月別アーカイブ: 2020年8月

 平和へのへのメッセージ  2

              宗像善樹

 戦争が終わったとき、戦友は長野の実家に帰らず、遺骨を抱いて、埼玉県浦和市の亡くなった戦友の家を訪れた。
そして、そのまま、戦友の奥さんと子供のたかお君の生活を守るために、一緒に暮らした。日々の生活は、長野の実家が経済的な支援した。
おじさんは、亡くなった戦友の気持ちを推し量って、死んだ戦友の子供を「たかお」と呼ばずに、「ぼうや、ぼうや」と呼んだ。そして、自分の身体の状態を世間に見せたくないから、いつも褞袍を着て暮らした」

 この話を聞かされたとき、私の脳裏に、蝉しぐれの騒がしい鳴き声とともに、次のような情景が浮かび上がってきました。
 それは、私が中学2年の夏休みの時でした。
療養していたたかお君のお母さんが亡くなり、しばらくした後、突然、おじさんとたかお君が、我が家に挨拶にきました。
おじさんが、戦友だった『たかお君のお父さんの『遺骨箱』を抱き、たかお君が、『お母さんの遺骨箱』を抱いていました。
おじさんが両親に向かって言いました。
「これから、ぼうやと、そして、ぼうやのお父さんとお母さんのお骨と一緒に、長野の私の実家に帰ります。ご近所の皆さんが、長い間、この子を見守り、面倒をみてくださいました。本当にありがとうございました」
 話を聞きつけた近所の人たちがぼうやの家の前に集まり、涙をぬぐい、揃って四人を見送りました。

 おじさんが去るとき、そっと私に小さな紙袋を渡してくれました。
その日の夜、自分の部屋で袋を開けました。
 中には、HBのトンボ鉛筆二本と手紙が入っていました。手紙に書いてありました。
「よしきちゃん。いつもたかおと遊んでくれて本当にありがとう。たかおの父より」
おじさんの代筆による、たかお君のお父さんからのお礼文でした。
そして次に、おじさんの名前で、次の一文が書いてありました。
「戦争は、二度としてはいけない」

 このように私は、少年期に、日常の市民生活の中で、戦争の生々しい傷跡を見て育ちました。あの日、おじさんが私に書き残した『戦争は、二度としてはいけない』という言葉を胸に刻んで、今日まで生きてきました。
私は、おじさんが残した大切な言葉を、私たちの次の世代にしっかりと伝えていかなければならないと思っています。

 喜寿を迎えた私は、自分の机の上のトンボ鉛筆を見るたびに、あの時、両親や近所の人たちと一緒に、ぼうやとおじさん、そして、たかお君の両親の遺骨を見送った光景がセピアカラーのように目の前に浮かんできます。
 私の両親も、あの頃の近所の大人たちも、とうに、みんな逝きました。 
 小学校でたかお君と同じクラスだった、私の年子の弟も、先年、逝きました。そして、『おしくらまんじゅう』『缶けり』『だるまさんがころんだ』などのあそびを一緒に楽しんだあのときの友達もみな次々に想い出を残して散りました。  合掌


平和へのメッセージ-1

 

