命の大切さ!

今日は、川崎の中学生が遊び仲間に殺された事件をニュースで取り上げていました。 少年法の壁がありますから、犯人グループの名は出ませんが「極刑に処すべし」との思いがあります。
私の中学氏時代も仲間割れやグループごとのケンカはありました。その場合、例えば学期始めに5対5で、1から5番まで取り組みが決まっていて、素手の殴り合いです。 ケンカは、どちらかが「参った」というまで続き、3勝したグループが勝ちで勝負は決まりです。 A,B,Cと3グループ対向で2試合を戦うこともあり、終わるともうヘトヘトでした。 こうして勝ったグループがその学期の天下で、何でも優先、あんな楽しいケンカが出来た時代が懐かしく思い出されます。
今は、殺伐とした陰湿なリンチでの殺しで、しかも多勢に無勢ですからケンカではなく単なる殺人です。
これでは、やたらにケンカも出来ませんし、こんなことで尊い命を失うなんて何ともやりきれません。
人は誰でも必ず死を迎えます。ならば、生きている間ぐらい、価値ある生き方をしたいものです。
価値ある生き方を・・・ただ、この人それぞれの死生観には大きな違いがあるようです。 その違いはどこから生まれるのでしょうか?
ごく最近頂いた日本文芸学院文芸仲間からのメールから抜粋します。
”数日前、自分が死んだ夢を見ました。切腹をしなければいけなかったようです。それを思い出し、畳の部屋に正座をしました。切腹にしては刀もナイフもありません。でも、正座をし、目を閉じて「その時」を待ちました。介錯人はいませんでした。それも不思議なのですが…、ある瞬間、「ばすっ」という音を聞きました。同時に、私
の首が正座する私の前に落ちました。「あれ、血が一滴も出ていない。介錯人ってやはり上手なんだ」、そんなことを思っていました。痛みも悲しみも乱れもないのでした。
夢はそれで覚めました。
「死の予兆なのかな」と、暗く重い気持ちで考えました。もう少し生きていなければならないので…。エッセイをもっと書きたいし…。
ネットで検索しましたら、やはり「死の予兆」だと書いてあります。また、仕事が行き詰まって抜け出そうとしている状態とも書いてあります。兄弟や友人に話しても一笑に付されるでしょうし、他人の悪夢に付き合ってくれるひともいなでしょう。人生をしっかり歩かれている先生に語ることで、私の気持ちの重さが軽減できるのでは、と思いました。こうして語っていながら少し気分が軽くなる思いをしております。
申し訳ございません。長メールになりましたが、このままお忘れください”
これに対する私の返信です。
”この程度の夢でビビってはいけません。時代物や推理小説を書いている作家は、頭の中でかなり人を殺しています。当然の報いとして夢で戦いに巻き込まれて殺されたり、復讐されて惨殺されたりします。その夢で見た修羅場はつぎの作品に生かせますから、その夢がリアルで恐ろしいほどウェルカムです。私は拳銃で頭を撃ち抜かれて脳漿が噴き散ったり、日本刀で突然背後から首を刎ねられたりします。飛び散った血の海の中の首だけの自分が、血の海の中から斬った相手を睨んだら、なんと、知人だったりします。したがって自分が死んだ夢など数えきれません。私の著書に「この一冊で夢占い師になれる」があります。その中で、私は枕元にメモ用紙を置いて夢日記を書いていることを告白しています。ただし、重要なヒントがある夢以外は書き留めません。この中でも殺される夢はイヤですが参考になります。私はいつも殺されると、「ああ、これでお終いか・・・」と、そこで人生を諦めます。目が覚めると、「あれ、生きてた!」と、何か大きな儲けものでもしたみたいに周囲を眺めて、一人密かに生きている喜びを噛みしめています。これは、夢を見た時だけではありません。私にとって、眠ることは死ぬことです。朝の目覚めは死から蘇生した生き返り現象ととらえています。だから毎日が新鮮なのかも知れません。
万が一、家人に見られたら困る夢・・・っ艶夢もあるからです、私は今79歳、ゴールが近づいていますので、私の死生観を遺そうと思い立ちました。それが、この「曼珠沙華」です。きっと、これを読んで頂ければ、人は誰でもいつかは死ぬ、という必然をごく普通の日常生活の一コマとして受け入れる、死を迎えるにあたっての心構えが出来るようになるはずです。

