第九章 鹿児島から

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1、錦江湾

慶応二年(一八六六)三月十日午後、三邦丸は無事に波おだやかな錦江湾に入って鹿児島港の沖合に停泊した。桜島が噴煙を上げ、港には軍艦や大小の船舶が停泊したり移動したりとなかなかの賑わいを見せている。太兵衛にとっては三度目の鹿児島入りになる。一度目は大山彦八のお供で、西郷のお供はこれで二度目になる。いずれも薩摩藩御用達呉服小間物商として訪れている。
船が錨を下ろすと、桟橋から次々に大艦との間を往来する通船が三邦丸に接近して来た。
それを見た太兵衛は三段ベッドが両側に並ぶ大部屋に戻って荷物をまとめ、水夫から薩摩藩御用商人に身なりと髪型を整えて上陸の支度をしていた。
太兵衛は、大山彦八の口添えで小松帯刀と西郷吉之助、吉井幸輔、五代友厚の奥方にも京呉服小物などを紹介することになっていて、小松、西郷それぞれから手紙で知らせてあった。今回は、その反物や櫛やかんざし草履などの見本の荷を伏見の定宿から用意して三邦丸で持ち込んである。太兵衛の目的は利益ではなく情報取得だから手が込んでいる。
まず超一流の西陣の帯を用意し、見本として作成中という見本の端切れを十片ほど用意し値札を付けてある。安価だと無視されるが並みの高級品の五倍、目の玉が飛び出るほど高価な品だから間違いなく目に止まる。たった一本しかない手作りの超高級西陣織りで、実際に大奥や公卿ご用達品だから、美意識のある奥方なら一目見て欲しくなるのが当然なのだ。それを御主人の顔だからと半値にすれば完璧に決まる。これでは大赤字だが遠国御用の諸雑費から埋めるから問題ない。超一流の帯が手に入ると着る物も当然それに合わせて欲しくなり、そこで布地見本や柄を見せて次回や次々回の納入品が決まる。納入が遅れると夫を通じて督促があり、場合によっては太兵衛のために船の便まで融通することになる。
太兵衛は、藩士や水夫らが桟橋から陸に上がって家族と会って喜ぶ姿などを、着流しに草履姿の商人姿で甲板から眺めていた。船内で親しくなった水夫らから自宅に招かれてもいたが、丁重に断って一人になるまで上陸をわざと遅らせていた。ここは薩摩以外の人を受け入れない土地柄だけに、よそ者と見られて注目されるのを避けるためだ。
それにしても、太兵衛が敵地の偵察に来ているのを承知しながら放置する西郷の太っ腹には呆れるばかりだ。だが、西郷が薩摩の内情を太兵衛に隠さずに見せようとするのは、圧倒的な戦力の差を幕府に知らせて無益な殺傷を止めさせようとする意図もあるらしい。西郷の恐ろしいところは、その上で無理に戦いを避けようと画策しないところにある。
戦争やむなしとなれば全力で敵を叩き潰す。和して勝ち戦っても勝つ、そのように西郷は動いている。選挙参謀としては当然だが恐ろしい男だ。西郷は太兵衛に、和戦どちらを選ぶかを将軍に任せてみよ、と暗に言っている。
ゲタを預けられた形の太兵衛は迷っていた。幕府としても勝ち目のない戦争は望まない。薩長を分断して土佐や佐賀を中立させることが出来れば戦いの行方はまだ分からないが、幕府が今から各藩の精鋭を集めて戦闘態勢を整えるのはもう遅い。西郷が太兵衛に薩摩の軍事施設と訓練を見せると言った以上は軍備は整ったと見て間違いない。この戦力を中心に「他藩を巻き込んで攻め込むぞ」という自信に溢れた暗黙の示威だからだ。
太兵衛としては薩摩の国内事情と軍隊の兵力や訓練などの他に、この西洋渡来の軍艦三邦丸の戦闘能力なども松平康英を経て将軍に知らせたいのだが、薩摩藩内からは急飛脚も出せない。必ず国境で検閲を受けるからだ。
桟橋で上がった群集の歓声に注目すると、家老の小松帯刀と西郷が出迎えた人々に手を振っているが、群衆の視線は小松や西郷に対してではなく、龍馬とお龍が手をつないで小舟から桟橋に移ったのを見たどよめきや非難が大きな歓声に変わっていたのだ。
男尊女卑の気風の強い鹿児島の土地柄からみれば、男女が群集の前で手を握るなど良識風俗に反するものとして蔑視されて当然の淫らな行為としか見えないのだ。さらに、お龍が乗船時の男装と違って、桔梗の花を絵柄にしたあでやかな着物姿だったから、派手な服装や他国の女性を見慣れていない鹿児島の人たちから見れば、まるで女役者のように見えるのかも知れない。
