第一章

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第一章 歳三の夜明け前

1、 行商暮らし

嘉永六年(一八五三)六月のペリー艦隊の来航以来、十九歳の歳三は行く先々で嬉々として竹刀を振るっていた。二度の奉公の失敗で呉服屋の番頭にはなり損なったが、今は家業の薬売りと剣術修行に徹して毎日が充実している。道場備え付けの貸し竹刀では軽すぎて、木刀に馴染んだ歳三にはもの足りないが、行商に役立つことを思えば苦にもならない。
 頭上に打ち込んで来る相手の竹刀を軽くいなした歳三が、手を伸ばして突きで迎え撃った。
「参った!」
 青梅村界隈で一番の悪ガキと言われる馬具屋の久蔵が、歳三の突きを皮胴を巻いた腹に食らって、馬小屋を改築した吉野道場の羽目板まで飛んで崩れ落ちて呻いた。これで朝稽古に出た八人全員を倒したが、これは歳三が強いのではない、相手が弱すぎるのだ。
 腕組みをして眺めていた吉野道場師範代の柴田道之助が感心したように頷いた。歳三より三歳 年上の道之助は、幕府槍奉行支配下の八王子千人同心組頭補佐で、この道場の主である新町村名主・吉野文右衛門の縁戚にあたる。
 緑濃い山里の夏だから蝉の声はうるさいが、鬱蒼とした裏の竹林の枝葉が風に揺れる音が涼を 呼ぶのが救いだし、窓から戸口に抜ける風は汗まみれの肌に快い。ただ、馬小屋の中で汗臭い防 具を付けての稽古に慣れている吉野道場の門人は別として、屋外での稽古が好きな歳三には、土に沁みた馬糞の臭いが気になって爽やかな気分には成り切れない。
 だから、稽古を早く済まそうと、ここでの歳三は積極的に相手を攻めることになる。
 ここは青梅宿と箱根ケ崎宿の中間にある新町村という新興地で、江戸道と秩父道の交差する要 衝の地にあり、旅人の往来でかなり賑わっていた。ここ新町村では奇数日毎に近隣の農家が採り たての野菜を持ち寄って朝市が立つ。
 久蔵とその仲間は、朝市に集まった野菜や穀物を片っ端から安く買い叩いて大八車数台に乗せ、 曳手と押手一台に二人掛りで、数日おきに江戸府内まで運んで荒稼ぎをしていた。商売敵である 板橋・練馬・世田谷の百姓よりはるかに安い値で大量に卸すから、八百屋の常連客が待っていてたちまち売り切れる。歳三も誘われて一回だけ付き合って分け前に二朱という大金を貰ったが、足腰が痛んで翌日の薬の行商に差し支えが出た。それで二度目を断ってからは誘われなくなった。
 彼等は、片道十里の道のりを数日おきに往復するから足腰が強い。それでも、月に何度か行商 に訪れる歳三を相手にし、その一撃で打ち所が悪いと暫くは仕事にならないこともある。ならば、 立ち会いを望まなければいいのに、負けん気の強い多摩の若者だからいつでも本気で挑んで来る。
歳三としても、彼らに怪我をさせるのは嫌だから手加減するのだが、竹刀を振ったところに飛び 込んで来られては避けようがない。これは、相手が下手だから仕方がない。

 この吉野家には新村開拓の歴史がある。
 初代北条早雲以来、関東の盟主として君臨した北条一族の栄華も天正十八年(一五九〇)、天 下統一の野望に燃えた豊臣秀吉の北条攻めに敗れて盟主の座から落ちた。その敗戦で、忍(おし) 城の武将だった吉野家の祖は一族を引き連れて青梅郷に逃れて隠れ住み、荒れ果てた原野を開墾 して下師岡村(しもうじおかむら)とし名主となって土着した。
 徳川の世が落ち着き始めた慶長十五年(一六一〇)、この地に二代将軍徳川秀忠公が鷹狩りに来 たことがある。秀忠公は、眼下に広がる武蔵野台地から狭山丘陵(さやまきゅうりょう)に広がる 荒涼たる原野を眺め、江戸に近いこの地を、幕軍の食料や武器軍馬供給の兵站庫にすべく開拓を 思いついた。
 その意図に応えて新田開発の許可を得たのが下師岡村の名主・吉野織部之助だった。
 織部之助は代を息子に譲ってこの荒涼とした新開地に移り住み、私財を投げ打って森を開き、 近隣の有力者に協力を求め移住者の斡旋を頼んだが、開拓は遅々として進まなかった。
 一計を案じた織部之助は代官の許可を得て、近隣の村々の二男、三男たちに「土地は無償、三 年間年貢なし」としたところ、この条件に心を動かされてか入村希望者が殺到し、村の発展を見 込んで資金提供を申し出る名主なども現れて新村づくりは一気に進み、六年目にしてようやく今 の村の型が出来たという。
 織部之助は孫娘に婿を迎えて代を継ぎ、その後も吉野家は世襲で代々名主として村の発展につ くしてきた。街道の両側には武具屋、呉服屋、簡単な料理を出す一膳飯屋、茶と団子や餅などし か出さない立場茶屋、蕎麦屋、天麩羅屋、居酒屋、鰻屋、小間物屋、裁縫用品、囲碁・将棋具屋、 三味線道具屋、塗り物屋、煙管屋、人形屋、日用雑貨店などを誘致した上に寺院や代官の休憩所なども配し、広場では近郊の百姓が野菜や穀類を持ち寄っての朝市で賑わうほどの発展をみた。
 
 その大事業達成から二百五十年、吉野織部之助の開拓精神はそのまま引き継がれ,九代目名主 の吉野文右衛門が新町村を治めている今も、積極的な村づくりが進められていて、今でも代官の 江川太郎佐衛門からは絶大な信頼を得ている。
 名主の文右衛門宅は先年の貰い火で焼失して今は仮屋住まいだが、太っ腹な文右衛門は、火事 も天災のうちと泰然として、燃え残った馬小屋を改築して剣道場にして村人を集めて剣術の稽古 に励んでいた。完成が来春になるという新宅の母屋は、文右衛門の妻カクの実家である三ケ島村 名主の建物の一つを譲り受けて解体し、作男や村人が大八車総出で運び続けて二年、それを組み たてているのだが、なにしろ格調高い入母屋型屋根の大きな屋敷だけに、上棟から三年掛かりと
いう大工事になっていて、完成にはあと二年は掛かると大工の棟梁に言われている。
 それにしても何故に多摩の名主を中心に農民の剣法が盛んなのか? これは、歳三も他州の行 く先々で聞かれる疑問だが、それなりの理由はある。
 幕府では天明三年(一七八三年)の大飢饉以降、全国に広がった農民一揆鎮圧対策の一環とし て、享和二年(一八〇二)に農民の武芸稽古禁止令を出して農民の反乱を未然に防いでいた。こ の事案は当然、関東取締出役(とりしまりしゅつやく)を通じて多摩にも沙汰が出ている。
 しかし、幕府直轄の代官伊豆韮山の江川家支配の天領で、正規の武士や奉行所の役人がいない 多摩では、家も村も自分達で守らねばならず、必然的に自衛のための武術を身につけなければな らなかった。
 なにしろ、多摩で唯一武士と呼ばれて肩で風を切る八王子千人同心さえ半農半士の郷士身分で 生活も苦しく、なまじの百姓より貧しいから、生活に窮して千人同心株を売る者まで続発してい た。これでは、他村の治安に手を貸すほどの余裕はない。だから農民が剣術を習うことになる。

 石田村の豪農で屋号が「お大尽」と呼ばれる家を継いだ歳三の兄の喜六が、呉服屋の番頭にもなれなかった歳三の行く末を心配して、売りに出ていた千人同心の株を買ってくれると言ったが歳三はそれを断った。正規の武士ともいえない足軽並みの千人同心で満足する気がなかったからだ。
「歳さん、一手いくか!」
 杉の大木を輪切りにした台座に坐って、門人が次々に歳三に倒されるのを黙って見ていた代稽 古の柴田道之助が、腕組みを解いて立ち上がった。
「お願いします」
 歳三は、防具の紐を締め直して竹刀を構えた。
 柴田道之助は、門弟千人を超す武蔵国高麗郡梅原村の甲源一刀流・比留間与八の道場に通って の目録だから剣術の腕はかなりのもので、さすがに形はいい。だが、各地の道場を巡って百戦錬 磨の歳三からみると剣筋が正直過ぎて、受ける側としては勝ちを譲るのに苦労する。
 歳三は、軽く礼をすると「イザッ!」と喚いて竹刀を振るい、二、三合したところで隙を見せ、 小手を打たせて飛び退った。
「参りました」
 頭を下げた歳三は、さっさと腰をかがめて片膝をつき、蒸し暑く汗臭いい顔隠しの面を外しか けたが、「もう一本!」との道之助の誘いに素直に応じて立ち上り、「いざっ!」と竹刀を構え た。

2、柴田道之助

柴田道之助は吹上村の豪農の三男で、剣術の才を認めた父親が千人同心の株を買ってくれたことで身分は低いが士分になっていた。吉野家とも縁続きの道之助の遠祖が、歳三の先祖が束ねていた三沢十騎衆に属して豊臣軍と戦って戦死したというから、歳三とも縁がない仲ではない。
 その道之助は、吉野家の婿になって名主を継がないかという文右衛門の話を断っている。一般 の百姓からみれば勿体ない話だ。だが、道之助には歳三との約束がある。
 いざ戦場となれば、雇われ足軽としてでも参戦するつもりの歳三と共に戦場を駆け巡り、どち らが先に大将首を討ち取るかを争い、その勝ち負けで主従になる約束をしている。いわば、出世競争が、二人の共通の目標になっていた。
 それにしても、一村の名主より戦場で大将首を狙おうとする道之助の心意気もまた多摩の男ら しくていさぎよい。この三歳違いの柴田道之助とは、お互いに通じるものを感じていた。 二人 は月に一度は、ここで会って互いにあちこちで得た世情についての情報を交換する。
 各地に石田散薬を売り歩く歳三は、あちこちで見聞きして来た各地の治安状況や武力強化の情 報を道之助に流し、道之助は吉野文右門経由で多摩駐在の江川代官手代にその情報を流す。その 見返りに歳三には、文右衛門の紹介状付きで新たな「石田散薬」の売り込み先として他村の名主の新設道場などを紹介してくれる。こうして、歳三と道之助は持ちつ持たれつの関係でお互いの機密を共有していた。
 江川家手代の何人かは歳三も面識がある。少年時代には、担庵のお供で多摩の地を訪れた斎藤 弥九郎、柏木総蔵、長沢与四郎などと知り合い、いま親しいのは根本慎蔵、顔見知りの若手では 上村井善平、大山菊五郎、井上源助、石川政之進などがいる。その誰もが文武両道に優れていて 多士済々、江川家の人材の豊富さが支配地の人々を安堵させていた。ただ、吉野文右衛門と親し い代官手代が誰であるかは聞かされていない。歳三は、自分の情報を信頼する手代との出会いを
楽しみにしていた。

