第十一章 招かざる殺意

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1、孝明天皇の死

下関港で操船に残された一部の隊員を残して、龍馬ら亀山社中の一行と太兵衛と陸で仕事を求める鬼の三平らは、新たに上船する長州藩の海兵隊と交代して乙丑丸から下船した。太兵衛は、見送る手下らと言葉のない励ましの視線を交わして暫しの別れを惜しんだ。
太兵衛は、将軍家茂の死によって遠国御用の職を辞する旨を、早飛脚で松平康英に送った。
将軍が万が一の時は、その時点で解散の約束だから退役届けは不要だが、幕府が秘しても太兵衛にお見通しということを伝えたのだ。今回に限って、行く先々で変える返信送金用のつなぎ宿は知らせていない。いわば、太兵衛からの挑戦状だった。多分、今までの宿々には刺客が張り付いている。その前に松平康英から多額の報酬残を払った上で次の仕事を与える、という美味しい餌で呼び寄せられた同期の遠国御用仲間が罠にはまって抹殺されたのも裏情報で知っているだけにつなぎ宿にも戻れない。太兵衛は追われる立場になっていた。

将軍の死は、龍馬の運命をも揺るがしている。
龍馬は、薩長連合の陰の力を認められ山口に招かれ、長州藩主・毛利敬親に謁見して布地などを拝領し、ますます倒幕側に取り入れられていた。このままでは師の勝海舟の意図する平和裏での幕府解体が難しくなる。小倉沖での海戦を終えた龍馬は、長州藩の軍艦に送られて亀山社中の隊員共々意気揚々と長崎に戻り、全員で屋敷町の小曾根英四郎邸に立ち寄っていた。
龍馬の声を聞きつけたお龍は表まで飛び出してきて龍馬にしがみつき、周囲にはばからず嬉し泣きをして龍馬を困らせたものだ。
英四郎の手配で無事帰還の祝宴が開かれ、帰還した隊員が知らせたのか山際の宿舎にいた隊員も駆けつけ、全員が大いに飲み食い歌って夜を過ごした。お龍が、同い年の英四郎から習ったという三味線と琵琶の中間のような月琴という楽器を演奏すると座が静まるが、それが終わるとまた騒ぎ出す。賑やかで楽しい夜だった。宴がお開きになると亀山社中の面々は龍馬を残して、提灯の灯りで足元を照らしながら詩を吟じ眼鏡橋を渡り、山際の寺町にある小曾根家の別宅を借りている亀山社中の宿舎に戻った。
その夜更け、庭の梅が香ることから名付けられた梅花書屋と呼ばれる部屋からはお龍の歓喜の嬌声が夜明けまで洩れていた。その夜、龍馬は眠れぬまま夜明けを迎えた。
家茂との、「世界の海を駆けて国のために利を生む」という約束は、自分の信念だからそれでいい。しかし、将軍が変わっても同じ気持ちでいられるとは限らない。これからは師の勝海舟の考えを確かめて、身の振り方を考えねばならない。

厳重な緘口令で付されていた将軍家茂の死が、どこから漏れたのか瞬く間に広まって幕軍の士気を弱めたのも影響した。これを機に、戦いは徐々に長州藩優勢になって収拾期を迎えたのだ。
田の浦の戦いは、山県有朋が率いる長州の奇兵隊が暴れまわった。これに対する小倉藩兵も果敢に戦ったが銃の数が圧倒的に少なく刀が主体で実戦不足もあり、戦い慣れした長州兵に蹂躙されて敗走し勝負は決した。
門司の戦いは、熊野直介の報国隊と時山直八の率いる奇兵隊に、小倉藩兵は崩れ落ちて城内に逃げ込んだ。長州軍は一気に小倉城攻めを図るが、幕軍の軍艦からの艦砲射撃を危惧した指揮官・高杉晋作の命令で長州全軍が下関まで撤退した。
幕軍でも猛烈な戦いぶりで注目を集めた猛者がいる。小倉藩の一番手大将・島村志津摩や銃隊の平井小左衛門などの名は、敵味方に鳴り響いている。この戦いで藩として強かったのは赤坂口を守った熊本藩の兵だった。延命寺山に陣を構えた熊本藩の軍は、幕軍の小倉平野への進出を阻み、最新鋭のアームストロング砲を撃ちまくって長州藩兵を撃退していた。ここを制圧しない限り、長州藩の勝利はないとの判断から高杉晋作が総攻撃を命じたが、熊本藩の精鋭部隊だけは将軍の死と関係なく、士気が衰えず、奇兵隊が山側から攻撃をしかけたが策を見破られて逆に猛攻撃を受けて撃退される始末で、ついに赤坂口の戦いは幕軍熊本藩の完勝に終わっている。
しかし、無敵の熊本藩兵の孤軍奮闘にも限界が来た。度重なる長州兵の攻撃を持ち応えるには交代要員が必要だったが、援軍も食料も尽き、疲労が限界に来た熊本藩は、小倉口に布陣する幕府軍総督・小笠原長行に援軍を求めたのだが、余力がないと即答で拒否された。これに不満を抱いた熊本藩兵は七月末、勝利の戦いを続けたまま赤坂の戦線を放棄してさっさと撤退してしまった。
驚いた小倉藩があわてて赤坂の守りに駆けつけたが、もはや手遅れだった。
強力な熊本藩が去った途端に長州軍が猛攻撃でなだれ込み、ここで幕軍の敗北がほぼ決まった。

