第四章

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16、失意‐1

白刃を炭で塗った忍びの刀は闇に紛れて目に慣れず、左門はほとんど動物的なカンで身体を動かして敵の攻撃を避けたが、よろめいて倒れかけたときに死を覚悟した。しかし、倒れかけた右手に触れたのが、最初の格闘で取り落とした木刀だったから助かった。

 すぐに木刀を取り直して崩れた体勢のまま目茶苦茶に振り回すと手応えがあって、低いうめき声があって相手がよろめいた。その機を逃さずに鋭く打ち込むと敵が倒れた。

 そこからは記憶がない。

 敵味方入り乱れての暗闇の乱闘で、左門の頭の中は真っ白になり、思考力も失せ意識も消えかけていた。それでも、緊張で握りが離れなかなった木刀を手に、次々に襲ってくる敵の白刃を必死で避けていた。だが、防戦一方だけで攻撃にまわることも出来ず、衣服を切り裂かれ痛みはないが血が滲むのを感じて成すすべもなく防戦一方で疲労も大きい。

 こうなると、もう勝ち目もない。

 あと一撃で倒される……この左門の絶望的な思いを弥吉が救った。

 忍びの一人が、左門の隙を見て背後から逆手に持った刀を降り下ろそうとした。それを横目で見た弥吉が、とっさの判断で自分が争っていた相手から身をひるがえして棒を振るってその男の脳天を打ち砕いたのだ。

 一人だけ倒したが、三人に囲まれて苦戦中の平三郎が叫んだ。

「ここは狭いから、向こうに移るぞ。ついて来い!」

 開いた戸口から闇夜の参道に平三郎が走り出ると、それを追って弥吉と左門も血路を開いて飛び出し、それを追った十人余の忍びの一団が外に出て左門ら三人を囲んだ。

 ここで左門の意識が戻って、自分の置かれている危機的な状況が見えてきた。月のない闇夜だが、室内の真の闇から出たことで目が慣れていることと玉砂利の白さで左門でさえ周囲がよく見えたのだ。(ここなら闘える)、そう思って木刀を振りかぶって立ち向かうと、敵は飛び下がって刀を左に持ち替えていっせいに懐中から卍手裏剣を取り出し、疲れ切った左門めがけて投げかけ……と、その瞬間、闇を切って飛来した甲賀の三方手裏剣が敵の手裏剣を構えた手首を襲い、次いで闇を走った三方手裏剣が覆面で包んだのど元を切り裂いて息の根を止めてゆく。

 ただ、左門にはこれは見えなかったから、どうなっているかも分からない。

 彼らは見えない敵に備えようと背後を振り向くが、瞬く間に数を減らしてあわてふためくばかり、それを見逃さずに弥吉の五尺余の樫の六角棒と平三郎の木刀が唸りを生じて狙い打つ。これで敵は次々に倒されてゆく。

 重傷で倒れた忍び達は、すかさず毒入りの丸薬を紙包みごと飲み込んで血を吐いて絶命したから、これで忍びの集団はほぼ壊滅した。

 ただ一人、生き残って仲間に報告をと思った木こりの藤三郎が肩骨を砕かれながらも素早く手裏剣が飛んできた方角と逆の森に飛び込んで、風のように走った……弥吉も平三郎ももはや逃げる敵を追うほどの体力はなく、ただ立ったまま見過ごすしかなかった。

 だが、藤三郎の走った距離はわずかだった。木陰に潜んだ人影が藤三郎の走る方角に飛び、藤三郎の首を手に持った木刀で横に払ったのだ。勢いよく走った首を払われてはたまらない。藤三郎は声もなく絶命したまま数間先までのめって樹林の草間に倒れ伏した。

 それに見向きもせず、森の中を動く気配に振り向いて風に乗せて小声で言った。

「どちらのお方かは存じぬが、ご助勢かたじけない」

 すると、すかざず男の声が戻った。

「権宮司さま、お手並み拝見いたしました」

「わしを知っているのか? 男と女か? おぬしらはなにやつだ!」

「主家の手前、名は言えませぬ」

「では、なんのためのご助勢ぞ?」

「才次郎さまのおんために……」

 しばらく沈黙があって重い声が響いた。

「しからば、ご主人に伝えられよ。大道寺才次郎は見知らぬ者らの襲撃によって一命を落とした。その身を預かった者としては断腸の思いだが仕方がない。葬儀はこの神社で密葬によって執り行うゆえご心配召されるな、とな」

「ご配慮恐れ入ります。たしかに主人に伝えまする」

「新たに生まれた大原左門は、わしが責任をもって引受けますぞ」

「重ね重ね、かたじけのうござる。主人に代わりまして厚く御礼申し上げます」

 声が遠のいてゆく。権宮司と呼ばれた男が言葉を追うように投げた。

「一緒にいるそこの女、左門をよしなにな……」

 返事はない。森の木々をゆする夜風にさえ切られてその声は届かなかったのか。

 権宮司と呼ばれた男もまた風のように闇に消えた。

当の左門はというと、敵の攻撃が止んだとたんに精も根も尽き果てて、倒れ伏した死体の中に腰を抜かしたように座り込み、呆然として視線を闇の中に投げていた。その心もまた虚しく暗く宙をさまよっている。いわば無の心境で、生きているのか死んでいるのか自分でも分からない……ただ、夜風に傷が疼き悪寒で身が震えた。

「おい、大原うじ、しっかりせい!」 当の左門はというと、敵の攻撃が止んだとたんに精も根も尽き果てて、倒れ伏した死体の中に腰を抜かしたように座り込み、呆然として視線を闇の中に投げていた。その心もまた虚しく暗く宙をさまよっている。いわば無の心境で、生きているのか死んでいるのか自分でも分からない……ただ、夜風に傷が疼き悪寒で身が震えた。

 田畑平三郎が放心状態で返事もない左門の頬を平手で激しい音が出るほどの勢いで打つと、左門が目を剥いて平三郎を見た。そこで左門は我に返ったのだが、周囲を眺めてそこに転がっている死体を見て身を震わせた。今度は寒さではない、生きている恐怖で震えが止まらなくなったのだ。

