第八章 殉職

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1、逮捕劇

 ミュ-レンのホテルからシルトホルン頂上駅までのヘリの旅は、わずか数分の空中遊泳に過ぎなかった。
 だが、その短い時間の中でも、ヘリの窓から眺めるベルナ-オ-バ-ラントの遅い午後の陽に輝く山々は、白銀の中にあかねをさす微妙な色彩映し出して、二郎の貧しい審美眼をも充分に堪能させてくれた。その壮大な大自然の景観をうっとりと目を細めてまぶし気に眺めている二郎は、時の流れも、戦いの場に向かっている現実さえも忘れていた。
 浜美代から聞いたところによると、パリ警察庁の女性刑事が古い映画の一シ-ンから思い出して、この山頂が彼らの集結場所ではないかと推定したという。
そう言えば二郎も、その映画で見たこの壮大なアルプスの景観に見覚えがある。
 準男爵のヒラリ-郷に化けた秘密諜報員ボンドが、このシルトホルン展望台の敵基地に乗り込っで派手なアクションを繰り広げたシ-ンも、たしか夕焼け前の空には山々の稜線が白銀のシルエットを描いていた。
 その幽玄なパノラマ風景に見とれていた二郎は、いつか007のボンドにでもなったような気分になっていて軽い興奮を感じていた。が……ふと、我に返って周囲を見ると、実戦を前に緊張している機動隊員の中にあって小城財相は腕組みをしたまま一言も発せずじっと瞑目してたじろぎもしない。
 頭が動かないところを見ると眠っていないのだけは確かだった。
 やがて、二郎ら一行を乗せたフランス製アイロスパシアル350B型ヘリが、赤い屋根の建物から続くテラス横に併設されたヘリポ-トに垂直に降下して行く。
「応戦準備! ヘリを着地させろ」
 そんな意味のフランス語で機動隊長のデビッド警部が叫ぶと、操縦席からライアン刑事が応じた。
「先着機が邪魔で着地は無理です。スペ-スがありません!」
 先着のヘリが邪魔して、このままでは着地ができないのだ。
 本来は、緊急救助時用一機だけ離着陸可能のシルトホルンのヘリポ-トは、007の撮影用に増築され二機までが可能になっていた。だが、先着の白い自家用ヘリがヘリポ-トのど真ん中に居すわって警察用ヘリ2機の着地を妨げている。
これは確かに邪魔だ。
「あのヘリを谷底に落とせ。先攻隊はロ-プで降下!」
 機動隊長のデビッド警部が無茶なことを叫ぶと、フランス&スイス警察の機動隊員が降下口に急いだ。
 テラスの上空ま近から眺めると、回転レストラン内での撃ち合いが佳境に入っているらしく激しい銃声が聞こえ、建物の壊れた窓ガラスの間からは武装ヘリに向かっても銃弾が飛んで来る。すかさずヘリ側も応戦した。
 血と銃弾が飛び交う建物内の修羅場が、ガラス窓を通して見えるのだが、二郎達の乗ったヘリは着地できないだけになす手段もない。
 下のテラスに出た男達が拳銃でヘリを撃ちまくって来た。弾丸が機体を凹ませ、高い金属音を上げて弾けた。
 二郎に「これで援護しろ」というゼスチェアで小銃を押しつけた機動隊員もロ-プを伝って降りてゆくと、それを目掛けて建物から飛び出した男が拳銃で撃ちまくってくる。
 二郎があわてて開いた窓から半身を乗り出して、機動隊員から渡された80センチ弱と短いスイス製アサルトライフル30連発小銃を構えた。もはや非武装国家の一員などと言っている暇はない。援護を頼まれたのだから仕方ない。
 二郎は直ちにセ-フティレバ-を外してトリガ-を引き絞り、下から拳銃を乱射している男を脅すつもりで足元を狙い撃った。しかし、慣れない銃だけに狙いが狂って脅すつもりが実際に足を撃ったらしい。男は、たちまち拳銃を放り投げ悲鳴を上げ、足を引きずって建物内に逃げ込んだ。
 二郎は何発か撃っているうちに銃の性能がつかめて来た。若いころはエア-ガンに凝ったこともあり、猟銃の免許も持っていて友人が会長を勤める栃木県那須市の猟友会に参加して猪を追ったこともある。その上、フィリピンの射撃場で拳銃の実弾射撃の訓練もしていて銃には少々自信がある。ただ、あまり自慢できる趣味とも言えないから人には話したことがない。
 テラスに降り立ったデビッド警部ら機動隊員全員がただちに力を合わせて、敵の白いヘリを動かして柵越えに谷底に突き落とした。これで、武装ヘリの着地スペ-スは確保できたが、白いヘリが白雪の中に転落する激しい音に気づいた敵が怒りの怒号を上げ、激しく銃を撃ちまくってくる。
 デビッド警部が、テラスのテ-ブルに身を隠して銃弾を避けながら、ヘリに向かって降下するように手招きし、そのまま部下に声をかけて銃弾の中をかい潜って部下と共に建物内に突入して行った。隊員が一人、回転レストラン内から乱射する敵の銃弾に撃たれ、腰部を撃たれてもがいている。

 

2、逮捕劇(2)   

