大勢の人を救けた。ワシだけは命惜しさに情けなや、球磨川で死ねればよかったに……」
「藤吉さんが、大鮎を掛けて数メ−トル下った位置で川底の石に足を挟まれた。抜けないその足をレスキュ−隊が刃物で切って救けたが病院の手前でコト切れた。溺死寸前の処置としてはやむを得なかったと語り継がれている……」
「川で死なせてくれ、と訴えたが聞いてもらえんかった……」
三人三様の未練が、いつ終わるとなく延々と続く。
光男が寒さを感じて、軽いくしゃみをする。三人が振り向いた。
「目が覚めたら、こっちへ来て一緒に飲まんかい」
この不幸は、あの橋の下の球磨焼酎から始まっている。
遠慮したが、吹きっさらしのあばら家の寒さが辛く、思い切って球磨焼酎をのどに流し込んだ。
「旨い!」 一口だけのつもりが、ついかなりの量になる。突然、脇腹とその上部に強烈な痛みが走った。やはり、ハリは肉を裂いていたのだ。光男は呻いて転がった。
三人が立ち上がり凄い形相で光男を睨んだ。刃物が光る。
「小僧! 痛かろう。水を呑み苦悶の中で足を切られて死んだ、このワシの痛みも分かったか!」
「何人もの溺れた人を救けたワシが、疲労で動けなくなって流されたときは誰も救けず見捨てて、ワシの溺死を見送った……」
「尺鮎を掛けて流されたとき、救いに泳ぐのをためらったのが五人いた。遠くから来てたのか、高価な竿やオトリを惜しんだのか、おかげで、自分の尺鮎をこの手で握り損なって死んだのだ」
「こんな川、涸れて滅ろびろ!」
「お前らが、余計なことをして球磨川を生き返らせた!」
「殺してやる!」
三人が一斉に光男に襲いかかると同時に、猛烈な暴風雨があばら家の屋根と板カベを吹きとばし「ハッハッハ……」と、鬼の声か、不気味な笑いが天空に響く。闇の中に光る稲妻が、川原の岩間に倒れた光男を照らし強い雨が無情に叩く。

 

十二 鬼棲む球磨川

翌日、平日にも係わらず未明から球磨川への道路は、どのル−トも大渋滞に見舞われ、八代、人美の警察、熊本県警では交通課だけでなく機動隊のパトカ−も総動員して、交通の安全、球磨川流域の治安にあたった。
関西方面から来た一団が夜明け前、水際に数キロに及ぶロ−プを張り、ショバ代を徴収しはじめて、それを阻む地元漁協や鮎宿カワウチの常連客らと殴り合いをし、地元側の指揮をとったカワウチのアルジが、参考人として警察に呼ばれたとの情報も流れている。ダフ屋の出現など球磨川では前代未聞なのだ。
昨夜遅く、KNHの全国版のテレビニュ−スで「鮎解禁、球磨川の奇跡! 大型鮎が群れ泳ぐ」。これが発端らしい。
ここでは、大鮎と格闘し、ついに勝利した塚木昭二のカッコいい部分だけが編集され、大鮎を手にした名人のアップに、コメントは「腕がよければ釣れます!」 それだけだがこれが効いた。
全国の鮎マニアが殺到した。すべての釣り人が、自分だけは「腕がいい」と心からカン違いしているからだ。
川原に倒れていた光男は、夜明け前に戻って来た佐宗に救われ、市内の救急病院に運びこまれて一命を取り留めた。医師は、もう一時間も遅ければ体温の低下で間違いなく死亡していたという。
こんな恐ろしい土地は嫌だ。東京で仕事を探そう。
「これを見て……」
霧島景子が熊本月日新聞の一面を、ベッドの光男に示した。
タイトルは「これでも球磨川を捨てますか!」となっていて、流れをバックに、大鮎を手にした塚木名人の写真がある。雨とフラッシュの関係で、鮎の黒錆と傷が目立たないのもいい。
