第六章

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26、 別れ道-1

食後の会話にしては内容が重かった。

 食事を終えてもまだ主膳は、茶碗酒を呑んでいた。

「さあ、おまえらも呑め。弥吉との別れの酒だぞ」

 左門も、平三郎に注がれた辛口の酒をチビチビと舐めるように呑んでいた。

「このことは平三郎だけに話しただけだが、いずれは皆に言わねばならんことだからな。ま、祭事指南などで請われて行くが、すぐ化けの皮が剥がれてクビになるさ」

 田島主膳は、意識してか明るい口調でさり気なく言った。

 左門がホットした口調で言った。

「では、すぐ戻れますね?」

 平三郎が左門を諌めた。

「それならいいのだが、権宮司さまの帰るところがないのだ」

「どういうことですか?」

「この熱田神社も政権交代の機が訪れたな、と、権宮司さまはおっしゃられる」

「政権交代? 田島さまの他に誰かいるのですか?」

「今までは確かに尾張氏正当の田島さまが本宮司役も兼任で、二百軒余の社家を率いて熱田神社を守って来られたが、裏では権宮司さまの足を引っ張る連中もいるのだよ」

「失脚を願ってるのですか?」

「そうだ。あれこれ権宮司さまの素行のあら探しをしては藩主の耳に入れ、側面から退任を迫ろうという者がいてな」

「なんだか、私にはさっぱり理解出来かねます」

「この熱田神社はな。元々はこの地を領した尾張一族が収めていたのだが、ある時期から尾張家は神官代表に残り、熱田神社の金看板である本宮司は藤原の出である千秋家が継ぐことになったのだ」

「田島家じゃないのですか?」

「今、実際の運営を任されている権宮司さまの田島家は、その千秋家の長男の出自で、次男の出である馬場家と交代制で継ぐことになっていたのだ。不文律だがな」

「いつ交代するのですか?」

「不測の事態がない限り、あと二年は権宮司さまの任期なのだが」

「それが、何らかの理由で早まったのですね?」

「誰が讒訴(ざんそ)したかは知らんが、田島さまの代になって熱田宮のあり方が藩や国の政りごとと相容れないと、付け家老の成瀬さまが言って藩主を動かしたらしいのだ」

「藩令が出たのですか?」

「いや、尾張徳川家も熱田神社の社家に過ぎないから、権宮司を変えるなどという大それたことは言いだせないさ。だから、京の九条家を動かして権宮司さまを京に招く手を考えた。権宮司さま、こう考えましたが、おかしいですか?」

「いや、尾張徳川家も熱田神社の社家に過ぎないから、権宮司を変えるなどという大それたことは言いだせないさ。だから、京の九条家を動かして権宮司さまを京に招く手を考えた。権宮司さま、こう考えましたが、おかしいですか?」

「ま、当たらずといえども遠からずだな」

 田島主膳が頷くと、平三郎が左門に向かって続けた。

「権宮司さまの下の社人には、総検校と権宮司の代役の可能な馬場家があり、大内人(おおうちんど)という祝師(はふりし)の役を受け持つ大喜氏という尾張一族の名家もあって、虎視眈々と次の主役の座を狙ってるんだ」

「まあ、そんなことはどうでもいいことだ」

 権宮司の田島主膳は無関心な表情で、話題を打ち切ろうとする。

 平三郎はそれを無視して左門と弥吉を相手に話を続けた。

「ここは権宮司さまの代になってから、治外法権を利用した駆け込み神社として弱者救済を貫いて来た。それが、今になって裏目に出たってことだな」

「私もその恩恵に預かってます。でも、それで誰かに迷惑をかけましたか?」

「我々だけじゃないぞ。権宮司見習いの何人もが主家に楯突いて武士を捨てたりして、ここに逃げ込み、権宮司さまの守護の袖にすがって救われてきたのだ」

「と、言うことは権宮司さまそのものが藩主にとっては邪魔なのですね?」

「その通り、目の上のタンコブというやつだろうな」

「別に謀叛を企んでもいないのにですか?」

 弥吉が平三郎と左門を制して口を開いた。

「全てはおらが悪いのだ。各務ケ原(かがみがはら)での一件でここに逃げ込んだおらのことは、とうに疑われていただが、役人が来る度に権宮司さまが知らぬ存ぜぬで庇ってくてたで助かってただが、それももう限界だ。それにな左門さん……」

「はい!」

「森に埋めた忍者の死骸の一部が、真夜中に掘り出されたのを知ってただか?」

田島主膳があわてて弥吉を制した。

「これ、それを言うでない」

「いや。これは言っておかねばなんねえです」

「知りませんでした。と、すればお上がそれを知ったら?」

「それは心配ねえだ。柳生だって表立って忍び者を使って個人的な争いの報復をしたとあれば、届け出のない私闘禁止の掟破りや熱田神社内刀剣使用禁止令の違反など、限りなくお家断絶に近づいてしまうだから噂にはなっても表沙汰にはされねえだ。ただ、左門さんの身の危険と、権宮司さまの立場の悪さはこれで何倍も増えただべな」

