新政府軍・白河役陣亡諸士碑-3


このコーナーは安司弘子講師(左)と宗像信子講師(右)の担当します。

慰霊碑を読む〝碑のメッセージ〟

新政府軍・白河役陣亡諸士碑-3
捐躬報国(えんきゅうほうこく)
安司 弘子
(歴史研究会白河支部長)

前回の・・・銘シテ曰ク】に続く碑文です。
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有尉佳城 白河之原 煌々烈士
爰留其魂 遺勲銘石 山岳倶存
【尉(うつ)タル佳城、白河ノ原ニアリ。
煌々(こうこう)タル烈士、爰(ここ)ニ其ノ魂ヲ留ム。
遺勲石ニ銘シ、山岳倶ニ存ス】

明治二十五年壬辰十一月
従四位勲四等文学博士 重野安繹撰
辨理公使従四位子爵 秋元興朝書
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これを要約しますと、
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「官軍」が奥羽ニ侵攻したとき、奥羽諸藩は軍事同盟を結び、幕府敗残兵も混じえ、天皇の軍隊に対し、「奥羽ノ咽吭(いんこう=のど)」白河城に拠って抵抗した。
官軍は、初戦では敗退したが、五月一日には、「会津・仙台・二本松・棚倉等ノ兵六百八十余人ヲ斃シ」、城を占領した。
白河進駐後、逆襲する数千人の「賊=奥羽同盟軍」を、六百余人の官軍が退けた。以来、官軍は兵力を強化し、反攻してくる賊軍と数十回交戦し、すべて撃退した。
六月二十四日には、「薩・長・土・大垣・佐土原・館林・黒羽ノ七藩ノ兵千余人」が、白河より出撃し、棚倉城を陥した。我軍はさらに進み、二本松と会津を討ち、賊軍すべてを掃討した。
この戦争で、官軍のうち「屍ヲ白河長寿院ニ?(うず)ムル者、凡ソ一百十五人。墓上唯其(ただその)氏名ヲ刻ス」。
二十五年を経た今、「当時ヲ追懐スルニ、恍トシテ世ヲ隔ツル如シ」。百年の後には、ここの「艱難の遺跡」も消滅してしまうであろう。ゆえに、七藩の旧藩主と、あの戦争に関わった者たちが、「躬ヲ損テ、国ニ報」いた「白河役陣亡諸士」の勲を不朽にすべく、これをたてる。
「煌々(こうこう)タル烈士、爰(ここ)ニ其ノ魂ヲ留ム」。

以上で碑文シリーズは一休みです。
ご愛読有り難うございました。安司弘子。