第一章

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1、夜明けの決闘 1

初春の早朝、二人の若者が、愛馬の手綱を土手の柳の幹に掛け、相前後して土手から川原に駆け下りると、若草の陰から川鳥が羽ばたき、岩陰から狸が逃げた。

年若いまだ前髪立ちの大道寺左門が、先に草履を脱ぎ捨てて刀を抜いて数歩前に出た。上段に刀を構えた十八歳の左門の肩が、極度の緊張からか荒い息で揺れている。土手に萌え出でた若草の緑もまだ淡い庄内川の川原に吹く風はまだ冷たいが、十八歳の大道寺左門の額には汗が吹き出て、汗止めに巻いた木綿の鉢巻も早や濡れている。
一方、対峙する柳生兵介は呼吸もおだやかで表情も平静、まるで子供とでも遊んでいるような余裕がある。その兵介は左門より四才年上の二十二歳、尾張藩剣術指南役として亡き父の跡を継いで立派にやり遂げている。
左門が刀を構えて荒い息をしているのに反して、兵介はまだ刀の柄にも手をかけず微動もしない。それでも、油断なく抜刀の機会を窺っているのは、その目と右手の位置で読み取れる。決闘を申し入れた兵介と、それを受けた左門は、藩命で禁じられている私闘を始める上にはそれなりの厳罰は覚悟の上だった。
尾張藩では青少年の武術鍛練の一つに朝稽古の遠乗りを奨励しているが、二人はその遠乗りを利用して、庄内川河原での早朝の決闘を約して早駆けをして今、睨みあっている。
しかも、二人の戦いは河原に到達する以前から始まっていた。土手を疾走しながら左門の愛馬の横に迫った柳生兵介がムチで、思いっきり強く左門の愛馬の頬を叩いた。その瞬間、馬が暴れて制御する間もなく左門はあぶみから足を外し振り落とされそうになった。それを見た兵介は「腰抜けめ」と嘲笑し唾を吐いたのだ。
決闘を前にしてのこの屈辱は、左門の怒りをさらに煽った。

若い二人にとって恋の遺恨が絡んでの決闘ではあったが、それだけとも言えない。意地の張り合いも絡んでいて、いずれは白黒をハッキリさせなければならない運命だった。
春とは名ばかりで風はまだ冷たく、左門の吐く荒い息と柳生兵介の静かに吐く息が夜明けの川原に白く流れた。左門は素足に痛さを感じながら河原の小砂利を踏みしめ、足の位置を確かめながら相手への距離を徐々に狭めてゆく。ひんやりとした冷気の中で柳生兵介が、諭すような口調で蒼白な表情の左門に対して幼名で呼びかけた。
「才次郎! 命を惜しむなら詫びるか逃げるか、選ぶのは今のうちぞ」
「うるさい! 武士道の意地だ。さあ、抜け!」
余裕がある兵介は、刀の柄に手をかけたまま左門を諭す。
「部屋住みの若輩の身でなにが武士道じゃ。しかも、師に逆らうとは、身の程知らぬ愚か者、不具になって悔いても遅いぞ」
「なにが師だ。拙者の師は亡き柳生又右衛門さま。そなたはまだお父君の人徳も剣の技も伝わっていない未熟者じゃないか」
兵介が鼻の先でせせら笑った。
「そう意地になるな。早苗殿への横恋慕さえ断てば許してやる」
「許すも許さぬも、早苗さまとは好いて好かれた仲じゃ。すでに二人は通じている。今さら止め立てしても手遅れじゃ」
「まさか? 才次郎、それは偽りじゃろうな?」
「命のやり取りの場で、偽りなど言えるか! 裏木戸から寝所までお女中の手引きで通っておる。相惚れの仲が朝までネヤを共にして何が悪い」
「きさまなどになびく早苗殿ではない。作り話など言うな」
「いいか。早苗さまから喜んで迎え入れてくれるのだぞ」
「うるさい! ガキのくせに生意気な。痛い思いさせてやる!」
「真剣勝負なら負けん。道場でも三度に一度は勝ってるからな」
「愚か者め。父に諭されて時折は勝ちを譲っておったというに」
「勝ちは勝ちだ」
「そこまで言うなら、もはや容赦はせぬ」
「おう。存分に来い!」
「言わせておけば……ならば、尾張柳生、新陰の剣を見せてやる」

