薩摩藩の財政を取材しました。


 お元気ですか?
 今回は、戊辰戦争・薩摩藩取材で鹿児島入りし霧島神社にも詣でて参りました。
 この神社のある霧島高原は薩摩藩の湯治場としてもよく知られています。坂本龍馬も、ここで寺田屋で捕吏と戦って斬られた手の傷を癒しています。
 時間の都合で温泉は入りませんでしたが取材の目的は達しました。
 財政ひっ迫の貧乏藩として知られた薩摩藩が、莫大な軍資金を必要とした戊辰戦争に突入したのか? その謎を解くべく訪れた今回の旅でやっとその資金源を突き止めたのです。薩摩藩の財政は、鹿児島市内福山の豪商・厚地次郎右衛門および浜崎太平次、この二人の豪商が藩の財政を支えていたという噂を、厚地家のご子孫に会って確かめたのです。戦争に必要な武器弾薬、兵隊集め、兵糧などお金がないと何もかもが不可能です。なんと、厚地家には藩主島津斉興公自身が自ら足を運んで頭を下げ、金策を手伝わせたのです。
厚地家は、藩主公認で密貿易をして莫大な利益を上げ、その多くを藩に拠出しています。
 厚地家は、黒砂糖の一手売買、綿の流通、藩士相手の金融事業なども行っていました。
 とくに、厚地家が出費元だった福山酢には藩も全面的に関与して、金融政策と産業発展の同時進行で大きな利を上げています。さらに、酢の原材料となる米の生産奨励、黒酢生産に必要なカメの製造、これらに藩が介入して戊辰戦争の資金作りに励んだようです。
 従来の説ですと、薩摩藩の筆頭財政責任者の調所広郷(ずしょひろさと)は、精製前の綿を買い占めて、相場が高騰したところで市場に出して大儲けをして軍資金の一部にしていたとされていますが、それはほんの一部です。
 さまざまな取材で、これを確信した今回の旅でした。
 で、いまは高速バスで移動して、熊本県球磨郡の山の中、球磨川の鮎宿で球磨焼酎を飲んでいます。