 歳三は、柴田道之助の紹介で、山深い秩父郡小鹿野村の甲源一刀流宗家の逸見長英の道場にも 家伝の「石田散薬」の納入で出入りしていた。何度目かの納入で宗家とも親しくなった頃、「一 手、ご指導を!」と、宗家に稽古を望んだことがある。
 宗家も顔を見知った歳三の申し出を快く受けてくれて、まず最初に板橋某という師範代に試技 の手合わせをさせてくれた。あの時の板橋某の剣技と、この柴田道之助はほぼ互角に思えた。
 歳三は何とか板橋某には勝ったが、今思えば師範代の板橋某がわざと歳三に勝ちを譲って、宗 家の竹刀を受けさせてくれたようにも思えてくる。
 ともあれ、甲源一刀流第五世・逸見長英が、自ら道場に降りてきて直接手ほどきをしてくれた 時は感激した。さすがに宗家だけあって、その変幻自在な太刀さばきは並ではなかった。歳三は 自由自在に翻弄されながらも冷静に甲源一刀流の必殺技のいくつかを盗んで来ている。それだけ に、道之助の太刀筋がよく読める。その道之助の右足が音もなく擦り足で動いた。
「とうっ!」
 道之助が竹刀を振りかぶって襲って来た、歳三が素早く頭上で竹刀を打ち払い身をかわして胴 を打ちに行く。わざとがら空きにした歳三の頭上に道之助の容赦ない面打ちが入って一瞬視界が 白くなり、きな臭い痛みが頭から鼻にまで通じて面白くない。それでも歳三はいかにも恐れ入っ たという表情で身を引き「参りました!」と低頭する。胴を打たせればよかったと後悔したがも う遅い。
 歳三に負けて痛い思いをしている農家の次男や三男の弟子たちは、「さすがに柴田先生は強い」
と拍手喝采だから道之助の顔は立つ。
 いつもと同じ光景だが、誰も妙に思わないのは歳三の気遣いと演技が巧みだからだ。
 普段はここから全員で乱れ打ちをして稽古を終えるのだが、門人の殆どが十九歳の歳三に打ち のめされて痛みに耐えかねて竹刀を持つことも防具を身につけることも出来ない。それを眺めた 道之助が仕方なく言った。
「稽古はここまで。さあ、朝飯だぞ」
 その声で、今まで腹や腰を押さえ呻いていた久蔵までもが勢いよく立ち上がり、母屋の台所に 競って急いだ。ここでは、朝稽古が終わると、名主で道場主の吉野文右衛門によって朝粥が振舞 われるのを常とした。干物と漬物と麦入り芋粥だけの粗末な朝餉だが、剣術で疲れた若者たちは 言葉もなく夢中で食べている。空腹は歳三も同じだったから遠慮なくお代りをして充分に食べた。
 食事を終えた若者達は忘れていた竹刀傷の痛みに呻き、吉野家の女中が運ぶ酒一合で常備薬の 「石田散薬」を服用するのだが、この振る舞い酒欲しさに道場に通う者もいるらしい。
「石田散薬」は打ち身、捻挫、骨折、筋肉の損傷回復卓効がある。この「石田散薬」を半合の酒 で服用すれば、どんなに激しい痛みでもたちまち和らぐから人気がいい。同時に義兄の佐藤彦五 郎家製の肺の病に効き精がつく「虚労散」という家伝薬も置いてゆくと次回までには消費されて いる。
 帰り際に名主の文右衛門が酒の壷を一つ歳三に手渡し、小声で囁いた。
「いつも道之助に花を持たせてくれて済まんな。家に帰って飲んでおくれ」
 文右衛門もさすがに剣術好きだけに、この程度のことは見抜いていた。
 歳三が、空になった朱塗りの薬箱に酒壷と割れ防止の草を詰め、箱の上に剣術道具を括ってい ると少し酔った久蔵が絡む。
「歳さん。その薬箱の上の竹刀袋、何本入れてるんだい?」
「木刀一本だけだよ」
「その木刀とやらを見せてもらえねえかね?」
「いや、これは・・・ただの木刀だから」
「ただの木刀でもいいから見せてくれ」
 仕方なく歳三が袋から木刀を取り出すと、その太さに驚いて久蔵が絶句する。
「なんだこれは丸太じゃねえか?」
 久蔵の声を聞いて、文右衛門が近寄り興味深げな顔で覗き込んだ。
「歳さん、おまえさんがこれを?」
「とんでもない。ただ持って歩いてるだけですよ」
「ちょっと貸しとくれ」
 文右衛門が木刀を手にして呻いた。
「重い! 四尺(約一メートル二十一センチ)はあるし瑕だらけだ、随分と使い込んでるな?」
「いや、貰った時のままです」
「ひょっとすると、歳さんは天然理心流かね?」
「いや、義理の兄貴から貰っただけですから何も知らんです」
「義理の兄って、日野の彦五郎さんのことだな?」
「ご存じで?」
「名主仲間だし、彦五郎さんとはそれ以上の結び付きだよ」
 文右衛門が 両手で上段から五回ほど素振りをしただけで大きく息を吐き、木刀を返した。
「この太さと重さは何だ? 真剣より重いな」
「どれ?」
 道之助も手を出して柄を握り、首を傾げて歳三にすぐ返した。
「柄だけで一尺二寸はある。こんな木刀、実際に使いこなすのは無理だろう?」
「無理ですよ」
「じゃあ、なんで持ち歩いてるんだ?」
「ただの魔除けでね」
 歳三は再び山丸印の入った朱塗りの葛篭(つずら)の上に剣道具一式を括りつけて背負い、一 同に別れをつげて帰途に就いた。荷の中の酒つぼが揺れてドボドボと音がした。

3、 姉ノブの嫁入り先

歳三は、歩きながら考え事をするのが好きだった。何か考えていると足が軽くなり時も忘れる。
 ここのところ歳三は、積極的に行商先を多摩から甲州、武州、上州へと広げていた。
 商売の広がりと剣の修行が目的だから、いくら歩いても苦にならない。日が暮れれば旅籠だけでなく木賃宿、神社の軒下、大木の根元、どこでも眠れるから気が楽で、長旅も好きだった。
 なにしろ、歳三が行く先々の剣術道場全てが「見込み客」で、歳三自身が立ち会って怪我人を増やせば、それだけ家業の「石田散薬」、義兄佐藤家の「虚労散」が売れることになり兄の喜六・ナカ夫婦、義兄の彦五郎・ノブ(実姉)夫婦も喜び、売上に応じて分け前を貰うから歳三の貯蓄分も潤い、気分もいい。それも歳三の剣を強くした一因に違いない。 歳三が各地を巡るのは剣の修行と薬の拡販が両立し、しかも学ぶことが多くて一石三鳥だからだ。
 歳三は呉服屋も好きだったが、この仕事の方が性に合っているのを感じていた。
 ただ、商売用の台帳には剣術道場の名は書かない。兄夫婦に、剣術ばかりにのめり込んでいると思われるのが何となく気が引けるからだ。兄夫婦の喜六もナカもおおらかで、歳三の行動をいちいち詮索することなど全くない。ただ、歳三の行く末を心配してくれているのは確かだった。

 文右衛門に貰った酒は、日野に立ち寄って姉のノブに「虚労散」の回収金に加えて、義兄彦五郎の晩酌にと手土産にし、空いた通い函に「虚労散」を詰め込んで石田村に帰る。こうして歳三は、各地の町村にある雑貨屋で石田散薬を委託販売している形にして辻褄を合わせている。
 今、振り返ってみると自分は父の顔も知らず、母をはじめ家族の不幸を何度か見てきたが、身内や友人に恵まれて救われている。歳三は子供の頃から、過去を省みることから今後の道を探る習慣がついていた。何度か同じ失敗を繰り返しているからだ。
 思い出には嬉しさより、ほろ苦いことの方が多いような気がする。

