月別アーカイブ: 2018年11月

天狗のお山「迦葉山」

 このコーナーは宗像信子講師(左)と安司弘子講師(右)の担当です。

天狗のお山「迦葉山」

宗像 信子
(開運道芸術部門顧問、咸臨丸子孫の会幹事)

 過日、群馬県沼田市の奥山にある迦葉山(かしょうざん=日本三大天狗の一つ)に参拝してきました。
新幹線で上毛高原駅から車で30分くらいの所に位置します。
その縁起書によると
天狗のお山として知られる当山は、谷川連峰の東、沼田市より16キロに位置し、関東の霊域として名高い。春の新緑、夏は霊鳥「仏法僧」の声を聞き、秋には全山紅葉に染まり、冬は白雪に覆われる。
開創は嘉祥元年(848年)時の上野国の大守、桓武天皇の皇子葛原一品親王が比叡山三祖円仁慈覚大師を招き、国家繁栄、民主安泰の鎮守護国寺として開かれた。唐より帰朝まもない高僧慈覚大師は、大乗経中三会の法「迦葉仏鶏足山に出現し、不生不滅を示し、弥勒下生龍華院を期す」より、遠くお釈迦様の後を継がれた迦葉尊者が第一回の経典を作られた結集の地、鶏足山と山なみが同じであるとし、初の千人供養法会を開き、迦葉山龍華院弥勒護国寺となる。そして北関東黎明の基となり49院を擁し政治文化野中心として栄えた。
康正2年(1456年)改宗開山天巽慶順禅師行脚の途、弥勒中慈雲律師の高徳を慕い来山した。慈雲律師は天巽禅師の戒定慧の三学、座禅の徳風に感得して六百年の天台宗の宝燈を譲り入定せりという、これによりて曹洞宗となり迦葉山龍華院弥勒護国禅寺と号す。
天巽禅師に随身する神童に中峯あり、十年一日の如く禅師に師事し伽藍の造営から布教法にに尽くした。常に容顔変わることがなかったという。禅師が二世大盛禅師に譲られるや「吾、迦葉尊者の化身にて己に権化化業は終わったよって今後は永くこの山に霊し末世の衆生の抜苦与楽せん」と誓願して案山峰より昇天され、その後に天狗の面が残されていたという。

時が経つに従いその霊験は益々応所に現れ、参拝者の絶えることなく鎮守中峯大薩として祭られ迦葉山の信仰の中心となっている。
又、徳川初代将軍の祈願所となり朱印百石、十万石の格式を有し、七百十八町歩が下賜された。当時の面影を残すものとして、旧参道を上り切った右側に天然記念物馬隠れの杉がある。この杉より内は三蔵密教の霊域にて城主でも馬乗りを禁じ、馬が隠されても疑わずとして名付けられたものである。特に近年は霊鳥「仏法僧」の声を聞きつつ静かに座禅堂に坐し、古く迦葉尊者の禅風を慕う研修会や、一夜俗塵をはらい心静かに家内安全や開運を願う御参籠者にて賑わっている。
ということです。
写真のようにとっても大きな天狗の面が飾ってあり、全山がパワースポットのような所です。車でかなり上まで登れまれすので是非、いらしてみて下さい。


栃木市<蔵の街>に行きました。

 このコーナーは宗像信子講師(左)と安司弘子講師(右)の担当です。

栃木市<蔵の街>に行きました。

宗像 信子
(開運道芸術部門顧問、咸臨丸子孫の会幹事)
今回も秋のさわやかな日に栃木市に行ってきました。
栃木市は小江戸情緒あふれる蔵の街として観光に力をいれています。
先ず最初に巴波川の遊覧船に乗り込みました。
巴波川は浅い川で、鯉がたくさん泳いでいます。
船に乗る時に100円で鯉の餌を買い、まきながら乗船しているので、鯉も良くわかっていて船のそばに盛り上がるほど寄ってきて泳いでいます。
物凄くたくさんで、またまたとっても大きくというか太っていて、餌に食いつく顔はまるでナマズのようでした。
また鴨もいて上から餌をねらって的確に鯉の餌の上前をはねていました。
遊覧船は川が浅いので竿をさして進みます。
また乗客は船頭さんの指導の下に栃木河岸船頭唄に合の手をいれて盛り上がりました。
30分ぐらいでしたが、川岸の蔵の街並みで結構楽しめました。

次は「とちぎ山車会館」に行ました。
明治7年に神武祭典に山車をだしたことから始まり、現在は「とちぎ秋まつり」に勇壮な山車が10基くらい町ごとに繰り出しているそうです。
その山車は江戸・明治時代に造られた絢爛豪華なものです。
この会館にそのうちの3基が飾られていましたが、丁寧に保存されて素晴らしいものでした。
今度は実際にそのお祭りを見に行きたいと思もっています。
もし行きましたらまたご報告いたします。


甦る仁のこころ 合同慰霊祭・特別記念講演」余談11

このコーナーは安司弘子講師(左)と宗像信子講師【右)の担当です。

 

白河戊辰150周年記念事業
~「甦る仁のこころ 合同慰霊祭・特別記念講演」余談11~
安司 弘子
(歴史研究会白河支部長)

京都黒谷の金戒光明寺は、幕末、会津藩が本陣とした浄土宗の本山です。会津藩の墓所を管理する塔頭西雲院の橋本住職は合同慰霊祭で白河の住職達とともに読経して下さいました。
橋本住職は、稲荷山に慰霊碑を建立する際の呼びかけに、「声かけをするのでパンフレットを送るように」と協力を申し出て下さり、西雲院とご自身のほかご家族や多数の知人からご芳志をいただいた経緯があり、初めての白河来訪となったのでした。
参加者にはもちろん歴史好きな方が多く、遠距離を厭わず福岡県・岐阜県・大阪府・京都府・愛知県・岩手県など津々浦々に及びました。

