第五章 葵と二郎

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1、 武器(1)

「やけに冷えるな」
海原二郎は、バッグを担いだ肩を揺すり、黒皮のハ-フコ-トの衿を直しながら、今、出たばかりのホテル・メトロポ-ルの玄関先から朝空を仰いだ。
5月初頭の午後、風は冷たく空は抜けるように青い。
その青い空にくっきりとベルナ-オ-バ-ラント地方の山々が白銀の稜線も鮮やかに浮かび上がって連なっている。
警備会社メガロガに入ったパリ警視庁から警察庁経由の非公式情報によると、小城財相と私設秘書の草苅を連れた拉致犯らは、多額の身代金を要求しつつ人質を連れたままジュネ-ブ、チュ-リッヒ、インタラ-ケン、さらに山岳地帯へと国境を越えて移動していることが電話の盗聴や目撃情報などによって探索されていた。財相と一緒に拉致された第二秘書の迫丸が何者かに殺害されたことも、事件を複雑にしていた。
関係各国の警察は、人質の生命保全のために秘密裏に連携をとりながら追跡の輪を縮めているという。二郎は、新しい情報が入る度に連絡の入る田島ボスからの指示で、パリから始まってすでに何回もの移動を繰り返し、今は、このスイス・アルプスへの拠点となる小さな山間の町インタラ-ケンから、さらに山岳地帯に向かおうとしている。
インタラ-ケンのメインストリ-トは通称ヘ-エグェ-クと呼ばれるが、その道を真っすぐ東に進むと、ユングフラウヨッホ行きの始発駅となるインタ-ラ-ケン・オスト駅になる。海原二郎はのんびりと駅に向かって歩きながら周囲を眺めた。
メインストリ-トの南に広がる中央広場には、赤、黄、白と色とりどりのチュ-リップの花があざやかに咲き誇り、早い午後の陽光に眩しいような輝きを見せていた。観光客を乗せた馬車が、華やかな飾りつけと鈴を鳴らして通る、のどかな町だった。
通りに面して、小さな店構えの刃物店があるのが二郎の目に入った。
立ち止まってウインドウを覗くと、様々な刃物が並んでいた。
店内に入った二郎が日本語で「ナイフを見るよ」と、棚を眺めると、初老の大柄な店主が顔に皺を寄せて立ち上がり、用心深く護身用の警棒を引き寄せたのが見えた。
皮コ-トに無精髭の東洋人が、無愛想な顔で姿を現して意味不明の言葉を叫ぶのに直面したら、用心しない者などいない。二郎がすぐ「アイハブユ-ショウ- ナイフ」と店内の商品棚を指さすと、意味が通じたのか店主が頷き、いくらかは緊張を解いた様子だったがまだ警棒は隠し持っている。
二郎は無造作に何点かの刃物を握ってみて、手にしっくりしたビクトリノックスのア-ミ-ナイフを選んだ。「アイウオントジス」と身振りで示すと、大柄な店主が初めて笑顔を見せて警棒を椅子に置き、通じない言葉で親しげに話しかけながら二郎に近寄って来て握手を求めた。
二郎が代金を払うと、気を許した店主が笑顔で皮製のホルダ-を手に、プレゼントだと身振りで知らせている。そのホルダ-にナイフを収めて皮ジャンの内側に吊り、店主と握手してから二郎は外に出た。これを使用しないで済むことを願いながら……。

2、武器(2)

新緑の街路樹の下を、夫婦らしい二人連れが腕を組んでのんびりと談笑しながらすれ違い、二郎に軽く挨拶を交わして悠然と去って行く。
のどかで穏やかなこの山間の町の近くに、凶悪な誘拐犯が潜んでいるなどとは考え憎いが、ここから大きな逮捕劇が始まれば平和な山里もたちまち修羅場になる。だが、これも人命救助のためだから仕方がない。
それにしても、皮コ-トの裏側に大型のナイフを忍ばせた無精髭の二郎の存在は、たしかにこの明るいスイスの観光町には不似合いな存在であった。
駅に着いて切符を求め、ホ-ムに立って携帯を眺めると、また電源が入っていない。
朝食時に電源を切って充電していたのをすっかり忘れていたらしい。電源のスイッチをオンにしてメ-ルを覗くと着信が2件ある。
1件は、アオイというメルトモからで「今、海外旅行中です」。これはすぐ「同じく」の返信でカタをつけたが、もう1件の「また電源が入ってないぞ!」は対処のしようがない。案の定、暫くして田島ボスからの連絡が入った。