    平和へのメッセージ-1
              宗像善樹

 私には、先の大戦がもたらした悲劇について、少年時代の大切な思い出があります。
 私が小学生だった昭和二十五、六年頃の話です。
 私が住んでいた浦和市の家の近くの長屋に「たかお君」という名前の一歳年下の遊び友だちが住んでいました。
たかお君の家族構成は、胸の病気を患って臥しているお母さんと、たかお君が「おじさん」と呼んでいた四十歳くらいの男の人と、「たかお君」の三人でした。
男の人は、たかお君のことを「ぼうや、ぼうや」と呼んでいました。
 私は『不思議な家族だな』と内心思いながら、いつしか、たかお君を『ぼうや、ぼうや』と呼んで、一緒に遊ぶようになりました。他の遊び仲間も、私に習って、『ぼうや、ぼうや』と呼ぶようになりました。
ただ、私の両親を含め近所に住む大人たちは、常に『たかおちゃん、たかおちゃん』と呼んでいました。
 「おじさん」には左の腕がありませんでした。
そして、いつも足元が見えないくらい裾の長い褞袍(どてら)を着ていました。めったに家の外に出ず、部屋の奥に座って、長屋の前で遊ぶ私たちを眺めていました。まったく、働きにも行きません。
私は子供心に、『どうやってご飯を食べているのだろう』と思いました。
 そういう私の疑問とは関係なく、たかお君は明るく、素直な子供でした。回りの大人たちも、たかお君を大切に見守っていました。
 私を含め子供たちは、それぞれの母親から、
「たかおちゃんが家に帰るまでは、一緒に遊んであげなさい」
「たかおちゃんと一緒にいてあげなさい」
と言いつけられました。
私は、事情が分からないまま、親の言いつけ通りにしました。辺りが暗くなってから家に帰っても、親の小言はありませんでした。謎めいた親の態度でした。

私が大学生になってから、母親が謎を明かしてくれました。私がこの話を聞いた時には、たかお君は長屋から引っ越して、すでに浦和からいなくなっていました。
「たかおちゃんの本当のお父さんは、昭和二十年に、福岡県にあった太刀洗飛行場でアメリカ軍の空襲に遭って亡くなった。
おじさんという人は、亡くなったお父さんの親しい戦友で、空襲で左腕を失い、爆弾の破片で身体中に傷を負った。
たかおちゃんのお父さんが息を引き取るとき、戦友に『身寄りのない妻と子供が心残りだ』と訴えた。
戦友は『安心しろ。後は、俺にまかせろ』と答えた。その戦友は、たかお君のお父さんの一族が、東京大空襲で全員焼死したことを知っていた。
その戦友の実家は長野県にあり、戦友は裕福な農家の次男坊だった。

 


浜離宮恩賜庭園ー3


宗像 信子
(開運道芸術部門顧問、咸臨丸子孫の会幹事)

浜離宮恩賜庭園ー3

今回の写真は汐留にあるコンラッドホテルの28階に上り撮影した浜離宮公園の眺望です。
このホテルは東京湾や浜離宮を一望できるということを特色にしています。
本当に28階に上がってみると前面に東京湾と浜離宮が見え、その眺望を楽しみながらお食事やお茶ができるようになっています。
この季節はほとんど緑の森と池の水色ですが、梅、桜、菜の花のときはとてもカラフルになります。
なんでこんなに浜離宮にこだわるかというと、村長のお言葉にあるように私は代々この浜離宮の浜奉行を勤めた木村家の末裔になるからです。
幕末の歴史に登場した木村摂津守喜毅の玄孫(孫の孫)になるからです。
木村喜毅は1830年にこの浜離宮で生まれました。
12第将軍家慶にその父喜彦共々可愛がられ、まだ満12歳の時に17歳ということにして江戸城に浜奉行見習いとして初出仕したそうです。
その後も昌平黌の先輩の岩瀬忠震らに可愛がられ引き立てられたことによって出世していきました。
歴史に登場する最初は長崎海軍伝習所の2代目伝習所所長になったことです。
この時に伝習生に勝海舟や榎本武揚がいました。
またオランダに幕府が依頼していた軍艦咸臨丸が長崎に到着しました。
その後長崎海軍伝習所は築地に移転しました。
この海軍伝習所がまた浜離宮に移転するというご縁に感動します。
そしてその後、平成になって私が築地の花見サロンに出入りさせていただいているご縁にもご先祖さまはびっくりしていらっしゃるのではないでしょうか?
木村喜毅が歴史的に有名なのは1860年にあの咸臨丸でサンフランシスコに提督として航海したことです。
この時の乗員には艦長の勝海舟、従者としての福沢諭吉がいました。
またあまり知られてはいませんが、江戸城を新政府に明け渡す時の最後の勘定奉行で、幕府の財産を清算して新政府に引き継ぐという大仕事をし終えました。
その数日後まだ39歳でしたが、引退をして政治の舞台から去りました。
その後は明治政府から何度も出仕を請われましたが、一切固辞して一介の市井人になりました。
そして生涯幕臣として生き続けました。ただ福沢諭吉先生とは生涯の友でした。
二人とも仲良く1901年に残念ながら亡くなりました。
ではこれで浜離宮についての物語は終わらせていただきます。
3回もお付き合いしていただきありがとうございました。