 歳三は天保六年(一八三五)五月五日、多摩郡石田村の豪農土方家の末っ子として生まれた。

父の義諄(よしあつ)は、歳三が母親エツの体内にいる時に四十二歳で病死したため、親子の対面もないから顔も知らない。知人や家族の話から温厚な人柄で、村人だけでなく近隣の村々の全ての人から好かれていたのがよく分かる。それだけに、その早すぎた死が惜しまれてならない、と村の人は誰もが言う。
 母のエツも病弱で、歳三がようやく甘えを知った五歳のときに病死した。振り返ってみると、 苦労ばかりで幸薄い母の一生だった。歳三は辛過ぎて泣く気にもなれなかった。父母の間に生まれた子は十人、兄二人に姉三人が亡くなっていると聞き、歳三はいつも仏壇に手を合わせ冥福を祈っている記憶だけがある。身内の死は悲しいことだが慣れ過ぎるのも辛い。
 残された兄姉は自分を入れて五人、家族は悲しみを乗りこえて気丈に生きていた。
 長男の為二郎は歳三より二十三歳年上で、生まれつき全盲だったため家督を次男の喜六に譲り、 悠々と琵琶を奏でたり俳句を愛でたり歌を詠んだりと自分なりの道を探し当てて暮らしている。
 四姉のノブは歳三より四歳上だが、弘化二年(一八四六)に十四歳で日野の寄場名主・佐藤彦五郎に嫁いでいる。嫁ぐ前はトクという名だったが、嫁いでからノブと名を変えている。
 彦五郎の母は歳三の父の妹で、ノブと歳三には叔母方にあたるから、彦五郎とはノブも歳三もいとこ同士で何の遠慮もない。歳三からみれば八歳上の彦五郎は実の兄のような存在でもあった。
 彦五郎は、代官・江川坦庵の命によって天保八年(一八三七)に、当時十四歳だった隣家の佐藤芳三郎と同時に、十二歳で父親との世代交代を実現している。
 下佐藤と呼ばれる彦五郎は、二千五百石といわれる広大な日野郷四十四町村の寄場名主を、隣家の上佐藤の芳三郎と協力して月の半分づつ交代で勤めた。これは、若い二人にとって大変な難業であっに違いない。それを見越したこの人事は、出自の違いもあって祖先が抗争を繰り返してきた両佐藤家の、宿場の中心を焼く大火での惨事や怨念をも水に流し、若い二人が力を携えて多摩の発展に尽くすようにと考えた代官・江川坦庵の深い配慮のある妙案だった。こうして、過去
に問題のあった日野宿名主の両佐藤家が協力し合うようになって、日野郷だけでなく多摩を含む 武州一円の治安と団結力にも好影響をもたらしていた。
 その彦五郎も今は二十七歳、火事のどさくさに知人に祖母を惨殺されたときの自分の無力さを恥じて道場を自邸に開き、天然理心流師範・近藤周助を出稽古に招いて自ら剣技を学び、村人達にも剣を学ばせ、時折立ち寄る歳三にも天然理心流を学ぶように薦めた。これには子供時代から勝ち気の歳三も困った。まさか義兄を打ち負かすことなど出来っこないからだ。
「薬売りに剣術はいらん」
 歳三は素っ気なく言い、渋々防具をつけて彦五郎の相手をするが殆ど打たれるままだった。
 そんな歳三を宗家の近藤周助が一目見て、只ならぬ気配を感じたらしく、愛用の木刀を歳三に与えて「気が向いたらな」と言った。
 それから、暫くして歳三は周助の教えを受けた。木刀を貰った手前があるからだ。
「切紙までは、初歩の基本技から学ぶように」
 周助は歳三に型から教えた。
 しかし、始めのうちこそ基本の五つの型に打ち込んだ歳三だが、同じことの繰り返しに飽きてか、木刀だけは有り難く頂いて、近藤周助が出稽古の日は佐藤家に顔を出さなくなった。
 彦五郎の知らないところで充分に剣術修行をしている歳三としては、初心者に混じって木刀の素振りだけをやらされるのは面白くない。彦五郎から勧められた入門も、何とか逃げ回って先延ばししている。歳三にとって、修行年月や師範の心証で決まる剣術の免状などは紙切れでしかない。
 江戸の町道場が安易に目録を出すのは、入門者が仕官を有利にするために必要で金を積むからだと聞いたことがある。歳三は、そんな出世目的の剣術より、実戦で真剣で斬り合った時に勝ち抜ける剣術を身につけることが目的だから免許目録などは不要だった。
 それにしても歳三の前途はまだ何も見えていない。
 五兄の大作は、つい最近、北多摩郡下染谷村の医家に養子に出て、糟谷良循などと名乗って立派な医者になると言っている。家を継いだ次兄の喜六は歳三より十六歳上のしっかり者で、世襲名の隼人を継ぎ、土方隼人義巌(はやとよしかね)という立派な名があるが、誰もが幼名の喜六と呼んで慕うから、歳三もこのまま「喜六兄」と呼び続けることにしている。
 歳三の家は代々名主を勤め、二代前に名主を親族の土方分家に譲ったのだが、その名主家の土方伊三郎の娘ナカを喜六が嫁に迎えることになった。派手な祝いの席で、歳三は即興の剣舞などをして列席者を喜ばせたが、心の中では複雑な思いをしていた。喜六は自分より十歳若い愛らしい娘を嫁にして心弾む日々を迎えたのだが、ナカにとっては自分と六歳しか違わない大きな図体の義弟がいて、近隣に鳴り響くガキ大将だったから始末に終えない思いだったに違いない。
 それでも歳三にとって兄嫁のナカは、姉のノブが嫁に出ていなくなった寂しさを埋めてくれる唯一の存在だった。だが、その歳月は長くはなかった。若い兄嫁が身ごもり、歳三の面倒まで手がまわらなくなったからだ。やがて、愛らしい男の子が産れて、連日のように祝い客が訪れるのを歳三も喜び、庭の案内をしたり履き物の整理をしたりと気配りをして家の仕事を手伝った。
 作助と名付けられた赤子はすくすくと育ち、一年もたたないうちによちよち歩きをして家族を喜ばせ、歳三はすっかり作助の遊び相手として重宝な存在にはなっていたが毎日が退屈だった。
 そんな気配を感じてか、兄の喜六がある日「奉公に出てみるか?」と、歳三に言った。
 これを断る理由は何もない。ただ、歳三は頭の中で武士の道が遠のくのを子供心ながら残念に感じたのは覚えている。

4、丁稚奉公

四谷大木戸の伊勢屋源左衛門という親類の紹介で、江戸上野の「いとう松坂屋呉服店」に丁稚奉公に出されたのは歳三が十一歳、弘化三年の春だった。長男が家を継ぐ農家の次男以下が他家に奉公に行くのは当然のことだから、自分が置かれている状況を痛いほど感じている歳三にとって、異存など言える立場ではない。むしろ、新天地を開くという意味では歓迎すべきで、兄嫁のナカが家事と子供の世話でいっぱいになったこともあり、歳三が自立するにはいい機会だった。
「いとう呉服店」は、織田信長に仕えた小姓の伊藤蘭丸が創設したともいわれるが、歳三が勤めてから聞いたところによると、安土桃山時代に清洲で開業した伊藤惣十郎という尾張の商人が、織田信長の朱印状を得て、尾張から美濃地方における唐人相手の商売などを任され、呉服の貿易や税銭の徴収などの手数料で大儲けして豪商になった。その後、豊臣、徳川の代になっても印判状を与えられて事業を拡大して尾張に移り、さらに江戸上野の松坂屋を買収して「いとう松坂屋
呉服店」と改称していたと聞く。
 そこで修行して番頭にでも出世すれば、「将来は八王子あたりで店を出せるようにしてやる」 と、兄の喜六が励ましてくれ、不安でいっぱいの歳三の背を押して旅立たせてくれた。歳三は、 長期に家を離れて暮らすのはこれが初めてだった。
 弘化二年(一八四五)の春、迎えに来た遠縁の伊勢屋源左衛門に連れられて歳三は家を出た。
 早朝一番でまだ夜明け前で一番鳥が鳴き始めたところで家中の見送りを受けて手を振って別れ、 未知の世界に飛び出した歳三だが、歩き始めると腹は決まった。
 石田村から甲州路の並木道を歩いて四谷大木戸までは約八里(三十二キロ)、早朝立ちでも途 中で一泊して江戸府内に入るのが通例だった。
「子供の足では一日では無理だから、どこかで一泊するか?」
「大丈夫だよ」
 源左衛門の労わりを振り切って、歳三は弱音も吐かずによく歩いた。途中、何度か茶店で休ん でダンゴを食べたり、一膳飯屋で食事をしたりしたが、府内に入ったのは意外に早く、夕陽がま だ西の森影に沈む前だった。夕暮れの江戸府内は見るもの全てが新鮮で、日野ではまだ蕾だった 桜が内藤新宿を越えるとどこの桜も満開だった。元気な歳三は足早に歩き、日暮れ前に四谷大木戸の伊勢屋源左衛門宅に着いた。
 わらじを脱いだ源左衛門は玄関先で倒れこんだが、歳三は「お世話になります」と法事などで 何度も会っている家族に挨拶し、「歳三は元気だね」と褒められると笑顔を見せ、その余裕がま た家人を驚かせている。

 翌朝、全山桜に包まれた上野の山を眺めながら、格式ある大きな構えの「いとう松坂屋呉服店」
に着き、源左衛門に続いて歳三も暖簾を分けて入った。
 たかが一人の丁稚奉公を迎えるのに、江戸支店を任されている店主代理の伊藤吉右衛門をはじ め番頭なども総出で迎えて「ゆく末は番頭ですからな」と、期待の大きさを感じさせるような世 辞を言われ、歳三も悪い気はしなかった。だが、丁稚奉公での小僧の毎日は多用で辛かった。
 掃除洗濯、買い物、野菜洗い、大八車での荷物運びなどの雑用の他に、呉服屋の修行と称して 雑巾縫いや先輩の寝巻き縫いまでやらされて食事もそこそこ、早朝から深夜まで寝る時間もない ほど古参の先輩丁稚や文蔵という番頭にまでこき使われた。それでも歳三は音を上げなかった。
そんな歳三を丁稚仲間は頼りにして、年上の丁稚まで「歳さん」と呼んで一目おいてくれる存在 になっていた。
 そんな歳三に興味と同情を持った女中たちが、丁稚には滅多に口に出来ない和菓子やカステラ などを陰に隠れて分け与えてくれるのまではいいが、呼吸が止まるほど強く抱きしめて口づけを されたりするのには閉口した。それでも、幼児期から女には好かれて暮らしていて、いつも同じ ような目にあっている歳三は、さほど気にもしかなかった。
 店の方針では、丁稚も反物の畳み方や着物の縫製を女中達から習うことになり、それまでは会 話さえ禁じられていたのが公然と教える側と教わる側で接触することになったから大変、どの女 中も歳三に教えたがったから、歳三だけが手取り足とり教わることになり、すぐに裁縫の技を身 につけた。
 歳三は少年時代から器用だったから、たちまち自分の着衣のほころびも補修出来るようになり、 女中から貰った布で浴衣を作って着て見せたから店の誰もが驚いた。
 呉服屋の仕事は楽しかった。だが、歳三の呉服屋奉公は長くは続かなかった。

