第六章 回転レストラン

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1、観光客

二郎の目は、テラスでテ-ブルを囲んで談笑している各グル-プを追っていた。
一通り眺めたが屋外には当然ながら財相らしい姿はない。それでもテラスに出ている40人近い観光客の中で、怪しい人間を5人ほどマ-クしてから二郎は室内に入った。怪しいといっても確たる証拠があるわけではない。
拉致犯はこの日、身代金が全額支払われたら小城財相を解放すると宣言していた。身代金のタイムリミットまでにはまだ1日あるが、田島からの情報では5百万ドルで払い込みは終了しているという。多分、水面下ではその金額で交渉が進んでいるに違いない。
浜美代からは、個人かグル-プかは定かではないが、この山頂で午後3時から、麻薬ディラ-の談合があるらしいと聞いている。それまでの時間をどう過ごすか。
この麻薬ディラ-の談合と小城財相の拉致がどう関係しているのか? それとも、麻薬と小城財相の件はまったく別のことなのか。
いずれにしても、財相の消息は必ずここで判明する。二郎の直観がそう感じていた。

二郎は、1階の展望レストラン「イ-グルネスト」に入った。
ウエイタ-の案内を断り、知り合いを探す振りをして座席をひと回り巡ってみたが、ここにもとくに怪しいしい姿はない。しかし、なにか雰囲気が妙なのが気になる。
フランス、スイスの警察からは、民間人に化けて入り込んでいる私服の警察官が20人ほどはいるはずだが、それらも完全に観光客に溶け込んでいて、なかなか見分けがつかない。人相が悪く目つきが鋭いのがマフィアとは限らない。刑事も同じだからだ。
一目で何者かを見抜けるような例外もあるが、ごく普通の服装で普通の会話をしていれば、警察も民間人も大きな差異はない。
二郎は、気を引き締めて周囲を見渡した。
改めて注意して見回すと、どのグル-プも観光を装ってはいるが明らかにただの観光客ではない。あちこちで国籍も人種も問わず商談らしい会話が飛び交っている。
本格的な商談をあと一時間にして、待ちきれない仲買人達がビジネスケ-スの中身を見せたり、ヒソヒソと顔を押しつけるように真剣に話し合ったりしている。
そこには、観光客グル-プがかもし出すウキウキした高揚感がないだけでなく、中国語やフランス語、英語やドイツ語などの賑わいの中にあって、得体の知れない
鋭い目つきの男達のグル-プがいくつか目についたことだった。同じキャビンで昇ってきたアラブ系のグル-プの姿もそこにあった。
そこを素通りして二郎は、階段を利用して2階のレストランに上がった。

 

2、観光客(2)

このシルトホルン頂上駅の名物は、アルプスル-ムの名で知られる〃ビッツグロリア〃という回転レストラン展望台だが、この日は3時からの貸し切りに備えて「準備中」の札が出ていた。
その客のいない、入り口で、バスで一緒だったカナダ人の老夫婦が支配人らしい男とフランス語で真剣な表情で、なにか交渉しているように話し合っていた。支配人が二郎に気づいて口を閉ざすと、老夫婦の夫が英語で二郎に話しかけた。
「いま、3時からリザ-ブらしいから、それを延長させて3時半まで開店するように交渉してたところですよ」
老夫婦は、「わざわざカナダから、この回転レストランを楽しみに来たのに、なんの公的な発表もなくシルトホルンの名物を貸し切りにするなど許されることではない」と、こう主張して、今から1時間、誰でもこの店が使えるようになった……「お友達にも伝えてください」と、二郎にも言った。
二郎は、そのまま展望テラスに戻った。
テラスの丸テ-ブルに座っていた葵ら3人は、雪山の景色を愛でてワインを楽しんでいた。明るいアルプスの空の下で、華やかな若い女性の3人連れが目立つのか、何人もの外国の男性が飲み物を片手に、椅子が一つ空いているのを見て同席を求めて挨拶をするが、恵子や美代にやんわりと断られて残念そうに立ち去っているのが見えた。
二郎が近づき、回転レストランが使用可能になったことを伝えると葵が腰を上げた。
「嬉しい。すぐ移ろう!」
「ちょっと待って。このワインを飲んでからよ」
恵子に言われて葵も腰を下ろし、飲みかけのワインを美味しそうに飲み干した。
二郎の後から続いて降りてきたカナダ人の老夫婦が、手をつないでのんびりと、各テ-ブルの間をお節介にも、回転レストランがオ-プンしたことを知らせて回っている。
二郎がまた、建物の壁際に戻ってテラスを眺めていると、葵が先に立ち上がり、美代と恵子をうながして建物に近づいて来る。
そこで、葵が二郎に声をかけた。
「私たち、上の回転レストランに移ります。海原さんもご一緒にいかがですか?」
澄んだ瞳の葵が、二郎のサングラスの奥を覗くようにして誘ったが、これも声を掛けただけに過ぎないのは、二郎の返事を待たずに通りすぎたことでもよく分かる。そのいたずらっぽい仕種が二郎のハ-トをときめかせた。
またたく間に人の流れが動き出していた。老夫婦に知らされた観光客がテラスの席を立って、営業を始めた二階の回転レストランに移動し始めたのだ。
展望台の各所に設置されたガイド・スピ-カ-からは、英語など数カ国語で「午後3時まで最上階の回転レストランを開放します」とのアナウンスが流れている。
すでに多くの観光客は、そのアナウンスを待たずに最上階に向かって流れている。
移動する観光客の殆どが、壁面に立つ二郎を気にしてチラと見てゆくが、その目には明らかに警戒の色が浮かんでいる。
それら敵味方の判別がつかない視線から監視されているのに気づいた二郎だが、自分が何を警戒されているのか、その理由は理解できない。自分がそれほどまでに周囲を意識させるほどの立場でもないだけに、ますます不可解になる。だが、それが服装や外見から見た誤解で敵味方の判別がつかないから、と考えると納得がいく。世界でも有数の高級観光スポットのアルプス展望の山頂に、モジャモジャ頭に不精髭、サングラスに皮のハ-フコ-ト、精悍で長身の東洋人が所在なさ気に建物の壁を背に一人で立っているのだから、疑われるのも当然だった。
確かに、香港帰りのまま満足な休息もせずに日本を飛び立って来た二郎は、身だしなみも何もなく、頭から足の先までホコリっぽい感じでうす汚ないのは事実だった。しかし、うさんくさい目で二郎を見る彼らの視線の中には、二郎がかもし出す陰うつな雰囲気と、刑事にも麻薬の密売人にも見える不思議な存在感に対する警戒の念もあるらしい。
二郎自身もそれは薄々気づいているのだが、こればかりはどうしようもない。
だから、戸惑っていたのだ。
周囲を見回すと、たしかに二郎一人だけが異質な存在にも思えて来る。かといって観光団を装ったパリ警視庁の一行からもはみ出しているし、いまから葵ら3人を追って回転レストランに急ぐのも照れくさい気がする。
これでは小城財相釈放後も、護衛どころか、新たな誘拐犯に誤られるのがオチだ。
二郎は、白銀の山々を眺めながら深いため息をついた。

