第十章

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46、生きるために-1

善福寺と木彫りの看板のある古寺の前を過ぎると、まばらにある十軒ほどの家々の灯火が洩れている。その集落にある安普請の門を構えた家にヤスが入って行く。

  玄関の戸口をドンドン叩いて「親分!」と叫んでもなかなか姿を現さない。
灯火の揺らぎと人の気配はあるだけに、権蔵が在宅なのは間違いない。
しびれを切らした左門が、足で思いっきり蹴飛ばす引き戸が外れて内側に倒れ、地震でも来たかのような激しい音がして、同時に中から「何だ!」と野太い声がして褌一丁だけのだらしない恰好の凶暴そうな大男がとび出して来た。

「畜生、いいところを邪魔しやがっ……」

 

「しやがって」の語尻が抜けたのは、左門の刀の刃先が権蔵の喉元にほんの爪先ほど刺さり、うす汚れた血がトボトボと音を立てて流れているからだった。これでは少しでも口を動かすと刃先が深く食い込んでしまう。鬼の権蔵の赤銅色の顔が、恐怖を感じてか青黒く変わって行く。

「やい権蔵! あこぎな金の取り立てで何人もの人を苦しめてるそうだな? 拙者、大原左門が天に変わって成敗してやる。証文を全部出せ!」

狭い部屋だから、この騒ぎは隣の部屋にも筒抜けだった。

「どうしたのさ?」

髪を乱した淫乱そうな三十女が現れて悲鳴を上げ、だらしない格好で腰を抜かした。
日本中で一番強いと思って抱かれていた男が血にまみれ、まだ幼さの残っている子供みたいな男に刃物で脅されているのだ。驚かないではいられまい。

