第十二章 死して残るもの

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1、近江屋

 

慶応三年十一月十五日、太兵衛は妙な胸騒ぎを感じていた。
人の流れが少し違うのだ。木枯らしの吹く季節に入っていて鍛えた身体にも夜寒が身に沁みる。
月も星も無い夜だった。夜目の利く太兵衛が浄心寺の墓石の陰から河原町通りを眺めていると、この夜中に総髪の浪士風の武士がうろついている。その男が去ると、袖口に山形模様を染め抜いた派手なだんだら模様の羽織を着た新選組の一隊が巡邏で通り、その暫く後を役人風の男が歩き去った。この夜中にしては珍しいことだ。数日前、奉行所の探索方が近隣の人別調べで近江屋に寄ったが、なんの異変もないことを確かめていたのだが、まだ不審感を持たれているのかも知れない。 ryoma068.jpg SIZE:481x500(50.0KB)
太兵衛の視線が向いている西の方角には、南北に走る河原町通りに面して醤油の近江屋があり、もう店は閉まっていて提灯の灯も消えている。その先には闇が広がり薩摩藩綾小路藩邸が木々の中に高い屋根が黒々とあり広い敷地が土塀に囲まれている。
近江屋から見て河原町通りの向かいに称名寺、その並び北に蛸薬師通りを挟んだ斜め前に土佐神社の稲荷があり、その一帯が土佐藩邸、太兵衛が潜んでいる浄心寺があった。河原町通りを北に行くと本能寺の向かいに長州藩邸がある。従って、近江屋を中心に薩長土が三角に結びついていることになる。
京に入って十日目の坂本龍馬が、才谷梅太郎の名で近江屋に移ってから三日目だが、仲間らしき浪士の出入りの多いのが気になる。たかが醤油屋なのにこれだけ浪士の出入りがあれば龍馬を追っている探索方が気づかぬはずはない。
一昨日には、前に新選組にいた長身の伊東甲子太郎と太兵衛と顔なじみの藤堂平助が、龍馬を尋ねて来て半刻近く中にいたが用件は知らない。ただ二人の表情には不穏な陰があった。太兵衛から見ても近頃の龍馬の立場が極端に悪くなっているのが手にとるように分かる。龍馬には気の毒だが、もはや刺客の到来を防ぐことは出来ない。その危機も今日明日に迫っている。それを本人がどこまで感じているのか? 太兵衛は、龍馬を襲う刺客がどのような者かを考えた。