ついに地元の県紙が、今までの中立の立場を捨て、ダム反対の旗色を示した記念すべき紙面だった。人美新聞も見習うだろう。
光男にとっては、どうでもいいことだが、これで、自分の役割りは終わったという安堵感と、この土地を早く離れたいという思い、景子を失うことの恐怖、これらが複雑に錯綜する。
佐宗から、光男が危ないと聞かされた景子が、朝から見舞いに来て、付きっきりでベッドの脇を離れない。その真意を図りかねた光男がどさくさに紛れて手を握ったが、嫌がる素振りもない。景子のフェロモンが光男のアドレナリンを噴出させる。
どこからが夢で、どこからが現実なのか。
甲斐が見舞いに来ると、景子は光男を励まして役所に出た。
「今日は、朝から会議室に呼ばれて行ってみると課長以上出席で緊急会議が開かれとってな、鮎の生態を話せだの大鮎が育つ環境について説明せいとかいいよる。面倒やから、塚木はんの名前を出して、工藤課長に八代の塚木さんに電話してもろたら、四カ月間はスケジュ−ルが詰まっとると。マスコミの力はすごかもんじゃ」
実際はそんなものじゃない。
この球磨川騒動のニュ−スを知った県知事が、車を連ねて視察に訪れ、球磨川流域に並んだ日本全国から集まった違法駐車の列、釣り人の数に目を剥き、県下の鮎河川の管理や運営の実態調査を部下に命じたという噂もある。
知事は人見市内をまわった。
川に入る場所がなく温泉旅館で球磨焼酎をあおりドンチャン騒ぎの出遅れ組、超満員のパチンコ、映画、カラオケ、市が経営に関与する一勝地の天然温泉「やませみ」、この活況に仰天した知事は、市長と観光課長に経済効果の詳細な調査を指示し、六木ダム工事の見直しを指示した。
さらに、六木村の北村村長の身辺調査を命じた。トカゲのしっぽ切りには、裏預金の内情も把握しているから都合がいい。
さらには、山辺川の清流にダムを造るなどという愚策を積極的に進めた人美市の土木建築課長の更迭を助言、ただし、建設省への「六木ダム建設中止」の上申を出すための資料作りが完璧に出来るまで課長補佐への格下げではどうか、などと余計な内政干渉の言葉を残して去った。
帰途の車中で含み笑いをし「獲り分はとった。次は逆の手で利権の山を築き掴み取りじゃ」と呟いたと飲み屋で運転手が吐いたが、あまりにも有り得る話だけに話題にもならない。
こうして、ダム撤廃の機運は動いた。
この年の球磨川は、大型台風もなく、六月からはダム工事が中断したこともあって水質も戻り、底石に付いた藻がよかったのか獲れる鮎も美味で育ちもよく、塚木名人の発言と違って、腕はチョボチョボでも尺鮎は釣れた。
当然、腕のいい人は尺アユを四本、五本と持ち帰り、それ以下は鮎宿に卸すことになるが、鮎宿の大型ク−ラ−の収容能力にも限度があるから、それぞれがク−ル宅急便で送ったり、持ち帰ったりし近所に配ったり魚屋に卸したりする。最近、町の魚屋で大きな鮎を見かけるという声も聞くが、白っぽくてぶよぶよしたのは養殖のバ
イオ鮎、黄みがかって背が盛り上がった重量感のあるのが天然の球磨川鮎、肉の締まった味のよさも球磨川鮎の特徴でもあった。
ただ、釣り人を狂わせる憎いヤツがいた。あの塚木名人が釣り上げてリリ−スした肌黒傷だらけの大鮎が球磨川上下流を我がもの顔で遊泳し、釣り人をあざ笑うかのように浅瀬で遊び淵をめぐる。
その、傷の凄さからから、いつしか「前科十犯」と呼ばれ、それが略されて「ジッパン」となった。これが球磨川のヌシだった。