「私の身はどうなっても、権宮司さまのお立場が……」

 田島主膳が言葉を継いだ。

「気にすることはない。どこに行こうと山々に四季は訪れ、清流に岩魚は群れる」

「でも、ここまで築いた地位は失せます」

 田島主膳が、腕組みをして日頃の饒舌さを失って瞑想状態にある弥吉を見た。

「なあ弥吉、そう思わんか?」

 弥吉が目を開けて口に指を当てた。

「静かにしてくれねえですか」

「なんだ? もったいぶって」

 別れに際して弥吉がなにか感じることがあると思うから、主膳が静かになる。

 平三郎と左門も喋るのをやめて弥吉を見た。弥吉が声をひそめた。

「どうだ、なにか聞こえねえか?」

 本宮裏の楠の大木の葉擦れの音に混じって森全体の揺らぎが風に乗って耳に入る。

 日頃、歳のせいで耳が遠くなったと嘆く田島主膳が先に何かに気づいて言った。

「争いの気配があるな……」

 左門も真剣に耳を済ませた。すでに習慣になっていて手が自然に動いて右目の瞳に被せた魚鱗を外し、大切そうに油紙に包んで懐に入れた。これで闇の中でも闘える。

「どうだ、林の中の争いが聞こえるか?」

 主膳に言われて意識を外に向けて集中すると、確かに風に騒ぐ樹木の葉擦れに混じって石が砕け散る金属音が聞こえてくる。

「見てきますか?」

 左門が腰を上げるのを弥吉が制した。

「待て! 今夜は行っちゃなんねえだ」

「なぜですか?」

「今までの狙いは左門さんの命だった。ここのところ毎晩、刺客が現れてたからな」

「毎晩?」

「そうだ、いつも誰かに邪魔されてただがな」

「じゃあ、今夜も?」

「いや。それが妙なことに……殺気がこっちには向かってねえだ」

 平三郎が納得したように頷いた。

「やはり、そうだったか? 警護詰め所に左門どのが寝泊まりする夜に限って、森の中が何となく殺気を感じてはいたのだが……そうか、邪魔されて襲えなかったのか? 本来なら仇として狙うのは我々三人なのに、私怨はさておいて主家の仇の左門どのだけを襲うとは敵ながら天晴れ……」

「そんなの感心しないでください」

「それが、今夜に限って相手を変えたのだな?」

 まさしくその通りだった。

 伊賀のくの一で名を馳せた八重は、殺す相手の矛先を代えたのだ。

 夜陰に紛れて臭覚を頼りに森を掘って夫・藤三郎の死体を掘り起こした八重は、その無残な傷痕の血を舐めて、その遠因となった柳生兵介の仇である大道寺左門への復讐を誓っていた。死亡に見せ掛けて葬儀まで行っている卑怯さも許せなかった。

 八重はまず単独で、何度か左門を襲ったが、ことごとく甲賀の咲に邪魔されて目的を果たせなかった。やむなく単独での襲撃を諦めて、熱田の森での暗闘で夫を失った女忍や、若手の忍びを四、五人集めて左門を襲うべく熱田の森に入った夜陰に、咲にも強力な男の助っ人がいて、左門を襲うどころかケガ人続出ですごすごと撤退せざるを得なかった。

 そこで、八重は新たな策を練った。それが咲の暗殺計画だった。

 八重はまず、大道寺家を出た咲がどこに住んでいるかを突き止めるべく、左門を襲いに来て咲と争い、撤退したかに見せて咲を追尾したのだが、いつも巧みにまかれてしまって住んでいる地域すら特定できなかった。これでは、なかなか拉致があかない。

 こうなれば、ありったけの身内をかき集めてども咲を抹殺するしかない。咲のねぐらを探すよりは、この森で迎え討つ。これが八重が出した最終結論だった。

 今宵、集結した伊賀忍の数は総勢九人、咲と助っ人の二人だけを消すには充分過ぎる戦力だった。八重は七人を森に隠し、くノ一二人で左門を襲うと見せかけて、見事に森に潜んでいた咲と助っ人の男をおびき出すことに成功した。

 二対二での手裏剣の投げ合いで始まった闘いは、八重の合図で七人が参戦したことで様相が変わった。九対二……数の上では圧倒的な優勢なのだが安易な丸囲みは危ない。

 少数の相手が巧みに動くと、味方の手裏剣での同士討ちを誘発できるからだ。それでも、相手の退路を絶つためには囲って攻めるしかない。闇夜でも目が利く忍者の闘いはこうして、九人の大きな輪の中に追い詰められた二人の男女……この構図で激しく動いていた。

 外の輪で数人が倒れ、輪の中からも低いうめき声が聞こえた。

 これが、弥吉の地獄耳に届いたのだ。

「今夜は人数が多いぞ、何やら様子が違うようだ……」

 外の闇に耳を傾けていた弥吉が呟くと、左門が立ち上がった。今度は誰も止めない。

「やはり気になります」

 続いて平三郎が立つと、弥吉も田島主膳に頭を下げた。

「さいごのひと暴れ、お許しくだせえ」

「ああ行って来い。止めたって止まる連中じゃあないだろう」

 三人が、まだ酒杯を傾けている権宮司の目前から風のように去った。

27、別れ道‐2

「刀は使えねえだからな!」

 弥吉が裏口に用意してある木刀を平三郎と左門に手渡すと、自分は使い慣れた樫の六角棒を抱えて、人の気配のあった杉や楓の大木の下に灌木や雑草がうっ蒼と茂る森に飛び込んで消えた。風に舞う落葉も出始めた雑木が背丈ほどもあって人の出入りを阻む森は、闇夜に潜んだ忍者の姿を完全に隠している。さすがに手練の忍者達だった。かすかに聞こえたうめき声が虫の音に混じって完全に消されている。それでも何者かの気配は確かに感じ取れていた。

 平三郎と左門は身を低くして木刀を構え、森の外側から中を窺った。

 左門は、室内で魚鱗を外した目をと閉じていたが、外の闇に飛び出してすぐ目を見開いた。その瞬間から雨曇に覆われた夜の闇が夕暮れ時のようにはっきり見えている。

 平三郎がチラと左門を見て森に入るように合図し、自分から先に森に踏み込み、這うような姿勢で木陰から木陰に移動して行く。左門もそれに続きながら目と耳に神経を集中させて徐々に闇の中に溶け込んで行った。左門にも確かに人の気配は感じられるのだが、いくら耳を澄ましても風のそよぎと虫の音、野鳥の羽ばたきと鳴き声が聞こえるだけで、その人の気配がどこから流れてくるのかまでは判別がつかなかった。

 左門は様子を伺うべく木陰から動いて頭を上げ、そっと半信半疑で森の中を窺った。本当に何者かがここで争っているのだろうか?