将軍家茂の死は、戦況をも左右した。
何と、総大将の小笠原長行が少数の家来と、軍艦富士で小倉口から逃亡してしまったのだ。
この結果、戦いに参加していた諸藩の軍は直ちに引き上げを開始し、残った地元の小倉藩兵は、単独で長州藩兵と戦わねばならなくなった。この絶望的な状況の中、小倉藩の兵は戦いに利あらずと長州藩兵との長期戦を覚悟して小倉城に火を放ち、、家族を引き連れて全藩士が小倉領の山岳地帯に総撤退を敢行して姿を消した。八月一日のことである。
これで、第二次長州討伐は幕軍の敗北で幕が引かれたのだった。
この戦いで、乙丑丸の総指揮をとって戦った坂本龍馬の名は、一気に高まった。
龍馬の軍艦が幕府軍の陸上に据えた大砲を片っ端から粉砕したことと、その軍艦の威容で幕軍の軍艦の動きを封鎖したことが大きな勝因に繋がったと見られたのだ。これは全く龍馬の意図するところとは違っていたが、結果が全てだから仕方がない。これで龍馬は幕府の敵とみなされ、新選組にも狙われることになった。
八月下旬、下山尚という越前藩士が勝海舟の密書を手渡しに龍馬を尋ねて来た。
それによると、師の勝海舟の蟄居が解かれ、長州との和議交渉に九月二日に安芸宮島まで来るが、噂を聞いても近寄るな。将軍家茂の死後、龍馬を狙う者が幕府にもいる。わしに近づけば幕府側と見られて薩長に狙われる。初志貫徹で大政奉還だぞ」、こんな文面だった。
狙われるのは仕方ないが、できるだけ命は永らえたい。
十月に入って、龍馬はロシア商人のチョルチョーと三本マストの帆船購入の交渉を始めた。龍馬は物資輸送だけでなく蝦夷開発という途方もない計画を立て、そのためにもこの船が欲しかった。この船の購入の支払いをめぐってこじれたが、土佐藩が代金を立て替えてくれて、龍馬は待望の自前の船を持つことができた。
「大極丸」と名付けたこの船は、平時は商船として利を生み、戦時は軍艦として闘うという龍馬の構想通りの船だった。
今、龍馬の手足になって働く隊員は、別格の石田英吉、菅野寛兵衛、長岡謙吉、神戸海軍操練所からの仲間である陸奥陽之助、長姉千鶴の長男高松太郎、会計担当の長崎の豪商小曾根英四郎、土佐藩からの出向で財務担当の岩崎弥太郎など二十人ほどだが、準隊員、水夫、賄い方などを含めると総勢五十余名の大所帯になる。これが現有勢力だった。

慶応二年十二月五日、徳川慶喜、十五代将軍に就く。
これで、紀伊派は一掃され一ツ橋派の天下になり、家茂派の追い落としが始まった。当然ながら将軍家茂と謀って、他の老中に隠れて裏の遠国御用などを操っていた松平康英は危機に瀕することになる。とくに松平康英は、家茂の後見人だった慶喜には、度々の家茂との会見を疑われて詰問されていただけに、報復を受けることが恐ろしい。それを見越した康英は、家茂の危篤状態の報を受けて直ちに、自藩の棚倉から選び出した最強の暗殺隊三十人を五組に編成して、自分が雇った遠国御用を一人残さず抹消すべく動いていた。
松平康英は、遠国御用らがつなぎに使った宿や実家や親族、あらゆる場所に網を張らせ、一人消すごとに暗殺隊を次の目標に集めさせた。そして最後に残ったのが太兵衛だった。以前なら康英の指示通りに薩長や坂本龍馬の動きを見ればよかったのだが、今までのつなぎ宿に江戸へ招聘文や金品を送っても何の反応もない。その結果、太兵衛以外の遠国御用に返り討ちにあって命を落とした五人を欠いた二十五人の刺客が、四、五人づつに別れて、長崎、下田、京都などに散って太兵衛の足取りを追っていた。その刺客をまた、鬼の三平率いる杉山一家が太兵衛には内密で待ち受けていた。
慶喜が将軍職に就いたすぐ後の二十五日、孝明天皇がご崩御、まだ三十七歳の若さであった。
孝明天皇が、七月に亡くなられた将軍家茂の義兄にあたることから、皇宮内での勢力争いでの毒殺との噂が流れたが、その真偽のほどは確たる証拠もなく闇から闇に葬り去られた。将軍家茂も孝明天皇も誰かに殺意を持たれていたことになる。