新選組にとっても、一番長い戦場となった白河との所縁によって、局長近藤勇と一番組隊長で白河藩士の子沖田総司、副長土方歳三の義兄で新選組を支えた佐藤彦五郎のご子孫達のほか日野新選組同好会など、新選組ゆかりの方達が参加されました。

ほかに、中世時代の白河を治めた白河結城氏の現当主や、最後の白河藩主阿部正外とその家老、勝海舟、木村摂津守など歴史上の人物のご子孫達もいらっしゃいました。

ここにご紹介できないその他大勢の方々のお陰様で、合同慰霊祭が盛会裡に終了したことをしっかりと心に刻み、感動の余韻を胸に感謝の気持ちを持ち続けたいと思います。

戊辰白河戦争で亡くなった人数は1,000人を超えます。
これは名前が分かっている戰死者の数ですが、実は、地元の人だけが知る「あそこには戊辰の時の戦死者が埋まっているので、決して土地をいじらないように」という先祖からの言い伝えや、「しびとぼり(死人堀)」などと呼ばれ、山あいの窪地に誰にも知られず眠っている戦死者もいるのです。

藩が消滅した白河は軍事的に空洞化しており、特異な状況にありました。これほどの犠牲者を出した「白河百日戦争」とも呼ばれる白河での戦闘は、これまで「白河口の戦い」と呼称され、会津の一つの出入り「口」と捉えられてきました。
なぜ知られることがなかったのか、どうして歴史の中に埋没してしまったのか、という疑問の回答はここにあります。

細かい行事を含め記念事業はまだ続きますが、来年3月10日に予定されている「海援隊トーク&ライブ2019」と、3月24日に行われる戊辰白河戦争をテーマにした楽劇「影向のボレロ」は、白河戊辰150周年記念事業の幕引きとなる大きなイベントです。
是非ご参加頂ければと思います。
この項はこれで一段落、改めて出直して参ります。長期のご愛読有難うございました。安司弘子。


甦る仁のこころ 合同慰霊祭・特別記念講演 余談~10

このコーナーは安司弘子講師(左)と宗像信子講師【右)の担当です。

白河戊辰150周年記念事業
~「甦る仁のこころ 合同慰霊祭・特別記念講演」余談~10

安司 弘子
(歴史研究会白河支部長)

2017年12月 「奥州白河からふるさとへ伝えた盆踊り『白河踊り』」を萩市の中原正男さんが出版。
白河市と萩市の交流は、まさに中原さんが萩周辺で踊られている「白河踊り」という盆踊りに関心を持ったことに始まります。
奥州への出兵後、帰還した長州兵は待遇の不満によるクーデターを起こしました。新政府から武力鎮圧された兵士らは、危険分子として注視され、妻子や孫達にすら諸隊士だったことを言えない人生を送りました。
そんな彼らにとって、年に1度「白河踊り」を踊ることが、仲間への慰霊であるとともに、自分たちは長州藩の兵士だったという矜持を感じる瞬間だったに違いないと、中原さんは考察されます。
「白河踊り」の研究に10年間もの時間を費やし、その成果の集大成として一冊の本を刊行されたことに心から敬意を表します。

『NHK俳句』4月号が、2018年3月20日発行され、これに先駆けての取材に同行しました。
『旅を詠む』のコーナーに、オールカラー6ページで紹介されたプロローグは、<戊辰戦争の激戦地でもあった白河はその昔、芭蕉が『おくの細道』で訪れたみちのくへのスタート地点でもあった。>
芭蕉が辿った「おくの細道」は、「戊辰の道」と重なり、まさに戊辰150年の節目にふさわしい目玉企画でした。

さて、ここまで、本年7月14・15日に開催された、白河戊辰150周年記念事業「甦る仁のこころ 合同慰霊祭・特別記念講演」に至るまでの余談を備忘録として書いてきました。
先に述べたとおりその概要は宗像信子さんがレポートして下さいましたので、余談を閉じるに当たって、このイベントに全国からご参加いただいた方々について少し触れたいと思います。

遠く長崎からご参加いただいた荒濱さんは、歴史研究会の運営委員で特別顧問です。
2009年7月、「天地人クライマックスin白河」というイベントに参加された際、白河には民間力があると捉え、歴史研究会の全国大会を白河で、と推薦して下さった恩人です。荒濱さんとの出会いはその前年で、白河訪歴は10回を超えています。
同じく、長崎在住で10回の来白を数える歴史仲間の工藤さんは、「会津と長崎をつなぐ絆」「白虎隊の会長崎支部」「長崎会津会」を率いる会津ファンです。長崎からは、会の仲間で山川健次郎のご令孫木下さんほか3名様をお連れいただきました。

下関市から来られた吉井さん一行5名様とは、美祢市で行われた「恩愛の碑」の除幕式以来の再会で、2日目には吉井さんと2人で稲荷山で新聞の取材を受けました。
同じ山口県の萩市からは来賓としての市長ほか、「長州と会津の友好を考える会」を主宰し、会津にはこれまで60回以上も足を運び、民間交流を進めている元萩市医師会長の山本さんが、前市長を含む40人のツアーを組んでお出でになりました。
このグループとは別に、「白河踊り」の研究家中原さんも、主宰されている「楫取素彦研究会」のお仲間たちと参加され、研究のための取材先や著書の販売店に挨拶回りなどもされました。
つづく