 それを待っていたかのように突如、離れた樹上から手裏剣が飛来した。だが手裏剣は左門の頭上の小枝を折って左肩を掠めて去り血が飛び散った。その瞬間、近くの草むらから樹上目掛けて手裏剣が飛び、急所に的中したのか断末魔の悲鳴が樹上に上がって、間をおかずに黒い影が激しい音を立て灌木を折って地上に落下した。その影は一瞬呻いたが暫くして絶命したのか微動だにしない。

 森の中の静寂はこれを機に破られ、闇を割く複数の手裏剣が草木を掠め飛ぶ音がして、弥吉の怒号が続き草木をなぎ倒して黒い影が交差し白刃がきらめき手裏剣が乱れ飛ぶ。

 左門はあわてて地に伏して、急に慌ただしくなった周囲を見回した。

 身を低くしてしている限りは灌木や大木の幹が邪魔して手裏剣が目標を直撃することはない。それ故に、緑深い森の中の忍者の戦いはお互いに至近距離での白兵戦になる。

 左門と平三郎は、その戦いの輪の中に飛び込んではみたが敵味方の判別がつかない。

 ただ、闇をついて迫って来る敵を倒すことだけに意識を集中して木刀を振るった。

 それも一瞬、左門のすぐ近くの灌木の影から女の声が低く響いた。

「邪魔が入った。場所を変えて決着をつけようぞ」

「ヒュ-!」

 と応えた口笛が余韻を残して森の奥に走ると、あわてたように周囲の草木ざわざわと揺れ、かなりの人の波が動いて消えた。

 八重が、これほど近くに、主筋の柳生兵介と夫・藤三郎の仇と狙う左門がいたのを知っていたらどうなったか? 多分、すぐ立ち上がって咲の邪魔が入らぬ内に木刀の届かぬ距離から手裏剣を連発して左門の息の根を止めることが出来た、かも知れないのだ。

 だが、八重は左門の存在に気づかなかった。しかし、咲と忠吉は、左門が本宮裏から玉石を避けて森際の草むらを走って来たときから知っていた。左門のことであれば、走り方の癖も息づかいも熟知している。だからこそ、左門を狙って手裏剣を投げた樹上の男をすばやく倒せたし、八重に呼応してこの場を離れることにも異存はない。

 咲は、左門にだけは正体を知られたくなかった。だから口笛で応じたのだ。

 ともあれ、生き残った敵は消え去り、倒れて呻いていた忍者数人は毒を煽って自らの命を絶った。これで、ようやく森にも静寂が戻った。

 弥吉が立ち上がった。

「もう誰もいねえだべ? 平三郎さん、左門さん、無事だったか?」

「ああ、どこもケガしておらんぞ」

「私も無事です。少々肩に掠り傷を負いましたが……」

「命に別状ねえなら多少の傷は仕方ねえな」

「でも、かすり傷なのにかなり痛みますよ」

「かすり傷で痛む? そりゃまずい! 毒がまわってるだ」

 弥吉が駆け寄って懐中から出した袋から草を一掴み口に入れ、噛みしだいてから左門の肩を剥き出しにしてべったりと貼り付けた。

「着物の上から押さえつけてれば、毒は中和されるだからな」

「毒?」

「ヒガンバナかトリカブトの猛毒だな。痛みは残るだが死にはしねえだよ」

 平三郎が思案深げに言った。

「やはり、今回の狙いは左門さんじゃないようだな」

「おらたちが出てくるこたもなかっただ、何があったか気にしねえことだ」

 だが、左門はなぜか気になった。

 柳生忍びが、主家とする兵助を傷つけた自分を仇と狙うのは仕方ない。しかし、その襲撃者から自分を守ろうとする味方がいる、それは誰か……左門は馬丁の忠吉以外には思いつかなかった。そう言えば、大道寺家を去るときに手合わせをした馬丁の忠吉のあの鋭い太刀捌きを思うと何やら合点がゆく。左門が熱田神社に寄寓するようになってからも、忠吉は咲を連れ、商家の手代に化けて左門の着替えを届けてくれた。忠吉には子供の頃から世話になっていながら、剣の腕があれほどとは知らなかった。あれはただ者ではない。

 あの忠吉が、咲を守ってくれるなら有り難いし心強い。左門自身も忠吉が影の協力者なら納得出来る。

 左門が勘当されるとき「お供する」と咲も言ってはくれた。しかし、所詮は女だ。

 そう思うと、やはり、左門を影で守ってくれるのは忠吉の他にはない。

 三人が体の汗や汚れを拭って田島主膳に報告すべく戻ったら、主膳はまだ茶碗酒を飲み続けていた。主膳もまた己の身に降り掛かる火の粉を考えて、飲まずにはいられなかったのだ。

 忠吉はこのときすでに傷ついていた。

 四方八方から雨あられと降り注いだ敵の手裏剣から咲を守るために、咲を地面に押し倒して覆い被さって楯になり、身体中に毒を塗った手裏剣を打ち込まれていた。

その忠吉を、咲は左手で横抱きにして前傾姿勢で森の中をジグザグに走りつつ、右手で懐中から抜き取った手裏剣を投げ、左右から追う敵を独りづつ倒してゆく。咲は、八重が手裏剣を投げ尽くしたのを知っていた。懐中を探った手が空で戻ったのを見たからだ。

 忠吉は薄れゆく意識の中で、必死に足だけは咲に合わせて走った。手裏剣で一人を倒したのは知っているが、まだ刀すら抜いていないのが悔やまれる。

 やがて、熱田神社の森を北に抜けるとすぐ旗屋の森がある。その森に逃げ込む前に忠吉の足が止まった。咲は苦しみを越えて力が抜けてゆく忠吉を引きずる訳にもいかずに手を放すと、忠吉は草の上に崩れ落ちて荒い呼吸をした。

