第五章

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21、道場破り-1

新緑の木々がざわめく神宮の森の朝は、壮厳で清々しくさわやかだった。

 朝稽古が終わって遅い朝食までのひとときを、休む間もなく竹箒を手に参道の清掃に参加した左門を見て、朝からの作業に立ち働く宮司見習いや巫女たちが笑った。

 主膳の木刀で叩かれた額の腫れを冷やすために、濡れ手拭いで鉢巻きをした左門の姿が勇ましくもあり滑稽でもあったからだ。

 左門は空腹だったが、稽古を終えた弥吉が食事を作るのだから待つしかない。

「めし出来たぞ。腹がへったべ」

 朝食の支度が出来たからと弥吉が呼びに来て、いつもの如く田島主膳を囲んでの食事となった。神宮内には大勢の宮働きがいたが、主膳はいつも弥吉の作った質素な料理で平三郎と弥吉をを話し相手に食事をしていた。それに左門が加わったから賑やかになる。

 この朝は、左門の修行の第一歩に相応しい他流試合の道場について、あれこれ意見が交わされたが結論はなかなか出ない。主膳が「もう一息だな」と、左門の武技に疑問を抱いたからだ。しばらく話が途切れたところで弥吉が口を開いた。

「ならば、高辻の龍福寺裏の渡辺剣術指南道場はどうだべ?」

「なにか考えがあるのかね?」

 不安そうな主膳に弥吉が応えた。

「当主の渡辺源右衛門が、江戸に呼び出されて不在、と聞いてますで」

「留守か? それじゃ、まるで火事場泥棒じゃないか?」

「とんでもねえ。代稽古の松原ってえ師範代がけっこう強いヤツでしてね」

「そうか。ところで、その道場主が江戸に行くことになった理由は何だね?」

「例の重臣・野崎主税のお家騒動ですよ。まだ結審は出てませんがね」

「自分の子供の権次郎に三千石の家督を継がせたいために、相続権のある太郎とか太郎作とかいう女敵の子供を殺したってやつか? あれは本当のことか?」

「大道寺家に次ぐ三千石の家柄なのに、本妻に跡継ぎがいなかった……しかも、殺したのが妾で、殺された子供の母親も妾だっていうから笑っちゃいまさあ」

「笑い事じゃあるまい。で、それと、渡辺源右衛門はどう関わってるんだね?」

「源右衛門は野崎主税の剣術の師匠だが、その立場を利用して道場の財政的な支援を依頼した上に、人の子を殺した側のキノという野崎の妾とも出来てたって噂ですから、幕府のお目付家老の竹越様から公儀にご一報があったとしても仕方ねえと思いませんか?」

「どいつもこいつも、根性の腐ったヤツばかりだな」

「だから、留守に行って片っ端から叩きのめしてくるんです」

「そう、うまくいくかな? 逆に叩きのめされたらどうする?」

「月謝なしで実践の稽古が出来るだから、どっち転んでも損はありますまい」

「それもそうだな。どうだ才次郎!」

 主膳が賛同したので左門に断る理由などない。仕方なく無言で頷いた。

 こうして、左門の最初の他流試合の行く先が決まった。早朝の稽古で田島主膳に叩かれた額の痛みがまだ疼いて、もう、どうでもいい気分なのだ。

 渡辺剣術道場の名は知っているが、左門はまだ立ち寄ったことはない。

 田畑平三郎は、聞こえているのか聞こえていないのか、われ関せずとばかりに黙々と箸を動かし、鰯の干物などをかじっている。

「田畑さんはどうだね?」

 弥吉がたまりかねたように声を荒らげると、平三郎が箸を止めて白湯をすすってから口を開いた。

「どうせ最初は緊張でガタついて試合にはなるまい。どこでも一緒さ」

「田畑さんは、左門どのがすぐ負けると言うのか?」

「そうは言っておらん。ただ、どの道場も手強いぞ、と言いたいだけだ」

「だったら、渡辺道場でも同じだべ?」

「道場主の渡辺源右衛門は、心形刀流の伊庭軍兵衛秀淵門下の逸材でな」

「だから何だ?」

「かなり手強いぞ」

「田畑さんとならどうだ?」

「いい勝負かな」

「だったら、左門どのでもいい勝負になるべ?」

 主膳が笑顔で口をはさんだ。

「鬼のいない間に道場荒らしか?」

「他流試合の初っぱなにこんなのは、縁起が悪いだべか?」

 弥吉が消極的になると、主膳がきぱりと言った。

「そんなのは気にせんでいい。源右衛門は事情聴取が済めばすぐ戻ってくる。そしたら道場主とも戦えばいい。その前に景気付けをやるのもいいかも知れんぞ」

「権宮司さまは、その道場主をご存じで?」

「ああ、源右衛門が子供の頃から面倒みとるでな」

「弟子たちも強いですかね?」

「そこまでは知らん。才次郎が行って確かめて来ればいいだけさ」

「そうします」 

左門がきっぱりと応じた。もう迷いはない。

食後、二人は出掛けた。
鼻唄まじりの弥吉と腹の決まった左門とが、うっそうとした熱田の森を離れて、広々とした濃美平野の丘陵や、緑に包まれた
田園風景の中を北の方角にある高辻に向かって歩いていた。左門は今までに、これほど春の野がのどかだとは知らなかった。
打ち所が悪ければ命にも関わる他流試合に向かうことすら、全く気にならない。