まず、第一に考えられるのは紀州藩からの刺客だった。沈没したいろは丸の補償問題で土佐藩の重役まで動かし、仲介に入った薩摩の五代友厚などという龍馬の仲間に仕組まれて八万両などというとんでもない高額の賠償金まで決めてしまったことが紀州の怨みを買っていた。御三家の威光を盾に横柄な対応をされた腹いせに作った龍馬の「船を沈めたその償いは、金をとらずに国をとる」の歌も紀州藩の怒りを買っている。この歌は丸山遊郭の三味線に乗って瞬く間に全国の花柳界に広まって、太兵衛でさえ口づさむほどだった。弁償金が決まった後も「勝った勝ったと」と世間に広められたのも面白くない。これでは龍馬を殺したくなる。
次が薩摩と長州で、出兵寸前に武力討幕を邪魔されて、徴兵してまで集めた軍兵をすぐ解散もできず、その食糧や武器・軍服の支給、に宿舎や食料など莫大な出費で多額の損失が出ている。その恨みは龍馬に向き、死を以って償わせようとするのも無理はない。
幕府側からいえばやはり新選組が危険だった。一部の隊員は不逞浪士とみれば斬りかかるし、不審な挙動があれば野良猫でも切る狂気の集団だから仕方がない。ましてや旗本格の幕臣になった近藤が幕府を解体した龍馬を生かしておくはずがない。
次は京都見回組、実質的な隊長の佐々木只三郎は聡明だが単純だから大政奉還など許せない。後先など考えず龍馬を狙い、四百を超える隊員に京の町屋に密告を強制しているから龍馬がここに泊っているのは先刻承知、もしかすると今宵あたり襲って来るのか?
いや、それより恐ろしいのは、策士・後藤象二郎からの刺客だ。太兵衛はこう読んだ。
大政奉還提案と国策八条提出の功で、容堂公から千石増という高禄の御加増の褒美があったとの噂がある。となれば、これらが下級武士以下の商人郷士の案だと分かったら容堂公の怒りを買うだけでなく、藩内外の不信を招いて地位の失墜も必定、国中の笑い者にされるのは目に見えている。ならば早めにその芽を摘む以外にはない。
さらに、紀州藩との約定では、いろは丸の賠償金は後藤が受取人になっている。船舶を借りた大州藩への弁償は、借りた海援隊の坂本が死亡したのであればうやむやになって霧散する。多分、後藤は知らぬ存ぜぬで通して大金をせしめるに違いない。その上で、この大金を部下の岩崎弥之助に任せて、龍馬に代わって海運や金融を手広くやらせて日本一の商社に育ててから世界に羽ばたいて海外雄飛の夢を果たす。これなら龍馬には絶対に死んで貰うしかない。
では、どんな手が考えられるか?
近藤勇と交流のある後藤が、腹心を通じて龍馬の居場所を知らせ、間接的に新選組に切らせる可能性も考えられが、もっと簡単なのは、山内容堂公からの坂本龍馬断罪の勅書を得ればいい。理由は何とでもなる。御三家の紀州藩を愚弄して土佐藩に多大の弁償金が請求され藩の名誉を傷つけたことでもいい。こう考えると龍馬が生き抜くのはますます至難になる。
幕府と縁が切れた太兵衛には関係ないが、乗り掛かった船で溺れる者を救うのは人の道だ。太兵衛の覚悟は決まった。
夕方、まだ明るいうちだったが、龍馬が近江屋からいつもの黒紋付の羽織とよれよれの袴で堂々と出てきて、南に軒並びの酒屋の暖簾を潜り、何やら交渉している様子だった。しかし、尋ねた本人がいなかったのか、すぐ不満げな顔で出てきて近江屋に戻った。太兵衛の記憶では、この酒屋には土佐藩重役の福田という重役が京に滞在する時のために二階の座敷を間借りしている。多分、その福田に会いに行ったのは間違いない。どのような相談があったのかは太兵衛には理解できないが、推測するとすれば、土佐藩が提出した大政奉還案を後藤象二郎が藩を代表して将軍に説明したときに同席したのが福田だから、その時の様子を聞きに行ったとも思える。ただ、後藤が国策八条を自分の案にしたところで全く気にもしない龍馬だけに、その件で刺客を向けられるなら気の毒だ。
その後藤の補佐的な役割を担う福田であるだけに、居留守を使っても龍馬には会わないはずだ。むしろ、後藤に指示されて龍馬の居所を知らせる役目で、京に居座っていたとも考えられる。
龍馬が福田と会えずに近江屋に戻って暫くすると、近江屋の勝手口から、龍馬が京にいる時には使い走りをしている相撲上がりの藤吉という大男が現われた。さり気なく太兵衛が物陰から見守ると、藤吉は近江屋から目と鼻の先にある土佐藩出入りの菊屋という書林の玄関を開き、大声で「石川さんはおりますかの?」と呼びかけた。ここまでは地獄耳の太兵衛に聞えたが、その後は中に入ったらしく聞えなかった。太兵衛にとって、この菊屋も呉服商としての取引先で親しく付き合っているから間取りから滞在客まで分かっている。
ここの二階には、龍馬との絡みで遠国御用の探索の対象となる中岡慎太郎が石川誠之助という変名で泊まっていて、勤皇派の浪士たちと連絡を取り合っていた。京の商屋はどこもしっかりしていて、二階の空き部屋の賃貸しで財を増やすのが常道だった。
遠くから藤吉が菊屋に入るのを見た太兵衛はすぐ浄心寺に戻り、また近江屋を見張った。
藤吉が戻って小半刻もしないうちに、太兵衛も見知っている中岡慎太郎と岡本とかいう土佐藩の下士が、菊屋の峰吉という小せがれを連れて現れ、近江屋の中に入った。ただ、中岡慎太郎らが近江屋に入った直後、道行く人に赤玉丸とかいう万能薬を薦めていた薬売りの行商人に化けた男が姿を消したのに太兵衛は気づいたが、それが龍馬と関係があるかないかは見当もつかない。
それにしても、よく人が出入りする醤油屋だが、醤油瓶を持って出た客はいない。暫くして岡本が帰ったところを見ると、ほんの挨拶程度だったらしい。