母の入退院騒ぎです。

先週からの続きで、母の入院騒ぎについまた触れます。 まず、2月2日から3日にかけての深夜に心不全で呼吸困難になり救急車で病院に運ばれ、医師からは危篤状態だと言われました。兄弟身内の何人かを病院に呼びました。100歳と6ケ月の母親が点滴で酸素吸入、医者も見放すのは無理もありません。保護者の私はその都度、医師から出された死亡時同意書にサイン捺印、もう何度目か忘れました。医者も騙されるぐらいですが、これは家族にとって嬉しい誤算です。オオカミ少年のたとえ話から考えて、次回の緊急入院時んは、弟達に連絡しても駆けつけて来ないような気もします。 今回の病名は、心不全と肺水腫、レントゲンで見ると心臓にまで大量の水が溜まっていました。 医師の治療計画は「利尿剤などで体に溜まった水分を排泄し、心臓の負担を軽減、心臓に溜まった胸水が減るまでは必要に応じて酸素投与を行うというものです。これが医師の推測を超えた順調さで推移し、一昨日の19日(木)またまた無事に退院、浮世に帰還です。今、ニコニコしながらテレビを見ています。と、危機を孕んだ世界の趨勢とは無縁に、我が家はひと時の平安をむさぼっています。もう無理、そう思いながらも必死に無事を願っている自分がいます。こうして、つねに母の大往生と向き合いながらも、あと4年半で母・105歳の誕生祝いです。 その時、自分はこの世に? こればかりは成り行き任せ・・・これが天意です。

