第十章 意外な展開

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1、ホテルの夜(1)

 小城財相がパリ滞在時の常宿にしているというオテル・ロワイヤル・モンソ-は、凱旋門を通って北東にのびるヴィクトル・ユゴ-大通りにあり、パリの盛り場であるサントノ-レ地区やシャンゼリゼにも近い。
フランス政府観光局の定めた4段階のランクによる格式では最上級四つ星デラックスの8階建てで、部屋数は220、雰囲気は名門のリッツと並び称される。しかも、格式ではオテル・ル・ブリストルに次ぐ高級ホテルでもあり、世界の中流ホテル30万軒で調べた年間ホテル・ランキングでも、常時100位前後の人気を誇るところから、各国の要人が好んで用いることでも知られていた。
同じ並びの日本大使館の前を歩くと大通りの突き当たりにモンソ公園があり、その周辺にセルチュチ美術館やニッシム・カモンド美術館などがある。
 パリの中心にある割合には敷地に余裕があるせいか、市街の喧騒からも少し離れている上に伝統と歴史の重みを感じさせる気品と風格が建物の内外にしみ込んでいる優雅なホテルだった。だからこそ二郎が泊るには、服装や無精髭も含めてあまりにも分不相応で場違いなホテルであることだけは間違いない。しかし、小城財相はそんな二郎の思惑など全く気にしていあない様子だった。
 午後9時過ぎ、ホテル到着には遅い時間だったが、ホテルには財相の拉致事件解決の朗報もあってか、支配人やフロア・マネ-ジャ-、社員らが花束を用意してにこやかに出迎えた。財相の荷物は拉致事件前と同じく、小城財相の居室になっていた608号室にそのまま残されているという。
 日本語が多少出来ることで、日本の要人専任のイタリア人・ボ-イのロベルトが、財相と二郎の手荷物を抱え、「オカエリナサイ」と、たどたどしい日本語で嬉しそうに話しかけ、先にたってエレベ-タホ-ルに向かった。
 久しぶりに自由になった財相の足取りが軽い。天井に青空が描かれた豪華なロビ-を歩きながら小城財相が二郎に語りかけた。
「ここの地下にはフィットネス・クラブがあるが、スマッシュ・ボ-ルはどうかね?」
 さすがの二郎もその頑健ぶりに呆れて返事ができない。政治家は人並みではないのは知っていたが、財相のタフさはまるで化け物のように異常だった。人質生活から開放され命がけで戦ったその夜なのに、まだ運動しようというのか。
「あちこちに打撲傷もあると思いますが、疲れてませんか?」
「そうか、もっと軽いものがいいかな」
「警護の立場から言えば長時間でも困ります」
 二郎の困惑した顔色を読んで、財相が方針を変えた。
「プ-ルならどうだ? 深夜の水遊びもいいもんだぞ」
「では、短時間で切り上げてください。私は見てます」
「君も泳ぎなさい。水泳パンツは売店にあるから」
「でも、わたしはボディガ-ドですよ」
「心配ない。ワシがガ-ドしてやるさ。部屋に云ったらすぐ行くぞ」
 財相に押し切られて、二郎も頷くしかなかった。
 ともあれ、財相と二郎は6階の608号室、三部屋続きの広いスイ-トル-ムに入り、ようやく長かった激動の一日から開放された。
 二郎の部屋は、財相の居室とは応接室をはさんだ客室で、一人ではもったいないほどの広さで余裕のあるセミダブルのベッドがあり、室内のサイドボ-ドには洋酒類、冷蔵庫にはスナック類やビ-ルなどがあり、全てが超デラックスな環境にあった。
 軽装になった財相が先に廊下に出たので、二郎も部屋を出た。
 そのとき、財相の部屋で電話のベルが鳴り、財相が戻ろうとしたがドア-キ-は自動的に閉まっていた。ドア-を開くのは顧客毎の磁気カ-ドになっていて、財相も二郎もそれぞれがカ-ドを持っていたが、どちらから入っても中で通じているから二郎が先にカ-ドを出してドア-に向かった。この磁気カ-ドはチェックアウト時に無効になる。
 その二郎を財相が制した。
「放っておけ、どうせたいした用じゃないだろうからな」
 二人は電話の音を聞き流してエレベ-タ-ホ-ルに向かった。プ-ルは地階にある。二郎も水泳は好きだが職務もあるし、財相の年齢を考慮すると無茶はさせられない。
 宿泊客および正会員だけが使用できる地下一階のフィットネス・センタ-に入ると、マシ-ン・エクササイズル-ムでは、中年以上の男女がそれぞれランナ-ズ・マシ-ンやノ-チラス、ボディプレスなど思い思いの健康機械を相手に汗を流していた。
 その隣りのプ-ルを覗くと、花柄の華やかな水着姿のご婦人と夫らしい男、思いっきり布地を節約しはち切れそうな肌を最大限に露出した女性と恋人らしい男性が、プ-ルサイドのチェア-で語らっているだけで、とくに怪しいと思われる人物はいない。
 財相と二郎は水着を購入して更衣室に入って着替え、温水シャワ-の下をくぐってプ-ルサイドに出た。

 

2、ホテルの夜(2)