 弥吉は、草から草へと撥ねる虫を見つけると腰をかがめてそれを追い、手にした虫を左門の鼻先まで突きつけて屈託なく笑った。

「こいつにも、人間と同じ命があるだからなあ」

 と、感嘆したように天に向かって投げると、虫は大きく羽を広げてはるか彼方へと飛んで行った。それを目で追った弥吉が左門に言った。

「あいつはな。おらが捕まえるまで羽を持ってるのを忘れただ。いざとなれば、あんなにも遠くまで飛べだから、捕まる前に飛べばいいのによう」

 柔らかな春の日差しが緑の木々や丘の若草に注ぎ、小鳥がさえずる野に吹く風も快く、民家の立ち並ぶ高辻の龍福寺界隈も人通りは少なく静かだった。

 それでも、古びた伽藍や鐘撞堂などを眺めながら龍福寺の境内を突っ切って裏門から高辻の町並に入ると、どこからか激しい気合の籠もった声と撃剣の音が聞こえて来る。

 やがて、土塀をめぐると「心形刀流・渡辺剣術指南道場」と看板のある古びた門が目の前に現れた。

「いいか?」

「はい!」

 交わす言葉はこれだけだった。

 門を入ると、松や楓の大木があり、屋敷を改造したような剣術道場がそこにあった。

 門を潜った二人の姿を見て、すかさず三十歳前後の武士が道場から姿を見せて先に声をかけてきた。

「何用でござるか?」

 左門は腰を折って軽く辞儀をし、型通りに言った。

「一手、ご指導願いたい」

 その一言を聞いたとたんに武士の態度が変わり、明らかに侮蔑の目になっている。

「あいや、待たれよ。立ち会いを望むのはそなたか?」

「さようでござる。浪人・大原左門、一刀流を少々」

「今日はいかん。大先生が不在なのだ」

「大先生でなくては相手になりませぬか? 私はどなたでも結構……」

 男が左門の口を封じるように不機嫌な顔で言い放った。

「他流試合は大先生の許可が必要だが、飛び入りに稽古を付けるのは自由だ。拙者は尾張藩大御番組武野真一郎と申す。拙者でよろしければ稽古をつけて遣わす」

「お願い申す」

 武野真一郎が弥吉を見て顎をしゃくった。

「そちは何じゃ?」

「おらは、付き添いじゃ」

「なんだ偉そうに……町民か農民かは知らんが武士以外が神聖なる道場に入ることはまかり成らぬ。そこの格子窓越しに主人が叩きのめされるのをとくと見聞せい。主人が倒れたら玄関先に放り出してやるから、早々に引き取ってさっさと失せろ」

「へい。そう致します」

 武野真一郎に従った左門が玄関で草履を脱ぎ、道場に入って一礼すると打ち合いの音が瞬時に止んだ。稽古中の者も座って待機中の者も道場内にいる三十人ほどの武士全ての視線が左門に注いだ。この瞬間、左門は一気に五体が戦う緊張感に包まれるのを感じた。

 ただ、この感覚は、庄内川の河原で柳生兵介と対峙したときの恐ろしいほどの緊張感とはまったく違う。あのときの絶望的な恐怖感がまったくないのだ。

「この者が稽古をつけて欲しいと言って来ました。師範代、お許し下され」

「よしっ。やれ! 全員、座に戻って見聞せよ」

 師範代が松原新五郎と名乗り、左門も名乗ると、木刀が渡された。

「では、はじめ!」

 左門と武野真一郎は一礼してから木刀を構え、そこから試合が始まった。

22、道場破り‐2

はじめに動いたのは武野真一郎だった。

 ひとまずお互いに正眼に構えて吠えてはみたが、若い浪人は木刀を持ったっままぼや-っと立ったまま動く素振りもない。多分、同伴のあぶれ者にそそのかされての単なるわらじ銭稼ぎに過ぎない。そう思うと気が変わって無性に腹が立った。軽くあしらって逆銅で仕留めて相手の痛みを少なくする手筈を変え、いきなり木刀を大上段に振りかぶって一気に踏み込んで脳天を砕く……はずだったが予定が狂った。若い浪人は全く動かずに、その場で木刀を左側から右に振り抜いて逆銅を払ったから、出端の勢いがついた武野真一郎は避ける術もなく横腹がのめりこむほどに叩かれて昏倒し、息が詰まって「参った」の一言も言えずに、海老状に倒れて手足を痙攣させて失神した。道場の板壁側に並んで座った門人からは一瞬の静寂の後、いっせいにため息が漏れた。誰もがなにかの間違いだと思ったから、武野真一郎の油断に同情したのだ。

「おい、どうなってるんだ?」

夢かとばかりに師範代の松原新五郎が目をこすってたが、これは現実だった。

格子窓から試合を眺めていた弥吉が小さく頷いた。弥吉だけは、今の立ち会いだけでこの道場の門人たちの力量を推測し、これから起こるこの道場の悲劇を予感したのだ。 

「つぎは拙者だ。川崎石五郎、お相手申す!」

 先鋒が動いて負けたのを見て、二十五歳前後と思われる長身の武士が落ちついた構えて木刀を突き出した。見ると、しっかりとたすき掛けをして準備に怠りはない。

 が、左門は容赦しなかった。

 兵三郎から教わった他流試合の極意通り、二番手は素早く倒すことに決めているから自分から飛び込んで、身構えた相手の右手首上を左上から素早く叩いた。右手がしびれて木刀を落とした川崎石五郎が、顔をしかめながらも「まだまだ」と、負け惜しみを言いながらも素早く木刀を拾って左手だけで面を狙って打ち込んできたが、もはや迫力も速さもない。

 したたかに肩口を叩かれた川崎石五郎が木刀を投げ出してがっくりと腰を落とし、「参った」と叫びながら、左手を上げて追い打ちを避けるように体を傾けたが、その顔にはありありと恐怖の色が浮かんでいた。それを、木刀をだらりと下げ左門が、憐れむような眼で見下ろしていた。

 立会いを見守る門人たちの間から、今度は溜め息ではなく驚きの声が広がっていた。

 ここからは多くを記憶していない。次々に現れる門人たちと戦っているうちに無我夢中になり、われを忘れて必死で木刀を振るっていた。そこには生死を超越した修羅の世界があった。

 道場には、痛みに耐えかねてのたうち回る門人たちのうめき声が響き、殺伐とした中にも、川中島か関ヶ原の戦いでもあるかのような高揚した熱い殺気と戦いの気が流れ、もはや左門を倒すまでは、試合の中途打ち切りなどあり得ない状況になっていた。

 始めの武野真一郎から数えて、六人か七人ほどを倒したところで、代稽古を努める松原新五郎が木刀を持って立ち上がった。

「大原どの。しばし呼吸を整えられよ」

 松原新五郎はさすがに代稽古を任されるだけの武士だった。額から溢れ出る汗で衣類までを濡らす左門を見かねたのか、しばしの猶予を与える余裕があったのだ。

 左門が汗を拭き呼吸が収まるのを待って、道場の中央に進み一礼をした松原新五郎が、「いざっ」と、左門を誘って木刀を構えた。

 左門は、チラと窓から見える弥吉の目を見たが、弥吉は「好きにしろ」と言わんばかりに涼しい顔であらぬ方角を見ていて左門の目を見ようともしない。これで左門は、全力で戦うことに腹を決めた。

 松原新五郎は右足に重心を乗せ、ゆっくりと木刀を右肩上部にかつぐように八双に構えてから油断なく左門の目を見つめ、体重を徐々に前に寄せながら摺り足で接近する構えを見せ、今にも襲うという気力を見せている。左門は一歩下がって、師範代の一撃を避けられる距離を保ち、最初の一撃を下から撥ね上げるか、隙あらば機先を制して下から手首を切る一刀流の小調子で戦うという策を頭に浮かべていた、迷いはない。