明日にも倒幕の兵が江戸攻めを敢行しようという風雲急を告げる非常時に、物見遊山の旅など冗談としか思えない。こんな突拍子もないことが出来るのは天下広しといえども龍馬とお龍ぐらいしかいない。もっとも、薩長連合成った今、薩摩藩から見れば龍馬はすでに御用済みと見られている節もある。しかも、大政奉還と公武合体論者の龍馬を、武力倒幕論の薩摩が受け入れる筈がない。
そう考えると、薩摩藩の過激分子が龍馬の命を狙う可能性もあり得る、と太兵衛は思った。
聞くところによると、龍馬とお龍は鹿児島到着初日の夜、小松帯刀屋敷に泊まることになったらしいい。と、なると数日は居心地のいい小松邸に滞在するに違いない。
小松帯刀は、龍馬を藩主の島津茂久と後見人の実父久光に会わせて、幕府の動きや和解した長州藩の内情、今後の朝廷との関係などを、家臣以外の口から藩主に聞かせたいと思うはずだ。それと、下級武士の西郷や大久保が、倒幕にいかに重要な役割を担っているかを龍馬の口から言わせたいという狙いもあるに違いない。先君の故島津斉彬(なりあきら)公は身分に関係なく西郷を信頼して重用したが、弟久光公が藩主になってからは息子の茂久共々、下級武士の西郷に冷たく当たっている。
それでもなお西郷が軍事参謀として君臨するのは、小松の後押しに加えて藩内での抜きん出た人望によるものだった。家老の小松帯刀は藩主に西郷を認めさせ、薩摩藩の表看板として堂々と活躍させたいと日頃から公言していた。その説得役として龍馬を藩主に会わせたかったのだ。
鶴丸城の建つ城山麓の西下を流れて鹿児島港に注ぐ甲突川流域に薩摩藩士の武家屋敷が立ち並んでいる。幼児期から遊び仲間で仲のよい西郷吉之助、大久保一蔵、吉井幸輔らの屋敷もその流域に点在している。家老小松帯刀の屋敷は甲突川右岸の道をさらにさか上り、千眼寺から北西に上って掛越近くの高台に鹿児島湾を一望に見下ろす広大な小松帯刀の屋敷がある。港からも城からも、かなりの道のりだが足腰を鍛えるには丁度いいのかも知れない。
太兵衛は、上陸してから一通り参勤交代道路周辺の武家屋敷を眺めて歩いたが、よそ者が入り込めないほど厳しい国境の警備のお蔭かほとんどの家が潜り戸などもかんぬきが掛かっていず、いつでも忍び込めるような不用心さだった。
太兵衛は、照国神社に近い清滝川沿いの十島屋という以前から馴染みのある商人宿を本拠にして、薩摩藩内の探索を始めることにした。主人の藤蔵は実直で口の堅い男だった。
それからの数日間、太兵衛は呉服小間物商に成りきって勝手知った武家屋敷を渡り歩きながら薩摩藩の知られざる一面を探るべく活動を始めていた。その結果、以前とは違う薩摩藩の一面を知って、さらに危機感を深めたのだった。
まず、太兵衛が驚いたのは、集成館という技術を学び実践する施設だった。鋳鉄やガラスの製造加工や紡績、機械工作、反射炉などの設備が整っていて、見たこともない見事な工芸品や加工品が展示棚に飾ってある。
さらに、学習施設としては開成所にも寄ってみた。この施設は二年前、家老の小松帯刀が中心になって創設された洋式の学校で、薩摩の陸海軍強化のための人材養成施設で、砲術から操練、兵法も学び、測量や航海技術、人文、地理、数学から物理学に医学まで学び、しかも、簡単なオランダ語と英語が必修科目になっているという、幕府側の各藩では考えられないような近代化が進んでいた。この開成所には、藩校造士館から推挙されて無試験で入れた者もいるが、一般には厳しい審査を通った者だけが選ばれて勉学にいそしむことになる。
それにしても、太兵衛が知った薩摩藩は驚くほど強大だった。幕府がなぜ、かくも強大な西の大国の動きを察知できずに来たかと言うと、それには薩摩藩の周到で緻密な隠密対策と国境の関所での人別改めの厳しさにある。薩摩では、鹿児島弁に違和感がある旅人は藩外退去という処置をしたのだが、その挙動に不審さを感じれば直ちに断罪に処したから、幕府の隠密も当然ながら過去何人何十人となく薩摩において非業の死を遂げている。
それによって、幕府に内密での軍備拡張や禁じられている海外交易を琉球経由で常習化できた上に、藩内の政治経済や倒幕の気運を幕府に知られずに済んでいたのだ。それらの事実を太兵衛はこの目や耳で見聞きしている。しかも、西郷はそれを承知で太兵衛を野放しにしている。それとも、太兵衛を薩摩から生きて出さないつもりなのか?