動乱に明け暮れた慶応二年も大晦日の夜となり、どこで撞くのか除夜の鐘が陰々として鳴り響き、龍馬とお龍は「自然堂」と名付けられた下関の豪商・伊藤助太夫方の離れ座敷でその音を聞いた。明けて慶応三年の元日は、尊攘志士の庇護に力を尽くした伊藤助太夫の主催で、龍馬を中心として亀山社中の隊員が集まっての新年会が海の幸山の幸が振る舞われて盛大に開かれた。
数日後、かつて龍馬と品川の下屋敷に港湾警備の臨時御用で江戸に同行して寝食を共にした溝淵広之丞から急便が届いた。
「土佐藩参政・後藤象二郎と長崎に行く。後藤が時局について語り合いを求めている。会って忌憚のない意見を言ってほしい」、そんな内容の手紙だが、この裏には「会って損はないぞ」という意味が読み取れる。
龍馬は、長崎の二文字が目に入った瞬間、用件の如何を問わずに「行く」と決めた。長崎で会いたい・・・それは後藤ではない。前回、長崎行きで逢えなかったお元に逢えるのだ。ついでに龍馬に出費を惜しまないお慶にも会える。笑顔を押しつぶして、溝渕からの手紙をお龍に見せると、「あたしも行きます!」と意思表示があり、龍馬の野望は一瞬で崩れ去った。
「いかん、こん男はわしの従兄弟を殺した男だ。場合によっては血の雨が降るかも知れん。ここで待っちょれ」
「なおさら心配です」
「なに、後藤ごときは一捻りじゃ」
強がってはみたものの、後藤という男は名だたる剣客で、岡田以蔵など何人もの刺客に襲われても撃退したり殺したりして生き延びて来た剛の者、龍馬の力では遠く及ぶものではない。だが、お龍はそれ以上に怖い存在だった。
薩摩や長州が、幕府との戦いに藩の存続を賭けようとする今、土佐藩は違う動きをしていた。
過ぎた話だが、土佐の前藩主・山内容堂は、開明派で知られ、昔からの世襲制度によった門閥政治から、西洋の知識や世の中を変えようとする革新的な者を重用し、「新おこぜ組」を興した吉田東洋を起用した。吉田東洋は参政職として藩政改革などを行い、後藤象二郎や福岡孝悌らを育てた。以後、土佐藩は吉田東洋を中心に動いていた。
ところが、この吉田東洋を、龍馬の従兄弟の土佐勤皇党の盟主・武内半平太が暗殺したことで、土佐は尊王攘夷派の天下となった。しかし、江戸から土佐に戻った前藩主山内容堂は、腹心の後藤象二郎らに命じて、吉田東洋を暗殺した土佐勤皇党を徹底的に弾圧し、首領の武市半平太は切腹させ、他の者も死罪などに処した。従兄弟の半平太に誘われて土佐勤皇党に参加していた竜馬は、その弾圧の寸前に、中岡慎太郎、土方久元らと脱藩して事なきを得ていた。
いわば、後藤象二郎は師を殺され、龍馬は従兄弟を殺された。いわば、後藤と龍馬はお互いに仇同士の立場であり、とても相容れる仲ではない。

 

2、後藤象二郎の殺意

時代は大きく移りつつあった。
龍馬の仲介によって倒幕のための薩長同盟が成立し、長州だけで幕府を蹴散らした今、この流れに乗り遅れることは次の時代に取り残されることになる。土佐藩としては何としても薩長の上を行く策が必要だった。しかも坂本龍馬は、自分が弾圧して切腹させた武内半平太の親族で憎っくき土佐勤皇党の生き残りで脱藩したとはいえ自藩の人間なのだ。話し合う余地はある。
これが、龍馬と後藤の宿敵同士が出会う前の状況だった。

龍馬と後藤の顔合わせは、慶応三年一月十三日、長崎榎津町の清風亭という料亭で行なわれた。
この段取りは、後藤が築いて岩崎弥太郎に任せている土佐藩の貿易商社・土佐商会の松井周助と溝淵広之丞が画策したという。
松井周介は二人の過去を知り、龍馬の性向を徹底的に調べて後藤と謀り、長崎丸山遊郭の芸者お元が龍馬の愛人であることを知り、その席にはべらすことで龍馬の警戒心を解こうと考えたのだ。
この策は的中し、龍馬は、座敷に一歩入って、お元の顔を見たとたんに険悪だった相好を崩し、その奇策に驚くと共に後藤の配慮に敬服し、この瞬間から仇敵同士の隔たりはあっという間に縮まった。それからは酒を酌み交わして談論風発、世界情勢から国内の政治経済に至るまで腹を割って語り合い、この日から龍馬は策士・後藤の手に落ちて、無二の友のような気分に酔わされたのだ。
この日の二人は、本来なればお互いに仇呼ばわりして闘う仲なのに一言もそれには触れず、ただ、国のために「共に組もう」という一念で徹底して本音をぶつけ合った。その結果が武力倒幕ではなく大政奉還だった。徳川が政権を天皇に返上し、朝廷を中心とした雄藩連合による新しい政権を樹立する、これが結論だった。勿論、本音の部分では二人の利害得失の方向が一致したから合意したのだ。
この日からまる二日間、龍馬とお元の姿を見たものはいない。
三日目の早朝、丸山遊郭から思案橋を渡る龍馬の足元がふらついていたのも無理は無い。その龍馬が人通りの無い船大工町の松並木まで来たとき、太い幹の陰に隠れて刀を抜いた武士と、拳銃を持った外人との二人が、今にも龍馬に襲い掛かろうとした時、疾風のように駆け寄った黒覆面の町人風の男が逆手に持った短い刃物を振るって二人の喉を掻っ切った。二人は声もなく血を噴いて倒れ、町人風の男の姿も消えた。その傍らを魂の抜けたような表情の龍馬が、何事も知らぬまま乱れた下駄音を鳴らして通り過ぎて行く。悪知恵の働く後藤は、役者としても龍馬より数段上手だった。
龍馬はグラバー邸には寄らず長崎を後にした。今回はそこまで気がまわらなかったのだ。
下関に戻った龍馬が、ひたすら後藤象二郎の大物ぶりばかりを吹聴して、お龍に付け入る隙を見せなかったのも成長の証かも知れない。龍馬は、上士で藩参政の後藤象二郎と、一介の脱藩郷士の自分が対等に話し合えたことが嬉しくて、誰彼となくこの感激を手紙に書きまくっている。木戸準一郎、伊藤助太夫、姪の春猪、姉乙女にと筆まめな龍馬だからこそ出来ることだった。
後藤は土佐に戻るとすぐ、龍馬と中岡慎太郎の脱藩罪の赦免を藩主に願い出て、藩の決定として二月下旬、二人に通知した。驚いた中岡が翌月、わざわざ下関の龍馬の元にこの脱藩赦免の真意を尋ねに現れて、それが後藤の好意によるものと聞いて烈火のごとく怒り、「おまはんは狐に化かされたんじゃ!」と叫んだが龍馬には全く通じず、逆に、「これからは藩内で敵も味方もなか、後藤と和解せんと遅れをとるぜよ」と、正義漢で策に弱い武闘派の中岡を説得したが、どこまで通じたか。

