コブシとの別れ

こぶし2 (2)
植物にも命があるのは当然で、罪のない木を切らねばならない辛さは当事者しか分かるまい。
その当事者がかくいう私自身なのだから・・・
去る17日(日)、家人の強い要望から庭のコブシを根本1メートル上から断裁したのだ。
私の狭い二階の書斎からは見えないが、二階のベランダ側の部屋で座卓で仕事をする時は、ベランダ越しにコブシの葉が緑いっぱいに初夏の風に揺れて心を癒してくれていた。栃木の植木市で買ってきた細い苗木を植えてから三十年余の歳月を経て根元の幹は直径約30センチ、堂々たる大木に育ったコブシ、その愛着のあるコブシを切らねばならない。その断首人の立場をここ数年頑張って保留してきたのだが、ついにそれを履行する時がきた。断腸の思いではあるが仕方がない。一階の居間が緑いっぱいのコブシに南東の陽光が遮られて日中でも暗い上に、今年は花が咲いたおかげか葉を食う虫が大量に発生して、集まってくる小鳥たちでも退治しきれないのだ。
コブシは北関東各地の山岳地帯に多く野生するモクレン属の落葉広葉樹で、渓流魚の解禁に合わせるように真っ白い花を梢いっぱいに咲かせ、て、春の訪れを知らせてくれる。
私の半生にとってコブシと曼珠沙華、この二つの花はつねにまとわりついて離れなかった。そのコブシとも別れの時がきた。
私は以前、3月に入ると渓流魚の解禁で栃木県の大芦川流域の清流に通っていた。同い年の釣友漁協の役員で、イワナ、ヤマメの放流場所をや数量を熟知した上での同行だから、釣技で劣る私でも大釣り間違いなし・・・その清流近くには純白のコブシの花が満開だった。
したがって、コブシは私にとっていい想い出だったのだが、その地元漁協役員の友人が数年前に逝き、その周辺に立ち寄らなくなってから満開のコブシを見ることもなくなった。せめてもの我が家のコブシ・・・それを庇うのもこれまで、日照権と虫害には勝てない。
さて、ノコギリを入れてみて驚いた。パラパラと大粒の雨が降るように白い虫が落ちてきて帽子や肩が虫模様、たちまち庭が虫だらけ、これでは家人からコブシ擁護論者の私にクレームがつくのも止むを得なかったと少しだけ納得、積極的に伐採作業を施行した。
その結果、一階の室内がさっぱりと明るくなり、二階も枝葉の緑は消えたが爽やかな青空が広がった。
これで私のコブシへの想いは薄らぐのか思いが残るのか? 月日を経てみないと分からない。
曼珠沙華・・・これはもう、私が鮎を人生の無二の友とする限り、心の中で永遠に断ち切ることは出来ない。今年もまた曼珠沙華の真紅の花との出逢いが遅くなることを願うのみ。曼珠沙華の花は、鮎の季節の終わりを残酷に私に告げ、私はその真っ赤な花を見て涙する・・・また、鮎の季節まで1年近くも待たねばならないからだ。

逝く春

逝く春
花見 正樹
桜散りわびしき鐘の音本願寺
窓開けて魚匂う風に初夏を知る
荷を曳くや築地の春の仲買人
夏近し半そで男や魚市場
人の群れに季節の変わり目感じつつ
赤い傘初夏の陽避ける婦人かな
本願寺春に逝きしはどなたやら
もの書きの見果てぬ夢や空と海
散る桜遠くに海を眺めつつ
初夏告げて築地の空にかもめ鳥
待つ人のなき我が身なり春ぞ逝く