グラバー、龍馬と花見正樹の共通点。


 花見正樹のこじつけシリーズー2

 グラバー、龍馬と花見正樹の共通点。

咸臨丸 に対する画像結果明治維新の礼賛者には、「維新は長崎から」という俗言があります。
その通りで、幕末に活躍した名のある物物の誰もが長崎で学び長崎で活躍した人物であり、その方々の台頭によって日本が生まれ変ったようにも思えます。でも、もしかして長崎で大きく変わったのは人ではなく、
外国から渡来した文化だったのかも知れません。

 幕府が長崎を開港して以来、外国の文化文明や物資が奔流の如く我が国に流れ込んでいて、これが徳川幕府260年の為政で保守的になっていた人々の思想まで変えてしまったのです。
その中で、最新兵器や武器弾薬、軍艦などを大量に販売した挙句、多額の貸付金が回収できずに倒産した「グラバー商会」の影響も少なくはありません。

 そググラバーと意気投合してそのお先棒を担いだ土佐藩脱藩浪士・坂本龍馬などの幕末の英傑たちも大勢います。
グラバー に対する画像結果 グラバーもまた、それに応えて、薩摩藩の五代友厚や森有礼らの海外留学に手を貸し、長州五傑の井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)らのイギリス渡航をてつだったりして、期待以上の働きをしています。

 トーマス・ブレーク・グラバー(英・1838年6月6日 – 1911年12月16日)は、スコットランド出身、父はスコットランド沿岸警備隊の1等航海士でした。
 グラバーは21歳の時に単身上海に渡り、海賊兼業で世界的に著名な英国の国策商社「ジャーディン・マセソン商会」に入社します。入社して間もなく、日本の徳川幕府が長崎を開港したことを知った本国の方針もあり、若いグラバーが長崎に派遣され、日本の国内情勢を探り、来日2年後に本社の支援で「ジャーディン・マセソン商会長崎代理店」として「グラバー商会」を設立します。
坂本龍馬 に対する画像結果 グラバー商会設立2年後の1861年(万延2年)に、初めて長崎を訪れた坂本龍馬と知り合い、龍馬の人柄を認め、その翌年、幕府が海軍操練所を解散したのをみて龍馬は、以前から目論んでいた貿易商社兼私設海軍の設立を画策、薩摩藩や長崎の豪商、小曾根乾堂(こぞねけんどう)の援助を得て「亀山社中」を立ち上げます。
 龍馬は直ちにグラバーと交渉し、「亀山社中」を「ジャーディン・マセソン商会長崎代理店」の下部組織の販売店として認めさせ、武器・弾薬・船舶などを西国雄藩に販売する権利を得て、商社活動も始めます。
会津若松城 に対する画像結果

 

 龍馬は早速、大量の武器弾薬や戦艦などを薩摩藩の名義で長州へ売り渡すなどの斡旋商売を行い、険悪だった薩摩と長州の関係を修復し、薩長の武力倒幕に力を貸しています。その龍馬も思い半ばに何者かに暗殺されます。
の後、薩長の思惑通りに内戦が勃発します。当然ながら、この戦いでは多くの死傷者が出ています。
 しかも、戊辰戦争終結後も「佐賀の乱」や「西南戦争」などが起こっているのですから大変です。
 会社概要戊辰戦争の死者数8420人、西南戦争における死者数は13168人、合わせて約2万5千人にもなります。
 このうちの多くの犠牲者が、グラバーと龍馬ら死の商人が斡旋した「ジャーディン・マセソン商会」経由の兵器で殺害されたと思うと、ただただ申し訳なくて私の胸は痛み、斬鬼の念に耐えません。
 理由は、私の持つ「花見化学(株)」の主力商品が、かつては「ジャーディン・マセソン商会」経由での輸入品で、私はその「ジャーディン・マセソン商会」の販売代理店だった過去があるからです。合掌。

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