四月に入って後藤から、亀山社中を土佐藩の庇護の下に海援隊と名を改め隊長は龍馬、隊員全員に月五両の給金を支払う、という提案があった。今までは三両二分だった給金が一気に上がったので、安定収入のなかった龍馬としては渡りに船だった。これによって、龍馬らが辛苦を重ねて築いた海援隊は、あっけなく後藤象二郎の下部組織に成り下がった。龍馬などは、隊員の生活が保障されたことで金銭的な不安が消えたと手放しで喜んでいる。やはり後藤はただ者ではない。
四月十四日、一代の英傑・高杉晋作が二十八歳で病死した。高杉と奇妙な縁でつながっていた龍馬は、心の底から泣いた。龍馬は実直で熱血漢の高杉が大好きだった。高杉の死は国家にも龍馬にとっても大きな損失だった。
同じ月、海援隊の初仕事が入った。淡路国洲本の支藩六万石の大洲藩から借りた帆船のいろは丸で、グラバーらから買い付けた武器弾薬を、大阪まで運んで各藩の大阪屋敷に持ち込んで売りさばくというもので、すでに売り先も決まっている楽な仕事だった。
ところが、長崎から大坂へ向けて出航したいろは丸は、出航から四日後に、福山沖で御三家筆頭の紀州藩の大型帆船明光丸と激突し、あえなく沈んでしまったのだ。明らかに非のある紀州藩との損害賠償交渉は難航を極めた。

五月上旬、西郷、小松、大久保の三人が図って、薩摩藩主島津久光主催の夕食会を兼ねた四候会議が開かれた。越前福井藩主・松平春獄、宇和島藩主・伊達宗城、土佐藩主・山内容堂の四人での秘密会議だったが、薩摩の狙った武力倒幕案を山内容堂が一蹴し、松平春獄の主張する公武合体論に容堂も賛成して譲らない。強硬意見を吐く島津久光に伊達宗城が同調して会議は決裂した。
西郷、大久保、小松帯刀の目的は果たせなかった。土佐藩参政として列席した後藤象二郎は一言も発する機会もなかった。
この会議の模様を龍馬は、土佐藩軍艦「夕顔」船上で後藤から聞いた。
容堂公は後藤の提案を呑んで、大政奉還までは藩の方針でもいい、と言った。そこまでは勝海舟も松平春獄も同じだったし、心ある大名も考えている。
「その先の策を何か考えよ」と、容堂公から命じられた、と後藤は言う。
それを聞いた龍馬が、平戸島の沖で揺れる甲板で潮風に吹かれながら、すらすらと口にして長岡謙吉に書き取らせたのが、次のような内容だった。
一、天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令官しく朝廷より出づべき事
一、上下議政局を設け、議員を置さ、万機を参賛せしめ、万機宜しく公論に決すべき事
一、有材の公卿・諸候及び天下の人材を顧間に備へ、官爵を賜ひ、宜しく従来有名無実の官を除くべき事
一、外国の交際広く公議にとり、新たに至当の規約を立つべき事
一、古来の法令を折衰し、新に無窮の大典を撰定すべき事
一、海軍宜しく拡張すべき事
一、御親兵を置き、帝都を守衛せしむべき事
一、金銀物価宜しく外国と平均の法を設くべき事家に二主なきごとく、国に二帝あるべからず。政刑唯一君に帰すべし。

長岡健吉から奪いとるようにして巻紙を手にした後藤が、食い入るように読み直してから龍馬を睨み「おぬしは天才じゃ」と唸った。その文を書いた紙片を伏し拝んで懐中にした後藤は、多少の手直しを加えて自筆に改め、翌日の登城の折に前藩主と会い、龍馬から聞き出した「船中八策」を改題した上で、自分の案として山内容堂に提出した。
山内容堂は一読しただけで膝を打ち、「これじゃ!」と叫んだ。これが通れば幕府は無くなり元の徳川家に戻るだけだから、倒幕の旗印も意味も無くなる。従って争いもなく誰も血を流さなくていい。これ以上の良策はない。
容堂は直ちに老中板倉勝静にこの案を図り、なるべく早く幕閣内で意思統一をし、西国強藩が倒幕に動く前に実施するように念を押して十五代将軍・徳川慶喜への建白を任せた。これが早く実施できれば無益な戦いは防げて各藩も安堵できる。
実は、この龍馬の八策には下敷きがあった。
龍馬が師・勝海舟の使いで熊本の横井小楠を尋ねたのは三年ほど前の梅の咲く季節だった。龍馬が勝海舟の門下生であることを知ると、小楠は心を許して幕政改革論を語った。それは、かつて越前福井藩主の松平春獄こと慶永公に小楠が語ったことだという。当時、松平慶永公は幕政改革のための一環として幕政参加の勅命を受け、国政をいかにすべきか迷っていた。それで、小楠を呼び寄せて意見を聞いたのだ。そのようにして智者を生かす術を知る松平の殿はさすがに聡明だった。龍馬も若き日に謁見し、その場で着ていた羽織を拝領したことがある。それは千葉佐那に自分の分身として与えてしまったが。
小楠は以前、松平慶永に政治総裁への就任を積極的に推し「国是七条」を示して幕政改革を進めるように提案していた。
その内容は、一、大将軍上洛の件、二、諸侯の参勤中止の件、三、諸侯の正室を国に帰す件、四、外藩・譜代の差別をせぬ件、五、天下平等に万民の声を聞く件、六、海軍を強化し兵威を強める件、七、民間交易を止めて官交易と為
これを聞いた龍馬は、この幕政改革七条を手直しした「国策八条」を前藩主・山内容堂公に示すよう後藤象二郎に託したのだ。この内容を変えただけだが、ここい至るまでは三年という歳月をかけ、頭の中で何度も推敲させてきた。
この龍馬の盗作に似て非なる労作の「国策八条」を、後藤が自作とした瞬間、心の奥に殺意が芽生えたのを気づくて者はいない。後藤が国のため藩のためにと大義名分を探して抹殺してきた相手は自分より優秀な人物に限っている。龍馬に対して殺意を抱いたということは、後藤が龍馬を自分より優れていると認めたことになる。