 秋風が肌に冷たく感じられる落葉の季節に事件は起こった。
 歳三と女中たちの仲を不快に思った番頭の文蔵が、嫌がらせか嫉妬でか何の理由もなく「飯を 半分にするぞ」と、丁稚頭に命じて歳三の食事を半分に減らした。仕事を増やされるまでは我慢 ができたが、育ち盛りの歳三に食事の半減は地獄の責め苦より辛かった。見かねた女中たちが、 せっせと歳三に差し入れをし、それを知った文蔵は仕事量を倍増させた上に食事をさらに減らしたから歳三の我慢にも限界がきた。ある夕のこと、台所の上がりかまちから土間に下りようとし
た文蔵が、横柄に「草履の添え方が悪いぞ」と歳三を叱った。その途端に歳三の堪忍袋の緒が切 れた。いきなり草履を手にして、文蔵の横っ面を思いっきり殴りつけ、飛び掛って肩車で土間に 投げ飛ばしたのだ。
 文蔵は腰を痛めたのか起き上がれずに呻いている。
 奥から出て来て呆然と立ち尽くす伊藤吉右衛門に、「こんな店、辞めてやる!」と啖呵を切り、 歳三に好意的な吉右衛門の説得を振り切ってそのまま裸足で店を飛び出した。歳三は大木戸も巧 みに抜けて府内を抜け出し、上弦の月灯りを頼りに甲州街道を歩き続け、ようやく夜明けに家に 辿り着き、驚いて出迎えた兄の喜六に、「腹が減った」とだけ言って倒れ込んだのも懐かしい思い出だった。
 兄の喜六も、出産して作助と名づけた赤子を抱いた兄嫁のナカも、そんな歳三を怒りもせず「 辛かったか?」と慰めてくれ、空腹を察してすぐ茶漬けを出してくれた。
 歳三が、店を辞めて来た事情を聞かれ「番頭を殴ってしまった」と話すと、兄嫁のナカが喜六 に図って、歳三には内緒で、急ぎ飛脚を使って「いとう松坂屋」には詫び状を添えて過分な金子 を届けてくれていた。
 後日、それを知った歳三は、胸が熱くなる思いで兄夫婦に頭を下げたのを今でも忘れない。
 歳三、十一歳の苦い思い出だった。

5、 本田覚庵

 

歳三が丁稚奉公に失敗した翌年の弘化三年(一八四六)六月末、多摩地方を襲った豪雨が増水 し土手際の土方家を濁流に納屋を流され、母屋までも流れに呑まれそうになった。それを見かねた村人総出の作業によって家屋を分解し、川辺から離れた地に移築してことなきを得たが、この時、わずか十二歳の歳三の積極的な指揮と行動は、喜六が驚くほど的確で無駄がなかった。歳三としては短期間ではあったが丁稚奉公で厳しく仕込まれた仕事に対する真剣さで対処しただけで、
何ら特別なことをしたという思いはない。
 移築された家での生活がどうやら落ち着いたときに、喜六が言った。
「歳には、とんでもない才能があるかも知れん。大作と一緒に学問でもやってみるか?」
 学問となると土方家は適任者には困らない。
 歳三は兄大作と共に、親戚の漢方医・本田覚庵に弟子入りして書道の手習いを始めた。
 書道も俳諧も先祖代々からの土方家の家風の一つで、歳三の生まれる以前、まだ存命だった父・ 義諄も、村人の子弟を集めて手習いの教室も開いていた。
 歳三が生まれる以前のことだが、玉川上水道掛かりの江戸幕府勘定方だった大田直次郎という 役人は、仕事で多摩に来る度に土方家に寄って宿泊するのを常としていた。父と直次郎は飲食を 共にし、一緒に狂歌を作ったり四方山話を楽しんだりして時を過ごしたという。
 大田直次郎は、土方家の座敷の床の間にあった浮世絵や水彩画の中から、狂歌でも著名な清水 頑翁と名乗っていた書家の源師道の筆による画を見つけて激賞し、さらに客間の襖絵が著名な東 牛斎こと吉田蘭香によるものだったことに驚き、「どれもこれも価値がある物ばかりだな」と父・ 土方義諄の名画蒐集の眼力に感心し、「わしのも値が出るぞ」と冗談めいて扇子に狂歌と絵を描いたという。
 それから二十年余の歳月を経た先年、それを見て「是非、売ってくれ」と知人が申し出た額が 目の玉が飛び出るほどだったので、それほど執心ならと気の毒に思った兄の喜六は「喜んで進呈 した」と客に語っているのを歳三は聞いたことがある。
 喜六は、父が集めて家の中や蔵に積んだ書画骨董や武具などを大切にしたが、親しい間柄の者 が欲しいと言えば、「大切にな」と口にはするが決して「惜しい」とは言わない。
「どんな品でも蔵の中で埋もれるよりは、喜んでくれる人の手許がいい。それで利を得るのを望 まないのは、農作物と石田散薬から得た収益で地道に暮したいからだ」
 喜六は周囲が驚くほど無欲だった。
 その狂歌を残した太田直次郎という役人が、巷で知られる蜀山人という粋人であることを歳三 が知ったのは、書道の師でもある本田覚庵から聞いたからだ。覚庵は、歳三の父の妹キンの養子 だから歳三とは義理の従兄弟の間柄になる。
 本田覚庵も大の蜀山人贔屓で、その作風以上に人柄に惚れ込んでいた。
「わしも子供の頃、石田村の土方家で、その蜀山人さんに何回か会ったことがある」
 幼い頃の覚庵の印象では、大田直次郎は酒好きの初老の下級役人で、狂歌や風刺画で一世を風 靡した蜀山人と同一人物だとは誰も気づかなかったという。
 歳三と大作の書の師・本田覚庵は、多摩川の川向こうの下谷保村の名主だった。覚庵は、江戸 三筆で知られる米庵(べいあん)の開いた米庵流(べいあんりゅう)の書を教えていたが、先祖 は将軍の馬を診る獣医だったが今は結構知られた漢方医でもあった。
 歳三より一回り以上年長の覚庵は、蘭学もやり歌も詠み、世事にも西洋事情にも詳しい博識の 士だった。歳三は兄の大作と共に覚庵に弟子入りしてから隔日で通うことになり、本田家では覚 庵の従兄弟にあたる二人の子供の来訪を大いに歓待し、月謝をとらない上にお菓子やお小遣いま でくれた。こうして覚庵は日頃からお互いに気兼ねがない歳三ら兄弟を可愛がってくれた。
 歳三は、ここでみっちりと漢詩や書を学んだ。この覚庵の家にはいつも各地から訪れる友人知 人が寝泊りしていて、なかには知られた人もいた。医者仲間などもよく泊っていた。
 佐藤泰然という覚庵の友人は、歳三と大作に西洋の文化などを教えてくれた。西洋では蝋燭の 代わりに鯨の油を使うこともここで知った。しかも、西洋にはエレキという動力が出始めており、 それが鯨の油の代用だけでなく、あらゆる分野で使われていることも知った。
 その佐藤泰然とも親しい代官の江川坦庵も、世情調査の忍び旅で多摩に来ると、本陣や代官陣 屋を避けて、手代で護衛役の斉藤弥九郎と共に時折覚庵宅に寝泊まりしていた。そんな時はよく、 歳三ら兄弟と一緒に書を学ぶこともあった。五十近い斎藤弥九郎より幼い歳三のほうが書の筋が いいと言って坦庵が笑った。
 家族と来客全員での食事のときに覚庵が、「この歳三は剣術が大好きでしてな」、と言うと斎 藤弥九郎が歳三の頭を撫でて真顔で言った。
「将来、剣術をやるなら江戸に出て九段の練兵館に来なさい。倅の新太郎に任せているが、いつ でも道場に泊れるように伝えておくからな」
 歳三が頷くと坦庵が口を添えた。
「これでもな、このオヤジは江戸で三指に入る剣術の名人なんじゃよ」
 疑わしそうな目で歳三が弥九郎を見ると、覚庵が笑いながら言った。
「いつか、江戸に行って息子の新太郎と立ち会ってみるといい。勝てば土方一族の名誉だからな」
 歳三は、九段の練兵館と斉藤新太郎の名を頭に刻み込んだ。

 覚庵の家に通うと、さまざまな人に出会えて楽しく、知識も豊富になってゆく。
 ただ、少々通うのに難があった。多摩川の洪水で川筋が変わり、かつては土方家から近かった 石田の渡船場が日野の万願寺の渡しに移ったことで、すぐ目の前の対岸に渡るのに一里ほどは歩 かねばならない。それでも、村人の生活の知恵で、水の少ない時は川面に覗いた岩から岩に板切 れを並べてその上を渡った。だが、雨で増水すると板が流され渡るに渡れなくなる。そんな時、 幼い歳三は迷わずに水が苦手の兄の手を引いて上流に行き、そこから斜めに急流を横切った。
 水中に身を入れた二人は多少流されはするが、歳三が兄の手を離さずに足で石を探って早瀬を 巧みに渡渉して行く。それを担庵らが感心して見送り、対岸の河原に上がった歳三が振り向いて 手を振ると、手を叩いて褒めるのを常としていた。

6、ミゾソバ(溝蕎麦)刈り

歳三には別の修行の場もあった。
 十三歳から毎年続いた歳三の夏の行事は、家業の「石田散薬」作りだった。
 毎年、土用の丑の日の夜明け、空がまだ薄暗いうちから鎌を手にした村人が浅川の新井橋下流 の左岸に三々五々集まって来て歳三の下知を待つ。日除け笠を被った娘達も競って集まるから年によっては総勢で四十人を超すこともある。歳三は、いつか武士になったら大勢の軍勢を自分の采配一つで動かしてみたいと子供心に思っていた。
 歳三は、丑の日の数日前から土手を歩いて川辺を眺め、一輪でも元が白で先が薄紅色のミゾソ バの花を見ると、刈り入れ時期に最善の日を考える。薬の原料は花ではなく、牛額草(ぎゅうか くそう)ともいう牛の角に似た緑濃い葉の部分で、花が咲く寸前の葉を茎ごと刈って後で葉を摘む。花が咲いてからだと葉が堅くて処理に難が出て薬効も薄くなるからだ。
 歳三は、そのミゾソバの密集度や一尺から三尺近くまで伸びる丈の長さを確かめて、刈り取りの人員配置を考えるから毎年、一人頭の刈り採り場所の広さを決めて村人を配置する。歳三には子供の頃から天性のカンであるらしく、土手に繁殖するミゾソバの群落を一望しただけで、朝から正午までに一人が刈り取れる広さが読めるのだ。この神がかり的な歳三の才能には、兄の喜六だけでなく土方一族の誰もが敵わない。
 石田村は全戸で十四、その全てが石田姓だから屋号で呼ぶことになる。集まって来る村の男女もそれぞれ親しい小作や二男や三男や娘達だから、屋号が「お大尽」と呼ばれる元名主の土方本家の歳三としては何の気兼ねもない。歳三の仕事は、集まった村人に次々と場所を決めて配置してゆくことから始まる。
「鍋屋の亀さんは椎の木からそこの梅まで、大北の長吉さんはその梅からあの栗の木まで、大背戸のお芳さんは栗からあそこの山桜まで・・・茎にトゲがあるから刈りっぱなしでいいからね」
 全員が歳三が指示した土手下のミゾソバを刈り終えて、男衆がそれを縄で縛って土手に運び大八車に積む。全員の収穫分をまとめた運び終えた頃に丁度正午になる。一日だけで大八車で二回ほど運ぶのだが、これを粉薬にまですると驚くほどの少量になってしまう。
 ミソソバを「お大尽屋敷」に運び終わると、村中総出の真夏の宴が待っている。
 土手の緑いっぱいの桜並木の下には夏陽を避けて茣蓙が敷かれ、すでに土方本家だけでなくそれぞれの家からの差し入れで酒食が山のように積まれ、緑濃い桜並木の木陰下に敷いたに茣蓙の上で、村人総出での飲めや歌えやの大宴会が開かれ、刈り子に出た村人には日当も出る。