バレンタインデー

バレンタインデー
小学生の孫からチョコのプレゼント、嬉しい出来事です。
今日、14日は土曜日、恒例の山口放送ラジオで当然ながらキャスターからは、バレンタインデーの話題が出ます。
私はせいぜい孫からの贈り物で逃げたいところですが、あれこれ話題が盛り上がって私の締めの挨拶に入ります。
「さて、今日から一週間共通の一言は、チョコの効果は気にしない・・・上げても貰ってもチョコの話題はこれで終わり!」
インフルエンザが下火になったら、杉の木の花粉シーズンがやってきますね。
これも、かなり厄介なものです。私の築地サロンでは、花粉除去機を購入して24時間稼働にしました。おかげで来客から好評です。
最近、周囲の親しい友人知人で体調不良を訴える人が多く、何だか医者知らずの私が肩身が狭い思いをしています。
2月3日(火)深夜、100歳の母が心不全で呼吸困難になり、救急車で近所の済生会病院に緊急入院しました。
100歳を超えていると弟達も達観していて「万が一のことがあっても仕方ないよ」ともう誰もが諦めています。
すぐ、医師に呼ばれ「心臓に水が溜まっているが手術は体力的に無理、高齢でもあり、いつ発作が起きるか分かりません。お気の毒ですが万が一を考えて・・・」で、”死亡しても病院に責任はありません”のような内容の書類にサインして印鑑を押します。またまた酸素吸入と点滴、タンが絡んだ荒い息で死んだような表情、いつ心臓が止まってもおかしくない状態であるのは間違いありません。私が母の最期を覚悟して捺印したのは、これで3度目、もう慣れっこです。医師の助言もあって弟達には「病院に見舞いに」と連絡して、一目だけでも生前に顔を見せてやろうとの兄心です。
ところが、昼間、私が築地の事務所で仕事中、すぐ下の弟、といっても10歳違いの弟からの電話です。
「いま夫婦で病院に来たけど、死にそうもないんだけど」
なんだか怪訝な様子で、いかにも私と医師が結託して大げさに騒いでいるのではないか? との不信感がありありです。
「変だな?」、たしかに前の晩に見た時は死にそうだったのです。
さっそく、その夜、仕事を終えてから病院に駆けつけると、母は死んだような表情で目を閉じ、酸素吸入のマスクが外されています。
とうとう医師も諦めたのか、こう思って母の手を握ってみると、まだ手が温かいのです。
「まだ生きてる」、何だかホッとしたところで母が目を開けて私を見つめて口を開きました。
(遺言かも?)、心構えは出来ていますが、やはり緊張します。
「この部屋はテレビはないのかえ?」
これが第一声です。とんでもないことです。救急車で運ばれて死ぬの生きるのの患者が言うべき言葉ではありません。第一、緊急患者専門の部屋を用意してくれた病院の皆様に失礼です。思わず「シッ!」と口を塞ごうとしましたが、それで窒息死したら私が高い塀に囲まれた鉄格子入りの狭い部屋に入院しなければなりません。長い介護生活ですから、この場の処方箋も心得ています。すぐ病院の売店に行って週刊誌を買い求めて手渡すと、それで大人しく本を少し読んで満足したように眠りにつきました。
ただ、ナースセンターに挨拶して帰るとき、週刊誌を与えたことを言い忘れてしまいました。
翌日の夜、寄ったら週刊誌は忘れ物として保存されていました。
母の生態を知らない看護師は、まさか瀕死の重病人が”週刊誌を読む”など考えてもみなかったと思います。
こうして週刊誌は無事に母の手に戻ったのですが、また事件です。仕事中の私に病院から電話があり、母が死ぬか生きるかという表情で荒い息をしながら「トイレに歩いて行く」と言い張るのだそうです。家でも、デイサービスから宿泊まで世話になる地元施設でもそうでしたから仕方ありません。看護師が運んでくる車付きのオマルやおむつでは無理なのは分かりきっています。母は死ぬまで人間の最低限の尊厳を守りきろうとしているのです。もっとも、それを習慣づけたのは介護無知の私ですから罪は私にあります。
なにしろ、病院のマニュアル通りに患者に接している生真面目な白衣の天使も、この死に損ないの重病人にはかなり手こずっている様子が窺えます。なにしろ、ぜいぜい酸素吸入をしながら苦しそうに手をあげるから、看護師が慌ててマスクを外して耳を口元に当てると母が虫の息でこう言ったそうです。
「そろそろお迎えですか? いつごろですかね?」
これこそ、看護師泣かせの悪い冗談なのですが、本人は全く気にもしていないのです。
こんなことが続いて悪い予感がします。
案の定、12日(金)の昼間、病院から緊急の呼び出しです。
「とうとう母のご臨終か・・・」
3人いる弟達は、私にゲタを預けた5年前から母の死に対する免疫は出来ていて、何を言っても驚きません。
それでいて母105歳の誕生祝の会場として幸手市の温泉施設の大広間をすでに仮予約しているのも弟達ですから呆れます。これだと何としても105歳までは私が必死で生かさねばなりません。もっとも、これだけ先のことだと温泉施設でも解約したからといって違約金を寄こせとは言わないはずです。しかし、私としては違約金を取ると言ってくれれば、その僅かな違約金惜しさに母親の延命を必死に考える、というケチの理屈が成り立つのです。
それが、突然の病院からの呼び出しで105歳の夢がフイになる・・・ともあれ、来客一人を断って病院に駆けつけました。
相談室に集まってたのは主治医、介護婦長、担当介護士など5名ほど、どなたも真剣な表情です。
いきなり、主治医が口を開きました。
「本日は退院の相談です」
やはり? 死期が近いから畳の上で?
これは、5年前に私が千葉県松戸市の病院に入院していた母に使った手です。
当時、母の危篤を伝えられて親族が集まり、病院でも臨終近しとの宣告を受けた時です。
母を我が家の畳の上で看取りたい、その一心で死に体の母を車に乗せて帰って来たのがそもそもの発端です。
早世した兄に代わって7年間、母の面倒を看てくれた兄嫁もギブアップしていて私が母を引き取るのを黙認してくれました。
その時の要介護度5が、今は要介護度1、そんな母を今回の病院と医師は見捨てませんでした。
「これを見てください」
レントゲン写真を見ると、心臓の30%を占めていた水の影が、なんと10%ほどに減っているのです。その医師が打った手がドンピシャリ成功した事例です。医師は、手術は無理だから利尿剤の服用と、飲み水1日500CC以下、「これを続けました」とのことです。
食事も平常の半分ほどまでに回復しているし、リハビリに歩かせてみたら、よく歩いたそうです。
早速、出入りの施設に連絡をとったところ、部屋の準備が出来次第連絡するからデイサービスなしの「入居に切り替えます」、との親しいケアマネの助言です。やはり、年齢からみて医療と介護の24時間体制が必要だから・・・が、その理由です。
”雨降って,地固まる”、なんだか今回の母親の入院騒ぎは、私に大きな時間をプレゼントしてくれたようです。
おりしも今日は聖バレンタインデー、母親からの嬉しい贈り物のような気がします。