 

3、タレントの副業

二郎は、大半の人々が室内に入ってガラ空きになったテラスに出た。
展望テラスの外柵は、安全を考えてか大人の胸近くまである頑丈な白いフェンスに囲まれている。そのフェンスもたれて、アルプスの景観を眺めている観光客もいた。
二郎は、建物から離れてそのテラスの外側を囲う白いフェンスに近づいた。
そこにいた日本人の若いペア-が気になったのだ。
二郎はその二人の風下に立って鉄柵に腕を乗せて山を眺める振りをして横目で彼らを眺めた。ハネム-ンにしては、なぜかこの若いペア-には明るさがない。それが気になったのだ。この二人はどちらもテレビで見たような顔だが、あまり芸能などには興味のない二郎だけに、一流でも無理で二流や三流の芸能人となると知るはずがない。それでも、スキャンダラスな噂で夕刊専門誌に載った男女であることと、ふもとで見かけたときに恵子という女が、柳沢敬三と赤森サヤカとか口走ったのを思い出していた。
屋上に立てられた白いポ-ルの先端には、赤字に白十字のスイスの国旗が午後の陽を浴びてひるがえっている。5月に入ったというのに、さすがにアルプスの山の上、海抜2970メ-トルのシルトホルン頂上駅屋上テラスを吹き抜ける風は冷たい。
ユングフラウ、メンヒなどベルナ-・アルプスの山々の峯が、おだやかな美しさを讃えているのに、アイガ-の横顔だけは愕然と直角にそびえ立ち、黒く鋭い岩肌は獲物を狙う野獣の牙のように露出し、わずかに粉をまぶしたように点在する雪片は、黒豹の背にまだらな白模様が見えるようでもある。
アイガ-の尾根から南面に続く雪渓のル-トを、スキ-で滑降して見事に成功した生命知らずの男の名にちなんで、シルベン・サウダンと呼ぶル-トは展望台からかすかに見える 双眼鏡でアイガ-の北壁を眺めていたアメリカ人観光グル-プの一人が、「人が登ってる」と、叫んで手を上げて指をさした。
日本人ペア-の赤森サヤカという小柄なタレント女性が肉眼でそれを確かめて、長身の柳沢という男に身を寄せた。
「敬三さん。怖いわ……」
愛くるしい少しやつれ顔の女の長い髪が5月の風になびいている。
「慣れれば何も怖くなんかないもんだよ」
男の大きな手が、愛おしげに女の肩を抱いた。その女の「怖い」という表現が、険しい崖をよじ登る人間を指したのではないことは、その後に続いた柳沢敬三の言葉でもよく分かる。女は何かを恐れているのだ。
「敬三さん……」と、女が甘い声で囁いた。
「今度こそ正式に奥さんと別れて、あたしと結婚できるのね……」
男は、返事をする代わりに女の頬に唇を寄せた。
風に乗る二人の会話を耳にした二郎が顔をしかめた。
数年前の自分も、仕事で海外長期出張中に肌寂しさに浮気をした妻との修羅場を味わっている。別れる決断が出来ずに、ズルズルと家庭崩壊という大きなツケを払った苦い思い出が脳裏を横切った。あれから女性を信じることも愛することも出来なくなっている自分がいる。愛して裏切られることが怖いのだ。
柳沢が小声で言い訳めいて呟いた。
「まだ調停中だからな」
「じゃあ、まだ籍が抜けないってこと?」
「慰謝料の額で揉めてるんだ」
サヤカという女が小さく呟いた。
「誠意も愛情もない男に惚れた女は惨めなのよ」
二郎が思わず我が身に思いを走らせて肩をすくめた。風も冷たかったからだ。

 

4、タレントの副業(2)