 見回すと咲を追う伊賀者の数は八重を入れてわずか二人、体つきから見て一人は男……たしか、自分たちを囲んだ数は九か十、忠吉が一人を倒し、咲は三人を倒したのを覚えている。

 と、すれば、三人か四人を左門の助っ人が倒したことになる。春、左門がまだ勘当されて間もない頃に詰め所を襲撃した木こりの藤三郎らを倒したのも、この左門の強力な助っ人達だった。この協力者がいる限り左門の身に心配はない。

 咲は心に余裕を感じながら、左手の伊賀忍の男が狙い澄まして投げてきた手裏剣を背を大きくのけ反らしての逆回転で避けると、起き上がりながら懐から握り出した最後の手裏剣を素早く男の額目掛けて鋭く打ち込み、その瞬間に切りかかってきた八重の刀を切っ先三寸で避けて立ち直って刀を抜いた。

「咲、おまえもそれで弾が尽きたな?」

「八重さん、お命ちょうだい!」

 咲は八重に切りかかったが、つい尊敬をこめて敬語になってしまう。

 伊賀の八重と甲賀の咲、くノ一の意地を賭けての宿命の対決だった。

 と、同時にどちらも女の意地を賭けた闘いになっていた。

 藤三郎を失い兵介を切られた八重が咲を倒せば左門を殺し、咲が八重を倒せば左門は生き抜いて世のため人のために生き抜いて人生を全うする可能性が残る。日頃から咲は、左門のためにも八重を生かしてはおけないと思っていた。

 八重もまた愛された兵介を切られ、左門を襲った夫も殺されて黙ってはいられない。咲さえこの世にいなければ、左門を殺すなどは蠅を叩くのと変わりはない。

 しかし、八重と咲が闘わねばならない理由は他にもあった。

 太平の世が続いて忍び者の必要性が無くなってすでに百年を超え、その必要性すらない時代が長く続いた。ところが、ここ数十年の間に状況は変わりつつある。かってのオランダやポルトガルからの使節や宣教師や中国や朝鮮からの影響どころか、オロシヤとかエゲレスなどの国からも何かと幕府に対して干渉してくると言う。

 太平の世が続き、幕府の権力が弱まると同時に、各藩それぞれの危機感によって武力もまた格差が広がりつつあった。幕府の首脳それぞれが開国か鎖国か勤皇か佐幕かで疑心暗鬼になってお互いを探るか監視する必要に迫られ、ここにまた忍者の活躍の場が生まれつつあった。それだけに、いま歴史の裏舞台で活躍するのは伊賀と甲賀どちらなのか、その主役の座をめぐって過去の確執がよみがえり、世間の誰もが知らぬ闇の世界ではここ数年の間に、何十人もの死者を出す激しい乱闘が繰り返されている。

 その経過に組み込まれて、くノ一を代表する八重と咲の闘いも、いつか決着をつけなければならない宿敵の闘いでもあったのだ。

28、別れ道‐3

二人が逆手に持った忍び刀は接近戦に強い。闇に火花が飛び、きな臭い金属の匂いが漂い、静かであるべき二人の息づかいが荒くなっている。

 咲はチラと離れた位置の忠吉を見た。忠吉が瀕死の中でも必死で手を動かして薬草を揉み傷の手当てをしているのを見て安堵した。今ならまだ命は救える。

 それを感じたのか、刀を構えて隙を窺いながら八重が言った。

「甘いな。その男はもう死ぬよ」

「死なせません!」

「咲、おまえは誰の子か知ってるか?」

「なにを言うのです?」

「台所頭の平塚弥二郎は仮親でな、母親は実母でくノ一……父親が違うのだ」

「意味が分かりません」

「平塚弥二郎は名だけの父親、おまえの実父は大原忠右衛門という甲賀武士だよ。長亨の乱で活躍した甲賀五十三家を代表する、南山六家の大原源三郎が子孫さ」

「知りません」

「平塚弥二郎は大原家の若党だった。それが藩内の情勢を知るために大原家が用意した高額の賄賂を用いて尾張藩御膳所に入り込み久米という嫁を貰ったが、その時すでに久米は咲をみごもっていた。それは双方とも承知の上だったのだ」

「そんな?」

「今の弟は弥二郎の子だから、咲とは異父姉弟になる……」

「八重さんは、この期におよんで何故そんなことを?」

「冥土の土産に聞かせてるのさ。ついでに、そこの男、あんたの叔父だよ」

「叔父?」

「あんたの実父・大原忠右衛門の弟、大原久兵衛だよ」

「まさか?」

「その叔父の縁で、大道寺家に女中奉公に呼ばれたのに気づかなかったのかい?」

「気づきませんでした」

「柳生も伊賀も謀略は得意だが、冥土の土産にウソは言わないさ。さ、行くぞ!」

 切りかかってくる鋭い刃先を避けながら、咲の思いは複雑にめぐった。実の父が違い、叔父がここに倒れている……乱れた心が八重に見抜かれ、追い立てられていた。

 さすがに八重は強かった。柳生の下働きを束ねるだけあって実力に裏打ちされた自信があり、その上に、夫を失い思い人を傷つけられた怒りがあった。畳み込んで切り込んで来る刃が何度も咲の身体をかすめて風を切った。

 実の叔父……そうだとすると、自分の身体の下に押し倒して身を守り、一身に敵の手裏剣を浴びて倒れた肉親の情も理解できる。咲は何とか反撃の糸口を得ようとするが、なかなか隙が見い出せずにずるずると後退するばかりだった。咲は追い込まれているうちに倒れている忠吉につまづいて倒れた。