「何度電話しても出なかったな」
「山ばかりですから電波が無理でしょう?」
「EU用携帯は衛星を使ってカバ-してるのを知らんのか? また携帯のスイッチを入れてなかったか、バッテリ-切れだったかだろ? どっちだ?」
「前が当たりです。そんなことより、用件は?」
「今日の午後3時、場所はシルトホルン山頂付近、ここで大捕り物があるらしい。スイスの警察が、実行犯達の携帯電話の盗聴に成功して掴んだ情報だから今度は確かだ」
「そんな聞いたこともない山の上まで行って、ムダ足ってことはないでしょうな?」
「それは分からん。あとは出たとこ勝負だ。降りた駅で警察と合流だぞ!」
「ラウタ-プルンネンって駅でしたね?」
引き込み線から、緑と黄の二色に塗り分けられたBOB・ベルナ-オ-バ-ラント鉄道の6輌連結の下部が赤茶色の列車が近づいて来るのが二郎の視界に入った。
「来たようだから切ります」
「じゃ、あとは任せたぞ」
オスト駅から少し離れた位置にあるイ-スト駅からの乗り換え客が、いつの間にか集まって来て、車内に吸い込まれてゆく。乗客はそれぞれ国際色豊かで、なかには日本人の女性もいる。車内は比較的空いていて、それぞれが好き勝手に座席を選べるから、どうしてもアルプスの山々が見える進行方向右側の席に偏ることになる。二郎が一人だけで4人掛けの窓際の席に座ると列車はすぐに動き出した。

3、登山電車(1)

「すてき、山がすぐそこ! 感激だわ」
二郎の座席から2席分ほど前に日本の女性がいて、嬌声が聞こえて来る。
その間に乗客がいないから立ち上がると上半身がすぐ近くに感じられ、列車の進行が静かなときには囁き声でも聞こえそうだ。もっとも、この二人は周囲の迷惑など考えずに無邪気に声を上げて騒いでいる。
こんな声はいつもなら騒がしく思うのに、外国だと懐かしく感じるから妙なものだ。

標高587メ-トルのインタ-ラ-ケンから、2970メ-トルのシルトホルン山頂までの標高差2、383メ-トルを登るのだからかなりの無理がある。グリンデルワルドの急勾配に差しかかったところでアクト式ラックレ-ルという歯車に引っかけて車体を引いてゆく技術のお世話になって列車は山登り続けることが可能になる。アクトという人がこの技術を開発しなかったら、アルプスの景観は一部の登山家に独占されて、一般の人は遠くから白い峰々を眺めるだけだったはずだ。
「ほら見て、地図で見たファウルホルン、あの奥がウエッッタ-ホルンね」
その声の主が髪の長い若い娘で、なかなかの美人であると二郎は見た。
なぜ分かったかというと、その娘が立ち上がって、さり気なく振り向いて二郎を見たからだ。もう一人は半身になって景色を眺めた時の後ろ姿で、髪が短い若い娘とだけは分かったが、二郎を無視してか振り返りもしない。娘たちは窓外の景色にけたたましく感嘆の声を上げ続けていた。
「見て、見て……あれが、アイガ-よ! あの右がメンヒ?」
「その次がユングフラウヨッホ」
ゴ-ルデンウイ-クのさ中で他にも日本からの観光客はいた。騒がしいのは車内のどこもが同じで、アメリカ人の団体からは陽気な歓声がわき起こっている。
二郎は、景色などには目もくれずに、胸のポケットからサングラスを取り出して顔を隠し、仮眠の態勢には入ってみたが、若い娘が気になってなかなか眠れそうもない。

列車がゆるやかにカ-ブすると遠景が変わる。写真や映画で見なれた山が目に入る。
やがて、二郎は周囲の騒音にも慣れて、うとうとと仮眠状態に入りつつあった。
若い娘たちの会話は、まだ眠りに入っていない二郎の耳には届いているのだが、二人の娘たちは、二郎が熟睡中と確信したらしくますます調子づいている。
「パリ観光よりアルプスに変更してよかったね」
「でも、葵は美術館めぐりがしたかったのね? 葵は、私に内緒で誰かと六本木にオ-プンした国立新美術館でモネ展を見たりして」
「そんなの言いっこなしよ。モネの作品が90点以上も集まるなんて奇跡に近いからね。
睡蓮や日傘をさす女性など代表的な作品が世界中から集められて、もう最高……でも、惜しかった」
「なにが?」
「モネの代表作の〔印象・日の出〕、あれが展示されてなかったのよ」
「それは、どこにあるの?」
「ブロ-ニュの森に近いマルモッタン美術館にあって門外不出だから、ル-ブルやオルセ-もまた行きたいけど、マルモッタンだけは今回は絶対に逃せない。
ここには、ル-アンの大聖堂などを含めてモネの絵だけでも10点近くもあるらしいからね」
「時間があれば行くけど、山に行こうって言いだしたのは葵だからね」
「頼まれ取材だから仕方ないでしょ。パリに戻ったらマルモッタンに行こうよ」
「時間があればね。ところで、あの男……気にならない?」
そう言って声を潜め腰を浮かせた髪の長い娘が、また二郎を見ている。