 

2、薩摩の反逆

薩摩藩は、薩摩・大隅の二ヶ国、日向の国、南西諸島の一部に加えて、宮崎の南西部に支藩の佐土原藩を置き、琉球をも服属させて領地を広げ、今や公表七十万石どころか、外様大名でありながら加賀前田家百万石に迫る表高九十万石とも言われる大藩となっていた。ただし、その実高は半分にも満たないと言われている。
薩摩は慶長十四年(一九〇九)に琉球王国を併合して琉球の石高十二万石を加えた。また、琉球が支配していた奄美諸島を琉球から分離させて砂糖の生産を独占した。その上、琉球王国を窓口にして中国や朝鮮半島との不当な貿易で利益を上げ貧しかった藩の財政を幾らかでも豊かにする一助としたのだ。
太兵衛のみるところ、文禄・慶長年間の頃に青少年育成のために設置された郷中教育こそ、郷士など下級武士の中に埋もれていた人材を引き上げて参政させることのできる画期的な人材育成機関で、これがあるからこそ今の薩摩藩があるのに間違いない。西郷も大久保も吉井もこの郷中教育から発掘された優れた人材だった。この郷中制度こそ下級武士の総意であれば、藩主にさえも意見書を提出できるという、下剋上の温床にもなる両刃の剣のような存在でもあったのだ。
太兵衛はまた薩摩藩の恐るべき戦時体制への強化を知った。
どこの藩でも武士は城を囲むかたちで内堀に家老が住み、石高の高い順に城に近く家屋敷を持ち、いざとなると一刻を争って登城できるようになっているのが常識だった。ところが薩摩だけは違っていた。外城制という制度で、有力武士を鹿児島城下に集住させないで、領内のあちこちに分散させて、藩内の大切な拠点に有力武士が屋敷を構えてその地を守り、その守護の下に郷や門割(かどわり)と呼ぶ農民組織をつくり、門割ごとに土地を所有させて郷士とし、いざとなると、近代兵器で訓練を積み農兵に仕立てて戦陣に駆けつける。このような独特の制度を昔から準備していた。
だからこそ薩摩藩は郷士を含む士分の者が全人口の四割を占め、他藩の八倍という動員力が可能になっていたのだ。
農兵は長州の高杉晋作も考えたが、郷士による門割までは思いついていない。ましてや幕府軍の主力の会津藩などは武士以外には武器も持たせず剣術も習わせず、戦闘は武士の仕事と誰もが思っていて農兵などという非常時の出兵までは思いつく者もいなかった。
ただし、薩摩藩の財政は、軍備の充実に予算を割くためにいつも苦しかった。その理由は、藩内の土壌の質の悪さにもあるらしい。桜島の噴火や台風の多い薩摩は地質が悪くて米や穀類などの農産物の収穫率が悪く、薩摩藩の表高七十七万石も、実際には三十万石に満たないと言われていた。
過去にも、この薩摩藩と幕府との関係が険悪な時代があった。
徳川幕府はこの西の雄藩の薩摩を狙って徹底した財政弱体化を謀ったことがある。
参勤交代の他に大規模な普請を割り当てたのだ。今から百余年前の宝暦三年(一七五三)に、幕府から命じられた木曽川流域改修工事では、多くの犠牲者を出した上に多大な出費で藩の財政も危機に瀕した。その責任をとって工事完了後、責任をとって英才の誉れ高い家老の平田靱負(ゆきえ)が切腹して果てている。