太兵衛は屋内で様子をみることにした。
太兵衛は難なく一階の出屋根に飛び上がり、まず一階の様子を調べてから、いつものようにクナイで横板を剥がして二階の天井裏に忍び込んだ。時刻はそろそろ戌の刻で宵の五つ半(19時半頃)になる。呉服商で出入していて勝手知った近江屋は、玄関が河原町通りに面していて、京の商屋の一般的な建物と同じく、通りに面した部分が狭い二階造りで奥に細長くなっていた。
一階には新助夫婦がいて、夫婦でチビチビと酒を飲んでぼそぼそと会話をしていた。
二階に細長く客用の座敷が四つある。一番手前が通りに面した八畳間で誰もいない。次が、一階の階段をあがるとすぐ襖を開けて入れる六畳間で、藤吉という相撲上がりの十九だというの若者と、まだ十五、六にしか見えない菊屋の峰吉とが火鉢を囲んで他愛も無い話でケラケラ笑っていた。その先に誰もいない六畳の仏間があり、その先の八畳の奥座敷に龍馬と中岡がいた。
床の間を背に綿入れのどてらをかぶった龍馬が、風邪をひいたのか咳込みながら寒そうに背中を丸め、土瓶が湯気を出す火鉢に手をかざし、火鉢の向こう側に無紋の縞羽織に平袴姿の中岡慎太郎が端然と座っていた。二人の刀はと見ると、龍馬の刀は大小とも床の間の刀架にあった。龍馬が家宝を兄から贈られたと誰にでも自慢する土佐の郷土刀・陸奥守吉行を上に、愛用の楠木正成拵えの短刀を下に、二本掛けの刀掛に柄を右にして掛けてあり今は丸腰だった。いざという時に素早く鞘走りが可能なように柄を右にして架けてある。これなら、左手を伸ばして体を左に大きく反転させて鞘を握り、素早く右手で柄を握って抜き打ちにすれば刺客が現われても戦える。
慎太郎はと見ると、龍馬が丸腰なのに自分だけ刀を身近に置くわけにはいかない。と、考えたのか少し離れた位置にある八畳間の東南角にある行燈の横に刀を置いてある。これだと、火鉢を囲んで座っている慎太郎の右後ろになり、いざとなると右手で取るのだが一度立ち上ってから敵に背を向けてしゃがまなければ手に持てない。急に刺客が現れたら腰の小刀で戦うつもりなのか?
そこで太兵衛は気がついた。龍馬の懐には拳銃がある。鹿児島でかなり訓練を積んでいるから相手が少人数なら心配はない。龍馬が一発撃って相手をひるます間に、中岡が刀を手に取って抜き打ちにすればそこそこに戦える。
「風邪じゃ辛いな。寒いか?」
「綿入れどてらに中は厚手の胴巻きじゃき、少々の寒さは気にならん」
「寝てればいいんじゃがな」
「昨日は一日土蔵で寝ておった。お陰で昨日は役人がこの部屋を調べたが、土蔵までは来んかった」
「見つかったらどうするつもりじゃ?」
「窓から隣の屋根伝いで裏手の誓願寺へ逃れる。あとは、運任せ風任せじゃきに気にもせん」
「ここには人を呼ばんほうがいい。誰か来たか?」
「伊東甲子太郎が藤堂平助を連れよった。わしが長州を紹介した礼と、新選組と見回り組に注意するよう警告しに来たんじゃ」
「なぜ、彼らがここを分かった?」
「薩摩から活動資金が出ちょるから仕方なかろう、薩長と土佐には筒抜けじゃきに」
「何はともあれ、早く風邪を治さんと出陣に間に合わんぞ」
「何度言うたら分かるんや。戦争は人殺しじゃ。そげなことに熱中したって腹も満たせん」
「戦わずに世の中が変わるか! ま、才谷とは意見が合わんが、空腹は一緒じゃ。なにか食うか?」
「今日はわしの誕生日じゃ。外人はな、生まれた日をバースデーとかいうて何か鳥の肉など食うらしいぜよ」
「鳥か? 軍の鶏と書いてしゃも、縁起がいいな。それでどうじゃ?」
龍馬が頷くと、慎太郎が怒鳴った。
「峰吉、軍鶏と酒、買ってきてくれ」
「へーい」
元気のいい返事があって綿入れ半纏を着た峰吉が現われ、龍馬と慎太郎が争って小銭を渡そうとすると「じゃ、こっちで軍鶏、こっちでお酒。酒は大和屋さんでいいね? 余ったらお小遣いだよ」、といって両方からお金を貰って威勢よく階段を駆け下りて行った。

 