「ジッパン」はときたま、激流で気まぐれにハリ掛かりして釣り人の手元まで姿を見せるが、その重量からして流れに乗られたら友釣りでは絶対に上げようがない。だから、誰も手を出さない。
なお、いままで、球磨川の網に掛かった鮎では三十五センチ、六四〇グラムオ−バ−という傷だらけの凄い大物がいて、これにもあだ名やエピソ−ドがあるが、「ジッパン」には遠くおよばない。
この「ジッパン」を捕獲して剥製にして、球磨川のPRに使う案が中福市長の提案で市議会で了承され、さっそく鮎キチの甲斐が所属する土木建築課主導によるプロジェクトが組まれた。
格下げされた工藤課長代理の指示による甲斐の説得もあり、これまでコトあるごとに強硬に市政に反発していた塚木、川内、佐宗の三人が顧問としてプロジェクトに参加したことで、このイベントは成功の可能性がかなり高まった。
九月に入って、さまざまな方法が試みられた。
投網、刺し網は簡単に食い破られることも分かった。
モリは傷口が大きくなるし、ゴロ引きも「ジッパン」には数多いハリが見えるのか役に立たない。やはり、友釣りになる。
ところが、本気になった「ジッパン」に竿は使えない。超硬硬調でも折れるし仕掛け糸も簡単に切られた。この頃、誰いうとなくジッパン」は、「鬼ジッパン」と、呼ばれて恐れられ、その姿を見ると手を合わせて拝むのが習慣になり、もはや、釣りの対象ではない球磨川のヌシとして親しみ崇拝すべき存在となっていた。それを知
らない塚木たち顧問団でもないはずなのに、彼らは沈黙を守る。
舟を仕立てての、捕獲作戦も幾度か失敗し、焦った市長自身が「鬼ジッパン」狩りに乗り出す騒ぎに発展した。

 

十三 終章

水練は得手じゃないという市長には水に浮く救急ジャケットが用意され、役所から助役、工藤、甲斐、光男、チ−フの塚木、指導員の佐宗、それに熊本月日新聞、地元の人美新聞、KNHテレビ熊本の守田とスタッフら十三人が乗り込み、くま川下り会社から五万円値切って借りた十五人乗りの舟は、発船場をスタ−ト、途中で待ち受けた川内からオトリ用の野鮎を受け取り、急流下りのスリルを味わって、ここ数日、確実に「鬼ジッパン」が現れる石畳の瀬に向かった。流れの比較的ゆるやかな岩裏にイカリを落とし、塚木と佐宗、甲斐も竿を出した。塚木が船頭にも指示を出す。
「ジッパンが掛かって、下に走ったら一気にイカリのロ−プを十メ−トル出してくれ。上に走ったらロ−プをすぐ引くんだ。竿から道糸を手繰って手釣りにする。さ、カメラも用意いいか。一世一代、どでかい大物が掛かるぞ。なあ、ヒゲ、そうだろ?」
「塚はんが、ワシとトシが考えてるのと同じならな」
「そうか、トシまでが、ヒゲと通じてたのか……」
「通じてたら、どうじゃと?」
「そうケンカ腰になるな。ならば、球磨川は永遠に清流たい」
三度場所を変えて小一時間、野鮎に邪魔されて十ほどづつ掛け逃がしで、オトリを変えていると、腰が落ちつかなかった中福市長が、日頃は怒鳴り合っている佐宗に卑屈な態度で話しかけた。
「ワシでも釣れるかのう?」
「塚ちゃんに聞いてくれ。ちゃんと考えてくれとる」
塚木が応じた。
「やらしてやるが、竿は無理だからな」
光男が甲斐の隣りにいて川底を覗くと、そこに黒い大鮎がいて、光男を見て大きく尾を振った。やはり、鬼ジッパンの勘ジイだ。
大鮎が走った、その直後に甲斐の竿が大きく絞られ、竿は下流にのされた。船頭がロ−プを緩めると甲斐が穂先を上流に寝かせ揺れる糸に手をのばす。カメラのフラッシュが光りビデオがまわる。
「まてっ、ワシがやるっ!」