いつまでも外様大名でいるから幕府の餌食になると悟った第八代藩主・島津重豪は、大規模な藩政改革を考えた。藩校造士館と演武館を設立し武技を広め、医学院や明時館など医学や学問の普及を考えて次々に学校も設立し、その上で、幕府の中核に飛び込む策を考えた。
まず、莫大な賄賂を使って徹底的に幕閣の実力者を買収し薩摩藩の立場の格上げを図ったのだ。その結果、外様大名としては初の将軍正室として三女茂姫を第十一代将軍・徳川家斉に嫁がせることに成功し、幕府内での発言力も政治的影響力も格段に上がったものの、藩財難は解消するどころか華美で豪華な婚儀のための出費に藩の財政は更に厳しくなっていた。その後も幕府との関係改善に手を打ちながら新たな藩政改革を続けた。それによって、藩の債務整理やら琉球貿易の拡大などによって財政の立て直しを図り、十一代藩主島津斉彬公の時代には、養女篤姫を第十三代将軍・徳川家定に嫁がせるなど幕府の中心になって活躍した。
だが、幕府と薩摩の蜜月時代は短かった。
藩主島津斉彬が病死して、斉彬の弟・久光が十二代藩主となって実権を握ると、幕府と距離を置いての公武合体と雄藩連合という構想で動くようになったのは、聡明で藩内の誰にも親しまれていた平和論者だった兄への反発だったかも知れない。
そして今、西郷隆盛、大久保一蔵など下級武士らの進言で確実に倒幕への道を邁進しつつあった。
藩内の討幕への意気は、国を憂うる気持ちから国を支配するという野望に燃えて、示現流を中心とした一打必殺の豪快な薩摩剣法として、自顕流、直真影流、朝山一伝流、関口流など多くの流派によって剣技が磨かれ、その上で近代的なアームストロング砲などの洋式銃砲で武装しているのだから敵として観察するとますます危機を感じざるを得ない。
吉井幸輔に請われて吉井邸を訪れた時、夫が後を任して外出した後で奥方が言った。
太兵衛が高級呉服の価格を思い切って超格安で提示したことに気をよくして、「よそには内緒ですよ」と小声で言い、夫から聞いた軍事機密の一部を漏らしてくれたのだ。
「近々に幕府が二度目の長州征伐をするということで、薩摩に出陣命令が出たらしいですね」
「また長州と戦争ですか、困ったことですね?」
「大久保さんと西郷さんが話し合って、薩摩は出陣を断ることに決めたそうです」
さらに太兵衛がべっ甲の櫛をとり出すと、奥方は一言、気になることを言った。
「主人は坂本さんご夫婦の護衛と接待を頼まれてましたが、ご用済みのあの人を倒幕計画から外すために温泉などで遊ばせる役だそうです」
さすがに小松帯刀や西郷の奥方は、太兵衛が下手に出て何を聞いても、「政治のことはわかりません」、と頑として何も言わなかったが、お人よしの吉井幸輔の奥方だけに、飾り物のおまけだけでも口が軽くなる。それだけ正直で人がいいと言えば聞こえはいいのだが・・・。