 平三郎が死体の手にした十字手裏剣に手を伸ばすと、弥吉が止めた。

「それに触れてはいかん! 傷口から刃先に塗った毒がまわったら一撃で死ぬからな」

 その弥吉が、死体ののど元をえぐった三方手裏剣をみて首を捻り平三郎を見た。

「森の奥に潜んで我らを助けてくれたのは甲賀者だ。だが、なぜだ?」

「拙者は知らん。大原うじはどうだ?」

 左門は無言で首を横に振った。左門の知り合いに忍びなどいない。

 弥吉が手を振った。神官見習いの真田小次郎という男が、一人で熱田神宮名入り提灯の灯を揺らして駆けつけてくるのが見えたのだ。男は、提灯の灯に浮かんだ血に染まった忍び者の死体があまりにも多いのに仰天して言葉を失って立ち尽くしている。

「どうした、誰ぞに聞いたのか?」

「詰め所あたりが騒がしいから見てこいと、権宮司さまに言われました」

「権宮司さまに? 知っていたのかな?」

「いえ、ご存じない様子でした。なにやら胸騒ぎがすると言われました」

「そうか。ここから先、どうしたものか……」

 真田という男が、すぐ腹を決めて言った。

「ここから先は、わたしらが処理しますので、権宮司さまの元へどうぞ」

「かたじけない。あとは頼むぞ」

 三人はそれぞれの身体の傷を改めたが、かすり傷程度でさほどの被害はない。薬草を揉んで傷口に貼っておけば数日で傷は癒えるに違いない。

 すぐ近くの水場で身体に付着した血を洗い流している間に、あちこちの燭台に松明が灯され、動員された神官見習いや職員らの手によって運ばれた死体は、森の一角にまとめられていて、森に穴を掘っている者もいた。

 三人が予備の作務衣に着替えるために詰め所に戻ったときは、桶を持った神官見習いが室内の血を水で洗い流していて、破れ畳には水が溜まっていた。

 本宮裏の権宮司の仮宅の居室に入ると、田島主膳が三人の労をねぎらった。

「知らせを受けて驚いたよ。無事でよかったな」

「知らぬ間に、助っ人が現れましてわれわれの危機を救ってくれました」

「それはよかった……」

 平三郎の言葉に頷いた主膳が続けた。

「今回の件で才次郎は死んだ。数人の夜盗と刺し違えて死んだのだ。それを証明するものは何もないが否定する証もない。すべては神宮の森の闇に呑まれたのだ。急のことだが葬儀は明日の午後、ひそやかに行うが風聞は流すからな。これで柳生との遺恨も建前としては消える。これからは、大原左門として大手を振って自由に生きるがよい」

「恐れ入ります」

「喜ぶのはまだ早い。人別には載っていない存在であることだけは忘れるなよ」

 大原左門……これで一人で生き抜くには、左門はあまりにも幼かった。

 しかも、人別帳に載らないということは無宿人ということになる。

 そのときはまだ、左門はその無宿人の意味の恐ろしさをよく知らなかった。

17、失意‐2

左門の葬儀は翌日の午後、神宮正門内の第一鳥居をくぐって参道を右手に折れた奥の南新宮社殿前で厳かに行われた。

 

    噂によると、尾張藩家老である大道寺家を些細なことで当主と争って出奔した才次郎という次男が、伝手を頼って寄宿した神宮内の詰め所で夜盗の群れに襲われて憤死し、襲った盗賊どもは怪我した仲間を担いで何者とも知られぬ間にいずこにか姿をくらました……と、いうものだった。

 折りしも、急なことではあったが熱田神宮では初夏に入って行われる疫病神除け祭儀の御芦祭(みよしさい)の奉納行事の予行訓練を行われることになり、才次郎の密葬も権宮司の心配りでその一環に組み込まれることになったのだ。 噂によると、尾張藩家老である大道寺家を些細なことで当主と争って出奔した才次郎という次男が、伝手を頼って寄宿した神宮内の詰め所で夜盗の群れに襲われて憤死し、襲った盗賊どもは怪我した仲間を担いで何者とも知られぬ間にいずこにか姿をくらました……と、いうものだった。

 この御芦祭は三日間続く社頭での祭礼だが、この予行訓練は初日の舞楽のみだったから賑わった。神宮に働く祭員総出での舞楽だけに、笙(しょう)や鉦(かね)の音が鳴り響き、急遽集められた近隣の村人代表がなにがしかの供物を持って集まって来ていたから、秘めやかに行われるべき密葬も徐々に賑やかさを増して騒々しくなるばかりだった。

 しかも、権宮司の田島主膳が白衣に身を包み、厳かに祝詞(のりと)を上げての葬儀だったから藩内のあちこちに噂が広がるのは仕方ない、それが主膳の狙いだった。

 六月初旬に行われる本祭での祝詞は千秋本宮司の奉上となるが、祭祀予行での祝詞は権宮司の田島主膳の代行となっていて、祭員、神幸所役、社守、神官見習いや食客などが参加しての大げさな行事となり、粛々として儀式の予行が執り行われた。

 やがて祝詞奏上になり、田島主膳の朗々とした声が神宮の森に響き周囲が厳粛になる。

「至高至大の神格をいただくアマテラスオオミカミをはじめ、スサノオノミコト、ヤマトタケルノミコトなど五座の大神と共に、皇位とともに伝わるべき三種の神器の一つであるクサナギのツルギの祭られるてござるのはここ熱田神宮におわします。

 ここにおいて、今日お祭りを執り行う儀は、寛弘年間における悪疫流行にて人々が困窮せし折に、尾張の地在住の民が五座の大神の前に祈願せしところ、たちどころに疫病退散の新たかな霊験があり、それ以降、年々、笛吹き、太鼓を打ちて五座の大神のご加護に感謝申し上げ奉り、今日祭事を執り行うものでもあります。

 この先もなにとぞ大神のご神徳によって、この世に疫病の災いのなきよう御加護くだされたくお願い申し上げます」

 と、一息置いて厳かに告げた。「請い願わくば、昨夜不運にもみまかれし大道寺才次郎の御霊も五座の大神のみもとに供として留めおかれますことをお願い申し上げまする……」

 続けて田島主膳は左門を悼む言葉を述べ、式はとどこうりなく進んでいた。

 誰が風聞を流したのか、大道寺家を勘当された次男の才次郎が熱田神宮に食客となって二日目の夜、夜盗に襲われて刺し違えて不業の死を遂げ、その葬儀が密かに行われる……この噂は瞬く間に近隣に流れ、どこの誰とも分からぬ人々までがはせ参じていた。

 大道寺家にもその噂が届いたが、勘当した身内であれば親兄弟が葬儀に出るわけにも行かず、親族の代理として咲一人だけが鳥追い姿で参じたが、出来るだけ目立たぬようにと、人影に隠れての祭事見物であったから、どこにいるかも分からない。

?