私の寿命活用法

人生を楽しくたたむ開運法
「有難う、楽しかったよ」と笑顔で別れを!
270209
その1、私の寿命活用法
月日の流れは速いもの、”光陰矢の如し”はまさしく実感です。
”少年老い易く”、野山を駆けめぐり川で魚獲りに興じた悪ガキだった私もすでに79歳になりました。
”学成り難し”、全くその通りで、何の言い訳もありません。無為に年を重ねました。
日本人男性の平均寿命は80、21歳(女性は86、61歳)、あと1年が私の本来の寿命です。
ただし、80歳まで生きると平均余命が約8歳(女性は11、5歳)ありますので、1~9年間が私の持ち時間となります。
最短の1年と最長の9年では、計画も生き方も楽しみ方も大きく変わります。
あと1年の場合は、この夏あたりまでに仕事も交友関係も浄く幕引きをして、悔いのないようにしなければなりません。
いや、夏までだと初秋の大鮎釣りが出来ませんから、秋まで延長して11月に整理することにします。
あと9年生きるとしたら、まだ今のペースでのんびり推移しても大丈夫ですが、自信はありません。
そこで、平均寿命と平均余命の折衷案を考えました。
すべての社会的な行動を、4・5年後に打ち切ることにします。
この一文を見た人は、私に多少でも利用価値があると思われましたら、この期間に私をフル活用してください。
そのかわり、どのような交流があろうと2019年の夏までです。
この文章を見ることのない友人知人には、口頭で伝えることにしています。
ところで、運勢学でみた私の天運は、100年年運表では83歳、これから見てもあと4年はあります。
と、いうことはあと4シーズンも大鮎を釣るチャンスがあるのですから心が躍ります。
右脚ブロックという心臓病を抱えながら駆け抜けて来た人生も、この鮎釣りが済んだら幕引きにします。
鮎の釣り人は、土手に咲く真っ赤な曼珠沙華の群落を見て落ちアユの季節が来たのを悟って一人涙するものです。
熊のような髭だらけで真っ黒に日焼けした大男が、土手に停めた4駆の運転席で目頭を拭っているなど絵になりません。
私は、今までに何度も同じようなシーンを見てきました。これは他の趣味でも同様のケースがあるような気がします。
1年で寿命が尽きるために”年魚”とも呼ばれる鮎は、曼珠沙華が咲く頃、三々五々海に落ちてゆきます。
これを機に激流から鮎の魚影が消え、翌年の晩夏の大鮎の季節まで虚しく寂しい空蝉の気分で過ごさねばなりません。
そして今、まさに私にとってその季節、ならば初夏の若鮎で・・・その気がないから困っているのです。
鮎の解禁は6月・・・私は鮎釣りシーズンの終期になってから竿を磨いて大鮎釣りの準備を始めます。
あと一尾、たった1尾でいいから尺鮎(30・3センチ)を! これが唯一の具体的目標です。
なにしろ、ここ4,5年は29センチ止まりで悔しい思いをしていますから心は逸っています。
なんだかチグハグな人生ですが、これはこれで楽しいのですから仕方ありません。