 

3、日当山(ひなたやま)温泉

太兵衛は目の前に置いてあったべっ甲の櫛を、さり気なく奥方に進呈した。
「ところで、ご主人は坂本はんをどこの温泉に連れて行かれますか?」
「明日の朝、藩の輸送船で錦江湾を横切って浜の市に行き、そこから山道に入って隼人から天降川沿いに下り、そこから日当山温泉に行くみたいです。そこまでは真剣に地理を考えていましたから」
「その先はどこに向かいますか?」
「主人は大久保さんから、塩浸(しおびたし)温泉から霧島方面、できれば高千穂の峰、ついでに霧島神宮はどうかなって言われた、と言っていました。霧島神宮の華林寺も我が家とは縁続きですから寄って来ると思います。大久保さんからは、できれば一か月ぐらいは遊んでくるように言われているそうです。その間に西郷さんを中心に薩長で坂本さま抜きで戦闘準備を整えるとも聞いています」
「この大事な時期に、ご主人も坂本さんの護衛で一か月も温泉遊びですか?」
「でも、一日で旅が終わることもあると大久保さんは言っていたそうです。日当山温泉までの人里離れた山道で、見知らぬ刺客に襲われれば、と申しておりました」
「まさか?」
「もちろん、大久保さんが冗談で言ったことですから、主人は真に受けてなどいません」
「そうでしょう。吉井さまがご一緒なら薩摩の刺客は襲えませんよ」
「主人は万が一のことがあっても、坂本さんご夫婦は絶対に守る、と言っております」
太兵衛は、陰険で怜悧な大久保が企む暗殺計画なら、龍馬とお龍は生きて帰れない、と思った。
確かに薩長連合が成り、後は土佐の武力倒幕の旗頭である吉岡慎太郎を抱き込むだけとなれば、吉岡の親友ながら意見の違う大政奉還恭順派の龍馬は邪魔になる。龍馬と親しい吉岡のためにも、龍馬を排除しておかねば不都合が起こるのは間違いない。
太兵衛が知るだけでも、ここに来て確かに龍馬の動きはおかしくなっている。幕府の要人である大久保一翁や松平春獄、勝海舟などの意を汲んでの大政奉還の動きなどは明らかに倒幕武闘派の薩長からみれば面白くない。龍馬にこれらの和解工作をさせないことが倒幕派の勝利には重要なのだ。と、なると坂本龍馬そのものが邪魔になる。
これだけではない。龍馬が率いる亀山社中と言う商業組織は、グラバーら外国商人から武器や軍艦を買い漁り、軍備拡張中の各藩に売りまくって莫大な利益を上げているという。現に薩摩藩の名で買った武器を長州に仲介して約千両もの利ザヤを稼いだらしいとの噂もある。これは丸山遊郭辺りから亀山社中の若い隊員が酔った上での自慢話として広まっていた。これでは龍馬がグラバー同様の死の商人と見られて誤解される。これは龍馬の活躍を妬む者が播いたとも考えられる。
それと、龍馬の真意が倒幕側にあるのか幕府側なのか、いまや疑念を抱くのは薩長だけでない。土佐藩内でもそんな議論が沸き上がり始めていた。その真相は、太兵衛にもまだ分からない。
西郷と大久保は、そんな龍馬が和解案をもって表舞台に出る前に戦闘態勢を整える腹なのだ。
常宿の十島屋に戻った太兵衛が藤蔵に「対岸の浜の市に急用が出来たから」と言うと、藤蔵は「浜の市なら海上で六里もない。舟だと楽に行けます」と、舟を出してくれるという。その好意を丁重に断って風呂敷包みを背負い、まるで隣の家にでも行くようにいつもの着流しに黒足袋草履姿で宿を出た。
藤蔵も、闇夜でも目の利く太兵衛をただ者ではないと見ているから提灯も用意しないし、夜道を避けて朝立ちにしたらなどと野暮なことも言わない。ただ、竹の葉に包んだ梅干し入りの握り飯を戸口で黙って手渡して「ご無事で」と短く言って見送った。この好意が太兵衛には嬉しかった。
太兵衛の背負った風呂敷の中身は、今宵に限って商売道具の呉服ではない。山路での雨露をしのぐ油紙などを入れてはあるが実際には何も必要ないのだ。薄布の忍者着一式に干飯を入れた袋、武器のクナイや手裏剣などはしっかりと懐や腹部まわりに仕込んである。行商姿のために風呂敷を背負っただけで実際には荷物など何も必要ない。
太兵衛は鶴丸城を左に見て海沿いの道を北上し、多賀山から稲荷川を経て蛤良から別府川を渡り隼人の町から浜の市の港に出た。そこで東の空が黄金色に染まって夜が明けた。太兵衛の姿は忽然とそこで消えた。

おだやかな朝だった。
鹿児島港の船着き場には龍馬とお龍の見送りに、西郷の姿もあった。
「ゆるりと養生しなされ。その手が治らんとピストルもよう撃てんでごわすな」
桟橋から跳ね上げ橋を渡って直接薩摩藩の輸送船に乗り込んだ龍馬とお龍は、満面の笑顔で見送ってくれる吉井の家族や西郷たちに手を振って応じていた。船は帆に風を孕んで小さく揺れながらも、またたく間に沖に出て、八里弱の海上を順調に走り正午前には浜の市の港に到着した。
一行は四人、龍馬とお龍、吉井幸輔、それに吉井家の家僕で久蔵、霧島に近い加治木出身だから地理に詳しく大柄で体力があるから全員の荷物を大籠に入れて背負うぐらいは苦にならない。
「日あたり山温泉は、地元では隼人(はやと)湯と呼んで傷に効くということで評判です」
吉井幸輔が「もうすぐですよ」と付け加えて、上り坂で荒い息を吐くお龍を励ました。
周囲からの枝葉に覆われて昼なお暗い曲がりくねった山道だった。