展望テラスの柵に寄り掛かって語っているその男女のところに、イタリア人と一目で分かる男が、周囲の目を気にするように笑顔で近寄り、片言の日本語で話しかけた。
「ヤナギサワさんですネ?」
「そうです」
「ハネム-ン、オメデト-。コレ、ボスからプレゼント、ニンギョウデス」
男は、たどたどしい日本語で確かにこう言って、大きなバッグから人形の形をした包みを取り出して手渡した。
「ありがとう。預かってきたお返しだ」
ヤナギサワと呼ばれた男が、用意してい厚手の規格外封筒を手渡すと男が礼を言って、その封筒を、持参した大きなバッグに入れ、その中で確かめてから頷き、持参したセカンドバッグにその封筒を入れ、「コレモドウゾ」と、人形を入れてきた大きなバッグを柳沢に渡して立ち去った。プレゼントされたのに、預かったお返しとは妙だが、気にしても仕方がない。所詮、二郎とは関係がないからだ。
その人形の受け渡しシ-ンは、ごく自然だから誰もが気にもしない。だが、ハネム-ンのお祝いとは裏腹な事務的な荷物の受け渡しと、始めから用意してあったお返しの厚みのある紙袋……それが、もしもも札束だったら? 祝福も感謝もないビジネスライクのやりとりから見て、あれは品物を購入した代金ではないのか? と、二郎は思った。
サヤカという女が口をとがらせて息まいている。
「変だわ、知りもしない人からハネム-ンの記念品を頂くなんて。この前のパリのときもお人形だったでしょ?」
「外国の習慣なんだろ。安物の人形をチップで買わされたようなものさ」
「私にも中身の想像はついています。こんなこと、いつまで続けるの?」
「なにを?」
「ハネム-ンごっこと、人形運びです。しかも私が運ぶんですから……」
「正式に結婚できるまでだ。なにが、気にいらないんだ」
「前に税関で言われたんです。赤森さんはいつも人形がお土産ですね、って」
「だから何だ?」
「今回は、この人形も調べられような気がするのね」
「嫌なら、オレが運ぶ」
「それも心配なのよ。こんなこと止められないの?」
「二人の付き合いもか?」
「そんな話じゃないでしょ」
「分かった。オレ達の荷物には入れないから安心しなさい」
ケ-ブル・キャビンの発車のベルが鳴り、二人が急いでその場を去った。
この二人を追っても何を言えばいいのか、迷ってはいたが放置はできない。問い詰めるだけでも意義がある。二人を追おうと動いた二郎の前に、立ち去ったはずの人形を運んできたイタリア人が立ちはだかっている。その背後に屈強そうな男が二人いた。
二郎は(うかつだった)と、心の中で呟いた。先刻から真剣に話し合っていたのは取引現場だったのか? そういえば、確かにあちこちで商談らしい姿が見えていた。
小城財相にこだわり過ぎて、妙な空気に気づきながらも麻薬の取り引き現場を見逃していた自分がうかつだった。冷静に見まわすと疑わしい人物ばかりがうごめいていて、ここでは麻薬の密売が半ば公然と行われている。
二郎の頭の中に、ある仮説が浮かび不安感が胸を突いた。
拉致された小城財相が、日本を有望なマ-ケットとするEUマフィアに脅されて取引の材料に使われる恐れがある、としたら? 一時的にしろ、財相を脅してその政治力を生かせば、非合法的に日本への運び入れを容易にさせることは可能だからだ。
それが、日本の若い男女の大多数を廃人同様に変えるだろう。
二郎は、二人を追うのを諦め、イタリア男を睨みながらその場を離れて、建物の内部に入った。ただ、運び屋が柳沢敬三と金森サヤカであることだけは記憶に残った。
1階にはレストラン「イ-グルネスト」の他に土産物のショップもある。
二郎はゆっくりと店内を眺めた。相変わらず怪しげな男たちからの冷たい視線が二郎に向けて突き刺すように追って来る。
二郎の目も徐々に、ただ者とは見えない不審なペアや男女グル-プの姿を捉えはじめていた。だが、その相手にも二郎の存在が怪しげに映っているのは間違いない。
二郎は、店員に下手な英語でたずねた。
「2階はまだ席はあるのかね?」
「もう満席のようですが……でも、お一人さんぐらいなら」
二郎は、階段を上がり、回転レストラン〃ビッツグロリア〃に入った。
観光客の視線が、いっせいに二郎に集まった。
二郎は腕時計を見た。午後3時半までにはビ-ルを飲むぐらいの時間はある。

 