 石田村にとってこのミゾソバ刈りは盆や正月、花見と同じく大切な年中行事なのだ。
 ミゾソバは、牛の角と額に似ていることから牛額草(ぎゅうかくそう)などとも呼ばれるが、 溝の傍で咲く蕎麦に似た草だから溝蕎麦と書いてミゾソバと呼ぶのが普通だった。
 牛に似た葉だから丑の日に刈るという者もいたが、これは正しくない。年によって季節に多少の寒暖の差はあるにしても、この浅川辺りのミソソバは殆ど変ることなく夏になれば繁茂して群生する。もしも、そのわずかな生育の差で刈り取りの日を変えると、例年の土手草の観察にも気遣いが必要となり村人の動員も思うようにならなくなる。花の咲く寸前のミソソバが最良なのは確かだった。
 ミソソバの出来不出来より、丁度茎の丈が二尺近くなる真夏日に期日を決めた刈り入れにこそ自然の理に叶った利がある、と歳三は気づき、夏の土用の丑の日を刈り採り日と決めた先人の知恵に頭が下がる思いがした。これだと収穫日に迷いが出ないからいい。
 このミゾソバが「石田散薬」という骨接ぎ、打身の妙薬になる石田家伝来の妙薬であることを知っている村人は、必ずといっていいほど「せめて、自分の家で使うだけでも」と、一度は見よう見真似で薬作りに励んでみるが、誰一人として成功した者はいない。
 家伝の秘薬には当然、それなりの家族にも知らせない家長伝承の秘密がある。
 この地に住み着いて約百年を経た土方一族は、田畑を耕して穀類や野菜を得た上に、多摩丘陵での獣狩りや弓矢での鳥打ちで山の幸、秋には川面を波立たせて遡上する鮭獲りで海の幸、これを燻製にすることで一年を通じて魚肉に困ることがない。この食に関して何一つ不自由なく暮らすことが出来たのが土方一族繁栄の元だった。
 これに気付いた歳三の四代前の土方隼人は、多摩川と浅川の合流点の土手上に、治水と一族繁栄と河童の悪さ防止祈願を兼ねて、山から運んだ天然石の碑を水神様として建立した。
 その夜だった。夢枕に河童が現れ、「なんじに悪事を封じられた河童明神の使いである。過去の許しを得んために川辺の幸による妙薬の秘法を授ける」と、打ち身や捻挫に卓効のある「石田散薬」の製法をこと細かに伝えたという。その真偽のほどは今になって証明するには難があるが、そのお告げは次の通りだ。歳三はまだ出会ったことはないが、世の中には頭のいい河童もいるものだ。 

1、夏の暑き日に川辺の湿地に群生する牛に似た蓼(たで)の葉を刈り集めるべし。
2、同じ時期に山辺に咲くxx草を得てx割りほどを加えて混ぜるべし。
 3、刈り取って混ぜ合わせた二つの草を、重さが一割になるまで天日で干すべし。 
4、乾燥した草を黒くなるまで焦がさずにあぶり焼くべし。
5、乾燥して黒く焼きし葉を鉄鍋に入れ、ささらにて酒を散布し蓋を閉めてしばし放置すべし。
 6、再び天日に干して充分に乾燥させるべし。
 7、薬研(やげん)にて擂り潰して粉末にすべし。
 8、これらは酒にて服用すべし。
 9、薬効は、鎮痛、止血、切り傷、打ち身、骨折の早期回復、利尿作用などである。
10、ゆめゆめ疑うことなかれ。

「我が家は、以上の御託宣を河童明神から得た。これは秘密だぞ」
 兄の喜六が真顔で言ったのは、歳三が家伝の秘薬作りに手を貸すことになったからだが、こんなことはとうの昔から知っている。だが、家伝としてはまだ秘密があった。歳三は、未だにミゾソバに混ぜる「同じ時期に山辺に咲く草」については聞かされていない。こればかりは口伝による家長だけの秘密事項だから仕方がない。
 歳三は子供の頃からミゾソバ刈りをした日の数日後から、喜六と共に麻袋を背負って多摩の山野で弟切草(おとぎりそう)刈りをするのが習慣になっていた。ミソソバ刈りは村人総出だったが、家伝の秘密を守るという建て前で喜六と歳三の二人だけでの作業になるのだが、これは重労働だった。二人で朝から晩までカマス(麻袋)いっぱいに刈った弟切草を詰めて家を往復するのだが、必要な量を得るにはどうしても三日から四日はかかる。
「人の手を借りたら?」と、歳三が家に四人もいる作男に手伝わせようとしたら「いかん!」と喜六にきっぱりと断られた。秘伝だから公には出来ないと言うのだ。
 弟切草は真夏の花で、多摩丘陵のどこにでも黄色で可憐な花を誇らしげに咲かせて、採取にはまったく苦労しない。浅川や多摩川の畔などにも密集しているのだが、家伝で採取も極秘だから、そこからは採らない。村人の目に入りづらい丘陵ということになる。
 しかし、喜六と歳三が弟切草を刈る姿は何度も村人に見られているし、歳三の背負った麻袋から弟切草の葉が顔を覗かせていても、道で行きあう村人は、荷の中身など気にせずに気軽に挨拶する。この弟切草も薬の材料になることを、村人の誰もが知っているからだ。
 それでも、家長の喜六と家族が口外しない限り、門外不出の家秘相伝は厳然として守られている。現に、弟切草刈りを手伝う歳三でさえ、兄喜六の口から「ミゾソバに弟切草を加える」などとは一度も聞いたことがない。家伝の秘法と河童の秘密はこうして永久に守られる。

7、大伝馬町・伊藤呉服店

十七の春、歳三は再び呉服屋奉公で江戸に出た。
 歳三が江戸に出て、ミソソバ刈りの差配を出来なかったこの夏は村娘達の参加がなく、華やかであるべき土用の丑の日の宴会も盛り上がらなかったらしい。それだけではない。この年のミゾ ソバの収穫は極端に少なく「石田散薬」の売れ行きは今一つ伸び悩んでいた。「お大尽」の土方本家にとって「石田散薬」の収益やミソソバ刈りの不振は問題外だが、明るく華やかな歳三がいない土方家と石田村は、夕べの焚火の火が消えたように暗かった。
 歳三がミゾソバ刈りの指揮を出来なかった十七歳の夏は、春からの二度目の奉公で江戸にいた。
 上野の「いとう松坂屋呉服店」の店主伊藤吉右衛門が、歳三の勤勉な仕事ぶりを見込んで伊藤一族の分家である江戸大伝馬町の伊藤呉服店に紹介してくれていたのだ。その話を石田村まで届けてくれた親戚の四谷大木戸・伊勢屋源左衛門からは、今回は丁稚ではなく「番頭見習い」としての奉公だという。歳三の行く末を案じていた兄の喜六と兄嫁のナカが賛成したことで、歳三の道は決まった。
 歳三としても、自分の才能を見込まれただけでも悪い気はしない。武士になる夢にも無理があることを知り始めて悩んでいた時期だし、その夢を一時保留にして江戸の空気を吸って来るのもいい。そう考えてこの話に乗った。
 今回は一人で旅をし、四谷大木戸の伊勢屋に立ち寄って手土産を置き、源左衛門が同伴するというのを断って地図を書いて貰い、見覚えのある江戸の景色を楽しみながら、夕方には店に着いた。
「伊藤呉服店」の屋号と店名を染め抜いた暖簾を垂らした間口三間(五・四メートル)のごく普通の小ぎれいな店だった。
「ごめんください。石田村から来ました」
 玄関を入って一応の挨拶をすると、店内には老夫婦と孫らしい三人の客がいた。その客に二人の男が応対し、女中もお茶を運んだりして忙しそうな様子だった。座敷いっぱいに広げた反物の説明をしていた初老の男が客に断ってから振り向き、おだやかな声で「歳三さんかね?」と聞いた。
 歳三が「ハイ」と頷くと、「わたしが当主の伝兵衛だよ」と言い、奥に向かって叫んだ。
「石田村の歳三さんが来たよ」
 すぐ、お上さんらしき女性が歳三を迎えに出て「裏にまわって」と、下駄をひっかけて歳三を裏に案内して、屋内に声をかけた。
「千代、濯ぎをもって来て」
「母さん、なあに?」と、千代という娘が出て来て長身で目の澄んだすっきりした顔立ちの歳三を一目見て、顔を赤らめて小走りに桶を抱えて井戸に向かった。歳三があわてた。丁稚奉公に来た先の商家の娘に足濯ぎの水を汲ませるなど聞いたこともない。
「自分でやります」
 千代という娘から金盥と雑巾を取ろうとして指が触れた。娘が「あら」と小声で叫んでつぶらな瞳を大きく見開いて歳三の目を見た。この瞬間、歳三と千代はお互いに恋に落ちたのを感じた。
 千代は何も言わずに家に駆け込み、歳三は着衣の汚れを叩いて落とし、目に残った千代の白い足を振り払うように顔と手と洗って手拭いで拭き、胸の動悸を押えるために深呼吸してから足を洗って雑巾で拭いてから家に入った。
 改めて、お縞と名乗ったおかみさんと千代という娘に両手をついて作法通りの挨拶をし、自分の住まいとなる一階の番頭の部屋の隣り部屋に案内され、さっそく奉公人用の縦縞木綿の着物に博多帯、白足袋という姿で店に出た。まだ、娘と両親三人のお客の反物選びが続いていて、主人が広げた布の柄について説明し、番頭と女中が反物を丸めていて、まだ数本の反物が広げられたままだった。
「お手伝いしますか?」
「頼むよ。私は番頭の磯吉だからね」
「あたしは、お絹」
 主人が小声で「挨拶は後で」と言った。
 歳三は、いとう松坂屋仕込みの手際の良さで反物を巻くと、新品のままの形になり、恰幅のいい客が唸った。呉服屋では反物三年という言葉もあり、反物がきれいに巻ければ一人前に見られる。
「あんた、さっき表に来た小僧さんかい? 見直したよ。この店が始めてじゃないね?」
 店主の伝兵衛が客に言った。
「さすがに山城屋さん。業種は違っても見る目はさすがですな。この歳三は、六年ほど前の丁稚時代に上野の本店で働いていたんです。その時から私は目をつけていたんですよ」
「そうですか。歳三さんとやら、あんた幾つだね?」
「十七です」
「十七か? 役者絵のようにいい男だねえ。落ち着いてるから二十歳(はたち)の上かと思ったよ」
 その父の隣で娘が顔を上げてチラと歳三を見て、すぐ目を伏せて頬を赤らめている。
 そこにいた全員が頷き、歳三は黙々と反物を巻いていた。
 客が帰ると、伝兵衛が家族を含む全員を表座敷に集めて、歳三を改めて紹介した。
「今度、当家に縁あって奉公する歳三さんだ。みんな仲良くしておくれ」
 歳三は自己紹介を交換しながら、一座を見回して年齢を推定した。自分の見る目に大きな狂いはないはずだ。伝兵衛とお縞夫婦は四十五と三十八、娘の千代が十八、番頭の磯吉が二十五、女中のお絹が二十二ぐらいに見える。その日から歳三は、ごく自然に家族の一員に認められ、夕飯は家族と従業員全員が同室で膳を並べた。
 上座に座った店主の伊藤伝兵衛が言った。
「源左衛門さんの話だと、歳三さんの家は武家出の元名主で{お大尽}という屋号だそうだね?」
「屋号負けして困っています」
「客が門を潜るのを見て湯を沸かし、庭を通って玄関から客室に入った頃に茶が立つんだって?」
「そんなに広いの?」
 娘の千代が目を丸くして歳三を見つめた。
「そんな噂は間違いです」
 ミソソバ刈りと酒で服む石田散薬の話なども聞かれて盛り上がったが、身内の源左衛門がいかに土方一族を身びいきにして語ったかもよく分かった。
 仕事は楽しく歳三はよく働いた。千代と同じ屋根の下にいるだけでも楽しかったが、歳三はそ知らぬ顔でいた。千代も歳三には好意的だった。お縞には何度も廊下ですれ違いざまに抱きしめられ唇を吸われるが、これは挨拶のようなものと諦めることにした。お絹にも言い寄られるがこれは危ないから受けられない。千代は好きだがお互いに近付けない。若い歳三の悩みは尽きなかった。
 それでも、上野の店での苦い思いでは心の傷になっていて、あの二の舞を避けるために絶対に隙を見せない決意で、断固として女嫌いの姿勢を貫いていた。
 番頭の磯吉は小柄で口数の少ない真面目な男で歳三とは気が合った。