「証文を全部出すなら右手を上げろ。命が不要ならそのままだ。三つまで数えるぞ!」

容赦なく数え始めた。

「いいち……、にい-……」

鬼の権蔵が右手を上げたので、左門はそこで刀を突きつけたまま権蔵に命じ、隣の部屋に移動して手文庫を開かせた。権蔵は震える手で証文の束を掴んで左門に手渡した。

左門がその証文を受け取った直後、待っていたように権蔵が飛び下がって長脇差を抜き放った。

「皆でやっちゃえ-」

喚いて切りかかってきた。だが、子分どもは命が惜しいから誰も手出さない。

左門は軽く身を躱わして刀で払うと、権蔵の脇差しが裾を乱して腰を抜かした女の目の前まで飛び、女がみにくい足をさらしてまた悲鳴を上げた。

左手に証文の束、右手の刀の刃先はまた権蔵の喉元に……今度は急所を外した部分に一寸ほど突き刺したから血が噴いた。左門の目が真剣だから鬼の権蔵が震え出した。

「また聞くぞ。この証文以外に隠してある証文も全部出すなら右、命が要らなきゃそのままでいい」

今度は左門の怒りが本物だと思うから、二を数える前に右手を上げた。

「よし。命だけは助けてやる」

左門が刀を引くと、権蔵が崩れるように腰を下ろして傷口を手拭いで押さえて大きく息を吐いてから、隠した証文まで全部出したのも死ぬよりはいいからだ。

もう、そこからは誰一人として左門に歯向かうものはない。

左門が居丈高に怒鳴った。

「これは不当に書かせた証文だ。今度は脅し取った金も出せ!」

「金はねえ。子分を食わせるだけでも大変だし、バクチで負けて……」

「博徒の親分がバクチで負けたのか?」

「フフッ」と鼻先で笑った左門が,権蔵一家の子分に向かって言った。

「一家は解散だ。堅気に戻るヤツには金をやる。銭が欲しいヤツはいるか?」

一瞬、お互いが顔を見合わせて腹の探り合いをしたが欲望には勝てない。兄貴分のヤスが「堅気になる」と手を上げると、子分全員が迷うことなく手を上げた。

「よしっ。ならば家捜しだ。出た金を三等分はどうだ?」

「三等分って誰と誰だ?」

「村人が一分、一家の手切れ金に一分、トセの家の使用料が一分だ!」

「なんだと、こっちは留守番料がほしいくらいだぞ」

「ならば、今、命を助けた命の分だ。それとも死ぬか?」

本気だと思うから、もう言いなりになるしかない。

「仕方ねえ、自立のための資金たって、金はねえ」

「たった、七人で分けるだけだぞ」

ヤスが首をひねった。

「親分を入れて六人だけど」

「そこの女を入れて七人だ。こんな男から逃げるのに金がいるだろ?」

「でも、親分はバクチは弱えし女にも目がねえ。金なんかあるかな?」

「うるせえ! てめらの稼ぎが悪るいから溜まらねえだけだ」

左門は、博徒などは庶民から奪った金で悠々と暮らしていると信じている。

「悪あがきはよせ。百両や二百両、たんまりと隠してるんじゃないのか?」

この一言で、ヤスが勇み立った。もしかすると……と思ったのだ。

「よしっ、やれ! 親分がたっぷり溜め込んでたかも知れねえぞ」

「やめろ! 金なんかねえ。いつだってスッテンテンだ」

権蔵が叫んでももう遅い。瞬く間に天井裏、床下、壁裏、茶箪笥、台所の瓶の中、押し入れ、布団など金の隠し場所と思われるところは片っ端から調べたが、手文庫にあった穴に紐を通した刺し銭の束が五つとビタ銭が五十枚、一朱銀と二朱銀がいくつかあって小判など一枚もない。全部合わせても約二両、家は襖は倒れ障子は破かれもうガタガタだ。
ヤス達子分衆ががっかりして腰を抜かし、左門が平然と小銭を目分量で二つに分けた。

「この一山がトセと村への迷惑料、この一山は七人で分けろ。どうだ?」

代貸しのヤスが左門に向かって怒った。

「おめえが堅気に戻れば金をくれる、と言ったんだ。こんな端た金、七人で分けたら、女も買えねえじゃねえか、堅気になれって、どうすりゃあいいんだ!」

ヤスに続いて子分どもが喚いた。腕では敵わないから口先で反撃する。

「武士に二言はねえって言うが、浪人には通じねえのか?」

「てめえらサンピンは、銭の価値も知らねえんじゃないのか?」

「まだ女も知らねえ青二才のくせに生意気だぞ」

まだ若い左門にこの悪口雑言の屈辱は我慢がならない。

「やかましい。女ぐらいは知ってるさ。金はくれてやる!」

頭に血が上った左門に冷静な分別はなかった。かと言って大義名分がないのに博徒を皆殺しにする分けにもいかない。前後の見境いもなく懐からつかみ出した二十五両の切り餅一つの小判を思いっきり畳の上に叩きつけた。

封印が解けた小判が行灯のゆらめきの中で、夜目にもまばゆい黄金の輝きでがあちこちに飛び散り、権蔵や妾まで参加して殴り合い奪い合い殴り合うという醜い修羅場になって血がしぶいた。これぞ人間の欲望の縮図としか言いようがない。家屋はさらに壊れた。

