勝てば官軍


戊辰碑 

卓球女子日本が準決勝で北朝鮮を破って決勝進出を決め、45年ぶりVへ王手を掛けたのをニュースで知りました。
 小学生時代から活躍した泣き虫愛ちゃん・福原愛も今や最年長で日本チームの牽引車役です。
 驚異の逆転勝ちを演じた15歳の伊藤美誠の喜びの泣き顔を見て、なぜか愛ちゃんの昔の悔し泣きの顔を想い出しました。
 ところが、すすり泣く伊藤の肩を抱く愛ちゃんの余裕の笑顔を見ると、ほのぼのとした温かい先輩の余裕の大人の顔でした。
 決勝の結果はともあれ、福原愛、石川佳純、伊藤美誠のチームプレーで素晴らしい勝利でした。
 一方。常勝の女子サッカー・なでしこジャパンが中国に敗れて、まさかの一分け二敗でリオ五輪が絶望的になりました。
 流れの悪さ、痛恨ミス、JFA会長に「このチームは古い」とまでボロクソに言われて佐々木監督の進退問題にもなっています。
 なぜ「よくやった。つぎ頑張ろう!」が言えないのか?
 その答えは簡単、この世の中「勝てば官軍、負ければ賊軍」だからです。
「勝てば官軍」を辞書から抜いてみました。
【意味】 勝てば官軍負ければ賊軍とは、何事も強い者や最終的に勝ったものが正義とされることのたとえ。
【注釈】 たとえ道理にそむいていても、戦いに勝った者が正義となり、負けた者は不正となる。物事は勝敗によって正邪善悪が決まるということ。
 以上から考えると、勝てば褒められ、負ければぼろくそ、これは「勝てば官軍」の通例で仕方ないことなのです。ここでいくら悔しがっても後の祭り、勝ち負けは勝敗の常、つい先日までは希望の星だった「なでしこジャパン」ですら、こうなるのですから、戦いに負けた以上は言い訳無用、じっと耐えて再起しまた勝ち続けるしか汚名挽回の方法はないのです。
 私はいま、戊辰戦争150年をまじかに控えて、義務感に追われて小説・戊辰戦争(仮題)を執筆中です。
 なぜ義務感かというと、私の両親が会津喜多方出身、いま私は長州の山口放送レギュラー出演32年目、会津と長州の板挟み常態です。
 しかも鹿児島から北海道まで友人知人がいて 私の親しい友人には歴史に詳しいだけでなく人生を歴史研究に明け暮れる人もいます。一人は、歴史関係書籍で一世を風靡した「新人物往来社」元社長のO氏、こちらは広島出身で東軍びいきです。もう一人は「幕末史研究会」会長のO氏で、こちらは坂本龍馬研究家で土佐びいき、東京出身の西軍びいきです。
 私自身、白虎隊生き残りのご子孫飯沼氏、薩摩の西郷さんのご子孫とも知己の仲、榎本武揚、土方歳三、近藤勇、大久保利通、阿部正弘、勝海舟、木村摂津守、東久世道とみ、坂本龍馬、その他多くの幕末史に残る方々のご子孫とご縁があります。
 さらに、私の三大生き甲斐(もの書き、弟子育て、大鮎釣り)の一つ、例年訪れる大鮎釣りが九州熊本の激流・球磨川です。
 このように東西に身を置いて生きている私の職業の一つが執筆業である限り、書かねばならないテーマは「戊辰戦争」、これは避けて通れません。
 幕末史において毒殺されたとされる孝明天皇は生前、会津藩主・松平容保に授けた御宸翰(ごしんかん)という天皇直筆の書簡と御製(ぎょせい)という天皇の御詠みになった和歌があります。皇居に砲弾を撃ち込む暴挙に出た長州藩(禁門の変)を、薩摩藩と協力して撃退した会津藩・会津容保の忠誠心を称揚したものです。
 この時点では、長州藩が賊軍、薩摩藩と会津藩が官軍です。
 ご宸翰はつぎのような内 容です。
「堂上(どうじょう=高級公家)以下、暴論を疎(つら)ねて、不正の処置、増長に付き痛心堪え難く、内命を下せしのところ、速やかに領掌し、憂患掃攘(ゆうかんそうじょう)、存念を貫徹の段、全く其方の忠誠にて、深く感悦のあまり、右一箱、これを遣わすもの也」
 その遣わされた箱に、和歌が二首収められていました。
「やはらくも 猛き心も 相生の 松の落葉の あらす栄へむ」
「武士と 心あはして 巌をも つらぬきてまし 世々のおもひて」
 これを賜った松平容保は、身に余る光栄を謝して感泣したと伝えられています。
 これだけ天皇の信頼高い松平容保が賊の悪者で、皇居に大砲を撃ちこんだ長州が官軍では話が逆ですが、前述の通り「勝てば官軍」なのですから敗けた会津が150年経った今、いくら喚いても官軍にはなれません。ただし、正義はどちらにあったか? これは検証する価値があります。中国伝来の戦いの教本「孫子の兵法」では、離間の計など敵を騙して勝つ方法がぎっしり詰まっていて、勝つためには正義などどうでもいいのです。
 しかし、日本の武士道はそれとは違います。義を尊び道を究め筋を通さねば武士道とはいえません。その武士道も武器が刀から銃砲に替わった時点で廃れました。
 英明な幕府の閣僚の一部が開国を主張、それに対抗した反幕府勢力が攘夷と鎖国の維持を叫んで始まったのが京都騒乱で、その延長上に戊辰戦争があるとしたら、攘夷が間違っていただけに、真の正義がどちらにあったかは明白過ぎて考えるまでもありません。黒船来航以来の経過をみれば、いずれ開国しなければならないのは自然の理だったのですから幕府の選択した開国の道が正しかったのです。
 にも拘わらず幕府を倒した上、寄ってたかって会津を攻め滅ぼした自称「官軍」の大義名分はどこにあったのか? 
 しかも、今まで曖昧にして握りつぶしてきた奥州会津攻めでの残虐行為等に対する謝罪は? 私の極めて個人的な意見では、幕府の命で京都守護を勤めた会津藩指揮下の新選組として公務で不逞浪士を斬ったのを逆恨みされて一般罪人扱いで斬首になった近藤勇の一件など、悪くても京都で吟味の上切腹が妥当なはずですから、何らかの名誉回復がないと、武士として死にたかった故人としては浮かばれません。
 とはいえ、どんなに徹底検証して黒白をはっきりさせて欲しくても、未だに長州主導の国政ですから無理な話です。
 せめて私が「戊辰戦争」執筆で中立的立場で公明正大に裁いてわだかまりを消し、明治維新150祭に花を添えたいものです。