 忠吉を抱えて走った疲労もあったのか、この饒舌な迷わせ文句が効き、咲から日頃の冷静沈着さを奪っていた。

 この好機を八重が見逃すはずはない。

「死ねえ!」

 力と怨念を込めた必殺の一撃が咲の頭上に来て、咄嗟に刀で受けはしたが続けて頭を狙われたら力尽きて面を割られるかで死ぬだけだ。せめて、二の太刀三の太刀かで胸か腹を突いてくれれば、咲が倒れたまま八重の頭を撃って相討ちで死ねる。

 だが、さすがに八重。その狙いを読んでか、相討ちという手には乗らなかった。

 二度、三度と瞬時も与えずに頭を狙って執拗に必殺の刀を振り下ろして来る。

 ついに受ける側の咲に、耐える力の限界が来た。

 もう一押しされれば顔が楯に割られる。勝ち誇った八重が切り込んだ刀を引かずに、そのまま力づくで押しつけて来る。必死で耐えたが押し返す力が尽きた咲は、自分の刀の冷たさが額に感じた瞬間に覚悟を決めて目を閉じた。こうなると、次は八重の刀の刃が自分の身体に食い込むだけだ。声だけは出すまい、こう思ったのだが……。

 一瞬、絶叫が響いた。これが断末魔の悲鳴というのか。

 とたんに身体中に何かがのしかかって来て重くなる。

 これは何だ? 地獄に行くと何か石でも積まれる刑があるのか?

「咲……」

 どこかで声がする。多分、閻魔の呼び出しがあるのだろう。

 恐る恐る咲が目を見開くと、勝ち誇っているはずの八重の顔が咲の胸の上にあって、苦しそうに荒い呼吸の中から咲を呼んでいて、背から刃先が斜めに抜けている。なんで、こんなところに刀があるのか?

「咲……」

「どうしたんですか?」

「分からんが。どうなってるんだ?」

 どうして、こうなったのか? なんだか腹部から下半身にかけてが温かく濡れているように感じるのと、なにやら硬い物質が腰に当たって痛い。恐る恐る手を伸ばして八重の腹部を持ち上げ痛む部分に触れてみると、それが刀の柄らしい。

 ふと気がついて横を見ると、右手を伸ばした形で忠吉が横向きに倒れていた。

 八重が最後の一撃とばかりに頭上から大きく刀を振り下ろして身を被せた瞬間、下から突き上げた忠吉の刀が鋭く腹部の中央に食い込んだのに違いない。八重もまさか、死んだような人間から攻撃されるとは夢にも思っていなかったはずだ。

「咲……おまえは、いいな……」

「なにが?」

「愛し、愛される人がいて……」

「誰のことです?」

「あの才次郎という若者だよ」

「愛し愛されてもいません」

「では、なぜ後を追う? なぜ、あの若者を守る」

「大切な主家の息子だからです」

「でも勘当されたら、ただの浪人、いや無宿者だろ?」

「何だっていいのです」

「好きだからだろ?」

「ええ、まあ、そうかも知れません」

「それ見ろ。でも、あの若者、あたしは好きだなあ」

「なぜです?」

「恩田家の早苗っていう女を兵介と張り合って一歩も引かなかった」

「その一念には感心します」

「女はね、ああして惚れてほしいのよ」

「分かります」

「でも、あの若者、本当は咲を好きだったんだよ」

「なぜ?」

「早苗は兵介と張り合っただけよ。決闘後の行動を見ればわかるでしょ?」

「でも、柳生さんも早苗さんを追ってたでしょ?」

「そうだね」

「それも、本当は八重さんの方が好きだったのかしら」

「男なんて身勝手よ。兵介も夫もあたしを抱くだけで愛情なんてなかった」

「そんなこと言ったって……」

「敵味方には別れたが、あたしは咲が大好きだった」

「……」

「あたしの遺言だが、聞いてくれるかい?」

「なんですか?」

「咲は才次郎と一緒になりなさい」

「さあ、そればかりは相手があることだし……」

「だめ、遺言だよ」

「努力します」

「あたしは忍者の家に生まれ、ただ人の影で奉仕するだけの幸少ない人生だった」

「私も同じです」

「それは違う。咲には堂々と、花が咲く表通りを愛する人と歩む道もある」

「たしかに」

「ならば、その道を……」

 八重が咲に抱かれて幸せそうに目を閉じた。

「だめ、まだ死んじゃだめ! あの才次郎さんの出生は?」

 無意識の中で八重が応えた。

「才次郎か……」

「八重さん、遺言は守るから教えてください」

「なんだ?」

「あの才次郎さんの本当の父親は誰ですか?」

 はっきりしない言葉で、聞き慣れない言葉を八重が口走った。

「……江戸の旗本、お庭……」

 八重は苦しげに力をこめて咲に抱きつくと、がくっと首を垂れて絶命した。

29、別れ道‐4

咲は身体を入れ換えて八重を地上に横たえ、胸の上から手で押し続けた。

「死んじゃだめ。八重さん、息をして!」

しかし、八重は生き返らなかった。

 お庭……は、御庭番と察しがつくが江戸の旗本とはどういう意味なのか?

 まさか、左門の父親の出自が旗本などというのはあり得ることではない。

 父親は、あくまでも大道寺玄播直方をおいて他にはない。その経緯を八重は知っていたのか、あるいは死に際してまで忍びの生きざまに徹して攪乱戦術を用いたのか?