 信州信濃に生まれて大和山中に隠遁した妻方貞明によって戦国時代の実戦型刀法として育ち、幾代にもおよぶ武芸者の研鑽を経て伊庭是水軒秀明によって完成された心形刀流は、近くは長崎平戸の城主松浦静山が広めたことでも知られている。今では日本中に鳴り響いている実践型の剣法といわれ、その実力は尾張のこの道場にも伝わっていたのだ。

(これは手強い……)、これが左門の感じた本音だった。だが、恐れはない。

 左門が先に動いて激しい戦いになった。

 目まぐるしく体の位置が入れ代わって木刀が真剣のように鋭く風を巻いて交差して五体を襲う。それを、お互いに間一髪の差で避けるという際どい戦いが続いたが、体力に勝った若い左門が軽く小手をとったところで、さっと師範代が身を引いて戦いは終わった。

 師範代の松原新五郎は蒼白な顔をひきつらせて、小手を打たれて見る間に赤紫に腫れてくる右手をかばうように一歩下がり、荒い呼吸を整えて「本日はこれまで!」と素知らぬ顔で叫んで、左門に有無を言わせず木刀を引かせると定法通りに一礼をし、「なかなかの太刀筋、見事であった。また稽古したくば参られよ」と言い残し、いかにも自分のほうが腕は上だといわんばかりに昂然と胸を張って別室に去った。

 その引き際の見事さで左門が小手で一本取った事実すら薄れ、師範代が左門を相手に手抜きをして稽古をつけたような印象すら残った。なにしろ、目まぐるしく攻防が変わっている上に速い動きの中での左門の素早い一撃だったから、師範代が痛い素振りを見せなかっただけに、まだ剣技に未熟な門人たちには何が何だかさっぱり分からない。

 これで師範代の狙い通り、勝敗の行方は判然としないまま立ち会いは終わり、道場の殺気だって張りつめていた空気がいくらか和んだ。

 その時、弥吉を含む何人かの野次馬に混じって、編笠を被って三味線を抱えたまま道場の格子窓から試合の成り行きを見守っていた鳥追姿の女が、そこから離れて足早に去って行くのを弥吉が納得したように頷いて、その頑健な顔つきからは想像も出来ないような優しい表情でさり気なく見送った。その目は慈愛に満ちていた。

 木刀を門人に返した左門が、汗ばむ体を拭いてていると、二度目に戦った川崎石五郎が痛む体をかばうように足を引きずって奥から現れ、左門に懐紙の包みを手渡した。

「見事であった。些少だが修行の足しにされよ」、と長身の腰を折って一礼し、「次回は師範の居られる時にな」と、言葉を添えた。

「このようなものは……」

「いや、これは当道場の決まりでな。遠慮は無用ですぞ」

「しからば、お言葉に甘えて頂戴つかまつる」

 一応、形式的な押し問答があって、なにがしかの金銭が左門の懐中に収まった。

 門弟たちに見送られて表に出ると、来たときは余裕がなくて気づかなかった道場の玄関先に数本ある八重桜の華やかなたわわな桃色の花が風になびいてはらはらと花びらを散らしている。季節はすでに新緑だが、尾張にはまだ春の名残が残っていた。

 そんな左門の感傷を逆撫でするように、道場の門を一歩出ると弥吉が手を出した。

「いくら包んだだ?」

 左門が道場で手渡された懐紙を開くと、わずか一ケの二朱銀があった。左門にとって、これが生まれて初めて自分で汗を流して得た金子だった。額は小さくとも貴重な経験で得た大切なお金だと思うと涙がこみ上げて来る。

 その左門の感動を弥吉も感じていた。

「偉いぞ。よく稼いでくれただ」

「たかが二朱ですよ」

「二朱あれば米が7升は買えるだ。これで、おら達も遠慮なく飯が食える。もっとも、平三郎さんは最高で二両、米だと一石(百升)まで稼いだことがあっただがな」

「二両なら三十二朱。二朱の私の十倍以上……それが腕の差ですか?」

「平三郎さんだって初めは二朱だっただ。それが、何回も押しかけてこっぴどくやっつけるから、最後には泣きが入って、これでご勘弁を……と、頭を下げられ二両で厄介払いされただよ」

「私には無理です。今日のは必死のまぐれ勝ちで、次回は負けるかも知れません」

「弱音を吐くな。もう弦から矢が放たれた以上は引き返すことはなんねえだよ」

「そんなこと言っても……」

「おらも一緒だ、左門さんにだけ苦労はさせねえ。万が一の時は二人とも田島さまに骨を拾ってもらうだけだから心配はねえだ」

「そんなこと言ったって……心配ですよ」

「まあ、忍者の闇討ちで命を落としたと思ってみろ。怖いものなしだべ?」

「でもこうやって生きてるし……」

「死んだ人間が、まだこの世にウロウロしてると思えばいいだべな?」

「なるほど、死んだと思うのですね?」

 何度、同じことを考えたことか。これは、あの庄内河原での死闘以来、左門がつねに抱えている大きな命題だった。死んだ気になる……まだ十八歳の左門には無理だった。

 それでも左門は、せいいっぱいの虚勢を張って明るく言い放った。

「よしっ。死んだ気になって道場破りをやってやる!」

 どうせ、迷い悩みの葛藤は今後も心の中で消えることはないのだ。

 初夏の空は青く澄んで小鳥がさえずり、森や野には名もない花が咲き乱れ、新緑の風は汗ばんだ肌に快い。こうなれば野に朽ちて草花や樹木の肥やしになってやる。

 二朱銀一枚の土産を懐中に、左門は昂然と胸を張って弥吉の前を歩いた。

23、道場破り‐3

左門が他流試合を行った翌日の夜、神社裏の権宮司宅の広間で、近く行われる舞楽神事の前祝いの宴で賑わっていた。この神事は平安朝から続く熱田神社の晩春の大きな行事だった。その席で、田島主膳が集まった十五人ほどの職員に左門を改めて紹介した。

「すでに諸君とは顔馴染みとは思うが、改めて紹介する。こちらの若者・大原左門を、この度、正式に当神社の衛士長・田畑兵三郎配下の衛士として迎えることにする。すでに、聞き及びとは思うが、昨日、当地藩内の某道場において並いる剣士をなぎ倒してきた剛の者じゃ。神社の守りには最適だと思うが、いかがかな?」

「それは結構!」

「心強い助っ人で何よりですな」

 田島主膳には、誰もが多かれ少なかれ何らかの縁で雇われているから異存はない。全員から賛同の拍手が湧いた。左門が素直に頭を下げた。

「有り難くお受けします」

「よかったな」

 弥吉が左門の肩を叩いた。それも嬉しかったが、何よりも嬉しかったのは、家を出て行く当てのないこの身を、神社の職員として迎え入れて今後の不安を軽くしようとする遠縁の田島主膳の情のある心だった。左門は人の情けを勘当されてから知りつつあった。