2、二人の人斬り

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太兵衛が屋根裏を移動して板張りの隙間から表を見てみると、すでに人通りは絶えていた。
だが、常人とは違う太兵衛の目と耳には土佐藩邸を越えて遥か遠くに花街のざわめき、犬の遠吠えの中に、まだ遥か遠いが木屋町通りを高瀬川西岸沿いに二人連れの足音が聞こえて来た。二人とも草履履きだから足音が低い。
目を凝らしてみると一人が提灯で雨上がりの足元を照らしている。この暗闇では灯りが必要なのは当然だが、その灯が橋の袂の土佐藩邸の塀に隠れて止まった。もしも、この二人が刺客だとしたら・・・こう考えて凝視すると、提灯の灯に浮かんだ二人の男が明らかに近江屋の様子を窺っている。怪しいと直感したとき、太兵衛の体は動いていた。
静かに天井の梁を伝わりながら「チュウ」と一声ないてはめ込んでおいた横板を外して外に出て、一階の出屋根に下りてから地に飛んだ。太兵衛は相手に悟られないように、近江屋から南の四条通り側にまわって浄心寺の低い塀を乗り越えて墓場を突っ切り、また塀を越えて二人の背後に出た。音もなく降りたつもりだったが提灯の灯が太兵衛を照らした。気付かれていたのだ。
「なにやつ?」
相手の声に応じて、クナイの柄を逆手に握り締めた太兵衛が冷静に聞いた。
「お武家さんがた。近江屋にご用ですかい?」
自分の語尾が終わらないうちに太兵衛の体が飛んだ。殺気を感じたからだ。
提灯を持っていた男は刀の柄には触れゆとせず太兵衛を照らし、もう一人の背の低い男が身を沈めて地を這うように右足を前に出して刀を下から横上に振るった。一瞬、斜めに飛んで一撃を避けた太兵衛の半纏を短駆の男の切っ先が裂いていた。凄まじい剣風だった。人を何人も殺している剣には迷いがない。太兵衛が恐怖を感じたのは相手の体が抜刀と同時に蛇のように一間近くも地を這って伸びたことだった。しかも刃先が斜め上に追ってきた。これでは防ぎようがない。
相手が「チッ」と舌打ちをして二の太刀を振るってきたが、太兵衛はこんな恐ろしい敵など相手にしたくない。とっさに身をかわして別の敵に飛びクナイを振るって提灯を叩き落した。それを待っていたように男が刀を鞘走らせて太兵衛の胴を払った。これもかわしたが半纏が斬られて布が散った。二人とも恐ろしい敵だが闇夜なら太兵衛に分がある。地面に落ちた提灯はすぐ燃え尽きた。太兵衛は男が闇に目を慣らす前に提灯を持っていた大柄な男の懐に飛び込み、左で襟首を掴み喉にクナイの刃先を突き刺す予定だった。
「刀を捨てろ!」
だが太兵衛の狙いは外れた。短躯の男が刀を捨てるどころか思いっきり踏み込んで同じ手口で切り込んで来た。明らかに仲間ごと倒すつもりなのだ。咄嗟に横に飛んで地面に転がり危うく一命をとりとめた太兵衛が、「死んだか?」と見上げると、激しい刃音と火花が散り鉄の焼ける匂いがして二人が斬りあっている。信じられないことだった。殺されたと思った大柄の男が一瞬の早業で手に持った刀を振るい短躯の男の一撃をかわすだけでなく自分から斬り込んで五分の戦いに持ち込んでいる。しかも、刀を振るいながら罵りあいを続けている。これは相当の自信がないと命のやり取りの場で出来ることじゃない。
「おのれ彦斉、おいを斬ろうとしたな!」
「きさまを前から斬りたかったんじゃ。来い、人斬り半次郎!」
「人斬りはそっちじゃろ! 仕事はどうする?」
「もう止めだ。きさまを切れば満足じゃ」
「よし、おぬしを切ってわしがやる」
徐々に闇夜に目が慣れたらしく二人の刃音が鋭くなっている。
ふと、気付くと近江屋の横手にまた提灯の灯が見える。刺客は何組かに分かれていたのだ。
太兵衛は、後をも見ずに刃音と罵声を背に近江屋めがけて走った。こんな人斬りどもは相討ちになればいい。

予感は現実になりつつある。太兵衛はかつての寺田屋の乱闘を思い出した。あのときは木っ端役人だから防げたが、こんな凄腕の刺客が何人も現れたら手も足も出ない。友人の中岡慎太郎がいかに剣に強くても龍馬を守るどころか自分も殺られる。しかも、あの二人は刀にすぐには手が届かない。太兵衛は珍しく恐怖を感じていた。杉山一家の頭だった時も遠国御用で主命を帯びて戦った時も大義名分があり死は友人のようなものだった。しかし今、自由になった途端に命が惜しいとは情けない。ここで命を捨ててこそ男なのだ。
太兵衛が近江屋に近づいてみると誰もいない。
どこかに隠れているのか、近江屋と関係なかったのか? 新たな敵の襲来がないことを念じて太兵衛は屋根裏に潜った。
下では、龍馬と慎太郎が口角泡を飛ばして論じたり笑ったりして軍鶏の到来を待っている。なにか知らせねば、太兵衛は焦った。
「新助に頼んで、ここで誂えたほうが早かったな」
「ここは醤油屋じゃきに、軍鶏はおいとらんよ」
中岡が少し苛ついた口調で龍馬に聞いた。
「丁度、わしもここに来る用事があったとこじゃ。籐吉を使って呼んだ用は何じゃ?」
「前に言った三条橋際の高札抜きで捕縛された宮川が釈放された。そっちで引きととってくれんか?」
「陸援隊にあんな上士崩れはいらん。そっちで処遇してくれ」
「海援隊もあんな厄介者はいらん。それよか中岡、いや石川! おぬし、大政奉還が気に入らんちゅ言うてるそうじゃな?」
「気に入らん。幕府への武力討伐が中断されて各藩とも事態の急変に苦慮しちょる。おいの陸戦隊も戦う場を失って大変な騒ぎになっとるんじゃ。薩摩の大久保や西郷や長州の桂など怒り狂っておる。おいは最初から戦っての倒幕が目的じゃ」
「平和で血を流さんで済むことが何でいかん?」
「才谷! おまえとおいは土佐勤皇党以来、援け合ってここまで来た。しかし、何だ? 亀山社中だって薩摩には大きく世話になり、長く親しく付き合ってきた西郷さんや大久保さん、おいや仲間たちの生き様まで裏切って。おのれが醜いと思わんのか?」
「それは言い掛かりちゅうもんじゃ。日本という国をよくせんとする心が一緒なら、無益な血を流さんのが一番じゃろ?」
「聞いたような口をきくな。国を思うなら旧態依然とした幕府にたかる蛆虫どもに天誅を加えて壊滅させてこそ、われらが目指した日本の洗濯ちゅうもんじゃろ。違うか?」
「それは違う。われらが目的は日本を変えることで、源平や関が原のように日本を二分して戦うことじゃないぜよ」
「戦わずして旧来の勢力は変えられんのじゃ。それが分からんのか!」
「分からん。人が殺しあわずに世の中がようなれば、それが一番じゃろ?」
「ここが戦場になったら、戦いたくなくても命のやりとりをしなきゃならぬ」
「どういう意味じゃ?」
「才谷、命を惜しむなら、頼むからその窓から逃げてくれ」
「なにを言うか。おいは命など惜しまん。それに短筒があるき六人までは倒せるぜよ」
「強がってどうする? おまはんは狙われてるんじゃぞ」
「石川、狙われてるならきさまこそ早く逃げろ。命を惜しんで百姓でもやって暮らせ」
「おいをバカにするのか!」
「バカにはせんが、腹が立って来た。おぬしとは考え方が合わんな」
太兵衛は困惑していた。兄弟げんかでも激すれば間違いがある。