背広を脱ぎ捨てエア−ジャケットとチョッキ姿になった市長が、這うように船尾に近い甲斐に近づき、甲斐がたぐり寄せた糸を奪い、左の手のひらに必死で糸を巻き始めた。
「市長の顔を三秒! すぐ手元から水面、釣り糸をアップ!」
守田が叫び、ADはそれを真似る。撮影班の特権なのかカメラマンが光男の背中を蹴とばして、舟の中を移動する。
甲斐が落ちついて、穂先のカラマン棒から糸を外した。
塚木と佐宗は、我れ関せずとばかりに手慣れた調子で竿をたたみオトリも逃がすと、予定通り舟のへりにつかまり足を踏ん張る。
ロ−プが伸び切り衝撃が来た瞬間、大きく舟が揺れて傾いた。
身体が伸びきっていた市長が、もんどり打って川の中へ。大型カメラを肩に中腰で撮影を続けていたKNHのビデオカメラマンがそれに続く。
守田ディレクタ−は、とっさにカメラマンに続いて身を投げ入れ、水泳が不得手なカメラマンを無視し、流れる大型撮影機を見事にキャッチ。カメラマンは溺れるが、見かねたADに救助された。
舟に上がったカメラマンが、怒って守田に殴りかかる。
市長はというと、「あっ!」と、声を出した助役がヘッピリ腰で一応は手を差し伸べた。救助の意思があったかどうか、この瞬間を誰も見ていないから、どうとも言えない。市長は、流れの倍のスピ−ドで激流を下り、見えなくなった。
市長がエア−ジャケットを着用していたのは正解だった。
沿岸を埋めた釣り人はエア−ジャケット着用の新しいリバ−シュ−トだと思うから、舌打ちして竿を上げる。市長だと知ったらジャケットを脱がせて放り出したに違いない。
水中糸が岩で擦れ切れたのか、半死半生でたどり着いたのが、大岩が川の中に突き出て流れを緩やかにする八千洞駅下のカワウチの前だったのが幸いした。ここにはいい石がなく、市長を邪魔扱いする釣り人がいない。
下手な釣り人が捨てた折れた鮎竿で遊んでいた川内のゲンちゃんという子供が、流れて来た市長を見つけて、流れないように竿で押さえつけて崖上に向かって怒鳴った。その声に、鮎宿の食堂にいた八代市から来ていた半職漁師グル−プが気づき、駆けつけたその中の屈強な山元兄弟が市長を救うべく川に入って泳いだ。遅れて駆けつけた兄弟の叔父と義弟は、市長と気づき救助を止めた。
オトリ場にいたカワウチのアルジが崖道をゴムサンダルで駆け下り、市長と知ってスピ−ドを緩めた。当事者にはなりたくない。
このまま十分も放置すれば溺死し、補欠選挙をやればダム反対派が勝つのは間違いない。
「どうするんだ!」
川で山元兄が叫び、崖上でゲンちゃんの母と祖母が呼応する。
「なにしとる! はやく救けんかいボケナス!」
こうして、市長は岸に引きずり上げられ、カワウチのアルジが、下を向かせて膝で腹部を押し水を吐かせる。
市長は一命を取りとめ、しばしカワウチの駐車場に寝かされた後、救急車で去った。左手には糸切れで深い傷痕が残るだろう。
「鬼ジッパン」は、ついに命運が尽きたのか完全に姿を消した。
この一連の事件は、殺人未遂事件となり県警本部が出動する騒ぎに発展している。八千洞駅下の救助ためらい事件などではない。
救急病院のベッドで点滴を受けながら、中福市長が重大な発言をした。川に落ちた時、背後からも衝撃があったというのだ。
すると、それに迎合するかのように、KNHのカメラマンが舟の衝撃を感じた直後に足を払われたなどと、自分に嫌疑が及ばないような発言を繰り返し、入水したことも逆に疑いを招いている。
舟会社の二人は、ロ−プと岩に神経が向いていて現場を見ていない。助役以外の全員がダム反対派だけに疑えばキリがない。