 余命なきを知った八重は見事に死を選んでいた。咲に抱きついている間に懐中の薬籠から取り出した石見銀山の丸薬を嚥み下して自ら死を選んだのは、手に持った薬籠の口が開いていて残りの数粒がこぼれ落ちていることで分かった。見事な死だった。

 明日は我が身……咲もまた八重の死に、甲賀の里に生まれたこの身の定めを見た思いがして身が引き締まるのを感じた。このような、男勝りの伊賀のくノ一がこれからも現れて咲に挑戦して来るとしたら……その時は全身全霊を賭けて闘うまでだ。だが、そのような後継者がまったく存在しない可能性もある。

 かつて、戦乱の世にあって華々しく時代の表舞台で活躍した忍びの集団も今は見る影もなく衰退し、伝説の伊賀のくノ一の伝説も八重の死で尽きようとしている。くノ一の歴史に甲賀も伊賀もない。後世のためにも誰かが伝え続けねばならないのだ。

「八重さん、あとは私が……」

 再び、しっかりと血ぬられた八重を抱きしめると、生きているままの肌の温もりが伝わってくる。その感覚はまた左門の男くさい温もりを思い出させて辛かった。

 闘いの場で散った八重は、敵ながら天晴れではあったが哀れでもあった。

 戦場での生き死には男の領分であり、逞しく雄々しい男に愛され、その男との間に生まれた子を育てて家を守るのが女の道であるのなら、八重も咲も本来の道からは大きく外れているとも言えないことはない。その意味では、兵介と藤三郎、そのどちらからも子種を得なかった八重は真っ当な女の道を歩めずに散ったことになる。

 それでも、咲にはまだ希望があった。自分が男にしたと自負する若者……大道寺才次郎改め大原左門が生きているからだ。

 咲は八重の身体から離れ、横に移動して忠吉の横に膝を付き、その手に握った薬草をもぎ取るようにして自分の口に押し込み、唾液にまぶして噛みしだいてから手にとって背中の傷に練り込みながら囁いた。

「眠っちゃダメだからね」

「……大丈夫だ」

 忠吉が苦しい息の中でも気丈に声を出した。

「よかった、口もきけるのね?」

「口だけじゃない。体もすぐ動けるさ」

「無理はだめ! でも、今日は二度まで命を助けられて、感謝してます」

「ま。単なる巡り合わせというやつだ」

「でも、八重さんの言ったのは本当のことでしょ?」

「なんだ?」

「忠吉さんがわたしの叔父にあたるって……?」

「仕方ないから言うが、咲の父親はわしの兄に間違いない」

「知りませんでした」

「兄は早世したが、一人娘の咲のことをくれぐれも頼むと言い残したんだ」

「わたしは父の死について何も知りません。ぜひ、教えてください」

「ま、いずれな」

 咲が忠吉を抱き起こした。傷が痛むのか忠吉が苦しそうに顔をしかめた。

「わしはもういい。咲だけこの場を離れろ」

「いいえ。夜のうちにお屋敷までお連れします」

 忠吉がかすかに首を振った。

「おまえが役人に見つかると面倒になる」

「どのように?」

「大道寺家にいたのが分かるからだ」

「それは、忠吉さんでも同じでしょ?」

「わしのことは心配ない。まさか馬丁がここにいるとは誰も思うまいからな」

「でも……」

「それに顔も潰すから身元は分からぬ。滅び行く忍者の指し違いという形だな」

「では、八重さんはどうします?」

「ほぼ十人は倒していよう。と、すれば一人一人の詮索まではしないだろう。仮に八重が木こりの藤三郎の女房だったと判明しても、忍者だったことは内密にされ、そこからは誰も追求しないはずだ。伊賀者が尾張藩のために働いているのは周知の事実だからな」

「では、八重さんはこのままにします。忠吉さんをお屋敷に運びます」

「わしはもういい。咲だけ早く逃げてくれ」

「そうはいきません。どうしても連れて帰ります」

 咲が抱き起こすと、忠吉が力なく八重を指さした。

「ならば、あの刀をとってくれ。今ならまだ体が柔らかいから抜けるはずだ」

 咲が八重に手を合わせてから腹部に足をかけて力を入れて刀を抜き、八重の衣服で血を拭ってから刀を手渡すと、忠吉がその刀を鞘に収めてから杖にして立ち上がった。

「これで、われわれの証拠は何もない。神社にも大道寺家にも迷惑はかけないで済む」

「では、お屋敷に?」

「いや。お屋敷には戻らん」

「では、わたしに任せてください」

「どこへ行くんだ?」

「いま、私が匿われている場所です」

「わしにも言えぬ、と頑固に秘密を保ったにはそれなりの理由もあろう?」

「申し訳ありません」

「その禁を破ってもいいのか?」

「忠吉さんを助けるためなら許されます」

「そこはどこだ?」

「行けば分かります」

「分かった。そこまで言うまら任せよう」

「よかった……ひとまず、ここからは離れますね」

「今度は、わしが咲に救われる番だな」

「もったいない。これも私を救って受けた傷なのに……」

 気丈に立ち上がった忠吉は、瀕死の身を咲にゆだねて苦しげに足を運んだ。

 そこからの咲は忠吉の肩を抱え必死に闇の中を歩いた。

?

 それから、一刻(2時間)ほど過ぎた夜陰のこと、熱田神社から向かって北の方位の尾張城を目指しての堀川沿いの土手を肩を組んでゆるりと歩く男女の影があった。

 折から重くのしかかっていた雨雲からしとしとと秋雨が落ちていて肌寒い夜だった。

 ここから土手沿いに北上すると、御薗橋に近い内堀内西南角の大道寺家が目と鼻の先になるのだが、咲は、忠吉を抱えたまま藩のお米蔵先の納屋橋を西に渡ってから、用心深く周囲を見渡しながら土手沿いに西主水町方面に戻るから大道寺屋敷とは遠のいてゆく。