 心配した二郎が窓から見ていると、一階のレストランから浜美代と佐川恵子が飛び出して傷ついた機動隊員を抱き起こし、両側から肩を貸して室内に運ぶのが見えた。
 二郎は、山田葵らがここか立ち去っていることを望んでいたのだが、その願いも恵子の姿を見たことで吹っ飛んだ。
 ここは何としても、あの二人だけは救出しなければならない。あの恵子はともかく葵だけは助けたい、と二郎は思った。縁もゆかりもない上にどう思われているかも分からないのに……まったく我ながら呆れるしかない。
 ようやく、二郎らの乗ったヘリが着地した。操縦席のライアン刑事は、不測の事態に備えていつでも飛び立てるようにエンジンをかけたまま、機内で待機する。
 直ちに後続隊が機内から飛び出し、背を丸めて建物目掛けて走って行く。その時、走り遅れた私服の刑事が足を撃たれて倒れた。
「絶対に動かないでください!」
 財相に念を押した二郎が、小銃を床に置いてヘリから飛び出した。身体をかすめる銃弾をものともせずに、腰を撃たれてもがいている刑事を抱え起こすと、肩に背負ってすばやくヘリに押し込み自分も機内に戻った。ライアン刑事が医療箱を取り出してケガをした私服の刑事の応急処理をする。
 二郎の目がその刑事を撃った銃声の方角を睨んだ。
「どうだ、われわれも戦うかね?」
 くわえたパイプで紫煙を吐いた財相が、二郎の心を読んでか平然と切り出した。
「とんでもない、ここを動いてはいけません!」
「草苅を救い出さんとな。迫丸は死んだというし……」
 自分の役割は財相の身辺警護以外には何もない、と、思いつつも二郎の血が騒ぐ。ボディガ-ドの役割は身命を賭して依頼人のVIPを護ることだが、その危険度もまた警護する人物の行動に比例する。財相がヘリを離れたら、と二郎は考えた。
 ここは、財相が飛び出したら危険を省みずに護衛するしかない……これが一瞬にして導き出した二郎の結論だった。
 本来の警護官であれば身体を張って財相の行動を押し止めるべきなのだが、にわか仕立てのボディガ-ドだから誤った判断もする……すでに財相は、二郎の手から奪った殺傷力の強いロシア製48口径トカレフを握りしめて腰を上げ、二郎もまたS&W(スミス&ウエッソン)66とベレッタM92の拳銃2丁を出して、実弾がまだ充分にあるのを確かめている。
 これではまるで、護るべき人を危険にさらすだけでしかない。
 だが、二郎はその選択の誤りにまるで気づいていない。それどころか自ら勇んでいるのだから始末が悪い。
「予備の弾があったらくれ」
 二郎が敵から奪った48口径弾を箱ごと手渡すと、それを上着のポケットに無造作に入れた財相が拳銃を手にヘリから軽々と飛び降りた。その動作にはムダがない。
 二郎の身体も素早く反応して機外に出る。パイロットの制止の叫びを背に、銃弾が飛来する中を財相と二郎が背を丸め、建物に向かってテラスを駆け抜けた。
「上のアルプスル-ムに行くぞ!」
 階段の上からの銃弾が足元の床に火花を散らして弾けた。二郎が二階に上がろうとしたときには、すでに財相は勝手を知っているかのように素早く階段を駆け抜けて二階の回転レストランに向かっていた。二郎は、逆に二階から逃げ出して来た男と階段で衝突しそうになり、とっさに二郎が日本語で叫ぶ。
「武器を捨てろ、撃つぞ!」
 その迫力に驚いたのか日本語が通じたのか、言葉は通じなくても恐怖感を感じたらしい男が拳銃を捨てて手を上げた。そこに駆け寄った警官が男らの手を背後にまわして手錠をはめて腰を蹴り、一階のレストランの隅に歩かせた。そこには、先に武装解除された麻薬密売ブロ-カ-や用心棒が一か所に集められて手錠をかけられて座らせられている。
 その監視に拳銃を構えて立っていた美代が振り向き、二郎の姿を見て安心したのか厳しい表情が一瞬、和らいだ。
 近くに恵子が二郎に訴えた。
「海原さん……葵が二階で敵に捉えられています。助け出してください!」
「分かった、オレが何とかする! あんたもこれを使って浜さんを手伝ってやれ」
 根拠のない安請け合いをして、恵子にコルトを手渡して使い方を早口で告げる。
「連発銃だ、引き金を引けば撃てる。こいつらが動いたら引き金を引け」
 恵子の返事も聞かずに二郎が階段を駆け上がると、仲間の一人が肩を射抜かれのを見たマフィアが、声をあげて投降の意志を表明すると、機動隊員が素早く駆け寄って拳銃を突きつけ、壁に顔を向けさせて背後からボディチェックをして、武器・凶器を没収してから床にうつ伏せに寝かせ、ケガ人も容赦なく手錠をかけていた。二郎を見た武装警官が、「手伝ってくれ」みたいな手振りをしたが、それを無視した二郎がレストランの戸口から内部を覗いた。すぐ、二郎を目掛けて銃弾が飛びドア-のエッジに火花を散らして弾け飛んだ。見ると、金属製テ-ブルの陰から敵味方の銃弾が乱れ飛んでいて、すでに、財相はその銃撃戦に加わっている。
 二郎は、室内に視線を走らせて葵という娘を目で追って探した。
「おい!」と、二郎に気づいた財相が伏せたまま振り返って手招きした。財相はカン違いしたらしい。
「ワシを探してたのか? この通り元気だ。心配せんでいい」
 意外にも財相は腹が座っている。柔剣道の高段者でスキ-、乗馬他スポ-ツ万能、とくにビリヤ-ドでは国際的な腕前と言われるほどの多趣味、その上に、下士官として実戦の経験があるとも言っていた。二郎もビリヤ-ドなら巧くはないが心得はある。
 二郎は拳銃を手に、水泳の飛び込みのような姿勢で頭から突っ込むと、それを見てまた狙い撃ちの銃弾が弾け飛ぶ。

 

3、草苅秘書の死

 EU連合薬業会議などと紙に書いたビラを入り口に貼った麻薬密売組織側は、大ボスのフランクが逮捕されても組織に動揺はない。彼らは、次々にボスを生み出せる組織だから「人の不幸は蜜の味」なのだ。
 一度、警察への抵抗を止めかけた麻薬グル-プだが、まだ意気盛んで、数を頼みに息を吹き返し攻勢に転じていた。圧倒的に人数の多い彼らは店内の金属製テ-ブルを倒して楯にし、姿を隠して階段を上がって入り口に姿を現す警察側を狙い撃ちにする作戦に出た。
これでは警察側の負傷者が増えるだけで逮捕どころではない。
 劣勢の警察側も入り口近くのテ-ブルを倒して応戦するから銃弾が乱れ飛び、銃声と金属音の激しい騒音が室内を揺るがし、金属製テ-ブルで跳ね返った弾丸で傷つく者もいる。マフィア側の弾薬が尽きてきたのか応戦がやや散発的になっていた。
 ただ、それが狙い撃ちになり的中率を高める結果になっているから始末が悪い。だが、回転レストラン内に小城財相と二郎が姿を現した瞬間から局面が変わった。倒れたテ-ブル目掛けて頭から飛び込んだ財相と二郎めがけて一斉射撃が続いた。
 二郎の右耳に銃弾がかすり、焼け火箸を当てられたような熱い衝撃が走った。
 あわてた二郎だが本能的に責任遂行意識が出たのか、とっさに財相の上に身を伏せて覆い被さろうとした。だが、財相は驚くほどの俊敏さで軽く体を入れ替えて二郎を避けて床に伏せて怒鳴った。
「草苅.大丈夫か? 生きてたら返事しろ!」
「元気です……気をつけてください!」
 財相の問い掛けに、奥の金属テ-ブルの横から草苅秘書が顔半分を出して返事をし、また顔を隠した。秘書の無事を確認して安心したのか財相が張り切って銃を構えた。
 二郎もすかさず、真似をする。
「山田さん。元気だったら声を出してくれ!」
「ここにいます。心配ありません!」
 葵の声は、草苅秘書と同じ敵陣の真っ只中のテ-ブルの陰から聞こえた。なにが心配ないだ。敵に捕らえられて身動きできないじゃないか……二郎の胸が騒いだ。
「いま、助けるから待ってろ!」
 二郎は財相救助のとき同様、恐怖の極限状態を越えると冷静になってくる。
「大臣、もっと頭を下げてください!」
「わかった」
 