4、登山電車(2)

「あの無精髭、日本人らしいけど、だらしなく口を開けて眠ってるわ」
サングラスの下から薄目でそれを見ていた二郎は、あわてて口を閉じようとしたが、それだと狸寝入りがバレてしまう。ここは眠った振りでと頭
の力を抜きイビキをかく。
「そんなの見なければいいじゃん」
髪の短い女は無関心なのか、前を向いたままで素っ気なく応じた。
「だって、男を見ると自然に目がいっちゃうんだもの」
「恵子ったら、もっと男を選びなさいよ。私だったらそんな男、見向きもしないな」
これで、髪の短い娘に対する二郎の好意も一気に吹き飛んだ。それでも、髪の短い娘の名がアオイ、髪の長いのがケイコとだけは分かった。
緑の樹々、そして大地の茶、それに加えて山の峰を包む銀白の雪、紺碧の空、豊かな色彩が走りゆく窓の外に広がっている。これで感動しない旅人がいたら旅をする資格も意味もない。いや、そんな男が……二郎はすでに睡魔に襲われつつあった。こんな近くに若さに溢れたすてきな娘が二人もいるのに、もったいない話だ。うつらうつらした二郎は、分厚いステ-キを食べる夢を見て口を動かした。
それでも二人の娘の声だけは耳に入る。二人は移り行く景観に夢中のようだった。
「あら、あそこの川で釣りをやっているわよ」
「マスかしら?」
「あっ。釣れた!」
その声で浅い眠りから目覚めた二郎が一瞬、視線を外に投げたときは、すでに釣り人の姿は林に隠れて川の流れだけが見えた。二郎は、娘達を眺めてからまた目を閉じた。その瞼の裏側に、立ち上がって騒いでいる二人の横顔が残像になって残った。

短い髪で目の大きい丸顔のアオイという娘は、ほどよく厚みのある唇、笑顔がなかなかチャ-ミングだ。茶系のジャケットの下に豊かな胸のふくらみを秘めた赤いセ-タ-、形のいいヒップを包んだ濃茶のワイドパンツもなかなか似合っていい。足元はよく見えなかったが通路を歩いたときに見たのは黒のスニ-カ-だった。あれだと動きも軽そうだ。