「咲、まさか……?」

 咲の肩にすがって息絶え絶えながら足を合わせていた忠吉が雨の降る闇の中を透かして見て言った。その方角には壮大な伽藍や屋根が連なる寺院がある。

「行く先はまさか、あの法蔵寺じゃないだろうな?」

 咲がずぶ濡れの顔に笑顔を見せた。

「その、まさかです。わたしは、あの天台宗法蔵寺の八角堂に仮住まいをさせて頂いているのです」

「驚いた娘だ。法蔵寺の道念上人は藩主とも柳生家の歴代宗主ともじっこんの間柄、そこに咲が匿われていたとは……?」

「驚きましたか? だから八重さんにも気づかれず安全だったのです」

「これは、誰の口入れじゃ?」

「大道寺のお殿さまです」

「ますます解せぬこと。ここは付け家老の成瀬家分家の菩提寺……大道寺さまとは相容れぬ仲ではないのか?」

「それは表向き、いずれ分かります」

 やがて、法蔵寺の勝手門にたどり着いた咲が、指笛で夜鳥の鳴き声を上げると、しばしの間があって内側から戸が開き、「お帰り」と、利休鼠色の作務衣姿の四十代と見える僧侶が番傘を咲の頭上にかざして手渡し、忠吉の顔を見つめて頷くと、驚く風もなく忠吉の身体を受け止めて軽々と背中に背負い、八角堂の庫裏に向かって歩きだした。

 咲が裏門を閉めて後に続くと、僧侶が背に背負った忠吉を強く揺すって声をかけた。

「忠四郎さん、いま眠ってはいかんよ!」

 忠吉から返事はなかった。安全な場所にたどり着いたことで緊張感が抜けて意識が一時的に遠のいているのか。

 咲が驚いた声を出した。

「覚善さん、忠吉さんを知ってるの?」

「大道寺家の忠吉さんとはご無縁だが、若いころの忠四郎さんには世話になってるんだ。この忠四郎さんは咲の叔父貴だろ?」

「それも、つい先刻知ったばかりなの」

「そうか……何はともあれ二人とも身体を休めるのが先だ」

 咲に与えられている部屋は、八角堂本堂裏の控えの間の一室だが、そこだけは庫裏の中でも隔離された隠れ部屋になっており外部からは部屋の存在すら窺えず、室内から閂(かんぬき)を掛けるとそこは壁の中……これこそ忍者の秘密基地ではないか……忠吉はその室内の温かい夜具の中で眠りから覚めた。室内には誰もいない。

 寺院の裏門にたどり着き、咲に代わって見知らぬ男に背負われたまでは記憶にあるのだが、そこからは何も覚えていない。

 耳を澄ますと、かなり離れた庫裏らしい方角から数人の低い話声が聞こえて来る。

30、別れ道‐5

雨が少し小止みになったことで、遠い会話が忠吉の耳に入った。

頭の片隅に「覚善」と、僧の名を呼んだ咲の声が残っている。と、同時に、その覚善という僧に「忠四郎さん」と、幼児期からの通称で呼ばれた記憶がよみがえった。 その覚善という名に覚えがないのも僧名だからで、会えば知っている顔に違いない。だが、声には覚えがない。

 忠吉の実名は、大原久兵衛……確かに、幼児から忠四郎と呼ばれていた。

 この寺の覚善という男は自分の名を知っている。と、いうことは、自分達と同じような境遇なのか? 押し殺した会話から、その謎を解くことが出来るのか?

 忠吉は目を閉じ耳を澄まして、かすかな会話の内容を知ることに意識を集中した。

 研ぎ澄まされた忍びの聴覚は、遠く離れた地での馬のひずめの音からさえ戦乱の兆しを読み取ることもある。忠吉もまた、厳しい修行を経て五感を磨いた甲賀忍びだった。

 覚善という僧の声がした。

「あの不死身と言われた伊賀の八重を倒すとは、たいしたものだな」

「わたしが殺される寸前に、瀕死の叔父に助けられたのです」

「こうなると、伊賀党は執念深く咲と忠四郎を狙ってくるぞ」

「覚悟の上です」

 覚善が口調を変えた?

「御前、どうしますか?」

 覚善が指示を仰いでいる、ということは目上の人がいるのか? しかも、御前と呼ぶ以上は、かなりの身分とみて間違いない。なぜ、そのような人物がここにいるのか?

 御前と呼ばれた男が言った。

「咲の叔父とやらを匿うのはいい。だが、争いはいかんな」

 声は老人だが落ちついた口調だった。六十を超えているのか?