 二郎の忠告など気にもせずに財相は頭を下げたり上げたりしながら銃弾の飛来する方角に向けて拳銃を撃ち続け、弾奏が空になると弾をすばやく補給して撃ち続けた。それは、自分が拉致され恥をかかされた麻薬組織への怒りの報復ともとれる。だが、財相の射撃の腕が悪いのか狙いが悪いのか偶然なのか、敵の姿が至近距離にあっても、財相の銃弾は人には当たらず器物破損を増すだけだった。
 そのとき、二郎から見て左手奥の壁際のテ-ブルの裏に隠れて応戦していた肌も髭も濃いアラブ系の男が、弾奏を入れ換えてトカレフを撃ちまくる財相を狙って拳銃を突き出すのが見えた。
「危ない!」
 二郎が素早くベレッタの狙いをその男に決めて、まっすぐ伸ばしたたが、引き金を引いた瞬間は手先を少し左にずらしていた。とっさに、真っ直ぐだと男の顔を直撃して致命傷を与えると感じてわざと外したのだが・・・弾道は、発射の衝撃で少し上に向いて飛び、ほぼ狙い通りに男の左手前に倒れている金属テ-ブルの角に当たって弾けて、男の上腕部をかすめた。男が悲鳴を上げると同時に手にした拳銃が火を噴き、手元が狂ったから弾丸はあらぬ方向に飛んだらしい。
「ウッ!」という、くぐもった男の呻きに続いて女性のカン高い悲鳴が響いたのは、その直後だった。その声が悲鳴が葵なのは二郎にはすぐ分かった。
 その悲鳴に驚いて、敵味方の銃声が止んで一瞬の静寂が訪れた。
 それまで床に伏せてトカレフを乱射していた財相も、我にかえったように銃を収めて顔を上げた。二郎に右腕に掠り傷を負わされたアラブ男が、血が流れる右手に持ち直した拳銃を構えて半身を起こした財相を狙って腕を伸ばした。それに気づいた財相のトカレフが一瞬早く火を噴き、アラブ男の額を見事に撃ち抜いた。男は短い悲鳴を上げて前のめりに倒れてそのまま即死したのか微動もしない。
 二郎はアラブ男をケガさせただけだが、小城財相はためらうことなくアラブ男の命を奪った。殺さなければ殺されるという極限状態では確かに正当防衛かも知れないが、財相の非情さと射撃の腕前と瞬時に発揮された決断のよさには驚嘆するしかない。
 それが最後の銃声になり撃ち合いは終わった。
 財相が立ち上がって両手を広げ、大声で「ストップ!」と叫んだ。
 この財相の勢いに驚いたマフィアのボスのフランクが、捕らわれて手錠を掛けられたままテ-ブルの陰から立ち上がり、フランス語と英語で叫んだ。
「ギブアップだ、抵抗を止めろ!」
「やめてくれ!」
 警察側と麻薬組織側がそれぞれ同時に叫んでいる。
「これで全てが終わりだ」
「全員、手を上げて出てこい!」

 

4、草苅秘書の死(2)   

