あれから5年


あれから25年ー1

花見 正樹

 顧みればあれから25年、折り畳みのレンタル自転車で火煙くすぶる神戸の瓦礫の街並みを疾駆したあの日を未だに忘れません。1995年(平成7年)1月17日に発生した兵庫県南部地震いわゆる阪神・淡路大震災は、私の人生観をも大きく変えました。
災害発生当日、私はパリにいましたが、ホテルのテレビで地震発生と被害の凄まじさを知り、すぐ帰国しました。
家には帰らず、そのまま新橋駅烏口商店街のレンタルショップに寄って、帰国時の荷物を預け、折り畳み自転車やシェラフ(寝袋)、大型リュックなどを借り、コンビニで手当たり次第に食料や飲料水を購入してリュックに詰め、間引き運転中で超満員の新幹線「こだま」で新大阪に向かい、そこから在来線で被災地に直行しました。
 この時に立ち寄った慰問先では一様に驚かれかつ歓迎され、持参した飲食物などの救援物資も大いに喜ばれました。
悲しい捜索現場も目にしました。その一部をここに載せます。
ともあれ、徐行と停止を繰り返しながら辿り着いた西ノ宮駅で電車は完全に運行不能になりました。それまでも車窓から眺めた悲惨な風景で被害の甚大さは認識していましたが、駅前に降り立った時に、駅前のビルの傾きに気づきました。振り向くと駅舎の屋根も壁も崩れています。このとき体が震えたのは、真冬の寒さに軽装だったことよりも、いよいよ被災地本丸に出陣という緊迫感での武者震いです。
西ノ宮以西には電車が不通ということで、駅前からは振り替え輸送のバスも出ていて、バス待ちの人々で長蛇の列でした。それに便乗とと思って並んではみましたが、すぐバス会社の整理員が寄ってきて、撮影機と大リュックと折り畳み自転車を抱えた私を一瞥しただけで。「ほかのお客さんの迷惑になりますから」と乗車拒否で妥協の余地もありません。この西ノ宮駅前が私の三日間におよぶ神戸震災取材紀行のスタートラインになりました。
すでに被害の大きさは理解したつもりでしたが、芦屋から西に向かうにつれて神戸の街が、まるで小学3年生時にこの目で見た太平洋戦争末期の東京大空襲時の被害を思い出させる光景にダブって、辛く重苦しい胸のつかえを感じたものです。どの建物も崩れたり傾いたり燃え落ちたりで、まともな建物が一つもないな異様な光景に慄然としたのです。
この時、頭に浮かんだ思いがあります。
人は、突然の災害に遭えばいつ死んでおかしくないのですが、その時、悔いなく泰然と死ねるものなのか? これが三日間の被災地取材で得た命題です。これは、この災害で起きた幾多の悲劇をを手記にして、自分が東京支社長を委託されていた米沢新聞(郷土紙)への投稿を終えた時に重くこの胸にのしかかった命題でした。
 その間、幾度も無惨な死体を目にした私は、人間の生命の尊厳がかくも簡単に喪われるものか、と悲しい思いでいっぱいでした。その遺体収容現場から離れても、泣き叫ぶ家族の声は耳の奥から脳天にまでこびりついて、いくら忘れようと思っても忘れることはできません。
カメラに収めた地震の被害状況の悲惨さは筆舌に尽くし難いもので、これを克明に描かねばならない新聞記者の仕事の大変さを実感した3日間の取材旅でした。
三ノ宮近い住宅街の瓦礫の下から洋装の人形を抱えた幼い女児の血まみれの遺体が見つかった現場は悲惨でした。これを見て泣かない者は一人もいませんでした。私は本来が無骨な山男でボディガードも職業にしたことのある修羅場好きの無神経男ですが、心の琴線に弱点があるらしく、このような状況になると人前でも大泣きして恥を晒す癖があり、これは今でも変わりません。この時も思わず大声で嗚咽した記憶があり、今でも思い出すと涙が止まりません。