柳生兵介は、この二年前に尾張藩剣術指南役であった父・柳生又右衛門厳之の急死によって、若干二十歳にして第十四世の流祖となり兵介厳久を名乗っている。ただ、若い兵介にとっても周囲にとっても、剣聖として知られる遠祖柳生石舟斉宗厳から連綿と続く尾張柳生という名門の家督を継ぐには早すぎたという思いもある。
それでもなお、兵介の剣の腕には天才の閃きがあると言い残して病死した先代の言葉もあり、尾張柳生を守るに相応しい大器という周囲の評価と、父君とは比べものにならない小物という者もいて、兵介をめぐっては賛否両論あった。
その柳生兵介にとって、婚約を申し込む予定だった藩内一の才媛との噂の高い恩田家の息女早苗への想いが、自分より四歳も年下のこの若者にズタズタにされることが偲びなかった。しかも、それを咎めて道場で荒稽古をつけたのを逆恨みされては……どう考えても許せない。許せないのは兵介だけではない。華道・茶道・詩歌の道に秀でて書画もよくするみめ麗しき早苗に惚れない若者はいない。
雨の日に傘を貸したぐらいで恩を着せ、厚かましく早苗と睦まじくなったと噂のある左門を許せるはずがない。誰かが天誅を加えて成敗せねばと噂が流れ、それを引き受けたのが柳生兵介なのだ。
しかも、藩主の指南役でもある兵介が婚約を申し込むとという噂は左門とて知らぬはずはない。なのに図々しく相惚れの仲などと言われてはもう我慢がならない。
藩の掟を破るのは間違いとは承知しながらも、この怒りを消すには決闘で白黒を決めるしかなかったのだ。兵介はこう考えた。

「いいか、才次郎! 傷つくのはきさまだ。不具になったとてわしを恨むでないぞ」
「それはこっちの言い分じゃ。勝った者が早苗さまをゆく末には嫁にする。お互いに遺恨は残さぬ争いとの約束を忘れるな!」
「生意気ばかりい言いおって。さあ、来い!」
柳生兵介の表情が険しくなり刀の塚に手が掛かった。
左門の呼吸がさらに荒くなり、緊張感でのどが乾ききっている。

2、夜明けの決闘 2

左門からみれば師範と門弟の仲とはいえ、藩校でも道場でも共に過ごした遊び仲間の兵介が柳生新陰流宗家を継ぎ、藩公の指南役となって君臨し、自分は家老の家に生まれながら未だに仕官もならぬ身では、ますます隔たりが大きくなって気が重い。
 兵介の祖がいくら柳生の里一万石の大名だとはいえ、兵介そのものはたかだか三百石の剣術指南役、いくら左門が部屋住みとはいえ稲沢の地に築かれた大道寺城の城主・尾張藩三千五百石家老の息子。その誇りと名誉を思うと、自分が惚れた女に対して、藩主を通じて堂々と婚儀の申し込みの出来る柳生兵介の立場が妬ましい。だが、それも許せない。

 左門は、幼年期から四歳上の兵介とは遊び相手でもあり学友でもあった。兵介の父・柳生又右衛門から学んだ新陰流の剣も「才次郎のほうが兵介より才能がある」と言われてきた。 道場でも三本に一本は兵介から勝ちを得ることが重なり、徐々に左門は自信をつけていたのも事実だった。それだからこそ、藩主の指南役となった兵介を素直に新たな師とは仰げず、些細な事でも逆らってしまう。
 刀の柄に手をかけた兵介が、抜き合わせの一撃で左門を切り捨てる気でジリッジリッと一歩分前に出ると、刀を構えた左門がその距離以上を下がった。
 口では強がってはみたものの左門の迫力に呑まれていた。若くして尾張柳生の名跡を継いだだけあって兵介には隙がなく体も一回り大きく見えた。その兵介に必殺の気を見たとたん、左門は恐怖を感じて身ぶるいした。
(こんな筈ではなかった)、真剣勝負なら勝機はあると信じた左門の考えが甘かった。これでは勝つ要素などみじんもない。
 左門の胸中を見抜いたように、兵介が勝ち誇った口調で諭した。
「いいか才次郎。もう一度だけ念を押す。きさまは相手の立場もわきまえずに自分の気持ちだけで道を外したが、二度とそのような真似をせぬと誓えるなら命だけは助けてやる。どうせ、早苗殿と通じているなどは口から出まかせであろうからな」
「出まかせではない、早苗さんから望んだのだ。妬いてるのか?」
「妬いてなどいるものか。馬回り組役方・恩田平四郎殿とは亡き父もじっこんの仲、ご息女の早苗殿と拙者は、いずれ結ばれる約束が両家では出来ていた。それが、おぬしの邪魔で反故にされそうになっとるんじゃぞ。改めて婚儀の申し入れはするがな」
「拙者も、末は夫婦にと誓いおうて来たから後には引けん」
「才次郎……おまえがいくら喚いても騒いでも部屋住みじゃ嫁はもらえん」
「うるさい。いずれは家格の合う家に養子入りだと父は言った。嫁取りはその後だ」
「ほう。それは何年後じゃ? その前に早苗殿は拙者の嫁になっとるは」
「もういい。もはや無益な問答無用……さっさと刀を抜け!」
「この身のほど知らずめが。まあ、待て!」
「待たぬ。では、こっちからいくぞ!」
 左門は、思い切って刀を振り上げ小砂利を蹴り風を切って飛び込み、柳生兵介の頭上に鋭く刀を振り下ろした。必殺の得意技だけに勝算はあった。