5、リザ-ブ

回転レストラン〃ビッツグロリア〃の大きく視界を広げた窓からは、雄大なアルプスの景観を360度の大パノラマを眺めることができる。
ここからは、ベルナ-・オ-バ-ランドの三つの山、アイガ-、メンヒ、ユングラウだけでなく、ブライトホルン、ブリュ-リスアルプをはじめ、西の方向には鋸の刃のようにギザギザ状な稜線のズステン峠など雄大な山並みが幾層にも重なり合って、遠く遙かに霞むまで眺めることが出来た。ヨ-ロッパの貴族が一度は必ずここを訪れ、アルプスの景観を愛でると言われるのも無理はない。
いつの間にかレストランの出入口やエレベ-タ-フロア-にも、人が集まって来て、回転レストラン内が意外に混んでいることに驚いて、店のマネ-ジャ-に食ってかかって文句を言っている。それでも、空席がないとからと入り口で押し返され、ブツブツ文句を言いながら階段を下りて行く。
二郎は、知人が中にいるから、とウエイタ-に断って店内に入って、葵らのいる席を探したが、店内は広いし、360度の視界があるということは店内をひと回りしなければならない。ようやく、離れた位置のテ-ブルに葵たち3人の姿を見つけた。
そこに近づこうとテ-ブルの間を縫っていると、すっかり顔なじみになったカナダ人老夫妻に声を掛けられ、そのテ-ブルに相席で座らされる羽目になった。
英語訳もあるメニュ-を眺めてビ-ルだけの注文を出してから気づいたが、斜め後方の席からも前から背後からも二郎に注ぐ視線が感じられる。
さり気なく注意すると、一般人を装ってはいても明らかに違う種類の人間が観光客や夫婦に化けたりして紛れ込んでいる。言葉は通じなくても妙な雰囲気はだませない。そこには奇妙な緊張感が漂っていた。
二郎と少し離れた位置に座っている、夫婦に化けたパリ警視庁のダニエル警部とシャ-ロット刑事の間にすら、民間の警備会社から派遣された二郎を信じ切れない空気が流れている。ダニエル警部が、二郎をチラチラと盗み見しながら、すぐ近くのテ-ブルに葵らと一緒にいる浜美代に何事かを聞いている。浜美代が自信なさそうな目で二郎を見た。あるいは、二郎が戦力になるかを確認しているのかも知れない。
その雰囲気を肌で感じた二郎は、これから必ず何か事件が起こると確信した。もしかしたら、財相がここに現れることも考えられる。なにも起こらない場合はキャビンの最終便まで粘り、麓のホテルに落ちついてから田島代表と改めて策を練ればいい。
ただ、麻薬の取り引きと財相拉致との因果関係だけは、どう考えても判然としない。単なる偶然なのだろうか? 無理に関連づけるとすれば、麻薬の取り引きに財相を利用する手だが、それとても内容は見えてこない。
もしかすると、あのタレントの柳沢敬三も何らかの役割を担っているのか?
もしも、この回転レストランを彼らが借り切ったとしたら、ここで何を始めるつもりなのだろうか? その場を警官が襲ったとしたら、鬼が出るのか蛇が出るか? 麻薬カルテルからの警告として小城財相を殺害することも考えられる。そこには、警察の介入に対抗して、という彼らなりの論理に大義名分が生まれるのだろうか?

 

6、リザーブ(2)

カナダの老夫婦と、単語を並べた会話をしながら、ウエイタ-が運んで来た註文品のカルディナルビ-ルのグラスを傾けていると、ふと葵がこちらを見たのに気づいた。
この娘たちだけは事件に巻き込みたくない。
「ちょっと失礼」
老夫婦に断り、グラスを持ってって3人の席に向かうと、葵が空いているイスに二郎を座らせ、一緒に食べるようにとフォ-クやナイフを揃えてくれた。
「もうすぐ、ここは3時から貸し切りだという連中が来て、一騒動起こる。
それまでにはここから出ていないと大変なことになるぞ」
「あら、3時半までOKって言ったのは海原さんでしょ?」
二郎のこの警告も無駄だった。テ-ブルの上には、子牛肉の薄切りシチュ-風クリ-ム煮と、ジャガイモを細かく切って焼き牛肉入りマッシュル-ムソ-スをかけたレステ料理。バ-ゼラメ-ルズッペとかいう小麦まじりのブイヨン煮ス-プにミニサ-ロインステ-キ、さらに、大きな皿の上に、カルディナル角状の牛肉を串にさして焼いたミ-フォンデュや、ジャガイモ料理やステ-キなどがふんだんに盛られている。これを、3人で食べるつもりだったのだろうか?
その二郎の気持ちを読んだのか、葵が言った。
「これは、海原さんの分を入れて4人前ですよ。代金は頂きますからね」
そして、3人の女性は窓外に移り行くアルプスの景観など、どこ吹く風とばかりに食べて飲んで笑い喋りまくっていて賑やかなことこの上ない。
葵がそれらの料理を美味しそうに食べた口許を満足げに拭いて、ワイングラスに手をのばしたとき、キャビンの到着5分前を告げる放送が流れた。
その案内を待っていたのか、かなりの客が席を立った。誰からともなく、間もなく2階の回転レストランが妙な連中によって貸し切りになるという噂が流れた。その上、キャビンが到着するたびに人相の悪い妙なグル-プが次々に現れるので、大半の一般観光客は気味悪くなってか観光もそこそこに下山を急いでいたのだ。
店内の客は、ケ-ブルキャビンが到着する度に、展望台のテラスにいる人数を含めて総人数に大きな変化はなくても、人間の質は極端に悪くなる。空席が目立ち、残った客は皆どこかうさんくさい。
やがてキャビンが到着し、新客がテラスに出たらしく騒がしさが伝わって来た。
それに、このキャビンで財相が来る可能性もあるし、人の動きも見ておきたい。
一言、断って二郎は下に降りた。
展望台のテラスに出ると、一般の観光客らしい姿はかなり消えている。
観光団に化けた警察官のグル-プも、各国からの密売人グル-プらしい連中も今はまだ飲み食いと談笑に余念がない。
二郎が見抜いただけでも、アメリカの観光団の中にもマフィア風の男がいたり、イタリアの観光団にもギャングの幹部風の男が紛れ込んでいたりして、それぞれが女連れで騒いでいて、一見しては見分けが付かないからややこしい。
香港か台湾かどちらか不明だが中国系の団体もいる。フィリピン人マフィアの幹部らしい男も紛れ込んでいた。ロシア系の観光団にもそれらしい男女が数人はいる。
新しく参加した団体の中にいた男が、側近の男に腕時計を見せて何やら囁いて、自分は先に屋内に向かった。側近の男が各国語で叫ぶ。
「会員の方は2階のレストランに上がってください。もうすぐ、会長も現れます!」
各国のグル-プや男女のペア-が雑談を交わしながら回転レストランに向かう。
財相の釈放される時間が気になって時計を見た二郎は、3時になったのを確認してからゆっくりと階段を上がった。財相は釈放されなかった。
二郎が席に戻ると3人はまだ料理を食べていた。
「さあ、そろそろ退去しないと……」
「でも、3時半までの約束よ」
そのとき、ヘリのエンジン音が外に響き、レストランにいた全員が窓の外を見た。
黒いヘリが窓の外を横切って、テラス脇のヘリポ-トに降下しているのが見えた。
裕福な観光客がヘリで乗りつけたのか、それとも……?