3、サトウの殺意

七月に入ってまた龍馬を悩ます事件が起きた。
深夜、長崎丸山遊郭の路地に二人の外国人が泥酔して寝ているのを、夜中でも仕事中の外国人道案内の男が見つけ、重い体を引きずって引田屋の軒下まで運んで立ち去ったが、悲鳴がしたので掛け戻ってみると、その二人が切り殺され、白い筒袖を着た武士が数名酔っ払った足取りで遠ざかって行くのが見えたという。殺害されたのは、イギリス軍艦イカルス号の乗員のロバート・フォードとジョン・ホッチングスという二人の水夫だった。犯人は白筒袖の服装・・・遠い提灯の灯で垣間見ただけの証言でだから定かではない。これだけで海援隊士が疑われたのだ。その直後に海援隊の操船する帆船「横笛」、続いて海援隊も乗る土佐藩軍艦「若紫」が出港している。これらも海援隊士が疑われた根拠になる。
龍馬は隊員に該当者がいないことを確認した上で、長崎のイギリス領事・フラワーズ、長崎奉行・徳永主税と能勢頼之、新任の英公使ハリー・パークス、外交官で通訳のアーネスト・サトウらと対峙することになった。犯人を土佐の海援隊士と信じるパークスは、終始冷静で、海援隊には犯人はいない、と言い切る龍馬に激怒し、長崎奉行が土佐藩士犯人説は風説で証拠が無いと反論するのにまた怒り、幕府が土佐藩に対して遠慮するなら英軍によって解決する、などと脅す。
パークスに責められた長崎奉行はいやいやながら、横笛の船長の佐々木栄らを呼び出して訊問するが証拠は何もつかめい。パークスは、長崎奉行の怠慢と土佐藩の不誠実などを書簡に認め、将軍慶喜への調査依頼を筆頭老中板倉勝静に送った。パークスは大坂城にて将軍慶喜と会見し、老中板倉と若年寄並兼外国総奉行平山敬忠と話し合って、二人の長崎奉行を罷免、外国人居留地警護のために五百人の兵を送ることを約束させた。更に、パークスは強く望んで、平山と大目付同道で、調査究明のため高知へ行くと宣言、京都にいた土佐藩重役佐々木三四郎も渋々高知へ向かうこととなった。
佐々木三四郎は、薩摩藩から龍馬が借りた薩摩藩船三邦丸で龍馬と共に兵庫を出港した。三邦丸でのお龍との旅を思い出しながら海を眺めている龍馬の背後から、気づかぬ間に人が来ていた。
龍馬が振り返ると、以前から時々見る水夫の顔がある。
「前を見ててくだせえ。行商の太兵衛さんから伝言を頼まれやした」
「ほう?」
「外国の水夫を切ったのは、福岡藩士の金子才吉です」
「有難う。嬉しい情報に感謝、と太兵衛さんに伝えてくれ」
「承知しました」
「それと、今、出られると迷惑じゃき、ほとぼりが冷めたら福岡藩から当人は腹を切ったことにして届け出を、と頼む」
「承知しやした」
「おまはんの名は?」
龍馬が振向いたとき水夫の姿はなかった。音もなく消えたのだ。