ケイコという髪の長い娘は、切れ長の目で形のよい鼻、やや受け口でいかにも男好きするタイプだった。紺のハ-フコ-トにクリ-ム色のセ-タ-、コ-トと同系の紺のスラックス、細面だから実際よりはスリムに見えるようだ。足元は記憶にないが、アオイという娘と色違いのスニ-カ-だったような気もする。職業柄、一瞬の記憶には自信がある。
二郎は、それらを確認するように眠った振りをしながらサングラスの下の目を薄く開いて前を見ると、ケイコという娘と視線が合った。いや、娘からは見えないはずだ。
案の定、ケイコという娘が、アオイに囁いているのが聞こえる。
「あの男の職業、当てっこしようか?」
「職業? いいけど、確認はどうするの?」
「本人に聞くのよ。ジャンケンできめて」
「本人に? どんな男なの?」
そこで、髪の短いアオイという娘が立ち上がって振り向いた。
「あら、無精髭だけどまあまあじゃない」
二郎は寝たふりのままサングラスの下の目を細めて娘のつぶらな瞳を見つめた瞬間、心臓の鼓動が早まるのを感じてうろたえた。アオイという娘に一瞬で好意を抱いたのだ。
しかし、その好意もわずか数秒の夢だった。娘が口走った言葉が夢を砕いたのだ。
「今どき皮ジャンで黒メガネ、女に逃げられた失業中のヒモって感じね?」
「葵はヒモと見たか……じゃあ、私は競馬の予想屋、それも当たらないヤツ」
「いい線ね、でも違うな。もしかすると麻薬の運び屋かな?」
「あ、そうか……それもありね」
「恵子。運び屋より殺し屋って線は?」
声が小さくなり現実味を帯びてくる。二郎は呆れながら聞き耳を立てた。
「怖い! 夕べ見た、あの死体……」
「あいつの仕業かしら? 東洋の男だし」
「絶対そうだわ、間違いなしよ。こうなりゃ、徹底的にマ-クして……」
「警察に突き出す手ね」
アオイという娘が携帯を二郎に向け、すかさずシャッタ-を切った。
意見の一致した二人が顔を見合せ、真剣な表情で頷いている。この娘達は見かけに寄らずすごいことを言う。二郎はがっかりして今度は本当に目を閉じた。
だが、なぜかアオイという娘が気になる。どこかで聞いたような名前だ
からだ。
「どれどれ、見せてよ」
ケイコという娘が、アオイが撮った写真を見て笑っているのが気配で分かる。ここまでは許せる。その後で「メ-ルが来てるわ」とアオイが言い、再び携帯を眺める気配があって、「なにこれ、また『同じく』じゃない!」
と叫んだ。ケイコという娘は「この人、頭おかしいんじゃない?」とまで言う。こうなると人ごとながら許せない。
その理由は、二郎も時々この相手と同様に、「同じく」という文面を使うからだ。
世の中には同じ思考の人間もいるものだ。でも、そんなヤツと一緒にはされたくない。
これからは、「same」とか、横文字に変えよう、と二郎は思った。

 

5、ケ-ブルカ-(1)

グリンデルワルドでWAB・ウエンゲルンアルプ鉄道という車体上部がクリ-ムで下部が深緑という二輌連結の本格的な登山電車に乗り換えて、自転車並の遅い速度でトコトコと傾斜の急な山登りとなる。トンネルも多く、車体すれすれのトンネルの岩肌がスイス人が何10年もの歳月をかけて掘ったという苦労と執念を感じさせてくれた。
車内は板張りで座席も木製、感触も柔らかく観光用だから窓が広い。二人の娘が先頭車輛に乗ったのを見た二郎は、意識して後部車輛に乗り換えたが二人の娘たちの嬌声は、風に乗って二郎の耳にまで伝わって来る。
海抜2061メ-トルのクライネシャデックに着くと、ユングフラウ方面と、シルトホルンに向かう乗客は、それぞれ別の二輌連結の車輛に乗り換える。こうして、何回も列車を乗り換えながら頂上を目指すのが、アルプス観光の楽しさの一つなのだが、葵から見れば面倒なだけにしか思えない。それでも、窓辺から眺める白雪の峰々は素晴らしい。パリの賑わいとはまた違った味わいがある。恵子が違う不満を洩らした。