 この銃声が止んだタイミングで狙撃されないとみた警察官が、一気に階段を駆け登ってきて、レストラン内になだれ込み拳銃を突きつけてマフィアや麻薬ブロ-カ-にホ-ルドアップさせ、双方共多くの犠牲者を出して戦いは終わった。
 警察側が、手を上げて出て来る麻薬ブロ-カ-をつぎつぎに逮捕し武器を没収した。
 ただ、戦いが終わった回転レストラン内の惨状はすさまじく、警察側はただちに怪我人の救出や死者の収容を急いだが、そこでまた騒ぎが起こった。草苅秘書が壮絶な最期を遂げている。葵の悲鳴は、自分をかばってくれた草苅秘書が撃たれたときの恐怖の声だったのだ。
 乱雑に倒れたテ-ブルやイスをかき分けて駆けつけた二郎と財相は、葵を守るような形で死んでいる草苅秘書を見て愕然とした。肩を震わせて嗚咽していた葵が二郎を見て安心したのか草苅秘書の体を財相に預けるように離して二郎に抱きついた。
 二郎が、「山田さん、大丈夫か!」と、泣きじゃくる葵を抱き締め、小城財相が、「草苅!」と叫んで、呼吸の絶えた草苅秘書の死体を抱く……。
 このとき、敵も味方もなく全員の視線がいっせいにこの二組の抱擁に注がれた。
 腰を落とした二郎が葵を抱き起こすと、泣きながら「命の恩人なのよ」と、横目で草苅秘書の死体を見つめ、また脳裏に恐怖が甦ったのか、草苅秘書の返り血を浴びた衣服のまま二郎の胸にしがみついた。
 その葵の柔らかい身体を抱きしめ黒髪に触れながら二郎が、どさくさに紛れて葵の顔に髭を密着させていたが髭に隠れて口づけの有無までは判然としない。
もっとも、この状況では誰も咎め立てはできない……それを見越しての行動だとしたら二郎もセコいが、残念ながらその程度しか出来ないから恋人もできない。しかも、このドラマチックな抱擁のシ-ンでさえ無我夢中で葵を抱きしめるだけで、その温もりすら感じとる余裕が二郎にはない。だから、後で後悔することになる。
 銃撃が止んだのを知って一階から駆け上がった恵子と美代は、二郎に抱き付いて泣きじゃくる葵を見て呆然と立ち尽くした。ただ、恵子が美代に囁いた一言が、この場の真相を物語っていた。
「葵ったら、わざとらしくない?」
 その口調とは裏腹に、葵に注ぐ恵子の視線は今回に限っては優しかった。
 この葵と二郎の芝居がかった濡れ場モドキなど無視したスイス警察の機動隊員が、二人係りで草苅秘書の死体を持ち上げ、大声で医務班を呼び人工呼吸を施したが命は戻らなかった。
 草苅秘書の死因を鑑識班がただちに調べている。ス-ツの背の部分が無残に破けて、そこから銃弾が入って斜めに心臓を貫通していて血が噴いていた。これで致命傷は弾痕によるものであることは明らかになった。財相が悲しげに草苅秘書の横にひざまづき、無言で手を合わせて哀悼の意を表したが気丈なのか情が薄いのか涙はない。
 回転レストラン内では、銃を構えた機動隊員や刑事が大声で、麻薬ブロ-カ-や用心棒を脅しながら一か所に集め、武器や麻薬、覚醒剤などの証拠品を集めている。
 ガラスが割れ、壁や備品や天井までも破壊された回転レストラン内には硝煙と血の匂いと料理やアルコ-ル類が入れ混じって異様な刺激臭が漂っていた。
葵が無事だったことで安心した二郎は、今までは夢中だったから痛みも感じなかった右耳を押さえてうずくまった。急に激痛が走ったのだ。
「海原さんの耳から血が……」
 恵子が、二郎の右耳から血が流れているのを見てテッシュで拭こうとするのを、立ち直った葵があわてて押し止め、ショルダ-バッグから携帯用の救急用品を出して、優しい眼差しで見つめながら応急処置をし絆創膏を重ね貼りした。当然恵子は面白くない。ふてくされた顔で美代を誘ってその場を離れた。女の友情は得てしてこんな些細な感情から破れることがある。
 麻薬ブロ-カ-らの逮捕劇は幕を閉じたが、烈しい戦闘で双方に死傷者が出ている。警察側の死者も草苅秘書のほかに、フランス警察側が一名とスイス警察の一名、麻薬密売のマフィア側からは5名の死者、30名近い重軽傷が出た。双方の軽傷者の数は多すぎて正確には把握できない。二郎の耳のケガなどは軽傷の数にも入っていないし、医務班もチラと一べつしただけで相手にする気配もない。
 草苅秘書は、自らの背を敵に見せて身をもって葵を守った。葵の心は感謝でいっぱいだった。ただ、その恩人が凶弾に倒れたのが悲しくてまた泣けた。葵を助け、自らも救出される寸前で倒れた草苅秘書の死はあまりにも痛ましい。
 葵は、草苅秘書に隠れてこの事件の一部始終を心臓が止まりそうな恐怖の中で克明に見ていた。この事件は、自分を庇った草苅秘書の死という衝撃的な出来事を含めて、一生忘れることが出来ない大きな思い出になるだろう。葵は、自分が偶然にも居合わせた一連の事件は特ダネになると、辛い心の中で思った。
 その後、警察側の推測を知った葵の心中は複雑だった。
 命の恩人の草苅秘書を、髭の二郎の放った銃弾がアラブ男の腕に当たって誤射を招き、その銃弾が誤って草苅秘書の背中を射ぬいた可能性がある……これは、葵にとっては辛いことだった。これだと間接的にではあるが、命の恩人の命を奪った遠因にこの髭の海原が絡むことになる。
 その一方で、人質として捉えた草苅秘書には麻薬密輸グル-プもかなりの機密情報を知られてしまった。その草苅が救助されるのを阻んだマフィア側が、情報漏れを防ぐためと財相救助の報復として草苅秘書を消したという見方もある。これだと辻つまが合う。
 確かに、草苅秘書の姿は警察側からは見えなかったが、彼らからは丸見えだから殺す気になれば簡単なことだった。
 これが真相なら、草苅秘書の死は辛いが葵の心情は救われる。
 草苅秘書の姿は、テ-ブルにすっぽり隠れていて警察側からは見えなかった。
当然、二郎と財相の位置からも見えなかったのは間違いない。と、なれば、アラブ男の誤射か財相を拉致したマフィア側の報復という二つに一つの解答しかない。
これは誰が考えても同じだった。だが、鑑識班でも、草苅秘書を射ぬいた弾の線条痕と個別の拳銃の銃身内の螺旋(らせん)状の線条を合わせるまでは、そのどちらとも断定できないという。
 ただ、海原二郎が小城財相の命の恩人であることは誰もが認めるところとなった。
 財相が放ったトカレフの一発がアラブ男の額を撃ち抜く寸前に、財相を狙ったその男の機先を制した海原二郎の放った銃弾が、アラブ男の腕をかすめて男の狙いを大きく狂わせて財相の命を救ったのは何人かの目撃者がいて証言されていた。
財相もすなおにそれを認めて、二郎に頭を下げて感謝の気持ちを表した。
 しかし、二郎の気持ちは重かった。
 もしかすると、自分は財相の命を助けたと同時に、殺人幇助という大きな罪を犯したのではないか? 自分が撃った銃弾の影響で草苅秘書が射殺されたと考えると、この場に居たたまれない焦燥感と吐き気がするほどの罪悪感に襲われる……のが普通だが、生憎とこの男は、そこまでのナイ-ブさは持ち合わせていない。
ただ、気が重いだけだ。
 あの場面では、狙われた財相を救うには、あの男の腕を撃つしかなかった。真っ正面で相対したあの男をあのまま撃ったら明らかに財相が放った銃弾同様に額を撃ち抜いていたのは間違いない。とっさにビリヤ-ドの原理で倒れた手前のテ-ブルから跳ねる計算で腕を撃ちぬくつもりだったのに狙いが狂い、銃弾は腕を掠めただけで男に引き金を引かせてしまった。二郎は自分の未熟さを悔いた。
 あの時、あの場面で他の選択肢があったとしたら……あの男を撃たずに、狙われた財相の体に被いかぶさって命がけで身代わりになって職務を全うするのが本来のボディガ-ドとしての使命ではなかったのか……そう思う反面、自分はしがないフリ-ライタ-で頼まれて仕方なく警護員の真似をしているだけだから、そこまでの義務はない。
 財相が死のうと生きようと関係ない。いや、例え安いギャラでも頼まれた以上は、財相を無事に帰国させなければ責任を果たしたとは言えない。もしも、あそこで迷って財相が射殺されていたら、と考えると思いは揺らぐ。その場合は国際的な問題に発展し、それこそ何百倍もの悲劇になってたはずだ。だから、あそこで財相を救うためにアラブ男を撃ったのは正しかった……こう考えて二郎は自分を納得させたが、やはり気は重い。