 熱田神社には、本宮司代行の権宮司の他に、禰宜(ねぎ)一名、主典(さかん)五名、宮掌(くじょう)五名、その他に出仕(しゅつし)、衛士(えいし)など多数の役職に多勢の人員を常勤させっることが熱田神社の格式に応じて、神社令で定められている。しかも、祭事で行列がある時などは、先駆衛士、前導神職、側衛衛士、神幸所役、召立文役、盾役、鉾役、弓役、太刀役、太鼓役……その他に、琵琶、笙、巻物、後衛神職、後衛衛士などがそれぞれ複数で必要となるために、常勤の職員だけでは人手が足りなくなる。かといって、年次行事のための人員まで常駐させたのでは、神社の財政がますます逼迫するから、祭事に応じてその都度、縁者知人を臨時に雇うのだが、その謝礼だけでも大変な額になる。

 したがって、経済的な運営上の問題からみれば、定法通りに人員を揃えるよりは格安になるから、職員の常駐などは名あって実なしで、祭事の度に人を駆り集めて帳尻合わせをすることになる……これが、貧しい神社の処世法でもあった。

 それでも、風雪や落雷で壊れた建物や施設の修復費用、運営費や職員の俸給などの諸費用を、朝廷や幕府や藩からの援助や篤志家の寄進だけで賄うのは苦しいから、ますます経費節減になり、権宮司見習いなどを含めて新たな職員を採用することは大変なのだ。

 なのに権宮司は、世間からはみ出してここに逃げ込んで来た者に、役職名を与えて正規に採用し生きる道を与えている。

 今の左門にとって、権宮司の存在は神仏に近い……いや、神仏そのものだった。あるいは、権宮司に恩を受けた者は誰もが同じ心かも知れない。見えない仏を語り拝むのは容易だが、現実に困窮している人間を救うことは難しい。それも理屈でではなく実践となると誰にでも真似の出来ることではない。多分、苦しみを知っている人間だけが、同じ境遇の人間を理解できるのだ。

 二人の博徒を殺して故郷を捨てた、と言う平三郎に言わせれば、「権宮司は大和に妻子をおいて一人で熱田神社の権宮司として暮らしている。それには、それなりの理由があるのだ」とか……だが、その理由については平三郎も黙して語らない。

 ただ、「誰にでも人に言えないこともあるさ」とだけ言った。

 ならば、ひょうひょうとして何事にも動じない弥吉はどうなのか?

 ある朝、左門が弥吉に何気なく聞いてみた。

「弥吉さんも、ここにお世話になるには何か事情があったのですか?」

 お互いに荒稽古での汗を拭きながらの気楽なひと時だったから、つい左門も軽い気持ちで聞いたのだが、弥吉の返事は重かった。

 弥吉は一瞬、間をおいてから苦しげな表情で吐き捨てるように言った。

「少しだけ、お上に逆らってな……」

 その先を呑み込むように口をつぐんだ弥吉は、肩を落としてその場を去った。

 左門は、その時の苦渋に満ちた弥吉の顔と万感をこめた短い一言に、軽い気持ちで問うた自分の軽薄さを悔いた。それは、そのすぐ後での朝食の席で、まったく何事もなかったかのように日頃の明るさを取り戻して左門に接した弥吉を見て救われたが、それだけに、理由もなくその心情の辛さだけが伝わって来て、左門はなぜか切なかった。

 辛い過去を背負い、先の見えない人生を歩のは左門だけではなかったのだ。

 その弥吉は、宮掌という役職を与えられてはいたが、祭事などについては全く無関心らしく改めて学ぼうとはしないようだが、それも田島主膳は許容している様子だった。

 ともあれ、弥吉も平三郎も権宮司の情けで救われ、左門もまた同じように熱田神社の警護職があてがわれ……いわば、熱田神社の用心棒として迎えられたのだ。今回の他流試合での成功は、左門の兵法者としての名声を高めただけではなく神社に働く者にとっても、物取り強盗の増えた物騒な世の中であるだけに、心強い存在として迎えられる大きな要因にもなっていた。

「まあ、何はともあれ無事でよかったな」

 高辻の渡辺剣術道場から戻って田畑平三郎も同席の下で、弥吉共々に他流試合の結果を詳しく報告したときに、田島主膳が発したねぎらいの言葉が何よりも左門にとっては嬉しかった。さらに、主膳が左門が得た二朱銀について触れた。

「この半分の一朱は神社に寄進してもらい、残りの一朱は、弥吉に預けて才次郎の将来に蓄えておく。今後の稼ぎも同様だからな。弥吉も平三郎も、こうして蓄えた銀子を家元に送っているのだ」

「左門どのはまだ妻子がないからな……」

「……仕送りもないだべ?」

 平三郎と弥吉が笑った。左門は、平三郎も弥吉も独り者と思っていたが、それについて触れた覚えがないだけに、左門の勝手なカン違いだったようだ。

 左門は、恩田家の早苗の将来がどうなるのか気になったが、死んだことになっている自分のことなど、すぐに忘れ去られる存在であることを考えて思わず首を振った。

 宴が更けて座に快く酔いがまわった頃、平三郎が左門に言った。

「明日もどうだ?」

 意味がわからずに返事を渋っていると、平三郎が剣を振る手真似を入れた。

「他流試合だよ。今度は若宮通りの村上流だ。少々手荒い道場だがな」

 弥吉が横から顔を突き出して首を振った。

「いかん。あいつらは負けるのが嫌いだで、後味が悪くなるだべ」

「そうか。まだ無理か……」

 左門がすかさず平三郎に反論した。

「やります。やらせてください」

「そうムキになるな。左門どのは村上流を知ってるかな?」

「流派は聞いています。但馬の国から発した二刀流ですね?」
「昨日の心形刀流もいざとなれば二刀流だが、ここは違うぞ。稽古場でも最初から二本の木刀で交互に腕を振って血相変えて殴り掛かってくる。自分では頭の上で受けたつもりでも、もう一本の刀ががら空きの腹部を突いて来る。それを防げば眉間をを打たれて気絶することになる」

「勝つコツは?」

「受けにまわらず、攻めて攻めて攻めぬいて恐怖感を植えつけてから一本を奪う……これが出来れば次回に行っても勝負になるが、相手に勝てると思わせたら、今回は勝てても次回は負けだ」