「あの殺し屋、前の乗換地点で私たちを避けたような気がしない?」
「だったらタイミングをずらして、あの男の後から乗ったら?」
「分かった。すぐ近くに座って監視しようよ」
「恵子の好きにしなさい。私はどうでもいいからね」
本心では葵も髭男に興味はあるのだ。二人は、さり気なく景色を眺めたりして、先に男が乗り込むのを見てすぐ後に続いた。しかし、二人の思惑など気にする風もなく、殺し屋らしき髭男は、白銀に包まれた山々の景色も眺めずにただひたすら眠っていた。
やだて、行く手はるかに数百メ-トルもの絶壁から舞い落ちる雄大な滝が見えた。
「すごい! 恵子、すごい滝ね?」
「あれが、賑やかな滝というような意味をもつラウンタ-プルンネンの滝よ!」
2輌の列車から感嘆の叫びが上がり、髭男も身を乗り出すようして滝を見た。恵子が葵にささやいた。
「殺し屋だって、美しい景色はわかるのね?」
列車はいよいよ谷間の町、ラウンタ-プルンネンの駅に着いた。
ぞろぞろと降りる乗客に続いて葵と恵子もそれに続いた。
駅の南側にケ-ブルの麓駅があり、目的先によってはそこまで歩いてケ-ブルに乗る人も多いのだが、葵と恵子はシルトホルン頂上駅まで行くので駅前から少し離れた位置にあるロ-プウエイまでの連絡バスを待つことになる。
ラウタ-ブルンネンは、リュチ-ネ川沿いの谷間にある幅約800メ-トルという狭いU字型の村で、切り立った崖が両側に迫っている。澄んだ空気と緑濃濃い谷間の町には、草原の中に点在する赤い屋根がよく映える。この美観を前にした途端、葵の頭から殺し屋の存在などは消えていた。
はるか頭上の崖の上には、緑豊かなミュ-レン村の台地が広がっていて、そこからはアルプスの山々が一望のもとに見渡せる。その崖上の村には車では行けず、ヘリかケ-ブルカ-に頼るしかないのだ。アルプス観光を目的に、ラウタ-ブルンネンまで車で訪れた人は、駅の裏側にある大駐車場に車を置いて、駅の南側から出ているケ-ブルカ-を利用してミュ-レンの村に登って行く。谷底から800メ-トルも上にあるミュ-レンには車はない。大型ヘリで部品を運んで組み立てた電気自動車が駅前から走っているだけだ。
ただ、目的がシルトホルンの山頂だと、ケ-ブルカ-でミュ-レンまで行っても、そこからかなり歩いてロ-プウエイに乗り換えねばならない。それよりも、この駅前からバスで移動して、ロ-プウェイの麓駅から乗れば、移動がないから乗り継ぎが早いし、ほとんど歩かないで済むから便利がいい。
したがって、ここで連絡バスを待つ人の殆どはシルトホルン山頂駅に行くのだ。
バス待ちの列には、葵達と同じ列車に乗って騒いでいた観光客の中には、スイス、ドイツ、イタリ-などあちこちの国から集まったグル-プが集まっていた。列の後部で妙にまとまりのないフランス人グル-プが賑やかに騒いでいる。
「葵、あの殺し屋もいるわよ!」
その中の一人を見て、驚いた表情で恵子が目を剥き、フランス人グル-プの中にいる男を見て葵にあごをしゃくった。
葵が目をこらすと、かなり離れた位置ではあったが、たしかに列車内で見た皮のハ-フコ-トを着た髭男がサングラスを外したまま後ろ向きの女性と話している。
その男と話している女性を見た葵が、驚いて恵子の肘をこづいた。
「あれ? あの男と話してるの…美代じゃない?」
「ほんとだ。山岳地帯って、ここだったのかしら?」
ここで浜美代に会うとは思わなかった。偶然の出会いが意外に早く訪れている。