8、千代という娘

夏の終わりの頃、歳三が千代の稽古事のお供で日本橋まで同行した折に、両親との雑談で意外な話題が出たことを聞いた。思い切った口ぶりで千代が言った。
「以前、両親はわたしの婿に磯吉をと考えていたんです。それが、歳三さんが来てからは様子が変って、つい数日前に、磯吉を呼んで、暖簾分けを約束したんです」
 そこまで言って後を言い淀み、顔を赤らめて口をつぐんだ。歳三はその先を聞くのが怖かった。
自分が何を仕出かしたというのだろうか。自分の出現で磯吉の運命が変わったとしたら気の毒だ。
もしかすると? 歳三さえよければ、などという話なら断固断らねばならない。歳三は仕事は嫌いではないが、ここに安住して武士になる好機を逸することを恐れた。その心の葛藤が顔色に出たのか帰路はお互いに無言で、それから暫くの間、二人の口数はめっきり少なくなった。
 暖簾分けの決まった番頭の磯吉は生真面目によく働いた。やはり、男なら婿入りよりは小なりといえども店を持ち一国一城の主人になるのが夢なのか? 歳三も雑念を払うように真剣によく働くから評判もよく、ますます主人夫婦が親しげに家族の一員のように声を掛けてくる。歳三はこれが面白くない。やはり、この店の婿養子は磯吉がなるのが一番いい。磯吉なら千代とも仲良く添い遂げられそうだし、この店が堅実に発展するのは間違いない。
 それに、磯吉も歳三も性格もいいから客の評判も悪くはない。
 ところが、その独立話があって一か月ほど過ぎたある夜、隣の磯吉の部屋に、廊下を隔てた女中部屋からお絹が忍んで来て磯吉と睦み合うようになった。お絹は以前、歳三の部屋にも何度か忍んで来たが、歳三は指も触れずに追い返している。その嫌がらせで磯吉に迫ったのか? それとも、磯吉が独立するのを知って、その内義になる決心をしたのかも知れない。しかし、奉公人同志の色恋沙汰はご法度、これは前の店でも同じだった。何か悪い予感がする。
 薄い壁一つ隔てただけだから、耳を塞いでもお絹の喜悦の声が容赦なく聞こえて来て、十七歳の多感な歳三の煩悩を誘い寝不足になり食欲も勤労意欲も落ちてゆく。これに耐えるのもお店奉公の勤めの一つ、歳三はこう考えて我慢した。
 寝不足で食欲がなく頬がこけた歳三の身を案じてか、ある夕食後、千代が珍しい京菓子持参で歳三の部屋に忍んで来た。その日は折り悪く、早い時刻からお絹が隣室に入っていて磯吉との秘め事が始まっていた。千代にもそれが何かは分かるらしい。千代が歳三にしがみつき、歳三は必死に拒絶したのだが、結局は千代の情念に負けた。二人は喜悦の声を殺して愛を交わした。
 この夜を境に千代は折を見て歳三の部屋に忍んでくるようになったが歳三は差し入れも断り、「二度と来ないでほしい」と言って強い姿勢を貫いた。入店時に店主の伝兵衛に「店内での色恋は厳禁」と釘を刺されているからでもあり、上野の店で女中衆の恐さを知っていたからだった。
 秋風が色づいた街路樹の葉を散らし始めたある日、事件が起こった。
 女中のお絹が仕事中に吐き気がすると言い、それを悪阻(つわり)と見抜いたお縞の追求で、懐妊していることが判明したのだ。当然ながら真相究明となり、お絹があろうことか「相手は歳三」と、偽りを告げたのである。
 磯吉の暖簾分けも近く、お絹は店を出されても磯吉の嫁になるのが決まっている様子だった。
 店内での不祥事は赦さぬ、と、日頃から伝兵衛は言っている。これを考えると、お絹は磯吉との仲を隠し通さねば、磯吉の暖簾分けもなくなる。そうなれば呉服屋の内義の夢も潰えてしまう、お絹はとっさの判断で、磯吉を救って自分が店を去り、独立を待って嫁入りする策を考えた。店を辞めても磯吉との愛は変わらない。子供を産んで磯吉の自立を待てばいいだけだ。こう考えたらしい。
 お絹は、ちらと磯吉に視線を投げて目配せをしたが、それが磯吉には通じなかった。
 歳三は事態が飲み込めず、ただ呆然と手も触れたことのないお絹を眺めているだけだった。
 お絹は、目を伏せ気味に歳三を見てから、か細い声で主人の伝兵衛に告げた。
「歳三さんの誘いに負けたあたしが悪いのです。責任をとってお暇を頂きます。歳三さんのことは許して上げてください」
 だが、お絹の策は実らなかった。生真面目な磯吉はお絹の芝居を見抜けなかった。自分だけが馬鹿にされたと勘違いしたから、日頃の温厚な磯吉とは思えぬほどの怒りで、お絹と歳三を罵倒した。それは、お縞や伝兵衛、千代の怒りをも吹き飛ばす勢いだった。
「旦那さんが赦してもこの私が勘弁できん。二人とも見損なった。二度と顔を見たくない。さっさとこの店から出てってくれ!」
 お縞も怒ったが、磯吉の怒りに代弁されて逆に落ち着きをとり戻した。千代は無言で泣いている。 伝兵衛が落胆した様子で言った。
「わたしたち夫婦はね。磯吉にのれんを分けて店を出させたら、歳三を婿養子にとも思っていたんだよ。恩を仇で返されて私は口惜しい。この若さでお絹なんかに手を出しおって」
 お縞が残念そうに言った。
「これで、この家との縁もありませんね」
 伝兵衛が悔しそうに言った。
「二人とも給金は払うから、さっさと荷物をまとめて出てっておくれ、もう顔を見るのも嫌だよ」
 結末は惨めだった。歳三が荷物をまとめて出て行くとき誰も見送りに出なかった。それでも、千代が泣きながら走り出て、潤んだ目のまま囁いた。
「あなたの裏切りは一生許しません。でも、おなかの子は産みます」
「おなかの子?」
「もしもの話です。その場合は一人で立派に育てる、と言いたかっただけです」
 あの時の胸の痛みを思い出すと今でも腹が立つ。悪いのは自分じゃないが、言い訳をしたら、お互いが自説を主張して、もっと醜い修羅場になっていたはずだ。それだけは避けたかった。
 またも短期日で解雇されて遠い道を戻る。通印気位置を帰宅して兄の喜六に解雇の理由を問い詰められても沈黙を通していたら、店の主人・伊藤伝兵衛から早飛脚で、一両の給金と手紙が届いた。そこで手紙の内容で「お絹という女中を孕ませた」という解雇の理由が喜六の知るところとなった。
「まったく呆れたヤツだ。女中なんかに手を出しおって」
 結局、兄は激怒したが「男は責任を持たねばいかん。今回はナカには内緒だぞ」と、手文庫の底から金銀合わせて五両を出して来て紙に包んで手渡し、「これで詫びて来い」と言った。
 疲れてはいたが遠路をまた江戸に戻る道々、歳三は千代を想った。なにか伝えねばならないが 何を言えばいいのか? 言い訳はしたくないが真実は伝えたい。道々、悩んでる間に店に着いた。
ただ、無性に自分が情けなく、早く帰りたい一心で言葉は上手に出なかった。
 無愛想に出て来た伝兵衛と磯吉の前で、「不始末を詫びます。これで堪忍してください」と、意に反した言葉が口を突いて出たのに自分が驚き、頭を下げて五両を置くと、背に浴びせられる二人の怒声を振り切って早足で帰路についた。千代の姿を見なかったのは心残りだが、それでよかったのだ。 これが十七歳の苦い思い出だったが、千代のことを想うと歳三の胸は未だに痛むのが辛い。