 だが一瞬早く兵介の身体が右に飛び、同時に抜いた日頃から自慢の相州政宗二尺二寸六分の名刀を瞬時にどう持ち替えたのか目にも見えぬ早業の峰打ちで、左門の左横腹を強打した。さすがに師範の腕は確かだった。~横転した左門はすかさず立ち上がって青眼に身構えたが、息が詰まって呼吸がままならない。抜き打ちで食らった一撃をまだ信じきれなかった。
(こんなはずじゃなかった)
 左門は恐怖の中で相手を凝視した。冷静に冷静にと自分に言い聞かせてはみたが、兵介が道場の時とは違う大きく逞しい圧迫感を伴って迫って来るのに気づいてうろたえた。しかも、徐々に殺気がふくらんで来るのが見えている。
「つぎは真剣で右腕を切るぞ。命だけは助けるつもりだが出血が多ければ死ぬ。布で縛る気力が残っていれば助かるがな。いいか、その時は武士を捨てて町人にでも農民にでも好きな道を選ぶがよい」
「なにを言う。拙者は武士の子だ!」
「そう武士だ武士だと喚くな。きさまの体内に残る草の匂いを嗅ぎ取れんのか?」
「草の匂いだと? 忍びのことか?」
「才次郎。これからのことは世間では誰も知らぬこと。柳生家独自の探査だから秘密は保たれている。安堵して聞け」
「何も聞くことなどない。さあ来い!」
「おぬしは、おのれの出生の秘密を知りたいと思わんのか?」
「出生の秘密だと?」
「おぬしはな、大道寺家にとっては邪魔者なのよ」
「ばかな、なにを言うか……」
「ここで死んだら、ご家老は泣いて喜ぶぞ」
「言うな!」
「悪いことは言わん。怪我せぬうちにこの地を去れ!」
「出生の秘密とは何だ?」
 左門は夢中で喚いたが、喉が渇いて声がかすれる。悪い予感で心が揺れた。
「では言うてやる。きさまの本当の父親は忍び者ぞ」
「拙者が忍びの子だと?」
「きさまのオヤジはな。城下に住み着き小間物屋で大道寺家に通ったが、幕府の草と正体がばれて捕らえられ、今の父上の大道寺玄蕃さまに手打ちにされたのじゃ。長屋住まいのきさまの母親は病気で幼子がいた。哀れに思った奥方様の情けで母と子は大道寺屋敷に
引き取られたが母は死に、幼子が残った。大道寺家は長男が病弱だったから、おぬしは次男として育てられたが、実際は草の子なのだ」
「そんな話、聞いたことがないぞ」
「知っているのは我が父又右衛門から聞き継いだわし一人、藩内には誰一人としてこの事実を知るものはいない」
「うそだ」
 左門の動揺を見透かすように兵介が声を上げて笑った。