 弥吉が頷いた。

「二刀流と棒術は犬猿の仲、ここなら棒術でも逃げねえはずだ。田畑さんが立会人で見届けてくれるなら、おらと左門さんが試合に出るべ」

「逃げるだか?」

「逃げはせん。ただ、向こうが歓迎しないだけだ」

「田畑さんが、こげな臆病とは思ってもみなかっただ」

「臆病と言われちゃ黙っていられん。拙者も闘う。権宮司さまのご意見は?」

 但馬主膳がおだやかな表情で頷いた。

「わしに異存はない。存分に暴れて来なさい」

 これで、三人が出掛けることになった。左門が誰にともなく聞いた。

「二刀流と闘うのに、何かいい手はありますか?」

「明日の朝でよければ、少しは手伝えるかな……だが、今でもいいぞ」

 主膳が箸を両手に持って顔の前に突き出した。

「村上流の始祖である宮本武蔵は二刀流の創始者を標榜するが、昔から組み打ちになった場合は小刀を左で抜いて胸を刺すのが常道だった。そこから考えた必勝の技が二刀流だがここには致命的な欠陥があるのだ」

「それは?」

「二刀流にこだわるために、柄を握る指の位置から目線、姿勢、足遣いなど細部に渡って三十五ケ条の兵法極意を設けて、それに凝って稽古をするため、その節を突き崩す意外性があれば全く役立たないのだ」

「と、なれば不意打ちと畳み込む速さが有効ですね?」

「それと、剛碗がものをいう。大上段からの打ち込みは二刀を交差させて受けるのが常道だが、右手で受けて左手で突いてくる姿勢を見せたら、ためらわずに片手では受けきれぬように思い切って打ち込むのが良策なのじゃ。横に払われたら逆らわずに、その流れた自分の刀をそのまま横に払って胴を打つ……」

 左門が頷き、これで明日の他流試合が二刀流と決まった。

「納得しました。これで自然体で望めますので、朝稽古は結構です」

「そうか、それはよかった。中途半端な稽古は迷いを増すだけだからな」

 左門は武者震いで緊張をほぐし、明日の試合を思って瞑目した。

24、道場破り‐4

村上流の長尾権十郎剣術場では、三人を囲んで殺気だった門人の怒号が飛んだ。

 その対象は田畑平三郎だけで、棒術で試合をと申し入れた弥吉と、稽古をと下手に出た左門には誰も目を向けない。完全に無視されている。

 激しい稽古を中断した屈強げな武士が、汗まみれの顔を突き出して平三郎に凄んだ。

「おぬし、この河合勝蔵の頬の疵に覚えがあるか?」

「疵どころか、そんな醜悪な顔に知り合いはおらん」

「頬だけじゃない、左頭部にも貴様に木刀で叩かれた陥没痕があるのだ」

「それは気の毒、右側の頭を打たれたら頭がイカれて家族の名も忘れるぞ」

「やかましい、お主とはまだ決着がついておらん。さっさと支度せい」

 左門は、騒々しいが活気のある道場内を見回した。

 大小蓋振りの木刀で叩き合う二刀流の道場は激しい気合に満ちていた。それは樫の木の激突する音の激しさだけとも思えない。一刀流に比して間合いが狭いのか、打ち込みも凌ぎも間断なく続くのが騒々しく感じさせるのかも知れない。その中で髪を伸ばした小柄な初老の武士が左門の目についた。素早い動きで二人を相手にしているのだが六本の木刀が目まぐるしく交差して叩き合うのだが、小柄な男の木刀が二人を圧倒し、たちまち肩や腰を打って「参りました!」と、言わせている。

 (これは手ごわい)、左門は五体が引き締まる思いで身を硬くした。

 河合勝蔵の誘いに平三郎は乗らなかった。

「いや、拙者は検分役でござる。こちらの若者、大原左門に一手ご指導願いたい」

「いかん。そこの棒振りと若者はケガのせぬように板の間の隅にでも座ってなさい」

 弥吉が怒った。

「なんだ棒振りとは失礼だな。あんた、おらと打ち合ってみるか?」

「おのれ町人の分際で武士を愚弄しおって。生きて帰れると思ってるのか!」

 河合勝蔵という武士が、腰の一刀を引き抜いて目にも止まらぬ早業で首を撥ねる……つもりで腰に手をやったが生憎と稽古着で腰にはっ小刀しかないから手にした木刀で思いっきり打ち込んだが、弥吉がすばやく棒で払ったので木刀が空を切った。

「ほら見ろ、でかい口叩くでねえ」

「やかましい」

「二刀流の元祖・宮本武蔵は、棒術とも堂々と戦ったでねえか」

「そこまで言われたら我慢がならん。ならば道場に出ろ! 相手をしてやる」

「それは、こちらの台詞だべ。ま、あんたじゃ役不足だが相手をしてやっか」

「問答無用、早く支度せい」

「支度はこのままだ。いつでも掛かって来いや」

「おのれ……」

 同門の仲間たちがあわてて間に入ってなだめたが、河合勝蔵の怒りは収まらない。いつの間にか、試合の対象が田畑平三郎から弥吉に変わっている。

 門人たちが集まってあれこれ揉めた末に、遺恨の残った河合勝蔵と弥吉の試合が先鋒となり、左門がそれに次ぎ、平三郎は介添人として控えることになった。

 試合が始まると静まった道場に一瞬だが張り詰めた空気が風になって走った。

 左門が目にした長髪の初老の男が「はじめっ」と命じ、門弟の用意した床几に腰を下ろすと試合は始まった。この男がこの道場の主か? こう思うと左門の胸が踊った。

「河合勝蔵、容赦はせぬぞ」

「神道夢想流杖術、棚原弥吉、いざっ参る!」

 弥吉が六角に削った手作りの樫の棒を隆々と扱くと、大小の木刀を両手で上下に構えた河合勝蔵が、定法通りの間合いをとらずに恐れる風もなく弥吉に迫って「おりゃ-」と、脅しをかけて打ち込んだ。たちまち体が入れ代わって激しい攻防が続いたが、弥吉が「行くぞ!」の掛け声と同時に両手で振り下ろした棒の右手を放したから、片手打ちになった棒が相手の木刀が届かない距離を越えて伸び、河合勝蔵の右側頭部に見事な一撃を食らわせた。弥吉はいつでも相手を倒せたのだ。