 

5、もしも、の恐怖(1)

 葵は疲れも見せずに精力的に走り回って写真を撮り、ノ-トにメモった。
やれば出来る……葵はこの一日で見違えるようにたくましくなっていた。
葵は、今までの惰性で暮らしていた自分が恥ずかしいような気もしたが、それは一瞬だった。日頃の惰性は急には改まらない。
 機動隊員は、それぞれ逮捕した麻薬ブロ-カ-たちを一階のレストランに押し込んで簡単な事情聴取をしてから、スイス側のジュネ-ブかフランス側のパリ送りかに選別することになる。数人の刑事が現場検証に残り、機動隊員らが逮捕した麻薬組織グル-プを追い立てて回転レストランから一階に去り、騒ぎは収まった。
 退去を命じられた葵と恵子は、2階に残った美代に便乗してしぶとく居残り、葵はデジカメを取り出して、まだ惨状の消えやらぬ室内の状況を撮りまくっていた。
 二郎もまた、草苅秘書の遺体を見守る財相の護衛で2階にいた。
 草苅秘書の遺体は鑑識班が到着まで動かせない。
 遺体の傍らにいた財相が何気ない素振りで、手にした拳銃を破れた窓からテラス越しに力を込めて投げ捨てた。ロシア製の軍用トカレフはテラスの柵を越えて、そのまま雪原の彼方に落ちて消えた。
 その投げ方もまた野球の投手のようにサマになっていてカッコいい。葵は素早くカメラを向けながら、財相の年齢を感じさせない若々しい柔軟な動きに驚嘆した。
 この事件では何人かの貴重な命が消えた。人一人の命の尊さは例えようもなく重い。
 もしも、あの位置に草苅秘書がいなかったら、と、葵は恐ろしい夢でも見たようにゾッとした。草苅秘書があの場所にいなかったら自分は背中を射抜かれ、この異境の地で25歳の短く儚い人生を終えていたかも知れないのだ。
まだ本物の恋もしていないのに……こんなことは絶対に許せない。
 そう考えると、青春真っ盛りの葵の身を救って倒れた草苅秘書の命こそが、貴重な宝石のきらめきをもって葵の心にさん然と輝いている。葵は、今更ながら死と直面していたことを再認識して恐怖におののいた。
 葵がこの草苅秘書の善意に報いるには、その意志を次いで正義のために命懸けで人を救えるような生きかたをすることだ……葵は柄にもなくこう考えて唇を噛み締め、決意を秘めたすごい形相で宙を睨んだ。
 ところが運悪く、その視線の先に二郎がいた。二郎は自分が睨まれたと思ったらしく焦った表情で葵を見て、あわてて頭を下げた。
「さっきはご免、つい衝動的に抱いちゃて……」
 今度は葵が焦った。本心ではなく抱かれたのではプライドが許せない。
「じゃあ、本気じゃなかったんですか?」
「いや、あの時は本気だったけど」
「分かりました。今は、もうその気がないということですね!」
「いま……?」
 柄にもなく顔を赤らめて周囲を見てためらっている二郎をみて葵が焦った。
「カン違いしないでください。なにも、ここで抱いてなんて言ってないでしょ!」
「オレだって、こんなところで抱けるか!」
 二郎が去ると、恵子と美代が顔を見合わせて笑ったから葵はなお面白くない。
つい口が滑った。
「あんな人、わたしのタイプじゃないからね!」
「そうよねえ。あっちも葵なんか嫌いだと思うわ」
 葵が恵子を睨み、美代が「まあまあ」となだめてその場は収まった。
「それにしても、あの財相はすご過ぎない?」
 美代が話題を変え、恵子と葵がうなづいた。
 確かに、年齢を感じさせない小城財相のすご腕と敏捷な動きは、不気味な印象さえ伴って葵の記憶に強く残っている。
 葵は、あのアラブ男が拳銃を構えた場所から、草苅秘書の隠れていた位置に暴発して弾が飛んだとして……その弾道を頭に描いてみた。草苅秘書の背中から心臓に抜けたにしては角度が合わない。なにか不自然な気がした。そう思って室内を見回すと、検証を急ぐ鑑識班の合間を縫って髭の海原二郎がまだうろついて何かを探している。
「なにをしてるんですか?」
「草苅さんが倒れたのはこの辺りだったな?」
 やはり二郎は、草苅秘書の身体を貫通したと思われる弾丸を探していたのだ。
 葵も二郎と一緒に、草苅秘書の倒れた位置の周辺から落ちている弾を探した。しかし、草苅秘書の遺体の周辺には弾は一つも落ちていなかった。
 葵は銃砲についての知識はないから弾丸と拳銃の因果関係までは分からないが、人体を貫通した弾が、どの銃から発射されたのかを調べれば、草苅秘書を倒した凶弾も特定できるような気がした。
 その葵の気持ちを見抜いたように二郎がボソっと説明する。
「銃にはそれぞれ、人間の指紋に当たるライフリングという銃身内に螺旋(らせん)状の溝が刻まれていて、その数と回転方向を合わせれば、その銃と弾丸の親子関係が証明されるんだ。」
 葵と二郎が床に膝を落として銃弾を探していると、声をかけた者がいる。
 振り向くと、ダニエル警部が立って、二人に話しかけてくる。
 ダニエル警部が手に持った拳銃と、使用済みの変形した弾丸を二郎と葵に見せた。
 警部のフランス後に葵が手を振って美代を呼び、美代が訳した。
「実際はラフな言葉でしゃべってるけど、わたしは敬語で訳すからね……この銃は、死んだアラブ人が握っていたスイス製シグ社のP226拳銃です。
その銃から発射された9ミリ弾がこれで拳銃も弾丸もライフリングが同じです」
「では、これが草苅さんを?」
「いや、まだ何とも言えません。調べはこれからです。だが、Mr・ウナバラの実射を目撃した刑事の証言だと、Mr・ウナバラの撃った弾がアラブ人の腕をかすめて狙いを狂わせた。そのために銃口がこちらに向き、発射された弾がMr・クサカリを貫通して落ちたのか、その先の壁の金族部分に当たって跳ねたのか、これから調べます」
「ほかに、草苅さんを倒したと思われる弾は?」
「この辺りに落ちていた弾はすでに確保してあります」
「では、誰が撃ったかも?」
「今はまだ該当する拳銃との照合が終わっていませんので、断定は出来ません」
 ダニエル警部が改まって二郎に顔を向けた。
「ですから、Mr・ウナバラの撃った弾とMr・クサカリの死の因果関係については、まだ結論が出ていないのです」
 ダニエル警部がさらに言葉を継ぎ、美代が訳した。
「ここからは鑑識の仕事ですから立ち退いてください」
 振り向くと、いつ来たのかスイス警察の鑑識班が白衣と白手袋で動きまわっていて、写真班のフラッシュが光った。鑑識班から離れた美代が葵に近づき葵の腕をつかんだ。
「後は鑑識に任せて下に降りましょう」
「君も娘さんたちと下で待っていたまえ。ここはもう安全だから護衛はいらん」
 いつ近寄ったのか財相が二郎の肩を叩いたので、二郎と3人娘の4人は部屋を出た。
 葵と腕を組んだ美代が階段を降りながら、背後に続く二郎にも聞こえるように話す。
「あの死んだ男は、ステュツガルト在住のイラン人で通称ホメインという本名不詳の麻薬ブロ-カ-で、小城財相拉致事件にも関係していたそうです。その相拉致した小城財相と草苅秘書に逃げられたから立場がなくなった……そこで自分が逮捕される前に財相を殺害しようとしたらしいの。ですから、財相が反撃したのは正当防衛ですって。警察ではこう断定したようですよ」
 なるほど、これならアラブ男が財相を狙った動機にも説明がつく。
 一階のレストランで待っていた恵子も葵の無事を喜び、美代と3人でレストラン差し入れのコ-ヒ-を喫みながら興奮状態で今までの出来事を語り合い、二郎の存在などはとっくに忘れている。