 

3、刺客到来

暫くして人の気配を感じたので太兵衛が表を見ると、ガンドウ提灯を持った男と相棒らしい二人連れが下駄音を忍ばせて現れ、落ち着かない様子で周囲を見回している。誰かを待っているらしい。
そこに先刻の刺客二人が現れた。夜目にも着衣がよれよれで髪もざんばら、疲れ切った表情で見るからに哀れだが二人の体からは凄まじい殺気が溢れている。太兵衛あわてて、天井の隙間から木屑を下に投げ「誰か来るぞ」と下に呼び掛けたが大声で激論を交わしている二人には通じる気配もない。これでは仕方がない。太兵衛は外が気になってまた板壁の隙間から外を見た。
小声だが太兵衛には会話が聞こえた。
大柄な刺客が横柄に言った。
「待たせたな。おまはんらが御稜衛士か?」

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「拙者は篠・・・」
「名乗らんでいい。役割は分かっちょるな。刀を貸せ」
待っていた武士が頷き、刀を差し出すのが見えた。
無造作に鞘ごと刀を受け取った大柄な男が、「これか?」と言った。
「拙者は?」
「おまはんは、下で家の者を脇差で脅しとれ。そっちは表で見張りじゃ。提灯を消せ!」
「しかし・・・」
小柄な武士が叱った。
「邪魔じゃ言うちょるに分からんか! 脇差を早く抜け!」
大柄な刺客は「知った仲じゃけ」と素早く覆面で顔を隠した。そこまでを太兵衛は見た。
そこから目にしてない情景は、太兵衛が物音で判じて想像したに過ぎない。
小柄な男が迷わず近江屋の引き戸を開け、脇差を手にした男を前にして尻を蹴った。
男はつんのめるような形で下駄を脱ぎ、走って新助夫婦がいる小座敷に飛び込み「声を出すな」と小声で言って脅し動けなくした。多分、夫婦は恐怖で腰を抜かして一刻やに二刻は動けぬはずだ。
大柄な男が土間に立って穏やかに「ご免!」と、二度呼びかけた。
「どうしたのかな?」
その声に気付いた二階の籐吉が立ち上って襖を開け「新助さんたちは?」と呟いて降りて行った。
「坂本さんはいるかね? 十津川の郷士じゃが」
「へい」
名刺を渡された籐吉が上がって来て中腰になり、背を丸めている龍馬に名刺を渡して戻った。
「会ったことあるかな?」
龍馬が名刺をの名前を火鉢の火で読もうとした時、階段前の六畳で「こなくそ」との声と同時に鋭い刃音がして籐吉の短い悲鳴と巨体の倒れる音、太兵衛が気付いた時はすでに短駆の男が抜いた白刃を鞘に収めていた。凄い早業だ。それでも籐吉は瀕死の重傷の中、短駆の男の足にしがみ付き倒そうとしたが、足を振るって弾き飛ばされ、横に一回転して絶命したらしい。
「ほたえな!」と龍馬が叫んだところに隣室との境の襖が開き、覆面の男が「遅くなったな」と踏み込んで、赤鞘の刀の鞘の端を持って刀の柄を持ちやすいように中岡の右手先に突き出した。
龍馬は心構えは出来ていた。すかさず中腰になって懐中の短筒を出そうとした。だが、厚いどてらと下に着こんだ胴巻きが邪魔して短筒が掴めない。思わず下を向いたところで信じられない事が起こった。中岡慎太郎が目の前に突き出た刀の柄を掴んで肩膝を立て、電光石火の早業で、下を向いて懐に手を入れた龍馬の顔を抜き打ちに払ったのだ。一瞬、目を潰され多量の血を噴いた龍馬は目が見えぬ顔に驚愕の表情を浮かべながらも必死によろめき、何が何だかわからぬ状況の中で床の間にある刀を掴んで振向いた。それを立ち上がった中岡が頭から切り裂いた。龍馬の脳漿が飛び、血が空間を飛んで山茶花が描かれた軸にまで散った。よろめいた龍馬は執念なのか動物的なカンなのか中岡の三の太刀を鞘で受けた。激しい衝撃音で鞘が斜めに削げ、鞘の中の刃と触れあう音と金属の焼ける匂いががすると同時に鞘のこじりが低い天井板を破って太兵衛の眼前に突き抜けた。その瞬間、中岡の一撃が龍馬を肩から切り裂いた。龍馬は崩れ落ちながらも本能でか足を動かし、吉行の愛刀を鞘付きのまま杖にして隣室の六畳の間によろめきながら倒れ込み短い痙攣の後、微動もしなくなった。中岡もまた放心状態でその場に崩れて座りこんだ。
「見事じゃった」
こう言って覆面男が屈み込み中岡の指を両手で力を込めて開いて刀を奪うと、それを振り上げて中岡を斬ろうとした。
「きさまも一緒に・・・」
しかし、いつ抜いたのか短躯の刺客の刀の白刃が覆面の男の首に触れている。
「半次郎、そこまででどうじゃ?」
「邪魔立てしおって人斬りめ。どこかで証言されんとも限らんぞ」
「中岡もそれほどバカじゃなか。武士の情けじゃ、生かしてやれ」
短躯の男が刀を引いて部屋を出ると、大柄な覆面の男も舌打ちして刀だけ持ったまま後に続いた。
「相討ちにする筋書きじゃったがな。助かった命だ、長生きせい。奉行所への報告は任すぞ」
二人が階段を降りると、家族を脅していた御稜衛士があわてて出て来た。
「ここの夫婦は腰を抜かして震えるだけで、口もきけん状態です」
「どうせ漏らしてびしょ濡れじゃろう。ほれ、刀は返したぞ。鞘は二階じゃ。勝手に拾ってこい」
「いえ、あれはここに置いてくのです」
「素足で抜き身じゃ怪しまれるぞ。下駄は?」
「それも置いてきます」
「じゃ、とっとと失せろ」
引き戸が閉まる音がして男たちの姿が消えた。
全てが瞬時の間で、太兵衛が天井の羽目板を外している間の出来ごとだった。
太兵衛としては、全く手の出しようがなかったのだ。
死んだと思った龍馬が「石川・・・無事か、生きてるか?」と呟き、なにか言っている。
龍馬は混濁した意識の中で誰に切られたかも知らず、死に際しても慎太郎の身を案じている。
さらに、「新助、医者を! まだ石川が・・・」とも言った。
「上意、上意だった。済まん、後藤からの急便で三藩での仕事だと言われて、やらざるを得なかったじゃ」
中岡が龍馬を抱いて男泣きに泣いている。