 だが、それを見抜いている者がいた。

 木こりの籐三郎の妻で伊賀の上忍でもある八重だった。

 八重は、はじめ攻撃陣に加わるはずだったが夫に留守宅を守るように命じられて残り、深夜、籐三郎の帰還を待ちわびて表に出た折に、熱田の森の上空で夜烏が騒いでいるのを見て不吉な予感で無名騒ぎするのを感じて森に駆け入り、森の中の土を固めている男達を見て夫の死を確信したのだった。

 八重は、味方が一人片目を失った時点で敵の手ごわさを知ってはいたが、まさか十人以上の助っ人を集めての闘いで伊賀の藤三郎ともあろうものが、並みの武士三人を相手に、十八歳の若造たった一人だけを殺しただけで、むざむざと敗死するなど考えてもいなかった。これは大いなる誤算だが疑念は残った。

 闇夜でも目が利く上に手裏剣という飛び道具を持つ伊賀忍が、闇夜の闘いで並みの武士に敗れることなどあり得ないが、もしも、闇に忍んだ同業の陰の者達に狙い打ちにされたのであれば悔しいことだが辻つまは合う。しかも、伊賀者を敵にまわすのは甲賀忍者しかいない……と、なれば?」

 その八重の推論は当たった。

 巷に流布した噂では、若者一人を倒した賊の数人はケガした仲間を抱えて逃げた、とあるが、昨夜の穴を埋めた跡から見て屍骸は五人や六人ではないはずだ。場合によっては皆殺しに遭っていることも考えられる。ならば、その相手は誰であるのか?

 そう思って何度も何度も祭事を見守る人の群れを眺めているうちに、八重の視線に反応した女がいたのだ。はじめはカン違いかと思って見逃すところだったが、そのかすかな反応を確かめるべく睨むように視線を注いでいると、かすかに笑みを含んだ女の視線が戻ってきた。

 八重は一瞬、驚きで思わず声を出しそうになったが、それに堪えて息を呑んだ。

 そこに見たのは、幼児期から伊賀の八重、甲賀のサキとして比較されながら英才教育を受けて互いの成長を噂で聞きながら育った永遠の好敵手の顔があったのだ。

 それが甲賀のくの一の逸材で、忍者間では知らぬ者のない甲賀のサキが、鳥追い笠に顔を隠して祭儀を見守っていたではないか……まさか、この女が夫の籐三郎を?」

 こう思ってサキを見つめた八重の殺気は、そのまま咲にも伝わっていたのだ。

 咲は、顔はそのままで視線を横に向け、まっすぐ八重の目を見つめた。

 そこで、女と女の視線が絡み合い火花を散らした睨み合いが続いたが、その視線がどちらからともなく動いたのは、田島主膳が大道寺才次郎を神に捧げる言葉を述べたときに、女のすすり泣きに驚き、同時にその声の主、馬回り役恩田平四郎息女の早苗を見たのだ。

 咲は才次郎の恋文を手渡したりして早苗を知っていたが、八重もまた主筋の柳生兵助の想い人であることはとうに知っていた。その上で、兵助が大道寺才次郎との果し合いに応じたのも恋の鞘当であることも察していた。

 八重は夫の籐三郎の黙認を承知の上で、結婚前から抱かれていた兵助との仲を続けていた。いわば八重は、兵助の欲望の処理の役割を担っていただけの存在といってもいい。だが、愛されていた訳ではない。兵助の心はつねに恩田早苗に向いていたからだった。

 くの一としての八重は、男に抱かれても愛してはいけない宿命を帯びていた。だが八重は兵助が好きだった。柳生に仕える身になった十六から抱かれているのに情が湧かないはずはない。なのに、誰もそれを理解してはくれなかった。それが忍者の宿命だとしたら、あまりにも酷いことだが誰も八重の心を理解する者はいなかった。

 いや、たった一人だけ八重の想いや辛さを理解してくれた者がいた。それが夫の籐三郎だった。

 籐三郎だけは八重に優しかった。傷口が広がるばかりで癒えることのない八重のく心を慰めてくれるのは籐三郎の女心に滲みる優しさだった。なのに、その籐三郎がこの世から消えたとしたら、八重は何を頼りに生きてゆくべきなのか……。

 八重の恨みは早苗にも向かっていた。自分の想い人の愛を独り占めにしようとする女がそこにいる。八重は重い殺意をもって早苗を睨んだ。しかし、早苗はただ泣きじゃくるだけだった……と、すると、この女は藩主の剣術指南役で柳生道場の宗家である兵助よりも、部屋住みでまだ独り立ちすらおぼつかない才次郎を愛していたのか?

 だとすると、兵助は何のために果し合いなどして腰に致命的な重傷を浴びなければならなかったのか? 八重は傷ついて床に臥せっているであろう兵助を想い、早苗を呪った。

 愛する兵助を廃人同様に傷つけたもっとも憎むべき大道寺才次郎は死んだ。

 その八重の憎しみの矛先は、早苗とサキという二人の女に向かったのだ。

 八重は、泣きじゃくる早苗から視線を戻して甲賀のサキを見た。

 だが、どこを目で追っても、すでにそこにサキの姿はなかった。

 咲はすでに森を離れ、大道寺屋敷への道を急いでいた。

 その表情には安堵の安らぎがあった。田島主膳の偽装葬儀は見事に功を奏していた。

 左門は生きている。それは左門の危機を救った咲が、虚脱状態で死者の中で腰を抜かしていた左門をこの目で確かめているから心配はない。

 ただ、咲が気になることは、これから命のやりとりをするかも知れない伊賀の八重ではなく、左門の死を信じて泣き崩れていた早苗への哀れだった。

 咲は自分もまた左門を愛しているがゆえに、左門を失ったと信じて涙を流す早苗が、わが身のようにさえ思えて切なかったのだ。

18、失意‐3

 左門は、昼なお暗い本宮裏の小部屋に仰向けに横たわり、黒ずんだ杉板天井の縞模様の節目を漠然と眺めていた。先程まで騒がしく聞こえていた笛・太鼓や人声なども静まったところをみると、祭事の予行と左門の葬儀もつつがなく終わったらしい。