刺客はいた。
深い森林の中、草むした細い山道の両側に分かれて七人。全員が黒覆面で顔を隠しているが服装は武士。抜刀しているのが四人、槍が二人、樹上の枝陰に鉄砲を抱えて一人いた。
「どうやら来たらしいぞ!」
樹上からた木の間越しに麓を眺めていた鉄砲撃ちが一行の姿を見たらしく叫んだ。
その声が身を隠した場所を教えて致命傷になった。どこから飛来したのか八方手裏剣が喉を抉って飛び去り、男は血を噴きながらもんどり打って地上に落ち、一度体をひくつかせて絶命した。
枯葉が積もった腐葉土の上で太い枝から重い音がして、驚いて立ち上がって身構えた刺客達の中に黒い影が躍り込み、刺客が刀や槍で迎え打つための体勢を整える寸前に鋭く体当たりして、短い刃物で胸や喉など急所を刺して飛び退りまた飛び込んでは切りまくり、たちまちの間に七人の刺客は声もなく森の中で永遠の眠りについていた。こうして七人の刺客はたちまち姿を消し、あとにはいつもと同じ木々のざわめきが深い森に訪れていた。
暫くして龍馬ら一行が、その場に姿を現し何事もないまま通り過ぎて行った。
吉井幸輔だけが落ち着かない様子で立ち止まり、刀の柄に手を添えて不審げに周囲を見まわしたが何事もないのを確認すると、安心したように三人の後を追った。
それでも、よほど心配だったのか何度も何度も背後を振り向いて落ち着かない様子だった。

4、霧島高原

古今東西、月日は光陰矢のごとしで楽しいこともすぐ終わる。
霧島高原は名物の霧島つつじの群落が、白、桃、赤と満開の花盛りを競って山肌の傾斜地一面を彩り豊かに染めていた。
西郷もよく立ち寄るという日当山温泉での一夜の宿もすぐ終わり、朝早く本来の目的である傷の手当てに抜群の効能ありと評判の塩浸温泉に向かって天降川沿いの上流に向かって一行は出発した。吉井幸輔は何度もこの温泉には来ているという。
途中で上流から流れ込む川が二股になっていている合流点に出た。
「左が天降川、右が中津川です」
と久蔵が言い、右の中津川を遡行するとすぐ近くに犬飼滝(いぬかいたき)という名所がある、とつけ加えた。
「目の保養は帰路でよかろう。日が暮れると厄介ですからな」
吉井幸輔の一言で、一行は左の天降川沿いの道を遡行し、やがて夕暮れ前に鄙びた家屋が数軒散在する塩浸温泉の集落に入った。
「こちらです」
吉井幸輔が立ち止まったのは、粗末な木板に「鶴の湯」と墨書した看板のある温泉宿だった。
いかにも純朴そうな宿の主らしき老夫婦が玄関に迎えに出て挨拶し、下女が盥(たらい)に濯ぎの水を運んで来て、それぞれの足袋を脱がして足の汚れを流してくれた上に、雑巾で濡れを拭きとってくれた。
「吉井さま。お食事とお湯、どちらを先にしますか? 本日は他にお客さまはおりません」
言われるまでもなく湯が先だが、一応の形式は踏む。
「湯じゃ。さっぱりしてから一杯やりたいからな」
客がお湯に浸かってる間に食事の用意をするのが宿の決まりだから、これでいい。
龍馬とお龍、吉井幸輔がそれぞれ二階の一室に入り、久蔵は階下の小部屋に入った。
龍馬とお龍が早速、渓谷側の出窓から下を覗くと、隣室の吉井幸輔も顔を出した。
「ここの湯は熱めですから効きますぞ」
河原の宿寄りの崖下の窪みに石で囲まれた素朴な天然の湯船があり、山風に湯気が揺らいでいた。
温泉場では男女の差別はない。ただ下僕の久蔵は主人と一緒に入れないから後になる。
三人は湯の脇で着物を脱ぎ、宿で用意した手拭いで前を隠して湯船に身を沈めた。
「おう、いい湯だ!」