 

4、龍馬の最期    

その時、近江屋の表に足音が重なり、「今井は表を見はれ!」と聞いたことのある声がして一気に階段を上る足音がした。涙を流して龍馬の体を抱いたわずかな間が中岡の不覚だった。龍馬の刀がそこにあるのに中岡は咄嗟に腰の小刀を抜いて立ち上がった。
だが、相手が悪かった。一気に階段を駆け上がって飛び込んで来た長身の佐々木只三郎の激しい必殺の剣風を二度までは受けたが、腕に差はなくても長刀と小刀では格段の差がある。只三郎の鋭い袈裟斬りで肩先を裂かれて血を噴き、必死の抵抗もむなしく頭部、肩、腹部と切りたてられて力尽きた。後から上がって来た部下が見たのは、二人の男が血だらけで倒れている傍らに、返り血を浴びて袴を朱に染め、血刀を持ったまま立っている佐々木只三郎の姿だった。
「坂本は?」
「そこに死んでるのがそうだ」

「くみ頭が?」
「違う。誰がやったか知らんが凄い切り口だぞ」
「これは誰です?」
「中岡慎太郎、なかなか手ごわかった。引き上げるぞ!」
「とどめは?」
「もうよい、もうよい」
部下の一人が中岡の尻を刺した。その途端、只三郎が頬に平手打ちを食らわして「武士らしくしろ!」と、階段から蹴落とした。太兵衛はまた出る幕を失った。
嵐が過ぎると静けさが増す。
一度気絶したかに見えた中岡が必死の唸り声を上げて、床の間横の窓から物干し台に這い出ようとしている。生きるという気力が瀕死の重傷の体に漲っている、凄い執念だ。中岡は屋根まで這って気絶した。
太兵衛は、龍馬がまだ息のあるのを知って天井から飛び降りて、龍馬の耳元で怒鳴った。
「しっかりしろ!」
あり来たりだがこの言葉しか頭に浮かばない。
「脳をやられた。もういかん。た、たのみが・・・」
「言うて見い」
「おりょうを・・・バカなおんなじゃから幸せにしたかった」
「お龍さんだな?」
「すきなのはお元、さな、かよ・・・おりょうだけがダメなおんなじゃった」
消えてゆく命の中で、苦しい息の中、しぼり出すようなか細い声に龍馬の心情が込められている。
「引き受けた。安心してハライソとかへ行け」
「百ねん・・・百年たったら」
「戻って来い。この日本に戻って来てまた世直しをやれ」
苦しげな息の中で声も途切れがちだが、血だらけの死に顔に笑みを見せて龍馬が言った。
「とどめをたのむ、たへいさん・・・」
「知っていたのか?」
これ以上は苦しめられない。太兵衛はクナイを取り出して龍馬の喉に当てた。
「おりょうを・・・」
これが最後の言葉だった。太兵衛が目を閉じてクナイの刃先を突いた。
血が噴いて太兵衛をも染めた。
龍馬の口に手を当てて、息の止まったのを確かめて太兵衛は合掌し、立ち上った。
中岡をと見ると、まだ気絶はしているが息はある。こちらは助かるかも知れない。
太兵衛はそのまま、中岡の横をすり抜けて近隣の屋根伝いに裏に走り誓願寺に抜けた。
そこの井戸で血を洗い、隠してある別の呉服商の着衣に換えるのだ。