 権宮司の田島主膳からは、昨夜のような命を賭けた争いで他の人に迷惑をかけるのを避けるためには「死んでもらうしかない」と言われ、左門は実際に腹を切らされると覚悟を決めたのだが、権宮司は「腹を切れ」とは言わなかった。世間の目を欺くために、左門を死んだことにして葬儀をすると言う。
 左門は、昼なお暗い本宮裏の小部屋に仰向けに横たわり、黒ずんだ杉板天井の縞模様の節目を漠然と眺めていた。先程まで騒がしく聞こえていた笛・太鼓や人声なども静まったところをみると、祭事の予行と左門の葬儀もつつがなく終わったらしい。

 しかも、戦いの余韻がまだ覚めやらぬ朝、田島主膳は徹夜で後片付けに駆り出された社中の全員にも触れを回して、左門の葬儀を執り行うことを知らせていた。それは、祭りの予習にかこつけて、大道寺才次郎の死をおおやけにして柳生一族の追及の根を断ち切るための策でもあったらしい。その葬儀も無事に終わった。

 こうして大道寺才次郎の名はこの世から消え、新たな人生が始まっている。だが、大道寺家を勘当された時点から左門は、この世から抹殺された存在でしかなく宿籍もない。したがって、葬儀の有無などは左門の戸籍上においては何の関係もないのだ。それを思うと、左門の胸は暗澹として張り裂けんばかりに苦しくなる。

 これからどう生きて行くのか、父の大道寺玄蕃も田島主膳も教えてはくれない

 柳生一族は、この自分の死を認めて追求の手を断ち切るのか、それとも死を疑ってさらに追って来るのか……それはまだ左門には知る由もない。いや、知りたくもないのが今の偽りのない胸中でもあった。

 たが、左門の名そのものがほんの一部の者にしか知られていないはずだから、殆どの人が左門の死などとは無関係なのだ。

 左門は思った。この先いかなる困難が待ち受けようと命を全うし、貧しくても苦しくても生きて生きて抜いて、未知の世界になにが起こるかを見極めてみよう。

 左門が今までに知っていた世界といえばそう多くはないし、生活も単調だった。

 朝は明け六つ前に起きて書を読み、城内から響き渡る太鼓とともに稽古着と袴に着替えて剣道場に駆けつけて叩きあって帰宅し、湯か水で汗を流してから朝食だった。それから馬を走らせて十丁余の距離にある馬場まで行って騎馬戦や早駆けの訓練をして、さらに若者が集う寺小屋同様の藩校で儒学や習字を習い、遅い午後は槍や柔術なども学んだ。

 左門はとくに、弓術については熱心であったし自信もある。この十八歳の正月には目録の腕前になっていて、かなりの強弓を用いて南蛮鉄の兜を射抜いたりしていた。ただ、父の大道寺玄蕃は左門の弓を見て、当てるだけに熱心で人の心に響く弓ではない。品格に欠ける弓は見苦しいだけだ、と言っていい評価はしなかった。それからの左門は、弓の所作には気を配ってきたがまだ父から与えられた命題を解くまでには至っていない。

 それにしても左門の行動範囲を振り返ってみると、まことに狭いものだった。道場や藩校に馬場、それに、領内のわずかな地域と熱田神宮、早苗の家ぐらいのもので、尾張藩内の広大な土地のほんの一部分にしがみついて生きてきたに過ぎない。

 これから尾張を出て藩外の地を巡るとなると、どのような危機に遭遇するかも知れないし、人との出会いすら不安に思えてくる。

 詳しくは知らないが、わずかな食べ物を手にするにもなにがしかの銀や銅の銭が要るとも聞く。だが、左門にはその金銭を得るための才覚などあろうはずもない。さらに、どのような手段で食料を求めるための銭を得たらいいのかさえ皆目、見当がつかない。毎夜のねぐらはどうするのか?

 今はまだ父から餞別に貰った三両という大金と、母がくれた当座の費用で充分に懐中は潤っているが、それが尽きた時の恐怖感を考えると手を付けずに済めばそれに越したことはない。しかし、収入の道がなければ使うしかない。

 ここまで考えて左門はうろたえた。周囲の人に助けられて生きてきた自分は、いざとなると何の力も持たない丸裸で無力な存在だった。左門はそのことに気づいて、今更ながら、これからの旅路に恐れを抱かざるを得なかったのだ。

 この尾張の地を離れてどう生きてゆけばいいのか……田島主膳が左門の葬儀を行ってくれた以上はここには居られない。死んだはずの人間が神宮内をうろついていたら驚く人もいるだろうし、平三郎や弥吉にも迷惑をかけるに違いない。

 左門はふと、闘いが終わって敵の死体の中に腰を抜かしていたときに、一人だけ生き残った柳生忍びの頭が森に駆け込んで逃げたのを、おぼろげな目で見たことをかすかな記憶の中で思い出していた。と、いうことは彼らは左門の生存を知っていることになる。

 あの柳生の忍者一族が左門が生きているという事実を知っていて見逃すわけがない。そう考えると、この神宮に居残ることは彼らの狙い通りということになり、左門の死だけでなく平三郎と弥吉の命も危険にさらすことになる。