 柄にもなく甲高い悲鳴を上げて昏倒して頭を抱えてのたうち回る河合勝蔵を尻目に、仁王立ちになった弥吉が棒を構えて叫んだ。

「誰でもいいから掛かって来い!」

 そこからは目まぐるしく相手が変わったが、所詮は弥吉の敵ではない。

 五人ほど倒したところで、弥吉が汗を拭いた。

「拙者は田村政兵衛と申す」

 いかにも頑丈そうな武士が出たところで弥吉が左門を見た。

「少々疲れた。そろそろ代わってくれ」

「なんだ。拙者が恐ろしくて背を見せるのか?」

 弥吉が振り向いて鼻で笑った。

「そうだ。恐ろしいから若者に譲るのだ」

「そんなガキなど相手に出来るか!」

「まあ、ガキに剣術遊びを教わりな」

「ようし。容赦はせぬぞ」

 左門は、気持ちを引き締めて大きく息を吐いて立ち上がった。

 田村政兵衛は二本の木刀で素振りをしながら殺気だっている。

「大原左門、いざ見参!」

 木刀を借りて道場に立つと、相手は若い左門を格下と見て最初からなめて掛かっていたのか、間合いを詰めていきなり両手を交互に振るって打ち込んで来た。予期したことでもあったから左門は落ちついて二歩飛び退さって間合いを開き、相手があわてて追って来る瞬間を狙って、右手首を狙って左斜め上部から鋭く打ち下ろして小手を打った。

 相手は思わず右手の木刀を落としたが、それでもさすがに二刀流は一癖も二癖もあった。右の刀を落としても左の刀で一気に左門の胸元を突いてきた。しかし、その程度で驚く左門ではない。その木刀の切っ先五寸のあたりを軽く横に払ったからたまらない。

 思わず田村政兵衛が前のめりになって左門に横顔を見せたから、本能的に出会い頭に軽く叩いただけで悪気がない。ただこの男、勢いがつき過ぎたのと打たれ所が悪かった。

 道場中に鈍い衝撃音が走って田村政兵衛が鼻血を噴いて、のめった体が左門の木刀の勢いに負けてひっくり返され仰向けに昏倒し、もがいて静止し気を失った。明らかに顔面強打で鼻梁の骨折……気の毒だが自分から左門の木刀に衝突したのだから仕方がない。

 左門もまた、五人ほどを倒したところで、息巻いて飛び出す門人たちをなだめて小柄で長髪の小男が二本の木刀を無造作に引っ提げて道場の中央近くにゆっくりと歩み出た。

「村上流長尾派、長尾権十郎でござる。新影流を学ばれたのかな?」

「いかにも」

「見事じゃった。よく、ここまで修行されたものよ」

「さほどには……」

「望みとあれば汗など拭いて一息入れて、わしと手合わせしてみるか?」

「是非にも、お願い申します」

 殺気だった表情で荒い息を吐く左門に、初老の道場主が春の日のそよ風のよういなおだやかな声で語りかけた。すると、今まで張り詰めていた左門の闘争心が紙風船がしぼむときのように消えてゆく。あちこちで呻き声が漏れる殺気だった雰囲気の中、温厚そうな道場主が門弟に命じて、左門に手拭いと碗に入った薄茶をすすめ、自分も備前焼の茶器で薄茶を旨そうに飲み干した。弟子が弥吉と平三郎にも茶をすすめたが二人は拒絶した。

「戦場であるほど、心にゆとりが欲しいものよのう」

 道場主が誰にともなく言って立ち上がり、弟子が手渡した木刀二本……その瞬間、温厚そうだった道場主の表情が一変し鬼か阿修羅かの恐ろしい形相になった。

「さ、一手参ろうか」

 左門は、妙に苦い茶だとは思ったが胸苦しくなり、なぜか戦闘意欲が沸いてこないのを歯がゆく感じながら木刀を手に立ち上がった。だが、道場主に対しても蛇に睨まれた蛙のようになぜか体全体が気だるくて力が入らないのだ。

 道場主に代わって主審を勤める高弟らしい武士が「はじめっ!」と、試合開始の合図をした時にも、どうにも動けない状態で、ただ漫然と二刀流の構えから道場主が打ち込んで来るのを見ているだけだった。

「一服、盛られたな」、弥吉が呟いた。

「左門、どうした!」

 厳しい平三郎の大声での叱咤が道場の静寂を破り、一寸の間合いで左門は道場主の頭上への一撃を交わして横に逃げたが二の太刀、三の太刀と矢継ぎ早に追撃する木刀の空気を裂く音を耳に、左門はただ受けにまわって無様に逃げまわり、倒れたら転がって逃げ、立ち上がってはまた逃げた。

 左門は防戦一方になり、必死で道場狭しと逃げ回ったが、長尾権十郎はさらに二刀を風車のように振り回して執拗に追って来る。立ち会いが始まった当初は怒りと屈辱で緊張していた門人たちから徐々に失笑が漏れ、左門が必死で打ち込みに耐えてよろけたりすると笑いや拍手が出るようになっていた。

「逃げろ、逃げろ!」

 指示は平三郎から出ていた。汗を流せば正気に戻れるのだ。

 平三郎は、初老の道場主よりも若い左門の体力に賭けていた。逃げて逃げて汗を出してから戦えばいいのだ。だが、五十代と思われる道場主のどこにそれだけの体力があるのか、一向にその攻撃力には衰えが見えず、左門はただただ追いまくられるだけで、もはや勝敗は見えていた。

「もう、いかん」

 弥吉が絶望的な悲鳴を上げた。これが合図になって左門を正気づけた。

 百戦錬磨の武士でも油断はある。たった一太刀の反撃もない若者に引導を渡すのも酷だが弟子の手前もあるし、道場主としてもここで威厳を示さねばならない。弟子たちの恨みを込めた一撃を……と、今までは間合いを詰めて打ちまくっていたのに、左門が振り向く寸前に右から横面、左から胴を狙って、ここ一番でと木刀を振るって飛び込んだ。

 これが道場主、長尾権十郎の敗因だった。この若者はこの機を待っていたのか……と、さすがに村上流長尾派を継ぐ名手だけにすぐ気づいた。ただ、意識が薄れてゆく中での気づきだったから遅すぎた。門人たちの悲鳴も怒号ももう聞こえなかった。

 左門は、自分を追う道場主の足音が擦り足から撥ね足になるのを待っていたのだ。

 擦り足であれば左門が反撃しても変幻自在に避けられるが、撥ね足になれば撥ねた直後には左右に動けない。それを待った左門は、道場主が追い打ちをかけて撥ねた瞬間に振り向きざま体を沈めて逆に一歩踏み込んで木刀で腹部を狙って突き出したのだ。勢いがついていただけに腹部への強烈な突きは効いた。これで呼吸が止まった道場主は、その場で昏倒し、直ちに弟子たちに担がれて奥の部屋に運ばれた。