3、夜明けの決闘 3

家老の子である自分が名もない忍びの生まれとは聞くだけもおぞましい。
「人をたぶらかすのもいい加減にしろ!」
「才次郎。きさまが生きて帰れたらご家老に問うて確かめてみるんだな」
「なにをだ!」
「きさまが本当に、大道寺家の嫡子かどうかをだ!」
「まだ侮辱するのか!」
  怒りに震える左門は、再び三たび体勢を整えて切り込むが、刀身は紙一重の差で兵介の身体に触れずに虚しく空を割き体勢が崩れる。そこを狙って尾張柳生の八代を継ぐ兵介厳久(としひさ)が、自由自在に剣を操って峰打ちで打ちのめすから左門の身体の動きが見る間に鈍くなり、やがて立ち上がることすら出来ずに兵介の草履に背を踏みつけられ、河原の小石に顔を押しつけて屈辱の中で唾を吐いて呻いた。
「殺せ!」
「殺しはせぬからだまって聞け。わしが父上から聞いた話では二十年ほど昔のこと。その当時から、幕府は急速に全国的な統治の力を失いつつあり、西の雄藩である島津、土佐や長州が内々で倒幕の案を練っているなどという不穏な噂が流れていたらしい」
「それがどうした?」
「幕府からみれば、親藩とはいえ改革論の強い尾張藩は両刃の剣になりかねない存在でな。いつ反旗を翻すかも知れないという危険な存在として映っていたんだろう。そんな時に、わが藩の江戸家老からの情報で、尾張藩探索の密命を帯びた伊賀者が幕府から尾張に送り込まれたらしい、との報告がもたらされたのだ」
「殺せ、殺せ!」
「よく聞け! 家康公以来の付け家老・犬山城の成瀬正寿様は、幕府から成瀬家に何の連絡もなく、立場が無視されたことにいきどおり、藩の内情が幕府に筒抜けになるのを恐れたわが藩主の意向をも汲んで、自ら陣頭指揮に立って藩内に潜入した移入者を徹底的に調べさせたのだ。その結果、その前後から藩内に出入りし始めていた薬売りの行商人一名と、虚無僧二人の三人を怪しいとみて捕らえ、激しく責めたてた……」
「どうした?」
「彼らは必死で身の潔白を明かして弁明したが、結局は激しい折檻と水と食事の不足による衰弱に耐え切れずに、自供もせずに相前後して三人とも牢死して果てたという」
「むごいことを」
「直ちに藩の江戸屋敷には、幕府の密偵三名処刑との密使が出てこの一件は落着した。このような事件があったのを知らんだろ?」
「知らん」
「だが、将軍家の剣術指南役である江戸柳生とわが尾張柳生一族としては、幕府とご三家の確執などあってはならないことだけに、独自の調査で幕府の御庭番をあばき出して抹殺することにした。その結果、亡父らは、牢死した三人はオトリだとみた……」
「それで?」
「ここからは、まだ誰にも洩らされてはいないから安堵しな」
「なにを安堵するんだ?」
「当時、藩の改革派の面々が頻繁に出入りしていたのが、藩士に人望のあるご家老の大道寺様のお屋敷だった。いいか、これは、きさまがまだ生まれた頃の話だぞ。もっとも、私も幼かったから聞いた話だがな」
「それがどうした?」
「大道寺様といえば、そのご先祖は小田原の北条を代表する強力な武将で、甲斐の武田信玄の関東攻めを防ぐための備えとして上州松井田城で北の守りを固め、度重なる侵略にも一歩も引かずに戦って武田の騎馬軍団を追い返し関東入りの夢を打ち砕いた猛将として知られている。おぬしは知ってるか?」
「そんなのは我が家のことだ。知ってて当然じゃないか」
「その武勲を知っていた家康様が、太閤の小田原城攻めで北条が破れた後、殺すには忍びない武将の一人として太閤様にその助命をひそかに嘆願し、その身柄を預けられると三顧の礼で迎え入れ、太閤様に願い出て徳川家の要職に迎え入れたという。これは知ってたか?」
「いや、知らん」
「そうか。あまり知られていないが事実だ。その後、家康公はご子息を水戸、尾州、紀州に配してご三家を興すに及んで、大道寺玄蕃様を付け家老下の格付けの重臣として尾張藩に推挙している……」
「そんな話……」