風聞というものは分からぬものだ。太兵衛は、滋賀の宿で近江屋の顛末を聞いた。
坂本龍馬と中岡慎太郎は、新選組に切られたという。遺留品は、原田左之助のに似た赤鞘と、先斗町の新選組ご贔屓の料理屋・瓢亭の焼印入り下駄が一足、「証拠の品を残すなんて新選組もヤキがまわったな」、こんな評判がたっていた。
籐吉には姓があって十九歳、山田藤吉といい四股名を雲井龍という相撲上がりで龍馬が龍が一緒だと言って可愛がったそうだ。腕力が強くて、当日も新選組の猛者を何人も投げ飛ばして最期に土方歳三に切られたとか。これは嘘だ。土方はそんな男は斬らない。刀の錆が増えて研ぎ代が高くつくからだ。書林菊屋の長男で峰吉という十六歳の若者が勇敢にも、龍馬が近江屋に滞在していることを知らせて金一封をせしめたとも聞く。これだけは本当らしい。
小料理屋で別の節も聞いた。十津川郷士と名乗った武土を筆頭に大勢の武士が現れて、元相僕取りの藤吉を取りつぎに使ってから切り、寄ってたかって龍馬と中岡を切った。これは実際に戸の陰から現場を見ていたという近江屋の主人・新助の談話らしい。
まだある。龍馬と慎太郎を切ったのは、京都見廻組の佐々木只三郎と今井信郎だとか。今井は小料理屋で酔った勢いで自分から「坂本を斬った」と自白したが誰にも相手にされなかったらしい。いずれにしても、諸説が入り乱れて真相はますます分からなくなっていた。
こんな話を聞いていると、太兵衛自身も何だか幻を見ていたような変な気分になる。

その後、小田原宿で太兵衛を見たという者もいたが、そこからは全く消息が絶えた。
真相を知るただ一人の男が消えたのだから、未来永劫、諸説が交錯するのは仕方ない。

 

5、墓石

お龍は龍馬の死を下関の伊藤助太夫方で知った。
海援隊の佐柳高次が必死の早馬で知らせてくれて、伊藤邸についた途端に疲れきって落馬した。その第一報を耳にした時、お龍は「やっぱり」と言って絶句しただけで涙も見せず、佐柳高次にもねぎらいの言葉一つ投げなかった。
だが、それはお龍が冷たいわけじゃない。気が動転して頭の中が真っ白で言葉も出なかったのだ。
強い女と見られていたお龍も、一人になれば、孤独に耐えかねてさめざめと泣き明かす男恋しい一人の女だった。
長岡健吉以外の海援隊には、龍馬の妾扱いにされ粗末にされたが、それは、お龍の性格的な問題で仕方のないことだった。
伊藤家、三吉家のあと、身を寄せた坂本家では養女として籍を入れて貰って龍馬の姉の乙女とも仲良く交流できたのだが、土地の男との情事のもめ事で除籍されて家を出た。そこからが放浪の旅だった。
それでも、短い期間だけでも坂本龍馬の妻として過した幸せな日々を回想し、酒びたりで暮らした。
伊藤助太夫、白石正一郎、三吉慎蔵、西郷隆盛などに頼って歩いたが、それぞれが超多忙な時代を迎えていて、親切にはされるが生活の面倒までは誰もみてくれなかった。やがて、龍馬の名を出しても誰にも相手にされない冬枯れの時代が来た。
ほんの一時的だが、身も心も荒んでやくざの女になったこともある。だからといって、お龍は卑屈にはならなかった。昂然と胸を張って毎日酔っぱらっていた。
「あたしはね、坂本龍馬の妻なんだよ」
でも、誰も坂本龍馬の名など知らない。小料理屋や茶屋に勤めても長くは勤まらなかった。お酒を飲んで酔い潰れ、客に連れ込まれた茶屋で自由に遊ばれる。そんな荒れた日日が続いた。
龍馬が死んだときお龍は二十三歳だった。あれから八年、明治八年になり、お龍は流れ流れて文明開化の花開く横須賀にいた。
お龍は、昔働いたのと同様のいかがわしい小料理屋で、転び芸者に身を落としていた。
何かを求めて孤独な男たちがやってくる。その男たちを癒やしつつお龍も癒やされようとした。しかし、一度ぽっかりと開いた心のほころびは広がるばかりで元には戻らない。それでもお龍が元気なのは、昔もこのような環境の中で、龍馬が客として現れて深い仲になった思い出があるからだ。
あれは京だったが、横須賀だって「果報は寝て待て」で、奇跡は起こり得る。お龍はそれを信じていた。

