序章

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天正十年(一五八二)六月、明智光秀が謀反を起こし、主君織田信長を京都の本能寺に葬った。
その折に光秀は、宿敵になる徳川家康が少勢の家臣と堺にいるのを知って、信長同様に抹殺すべく精鋭の軍勢を差し向けた。それを察知した家康は側近数人と共に、山深き鈴鹿超えを試みて脱出を図ったが勝手知らぬ山路に迷い、迫りくる追手の気配を感じて主従共に自決さえ覚悟したとき、山中から現われた甲賀忍びに助けられ無事に峠に辿り着いた。甲賀忍びは、狼煙で呼び寄せた伊賀忍者に家康らの護衛を引き継ぎ、自分たちは間近に迫った明智勢に向かって白刃をかざして斬り込んで行った。その間に伊賀忍びに守られた家康一行は山路を急ぎ、ようやく海辺に辿り着き、四日市から船で駿河へと命からがら逃げ帰って九死に一生を得ている。
その後、天下統一が成り徳川幕府が正立した。家康は、命を救われた恩義に報いて甲賀・伊賀の忍者を幕臣に取り立て、江戸城表門の警備を甲賀衆、裏門の警備を伊賀衆としてその任に当たらせて重用した。さらに、その両陣営から将軍直属の間諜や密偵を選び、まだ家康に従属しきれない全国諸大名の動向探索に当たらせた。その慣習は七代将軍宗春の時代までは変わりなく続いた。
だが、太平に慣れた忍者の子孫は世襲制の弊害もあり、忍びの鍛錬を怠り、御庭番の職名そのままの単なる庭掃除や土木工事の指図、城内の警備が仕事となり、緊急時に役立たぬ無用の長物となっていた。
ところが、その必要性に迫られる出来事が起こった。
嘉永六年(一八五三)六月のペリー艦隊来航の黒船事件を契機に、太平の夢破れた国内は騒然となり、幕府も開国を迫る外国の攻勢に策も力もなく慌てふためくばかり、攘夷の朝命に応えた各藩は沿岸を通過する外国船に敢然と戦いを挑み、完膚なきまでに叩き潰されて外国の強大な軍事力を知った。それに対して何ら手を打てぬ幕府に、西国雄藩の不満がたかまり、その不満のはけ口が倒幕活動にまで発展しつつあった。

皇女和宮を娶って公武合体の道を選んだ十四代将軍家茂は、有力大名の謀反の噂に危機感を抱き、御庭番から選ぶ公儀隠密とは別に、密かに遠国大名の動きを探る裏隠密の組織化を図った。その「裏の遠国御用」と名付けられた密偵の活躍の記録は全て焼却されたはずだが、その組織を任された奥州棚倉藩主松平康英の亡き後、松平家江戸蔵屋敷の手文庫から、保存厳禁の隠密から将軍宛ての密書が見つかった。
その中に坂本龍馬に関する記述があり、その隠密が杉山太兵衛なる者であることが判明した。
その実物は、大正十二年〈一九二三)九月一日の関東大震災の大火で屋敷ごと消失して今はない。ただ、その文書を盗み見た松平家の雑記が現存しており、それには十四代将軍家茂が初代将軍家康公を見倣って忍びを重用したこと、勝海舟の愛弟子である坂本龍馬が幕府を倒しながらも徳川家を救うために奔走したことなどが記載されている。その雑記を見ると、坂本龍馬の実像が語られていて生々しい。いずれ、その文書の信憑性が証明されて世に出れば、志半ばで逝った世紀の革命児坂本龍馬の生きざまがさらに明らかになるに違いない。しかも、その徳川家の滅亡を救った坂本龍馬の遠祖が、反逆大名の明智光秀という説もまた奇妙な因縁に思えてくる。
その雑記を見るまでもなく、維新の扉を開いた坂本龍馬の名は未来永劫、夜明けの太陽の輝きを失うことはない。その陰にあって、ひっそりと歴史の片隅に消えた名もない杉山太兵衛もまた、半月の夜の清明さと、いぶし銀の渋い光沢を放っている。
この物語は、表の龍馬と裏の太兵衛が織り成す近代日本の黎明期の人間模様である。