三邦丸は順調に風をはらんで海上を走った。
外国総奉行平山敬忠はパークスに、すでに書面で自分の考えを伝えてあった。
「犯人の取押え等の儀は、政府にて自らは致し兼ねる。我が国は封縣の制度で、藩内の儀はその藩主に委ね、その藩にて捕縛し吟味致すものなり。尤も、罪なく士官束縛の儀は致さず事にこれ有り、領内に指し止め、出帆を差し止めれば何方へも逃げる事はできぬ
土佐藩帆船夕顔船上にて、土佐藩重役・後藤象二郎、パークス、アーネスト・サトウ、幕府大目付戸川、それに土佐藩佐々木三四郎、若紫艦長の野山伝太らも加わったが、いつの間にか最初の容疑者である海援隊の坂本龍馬は、幹事役に回っている。
後藤象二郎は、パークスに対して「何の証拠もないのに異議を申し立てるとは失礼千万」と抗議し、パークスも激怒して反論したが茶番はこれまで、バークスの態度も一転しておだやかになり、後藤にも好意的になり親善ムードになった。そして、パークスは、土佐藩領土ゆえ夕顔に乗れず会議に参加できなかった外国総奉行の平山敬忠に、捜査を再び長崎に戻すよう強行に主張して承諾させた。
長崎に着くと、奉行所に全員を集めて総奉行の平山敬忠はこう言った。
「現地幕府領内に於ても幕府は藩に対し統治権を行使することができないから、横笛、若紫の土佐藩士・海援隊士への尋問は、土佐藩大監察佐々木三四郎殿と海援隊長才谷梅太郎殿に任せますぞ」
この場から逃げるように総奉行をはじめ幕府の役人はさっさと丸山遊郭に向って姿を消した。
龍馬が、横笛、若紫のどちらも犯行のあった時間からでは小船でも泳いでも出航には間に合わないことを再度詳しく証明し、土佐藩はこの事件には全く関係がないことを主張した。それを、アーネスト・サトウの通訳で聞いたバークスは、満面の笑みで龍馬の手を握って早口で何かを喚いた。サトウが言った。
「協力に感謝します。最初に坂本さんの説明を聞いたときに分かっていました。おかげでお国の仕組みが分かりました。この封建幕藩体制では、権力の二重構造ですから主権がどこにあるかがわかりません。裁判権も逮捕権も交易権も統治権すらも二重構造でした。将軍と大名が別々の政府をもって、それぞれが軍隊をもってることも分かりました。これでは国際法に照らし合わせても一国の政府としては認められません。イギリスは坂本さんと後藤さんの無血革命に協力します」
佐々木三四郎が言った。
「あなた方は日本人を舐めてますぞ。西郷にも同じことを言ってますな?」
アーネスト・サトウが補足した。
「駐日公使の私には佐藤愛之助という日本名もあり、それなりのネットワークがあります。私の肩書きは外交官ですから仕方ありませんが、我々は全方向外交です」
「幕府でもかね?」
「今の幕府はフランス式に染まっていますから、我々としては幕府は不要です」
アーネスト・サトウが通訳の立場を超えてきっぱりと言った。
龍馬が怒った。
「幕府が必要か不要かは我々の問題じゃき、あんたの内政干渉は余計なお世話ぜよ」
この瞬間、サトウの青い目が暗く光った。そこには陰険な殺意があった。
(こいつは倒幕後の我々の商売の邪魔になる。殺すなら今のうちだ)
狡猾な笑顔を見せたサトウは、流暢な日本語で「仲良くしましょう」と龍馬をなだめた。

 

4、佐々木と近藤の殺意

長崎から遠く京の夜、佐々木只三郎と近藤勇は情報交換を兼ねて飲んでいた。
月がなく星が冴え冴えと夜空にまたたき、木枯らしが震えて泣く不気味な夜だった。
京都見廻組四百名近い隊員を率いる只三郎は、会津藩出身で神道精武流の剣、宝蔵流の槍の達人、男谷精一郎に師事して直心影流も極め幕府講武所の剣術師範も勤めたことがある。今や、二百石から始まって千石取りの旗本だった。
一方の新撰組局長・近藤勇も今は幕臣に取り立てられ御目見得以上の旗本で三百石、土方が御家人扱いなのに格段の出世だった。不逞浪士を取り締まる新選組も今では二百名近い大所帯、御所を含む京の中央部の治安を守るのに命を賭けている。
この二人が醒ヶ井木津屋端近くの近藤の妾宅で会っている。二人とも、喋るより飲んでいるだけで充分なのだ。
佐々木只三郎も近藤勇も尊攘派志士からは鬼のように恐れられていた。
しかし、その素顔はごく普通の三十代半ばの男盛りの武士で同年齢、只三郎が四ケ月だけ上だった。二人の共通点は、どちらも訥弁なのだが今宵は珍しく語り合った。
勇の愛妾お孝が只三郎の持つ椀に熱燗の酒を注いだ。
「近藤さん、あんた時々、土佐の後藤と会ってるそうじゃないか?」
長身で精悍な只三郎が椀の酒を飲んでから、興味深々という様子で身を乗り出した。
がっしりした体躯の勇が少し間を置いてから重い口を開いた。
「後藤象二郎か? やつが京都に来たときは会うが、なかなか腹が据わった男でな。大分人を斬ってるらしい」
「以前、武市が差向けた岡田以蔵に切り掛かられ、逆に反撃して袴を裂いたら以蔵が肝を冷やして逃げたそうだ」
「その以蔵も土佐勤皇党の弾圧で討ち首で、首領の武市瑞山は切腹、この弾圧は全部、後藤がやったのだ」
「土佐は、内部抗争の激しい藩だからな」
「後藤は、今や山内容堂公の懐刀だぞ。やつが画策すれば何でもできる」
二人はまた静かに酒を飲み、若いお孝が立ち上がっては燗酒を運んで来て酌をする。
「後藤との話の内容は差し支えあるのか?」
今度も間を置いてから勇が答えた。
「構わん。いよいよ決断を迫られてる様子だが、まだ容堂公と島津の殿様が意見違いで揉めてるそうだがな」
「容堂公や後藤は計算高い。貴公らのようにいつでも命を捨てる覚悟の人間とは違うぞ。口と腹は別だ」
「後藤は拙者より四つも若いのに老成し過ぎている。敵味方に別れても幕府に弓は引かんと言いおった」
「倒幕派じゃないのか?」
「分からん。幕府はなくなっても徳川家も会津藩も残るようにする、と夢のような話をしおった」
「それは無理だ。薩長がここまま引っ込むまい」
「しかし、無理に戦うこともあるまい」
「おぬしは、随分と弱腰になったな」
「わしは命など惜しまぬ。与えられた仕事をし遂げて死ぬだけさ」
「武士が刀を棄てん限りは、血を見んと戦さは収まらん。そのための修行だからな」
「薩摩と長州は洋式武器で武装して、何としても幕府を武力で壊滅させると力んでるそうだ」
「と、なると、薩長にとって坂本は?」
「徳川を潰すために戦う戦争の邪魔をする坂本は憎いでしょうな」
「家茂さまは、坂本は幕府方だから切るなと言われたが、慶喜さまの側近は坂本を倒幕の立役者と見てるぞ」
「見回組は坂本をどうする?」
「斬る。五日から京にいる坂本は一昨日から土佐藩出入りの醤油商・近江屋に隠れ家を移した。斬るなと命じられた家茂様が亡き今、坂本をかばう理由など何もない。ヤツが勤皇倒幕にいる限りは斬らねばならん。近江屋には薬屋に仕立てた部下が網を張っている。いずれ、大物が出入りしたら、そいつと一緒に斬る。近藤さんは?」
「坂本は敵ながらあっ晴れだ。己の立身出世や藩のことより国のことを考えて動いている。斬るには惜しい。だが、歳三が斬るといえば仕方がない。わしが止める理由はないからな」
「もたついていると、開戦を邪魔された薩長が先に坂本を襲うだろうな」
「それなら、それで見回り組みにとっても好都合じゃないか?」
「土佐の後藤にとっても、坂本は邪魔になる存在に違いない」
佐々木が腕組みをして宙を睨んだ。後藤は師の吉田東洋を斬った土佐勤皇党の一員だった坂本を許せるはずがない。
「後藤は武市らを一網打尽にして斬ったのに、まだ不足かな?」
「坂本は郷士の身で出すぎた真似をし過ぎた。あれは公の場には出せん。ここからは後藤の出番だからな」
「なるほど。ならば、歳三に斬らせる相手は後藤だな」
「新選組や見回り組が後藤を斬れば戦争になる。これこそ思うつぼだ」
「おぬしは全く戦いが好きな男だな。放っておいてもいずれは戦争になる。そう焦らずに、もっと現世を楽しんだらどうだ」
「それもそうだな。近藤さんのように生きるのもいいか?」
只三郎がちらとお孝を見て遠慮がちに言った。
「お考さんは、姉の美雪太夫と違って静かなのがいいねえ」
近藤がそ知らぬ顔で茶碗酒を飲んだ。
姉の美雪太夫は、妹に手を出した勇に怒って手切れ金二百両で島原に店を出し、まだ近藤を恨んで「殺す」と言っているらしい。
女の恨みは恐ろしい。お孝は大阪曽根崎新地の茶屋で働いていたのを近藤が引き取っていた。
「ところで、以前、近藤さんが食指を動かした寺田屋の女が、今は坂本の嫁らしいな」
近藤が豪快に笑った。
「太兵衛から買った鼈甲のかんざしを手渡して茶屋の名を言ったら、あの女はすぐとんで来て寝たぞ」
お孝が「まあ」と初めて口を開いた。
それからまた、ひとしきり二人は酒を酌み交わした。
だが、只三郎が口にした龍馬の嫁の一言が、近藤勇の心を龍馬への殺意に駆り立てた。
只三郎が言った。
「昨日、何を企んでるのか、御陵衛士(ごりょうえじ)の伊東甲子太郎(かしたろう)が藤堂を連れて坂本に会いに行ってるぞ」
「まことか?」
「彼らは薩摩から資金援助を得て勤皇方の片棒を担いでる。近藤さんは許せるのか?」
「許せぬ!」
その瞬間、近藤の殺意は龍馬から伊東甲子太郎に変わった。平助などはどうでもいい。
伊東甲子太郎は剣にも学問にも勝れ、隊員の人望も厚く、理路整然と新選組の粗暴さを非難して去った。
(ヤツだけは許せぬ)、近藤勇は殺す相手が決まると落ち着く。嫌な癖だが仕方がない。