「聞いたこともないのか? 無理もない、今から百五十年余も昔のことだからな。いまや、わが藩にあって隠然たる勢力を持ち藩士の教育にも大きな影響力をも外様家老の大道寺様は、いずれ反幕府の空気が藩内に浸透してくれば、倒幕派の急先鋒として立ち上がる可能性もある。もしも、幕府がそのような目で大道寺様を見たとしたら、その動向を探るために伊賀者を送り込んだとしても不思議はない。そう推測したわが亡父は、ひそかに大道寺家内外の人の動きを探ることにしたのだ」
「卑劣なやり方だな」
「なにを言う。これは尾張藩と大道寺家を守るための手だてだったのだぞ!」
「どうだか?」
「まあ、それはお互いさまだ。柳生本家が大名としての家格を守るためにどれだけの苦労をしたか、幕府も尾張藩もなく、どう世の中が動こうとも柳生の里の一万石以上を死守するためには、ありとあらゆる手段を使ったのだ。あくまでもおのれの道を貫くのが柳生だからな。したがって江戸柳生と尾張柳生は、相反する動きをしながらも、必要となればいつでも手を組めるように常時、情報交換など連絡を絶やさずに連携を保っているんだ。ただ、この隠密事件の件でも、江戸柳生は幕府の意向に反して尾張柳生に情報を送って来たのだ」
「なにをだ?」
「小石川先の茗荷谷に住む大原左進という下級武士の夫婦者が、近隣の住民にも告げずにいずこにか出奔していることが判明している」、
「それと、このオレがどう絡む?」
「その夫婦者が小間物屋に化けて尾州に流れて来て、どういう経緯でかは知らんが、ご家老大道寺玄潘直方様方に使用人となって住み着いた……小物屋の鑑札を持つ宗兵衛と梅と名乗ってはいて疑わしい節はなかったというのだが・・・」
「なぜ、そのようなことを?」
「それは、きさまに関係があるからだ」
「どのように?」
「その噂を耳にしたもご家老の成瀬様は、幕府から放たれた隠密の可能性があるからと強硬に大道寺様に引渡しを求めた。同じ家老でも、小大名並みの特別扱いを受けている付け家老の成瀬様では何と言っても格が違う。しかし、大道寺様は家老としての立場もあり、改めて自分がその夫婦二人を吟味するからと頑として譲らず強硬に主張したので、上席家老の成瀬様も手を引かざるを得なかった」
 兵介の草履が左門の背をぐりぐりと強く踏みしめた。
「く、苦しい!」
「足で踏みつけられたぐらいで音を上げるな。見苦しいぞ」
「うるさい!」
「大道寺様がその夫婦を調べたところ、二人は見事に舌を噛み切って死んだ。その死体は成瀬様も見たと届けたが、これは事実と違う」
「それだけか?」
「とんでもない。それで藩内を騒がせた隠密事件は幕を閉じたが、柳生の目はあざむけなかったのだ」
「なにがあった?」
「確かに男は何一つ弁明することもなく舌を噛み切って死んだ。結局、たしかな名も不明のままだ。だが、これこそが幕府の密偵であったというう何よりの証拠だ」
「確かな話なのか?」
「そうだ。伊賀衆が密命を吐いたり助命を願い出るなどはあり得ないからな」
「女も?」
「女は身ごもっていて臨月に近いのが分かり、見かねた奥方様の助力で救われたのだ」
「では?」
「そうだ。梅という女がその数日後の夜陰に離れの一室で誰の手も借りずに一人の男児を産み落とした……それが、きさまだ!」
「ばかな……」
「しかし、問題はここからだ。まだ紅葉には早い季節だったから水もぬるかったから赤子を水で清めて布でくるみ、その梅という女は、そのうぶ声が泣き止まない間に忽然と姿を消したのだ。火が点いたように泣く赤子の声に寝りを邪魔された女中が母屋から駆けつけたときにはもう、梅の姿はどこにもなく、その後、誰一人不審な女を見かけたものもないところから、川にでも身を投げて海に流されたのだろうということになってこの事件は闇にほうむられて忘れられた・・・だが、おぬしが残った」
「そんな・・・」
「おぬしは、哀れに思ったご家老の奥方の進言で、病弱だった大道寺家の次男の代わりとして養育されたのだ」
「推測でものを言うのか?」
「だから、帰ったら聞いてみろ、と言ったのだ」
  勝ち誇ったように、兵助が踏みつけていた足を上げて左門のわき腹を思いっきり足蹴にした。