龍馬が悲鳴にも似た感嘆の声を上げたのは、入浴した瞬間の熱めの湯が体全体に沁みた以上に、手指の傷に苦痛を与えたからだ。お龍は歯を食いしばって熱さに耐えている。吉井幸輔はというと、この湯に慣れているのか気持ちよさそうに目を閉じている。
しばらくすると熱さに慣れて心地よくなり、会話も弾んでくる。
吉井幸輔がここの湯について語った。
「ここはまだ新湯でしてな。今から約六十年前のこと、近在の猟師が獲物を追ってこの地まできて大きな鶴を撃ったそうでごんす。確かに手ごたえがあり鶴は羽を散らして滑空してこの辺りに落ちたところまでは見えたのに影も形もない。といって下流の河原から来たが流れに落ちた様子もない。
一刻ほど探して諦めかけたところ、岩陰から羽ばたきの音がしたから急いで近寄ってみると、この湯から岩の上に立とうとして羽ばたいていたところだったとか。見ると、胸の部分の羽が飛んで鉄砲傷がぱっくりと開いていたそうです。一度は火縄に火を点けて引き金に指を掛けたが、二度撃ちとなると哀れが先だってとても撃つ気になれず、ただ見守っていると、鶴は一声鳴いて飛び立ち、何事もなかったように空高く舞って山に消えた。その猟師は驚いたでしょうな」
龍馬は黙って聞いていたが、お龍は興味深そうに身を乗り出した。
「それで、どうしたのですか?」
「猟師も脛に転び傷があり痛みから足を引きずり気味だったので、岩の窪みに自然に湧き出ていたこの湯に暫く浸かってみたら、なんと痛みが消えて翌日から今まで以上に山野を駆け巡れるようになったとのことでごわす」
「それで鶴の湯という名をつけたのですね?」
「刀傷の治りが早いのも分かり、それが評判になって、藩主はここを藩の管理にして入浴料の一部を吸い上げ、その収益を若者の教育に使うことになり申した」
「あら、わたしたちの今日のお湯も教育費の一部になるのですか?」
「そん通り。お龍さんも坂本さんも薩摩藩にお金を落としてくれたのです」
食事は龍馬からの発案で、日頃はあり得ない家僕との同席で、四人揃っての食事となった。
空腹のせいもあるのか地酒もなかなかの美味で、山の幸をふんだんに用いた郷土料理は格段に美味しく、とくに尺(三十・〇三cm)を超す山女の塩焼きは抜群の味だった。
「川魚がこんなに美味しいとは驚きました」
お龍の言葉を受けて吉井幸輔が言った。
「この久蔵は海でも川でも魚釣りの名人で、いつも釣り針持参ですで食糧には困らんのです」
「わたしでも釣れますか?」
お龍が目を輝かせて久蔵の顔を見た。
翌朝、朝食前に四人は河原に出た。初春の山風はまだ冷たいが木々は緑に包まれていた。
久蔵が、竹藪から切り出して来た細身の青竹に糸を結び、その先に自分で針を曲げて作った持参の釣り針をつないで、浅瀬の石裏に棲む川虫を餌につけ、お龍に竿尻を持たせ、「竿を振って餌を遠くに」と手ぶりで教えた。
「こう?」と、お龍が教わった通りに天降川の清流めがけて竿を振ると、餌の川虫がゆっくりと弧を描いて川面に落ち、その瞬間、水中から銀鱗をきらめかせて大型の川魚が針掛かりして竿が弓なりにしなり、お龍は下駄を履いたまま水際まで引きずられたが、龍馬の助けを借りてようやく体勢を整えて獲物を手前に引きよせて浅瀬から一気に河原に引き上げた。大型の山女が暴れながら悔しそうにお龍を睨んだらしく「こっちを見ないでよ」とお龍が喚いている。
それから、一人一尾づつ自分の朝餉のおかずを釣りあげて意気揚々と引き上げた。
それでも、最初に釣ったお龍の獲物が一番大きかったので、お龍はご機嫌だった。
一行はこの宿に十八日間滞在し、短筒で鳥を撃ったりして遊び、龍馬の手の傷もほぼ癒えた。
小松帯刀からの伝言を従者が持参しなければ、まだまだ滞在を続けたに違いない。