 

6、もしも、の恐怖(2)   

 やがて、事件を嗅ぎつけて集まった少数のマスコミを相手に、EU内の主だった麻薬密輸組織の摘発を発表したクロ-ド警視が、鑑識の検視結果を受けて、草苅秘書の死亡原因をも続けて公表した。
発表が遅れることで余分な憶測が乱れ飛ぶことを恐れたのだ。
「国籍不明の通称ホメインが、麻薬売買実行犯で逮捕される寸前に、拉致事件の被害者である日本のクサカリ・タケオ代議士秘書を射殺した。
それを見たスイスとフランスの警察合同隊が、さらなる凶行を防ぐためにホメインを射殺した」

 これで公式発表は終わり、財相の銃撃は伏せられて事件は幕を閉じた。
 ここでは、通称ホメインの右腕上部を掠った銃弾とか、ホメインの額を撃ち抜いて即死させた財相についての説明はない。だが、美代が葵と二郎に伝えた情報が真実であるならば、二郎と草苅秘書の死因には何の因果関係もない……これで、葵の胸のつかえもおりて二郎への好意は細い糸ではあったが辛うじて持続された。
 ともあれ、シルトホルン頂上での逮捕劇は終わった。
 クロ-ド警視の判断で、このEU連合薬業会議などと称する麻薬カルテルの談合に出席したものは麻薬の所持を問わずに逮捕し家宅捜索を行い、余罪を追求することになる。
 したがって、逮捕者全員を一度、ジュネ-ブの警察署に送り、そこでパリ送りとスイス任せとを選別することになった。なぜ、ジュネ-ブかというと、パリを結ぶ最短距離にあるスイスの都市だからという至便さからだった。
 その依頼を受けたスイス警察庁では、直ちにヘリを総動員してシルトホルン山頂とジュネ-ブへのピストン輸送を開始して、死者、負傷者、逮捕者の別なくジュネ-ブ送りすることになった。
 クロ-ド刑事はまず、逮捕した麻薬組織メンバ-を罪の軽重に関わらず、機動隊員らと共にスイス警察のヘリでジュネ-ブに護送することにした。
それは、ジュネ-ブがパリに近いからという理由もあったが、その真意は警察関係者や逮捕者とマスコミとの接触を絶つために図ったことでもあった。
クロ-ド警視が発表した事件の経緯をそのまま通すことが、EUのためであると信じたからに他ならない。
 間違っても、拉致被害者である財相が英雄になるような奇をてらった報道だけは避けたかったのだ。だからこそ、いち早く全員をジュネ-ブまで運ぶ必要があったのだ。
 マフィアの大ボスであるフランク、準ボスのパゾリ-ニ、その他の主要な麻薬ブロ-カ-と重軽傷者などが、次々に飛び去った。
 その後で、主要な組織幹部はシテ島にあるパリ警察庁に送られ、厳しく取り調べを受けることになる。
  小城財相は、草苅秘書の死を悼み悲しむ余りか憔悴した表情で肩を落としていた。
「救出寸前に銃弾に倒れるとは、運がなかったんだな」
 財相がしみじみと嘆いた。たしかに救出寸前の乱戦で死んだのは事実だから、運がないと言えるのは確かだった。
 現場の検視が終わって、草苅秘書の死体は司法解剖に回すためにヘリで運ばれる。
小城財相が浜美代の通訳を経て、クロ-ド警視に伝えた。
「草苅秘書の死体はそのまま荼毘に付して、一刻も早く遺族に渡したい」
 そこで、政治的な話し合いがあり秘書の死体は解剖しないことになった。
 小城財相に次いで二郎と葵、恵子と美代も並んで草苅秘書の死体に手を合わせた。
「せめて草苅だけは救いたかった」
 財相が下うつむいて無念の表情で唇を噛んだ。第二秘書の迫丸秘書に次ぐ私設秘書の死は小城財相にとって、手足をもがれるような辛い出来事だったに違いない。
 シルトホルン山頂での財相の活躍は敵味方の別なく称賛され、その評価は時間が立つほどに高くなってゆく。だが、その当の小城財相は、護衛役だった草苅秘書を救えなかったことで自責の念に打ちひしがれ、自分の無力さを嘆いている。
 その控えめな態度がまた周囲からみると立派に見えるらしい。
 その小城財相の、部下を救うために身を張って死地に飛び込んで戦い、双方の銃弾が飛び交う異様な雰囲気の戦場で大手を広げ、身をさらし一身を賭して戦いを終わらせた財相の勇気も「サムライ魂」として称賛に値した。
結果的には随員の草苅秘書の死という多大な犠牲はあったにしろ、小城財相の活躍によって麻薬密グル-プEU連合の捨て身の抵抗も止み、犠牲者が最小限で済んだのは紛れもない事実だった。
 この勇気に対してはクロ-ド警視をはじめ、フランス・スイス両国の警察官の間からも称賛の声が集まった。頼りにした身代金が半分にも満たず、拉致され殺害される寸前まで追い詰められた状態の中で、あくまでも希望を捨てずに救助隊の到着を信じて待ち、無事に救出されたドラマチックな経緯は財相の忍耐強さを物語っても余りあるものだった。