 

6、ケーブルカー(2)

ここで浜美代に会うとは思わなかった。偶然の出会いが意外に早く訪れている。
二人の視線に気づいた美代が、目を見開き驚いた表情をしたが、周囲を気にするように軽く手を振った。葵と恵子も軽く手を上げて同窓会以来の挨拶を無言で交わした。
しばらくすると、男と話が済んだらしい美代がその場を離れて二人に歩み寄り、二人の手を交互に握って懐かしそうに話しかけた。
「葵も恵子も同窓会以来ね。電話で話した後ですぐ会えるなんて……だけど、あんた達、本気で事件の取材に立ち会うつもりなの?」
「こうなれば是が非でも、小城財相の拉致事件の顛末を記事にしたくてね。
それより、美代。あなた太ったんじゃない?」
「そう見える? これを着てるからね」
上着をチラとめくると、防弾チョッキと拳銃のホルダ-が見えた。
「完全武装で、これからどこへ行くの?」
「ここからバスでケ-ブル駅まで行って、そこから山頂に登るんだけど、その先は私にも分からないのよ」
「あそこにいる人達は?」
「全員、警察官でフランスは10人ぐらい……あのスイス人グル-プも警官よ」
「美代はフランス警察に入ってるのね?」
「私は日本の警察の代表……と、言っても実習で参加してるだけだけどね」
「さっき、美代が話していた男は何者? 殺し屋でしょ?」
「えっ。あの人、殺し屋なの?」
「あら、あの男のこと、美代は何も知らずに話してたってこと?」
「警察庁から送られてきた民間の警護員って聞いたけど、そういえば……?」
「やっぱり、なにか疑問があるのね?」
「あの人。警察機構について全く知識がないの。変だと思わない?」
「思う思う。やっぱり殺し屋よ。誰を狙ってるのかしら、財相かな?」
「まさか? でも、あの人の面倒は私が見ることになったのよ」
「この際、このどさくさに紛れて小城財相を殺して利益がある人は?」
「それは矢部総理でしょ? なんたって強烈なライバルなんだから」
ここで美代がさらに声をひそめた。
「開放された財相を警護する振りをして殺す……あり得るかな?」
「美代も気をつけなきゃあね」
3人は怖いものでも見るような目で、髭面の男の横顔を見て頷いた。
この様子を見ていたのか、シャ-ロット刑事が近づいて日本語で挨拶をする。
美代が改めて、二人にシャ-ロット刑事を紹介した。
「こちら、わたしの指導教官で、日本通のシャ-ロット刑事です」
長身の40代、蝶の刺繍入り黄緑セ-タ-に、ベ-ジュのスラックスがよく似合う。
「パリ警視庁のシャ-ロットです。お二人がハマ・ミヨのお友達でしたら、あちらにいる警護のウナバラと4人で、日本からの観光グル-プとして仲良く行動してくださいね」
「ウナバラ?」
葵らを手で招いた。
葵が言い訳のように小声で囁く。
「あの人、よく見ると人がよさそうね。殺し屋じゃないのかも……」
恵子がけげんな顔をする。
「葵はいつも男に情をかけるから、そうやって男に騙されちゃうのよ」
美代までが反省したように呟く。
「そういえば、あの人、警視庁で私の先輩だった人が経営する警備会社の身分証明書をダニエル警部に見せてたからね。もしかすると、本物の警護員かもよ」
「何を言うの。美代までが私を裏切って!」
「裏切ったわけじゃないでしょ。これからは4人で行動するんだし、身の安全のためには絶対に私の指示に従ってもらわないと、全員が危険な目に遇うからね」
「私を脅すの?」
「教えてるだけです。じゃあ、恵子もあの海原さんと話してみたら?」
3人は連れ立って、ゆっくりとシャ-ロット刑事と談笑中の男に近づいて行った。
先に何かを言いかけた恵子に、美代が小声でクギを刺す。
「恵子、余計なことは言わないで。私が紹介するから」
美代が、まぶしそうな目で葵を見ている髭男と二人を交互に紹介した。
「こちらは警護員の海原二郎さん。こちらが私の友人の山田葵、佐竹恵子です」
「海の原っぱで、ウナバラです。よろしく……」
二郎が握手を求めたが葵と恵子に無視され、残念そうに手を引いた。
「列車でご一緒でしたね?」
恵子が二郎に話しかけた。
「そうでしたか? すっかり寝込んでいたもので」
「私たちの声がうるさくて眠れなかったのではないですか?」
「いや。まったく気にしませんでした」
その屈託ない表情にはウソがあるようには思えない。
「と、いうことは私たちを無視された、ということですか?」
「無視? とんでもない。今だってドキドキしてますよ」
二郎の目がまっすぐ葵を見つめている。髭は汚いが目は澄んでいる思いがけない展開に葵のペ-スが狂った。心臓が激しく鼓動を打っているのだ。
「と、いうことは、本当は気にしてたんですか?」
恵子が横から口を出す。
「やましいことがあるから、ドキドキしたんでしょ?」
「その通り……ちょっと夢を見てまして」
葵が話題を変えて恵子に囁いた。
「それより、後ろの二人、気にならない?」
背後を見ると、人影に隠れるようにして寄り添っている男女がいる。
パリのジャコブ通りで見かけた柳沢敬三とタレントの赤森サヤカに間違いない。
「週刊誌で別れたって聞いたけど、あの二人、まだ続いてたのね?」
「彼女は、男関係や失踪沙汰などのスキャンダルで、タレント寿命も終わりね?」
「それで、彼との交際を再開して妻の座を狙ってるってこと?」
「でも、あの男もあちこちで浮名を流してるから……」
「売れないタレントなんか、興味はないけどね」
その時、案内板に記載された予定時刻より5分遅れでバスが来た。

 

7、山頂を目指して(1)