 

5、夢の後

大坂、京都、江戸、薩摩と休む間もなく移動し藩の重要事の全てに絡む家老小松帯刀は、故郷の薩摩に戻った時は必ずといっていいほど、霧島の栄之尾(えのお)温泉で体を休めてゆく。
その小松帯刀からは吉井幸輔あてに、「塩浸温泉とは目と鼻の先にある栄之尾温泉に来たから食事をご馳走したい。よかったら龍馬夫妻を連れて遊びに来ないか」との伝言だった。
龍馬の傷もほぼ癒えたし、まだ見せたい名所もあるから、という吉井幸輔の一言もあって一行の腰が上がり、ひとまず朝の出立で、遅い昼食を家老と共にすることになったのだ。
塩浸温泉を後にした一行は、天降川の合流点まで戻って中津川側の道を遡って、往路に見過ごした
犬飼の滝をみることにした。やがて激しい滝音と共に噂に違わぬ名瀑が現れた。
崖上から約二十間(三十六m)の高さを流れ落ち、その幅も約十二間(二十一・六m)という豪快な大滝で、それを眺めているだけで疲れが癒え、旅に出た喜びが溢れ出る。お龍は大声で「素晴らしい!」と感嘆の叫びで素直に喜びを表現した。この見事な犬飼滝を龍馬はなぜか、蔭見滝(いんけんたき)と覚えてしまっていた。
「あれが高千穂の峰です」
吉井幸輔が右手の峰々の奥深く、ひと際高く聳える山がある。
「あれが神々が集う高千穂の峰なのね?」
「いや。神々の集うのは出雲大社で、あれは天孫降臨の山だ」
「天孫ってどなた?」
「天照大神(あまてらすおおみかみ)のお孫さん。すなわち天の孫だから天孫じゃ。地上を戦いのない国に治めるために高千穂峰に降臨された。ニニギノミコトとも言われている」
「木花佐久夜姫(このはなさくやひめ)を見初めて結婚した人でしょ?」
「なんだ知ってるじゃないか。でも天孫は人じゃない神さまなんじゃ」
お龍と龍馬も神話の峰には興味があるらしい。
「明日でも行ってみますか?」
「登れるかね?」
「楽に登れますよ」
こうして明日の行程も決まった。四人は中津川街道を北上して栄之尾温泉に家老を訪ねた。
全員の旅支度に忙しい久蔵を残して、四人は家老の休養する庭に面した座敷に通った。
「ご家老、ご健勝で何よりでございます」
吉井は部下だから平伏して挨拶し龍馬は軽く会釈、お龍は作法通りに辞儀をした。
「よく来てくださった。少々、疲れましたものでな」
龍馬とお龍は、鹿児島では小松屋敷に五日間も滞在しただけに、家老の顔色の悪さが気になった。 それでも、一緒に食事するのは久しぶりだから焼酎を肴に話が弾んだ。
昼食ながら三の膳までの豪華な食事が出て、雉や鯨肉まであり山海の珍味が並びここ数日の食事とは雲泥の差だった。ただ、ここには自分で釣った山女の塩焼きはない。
吉井幸輔が言った。
「御家老は薩摩では稀に見る愛妻家でしてな、日本で最初の新婚旅行じゃと噂されとりました」
「御家老が? どちらまで?」
龍馬が自分達こそ、日本で最初の新婚旅行と言われているだけに気になるのだ。
「また余計なことを言いおって。私達の場合は鹿児島からこの宿に来ただけですたい」
「錦江湾を船で渡り、山道を駕籠で揺られての旅じゃき立派な新婚旅行ですな」
「いや、浜の市までは船でしたが山道は歩きました。あの元気が懐かしかです」
「ご家老とわしは天保六年で同い年で十八日違い、お互いにまだ若いき何事もこれからじゃ」
吉井幸輔がしみじみと言った。
「ご家老は薩摩の宝、喜入領主の肝付家から小松家に入って、久光の殿に魅入られて若くして重役になり藩政改革に取り組み、薩英戦争での水雷開発などでの大活躍、朝廷や幕府、諸藩との折衝、御軍役掛、御改革御内用掛、琉球産物方掛、蒸気船掛、唐物取締掛、御勝手掛など仕事が多すぎますよ。それに情が深すぎるのも心配です。禁門の変でも我々幕府側が勝利した折も、長州藩から奪った兵糧米を戦火に追われた京都の人達に全部配って薩摩が飢えたこともありました」
龍馬が続けた。
「確かに御家老の情は深いですな。おかげで、わしが亀山社中を設立した折も過分な援助を頂き、今でも感謝しとります。今回もお龍共々世話になり頭があがりません。過日の薩長同盟締結も間違いなく小松さまのお蔭です」
「それは違う。坂本さんには信念がある。私などは流れに身を任せているだけですからな」
結論は、お互いに「生きていればこそ未来がある」、ということで昼食の話題は終わり、遅い午後の陽が傾くころに宿を辞した。
その日は、やはり吉井幸輔の親しい宿がある硫黄谷温泉に草鞋を脱ぎ、一日の疲れを癒やした。
翌日は、休養の吉井幸輔を宿に残し、久蔵の案内で難所の続く山を登り、高千穂の峰に登った。
「天の逆鉾」が太陽の光で輝き、それに手を掛けたお龍が、久蔵に「罰が当たりますぞ」と注意され、意地になって抜いて仕舞い、あわてて龍馬が埋め込むという騒ぎもあったが、どうやら無事に下山して霧島神宮に詣で、この晩は吉井幸輔の紹介状持参で華林寺に泊り、次の日に硫黄谷温泉で待つ吉井幸輔と合流して帰途に着き、日当山温泉に一泊して浜之市の港から民間の通船で鹿児島港への帰路に着いた。
桜島の噴煙を眺めつつ、お龍はこの思い出を一生忘れまいと心に誓ったが、龍馬の心はもう次の展開に移っていた。