 しかし、それでも生きたかった。生きて自分の行く末を見届けたいのだ。

 本宮の廊下を歩いて来る足音に気づいて、左門は身を起こして座りなおした。

 足音を聞き取ると複数で、一人はゆったりと歩き、一人は足音を消して歩いて来る。

 これで、足音の主は田島主膳と弥吉であることは分かった。

 ただ、その用向きによってはすぐにここを出立しなければならない。

「腹、減ったか? こんな陰気な部屋で隠れっこじゃたまらだろうな」

 これが、ふすまを開けて部屋に入った主膳の第一声だった。

 続いて入ってきた弥吉が、食べ物の入った大きな盆を左門の前に置くと、それを囲んで主膳と弥吉が腰を落としてあぐらで座った。弥吉が左門に勧めた。

「村人が持ってきた供物でな、豪勢に赤飯の握りや鯛や饅頭、干物もあるぞ」

 そこへ後から平三郎が小型の酒樽を担いできたから、四人で賑やかな宴になった。

「大道寺の小伜は死んだが大原左門が生まれた。めでたい、めでたい、めでたいな」

 平三郎が囃すと、弥吉も応じた

「左門どのが生きてるなんて、もう誰も知らんのだからな」

「でも、わたしが腰を落としているとき、森に逃げた男がいました」

 弥吉が平三郎を見てから言った。

「誰かが首を刈ったらしく、森の中で死んでたのが敵の頭だ」

「弥吉さんが?」

「いいや。おらはず-っと、お二人と一緒に参道で暴れてただぞ」

「それもそうだな」

 弥吉と平三郎がチラと田島主膳を見たが、主膳はおだやかに茶碗酒を飲んでいた。

「と、いうことは、柳生の忍者を皆殺しに?」

「その通りだ。誰一人帰らないんだから真相は藪の中さ」

「仇討ちは?」

「目標の大道寺才次郎は死んだんだぞ。彼らは誰を敵として狙うんだね?」

「弥吉さんと平三郎さんは?」

「わしら二人を見た者は全員死んだ。誰も知らんのだから心配はないさ」

「それに、やつらは目的を達成したのだからな」

「でも、皆殺しにあっては残った連中が黙ってないでしょう?」

「彼らはどんな犠牲を払っても標的を倒せば仕事は終わりだ。もう左門どのは枕を高くして眠れるぞ」

「それは有り難い」

 それまで沈黙を守っていた田島主膳が、茶碗を手にしたまま口を開いた。

「今回の件は、おそらく柳生兵助の知らぬ間に柳生の恩顧を受けている忍者どもが暴走したものだ。で、あれば、才次郎が死んだと知れば兵助の遺恨も消えよう。ただ……」

「なんですか?」

「忍者どもの死は柳生にも伝わろう」

「やはり……」

「人は秘密を守れぬものじゃ。社中の者が徹夜で埋めた死人の数は半端じゃない。箝口令を出してはみたが早晩どこからか洩れると考えていい。そうなると、わしとしても賊の侵入を届けなかった罪は問われるからな」

「そうなると?」

「それは心配ない。白刃禁止の境内で刀を振るった不遜な一団が、勘当されて当神宮に寄宿していた若者一人と争って皆殺しにされ、若者も手傷を負って息絶えた。その若者を惜しんで葬儀まで施行したのだぞ。いかに柳生とて何も手出しは出来んのだ」

「感謝します」

「しかも、その若者が尾張藩屈指の大家老の元息子だからな」

「問題になりますか?」

「大道寺屋敷では、才次郎を勘当したことは藩に届けてあだろうから心配はない。この熱田神宮は天朝さまだけでなく幕府の保護下にあるのだ。表沙汰にはできんだろう」

「では、森に埋められた賊の扱いは?」

「忍びは石や草と同じで人間扱いされない場合がある。したがって誰も届けないし柳生も知らぬ存ぜぬで通すだろう。そうなると、彼らは勝手に夜襲して自滅したかたちで死に損ということになる。藩でもこれ以上深入りすると、何が出てくるか分からんから余計なことはせんよ」

 平三郎が安心したように言った。

「で、あれば、何があろうと左門どのはここに居てもいいのでは?」

「それは場合によるな」

 真顔になった弥吉が、田島主膳の顔を見た。

「権宮司さまは、あの葬儀に来ていた不審な女に気づきましたか?」

「女? 泣いていた女か?」

 田畑平三郎が口をはさんだ。

「あれは、馬回り組役の恩田平四郎様が息女で、尾張小町といわれる早苗殿です」

 左門の顔色が変わった。それには気づかずにを弥吉が首を振った。

「その女じゃない。明らかに伊賀者と見える女で険しい目をしていた女だ」

 田島主膳の顔から笑顔が消えた

「それはいかん。多分、夫が帰って来ないので様子を見に来たのじゃろう。その女がどこまで見抜いたかだな。森に入って新しい土を見つけただろう。仲間を集めて埋めた土を掘り返して死骸を持ち去るかな」

 弥吉が言った。

「死骸に未練はなくても、死因だけは確かめるはずです」

「そうか、どうする?」

「放っておけばいい。伊賀と甲賀の争いになるだけでわしらには関係ねえです」

「なるほど」

「ただ、伊賀衆が左門どのが生きてるのを知ったら……」

「左門は、どうなる?」

 主膳の質問に弥吉がきっぱりと答えた。

「殺されます」

19、失意‐4

左門は深い絶望の底にいた。

 進むも退くも、行く先には死が待つのみなのか。

 ここまでは人の情けに救われた。だが、ここからは自分一人の力で生き抜かねばならない。そうなると、この先は次々に現れる刺客を左門一人で倒さねばならない。だが、左門にはそこまでの自信はない。

 主膳が低い声で誰にともなく呟いた。

「逃げ伸びる手はないのか?」

 その声に三人三様の反応が出た。

 左門は「逃げる気などありませぬ」と口を尖らせて反抗し、平三郎は「逃げきれまい」と断じたが、弥吉だけは違っていた。弥吉は、「襲って来たら片っ端から倒せばいいだけじゃねえのか?」と、軽い口調で言い放った。

 左門が、その強気の言葉に驚いた弥吉を見た。

 平三郎が難しい顔で腕組みをした。

「そうは言ってもな、やつらを次から次に倒すのは容易じゃないぞ」

 田島主膳がはたと膝を打ち、強い口調で諭した。

「才次郎は天下の柳生宗家を倒した。どうせ一度は死んだ身だ。一度死ねば二度も三度も同じこと、こにいて修行し堂々とこ敵を迎え撃ってから旅に出ればいい」

 権宮司の言葉に頷いた弥吉が左門に言った。

「ならば、これから修行を積めばいい。闇夜の礫(つぶて)だって飛ぶ音で反射的に避けられるだから手裏剣だって同じこと、始めの一撃を避けたら、間髪を入れずに反撃に転じて相手を倒すだ」

「でも、闇夜じゃ相手が見えないから無理です」

「夜目はな、日頃から片目に眼帯を被せといて闇に慣れさせて、夜になってそれを外せば昼日中のように見えるもんだ。古くから山本勘助や柳生十兵衛など、忍びを兼ねた武芸者はその手を用いたもんだ」

「あれは、怪我で失明したのでは?」

「噂ではそうなってるだが真相は違う、夜目のためだ。おらも実は……」

 弥吉が顔を伏せて両手の指で右目を押さえたが、すぐ顔を上げて右の手のひらを開いて左門に見せた。そこには小さな黒点が見えるだけだ。

「ほら、よく見るだぞ。おらが右目がこれだからな」

「どういうことです?」

「透明に加工した川鮭の魚鱗に、南蛮渡来の水に溶けない墨で黒目を描いただけだが、これで目を塞ぐと効果てき面で、夜になってこれを外せば猫の目のように闇目が利くだ。こないだの夜だって実は、おらも田畑さんも敵の姿が丸見えだっただよ」