9、武門への思い 

 青梅新町村の吉野文右衛門屋敷は、歳三の安らぎの場でもあった。 
 代官・江川担庵とも親しい吉野文右衛門は、当然ながら政情にも歴史にも詳しい。ある道之助が不在の日、文右衛門が茶飲み話で、多摩の農兵構想について歳三に語った。
「天保六年(一八三五)、歳さんの生れた年だな?」
「そうです」
「担庵さまは、この年に三十五歳でお父上の後を継いで代官になられている」
「私より三十五歳上ってことですね?」
「担庵さまは代官になると、すぐ、十代の頃から神道無念流・岡田十松の元で共に修行した親友の斎藤弥九郎殿を江戸屋敷詰書役として招いた」
「お二人とも小さい時から何回も会ってます」
「担庵さまから聞いておる」
「なぜ?」
「そうか、何もまだ説明しとらんな。それは後にして・・・担庵さまと弥九郎殿の師の岡田十松は死の寸前、病床に担庵さまと弥九郎さまを呼び寄せ、遺言で弥九郎さまを神道無念流の後継者に、と言い残して逝ったそうだ。担庵さまは師の意思を生かして、弥九郎殿に江戸飯田橋(九段下)まな板橋に道場を開かせて協力を惜しまなかった」
「それが、練兵館ですね?」
「博識で海外事情にも詳しい解明派の坦庵さまは、闘う本能を忘れた形だけの武士では国土は守れぬと考えて、支配下二十六万石という広大な天領を、斎藤弥九郎殿と二人で刀剣商の主従を装って、駿府、相模、甲斐、秩父、多摩、武蔵と各地の軍備や人心の状況を見て回ったのだ」
「お忍びですね?」
「つぶさに歩き、農民剣術が最も盛んで自主自衛の気質をもつ多摩の若者に目をつけた。だが、 幕府には甲州微行として治安の悪い甲州だけの探査としか届けていない」
「なぜ?」
「担庵さまは多摩の主だった名主を通じて、いざという時に備えた農民の次男以下による農兵隊をも密かに計画したのだ。この吉野道場も同じだがな」
「農兵隊? 千人同心とどう違うのか分からんです」
「千人同心は幕府の槍奉行支配下だが、農兵隊なら担庵さまの自由になるからな」
「なぜ、多摩ですか?」
「甲斐や上州は博徒の横行で治安も悪く、いくら軍律を厳しくしても幕軍の主力にはならん。担庵さんと同じ北条の落ち武者が多い多摩なら、名主と農民が一体になれるからだ」
「なるほど」
「坦庵さまと弥九郎殿は、多摩のあちこちの名主屋敷の庭先で実戦さながら芯入りの袋竹刀や木刀で激しく打ち合う農民達を見て、いずれもが天然理心流という流派であることに驚き、弥九郎殿に、練兵館でも木刀を使わってみるように進言した」
「で?」
「弥九郎殿は、とんでもない。これと同じことをしたら旗本の息子らはたちまち逃げ去って、弟子が一人もいなくなりますよ、と笑って答えたそうじゃ」
「それで、竹刀遊びですか?」
江戸の町道場の仕官用剣術など所詮は竹の棒と防具の遊び、いざ戦場での斬り合いになれば、いずれの流派も、天然理心流の農民剣法に叩き潰されるだろう。と担庵さまは仰せられた」
「だったら、この道場も天然理心流にします?」
「それは出来ん。わしも道之助も甲源一刀流を貫くのが師の比留間さまへの恩返しじゃ。だが、坦庵さまと弥九郎殿は、自分達の学んだ神道無念流の多摩進出を封印し、各名主を通じて広がりつつある天然理心流に協力して、いざという時のために農兵隊の強化を目指した」
「実をとったのですね?」
「なにしろ天然理心流の実績は過去にもある。天保七年の大飢饉に起こった甲州百姓一揆の暴動を、坦庵さまと代官手代の長沢与四郎、斎藤弥九郎殿の指揮する多摩の武装農民が峠道で食い止めて、一歩たりとも多摩に入らせなかった。その殆どが天然理心流だった。あれからすでに十七年の歳月が流れている」
 そのことは歳三も知っていた。ただ、文右衛門がこんな話をする意図が分からない。
 歳三の疑問に答えるように、文右衛門が歳三の目を見つめて真剣な表情になった。
「歳さんに会わせたい人がいる」
「誰ですか?」
「今は言えん。多分、歳さんの生き方が変わる。会ってみるかね?」
 その時は思わず頷いて吉野屋敷を後にしたが、文右衛門が会わせたい人とは謎だった。
  
 歳三は我が家の祖が、中世の武蔵七党最強軍団として源氏に与して鎌倉幕府の擁立に力を貸し、 関ヶ原以降は三沢村の土方系地侍を中心に結成した三沢十騎衆の棟梁として、劣勢の小田原北条 勢の江川家の出城であるに肩入れして太閤の大軍相手に勇猛果敢に戦場を駆け巡っていたのを、幼い頃から亡父や兄の喜六から聞かされて育っている。そのいずれもに江川家が絡んでいるのも何かの因縁かもしれない。
 歳三の家には、国家統一を狙う秀吉の大軍と対峙した北条氏政からの軍事協力を求めた先祖への督促依願状がある。それによると、小田原城存亡の時を迎えて、土方弥八郎、土方平左衛門、土方善四郎、土方越後など土方一族の三沢十騎衆宛てに、多摩周辺の村の若者を集めて至急参戦するようにという内容だった。十騎衆といっても当時は八騎に減っていたのだが、小田原城主北条氏政の多摩の農兵騎馬隊への期待の大きさがよく分かる。
 こう考えると、歳三の体内にも祖先の血が脈々と流れていて、いつの日か戦場で手柄を立てて武士より強い農士がいることを思い知らせたいと思うのも無理はない。そのためにも、誰にも負けない強く逞しい心と剣技が必要なのだ。
 柴田道之助から聞いた話だと、八王子千人同心にも鉄砲が配備されたというから、もはや弓矢や剣術の時代ではないかも知れない。だからといって、歳三が庭に植えた矢竹は無駄ではない。
戦場に命を賭ける証しにも戦場で生き抜くための願掛けにもなる。歳三には、先祖から受け継いだ戦闘集団の血が脈々と流れていた。その血が歳三を武術の鍛錬に駆り立てている。
 歳三は、甲州から秩父では甲源一刀流、上州では直新陰流、川越では柳剛流、相模では一刀流の道場に顔を出して「石田散薬」を売りながらその流儀を学び、さらに、姉の嫁ぎ先の佐藤彦五郎宅の納屋を改造した道場では、出稽古に来る近藤周助の天然理心流を仮入門で学んでいる。

 源氏の出身で小田原北条の重臣でもあった伊豆韮山の江川家は、中世の山城・多摩の滝沢城まで進出して太閤秀吉の北条攻めに対抗して破れたが、同じ北条の代官だった大久保長安と共に徳 川家康に保護されて前職のまま家名をつなぐことが出来た。大久保長安は八王子を含む関東総代官に任命されたが金山奉行での辣腕が咎められて失脚し江川家が残った。
 その江川家が、北条の落武者が隠れ住んで土着した多摩の農民を密かに武力強化しようとする意図は歳三にも理解できた。その担庵も最近は病気療養がちで、その残された膨大な職務を、わずか十五歳の長男江川英敏が代行しているが、有能な手代が何人もいる上に、あと継ぎの英敏がかなり聡明だけになんら問題ないとの世評だった。
 嘉永四年、担庵が築いた伊豆の農兵隊は正式に幕府に認められた。
 いずれは、担庵が目指す本格的な多摩の農兵隊も、近い将来には根強い旗本の反対を押し切って幕府の正規軍として認められる日が来るかも知れない。それを予期しているからこそ、坦庵によって苗字帯刀を許され、半ば公然と武技を推奨された多摩の名主達は、競って道場を開き、天然理心流道場から剣術師範を出稽古に招いて武術の鍛錬に励むようになったから、多摩の農民の剣技は郷士扱いの八王子千人同心と共存共栄で、正規の武士をもしのぐ勢いになっていた。
 しかも、先祖が武田や北条の落ち武者の多い多摩の名主達のどこの蔵屋敷にも刀剣や武具を詰めた葛篭(つづら)が山積みになっていて、村を外敵から護るためにという口実があれば、いつでも若者達を武装させて戦さに参加するのに何の支障もない。
 将軍家直轄の天領である多摩の村々は、幕府にとって貴重な軍馬や食料の供給地として、これまでも特別な扱いになっていただけに、ますます武士以上に学識力も剣技にも優れた半農半士の武民が輩出することになる。