長い客待ちの列が次々に大型バスの中に吸い込まれて行く。
動き出したバスの中で、葵達の背後に乗った老夫婦が英語で話しかけて来た。
「私たちはカナダから来ました。あなた方は日本からですか?」
「ええ、日本からです」
「日本は大好きで、3回ほど行ったことがありますよ」
爽やかな風を受けて緑の高原を抜けたバスは、峡谷の村のはずれにあるシルトホルンバ-ン・タ-ルというロ-プウェイの発着する麓駅に到着した。
ロ-プウエイ乗り場の切符売場には、たちまち列が出来た。妙なのは、順番を待つでもなく列にも並ばずにたむろしている人相の悪い男たちが、新たに到着した観光客をじろじろ眺めていることだった。葵がこれを見て弱気になった。
「恵子、ここから引き返そうか?」
「どうしたのよ、急に?」
「なんとなく不吉な胸騒ぎがするのね、予感ってヤツかな」
「バカみたい。私たち観光に来ただけでしょ? なにも危険なんかないのよ。警察官が一緒なんだから」
「でも、変なム-ドよ。あの人達はなに?」
葵の視線を恵子が辿ると、最後尾の男たちを見た。観光客を装ってはいるが確かに警官でもない。顔を寄せて何かを話し合う目つきの鋭い男たちもいる。
ロ-プウエイが降下して来て乗客が入れ代わり、葵達もキャビンに乗りこんだ。
東洋人の観光客、北欧らしいグル-プ、中東からの家族連れ、東洋系では台湾、フィリピンなどらしいが、かなり凶悪な人相の妙な観光客もいる。
赤いキャビンが、標高差数百メ-トルというラウタブルネン渓谷の断崖を一気に昇っていく。このシルトホルン行きロ-プウエイの大型キャビンは収容人員百名の大型で、ほぼ満員に近い80人ほどの乗客が乗り合わせていた。
キャビンはたちまち上昇してゆく。
この辺りには、氷河の融水で知られる名瀑が何カ所かあり、そのいずれもが観光の名所となっていた。幾世紀にわたって雪解け水に浸食され続けた渓谷の岸壁は、幾条もの白い滝の流れが、重なり合って幅広い滝になって舞い落ちる。
強風なのかキャビンが激しく揺れた。
「こわい!」
乗客は、それぞれの言葉で悲鳴を上げた。柳沢敬三と赤森サヤカも、これ幸いとしがみついて抱き合っている。それを見た葵が眉をひそめた。実際はうらやましいのだ。
落差数百メ-トルにおよぶヨ-ロッパ最大の滝ミュ-レンバッハのしぶきが、たった一本のケ-ブルにおよそ80人の観光客を乗せたキャビンの窓を激しく濡らした。
「これだから、下でこの滝を見物する観光客はレインコ-トが必要なのよね」
恵子が少し震えた声で葵に説明を続ける。
荒削りな絶壁の黒い岩肌が白い瀑布を浴びて濡れ、午後の陽光に輝いている。深い谷底の流れは曲がりくねって果てし無く続き、針葉樹の森の彼方で見えなくなっていた。
ミュ-レンの村に到着すると、乗客少し入れ代わってキャビンがまた昇った。
「もうすぐ標高2、600メ-トルのビルク山頂、次が終点のシルトホルン山頂駅よ」
キャビンは、シルトホルンより一段低いビルク山頂駅に着いた。
ドア-が開くと、ホ-ムにいた男が数人、キャビンの中を覗いて英語やフランス語などで口々に叫んでいる。その中にたどたどしい日本語もあった。意味はこうだ。
「一般の人はここで降りてください。この先のシルトホルン山頂の回転レストランは、教は貸し切りで今日は一般の人は入れません。景色ならここの方が素晴らしいし、レストランでもゆっくりと美味しい食事が頂けます」
親切めいた言葉のようだが脅しが効いていて、つい腰が浮く。大半の乗客がブツブツ文句を言いながらも降車した。たしかにアルプスの景観はここでも堪能できる。あとは食事次第だ。葵が、美味しい食事というフレ-ズに釣られたのか恵子を誘った。
「景色が同じなら、ここで降りようか?」
「ここで? とんでもない……目的はシルトホルン山頂の展望台ですからね」
美代がきっぱりと言ったので葵も仕方なく頷いた。

8、山頂を目指して (2)