新聞社の二人は、その瞬間は、写真どころじゃなかった。位置も悪い、助役の背が邪魔して市長の頭ぐらいしか撮れない。
この事件は、以外な結末を迎えた。
仕事柄、かなり執念深いKNHの守田ディレクタ−が、特殊技術を駆使して濡れたビデオの部分的再生に成功したのだ。
警察でそのシ−ンを見ると、助役の手が市長の背に触れた瞬間で見えなくなっている。助役本人は背中を掴もうとしたという。だが、その手は明らかに大きく開いていて、押し手になっていた。
助役の経歴を調べた刑事が、新たな発見をした。空手五段、国体で入賞もしていて、とくに足技が得意だった。巧みに身体の位置をかえて新聞記者のカメラを避け、証拠を写したテレビカメラはカメラマンに足払いを掛けて川に落とす。
さらに、六木ダム関連がらみの国費が、市の年間予算の数パ−セントにあたる巨額で、不明金になっていることも判明した。九州各地だけではなく出張の多い東京の銀行を含めて十余の金融機関から助役の隠し口座が出て、その金額は総額約五億円にもなる。この大金の用途や、今後の計画も自供した。
まず市長を殺し、補欠選挙に出て、この資金を惜しげなくばら蒔いて圧倒的勝利で新市長になる。奪った利権で投資金を何十倍にもして財を成す。この地のトップで財を成さない者はいない。
それも殺人未遂、公金横領などの罪で塀の中、所詮夢だった。
退院後の市長は、岩角などで頭の打ち所が悪かったのか、急激に老化が進んだらしく、それまでの精力的な政務が連日では続かず、ほぼ一日おきぐらいに息抜きをするようになった。左手の包帯が痛々しい。日によっては部下に仕事を任せて、球磨焼酎と川釣りを楽しんだりする。今までのゴルフ、囲碁、料亭遊びの回数はめっきり減った。それに、好きな温泉にも、部下を誘わなくなった。
球磨川の盛況で、市の財政は一気に好転している。もう、だれもダムの話などしない。人美市の協力がないため建設省も諦めたのか、工事は中断したままなのだ。
市長は、誰の陳情を受けたのか、相良村に働きかけて、深水橋ほとりの竹ヤブに囲まれた墓地の永久保存を約束させている。
甲斐も景子も、光男に対して以前とまったく変わらない。
工藤課長代理の出世欲による必死の工作と、世論の後押しで六木ダムの工事は中断され、工藤は課長に帰り咲いた。
ある日、光男のアパ−トでちょっとした事件が起きた。
隣室の巡査が、転勤で八代に去った空き部屋に、横浜で中学校の教師をしていた大家の一人娘の棚橋美津子が、年老いた両親の面倒をみるために帰って来て住み着いたのだ。学習塾を開くという。
景子と言い勝負の美人で、光男の心を惑わし動揺させる。
景子と甲斐の婚約の噂が、出始めていたのも影響した。
歓迎会の夜、酔った勢いで大家が勝手に公表した。
「わしら夫婦も、そろそろ孫の顔ば見たくなったで娘を呼び戻したのじゃが、娘は、この深水さんに一目惚ればしてえらく好いちょる。じゃが、深水さんは、関東へ帰るといいなさる。それに、カタブツだと聞いとるで考えた。どうせ、男と女だ、部屋の仕切りカベ抜いときゃあヤヤも出来る。出来なきゃ、子授けの芝立て姫神社で柱をさすって来りゃ一発じゃ。せりゃ所帯もたせにゃならん」
男たちは賛成だが、アパ−トの人妻やOLの女たちは複雑だ。光男に夢遊病の気があるのを幸いに、鍵をかけない光男の部屋に忍ぶ楽しみがなくなる。しかし、光男に逃げられては元も子もない。