左門は腕組みをして立ったまま拍子抜けして、醜い餓鬼の争いを眺めていた。
小判が消え、疲れた男女が荒い息を吐いて座り込むのを待って、左門が刀を抜いた。

「さあ。金を出せ。二十五枚なかったら全員皆殺しだぞ!」

命は惜しいから渋々と金を出すが、十両にも足りない。

「よし。もう一回だけ許すが、裸にして小判が出たら首を落とすぞ!」

権蔵とヤスが仕方なく出した小判を併せて二十五両、殆どこの二人が奪い取っていたのだ。

これで、権蔵から巻き上げた二両を足すと二十七両になる。

今度は大金を前にして、お互いに血だらけの疲れた顔を見合わせている。

一両小判など持ったこともない連中だし、小判のままでは流通しない。

「これをどこで両替するんだ?」

「下手に両替に行くと、盗んだと思われて訴えられちゃうからな」

「安心しろ、今、庄屋が来るから理由を話して両替してもらうから」

頭に血が上っていた左門も、冷静さを取り戻した。そうなると黄金が惜しくなる。

「うっかりして、拙者の旅費がなくなるところだった」

左門が屈んで小判十枚を懐に入れたから残りは十七両になった。

「村とトセに十両、お前さんたちが約一両づつ……スッキリしたか?」

なんだか誰も嬉しそうな顔をしていない。もっとも血だらけの顔でニタニタされても
気色悪いだけだから喜ばれなくてもいい。

47、生きるために-2

左門が証文を見ると、村人の借りた元の金額に筆で墨を引き、とんでもない金額が書き加えてあることが分かった。借り入れた金額が一分なのに二十両などというものまである。

  そこに、トセが二人の男を連れて現れた。一人は頭を丸めている。

「庄屋の弥右衛門です」

「そこの善福寺の住職、提尚じゃ」

左門が淡々と言った。

「大原左門です。円満に話がつきました」

土間に立ったまま、トセ、弥右衛門、提尚和尚が信じがたい光景を眺めた。

日頃、虎の威を借りて威張っていた権蔵と女や代貸しのヤスを含む子分らが、借りて来た猫のように大人しくなっていて、しかも、皆が傷だらけ血だらけなのだ。

その上、幼な顔の若い左門が我が物顔に振る舞っている……何もかも妙だった。

「何があったのですかな?」

「権蔵一家は、自分たちから解散して今日中に全員この村を立ち退きます」

権蔵が「そんな……」と血相をさらに変えて腰を浮かしたが左門に睨まれて沈黙した

「証文はそれぞれに返して、焼くなり破るなりさせてください」

左門がまず、借用書や証文の束を無造作に弥右衛門に手渡した。

「いいのかね?」

弥右衛門が気味悪げに権蔵を見ると、権蔵が不承不承だが仕方なく頷いた。

「今、拙者が権蔵一家の命を助けた……いわば命の恩人だ。文句はないな?」

左門が目の前の金の山を一つ、権蔵の前に押し出したから権蔵一家の全員が頷いた。

「権蔵一家は解散、こう約束しました。庄屋さんと和尚さんは証人になって、もう誰にも迷惑をかけないと約束したことを確かめてください」

「お安いご用じゃ。喜んで引き受けましょう」

この金と銭の山は権蔵一家の村への迷惑料、あと半分はトセの家の賃貸料でおおよそ四両二分づつあります」

「金はどこから出たのかね?」

「あらかたは拙者の懐からですが、所詮はあぶく銭です。消えても惜しくないのです」

「そうはいかん。知らぬ人から村が金を貰うなんて出来ません」

「では、この人たちに上げてください。これで堅気になれるかどうか知りませんが」

弥右衛門と提尚和尚が小声で相談してから、和尚が言った。

「あんたらが堅気になるなら、これを元手に商売でも始めるようにそっくり上げてもい い、と庄屋さんは仰られる。ただし、約束を違えたら天罰が下るように祈り殺すが、どうしますかな?」