  左門はそのときを待っていた。
 左門は呻きながら俊敏に転がって横向きになり、弱った振りをしながら石間から集めて握っていた小砂利交じりの湿った砂を正確に兵介の右手で左眼を狙って投げつけた。さらに、短い悲鳴を上げて一瞬眼を閉じた平介の右目が開いた瞬間を逃さずに、左手に握った目潰しの砂を飛ばすと、落とした刀に飛びついた。間髪を入れずに砂まみれの両手を揃えて柄を握って立ち上がり、石を蹴って突きを腹部を狙って突きを入れた。眼に異常があってもさすがは尾張柳生の八代の将軍指南役、柳生兵介厳久は体を捻って腹部への致命傷を避けたのはさすがだった。それでも腰を突かれて血がほとばしり、横向けに河原の石間に倒れてのたうった。
  十八歳の大道寺左門が、四歳上の尾張柳生新陰流第八代宗家を倒したのだ。

4、夜明けの決闘 4

血の噴く腰の傷口を両手で抑えた柳生兵介厳久(ひょうすけとしひさ)が、苦痛に顔を歪めながら呻いた。
「才次郎。砂利つぶてとは卑怯だぞ!」
  しかし、その声は左門には届いていない。
  大道寺左門は、生まれて初めて人を切った恐怖に怯えたのか、その場から一刻も早く離脱することだけを考えてでもいるかのように、一目散に馬の手綱を繋いだ桜の木を目指して裸足のまま土手を駆け登っていた。その後ろ姿を追っていた兵介のおぼろな視線にはすさまじい怒りが渦巻いている。剣術師範が門弟に敗れるなど道理が立たな過ぎる。
(いまに見てろ、思い知らせてやるぞ!)
  兵助は暗くなる意識の中で、卑劣な手段でこの身に一撃を加えた左門を恨み、おのれの油断を恥じた。
  死ぬのは恐れないが、この死に様には悔いがある。尾張柳生家の遠祖・柳生兵庫介利厳(としとし)以来二百五十年もの長きにわたって続いた柳生新陰流の本流が自分で絶える……これは辛いことだった。
  剣聖と崇められた上泉伊勢守から引き継いだ新陰流に、さらに改良を加えて柳生新陰流という新たな流派を創設したのが尾張柳生家の祖の柳生兵庫介利厳だった。
  したがって、天下無双の剣として将軍家の兵法指南役として君臨する江戸柳生といえども柳生新陰流としては傍系に過ぎず、柳生新陰流の正統八代目を継いでいるのは徳川御三家筆頭の尾張藩兵法指南役である柳生兵介厳久すなわち今、死に瀕しているおのれなのだ。
  柳生新陰流には古来、剣以外の武器に対応する工夫があり、その手練を積むことも流儀の一つになっていたのだが勝ち誇った兵助は、そのおごりの心の隙を突かれて砂利交じりの目潰し攻撃にさらされ、何の防御策も講じ得なかった。
  この油断が、腰を突かれて悶絶するという醜態につながったのだ。
  兵介はおのれの油断を恥じた。
  思えば、父・又右衛門厳之(としゆき)が逝ったのは兵介がまだ十九歳の若きときであったことから、まだ奥義と言えるほどの薫陶は受けていないに等しかった。
  かつて、江戸柳生には十兵衛三厳(みつよし)、尾張柳生には連也斎厳包(としかね)という歴史に残る剣豪が輩出したものだが、それに引き換えこの無様な姿はどうだ。そこでまた左門への恨みが雲が湧くように胸を塞ぎ、生きてこの世に残れるなら必殺の剣で殺してやる、もしも、このまま死するなら必ずあの世から呪い殺してやる。
  その左門への怒りの中で兵助は気を失いつつあった。
  朝露を含む雑草の繁る土手の上を、左門を乗せた馬のひずめの音が遠のいて行く。
  兵介は、小石を染める多量の出血で意識が遠のいてゆくのを感じていた。それでも無意識の内に、笛の音のような澄んだ音色で仲間に自分の存在を知らせる鳶(とび)の鳴き声を繰り返して澄み渡った晩春の空に放っていたが、ついに力尽きて小砂利混じりの川原に突っ伏して気を失った。