娘の美津子は、自分たちより若く美人で聡明そうだから分が悪いが、一応、歓迎の拍手をする。
しかし、なにか一言反撃したい。二階の消防署員の妻がいう。
「部屋のカベを抜くと建物が弱って地震のときが……」
大家のバアさんが、入れ歯をガタつかせて反撃する。
「あんたらが、毎晩起こしてる地震に耐えてるじゃから大丈夫」
なんだか妙な雲行きになった。光男は頬をつねるが、痛い。
落ち鮎の季節になって球磨川の賑わいも下火になる。
市長は市議会で「年内にもう一度、球磨川の賑わいを取り戻して、来年度の予算に余裕をもちたい」と、発言した。一度味わった繁栄と甘い汁は忘れ難いものなのだ。
鮎の季節も終わる九月末のある日曜日、甲斐から「市長が落ち鮎釣りを見たいそうだ。釣りはせんでもいいからピクニック気分で来てみんか?」と誘いがあり、光男は深水橋上流での合流を約束した。甲斐は佐宗と景子も誘うという。
光男は美津子を誘った。光男には自転車しかない。神奈川から陸送した美津子の車が必要なのだ。美津子は、手際よくピクニック用のチキンバスケットなどを用意し、アパ−トの住民の羨望の目を後に、光男の運転でウキウキと出発した。
深水橋にさし掛かると、すでにヒゲの佐宗と甲斐が川に立ち込んでいて、土手の草むらに腰を下ろした景子が手を振る。
六木ダム完成の夢破れた景子だが、甲斐との政略結婚が決まって権力奪取側に作戦を変更したのか、あまり悲しげではない。
小鳥がさえずり赤トンボがとぶ、のどかな山里の風景だった。
橋の上で、中福市長が老人と川を眺めている。市長はあれからよく、球磨川、山辺川の視察に出ていて、この辺りで見かけても不思議はない。老人は六助らしい。
光男は、市長に挨拶をするために、橋の上で車を止めた。
珍しく左手の包帯がない。糸切れの傷が癒えたのか?
六助が振り向き光男を見て嬉しそうに声をかけた。
市長も三白眼の目で光男を見た。市長がニヤッと笑って腕まくりをし、気味のわるい低い声で「日替わりだ。分かるか?」と、醜い刀傷を見せた。市長の日々の変化で変だとは思っていたが、まさか市長の身体に日替わりで勘ジイが入り込んでいたとは……。
市長が脅すように念を押した。
「一族のためだ。も一度、やってくれるな?」
また、鮎にか! 背筋が寒くなり、全身の毛が逆立ち鳥肌が立つ。こいつらも利権を狙う球磨川の鬼だったのか。
恐怖に怯えた光男が、タイヤを軋ませて急発進して橋際を曲がって超スピ−ドで狭い土手道を逃げた。佐宗らも危ない。
勘ジイと六助の笑い声が、どこまでも光男を追う。
その声は、あの嵐の夜に聞いた不気味な笑いと同じだった。
風もないのに橋のたもとの竹ヤブがざわめく。
事情を知らぬ美津子は、楽しげにハミングしてスピ−ドと道なりの揺れを楽しんでいる。どこまで走ったら逃げきれるのか。
スピ−ドが出すぎていて土手のゆるいカ−ブが曲がり切れない。
なぜかブレ−キが効かないのだ。
このまま川に飛び込んだらどうなる!!
光男は、美津子におおい被さって助手席のドア−を開け、草むらに美津子を突き飛ばし、ハンドルにしがみついたまま宙に浮いた。
バックミラ−に半身を起こして叫んでいる美津子が見えたのを確かめてから、光男は目を閉じて車ごと山辺川の流れに落ちた。
「こうなれば、オレが球磨川の鬼になってやる!」
自分の姿が巨大な鮎に変わるのを感じながら、光男は思い切りよく流れに乗って激流の球磨川めがけて泳ぎ下っていた……。
                終

この物語はフィクションで、実在の人物とは関係ありません。