「でも、ここに咲がいることは誰にも気づかれていないはずです」

「では聞くが、咲、相手は何人いた?」

「ほぼ十人か十一人ぐらいです」

「正確に数えていないのか? 間違いなく全員を倒したか?」

「それが突然、助っ人が数人現れたもので……」

「助っ人? それは何者じゃ?」

「武士です。忍び乱波の類いではないのは確かでした」

「それらが何人かを倒したのか? 腕は?」

「はい。伊賀衆の放つ手裏剣を、闇の中で苦もなく打ち落としていました」

「この太平の世にそのような手練れの武士がいたのか,何やつだ?」

 咲に代わって覚善が口をはさむ。

「御前は、この城下の剣術道場を荒らしまわった三人組の噂はご存じですか?」

「聞いてはいるが、どこまで真実なのか、どの道場も黙して語らんそうじゃな」

「その三人が、どこに属していたかは?」

「熱田神社の護衛士であるらしいと聞く」

「そこまでもご存じでしたか?」

「いくら神社の台所事情が苦しくても、道場荒らしで稼がすとは主膳もやり過ぎだ。あれでは追放されても止むを得まい」

「追放ですか?」

「京の九条家に、公事作法指南役として請われた形にはなっているが、実際には追い落としにあったのじゃ」

「やはり、助っ人はその三人ですかね?」

「分からん。咲の見立てはどうじゃ?」

「多分、そのように思えます」

「と、なると、その中に大道寺を勘当された才次郎とかいう小伜もいたのじゃな?」

「そこまでは気づきませんでした」

「死んだことになってはいるが」

「御前さまは、才次郎さまの葬儀が行われたことをご存じでしたか?」

「あれは、才次郎が問題を起こした柳生への幕引きの大芝居じゃった。違うか?」

「そこまでは存じません」

「主膳め、姑息な手を打ちおって。世間は騙せてもわしは騙されんぞ」

「さすがに御前は、地獄耳ですな」

「人の上に立つ者は世俗に長けておらんと勤まらん。咲がその才次郎に操を立てて屋敷から暇をとったことも、風の便りに聞きおよんでおる」

「恐れ入ります」

「ところで、伊賀忍は、その結末を伝えるために必ず一人は生き残る、と聞く。ならば、視界の利かぬ雨中の落人を追尾するなど、た易いことであろう」

「では、御前は、咲たちが尾けられた、と?」

「そう思うている」

「それでは、ご迷惑を……」

「これでいい、咲は頑張って叔父を助けた。これ以外には道はない」

「では、ここで咲と忠四郎さんを守ります」

「よかろう。甲賀衆の結束と戦闘力は伊賀以上と聞くが、どうなんだ?」

 そこからまた、瓦屋根を打つ雨音が激しくなって会話が聞こえなくなる。どうやら、咲と覚善の他に御前と呼ばれた人物が自分の処遇を案じているらしい。

 また雨が軽くなり、御前と呼ばれた男の声が続いた。

「咲は、大道寺家を去って自由の身だからどちらに付こうと勝手じゃが、あの男はまだ大道寺家に属しているのじゃろ。この謀り事を玄蕃に明かされては困るでな」

「と、いう御前さまの意見だ。咲、分かったか?」

「分かりました。藩の盛衰、国家の大事に関わることです。忠吉さんには話しません」

 忠吉は三人の会話の内容について、容赦なく襲う傷の痛みに耐えつつ思考を巡らせるのだが、その考えは乱れに乱れてるだけで一向にまとまらない。

 御前と呼ばれる人物が何者なのか、それさえ判然としない。忠吉の主家の大道寺の殿を玄蕃とか呼び捨てにした以上は同格以上か、あるいは敵方か? しかし、咲が敵方に通じる謂われがないだけに、ますます忠吉の頭の中が乱れてくる。

 自分が大道寺家に属しているから、謀り事を明かせない? それほど重要なこととは一体全体どのようなことなのか? 咲の話の中にあった、藩の盛衰、国家の大事という不穏な響きも気になる。

 いま、天下統一後二百有余年を経た徳川幕府の支配下から距離を持とうとする大名もあり、親藩でご三家筆頭の尾張藩内にさえ幕藩制への疑問を呈する家老がいて、藩内の不平分子を煽ったりすると聞く……忠吉は、謀り事とはそのようなことか? と推理した。

 と、なると大道寺の殿を玄蕃と呼び捨てにする御前という男は、一体何者なのか?

 覚善が御前と呼ぶ相手を考えると、法蔵寺の僧としての立場からみれば道念上人が御前であり、甲賀忍びの立場からであれば、望月、滝、上野、和田、隠岐、鵜飼などの他に、自分の身内の大原本家の当主もそれに当てはまる。

 まさか……伊賀ということは? あり得ないことではない、と考えれば、伊賀なら、野村、館岡、下柘植、新堂などの名家の当主を御前と呼ぶ習わしがあるのかも知れない。

 鈴鹿山系の伊賀、滋賀の甲賀と地域こそ違ってはいるが、山岳武士集団としての統率や兵法は殆ど共通していて、戦乱の時代こそ敵味方に別れて戦うことも多かったのだが、関が原の戦いから二百余年を経た太平の世においては争うこともない。

 江戸城の警護についても表の大手門は甲賀武士、裏の半蔵門は伊賀武士と役割も分担していて何の問題もない。

 ただし、ここは江戸ではない。東西の文化や流通の中継点ともなる尾張なのだ。

 雨が小止みになり、再び低い話し声が忠吉の耳に届いてくる。

 話の内容は、忠吉が危惧したものとは大きく違っていた。

「かつては小田原の北条家に抱えられていた風魔一族は、豊臣に攻め滅ぼされ、残った一族も徳川に邪険にされて歴史の表舞台から消えて影を潜めていた。それが、今になって京の公家衆に取り入って幕府転覆の策を練り、長州や土佐、薩摩などに取り入って反乱の種をまき散らそうとしている。それを、伊賀と甲賀が手を結んで未然に防ぐことは出来ぬものか? それが、老中・牧野忠精のわしへの私文書にしたためてある内容なのじゃ」

「御前のお言葉ですが、しかし、今はその機ではないと思います。なあ、咲?」

 覚善が納得しかねるという口調で、咲に振った。 咲が応じた。

「八重さんが存命であれば話し合いも出来ましょうが、恨みつらみが重なって敵対意識が強まった今はもう無理です。それに、わたしらには風魔一族との接点がまったくないために予備知識もありません」

「さもあろうな。所詮、これは無理な話だったのだ」

 御前と呼ばれた老人が、納得したように頷くのがかすかに感じ取れる。

 それでもなお、粘り強く覚善と食い下がっている。

「今からで間に合うかどうかは分からぬが、覚善の実家の鵜飼か、咲の本家の大原家に相談してみてはくれんか。わしは伊賀の下柘植の大猿にでも当たってみるか」

「と、言われても……」

「わしも、隠居して家督を伜に譲ったとはいえ付け家老の成瀬だ。なんとしても幕府の願いは叶えてやりたいでのう」

 忠吉は蝋芯の灯火のゆらぎの中で暗い天井を眺め、思わず大きく息を吐いた。

 祿高三万七千石で犬山城主の成瀬隼人正典か? 竹越家とともに尾張藩を牽引する名家老だった。それが、何故ここに? やはり、忠吉には謎だった。