「もう、決して人を困らせません、脅しも犯そも博打もしません」

全員が権蔵に合わせて「へへー」と頭を下げる図はまるでお白洲のようだった。

弥右衛門が証文の束から見つけた伝蔵の借用書をトセに渡して言った。

「これは破いていい。金も遠慮なく貰うがよい。これで何もかも終わりだな」

権蔵が中腰で歩み寄って頭を下げてトセに詫びた。

「おおきに迷惑をかけたな」

右手に隠し握った小銭をトセに手渡した。

「一両に足りねえが、これが残った全財産だ。米でも買ってくれ」

やはりケチな男だ。分け前で手に入る二両余ののことは口にも出さない。

その権蔵が、提尚和尚の前で畳に手を着き、頭も畳にこすりつけた。

「和尚、ぜひ、わしの頼みを聞いてくれ」

「なんだ?」

「わしも安濃の権蔵だ。ここできっぱりと生き方を変えようと……」

「だから、わしに何の用だ?」

「わしを善福寺の寺男にしてもらえめえか?」

「博徒の親分を寺男にか?」

「庭掃除から使いっぱしり、用心棒、何でもやる」

「働くのはいいが、貧乏寺で給金など払えんぞ」

「それは心配ねえ、バクチで稼ぐから。おめえらは?」

ヤスが首を振った。

「おれは遠慮しやす。四日市の里に帰って漁師をしますで」

ほかの子分達も首を横に振る。

和尚が呆れた。

「善福寺にバクチ打ちはいらん。ほかに生業はないか?」

そこで、左門が「じゃ、達者でな」と手を振って表に出た。

トセが提灯に火を入れて左門を追い、和尚を残して庄屋が続く。

権蔵の仕返しが怖いのか、ヤスたちも続き、トセらとは別の方角に消えた。

左門のことは、トセから聞いていたらしく庄屋が言った。

「トセらが長旅で世話になりました。で、今夜の宿は?」

「まだ……」

「よければ、うちへ泊まっていかんかね?」

トセが言った。

「世話になった私が、せめて飯など食べていってもらわんと」

「それもそうだな。せいぜい接待してあげなさい」

「はい、そうします」

提灯の灯に恥ずかしそうなトセの顔が映り、声が小さくなっている。

庄屋の弥右衛門が別れ際に言った。

「留守中にな、トセに縁談が出てるんだ暮れにはまとまるかも知れんぞ」

「ほんとですか!」

「ああ、働き者で良縁じゃ。明日にでも葬儀の手伝いに寄越すからな」

「何もかもありがとうごぜえます」

「今晩はまだ好きに過ごしていいのだぞ。恩人だし試しにもなるしな」

「その通りにいたします」

弥右衛門は左門に「ごゆっくり」と謎めいた言葉を残して去った。

庄屋の提灯が遠のくと左門は若い体が妙に火照って来るのを感じた。ただ、そうなると急に咲のことが気になり出す。いや、咲きは咲、仏の前でいたすのは供養になる、と剣術仲間に聞いたこともある。

「トセ、本当にいいのか?」

トセが嬉しげに頷いた。 

そのとき、後頭部に小石が当たったような衝撃があり、振り向くと黒い影が囁いた。

「もうすんだんでしょ?」

黙って頷くと、また風のような囁きが聞こえた。

「すぐ走ってください!」

また頷くしかない。左門は懐中から小判五枚を取り出して言った。

「トセさん、これはご霊前に。残念だが急用を思い出した。お幸せにな」

返事も聞かずに小判を手渡すと、左門は踵を返して今来た道を戻った。

トセの叫び声を背に、足を早める左門が闇の中に言った。

「痛かった、頭にコブが出来たぞ」

「なにが、残念だが……です? 浮気もの!」

「通夜に付き合えなくてだ」

「考えたのは違うことでしょ?」

「咲は、名護屋に忠吉を迎えに行ったのではないのか?」

「虫の知らせで戻って来たのです。今みたいなことがありますからね!」

「それより、これからどうすればいいんだ?」

「明日は松阪屋でのんびり出来ますから、今夜は野宿してください」

「どこで?」

「安濃、津には縁や軒下を借りられるお寺さんなどいくらでもありますよ」

「旅籠は?」

「これから一人で生き抜くためには、どこでも眠れる鍛練が必要でしょ?」

「咲も一緒か?」

「今夜はだめです。私は今から名古屋に向かいます」

「せめて、夜明けまででも一緒にいてくれ」

「じゃ、あれだけお付き合いしてから行きますね」

「これからは?」

「今まで同様、たまには添い寝をしてあげます」

「恩着せがましい口をきくな」

「あなたは世の中に必要なお方、わたしが独占はできませんが協力はします」

「咲は?」

「今度は本当に尾張に行きますからね」

「いずれ、京にも来てくれるのか?」

「今日みたいに浮気心を出したときに、石をぶつけに行きます」

「気乗りしなくなったな」

「いまに天下騒乱の時がきます。その時のためにあなたが必要なのです」

「咲まで、権宮司と同じことを言うのか?」

「必ずそうなります。田島さまはそのために左門さまをお誘いしたのでしょう」

こうして、左門は再び鈴鹿峠を越えて京に向かうことになった。

大原左門、十八歳で勘当されて無一文、明日からどう生きてゆけばいいというのだ。見上げても重い雲にさえぎられて月も星もなく深い闇があるだけだった。

                                                                                          了

         第一巻 青春出奔編 終わり
         第二巻 京都飛翔編 乞期待

次回近日公開
(乞うご期待!)