 

7、麻薬マフィア

ヘリから降りた団体客が10数人、なだれ込むように回転レストランに入ってきた。
その中の恰幅のいい縦縞のダブルの茶系ス-ツを着て葉巻をくわえた来た50代の太めの男が、フロアマネ-ジャ-を呼んで、早口で何事かを命じている。
その背後に用心棒なのか子分なのか人相のよくない屈強な男たちが並び、その中に不精髭で顔がはっきりしない日本人らしい男が一人いた。
二郎がよく見ると、元警視庁警部で財相秘書の草苅武男に間違いない。
二郎にとっては昔の剣道教官でもあるが、それほど親しい間柄でもない。
草苅からみても二郎のことなど記憶にないらしく、チラと視線を投げただけで二郎には気づきもしない様子だった。もっとも二郎の無精髭は以前はなかったから見分けようが無かったのかも知れないが。
それにしても、草苅武男はどう見ても連行されているようには見えないし、手が縛られているわけでもない。まるで仲間のような雰囲気なのだ。
ウエイタ-、ウエイトレスを召集して何事かを相談したフロアマネ-ジャ-が、店内に進み出て、客席に向かって恐縮したように頭を下げフランス語、英語で説明する。
「こちらのフロア-は、ただいまからリザベ-ションになります。一般のお客さまは、料理はそのままお持ちしますので、下のレストラン〔イ-グル〕にお移り願います」
当然のことだが、居残った一般の観光客からブ-イングが出た。
「冗談言うな。今、料理がきたばかりだぞ!」
カナダ人だという老夫婦の夫が猛烈に噛みついた。
「急の事情がございまして、申し訳ございません」
マネ-ジャ-が困惑した様子で頭を下げると、カナダ人が強い口調で息巻く。
「失礼じゃないか。これから食事を楽しむんだ、絶対にここで食事をする」
マフィアの用心棒らしい男がテ-ブルに近づき、凄味を効かせて脅す。
「今日の午後3時からパ-ティ-会場に予約してあったのを、支配人が度忘れしてやがったんだ。さっさと退いてもらおうか。それとも痛い目にあうか?」
老人の怒りが爆発した。夫人の手前でもあるから後には引けない。年齢を感じさせない俊敏さで、その無礼な用心棒の顎に一発、見事なストレ-トを炸裂させると、男が吹っ飛び、テ-ブルに頭を強打して悶絶した。とても、老人には思えない。
フロア-内の全員が声を上げ腰を浮かせて、突然の出来事を呆然と眺めている。

8、麻薬マフィア(2)

二郎の視線が、客席を越えてエレベ-タ-ホ-ルの柱の影に立つ長身の男を見た。その男のトレンチコ-トの裏からマシンガンの銃身が上がるのが見えた。その隣の男が拳銃をとり出し、カナダの老人を狙った。それを見たのか、老人の奥の席にいたダニエル警部が拳銃を握って立ち上がろうとした。と、同時に二郎が本能的に立ち上がってダニエル警部を手で制し、老人の前に進み、下手な英語でまくし立てた。
「こんなところで暴力は許さん!」
「うるさい!」
老人の平手が二郎の右頬に炸裂し、二郎も平手で応戦した。派手な音がした。とっさの芝居だと分かっていても殴られれば殴り返すのが男の本能だから結構本気になる。
わざと大げさによろめいた二郎は、長身の男のコ-トがマシンガンを隠し、隣の男が拳銃を隠したのを見た。これでカナダ人夫妻に被害はおよばない。一安心したところで下手な英語でさらに挑発する。
「暴力を止めたのに殴るとは何だ。下で決着をつけよう!」
意味などは通じなくてもいい。
「よし!」
老人が理解したらしい。
老人に殴り倒されて気絶していた男が意識を取り戻し後頭部を抑えてから、拳銃を取り出して老人に突きつけたが仲間になだめられ、あわてて拳銃を隠した。
ほんのわずかな時間の出来事だったが、拳銃を見て恐怖を感じた一般客を撤退する気にさせるには充分の出来事だった。カナダ人の妻がせき立てるように夫を押し、階段に向かうと、その奥にいたダニエル警部とシャ-ロット刑事、浜美代も席を立つ。
とりあえず一難は去った。
二郎も、残した料理に未練気な葵と恵子をうながして、疑いの視線を感じながら階段の降り口に向かうと、ほとんどの一般客が席を立って出口に急いだ。
拳銃を隠し持つ長身の男とその仲間がエレベ-タ-ホ-ルにいて、二郎らを止めようとしたとき、ほぼ同時に出て来たダニエル警部がさり気なく割り込んだ。それを見た二郎は素早く草苅武男に接近して足を蹴った。二郎の顔を見てけげんな顔をする草苅に日本語で告げる。
「海原二郎です。かならず救出しますよ!」
けげんな表情の草苅武男の視線を背に感じながら、二郎は勢いよく階段を降りた。彼らも事を荒立てるのは望まないのか深追いはして来ない。
1階のレストラン「イ-グルネスト」に席を移すと、カナダの老人が近寄って来て二郎の手を握り、英語で言った。
「サンキュ-、なかな気が効きますな……しかし、手加減がなさすぎますぞ」
「ここは危険なようですから、次の便で帰られたらどうです?」
「ご親切にありがとう……妻がなんと言うか?」
老人が振り向くと、老妻が笑顔で首を振った。