10、山犬戦法

 青梅新町村からの帰路、歳三は狭い木こり道から深い森に入り、雑木の多い場所で剣術道具を上に括った薬箱を背から降ろして大木の根元の雑草の上に置いた。行商の帰路は晴雨に関係なく歳三は無人の森に入り、竹刀袋から出した太い樫の木刀で潅木や幹を相手に千本撃ちの稽古をする。
 千本といっても数えてはいないから日によって本数に過不足はあるが、半時ほどは無我夢中で幹や枝を叩くのだが、義兄彦五郎の師の近藤周助から貰った太くて重い樫の木刀は硬く頑丈で、太目の樹木なども一撃でなぎ倒し、歳三の周囲の潅木はたちまち倒されて目の高さは広場のようになったが足元は倒された枝葉で足の踏み場もない。森にはさまざまな獣が棲息しているのだが、歳三の裂ぱくの気合と木を倒す激しい音に恐れをなしたのか何も姿を現さない。汗を拭き竹筒の
水を飲んだところで稽古は終わった。
 この千本打ちは、江戸での奉公に失敗して帰郷し、薬の行商しか道がなくなった一昨年から根気よく続けている行商時の習慣で、歳三だけの秘密だから誰にも知られていない。最初は重くて振り回せなかった極太の木刀が、今は片手でも振れるのだから鍛錬というものは恐ろしい。
 ただ、この日は吉野道場で体力を使いすぎて少々疲れが出ていた。草むらに寝転んで緑の葉が揺らぐ枝越しに空を眺めているうちに眠気がさして何だかふわふわと快い。
 この日は帰宅途中で日野の義兄の佐藤邸に寄って、集金した「虚労散」の代金を渡し、小遣いを貰ったらさっさと帰るつもりだから時間も気にならない。
 見上げるとつい先刻まで青一色だった空に低い雲が流れ、夕立の予感すらする。そう思いながらも歳三は快い疲労の中で睡魔に襲われていた。眠くなればどこでも眠る。気まぐれな天候以上に歳三もまた気まぐれだった。そのまま歳三は夢の中に落ちていった。

 歳三が天然理心流に気乗りしないのには理由があった。
 天然理心流は百姓でも武士に勝てる必殺の技を秘めている、と義兄の彦五郎は、仮入門の歳三が稽古にあまり熱心ではないのを見かねて、口を酸っぱくするほどの熱弁で語るのだが、その指導法が単純な基本の型ばかりで面白くない。それに、立ち会う相手が近所隣りの知り合いや身内ばかりだから怪我もさせられないし、負けるのも嫌だから熱も入らない。その上、義兄の道場では実力も出せず気も乗らない。そんな歳三を見て三つ上の姉のノブが、今でも笑って言う。
「喜六兄さんの言う通り、歳三は剣術より商売に向いているのよ。行く先々で女にもモテるしね」
 気のいい姉のノブは屈託なく笑うが、この一言がいつも歳三の心臓を千枚通しで突き刺すよう な痛みを伴って傷つけるのまでは誰にも分かってもらえない。
 まだ十九歳の歳三だが、すでに女に好かれのは間違いの元、これを肝に銘じて忘れずにいた。

 歳三は、落ち葉を踏むかすかな足音で目覚めた。
 森に入って木の幹や枝を叩く千本稽古を終えてから、過去のことを思い出しながら、つい転寝 (うたたね)をしたらしい。歳三は脇に置いた樫の木刀の柄を握り、足の指を動かして草鞋の紐 の緩んでいないのを確かめてから静かに頭を上げて周囲を見た。
 草むらと灌木越しに周囲を見回したが、人影はどこにもない。この周辺の潅木は殆どなぎ倒し たから見通しもいい。
(気のせいだったのか?)
 風のないおだやかな秋の午後だから、周囲に人がいればその気配を感じないわけはない。歳三 は右手で木刀の柄を握りしめ、草むらに身を沈めて息をひそめ、耳をそば立てて様子をうかがっ た。
 草むらの揺れを油断なく透かし見ると、揺れる緑の草むらに見え隠れする黒と茶の斑模様や褐 色の獣の背が見えた。毛色から見て狼ではないのは確かだった。だとすると、麓まで降りて家畜 や人を襲うことで村人に恐れられている野生化した野犬の群れに違いない。多摩ではこの野犬を 山犬と呼んで狼以上に恐れていた。その数は五頭、彼らは身を沈めて徐々に包囲の輪を縮めて来る。この五頭に前後左右から一気に襲われてからでは防ぎようがない。
 岩山の巣窟に棲む狼は旅人の後を追う習性を持つが、こちらに敵意がなければ滅多に襲うこと はない。だが、犬が野生化したり狼と野犬の交配で生まれた山犬は凶暴な上に狡猾で、獲物とみ れば巧みな連携で完璧な狩りをする。したがって、凶暴な山犬は狼以上に恐ろしい。
 歳三は以前、行商帰りの甲州路の山道で山犬の猪狩りを目撃したことがある。
 数頭の山犬が大猪を囲んで果敢に攻めていた。大猪が牙を剥いて山犬を襲うと、山犬は巧みに 逃げながらも包囲の輪を解かずに反撃し、一頭が正面から捨て身の攻撃を仕掛けたとき、それま で牙を剥いて暴れ回って攻勢にあった大猪が足を止めた。その瞬間、それを待っていたように山 犬が左右前後から一気に猪を襲った。一度足を止めたら猪に二度と勝機は戻らなかった。必死の抵抗もむなしく山犬の執念に負けて倒された大猪が、生きたまま内臓から食い荒らされるのを木
陰に立ち尽くして歳三は見た。山犬の群れは大猪という獲物で充分に空腹を満たすことに熱中し て、木陰に立ち尽くす歳三のことなど一瞥しただけで無視し、二度と見向きもしなかった。
 あの時の猪は、暴れまわって一頭づつ牙にかければ勝てたのに、山犬の挑発に乗って足を止め たために包み込まれて敗れた。あれを思うと先手必勝、襲われる前に攻めないと勝ち目はない。
 正面の草むらが揺れ、身を低くしてじわじわ迫って来るまだらな茶褐色の山犬の背が見えた。
(こいつが頭か!)
 思わず腰を伸ばした歳三が、前を向いて木刀を振り上げた。
 それが彼らの罠だった。突然、右手の草むらから「ウーッ」と低い唸り声を上げて褐色の獣が 跳薬し、歳三の喉元を狙って牙を剥いて襲い掛かって来た。正面の敵は囮(おとり)だったのだ。
歳三は隙を突かれながらも身を捻って、反射的に木刀を目の前に迫った獣の頭上目がけて振り下 ろした。鈍い音を立てて頭を砕かれながらも獣の執念は凄まじく、そのまま歳三に激突しながら 牙を剥いて手首に噛みついた。辛うじて木刀の根元で突き飛ばすし、さらに一撃を加えると、獣 は灌木の根元に横転して四肢を痙攣させて息絶えた。
 あと四頭! 危うく最初の難は逃れたが噛まれた手首から血が流れている。山犬とは今までに も何度か遭遇したことはあるが、実際に襲われたのは初めてで、悪童で鳴るさすがの歳三も背筋 に冷たい汗が流れ緊張感で身が引き締まる思いを感じながら次に備えた。
 それも一瞬、残った四頭の山犬がいっせいに襲い掛かって来た。歳三は冷静さを取り戻せない まま夢中で左右に動きまわり、視界に入った山犬めがけて夢中で片手殴りで木刀を振り回し、足 や手を噛まれるのも構わずに相手を追いまくり攻め続けた。
(立ち止まったら殺される!)
 悲鳴を上げながら内蔵を食い荒らされた大猪の断末魔の姿が脳裏に浮かぶ。秩父から奥多摩に かけて、山仕事の村人を何人も殺し、馬や牛を襲ってきた凶暴な山犬と戦いながら、歳三は、徐々 に山犬の動きが読めてきた。山犬は歳三の動こうとする逆側から襲って来る。そこで、歳三は身 を捻って反転して山犬の出鼻を狙って撃ち、これで一頭を倒し、立ち止まらずに横に飛んだ。
 あと三頭。次ぎは、自分から隙を見せ、相手が牙を剥いて躍り上がった瞬間、横に少し身を交 わして相手の頭を思いっきり撃ち砕いて一頭を倒した。残るは二頭、歳三は動きながら勝ちを確 信した。
(この戦い方は使える!)、歳三は山犬と闘いながら人と人との格闘に置き換えていた。歳三は 冷静さを取り戻し、今度は自分から敵を追って木刀を振るった。その片手殴りの木刀は鋭く風を 裂き、一頭の山犬の脳天を的確に撃ち砕くと、敵は短い悲鳴を残して息絶えた。
 あと一頭、巨大な山犬の頭領が凶悪な目で歳三を睨み、歳三も山犬も逃げなかった。ここから は一対一、堂々と雌雄を決するしかない。山犬が跳び歳三が撃つが、相手の攻めも巧みになって、 なかなか致命傷を与えるには至らない。これを何回か繰り返すうちに、歳三は、山犬が微妙に跳 びながら体を捻って歳三の隙を狙っていることに気付いて愕然とした。これだから致命傷を当てられなかったのだ。それに気付いた瞬間、歳三は山犬と一緒に跳び、山犬の跳躍した頭一つ内側 に狙いをつけて木刀を突き出した。今度は充分な手応えがあり木刀が山犬の喉元を貫いていた。
山犬が勝手に勢いつけて木刀の切っ先に激突して自分の重量で突き刺さって自滅したのだ。この 瞬間、自分の力は使わずに相手の攻めを誘って突きで勝つ。これに磨きをかければ必殺の技にな る、歳三はこれを悟った。
 足元に転がった山犬の巨体に足を掛けて木刀を抜くと血が噴き、山犬が必死で起き上がりかけ て牙を剥いた。その頭を一撃して闘いは終わった。
 五頭の山犬と死力を尽くして闘った末に歳三が勝ち残った。傷つきながらも生き残った歳三は 荒い息を吐いて立ちつくしている。勝つと負けるは紙一重、負ければ山犬の餌になって内臓から 無惨に食い荒らされ、二度とこの世を拝めない。だから勝たねばならない。
「勝ったぞ!」
 思わず叫んだ歳三は木刀を投げ出そうとした。しかし、手が硬直して開かない。一本づつ指を 開いてようやく木刀を離し、草むらに仰向けに倒れて目を閉じた。だが、勝利の快感はない。死 と紙一重だった闘いの疲労は歳三の心身を重くした。歳三は、道場で汗を流す竹刀での稽古など は足元にも及ばないほどの緊迫感を味わった、道場で防具に身を固めて竹刀で殴りあい、浅い撃ち込みは「まだまだ」とか「浅い!」とか言って無視するが、山犬に噛まれたら一気に殺される。
 刀ならば手を斬られても次には頭を割られ肩を斬られる。真剣勝負であれば生きるか死ぬかし かない。生きぬく気持ちが強ければ戦闘中でも必死で策を練る。これを知っただけでも貴重な十 九歳の体験だった。ただ、相手を殺す感覚・・・これは中毒になる。歳三はそれを感じて慄然と した。