「田畑さんもですか?」

 それには答えず、平三郎が無言で弥吉と同じ動作を行い、目から魚鱗を取り出してから左門に言った。

「弥吉さんから高い銀子で買わされたが、それだけの価値はあるぞ」

「いかほどで?」

「一両だ。よかったら譲るがどうだ?」

「ぜひ……」

 主膳と弥吉が呆れて笑い出した。

「この平三郎が一両なんて大金、払えるわけないだろ?」

「田畑さんは、おらからタダで貰った物を仲間に高く売りつけるだか?」

「拙者は売りつけるんじゃない。生き抜くための処世術を教えただけだ」

 左門が素直に頷いた。

「なるほど、ただで頂いたものを高く売ればいいのですね?」

 この一言で全員が笑った。お互いに冗談だと分かっていたのだ。

 弥吉が懐中から縞木綿の財布を取り出し、大切そうに中から懐紙に包んだ数枚の黒目入りの透明魚鱗を指でつまみ、左門に手渡した。

「予備も含めて二枚呉れてやるから、大切に使うだぞ」

 平三郎が注意した。

「しばらくは目が痛むから我慢が必要だがすぐに慣れる。それに、右目に嵌めるから昼間は右目が見えず、いざという時に外すと右目が際立って見えるようになるだ。それに、慣れるためには、充分に昼も夜も稽古を積まねばならないだ」

「慣れるまでには大変ですか?」

「なあに、死んだ気になってやれば四、五日で慣れるさ」

 平三郎が頷いた。

「拙者も稽古をつけてやるから心配するな」

「有り難う存じます」

 左門深々と頭を下げると田島主膳が安心したように頷いた。

「とにかく、平三郎と弥吉に鍛えてもらえば心配はない。真剣に修行に励んで一段と強くなれば、彼らが何度襲って来ようとも撃退できよう。ここに立ち寄った以上は、お互いに縁者だからな。どんなことがあっても、才次郎一人をむざむざと犬死にはさせぬ」

 平三郎が頷いた。

「私も家からも見捨てられたのを、権宮司さまに拾われた身ですからな」

 左門が平三郎を見てけげんな顔をした。

「田畑さまは、馬回りの下役では嫁も無理だから神官になるとお聞きしましたが?」

「それも少しは事実だが……」

 平三郎が暗い表情で言った。

「若気の至りで人を切って、ここに逃げ込んだのだ」

「もう過ぎた昔のことじゃないか……」

 弥吉の口出しを制して平三郎が続けた。

「何もかも嫌になった時期に、稲荷神社裏の賭場に出入りしててな、わずかな金銭のやりとりで博徒二人を殺してしまったのだ」

「二人もですか?」

「代貸しと若頭だったから大騒ぎになってな。相手が無宿者ということで目付の一存でことなきを得たが、体のいい理由をつけられて役職を追われ、家でも厄介者扱いになって腐りきっていたのを、権宮司さまに声をかけて頂き……」

「なあに、食い物を餌にして、すご腕の用心棒を一人釣ったてわけさ」

 田島主膳が低く笑ったが、すぐ真顔になった。

「ここは、みっちりと左門を鍛えるのが先だな」

「いや。鍛えるなら稽古なんかより実戦がいいだべ?」

 弥吉が軽く言うと、田島主膳がけげんな顔をした。

「実戦って、道場破りか? 才次郎には無理じゃろう?」

「田畑さんと一緒になって鍛えるから、心配ねえですよ」

「なるほど、他流試合なら上達も早いな?」

「それに、うまくいけば飯代も稼げますからね」

 左門には何の話かさっぱり分からない。道場破りなど出来るわけがない。

「田島さま。わたしが他流試合をするのですか?」

「この周辺の道場に押しかけて、試合をして来るってことだよ」

「田畑さまか弥吉さんが、一緒に行ってくれるのですね?」

「いや、平三郎はもうこの辺の道場じゃ相手にしてくれんのだ」

「何故です?」

「散々荒らしまくったからな。平三郎じゃもうわらじ銭も貰えん」

「弥吉さんは?」

「どの道場も、棒術じゃ相手にしてくれんのだ」

 腹をきめた左門が、畳に両手を付けて頭を下げた。

「でしたら、私が出来るように鍛えてください。よろしくお願いします」

 弥吉が平三郎を見た。

「おれが左門どのを連れて、城下の町道場を回ってみるか?」

「かたじけない。拙者じゃ相手にされんからな」

 田島主膳が言った。

「これで話が決まった。ただ、才次郎には凄味がないのが難点か?」

 主膳が左門をしみじみと眺めた。

「まず髪形から変えるぞ。弥吉に前髪を切ってもらって浪人風にする。暫く髯を剃らなければいくらかは精悍な顔になって別人に見えるじゃろう」

 平三郎が主膳に言った。

「忍者との命のやり取りで、顔つきも変わったような気がします」

「そうか。弥吉。元の才次郎に見えなくなったら出掛けていいぞ」

「承知いたしたです。五日もすりゃ顔かたちが変わるべと思うです」

 左門が、三人の情に感じて思わず右手で目頭をこする、弥吉が笑った。

「まだ勝算があるわけじゃねえ。泣くほど喜ぶのはまだ早えだべ」

 平三郎も真剣な眼差しで左門を見た。

「どの道場にも、かなり手強いのがいるからな。油断は命取りになるぞ」

「心得てます」

「それと、他流試合にはコツがあるんだ」

「どんな?」

「まず、一番手にはさほど強くない者が出る。だからここでは軽く勝っておく。その次に出てくるのは、道場で四、五番手の中堅どころだ。ここで、相手が強いとみたら、それ以上は無理だから、さっさと見切りをつけて引き上げる。ここで勝てる余裕があれば、苦戦した振りをしてようやく勝つ」

「次は?」

「二番手の師範代が出て来たら、全力でぶつかって早めに倒すのだ」

「そううまく行きますか?」

「ダメで痛い思いをしても、稽古に行ったと思えばいいじゃないか」

「なるほど、そうでした。それで実戦の稽古ってわけですね?」

「問題はこれからだ。師範代を倒すと、正面に座って成り行きを見守っている道場主が必ず、本日はそれまで! と打ち切りを宣言して、わらじ銭と称して小銭を呉れるのが習わしだが、ここで引き下がってはいかん」