 

9、誘い出し

二郎の手の甲から血が流れているのを見た葵が、テイッシュを出して血を拭きとり常時携帯の小型救急セットから軟膏と包帯を取り出して素早く手当てをした。葵は母親が看護師だから準備も手際もいい。
それを見た美代が、葵と恵子に頼む。
「ケガ人の面倒をお願いしていい? これから沢山出ると思うけど」
「とんでもない、他人のことまでは無理よ」
「じゃあ、どうして海原さんの手当てをしたの?」
「どうしてって……自然にそうなっただけよ」
「それにしても、海原さんて意外な面があるんですね?」
「美代が、そんなこと何で聞くのよ?」
「ご免なさい。ダニエル警部が、もしかして海原さんは……」
「警護員に化けた運び屋とでも、って疑ってたのね?」
「警護員や元警察官が麻薬密売業者や運び屋に転職する場合も多いからって……」
「やだな、恵子も列車で海原さんを見て、そう言ったでしょ?」
「あら、葵が言ったのよ」
「あのときは、海原さんを知らなかったからよ」
二郎が不機嫌な顔で3人を見た。美代が頭を下げた。
「でも、先程の勇気ある行動で、警部の見方も変わったようです」
「どう変わったんだね?」
「やはり、日本国が財相の警護に選んだだけの人だけあるって……」
「国が選んだんじゃないよ。人がいなかっただけだ」
「それでも選ばれたのは確かですから」
「麻薬の運び屋から、ずいぶんと評価が変わるもんだな」
「でも、今日は、小城財務大臣の釈放はないようです」
「なんでだ?」
「振り込まれた身代金が半額だけで、交渉が決裂したそうです」
「それは知ってる……だが、オレは財相の警護だけで、救出は関係ないよ」
「麻薬取引犯逮捕に参加して、Mr・クサカリ救出にも力を貸してください」
「さっき、後から入って来たのが草苅さんだが?」
「知ってます。ですからお願いしてるのです」
「オレまでが麻薬密売のマフィアと戦う義理はないだろ?」
「戦力が不足なんです。指揮をとるクロ-ド警視からのお願いです」
「クロ-ド警視? そいつはどこにいるんだ?」
振り向くと、カナダ人だという老夫妻が立っていた。
「ダニエル警部!」
老人が横柄な態度でダニエル警部を呼び、白い付け髭を剥がして背筋をしゃんと伸ばすと、見るからに精悍で老練な警察幹部の素顔が現れた。
「こちら、今回の総指揮官でパリ警視庁のクロ-ド警視です」
とまどっている二郎に、美代が紹介した。
「改めて……クロ-ドです。Nr・ウナバラもぜひ警察に協力してください」
「とんだ食わせ者のオヤジだな。私は単なる民間の警護員だと言ってくれ」
美代がそれを伝えると、すぐフランス語で何かを指示した様子だった。
「財相の救出隊に参加してもらう、と言ってます」
「救出隊に付いて行くだけなら……と、伝えてくれ」
「では、そのように伝えます」
これで、二郎の役割は決まった。警視がカナダ人の老妻に化けた女性を紹

介する。

10、誘い出し(2)