 問題はここからだった。当然ながら怒号が沸いた。

「これじゃ、試合にならん」

「卑怯なやつらだ」

「こやつらを逃がすな!」

「戸口にかんぬきをかけろ!」

「窓も閉めるんだぞ!」

 狂気の集団と化した二刀流の門弟達三十人余が三人を取り囲み、一人二本づつの木刀で殴りかかったから堪らない。袋叩きにあった三人から悲鳴が……いや、悲鳴は攻めている側の武士達から起こっていた。なにしろ主力になる主だった武士は最前の立ち会いでかなりの痛手をこうむっていて、憎しみで参加はしているが戦力にはなっていない。平三郎が冷静に、弥吉と左門が傷めたところだけを狙い打つから痛みが倍増して我慢が出来ない。主力の門弟が悲鳴を上げて逃げ回りのたうつから気合が入らない。左門も弥吉も平三郎も手当たり次第に逃げる相手を追い回しては殴りまわったが、彼らは逃げようにも戸口にかんぬきを掛けて退路を絶っているだけに逃げ場がない。絶望的な悲鳴が続いた。

 羽目板が割れ床が抜け、建物の物的被害も少なくはない。

 結局は、数人の主だった門弟が息も絶え絶えで休戦を訴え、平三郎がそれを呑んだから今のところは死者を出さずに平和裡に和睦が成立した。

 ただ、和睦には必ず勝者と敗者の休戦協定の前に条件闘争が加わるのを常とする。

 平三郎が切り出した。

「見ろ、この肩と足の傷……こちらの棒術の先生だって腹に二箇所、腕にもかなりの傷があるんだ。それに前途あるこの若者まで身体中傷だらけじゃないか? さ、どうしてくれる? それともこのまま帰す気か? なんなら、もう一度改めて立ち会うか?」

「いや、お待ちくだされ……」

 こそこそと道場の片隅で高弟らが協議の上で、やがて紙包みが出る。

「これは、治療費ということですかな?」

 弥吉がさり気なく指を三本出して知らせると、平三郎が言った。

「道場主が、この若者に飲ませた岩見銀山入り薄茶……どうだ旨かったか?」

 左門が「苦いだけでした」と渋い顔をすると、また協議が始まった。

 左門でさえ、これで三朱では安すぎると思ったのだ。

 やがて、また紙包みが届けられる。

「なるほど、これで解毒剤は買えるべえな」

 弥吉が指を二本出すと、すかさず平三郎が言った。

「三人で来てるんだ。道場の秘密も守らねばならんだろ?」

 最終的に弥吉が合計で六を示したことで、道場にとっての疫病神は退散することになったが、お互いにあまり後味のいいものではない。

 しかし、三人は屈託なかった。窓も締め切っての暗い他流試合だっただけに、熱田神社への近道に緑いっぱいの田んぼ道を歩く三人にとって、弥生四月のさわやかな風は快いものだった。

「さっき、見せた田畑さんの肩の傷、風呂場でも見ましたが……」

「拙者は傷があると言ったはずだ。あそこで傷ついたとは言っておらんぞ」

「それで、六朱も稼いだのですか?」

 二人が顔を見合わせてニヤリと微笑み畦道で足を止めた。弥吉が、担いでいた樫の六角棒を小脇に抱え、懐から紙包みを三つ出して、手のひらの上に広げて見せた。

 そこには陽光に輝く黄金が六枚、一両小判が六枚、六両の大金があった。

「これは……十両で首が飛びます」

「冗談言うな。盗んだ金じゃない。今日の仕事の報酬なのだ」

「これでな、当分はでかい顔で飯がくえるぞ」

「酒も浴びるほど呑めるしな」

 左門は、急に身体中が痛むのを感じた。自分では気づかなかったが道場での乱闘の際にかなり木刀で殴られていたのを知って、真剣だったら、と思うとなにか恐ろしいことをしているように思えてくる。だが、羽を持った虫が飛べることを知らずにいる……あの弥吉の一言を思い出すと、なぜか勇気づけられて元気が出る。

「さあ、飛ぶぞお」

 思いっきり両手を空に突き上げて叫ぶとスッキリして痛みが飛び去った。

 なんだか意味も分からずに弥吉と平三郎がそれを真似た。

25、道場破り‐5

大原左門の十八歳の春から夏にかけての日々は、極めて危険な道場破りという他流試合に明け暮れ、傷つき倒れ立ち上がって闘い続けながらも大きな怪我もなく無事に、熱田の森の樹々の葉が緑から黄や赤に染まる季節を迎えていた。

 さわやかな風が濃美平野の田園を埋めた黄金の稲穂を揺らす初秋の頃、風の便りに恩田家の早苗が藩士の元に嫁いだとの噂が流れて来た。と、いうよりは小物屋の手代に化けて神社を訪ねてきた忠吉がもたらしてくれた情報なのだが、相手は早苗の父・馬回り役方の恩田平四郎の同輩・幸田作衛門の長男で幸田与兵衛という若者だった。

 幸田与兵衛は、左門とも旧知の仲で左門より六歳年長の好青年で、早苗の相手として何一つ不足のない立派な相手だった。左門としては悔しいという思いも多少は有るが、胸のつかえが取れる思いで、むしろ、結婚した相手が柳生兵介でなかったことでホッとしたというのが正直なところだった。

 しかも、幸田与兵衛は、その婚儀を機に隠居する父親に家督を譲られて、正式に馬回り役方百五十石として勤めることになったのだから、重ね重ねめでたいことだった。

 しかし、めでたいことばかりではない。

 左門はあれからも、木こりの藤三郎の妻八重に何度か命を狙われている。だが、不思議なことにその都度、誰かは知らぬが八重の邪魔をして闘い、左門に決定的な打撃を受けさせずに至っている。左門は、影になって動いてくれているのが誰であるかは知らないが、こうして周囲の人達に守られて無事に生かされている自分を知って感謝の気持ちだけは持ち続けたいと思った。

 そんな初秋の風の冷たいある日、左門と弥吉が他流試合に出掛けて留守の間に、尾張藩目付役という武士が旧知の仲の田島主膳を訪ねてきた。

 生憎と田島主膳も所用で外出していたこともあって、声を掛けられた宮司見習いが留守を頼まれていた田畑平三郎を呼びに来た。平三郎が出てみると、平三郎の幼なじみで寺小屋に一緒に通った後藤作兵衛という同年の藩士だった。後藤作兵衛は下級武士とはいえ生活の安定した藩の公職を放棄して熱田神社に奇遇する平三郎にも好意的だった。

 平三郎は後藤作兵衛が酒好きと知っていたから、真っ昼間から般若湯をなみなみと茶碗に注いで出したこともあり、言わなくてもいいことまで気軽に話して帰ったという。

 その夕、道場主と左門が相討ちに終わり、その口止め料として一両を稼いで帰って来た弥吉と左門を平三郎が呼んだ。

「ちょっとした揉め事が出来た。権宮司さまが帰る前に弥吉さんと話したいことがあるんで、左門さんは少しの間だけ外してくれんかな」

「では、私は井戸で汗を流して傷も冷やしてきます」

「そうしてくれ、すぐ終わるからな」

 日頃はひょうひょうとした態度で何事にも動じない平三郎だが、この日の厳しい表情を見ると、何か大きな事件でも起きたような緊迫感を感じて気になったのだが、この時点ではまだ、それが平三郎の身に起きたことなのか弥吉のことなのかも分からなかった。