 それだけに褒められこそすれ誰も咎める者はいない。いわば、日本の小城財相こそが麻薬密売組織壊滅への立役者だったとも言える。草苅秘書もまた拉致されながらも財相を守り抜き、山頂では一命を賭して麻薬組織撲滅記事を書くために取材に訪れたライタ-の女性を守った英雄として殉職扱いになり、名誉の帰還になる。
 3人の若い日本女性の華々しい活躍もフランス・スイス両国の警察官の間で尾ひれがついて広がるだろう。まだ血なまぐさい戦場であるシルトホルン山頂のテラスでは、ツ-ショット写真やサインを求める刑事や機動隊員が後を絶たない。
 しかし、この異様な空気を断ち切ったのもクロ-ド警視だった。
 これらの出来事が表沙汰になったら大変なことになる。平和憲法を表看板にする日本の財務大臣が、海外で撃ち合いに参加したとなれば、マスコミが放ってはおかない。

 それに、日本という経済大国の小城幸吉財相の救出劇が、日本から来た民間の一警護員が主役でははなわだ都合が悪いし、麻薬組織壊滅のためにマシンガンを持った殺し屋の逮捕が日本の若い娘の協力によるものではまことに都合が悪い。
ここはやはり政治的にみてもフランスとスイスというEU連合の多大な戦果であらねばならないのだ」
 さらに続ける。
「このままの事実を報道されたら、フランスとスイスの警察は面目丸潰れになるだけではない。小城財相をはじめ、梅原二郎、山田葵、佐川恵子ら4人は武器の使用を禁じられている民間人だけに、武器使用や傷害罪、あるいは殺人罪の適用が妥当だとする法律論が出て来ないとも限らない。これでは、正義という名にも傷がつく。
 スイス警察のヘリの動員で機動隊も姿を消し、シルトホルン山頂は人影の減少に従って静寂を取り戻していた。
 あとは小城財相ら、パリに直行するメンバ-とパリの警察官、マスコミが残った。

 すでに事件を嗅ぎつけた地元に駐在のマスコミ各社が取材班をキャビンで送り込み、ヘリからの撮影やテラスにヘリから空中輸送で降り立っての取材が始まっている。もう時間がない。クロ-ド警視が結論を出した。
「パリで拉致された日本のオギ財相は、スイス・フランス両国警察の合同隊によって多大な犠牲を払いながらも無事に救出された。同時に27ヵ国欧州連合麻薬組織の結成も両国警察の合同隊によって壊滅し、多量の麻薬が没取され今後、その生産地も世界的な密売ル-トも摘発し壊滅することになる。
 この一連の事件で双方に多くの犠牲者が出たが警察側は全て正当防衛であり、警察側の死傷者に対しては殺人罪・傷害罪の適用が妥当である。
 また、日本のオギ財相並びに警護員、女性記者らの武器携帯は、犯罪者側から摘発した品として所持したもので実弾の使用もなく、目的達成後はすみやかに警察に提出していて何ら問題の生ずるものではない」
 これで、警察の面子も立ち八方が丸く収まる。いわば玉虫色の解決策だった。
 こうして、世界を揺るがした拉致事件は解決し、同時に国際的な麻薬組織の壊滅という大きな成果が得られたのだ。各地のニュ-スは、これもEU連合の結束がもたらした強さのたまものによるものだと喧伝したが、そのために麻薬組織までがEU内で大きく結束しているよういに、悪の社会の広がりも同じように拡大しつつある裏事情についてはどの社も触れていない。
 この内外からの評価についてクロ-ド警視はこう読んだのだが……。
 外を眺めると、夕闇迫るシルトホルン山頂から続くアルプスの山々は白雪が紅色に燃えていた。

 

7、パリへの帰還(1)   