 私の本業(花見化学)の取引先であるスイスK社の日本支社は、巨大な埋め立てプロジェクトで完成した人工島「神戸ポートアイランド地区」の高層ビルの36階にありました。その島への橋も壊れて車は通れません。それ以前に、震源地に近い人工島周辺は泥状化と地盤沈下で高層ビルは傾き、コンテナ荷役用の巨大なクレーンも倒壊、海辺の駐車場にあった車両が地盤の斜傾化で海に投げ出されていました。鳴り物入りで発足した神戸の新名所「神戸ポートアイランド」は、かくして電話も電気も不通、給水車も通えぬ死の島と化して救援隊からも見放されてしまったのです。
泥状化した道路は自転車も手押しで進むしか方法はありません。雪山のラッセル(トップがピッケルで胸まである雪を左右に掻き分けて前に進む)その状態と同程度の疲労度でかなり足腰にダメージが残ります。その疲労困憊した状態で辿り着いた目的の神戸ポートタワー、その時はすでに精も根も尽き果ていました。それでも気を取り直して、予定した食料と水だけをリュックに詰め、撮影機やその他の荷物は寝袋に押し込み、倒した自転車と一緒に玄関の隅に置いて、重い足取りで階段を上り始めました。なにしろ電話も通じませんからオフィスは空かも知れません。それでも救援物資は届けなければならないと思い込んでいるのが私の性格です。這うようにして辿り着いたオフィスには、スイスから派遣された管理職の
T氏ら3人の社員がたむろしていて、全員がひげ面の顔に驚きと感激の表情で私を迎え入れてくれました。
挨拶を終えた私が、ペットボトル5本の水と菓子パンなどの差し入れ物資を出したのを見て、歓声を上げた三人は、すぐボトルの水に手を伸ばし、喉を鳴らして飲みました。聞くと、壊れた橋周辺の泥状化で陸の孤島と化した神戸ポートアイランドには給水車が近寄れず、海上保安庁の小型船で運んできた僅かな水を島に取り残された人々で分けたのを大切に管理しながら次便を待つ状態だったそうで、私の持参した水はまさしく「干天の慈雨だったのです。
わずかですが「お見舞い」を手渡して商談もなく引き上げた短時間の訪問でしたが、おお互いの意思の疎通はこれで充分果たせたと自負して、また泥状地帯を経て壊れた橋を渡りました。
取材3日目の帰路に寄った芦屋地区住宅街にある知人の家も半壊状態でした。
卓上コンロで沸かした貴重なお茶を頂きながら、作業中の汚れた顔での夫婦の話を聞きました。地響き立てて襲ってきた大地震の恐怖もさろことながら、この地震で、家庭内別居状態だった夫婦仲の撚りが戻ったと、冗談っぽく照れながらも屈託ない夫婦の笑顔が印象的でした。
この知人は還暦を過ぎたばかりで食品会社役員、妻はピアニストでピアノ教室主宰、それぞれが多忙な日々ですれ違い生活で家族らしい会話もない他人行儀の別居状態だったそうです。ところが、この大地震発生以来、日ごろは家庭を顧みなかった夫が家族を守って不眠不休の大活躍。食料の調達から水汲みや倒れた家具の片付けなど猛烈に 働く上に、近所の人を見舞って片付けの手伝いをするなど、日頃の怠慢なぐうたら亭主とはまるで別人、その変身ぶりに奥さんが仰天して見直した、というのが真相のようですが、確かにこの知人は外でモテていましたから家庭的ではなかったかも知れません。ともあれ万々歳、「雨降って地固まる」の諺を真似れば、「大地震きて夫婦仲固まる」でまさしく不幸中の幸いでした。
この話には後日譚があります。
。この知人が、私の慰問を喜んで、私の「困ったことがあれば」の言葉にすぐ反応しました。
「工業用の石英ヒーターを」と言うのです。
理由を聞くと、電気は開通し、水も大量に供給されるようになったがガスの復旧見通しが立たないために風呂が沸かない、そこで「花見化学なら何とかなる」と思いついたそうです。
確かにその通りで主力商品ではありませんが、扱ってはいますので在庫がある場合もあります。早速、電話の通じる大阪市内に戻ったところで会社に電話をすると、たまたまご希望の工業用ヒーターの在庫が3本だけありましたので、あて先を告げて、救援物資扱いで宅急便で出すように手配しました。一般の荷物は配送停止ですが,救援物資は配送先によっては到着日時未指定で扱っていたのです。
このヒーター3本のお陰で、T氏の町内会は順繰りに風呂を沸かすことが出来たことを後で聞いて、私も及ばずながら本業で被災された方々のお役に立てたことを嬉しく思ったものです。
まもなく関東を襲う大地震もやってきます。その時は自分も被災者になります。その時の準備については、まだ何もしていません。いざとなったらなるように成る・・・これも何事にもルーズで不器用な私の生き方の一面です。