葵がキャビン内を見ると、カナダの老夫婦や、シャ-ロット刑事を含む団体などは、外部からの忠告など全く気にする様子もなく陽気に騒いでいる。

車内に入り込んで来た彼らは独特の嗅覚で、会ったこともない自分たちの仲間が一目で分かるらしく、妙な連中と笑顔で肩を叩き合って挨拶を交わしている。
葵が目で探すと、サングラスでひげ面の海原二郎は離れた位置の窓際にいて、周囲の騒ぎなど知らぬ気に平然と外を眺めていた。
「おい、そこの連中! 降りないのか?」
妙に目つきの悪いアラブ系の男がホ-ムから車内を覗いて、カナダの老夫婦やキャビン内に残って一団になっているフランス人グル-プや葵たちに向かって、下手な英語で喚いた。観光客に化けたダニエル警部が笑顔で応える。
「私らは山頂に行くんでね。ここには誰も興味がないんだよ」
葵と恵子は、黙って成り行きを見守ることにして外を見ながら会話を続けた。そのグル-プに紛れ込んだカナダ人の熟年夫婦も「目的はシルトホルンだからね」と、外の景色を眺めて動じる風もない。
アラブ男が、一人だけ離れた位置にいる髭面の二郎を見つけて、彼らの仲間だと思ったのか何やら親しげに声をかけた。だが、騒ぎなどまったく意に介していない様子の二郎が彼らを無視したので、ようやく仲間ではないと気づいたらしい。途端に態度の変わった彼らは大声で二郎を罵倒して挑発した。二郎がその声に振り向き、サングラスの下から無表情に何の興味も示さずに男達を眺めている。これがまた彼らの怒りを煽った。
「その変な東洋人を、摘まみ出せ!」
アラブ男が周囲にいた仲間と共に近づいて押さえつけようとしたが、二郎が軽く左右に腕を振って身を交わしただけで、男達はキャビンの窓際まで飛ばされ、イスに座ったり床に転がったりしている。車内に失笑が起こった後で歓声と拍手が続いた。
一瞬の出来事で、葵にも何が起こったか分からない。ただ、海原二郎が強いわけではなく、偶然、男達が勝手にこけたようにも思えた。
奇妙な光景だった。
そのとき発車のベルが鳴り、脅しと説得をあきらめたアラブ人達があわてて車内からとび出すとドア-が閉まり、キャビンが動き出した。
サングラスの髭男は何事もなかったように移り行く山々の景色を眺めていた。
キャビンは急傾斜の山に沿って登り、やがて、シルトホルン頂上駅に到着した。
そこにも妙な男が数人いて、到着した人相の悪い妙な連中を握手で出迎えている。
フランス人の団体や葵たちには出迎えはなく、その男達の冷たい視線が挨拶だった。
キャビンを降りた乗客は、すぐに階段を上がって頂上の展望台を目指した。
葵が階段を上がりながら恵子に向かって毒づいた。
「感じわるいお出迎えね。いつも、こんな状態なのかしら」
「まさか。こんなのガイドブックに載ってなかったでしょ?」
「……だとしたら、頂上でなにかが起こるかもね」
「景色を眺めたら、さっさと帰ろうか?」
恵子も、さすがに気分がいい状態ではないらしい。それでも、展望台のテラスに出ると、まぶしいほど明るいアルプスの空が広がっていた。
「わあ、きれい!」「すてき、最高!」と葵と恵子。
「オ-、ワンダフル!」と、アメリカ人。
「ハオティエンチャ!」と、中国人。
「マニフィク!」と、フランス人。
誰もが、ま近に見るアルプスの偉容に感動し、あらゆる感嘆の言葉が飛び交う。こうなると、もう到着時に歓迎されなかったことなど気にもならない。シルトホルン頂上駅まで来たことが正解だったことに納得し満足していた。
中には声の出ない人もいるが、それは目の前に広がる雄大なアルプスのパノラマ風景に魂を奪われ、声もなく立ちつくしているからだ。もしも、その感動をまったく感じない人がいたとしたら哀れだが、それは目的が違うからだ。そんな人間もいた。
ホ-ムで葵たちを出迎えた人相のよくない連中もそうだが、この素晴らしい観光スポットを商談の場に選んだ人もいるらしく、テラスの丸テ-ブルを囲んで、景色など見ずに声をひそめて話し合っている密談中らしい姿もチラホラ見えていた。この連中は景色などには目もくれない。
葵ら三人は、テラスの丸テ-ブルに座って、ウエイタ-にコ-ラなど飲み物をそれぞれ注文して、楽しく語らいながら山々を眺めていた。美代も、午後3時以降に予定されているダニエル警部の指示が出るまでは自由なのだ。
「海原さんも、ご一緒にいかがですか?」
美代が一応は社交辞令で声はかけたが、同窓生3人で旧交を温めているところに妙な男が紛れ込んで楽しいはずはない。彼がさり気なく辞退してくれたのを幸いに、自然に別行動になっていた。葵も恵子も楽しいアルプス観光の夢を、変な男の介入で損ないたくなかったからそれが好都合なのだ。
葵の思い過ごしかも知れないが、二郎という男は展望台の建物の壁に背を付けて立ち、午後の日差しに輝く白銀の山々を眺めているようにも見えたが、そのサングラスで隠した視線が、絶えず自分を見つめているような気がしてならなった。