「改めて……クロ-ドです。こちらは麻薬対策課のアンジェリ-警部です」
女性が顔のメ-クを化粧水で拭き取るときれいな肌の素顔が現れた。
今度はフランス語なので、美代が通訳する。
「さきほどの武勇伝はあっぱれでした」
クロ-ド警視が二郎を称え、老妻役のアンジェリ-警部が頷く。
「では、すぐにでも財相救助隊への協力をお願いできますか?」
「財相の居場所も分からないのにですか?」
「多分、誘拐犯はここに来ているマフィアと関係あるはずだから、一味を捕らえて責めればすぐに吐きますよ。財相救出はそれからです」
「監禁場所を急襲して救出するってことですか?」
「そのためには、まず、麻薬密売組織の壊滅が先です。協力してください」
「冗談じゃない。相手にはマシンガンがあるのに」
「マシンガンは奇襲戦法で奪いますから安心しなさい」
「そんな奇策があるんですか?」
「ですから、あなたの勇敢さと俊敏さが必要なのです」
「私が? 冗談でしょ。おだてには乗りませんよ。命は惜しいですから」
「オギとクサカリを救出したくないですか? これは、あなたの国のことですよ」
通訳する美代の顔が困惑している。
そのとき、クロ-ド警視が手に持つ受信機から会話が入った。
「発振器をテ-ブルの下に仕掛けたんだ。いよいよ会議が始まるぞ」
ダニエル警部が「さすがですな」と言いながら聞き耳を立てている。
ふと、クロ-ド警視が葵と恵子を見た。
「危険だから、お二人は次のキャビンで帰りなさい」
「わたしたちはアルプスの夕日を観に来たんです。降りるのは最終キャビンです」
「ほう。いま帰らんのなら、お手伝いくださらんか?」
「なにを手伝うんですか?」
二郎が手を顔の前で横に振った。
「とんでもない。この二人はダメです。危険すぎます!」
葵と恵子が同時に叫んだ。
「手伝います!」
クロ-ド警視が頭を下げた。
「では、早速お願いします。ハマ・ミエに協力して、そこの階段下と、エレベ-タ-の入り口にいる見張り役を一緒に、駅のホ-ムに連れ出してくれませんかな」
二郎が驚きを顔に出した。この二人には危険すぎる役割だ。その二郎の心を読んだようにクロ-ド警視が説明し、シャ-ロット刑事が通訳する。
「お二人に危険はないですよ……見張りをおびき出してもらえば、処置はダニエル警部とウナバラが行けばいい。山頂駅で写真を撮るからと言って、彼らを構内に誘い込んでください。見張り役の二人がそこに入ったら、ハマ・ミヨは入り口で誰も入れないように見張って、ダニエル警部とウナバラだけが入って彼らを倒す。それが済み次第に二階のマシンガン男を倒せば、警察が踏み込めるから……と、警視は言っています」
「冗談じゃない。私には無理ですよ」
「いいえ、先程の行動を見る限りは心配はありません。わたしもご一緒します」
シャ-ロット刑事が笑顔さえ見せて、引きつった顔の二郎の肩を叩いた。
やはり、なにか誤解が生じているらしい。

 

11、必殺の蹴り

その時、飛んで火に入る夏の虫……のことわざを実現させる出来事が起こった。
暇を持て余したのか、階段下にいたアラブ系の見張り役の男がガラス窓越しに店内を覗いていたが、老人から警察官に戻ったクロ-ド警視を見て、なにが気づいたのか、エレベ-タ-前にいた見張りの男を誘って、二人で店内に入ろうとした。
それに気づいた美代が立ち上がると葵と恵子が続いた。
葵が店内に入ろうとする二人を押し止め、ポケットから小型カメラを取り出したつくり笑顔の葵が英語で話しかけた。
「テラスで、一緒に写真に入ってくれますか?」
相手の表情に変化が乏しいのを見て、美代が同じ言葉をフランス語で訳した。アラブ男二人が顔を見合わせて頷き、葵と恵子、美代らが外に出た。
後を追った二郎が、葵と恵子に真顔で「いざという時は急所を蹴れ」
とだけ伝えた。
テラスに出た葵と恵子は、見張りの男二人とのカットを、まずアルプスをバックに、とカメラを美代に手渡して撮ってもらった。その次ぎは、頂上駅のホ-ムを背景にした写真が欲しい……と誘うと、見張りの男たちは何やら小声で話し合ってから「いいよ」と言ったらしく、自分たちから先に駅の構内に向かって歩きはじめた。そこで美代が入り口で見張りに残り、葵と恵子が男たちの4人が駅の構内に消えた。
それを窓から見ていたダニエル警部とシャ-ロット刑事が、少し間を置いて立ち上がっり、二郎を誘った。3人はレストランの外に出て頂上駅に向かった。ダニエル警部が入り口に立っている美代に言った。
「ケリがつくまで、ケ-ブル駅の構内には誰も入れるな」
ダニエル警部とシャ-ロット刑事、二郎の3人が構内に入った。
30分置きのキャビンの発着までにはまだ15分ほど時間がある。葵らと見張り役のマフィアは、山頂駅で駅名のネ-ムプレ-トを背景に記念写真を撮ることになっている。そこを襲う手筈なのだ。
ホ-ムに向かいながらダニエル警部が、シャ-ロット刑事にぼやいた。
「あの二人には荷が重かったかな?」
「いいえ、あの二人の魅力なら、男二人ぐらいは上手に扱って悩殺できますよ」
「たしかに魅力的だが、色仕掛のテクニックには疑問符が付くからな」
このフランス語の会話を、シャ-ロット刑事が通訳して二郎に伝える。
「それは無理です。色気がない女が色仕掛なんて、すぐ魂胆がバレますよ」
二郎が腕時計を見ながら言った。
その心配は当たっていた。すでに状況が一変していたのだ。
葵と恵子はホ-ムに入ってすぐ、男たちに襲われていた。
周囲に誰もいないのを見極めた二人の男が、それぞれ葵と恵子に抱きついてきて壁際の窪みにに押しつけようとしたのだ。一応は合意の上でという雰囲気を演出するつもりなのか何やら話しかけては来たが、明らかに力づくで犯そうという魂胆らしい。ところが意外にも、この二人の女性はそう簡単には落ちなかった。
腰に手をまわされ男の髭が口許を襲ったところで、二郎のアドバイス通りに葵の膝が男の急所に炸裂した。その鋭い一撃で屈強なアラブ男が崩れ落ちたのだ。それを横目で見た恵子も同じ動作で男に地獄の苦しみを与えると、葵が叫んだ。
「そこを蹴り続けるのよ!」
二人は倒れた男たちが悲鳴を上げ両手で急所をカバ-し、体を曲げて逃れようとするのも構わずに股間に狙いを絞って脚力の続く限りと蹴り続けた、男たちが悶絶した。
「なんだ、あの悲鳴は?」
「二人が襲われた!」