「いいじゃないか。酒が飲みたきゃ飲ましてやるよ」
一人だけ妙な客がいた。仕事の合間に休憩に寄るだけだといって、一緒に酒を飲むのだが、自分は一口たしなむだけで、お龍には幾らでも飲ませてくれて、体にも触れようとしない。名はと聞くと、松兵衛と言った。なにやら行商を仕事にしているらしい。
「昔、京にいた頃、似たような仕事をしていた松兵衛さんに似た人を知ってますが、うちの人・坂本龍馬とも仲がよかったんですよ」
と、昔話には必ず坂本龍馬の名が出てくる。
「わたしは滋賀の出ですが上方は詳しくないんでね。実家を離れてずっと江戸だったもので、家に帰っても、死んだと思ったとか、いつ生き返った、背が伸びた、顔が変わったと言われるんで嫌なんですよ。京の街は今ごろ賑やかなんでしょうね?」
それで、ひとしきり龍馬と過した昔話をするのだが、松兵衛は何でも嬉しそうに聞いてくれる。
「そうですか、坂本さんというお人は立派なお方だったのですね」
そんなお龍の消息を知った西郷が、神奈川宿の仲居の仕事を斡旋してくれて生活が安定した。
仕事を代わっても松兵衛との交流は続いた。
そんな松兵衛と所帯を持ちたいと思ったのは、ほんの些細なことだった。
ある日、こんなことがあった。
「商売ものですが、ほんのちょっとキズものでよろしければ・・・」
立派な木曽ツゲの櫛を貰って感激し「嬉しい!」と言った時だった。
「貰いものをしても嬉しくない時は、喜ばなくていいですよ。こちらが迷いますから」
「嬉しい時は?」
「正気に素直に今みたいに喜んでください。また何か上げたくなりますから」
そうか、好きという感情も同じようなものなのだ。お龍はこう思った。
「よく考えたら、龍馬も同じこと言ってたわよ」
やがて、お龍は自分から口説いて、松兵衛と所帯を持ち籍も入れた。松兵衛は、三浦郡深田村の通称米ヶ浜という土地の長屋に住んでいて、近所隣りが寄って来て松兵衛とお龍の結婚を歓迎してくれた。
「お龍は、龍馬の龍だけど、今度は松に鶴がいいわ」
お龍は勝手に、ツルと言う名に改名し、龍馬を忘れて新しい出発を考えたのだ。
それに対して、お龍を、お龍さんと呼ぶ松兵衛が言った言葉はこうである。
「一生、お龍さんは龍馬で生き続けていいよ。おれはこのままの松兵衛だから」
松兵衛は結婚後も、お龍の体どころか手にも触れようとしない。それでいいのだと言う。
「あなたも行商やめて毎日、一緒に暮らせるといいね」
その一言で松兵衛は商売繁盛だった行商を休み、最近のし上がったという地元の香具師の親分に頼んで縁日に出ることになった。松兵衛はコマ回しなどが得意で、その妙技を見た親子などに人気が出て、コマが飛ぶよに売れた。べっ甲飴の仲間が急病で店に穴が空いた時、初めてなのに動物など見事な細工物で本職の五倍も売り上げるということがあった。
縁日の争い事は、親分に任された松兵衛が、いつも下手に出て神社の裏などで話をつけるのだが、虎のような獰猛な男が、戻って来ると小猫のように大人しくなって松兵衛の言いなりになる。だから争いもなくなる。
その松兵衛がある日、香具師の親分に頭を下げた。
「三平、済まなかったな。おれを斬りに来た刺客は全部おめえたちが返り討ちにしてくれたんで助かったよ」
「知ってたんですか? あっしもお頭のことを一つ知ってますよ」
「なんだ?」
「四年前、駿河台で恩赦で閉居を許された松平康英さまを馬車から引きづり下ろして脅した男がいたそうです。理由は知りませんが、脅された元老中の松平さまが泣き喚いて命乞いをして詫び、百円という大金を出したそうじゃないですか? その翌日に家督を婿養子に譲って隠居したそうですぜ。実は、その記事が瓦版に出た日に、うちのあばら屋に百円の投げ込みがありやしてね」
「知らねえな。で、どうした?」
「お頭が、龍馬の像でも建てるんじゃねえかと思って、貯めてありますよ」
「そいつは嬉しいね。おれとは関係ねえが、もしもお龍さんがいつか死んだら、龍馬の妻と彫り込んで立派な墓を建ててやってくれ」
「それまでは貯めてられませんや」
「違えねえ。だったら全部、仲間に分けてやったらどうだ」
「そうさせて頂きます。みんなが大喜びですぜ」

それから三十年余を経た大正三年正月の十五日、お龍は波乱の一生を閉じた。
その後、松兵衛が信楽寺に建立したお龍の墓碑には「贈正四位阪本龍馬之妻龍子墓」とある。
坂本家に許されず内縁のままだったお龍は、ここに晴れて龍馬の妻と記されたのだ。
翌、大正四年二月十七日、西村松兵衛死去、同じ信楽寺に葬られ、死して後も龍馬の妻を見守り続けている。
(注・お龍の墓石の阪の誤字は石工の彫り違いと伝えられている)