 浜離宮恩賜庭園ー2

宗像 信子
(開運道芸術部門顧問、咸臨丸子孫の会幹事)

 お浜御殿という徳川将軍家の別邸は12代将軍家慶の時代までは将軍家の鷹狩りの場でもあり、華やかな歴史で彩られていました。
ただ別荘といっても、宿泊施設はありませんでした。
その当時の将軍さまは、どこを訪れるのも日帰りが基本だったそうです。
ですから今でいう別荘とは違っていました。
広い敷地だったので、浜奉行は薬草を栽培し、大きな薬草園があり、海に面していたので製塩もしていたそうです。
そこから収穫される薬草や塩を将軍さまに献上し、また勘定方に納め、その残りは売却して収入を得ていました。ですからこの浜御殿には町人もかなりに出入りしていました。
そういう意味では普通の武士の仕事だけではなく商売にも通じていたようです。
このような優雅なお浜御殿がペリー来航からだんだん軍事的な場所へと変化していきました。
14代将軍家茂が京都でなくなられて、そのご遺体が大阪から幕府軍艦で浜離宮に運ばれてきました。
また15代将軍慶喜は京都から開陽丸で逃げ帰ってしまったときに、やはり浜御殿に到着しました。

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築地にあった海軍練習所をこのお浜御殿に移転してからは、もう優雅なお庭ではなく軍事基地的な意味合いをもった場所になってしまいました。

(注1)写真は汐入の池の端にある松の御茶屋ですが、現在は利用することはできません。
(注2)宗像信子さんは、お浜奉行・木村家のご子孫です(村長)。


浜離宮恩賜庭園

 

浜離宮恩賜庭園 

宗像 信子
(開運道芸術部門顧問、咸臨丸子孫の会幹事)


築地からほど近い江戸湾よりに浜離宮という庭園があります。
新橋・汐留から新大橋通りを築地の花見サロンに向かって歩いて行くと、右手に緑のこんもりした木立ちがある公園が見られます。
それが浜離宮恩賜庭園です。
近代的なビルもそばにたくさんありますが、この庭園は昔からの歴史的な所です。
この庭園の歴史についてご説明いたします。
徳川家四代将軍家綱が弟の甲府宰相綱重に与えた15000坪の海水面埋め立て許可に始まりました。
そして綱重の子綱豊が跡継ぎのいない家綱の跡を継いで六代将軍家宣になりました。
それに伴いこの浜庭は18世紀初頭に将軍家の所有になり、浜御殿として誕生しました。
それからは将軍様の気晴らしになるようなお庭として管理されてきました。
将軍家斉が一番利用したそうです。
池での釣り、鷹狩り、お花見と御台所、大奥のお女中などもお庭に行くときは随行したそうです。
またお武家さまたちも浜庭に招待されるということはすごい名誉だったそうです。
その浜庭を管理したのが浜御殿奉行木村家でした。
庭内に役宅を持ち、生活をしながら管理したようです。
今はその役宅は存在しないのが残念です。
この木村家はそもそも甲府宰相の家来で家宣が将軍になったころから浜御殿奉行となりました。
そして家禄も20表から100表に加増されますが、異例の出世だったようです。
この後、幕末までの歴史については次回お話いたします。

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(注)宗像信子さんは上記の木村家ご子孫です(村長)。