 

12、必殺の蹴り(2)

二郎の杞憂は当たったらしい。悲鳴や争う声、打撃音が聞こえる。ただ妙なのは悲鳴が男の声だったことだ。
二郎に続いてダニエル警部とシャ-ロット刑事も走った。
二郎らが駆けつけると、急所を抑えて虫の息で倒れ伏している二人の男の横に立って、葵と恵子が荒い息を吐いて立っている。二郎の杞憂は外れた。被害者は見張り役の男たちだったのだ。
「どうしたんだ?」
葵が二郎にしがみついて泣き、しがみつく対象を失った恵子が答えた。
「構内に入ったとたん、いきなり抱きついて来たんで蹴ったんです」
「どこを?」
「海原さんの教え通りに急所をです。葵の真似をしたら当たっちゃって」
「悶絶させたんだから1発や2発じゃないだろ? 何回ぐらい蹴ったんだ?」
「多分、二人とも20回から30回ぐらい」
「30回……! 死んじゃうよ」
絶句した二郎が顔色を変えた。男たちの悲鳴も無理はない。その蹴りの威力は、硬球に直撃されてのたうち回るプロ野球の捕手や、巨漢プロレスラ-が急所を蹴られてのたうちまわる姿で誰でも知っている。大の男が七転八倒するこの痛みだけは女には分からない。その痛みを知る男なら、殺
したい相手でも3発で充分なのに30連発とは凍りつく。だから女は恐ろしい。
ダニエル警部が倒れている男に駆け寄って手錠を出したのが恵子の目に見えた。ダニエル警部が一人の男を脅して立たせようとしたが、男たちはまだ呻いている。
二郎が気絶している別の男のベルトから拳銃を奪い、ジャケットのポケットから予備の弾薬も探し出す。ダニエル警部が横目で見て二郎に教えた。
「それは、ロシア製のトカレフだよ」
二郎が一人の男の上半身を抱え起こし、膝を背に当てて活を入れると男が息を吹き返して虚ろな目で周囲を見た。シャ-ロット刑事が男を立ち上がらせてから後ろ手にして手錠を掛けた。
すでに、ダニエル警部に手錠を掛けられた男が座ったまま首うなだれている。
ダニエル警部が、男の頭に拳銃を突きつけてフランス語で脅した。
「10まで数えるうちに日本の大臣を監禁している場所を吐け!」
脅しでないのは表情で分かる。男は下腹部を抑えて顔をしかめた。
「アンユヌ……ドウ……トロワ……」
「待ってくれ……」
「待てん……カトル……」
「ミュ……ミュ-レンだ」
「ミュ-レンのどこだ?」
「オテル・ゼフィネン……」
シャ-ロット刑事が二郎を見て通訳すると、ダニエル警部が二郎に言った。
「次のキャビンでミュ-レンに行ってくれ。機動隊のヘリもそこに集結させる。ミュ-レンのゼフィネン・ホテルだ」
「2階のマシンガンは?」
「今のお二人の活躍を見たらもう心配はない。また誘い出してケリをつける」
それを聞いた葵が崩れるように揺れ、あわてた二郎がまた葵を抱いた。
「大丈夫か!」
二郎の腕の中の葵が安心したように、いたずらっぽく目を見開いてウインクした。
異変を感じて駆けつけた美代に肩を抱えられて立っていた恵子が、とんでもないものを見たような目で二郎を睨んだ。どさくさに紛れて髭面の二郎の口が葵の唇に触れたのを見たのだが、実際に触れたかどうかは葵に聞いても、失神していたのであれば真相は闇の中になる。
葵は二郎の快いぬくもりの中で揺られていた。駅から出るまでのわずかな間だけでも時間が止まってくれればいい、と感じるほど安らぎが快かった。
男の汗くさくほこりっぽい体臭も今は気にならない。しかし、こんな小さな出来事で幸せを感じる自分が哀れにも思えてくる。幸せなんてもっともっと大きな夢の具現化であるはずなのに……。
二郎が抱きやすいようにバランスををとりながら葵をさらに密着させる。
葵は首に巻き付けた手に力を入れ、心臓の鼓動が聞こえるまで胸の中に顔を埋めた。
目を閉じた葵をお姫様抱っこでいとおしそうに抱えた二郎の背中を、美代の肩を借りてそれに続く恵子が睨んだ。二郎の肩から首に葵の手がしっかりと巻きついているのを見ると、葵は失神どころか意識して抱きついていることになる。
その恵子の気持ちを代弁するように美代が恵子に囁き、恵子も小声で応じた。
「葵もなかなかヤルじゃない?」
「頭にきたわ。この旅が終わったら絶対に絶交してやる!」
案の定、一階のレストラン「イ-スト」に運び込まれ、あわてて並べられた椅子の上に寝かされた途端に葵は都合よく目を覚ました。これでは恵子が怒るのも無理はない。
アナウンスが、キャビンの発車5分前を知らせている。
二郎が、葵と恵子に行った。
「オレはこれでミュ-レンに行くが、二人とも一緒に降りるかね?」
恵子が二郎を睨んだ。
「あなたの指図は受けません。あとは心配しないでください!」
二人の説得をあきらめた二郎が美代に伝えた。
「オレは財相の救助に向かうが、このじゃじゃ馬娘たちは早く帰してやってくれ」
二郎が未練を残して去った。