来年は作家活動に入ります。


世間はクリスマスセールやら歳末商戦で賑わい、マスコミはお笑い番組の審査員問題やら相撲の暴力問題で騒がしいようです。
つい先日までは貴景勝の優勝で祝勝会に名誉顧問で出席と思ったのに、貴の岩の暴力沙汰でガックリ,角界は卒業です。
今年の私は巷の話題に何の関心もなく、まるで痴呆ボケ老人状態ですが、気合は入っています。
いま私は、書物の山から大原幽学関連資料を漁って座卓の上に積んでいます。なぜ? 来年の仕事がこれだからです。
いよいよライフワークに手を染めるかと思うと感無量ですが、これで踏ん切りはつきました。
私はいつからか、62歳で自刃して果てたこの大原幽学に自分を重ねて生きた時代があり、そこから逸脱していました。
それが、ある日の一通のメールに後頭部を鉄槌で叩かれたほどの衝撃を受け、慌てて横道から本道に戻りかけています。
大原幽学といっても知る人は少ないのですが、その伝記を小説にするために私は今まで同じ道(心)を生きてきました。
大原幽学は二宮尊徳と並ぶ江戸時代後期の農村指導者で武術、易学、農政学を業として放浪生活の後、下総国香取郡長部村(現・旭市長部)に定住して農民を指導して世界で最初の農業協同組合(先祖株組合)を創設し、理由があって62歳で割腹自殺で世を去りますが、その壮絶な死もまた私の共感するところで、これを書かないと私は死にきれないのです。
幽学が活躍したのは今から約180年ほど前、時代を経て私にも幽学の無念の気持が伝わってくるのです。
私が、大原幽学に興味を持ち、その足跡を辿った半世紀前の頃は、どの辞書にも尾張藩家老3500石・大道寺玄蕃直方の次男として記載されていて、尾張城内角地の元大道寺家の屋敷跡には「大原幽学出生の地」と書かれた碑が立っていました。
大道寺家は代々玄蕃を世襲名としており、その先祖は小田原北條家屈指の猛将として上州松井田城に居を構え、秀吉が大軍を率いての小田原攻めにも屈せず、小田原落城後に矢折れ刀折れて前田利家の軍門に降ります。秀吉は断罪を命じますが、徳川家康が仲に入って江川太郎左衛門共々主だった武将数人の命乞いをして徳川家の将として丁重に迎えます。
その大道寺家に生まれたとされた幽学(通称・左門)が何と大道寺家の戸籍に載っていないのです。たとえ18歳で勘当されたにせよ、戸籍には載るはず・・・幽学が身分を詐称したのか? しかし、その真面目な人柄から出自を偽るとは考え難いことから、私の幽学に対する見方が変わり、HPに連載中のような内容になったのです。
この小説が、幽学の高弟で有名だった方のご子孫の目に止まってのメール、これが鉄槌の一撃で私は覚醒したのです。
ならば、これと戊辰戦争の大作も・・・ま、二兎を追わずにじっくりと始めます。もう後戻りは出来ません。

(注)小説「孤狼の生涯―大原幽学伝」は「花見正樹作品」内にあります。