「どうするのですか?」

「ここは大きな声で、道場主に一手ご指導願いたい、と怒鳴るのだ。すると、弟子の手前もあるから道場主としても戦わなければならなくなる。そこで、相対したら思いっきり気合を入れて声を出し動き回り何回か打ち合い、そのうち木刀を投げ出して、参りました、とべったり座って頭を下げ、相手は左門どのを褒めて芝居の幕は閉じる」

「わざと負けるのですか?」

「負けるのではない。勝たせてやるのだ」

「なぜ?」

「勝たせてやることによって貸しをつくる……いわば、武士の情けだな」

「わざわざ、負けるなんて出来ません」

「師範になる者の器量なら、勝ちを譲った意図も見抜いているから、その代償として金一封を用意する……それが、われわれの飯代に化けるのだ」

「でも、それでは一回っきりですね?」

「さにあらず、二度目に行けば、道場主は急用で姿を消す。だから、柳生の忍者の残党と戦うつもりで目いっぱい暴れまくって稽古するのだ。そのうち、師範代が道場主に変わってと金一封を持参する。それが何度か続くうちに、顔を見せただけで、お引き取りを……と、おひねりだけ渡されて門前払いになる」

 「そうしたら?」

 「次の道場に行くのだ。われわれは、自分たちの食い扶持ぐらいは稼がんとな」

 田島主膳が嬉しそうに笑った。

 「これでまた、才次郎のおかげで暫くは旨い酒にありつけるようだな」

 左門は複雑な気持ちだった。結局はこうして働かねばならぬ身なのだ。

 しかし、動機はなんであれ与えられた仕事をやるしかない。これが、生き抜くことの第一歩だと思えば愉快ではないか……左門はふと、見知らぬ道場で袋叩きになってぼろぼろなり、息も絶え絶えで呻いている自分を想像して慄然とした。

 主膳と平三郎、弥吉の三人が旨そうに酒を酌み交わしていた。

 だが、木こりの藤三郎の妻・八重が左門暗殺を諦めていないのを誰も知らなかった。

20、失意‐5

左門が熱田神宮に身を寄せて早くも十日ほどが過ぎた。

 当初は酒の上での勢いで、すぐにでも他流試合とのことだったが、弥吉に同行して藩内の剣術道場を覗いて回ったところ、さすがに文武両道を奨励する尾張藩だけあって、どの道場も意外にも激しい訓練に明け暮れていて、左門の実力では道場主を倒すなどは絵に描いた餅のようなものであることも分かった。

 それでも、道場破りにはまだ無理ではないか、との主膳の一言から始まった連日の激しい稽古で、左門の闘う本能は日増しに剣技を上達させ、自信も深まってゆく。

 新緑の森には小鳥が囀り、春の陽気に誘われてか昼間には参拝客が増えていたこともあって、特訓は深夜か早朝に限られ、人目につかぬように神楽殿裏手の土用殿前の狭い庭で行われた。

 土用殿の前庭は鬱蒼とした樹林に囲まれて昼なお暗く、早朝でも空の明るさは木々の梢や枝葉に遮られて夕暮れのようであり、月のある深夜でも月光は下までは届かない。この闇を利して柳生の忍者が襲って来たとしたら防ぐ術もない……との覚悟もあった。

 だが、彼らが襲って来る気配はなかった。その間に、田畑平三郎が見聞役となって弥吉の指導で、左門の荒稽古が始まった。

 始めは弥吉が小石をゆるく投げ、それを左門が木刀で払ったり身を交わして避けるところから始めたのだが、右目に魚鱗を嵌めたことが影響してか、左門の動きが精彩を欠いてぎこちなく、一日目は身体中に傷や痣が出来て、稽古は半日も持続できなかった。

 その夜は、濡れ手拭いで冷やしても眠れなかった。

 二日目、この日は左門も必死で避けたこともあって、石つぶての速度がかなり鋭くなったにも関わらず左門の体には殆ど触れることがなかった。それでも、夕闇迫るころになると避けきれない石があり、不覚にも左門は額を割って膝を付き、血を噴く額を布で押さえて呻く羽目になっていた。

「ウロコを外してみな」

 弥吉の一言で、左門が右目の魚鱗を外すと、とたんに夕暮れなのに真昼のような明るさが戻っていた。そこからは、弥吉の投げる石を造作無く払いのけることが出来ることに自分自身が驚いた。柳生十兵衛、山本勘助もこれを用いたと考えても不自然ではない。

 三日目は田畑平三郎が参加しての特訓になった。

 平三郎と立ち会っている左門目掛けて弥吉が石を投げ、左門は平三郎の鋭い剣風を避けながらも飛来する石つぶてにも対処しなければならない。それを殆ど無意識に動物的な本能でやり遂げるようになったのだから、左門の武芸者としての能力も尋常ではない。

四日目からさらに稽古は激しさを増していた。

 早朝は、他流試合用の激しい打ち合いが主となり、深夜は対忍者用の稽古となって投げられた石つぶてを木刀で払いのけるか身を交わして避けるかを学ぶのだが、すでに左門の五体は満身創痍で、稽古を終えた直後は暫くは口も利けない状態が続いた。

 髪を束ねた左門が、平三郎の木綿の着衣を借りると、大道寺家にいた才次郎時代の優しさが影をひそめ、いかにも野性的な飢えた狼のような精悍な浪人姿に変貌していた。

しかも、激しい稽古が八日を過ぎた頃には、平三郎とも弥吉とも勝ち負けが拮抗していて、いつでも出陣できる状態になっていた。

 十日目の深夜、実戦に近いその激しい稽古を、木こりの藤三郎の妻・八重が樹の間隠れで身を隠して見つめていた。その手には、卍手裏剣が握られていて、いつでも左門の眉間に打ち込める体制だったのだが、背後の鬱蒼とした雑木の葉擦れの音が気になってそれが出来ない。八重は背後にかすかな殺気を感じておののいた。 しかも、激しい稽古が八日を過ぎた頃には、平三郎とも弥吉とも勝ち負けが拮抗していて、いつでも出陣できる状態になっていた。

 周囲の梢の葉が風に逆らわずに揺らいでいるのに、八重の背後二間(3・6m)ほどの至近距離の草木が風が止んだのに揺らいだのを八重は感じ取ったのだ。呼吸はおろか、人の気配も感じさせないほどの者は誰……? もしかしたら気のせいではないか? だが、確かに人の気配がある。手練の忍びである八重を欺くほどの者は……もしかして、甲賀の咲! これに気づいたとき、八重は身も心も凍りついて動けなくなっていた。

 八重が左門に気をとられている間に、全く気配さえ感じさせずに逆風を利用して背後に回られては勝ち目がない。咲に八重を倒す気があれば、とうに倒せたのだ。なぜ、背後から襲わない?