この取材で忘れられないエピソードを三つだけ選ぶとしたら、一つは前述の少女の遺体発見現場。二つ目は、木造住宅が多かった長田区の中心部から燃え広がって焼け落ちた見渡す限りの荒涼たる焼け野原の凄さです。
ここに残された商店街の鉄骨のアーケードの残骸、このアーケードの無数のアーチ型鉄骨残骸が恐竜のあばら骨が並んだように見え、見事なまでに長く続いていて、悲惨な中にも壮絶な美しさを醸し出していたものです。このアーケードの長さを見ただけで充分に、往時の賑わいが想像できます。それが一瞬の地震で瞬く間に灰燼と化すのですから天災は恐ろしく冷酷です。しかも必ず襲ってくる現実的な自然現象ですから、ただただ畏怖するばかりで、その来襲をとめることは出来ません。
三つ目は、被害の大きかった西の外れの須磨地区での出来事です。
優雅な木造建築が殆どの須磨地区の高級住宅街も壊滅的な被害だったのですが、取材も三日目になると目も頭も麻痺するらしく同情も感動も驚愕もあまり感じなくなって感性が鈍っていることに自分でも気づきます。
ここで私は取材を絶ち、ここからUターンして帰京することにしました。ただ、折角須磨まで来たのですから寄り道に「須磨寺」にと思ったのです。
西国街道沿いの高台にある源平ゆかりの須磨寺のさほど長くない階段を必死で登って立ち寄り、わずかな喜捨で取材旅の無事を謝して合掌し、「義経腰掛の松、平敦盛首洗井戸」などを見学、名水で喉を潤して疲労半減と思い、意気揚々帰路につきました。ところが、階段を降りるときに膝ががくがくと震えて転落しそうになり、思わず腰を落として暫く呼吸を整えてからゆっくりと降りたのです。やはり疲労はピークに達していました。これでは西宮までは無理、もう一泊野宿か学校にお世話になるかです。
そこで、階段下に置いたままだった自転車に乗ってから方針を変え、須磨の海岸で少し休憩することにしました。
と、長い前置きですが三つ目のエピソードです。
冬の砂浜にリュックを敷いて寒風に震えながら休憩している私の視線の右手先に、海岸を散歩する老夫婦らしき姿が見えました。仲睦まじく手袋の手をつないでゆったりと散策する防寒コート姿の老夫婦は、曇り日のお昼前でしたがなかなかの絵になります。私は、緊迫した三日間の中で唯一、憩いのひと時を得た感じでそれを眺めていました。
すると、私の正面よりやや右手の位置で立ち止まり、しばし白波荒い沖合を眺めていた二人の足どりが、海に向かって動いたのに気づき、私は無意識に立ち上がってその背後に急いだのです。二人を驚かせないように、わざと砂を蹴って人の気配を感じさせて老夫婦に近づき、二人が振り向くのを待って、「散歩ですか?」と出来るだけ穏やかに声を掛けました。
振り向いたお二人の表情は暗く沈んでいましたが、口を開いた80代と思しき老父の声は穏やかでした。
「ええ、その通りです」に続いて、私が郷土新聞の取材で来たことを告げたので安心したのか、重い口を開いて少しだけ身の上などを話し始めましたが、奥方が「もう帰りましょ」と口を挟み、二人は私に深く頭を下げて元来た方角に去って行きました。
短い会話で真相は知る由もありませんが、一人息子を大学生時代に病で失い、会社勤めの定年後は、夫婦二人で趣味を生かして美術商を営んでいたが、それも10年ほど前に廃業して年金生活、今回の地震で二人の家が半壊し家財は何とか助かったが住む家がなく、知人の家に厄介になっている状態での散歩というところまではパズルを繋いだが、私が出しゃばり過ぎたのか良かったのか悪かったのかは、いまだに謎として残ってしまいました。
あの日の私はまだ血気盛んな59歳、人生に夢も希望もいっぱいっただけに老夫婦に良かれと思って声を掛けました。
しかし84歳の今は、日本一の激流・球磨川で大アユを掛けて足元が崩れ、流れに呑み込まれらた時、下手に助けられたら、長い間思い描いて来た千載一遇の好機を逃すことになります。そう考えると、今の私ならお二人を黙って見送りできたのに、と深く反省しています。
ただ、あの老人夫婦は単に波打ち際を歩いていただけかも知れないのです。だとしたら私はただのお節介男に過ぎず、25年後の今日もまだグダグダと考えている自分が阿アホらしくなります。私が選んだ三つ目のこの、真相不明の老夫婦事件が、阪神・淡路大震災における私の選んだ気になる挿話の一つ私のカン違いから起きている可能性もあるのです。