 しばしの時が流れた。
 やがて、緊急の場合に発する忍者寄せの「鳶の声」を聞きつけたのか、いずこからともなく駆けつけた木こり姿の四十半ばと見える髭面の小柄な男が兵介を背後から抱え上げ、背に膝を当てて両肩をグイッと引き寄せると兵介が息を吹き返した。
「若、どうなされた?」
「藤三郎か? よく来てくれた」
「トビが鳴きましたので……」
  柳生一族の遠縁に当たる若宮籐三郎が、すぐ兵介の腰の刀傷に気づきいた素早く三角巾兼用の幅広手ぬぐいを縦に裂き、それを繋ぎ合わせて兵介の腰に血止めとして巻付けて応急の処置をした。
「痛みまするが、しばしの我慢を」
  兵介の前に回って小柄な身体ながら背を向けて長身の兵助を背負うと、静かな気合で一気に立ち上がり、軽々と土手に向かって歩き出した。
  その視線が、脱ぎ捨てられた左門の草履に向いたが、もとより名が付されている由もないからどこの誰とは分からぬが、鼻緒のつくりからして名有る家の者との察しはつく。
  その心の動きを背で感じたのか兵助が言った。
「藤三郎、他言はせまいぞ。拙者、不覚にも馬が暴れて振り落とされ腰を打った。暫く、藤三郎の家で養生し動けるようになったら帰宅する……わたしを家に運び込んだら我が屋敷に馬を運び、母上や家の者に伝えてくれ。見舞いは無用とな」
「かしこまりました」
  余計なことは言わず考えず、が柳生家郎党の習いだけに、それだけで充分に意思は通じた。ただ、当代随一と言われ麒麟児とたたえられる尾張藩主指南役の柳生兵介を斬れる者が藩内にはいるはずがない。
(と、なれば代々に渉って暗闘が続く江戸柳生との確執が再びめぐってきているのか?と、すればて刺客は誰なのか? しかし、刺客なら旅姿だから足袋に草鞋(わらじ)で草履などはあり得ない。これは、軽い朝稽古の延長ではなかったのか? ならば誰が若師範と馬合わせを……?)
  その藤三郎の疑問を背で感じたのか、兵助が耳元で叱咤した。
「落馬とて充分の恥じゃ。それを巷に流せ……山犬に吠えられて馬が暴れたとな」
「はい」
  これで、藤三郎の疑念は消えた。いや、無理に消したのだ。
  愛馬の背に乗せられた兵介は山里の藤三郎のあばら家に運び込まれて、柳生のくの一でもある藤三郎の妻の世話になることになった。
「八重、帰ったぞ!」
  がたびしと戸が開いて、八重と呼ばれた小柄な妻が顔を出した。
  瀕死の重傷で運び込まれた兵助に、正座して平手をつき作法通りに頭を下げた。
「若様、ようこそ我が家へ。ごゆるりとお過ごしください」
「かたじけない。世話になる」
  苦しげな兵助の心を感じた八重は挨拶をして目を伏せた。
  八重が押入れからせんべい布団を出して敷くと、藤三郎がその上に兵助を運んだ。
「オレは、お屋敷にひとっ走りしてくるから、若の傷に薬を塗り手当しといてくれ」
「ハイ」
  八重が兵助の袴を脱がせ、下帯一つの姿にして傷口を見た。
「誰がこのような傷を……?」
  八重の疑問に、戸口に向かった藤三郎が振り向いて応えた。
「若殿は落馬してケガをされた。これが真実だからな」
「承知しました」
  藤三郎が出かけた後で八重が、長持ちから薬草を出してきた。
「わたしは、切り傷にはこれが一番効くと思います」
  八重が取り出したのは、乾燥して刻んだ芍薬の根だった。
  八重はその薬草を口に含んでよく噛んでから手に出して揉み、それを傷口にべったりと貼り、その上を布で巻いた。芍薬の根には、消炎、鎮痛、抗菌、止血などの作用がある。
  八重は、苦し気にうめく兵助の頬に両手をあてて顔を寄せ、口内に残した薬草の噛み汁を口移しで飲ませた。兵介の喉がごくりと鳴って薬草が体内に入るのを感じてから八重は顔を放し、ホッとしたように笑顔を見せた。
「これで、回復が早くなります」
  傷口が傷むのか兵介がまた呻いた。
  この先、どうなるか……兵助にも分からない。瞑目するとまた傷の痛みが疼き、不覚だった気持ちがまた甦って自分を責め、その反動で左門への恨みでまた頭に血が上った。

5、夜明けの決闘 5

 大手門に近い内堀際にある屋敷に戻った左門は、厩に愛馬を入れるとすぐ屋敷内の北西にある井戸辺に行き、滑車を用いたつるべで水を汲み上げ、手拭いを用いて衣類に付着した返り血を拭おうとしたが、兵介の返り血はすでに乾ききっていて、隠しようもない血痕の跡となって布地に染み込んでいた。