 その後、弥吉が夕餉の支度をしているところに権宮司が帰社した。すると平三郎がすぐ主膳に耳打ちしてふた言三言話すと、主膳がおだやかな声で左門を呼んだ。

「才次郎、弥吉に代わって味噌汁をつくってくれ。三人で急ぎ話があるでな」

「承知しました」

 三千五百石の大道寺家に育った左門は、女の城である台所に入るなどは武士の恥と教えられて育ったものだがここでは違った。なにもかも米を研ぐのも野菜を煮るのも弥吉から見よう見まねで教えられていたのだ。当然、味噌汁もつくれる。しかも、白味噌に加えて八丁味噌などを重ねて味をよくする調理法なども身につけていた。左門は二刀流との他流試合を経て、両手が自由に使えることの利を悟り、日常生活では意識して左手を使うようにしていた。したがって野菜を切るのも杓子を持つのも左手だったがもう不便はない。

 主膳ら三人が部屋にこもって密談を重ねたようだが、それもわずかな時間で結論が出たようだった。左門による食事の支度が終わった頃合いには三人は部屋から出て来た。

 左門が過ごした大道寺家の夕食では、家族ての食事でも一人づつ膳を囲んで粛々として声なき無言の業だったが、ここは違った。食事が賑やかな語り場なのだ。一人づつ並べた小膳での食事だが、上座に主膳が一人、下座に平三郎、左門、弥吉の三人の一対三で向かい合い、弥吉が下座の端にいて飯や汁のお代わりの面倒を見ていた。

 いつものように主膳が菜に箸を伸ばしながら先に口を開いた。相変わらずおだやかな表情だった。

「今日の成果はどうだった?」

 口の中の飯を味噌汁で流し込んでから弥吉が応じた。

「もう噂が出回ってて、どこさ行っても門前払いで仕事になんねえです」

「さっきの一両はどうしたのだ?」

「遠出した甲斐あって、ようやく試合を受けてくれた道場があったです」

「それで?」

「まるで、剣術を知らないような町民からぶつけられ順繰りに休みなく闘わされて、左門さんがクタクタになってから師範が悠々と現れて……」

「やられたのか?」

「結果は相討ちだが、誰が見たって左門さんの抜き胴が一瞬も二瞬も早かっただ。なのに後から左門さんの肩口をしたたかに叩きやがって……」

「結果的には相討ちか?」

「まあ、敵の道場じゃ仕方ねえですがね」

「それで、わらじ銭が大枚一両にもなったのか?」

「ま、そんなとこでがす」

 そこで、権宮司の目が左門に向いた。

「才次郎……」

「はい」

「急なことだが、弥吉がここを去ることになった」

「いつですか?」

「今夜だ」

「なぜですか?」

「訳は弥吉が言う。わしと平三郎は才次郎には言うな、と諭したのだが弥吉が嘘は言えんと言うから仕方がない。いいか、誰にも漏らすでないぞ」

「他言はしません。弥吉さんには世話になっていますので、このまま何も知らずに別れるのは残念です。ぜひ、その理由を聞かせてください」

 左門は、三人の雰囲気から何かあるとは感じていたが、こんな別れが唐突に来るとは思ってもいなかったから、無性に悲しくなってくる。

「ならば、左門さんにも聞いてもらうべ」

 主膳が、平三郎と顔を見合わせため息をついた。

「今まで黙ってただが、おらは、岐阜各務ケ原(かがみはら)の源弥という百姓でな」

「何となく分かってました」

「この世の中で、ここだけは、権宮司さまも田畑様も左門さまも百姓のおらを何の差別もしねえで相手をしてくだせえました。まったく感謝するばかりでごぜえます」

「なんの……」

「だども、おらも年貢の収めどきが来たみてえで」

「何があったのですか?」

「……各務ケ原という土地は、天領と名護屋藩の両方に別れていて、どちらにも年貢を収めなければなんねえ所だ。何年か前の台風後の不作で飢饉の時に、村の百姓連中が娘を売ったり飢え死にしたり村を捨てただが、役人は何もしねえどころか、粟もヒエも喰えねえ飢えた百姓から年貢を取り立べえと躍起になって、厳しく村人を責めたから我慢の糸もプッツリで、おらが先に立って代官所の米倉を襲うことになっただ」

「百姓一揆ですね?」

「おらが先導して代官所を襲い、木っぱ役人を何人か倒しただが、打ち所が悪くて死人が出たことから大騒ぎになり大勢が捕まっただが、首謀者のおらに先導されて参加しただけだというだとになり、逃げ延びたおらだけが死罪で手配され、ここに逃げ込んだだ」

「逃げ込んだのは、私も同じです」

 平三郎が頷いた。

「拙者も同様ですぞ」

「で、捕らえられた村人はどうなりました?」

「その後の探索がかなり厳しく、おらが一族は爺からガキまで代官所にしょっぴかれ、手ひどく折檻されて死んだ子も出たそうだ。それで、おらの身代わりに弟が名乗り出て牢屋に放り込まれ、その代償で村人もあらが一族も全員が無罪放免になった。その代わりに弟がみせしめに近いうちに川原でハリツケ死罪になる……それを、権宮司さまが匿っている弥吉が関係ある、と見た藩士がひそかに知らせてくれただ。その藩士も、権宮司さまに世話になってたことがあったそうだ」

「それで、権宮司さまが留守で、田畑さんが話を聞いたのですね?」

「たまたま、その男が田畑さんと幼なじみだったからよかっただ」

「それで、これから弥吉さんはどうするのですか?」

「弟を助けなきゃあ、男がすたるでな」

「でも、牢破りはご法度、捕まれば死罪ですよ」

「なあに、人間、二度は死なねえだ」

「また、お会いしたいです」

「生きてれば、和尚と親しい鵜沼の正法寺に寺男としてもぐり込んでるだ」

 食事が終わったところで平三郎がぽつりと言った。

「勝手ながら拙者も各務ケ原に行くぞ」

 弥吉があわてた。

「それはダメだ。これは、おらの仕事だで」

「誰が弥吉の手伝いをすると言った? 拙者は一人で旅をするのだ」

 その場の勢いで左門も口を出した。

「では、私も各務ケ原に一人旅をします!」

 それまで黙っていた田島主膳が言った。

「才次郎は、わしの代わりに暫く留守居を頼む」

「なぜですか?」

「わしは、近いうちに京の九条家に移り住まねばならん……」

 三人が、苦渋に満ちた権宮司の顔を見て次の言葉を待った。