 

5、大久保一蔵の殺意

慶応三年十月十四日、土佐藩の前藩主・山内容堂の建白を受けて、将軍慶喜は朝廷に大政奉還の奉書を提出した。
それは、武力倒幕を志す薩摩、長州、芸洲、土佐の過激派にとっては晴天の霹靂どころの騒ぎではない。幕府が先に無くなったら倒幕は絵空ごとになり、今まで培ってきた武力も気概も何もかもが無駄になる。
京都の薩摩屋敷にいた西郷、大久保、小松帯刀の三人がこれを知り、驚くと同時に自分たちを裏切った龍馬への恨みで全員が怒り心頭に達して怒り狂った。だが、それよりも自藩内の善後策が急を要している。こうなれば、戦争のための理論武装と出兵の準備をしなければならない。三人は、決起の時を待つ鹿児島の薩摩軍と前藩主島津久光公の元に、京から鹿児島までを藩船に全速力を出させて帰国した。
この際、藩内を抑えられるのは家老・小松帯刀しかいない。西郷と大久保では身分が低すぎて、国内では正式の政治の場に加わることすら出来なかった。ただし、戦となれば別だった。いくら家老が威張っても、弾丸乱れ飛ぶ戦場で白刃をきらめかして殺しあうことは出来ない。これが身分の差なのだ。大久保と西郷は、腰が重い小松帯刀を無理やり連れて鹿児島に戻って来た。藩内の保守派がこの大政奉還を知ったら、西郷や大久保の出兵要求に頑強に反対しかねない。それを恐れての帰国だった。
案の定、三人が帰って状況を報告すると、藩内は蜂の巣を突付いたような騒ぎになって出兵どころの沙汰ではなくなった。藩主の島津忠義は戦うと言い、父君の前藩主・久光は、政治が朝廷に戻ったのであれば戦う理由はないだろうと言い、藩内も武闘派と穏便派が真っ二つに割れて争い、騒ぎは大きくなるばかりだった。
小松帯刀は、藩論の統一のために藩主と相談して、次のような内容の告示を出した。
「この度、京に兵一大隊を上らせたが、これにについて異議を称え封書をもって諫言してきたものが有る。もちろん、無謀に事を起こすようなことは決してない。それを信じて憂慮せず、藩内一致して状況急変の時は十分に尽力してくれることが、我等、藩主および前藩朱にも朝廷に対しても、この上ない忠節である」
こうして藩主・島津忠義、前藩主・久光の名で「派兵はするが無謀に戦う気はない」と出兵への理解を求め混乱は収まった。大久保と西郷は、藩内の保守派を藩主と小松帯刀がおだやかにしている間に軍備をどんどん進めていたのだが、龍馬の考えた大政奉還の実現によって、派兵が困難になった。大久保は怒り狂って、龍馬を始末すると、西郷に伝えた。
西郷は、相変わらずの茫洋とした表情で「さて・・・」と言っただけで何も意思表示をしない。苛立った大久保が「任せてもらう」と断定すると、「仕方なか」の一言でまた沈黙した。これで薩摩の龍馬に対する報復の方向性が決まった。
戦さがなければ龍馬の思惑通りに幕府はなくなる。だが、徳川家は筆頭大名として大藩のまま生き残り、日本は文明開化の好機を逃すかも知れない。そうなれば、外国との自由貿易も出来ない。これでは意味が無い。今度は幕府ではなく、徳川を中心とした全国各藩そのものを叩き潰すのだ。
西郷は「日本を変える」ことに意義を見出した。龍馬のことなどどうでもいい。
大久保という男の意思と信念と粘り強さ、これは西郷でも真似できない。西郷は(一蔵なら必ず殺る)と思い、龍馬との長い交友関係を思い龍馬を哀れに思った。しかし、私情は禁物、戦になれば昨日までの知友とでも戦火を交えねばならない。