 八重は恐怖を感じながらも、勇気を出して声をかけた。

「甲賀の咲……だね?」

 この八重の疑問に応えて、雑木の中から風に逆らって低い声が伝わって来る。

「伊賀の八重、ここでは争いは止めよう?」

「なぜ?」

「あなたの夫、木こりの藤三郎を倒したのはわたしだよ」

「だと思ってたさ。恨みは晴らすよ、必ず仇はとるからね」

「いいよ。その代わり、左門さまへの恨みは忘れなさい」

「それは出来ない。柳生兵介さまの仇を討つのは当り前だろ?」

「ならば、何で迷ってる? さっきから倒す機会は何度もあったのに」

「……」

「わたしも同じだよ。あんたを倒せるのに出来ないんだ」

「なぜ?」

「きっと、大義名分がないからさ。あんたが左門さまを倒そうとすれば見逃さないけど」

「だったら、今のうちにわたしを殺しな。生かしとくと後で後悔するよ」

「つべこべ言わずに早く消えな。目障りだからね」

「分かった、借りにしとくよ……」

 八重が横っ飛びに跳ねて森に逃げ込みながら、手にした手裏剣を左門の横顔目掛けて投げ込んだ。手裏剣は一瞬の間に左門の木刀に打ち払われて玉砂利の上を跳ねて何処にか消えた。それを見届けた咲が闇の中で安堵したように頷いて森の中に去った。それに気づいた弥吉が木の間越しにかいま見た時は、すでに二人の姿は森に呑まれて消えていた。

「今のはなんだ?」

 木刀に撥ねた金属音に手裏剣と気づいた平三郎が、攻撃の手を休めて手裏剣の飛び去った方角を見つめると、弥吉も小石を詰めたた布袋を抱えたまま森から出て来た。

「今のは忍びが放った手裏剣だ。左門どのは見事に打ち払った、これなら心配ねえだ」

「その忍びは?」

「もう逃げただ。多分、今日はもう現れねえから安心しな」

「弥吉さんの言葉通りなら安心だが、まだ油断はならんぞ」

 平三郎が用心深く周囲を見回してから弥吉にはかった。

「手裏剣を難なく払った。これなら、よかろう? あとは田島さま次第だな」

 弥吉も納得したように頷いた。

「権宮司さまには歯が立たねえだべ」

「どうだ、田島さまと手合わせする気は?」

 左門には意味が分からない。まさか、あの温厚で八方破れの権宮司が武術に長けているとは信じ難いことだ。しかし、弥吉の言う通り歯が立たない相手かどうかは立ち会ってもなければ分からない。武道に励む者として、強き相手と立ち会う機会を逃がすべきではない。左門は迷わずに田島主膳との立ち会いを望んだ。

 左門は、荒稽古を終えた汗まみれの姿のまま社務所に駆けつけ、執務中の権宮司に、「一手ご指導頂きたい」と、型通りに願い出た。すると、田島主膳は意外にあっさりとそれを受け入れ、「晴れの門出を祝って明日の早朝にな」と、笑顔で応じたのだ。

 手合わせは、早朝、詰め所前の広場で行われた。

 左門には平三郎、主膳には弥吉が介添えに付き、一礼して試合が始まった。

 二人は、各道場で用いられる鍔(つば)なしの樫の木刀を用いている。これだと実戦と違って接近戦での鍔ばぜり合いはない。そのまま押せば手と手がぶつかり合うからだ。

 だが、試合は一瞬で終わった。

 平三郎の「始め!」の一声で、左門が木刀を前に突き出した時には、すでに主膳が躍り込んで来て左門の木刀を避け、のど元寸前で木刀を止めていた。左門はまだ呼吸すらしていない。驚いて大きく息を吐いたときには、もう主膳は木刀を平三郎に預けて背を向けて立ち去りかけていた。

 一瞬の敗北に理性を失った左門が思わず一歩踏み込み、「いま一手!」と、主膳の肩口を狙って木刀を振り下ろすと、平三郎が手渡されたばかりの木刀で撥ね上げて左門の胸に切っ先を突きつけ「卑怯だぞ!」と叫んだ。

 左門の手を離れた木刀は宙を舞って主膳の頭上に降下したが、主膳はとっさに右手を伸ばしてその木刀の柄の部分を受け止め、振り向きざまに風のように迫り、短躯ゆえに躍り上がって長駆の左門の頭を軽く打った。木刀を持たぬ左門には避ける術はない。その衝撃はすざまじい勢いで全身に痛みを伴って伝わった。

 頭上と目鼻から火花が散ったような衝撃で小砂利の上に倒れた左門の耳に、「今だけで三度も死んだのを忘れるな!」と、厳しい口調の権宮司の言葉が残った。

 頭を抱えて呻きながら左門は、こんな負け方では柳生道場で目録まで進んだ身の沽券に関わる……と思った。だが、負けは負けとして素直に認めずにはいられない。

 薄れ行く意識の中で、左門は悔し涙を流しながら覚悟を決めていた。

 今のままでは道場破りなど覚束ないが、平三郎と弥吉に仕込まれた実戦の技と自分を信じて最善を尽くし、あとは天運に任せるしかない。

 左門の十八歳の春は、こうして生き抜くための技を磨くことに費やされた。主膳の言葉通り一度ならず二度三度も死んだ身には、もはや恐れるものなど何もない。

 この上は強き敵を避けず、いかなる奇襲をも恐れずに胸を張って生きるしかない。

 その左門の決意を祝うのか呪うのか、早朝から熱田の森に棲くう烏の群れが不吉な鳴き声で応じている。それは、十八歳で天涯孤独の身になった左門の行く末を暗示するかのようでもあった。だが、この先に何があるのか……それは左門自身にも分からない。

 ただ、他流試合に出陣する日は今日、それだけは確かだった。