 本来であれば、事件で死亡した遺体は司法解剖するのが通例である。
 しかし、「秘書のお骨を一刻も早く遺族に引き渡したい」、という財相と電話で話し合った遺族との要望を酌んだクロ-ド警視の気配りで、草苅秘書の遺体は解剖されずに荼毘に付されることになり、葵をはじめとする日本人全員と一緒に草苅秘書の遺体もひとまずシテ島にあるパリ警視庁に直行することになった。
 状況から見て、クロ-ド警視もダニエル警部もまだパリには帰れそうもないことから、シャ-ロット刑事が通訳を兼ねて、日本組と同行することになる。
 ただ、アエロスパシアル350B型武装ヘリは二機とも、ジュネ-ブへの搬送用に使われていて、すぐには使えない。
 それを知ったスイス警察のロイド警視の好意で、ユ-ロコプタ-AS350改良型ヘリが提供された。テラス横の発着場は、2機のフランス機が飛び立つと、スイス機が降下するというように交代で使われていて、丁度、入れ代わったばかりだったのだ。
 操縦は、1階のレストラン・イ-グルネストで休息中のライアン刑事に任された。
 まず、布で包まれた草刈秘書の遺体を乗せている間に、葵と恵子と美代の3人が、1階の洗面所で鏡を見ながら身支度を整えていた。三人ともすっかり汚れきって見られた顔じゃない。それでも洗顔して簡単にうす化粧をしただけで見違えるように綺麗な肌が甦ってくる。これが若さなのかも知れない。
「葵はあの髭男、見かけた?」
「ヘリのところかな? 美代は見なかった?」
「そういえば、さっき、一階のイ-グルネストの店長と話してたけど」
「何の話? 言葉も通じないのに」
「でも、通じてたみたいよ。ロ-プとか言ってたから」
「ロ-プ? まさか首でも吊るんじゃないでしょうね? 葵に失恋して」
「恵子、いい加減にしてよ。縁起でもない! それに、まだ失恋なんか……」
「あら、葵ったらムキになって。惚れた?」
「誰があんな男に……私だって好みがあるんだから」
「葵ったら顔をあからめて、どうしたのよ?」
「顔なんか赤くないでしょ?」
「で、どんな好み?」
「ま、余計なことを喋らない男とか」
「あ、そうか! なんか言ったら、『同じく』って言ってくれる人ね?」
「冗談じゃないわ。そんなヤツ。顔も見たことないし」
「髭のボ-イフレンドも出来たし、その他大勢の中のそいつなんて、『絶交』ってメ-ルしたら、すぐ『同じく』って返ってくるわよ」
「分かった、それで、そいつとは終わりね」
「ほんと? だったらすぐメ-ルしたら」
「そうする。あら、時間だ。早く行こう」
 ヘリポ-トに急ぐと、シャ-ロット刑事が時計を眺めながらイライラしている。
「海原さんは?」
「Mr・ウナバラはもう機内にいますよ。これで全員です」
「では、もう出発ですか?」 
「いえ、ちょっと用があるので……」
 と、妙にシャ-ロット刑事の歯切れが悪い。
 機内に入ると、すでに小城財相と二郎は座席に座って目を閉じていた。
 葵は、二郎の編み上げ靴に雪が付着しているのに気付いた。
(二郎はレストランの店長からロ-プを借りて,雪の中に降りたのか? でも、下の雪原に出るだけなら階段があるはずだからロ-プは不要なはずだ。そうなると、テラスのフェンスからロ-プを垂らして雪の中に出た理由は?)
 葵の仮説が先に進む前に、現実の方が一歩先に進んだ。
 建物から出たダニエル警部が、急ぎ足でヘリに近づいて来るのが目に入ったのだ。
 それを見たシャ-ロット刑事が機内から降りた。
 ダニエル警部とシャ-ロット刑事が、早口のフランス語で二言三言交わしてから、機内の二郎を呼んで手招きした。
 二郎が機内から出て二人の間に入ると、シャ-ロット刑事が何事かを告げている。
すでにヘリのロ-タ-が回転していて会話の声は機内の葵にまでは届かない。ただ、シャ-ロット刑事の口唇の動きが日本語で、「あの銃の……」と口をつぼめて言ったのは読めていた。そこからの内容は分からい。

 

8、パリへの帰還(2)   

 二郎がダニエル警部と握手をして別れて機内に戻り、続いてシャ-ロット刑事が乗り込んで、操縦席のライアン刑事に「OKよ」と声をかけて席に着いた。
 葵には外での会話の内容は分からなかったが、機内に戻った二人を見て、何か想定外の出来事が起こっているらしいことを感じた。髭面の二郎はポ-カ-フェイスで無神経だから何の変化も見えないが、白い顔をさらに蒼白にしたシャ-ロット刑事の顔色を見ただけでも何か恐ろしい出来事があったのか、それともこれから起こるのか……不吉な予感を感じずにはいられなかった。
 それでも、エンジン全開でヘリが振動し始めるとシャ-ロット刑事は、いつもの快活さを取り戻し、「さあ、出発ね」と笑顔を見せたので葵の不安も払拭され、どうやら葵もいつもの快活さをとり戻していた。
 エンジンをフル回転させたヘリは直ちにヘリポ-トから風を巻いて垂直に浮上し、なり上昇してから高い山々が続くアルプスの空をパリに向かって飛び立った。
「後始末が大変ね……」
 葵が窓から下を見た。
 飛び立ったヘリの窓から眺めると、アルプスル-ムの名で知られる円形の回転レストランもテ-ブルやイスが点在する白い床の角形テラスもみるみる小さくなり、シルトホルン山頂全体が視界から遠ざかってゆく。
 夕焼けに染まり始めた山々が、茜色に部分を染めて輝いている。
 葵が懐かしそうな口調で誰にともなく言い、恵子と美代が口をはさむ。
「キャビンの最終は、夏時間の5月からだと6時30分、もう出たのかしら?」
「今日は特別の日だから、マスコミ用に一時間遅らすそうよ」
 恵子が得意の計算を始めた。
「わたしたちは、その最終便で山を降りて、ベルンからジュネ-ブ経由のTGVでパリに戻る予定だったのに、このヘリに乗せてもらってラッキ-だったね。世界一速い超特急新幹線のTGVは、時速280キロで走るけど駅で停まるから、パリまでの600キロを順調なら2時間30分ちょっとでしょ? もっとも、最近の実験では時速580キロという航空機並のスピ-ドを記録してるけど」
 美代が応じた。
「その速さは実験だけでしょ? この高性能の中型ヘリは、航空持続距離も750キロまで可能で、振動レベルも低く低騒音の高性能機で時速300キロ以上で直線で飛ぶし、途中に停車駅がないから、列車よりは早いにきまってるでしょ」
 空の旅は快適だったが、機内にはシェラフに包まれて草苅秘書が眠っている。
「最後の銃撃戦が、この人の命を奪ったのね……しかも私をかばってくれて」
 葵のしんみりした言葉にシャ-ロット刑事が日本語で応じた。
「Mr・クサカリは哀れなことをしました」
「犯人は、あの死んだアラブ人ですか?」
「公式にはそうなっています」
「でも、真相は?」
「さあ。わたしはなんとも言えません。言う立場にないのです」
 美代が口をはさむ。
「でも、誰だって真相は知りたいし……」
「そういえば……」
 葵が言いかけて口を閉じた。弾を探していた二郎のことは言うべきではない。
 あわてて葵が話題を変えた。
「わたしは命を助けられたけど、草苅さんはお気の毒でした」
 ふと、目を閉じていた財相が口を開いた。
「ワシが身代わりになってやりたかった」
 ここで、話が途切れた。財相が憮然とした表情で、冷えて霧が絡んだ窓から移り行く眼下の山々に視線を投げていた。その目の奥には沈痛な思いが宿っている。それは、芝居なのか本気なのか、葵には読めなかった。
「山が深いのね」
 葵が、話題を変えるように窓から外を眺めた。寒さが厳しくなっている。
 目の下はるかに針葉樹の林が残雪の白のなかに黒く点在し、山裾に続く谷間の町に夕闇が迫っていた。霧が谷底から湧くようにヘリの窓からの視界をさえぎっている。