武力倒幕を目前にしていた薩摩と長州、それに昨今では芸洲藩とも密約を交わし、公家の岩倉具視卿とも相談して朝廷から「討幕の密勅」を頂いたのも、龍馬が考えた大政奉還の成功のために水の泡となって消えた。戦いを目指した西の雄藩にとっては、龍馬の成し遂げた大政奉還ほど大きな打撃はない。第十五代将軍徳川慶喜は野に下って大名になり、薩長が企んだ武力倒幕への大義名分はこれで霧散した。だが、大久保一蔵には策があった。
大政奉還と同じ日に降りた「討幕の密勅」をただの紙片にせずに最大限に活用するのだ。
幸いに、政権を奪取した朝廷側の公家には政務を取り行なう能力がなく、一度戻った政権だが、もう一度徳川幕府に委託して形だけは朝廷が行うという案が出て、それが通りそうな情勢になって来たことだった。これなら、幕府を叩く理由が出来る。この考えは薩摩だけではない。長州も土佐の過激派も芸州も、考えることに大きな差異がない。それは、倒幕に対する方向性も、大政奉還で武闘派の出鼻をくじいた龍馬への怒りも同じだった。
そこで大久保が考えた案は、各藩から選りすぐった刺客で龍馬を暗殺するというものだった。
そこで大久保は長州の桂小五郎に急便を出し、翌日、西郷に倒幕の準備を任せておいて藩船に乗って鹿児島を出た。桂小五郎も急ぎ下関まで駆けつけて一蔵を迎え、赤間神社前の料亭に案内して人払いし二人だけで密談を行った。
桂は最初「坂本は斬れん」と言ったが、薩長の出鼻を押さえる卑怯なやり方は許せん言い、「案はあるのか?」と聞いてきた。
大久保が率直に刺客を探してると言って、頭を下げた。
「今、人斬りで信頼できるのは熊本の川上彦斉でごわす。脱藩してまで貴公の隊に加わったと聞く。彦斉を是非お借りしたい」
「大久保さんはよう調べとるな。お察し通り、わしの護衛に使う約束しちょる」
「佐久間象山を一刀で仕留めた刀筋の凄みを聞き、前から気にしていたのでごわす」
「離れた位置から短躯を一瞬沈めての前のめり右膝折りで、下から斜めに片手逆袈裟斬り、長く伸びるから誰も避け切れん」
「是非、彦斉をお貸しくだされ」
「いいでしょう。私が言えば拒みはせん。で、薩摩は?」
「我が薩摩は田中新兵衛亡き後は中村半次郎しかおらんでごわす」
「土佐の以蔵も没し、今や人斬りと言えるのは彦斉と半次郎だけですな」
「この二人が組めば無敵、新撰組の沖田や土方ともいい勝負になりましょう」
桂が「坂本は拳銃で抵抗する。ならば意外な使い手で・・・」と言いかけたのを一蔵が引き取った。
「三吉慎蔵はいかん。あれは無理じゃ。龍馬の警護役でごわしたからな」
桂が軽く笑い「後藤さんに相談して・・・」と一蔵に、聞き取れるかどうかの小声で人の名を告げた。
それを聞いた瞬間、大久保一蔵の顔が硬直して顔面から見る見る血の気が引いた。
一蔵はまじまじと桂小五郎の顔を見つめた。そこにあるのは正しく人の仮面を被った恐ろしい妖怪の顔だ。
だが、その一蔵の心にも鬼がいた。ならば、毒をもって毒を制し毒をもって形を整えるのだ。
一蔵の脳裏に薩摩が資金を出して泳がせている、新撰組と決別したある男の端正な顔が浮かんだ。
この男を利用すれば、桂の案に重ねての妙案になる。それを口に出すと桂が感心して喜び手を叩いて笑った。
「大久保さんの策はさすがじゃ。鬼どころか化け物としか思えませんな」
一蔵も無理にでも笑顔を見せようとしたが、その顔は引きつっていた。