 左門は袴も着衣も身につけたまま、不浄の血を全身から洗い流すかのように、汲み上げた上げた桶の水を頭から浴び、再び桶を深井戸に落とした。左門は、果たし合いで高ぶった心を鎮めようと、冷たい井戸の水を幾度となく浴び続けた。
  やがて、その音に気づいた侍女が知らせたのか、台所口から母の藤乃が、着物の裾を手に衣擦れの音をさせて急ぎ足で飛び出してきた。藤乃は、お供の侍女を制してそこに待たせ、一人で水を浴びる左門に近づき、飛沫で濡れるのも構わずに左門の着衣と身体に付着した血痕を見て声をひそめた。
「才次郎、人を手にかけましたね?」
  どう説明すべきかも分からずに、顔を伏せたまま左門はただ力なく頷いた。
「それなりの事情があったのでしょう? して、止どめは刺しましたか?」
「いや」
  思わず否定した左門が驚いた顔で振り向くと,母の藤乃が端正な顔をまっすぐ向けて真顔で左門を見つめていた。
「生かしたのですね? 戦場で止どめを刺すは武士のたしなみ、お相手の方も、生きて恥辱に耐えるのは生きるより辛いことです。お相手はどなたですか?」
  左門が言い渋っていると母が言った。
「着替えたらお父上に事情をお話しなさい。お待ちしてますよ」
  左門が水桶を井戸の縁に置き、意を決したように母の顔を直視した。
「母上、お聞きしたいことがあります」
「どのようなことですか?」
「わたしを大原左進と梅という忍びの子だという者がいます。本当ですか?」
「おろかなことを……大原なにがしも梅の名も知りません。左進は我が家の長男、あなたの兄の名でしょ? あなたは、わたしがお腹を傷めて産んだ大道寺家の子に正真正銘間違いありませんよ。誰がそのような偽りを?」
「柳生です」
「柳生? これは謀略です。尾張藩内の一大勢力になりつつある大道寺一族を滅亡させようという罠です。柳生がなぜ、そのような根も葉もない噂を流すのでしょうね?」
「分かりません。ただ無性に腹が立って……」
「その柳生の従者を手に掛けたのですか?」
「従者ではありません。兵助どのを斬りました」
「まさか? あなたが宗家を?」
「仕方なかったのです」
「尋常な立ち会いでは無理な相手ですよ。どうしたのですか?」
「殺されると感じたので、卑劣な手を用いました」
「どのような?」
「砂利による目つぶしです」
「柳生が用いそうな手ですね。それを目にした者は?」
「いません。二人だけの果たし合いでしたから」
「争いの原因は?」
「それは、言えません」
「兵助さまは、藩の兵法指南役でお殿様の師です。敵にはまわせません」
「承知の上です」
「この大道寺家も、お取り潰しを覚悟しなけてばなりませんね」
「そうはさせません。私が消えれば済むことです」
「その覚悟があっての果たし合いだったのですね?」
「はい」
「ともかく着換えたら、お父上のもとにいらっしゃい」
  左門一人の不始末で一族の浮沈が掛かっているというのに、母の表情は平常となんら変わらずに穏やかで、いささかの動揺もないことに気づいて左門は驚嘆していた。
  母が去ると、侍女のお咲が濡れた身体を包む白布の替え着を持参して左門に近寄り、愛しそうに、濡れた着衣を脱ぎはじめた左門の逞しい身体を見ない振りで見ていた。
  下帯一つになった左門の十八歳の鍛えられた肉体は、瑞々しい若さに溢れていて、女の盛りに入りはじめた二十歳のお咲の目には眩し過ぎたのだ。
「才次郎さま」
「なんだ?」
「盗み聞きして申し訳ありませんが、本当に屋敷を去る気ですか?」
「仕方あるまい」
「わたしは何度か、恩田家の早苗さまへの付け文をお運びましたし、お二人のために忍ぶ夜の手引きもしましたが、あの早苗さまへの想いはどうなされますか?」
「どうなるものでもあるまい」
「せめて、一目だけでもお逢いしたいとは思いませぬか?」
「未練はない。恋敵が兵介どのだったのが不運だったのじゃ」
「でも……」
「相手は、ご三家筆頭の尾張徳川家兵法指南役。わたしは未だに部屋住の身……」
「わたしの知るところでは、左門さまは八歳の時に前髪の角を剃られて額直しという略式ではありますが、半元服の儀式を済まされて藩校への入学を許されていますし、才次郎さまは幼少の頃から藩校の特別課程に推挙されて為政者としての教育を受けていらっしゃいます。ご主人さまは、才次郎さまの元服もま近いと口癖に申されています。それに、ご長男の左進さまは病弱ですし、ここは我慢のしどころかと存じます」
  たしかに尾張藩家老・大道寺家における左門の責任は重かった。兄の左進は病弱で弟の直涼はまだ幼い。一族の頼みが左門に偏るのも無理はなかった。
  八代将軍、徳川吉宗公の時代になって以来、太平の世に慣れた軟弱な武士の生活が見直され、外敵に備えての鍛練との大儀名分によって文武両道への励みが推進されていた。
  大道寺家は内堀の本屋敷の他に、稲沢の地にある大道寺城を任され、初代城主の大道寺玄潘以来、当主で左門の父である大道寺玄蕃直方に至る今日まで、尾張藩一の部門の誉れ高い名家として揺らぐことのない家老の地位を保って来たのである。
  大道寺玄家の遠祖は、かつて東国一帯を収めていた北条家にあっての猛将の名をほしいままにした武蒋大道時玄潘政繁は、北条氏盛運の頃には元武州川越城、上州松井田城と北条の最前線を守る勇将として天下に鳴り響いていた。
  甲斐の猛将武田信玄の城攻めには、大道寺政繁自らが松井田の居城から討って出て、武田の大軍を蹴散らして追撃し、信州小緒城を落としたこともあった。その大道時玄潘政繁の勇猛な活躍ぶりは敵味方の称賛を浴び、後の世までの語りぐさになっている。
  その勇将の血を継いだ大道寺家は、玄蕃を世襲名として尾張徳川家に確かたる地位を保ってきた。その大道寺家にあって幼少の頃から弓馬術、柔、剣、槍術に水練など武芸全般に加えて儒学や五経、書を含めて文武両道の稽古に明け暮れた左門は、すでに全ての部門において水準以上の腕前になっていて、元服と仕官の日も間近だった。
  そんな時に起こったのが、この庄内川河原の決闘事件だったのだ。