 警護の二郎が了承したことで、財相は嬉々として泳ぎ出した。変則的な古式泳法の蛙泳ぎで見栄えは悪いが、肩から上を水上に出し力まずにスイスイと進んでゆく。すぐに疲れてプ-ルから上がるとみた二郎の思惑は外れた。財相はのびやかに水を割って50メ-トルのタ-ンを繰り返し、軽く400を超えてゆくが息切れもしていないのだ。その人並み
外れたその持続力には驚嘆するしかない。
 帰りがけのフランス人老夫婦がその見事な泳法を見て、プ-ル脇から声援を飛ばし、気持ち良さそうに泳ぎ続けている財相が右手を上げてそれに応えた。
「きみも泳ぎなさい」
 タ-ン寸前の泳ぎの中で、二郎を見た財相が誘った。
 見回すと、先程まで泳いでいた男女の姿も消えて今は誰もいない。
 安全を確認した二郎が財相から離れたコ-スでかがみ、胸に水をかけてから、そのまま水中に飛び込み思い切ってクロ-ルで腕をまわした。久しぶりの水泳で二郎の身体中の筋肉が快い緊張感を感じとっている。子供の頃には老成したフジヤマの飛び魚の古橋氏ともプ-ルで遊んだこともあり、数々の世界記録を塗り変えながら優勝確実と言われた五輪で銀メダルに泣いた山中毅(つよし)氏の豪快な泳法のコ-チを受けたこともある。
 水泳部に所属しこともある学生時代を思い出しながら200メ-トル近く泳いで、水中の壁との距離を目で追いながらトンボ返りタ-ンのタイミングを計ったとき、ふと背後の声に気づいた。
 タ-ン直後にすぐ顔を上げて振り向くと、いつの間に水に入ってのか数人の男たちが、二郎から一番遠い反対側で、変形の蛙型泳ぎの財相が接近したところを狙っていっせいに襲いかかったのだ。
「しまった!」
 プ-ルサイドに上がって走るのもタイルが滑って危ないから、全速力で泳ぐしかない。
50メ-トルだと35秒……疲労感もあるから40秒か? クロ-ルだと前が見えないから潜水して水中を凝視しながら必死で水を掻いた。
 青と白の縞模様のビ-チボ-ルが水に浮いているところを見ると、水球で戯れる振りをしてチャンスを窺っていたに違いない。遠くに10本以上の足が水中で足掻き、見え隠れする頭数からみて相手は5、6人はいる。
 もう一息! もどかしい思いで見ると、頭を押さえつけられて水中に引き込まれた財相の顔が苦悶に歪んで口から泡を噴いている。水を飲むと危ない。必死で暴れる財相の手足が力なく揺れた。
 財相が水中で気を失うのを確認して死んだと思ったのか、目的を達した男たちが水中からプ-ル脇に上がり、四方に散って逃げた。辛うじて追いついた二郎が本能的に犯人確保を優先し、プ-ルから這い上がり損ねた長身のアラブ男の足首を掴んで水中に引きづり込んだ。水の中となれば肺活量の大きい二郎のものだ。だが、相手の首を締めたところで、プ-ルの底にゆらゆらと両手を広げてうつ伏せに沈んでいる財相が見えたため、あわてて手を離すと相手の男がすばやく水を掻いて逃げた。
 意識を失っている財相を二郎がプ-ルから引き上げたときは、すでに襲撃班は一人残らず姿を消していて、ビ-チボ-ルだけが水面に浮かんで揺れている。
 気絶している財相の胃の部分を片膝に乗せて両手で上から押すと、手押しポンプの先からでるような勢いで水が吹いて床に流れた。
 プ-ル隣のエクササイズ・ル-ムの会員がプ-ルサイドの異常に気づいて、プ-ル脇の非常電話でフロントに急報したことで、すぐにインストラクタ-やホテルの警備員、ボ-イのロベルトなどが駆けつけ、次いで、救急救助員を兼ねているクリニックル-ムの医師が来た。30代後半と見える女医は、財相を仰向けに寝かせて胸を押している二郎に代わって、財相の胸を押しながら迷わずに財相の口に魅力的な唇を押しつけ口を開いて大きく息を吹き込んだ。とたんに財相の体が激しく反応し心臓が激しく動き、その鼓動は二郎にも伝わった。ロベルトが心配そうに「ダイジョウブ?」と日本語で呼びかけている。
 女医の必死の手当てが功を奏して財相の意識がかすかに戻った。財相がうつろな目を開き、女性の顔が目の前に密着しているのに驚いた表情をしたが口を塞がれていて声は出ない。そのまま目を閉じたところを見ただけでは、わざとその状況を味わっているのか、まだ意識が戻らないのか判別はつかない。だが、女医にはすぐ分かったらしく、あわてて口を離してハンケチで唇を拭い、悪戯っ子を諭すような目で財相を睨んだ。
 ともあれ命だけは助かった。人工呼吸で息を吹き返した財相は、ロベルトの通訳付きで周囲と会話を交わしながら用意された担架でホテル内の医務室に運ばれた。
 財相の体力は周囲が驚嘆するほど回復が早かった。栄養剤の注射をして立ち上がった財相に女医がフランス語で忠告し、ロベルトが日本語に訳して伝えた。
「年を考えて、次の旅行からはファミリ-の同行をおすすめします」
 ホテル側の警察への通報を抑えた財相の強い主張で、事件は闇に葬られた。
 多分、女医の医療日誌には、水泳中に脚が痙攣し水を飲んだ老人がいた、と処理されるだろう。
 フロント・マネジャ-の話だと、小城財相を襲撃したと見られるアラブ系らしい男たちは、フロントに立ち寄り、日本のオギ大臣の古い友人たちで花束とお土産を持参したと言った。彼らは、部屋の番号を聞いてフロントから電話をしたが通じなかったので、フロント・ボ-イから財相がプ-ルに行ったことを聞き出して、フロントでフィットネス・クラブの利用料金を払い、ビ-チボ-ルと水着がプ-ル入り口の売店にあると知って、地下への階段に急いだという。
 彼らはその数10分後にあわてて立ち去ったが、上着を手でつかみシャツのボタンも外れたままの男などもいた……フロント・マネジャ-もその時はまさか、プ-ル内でそんな恐ろしい出来事が起こったとは知らないから妙な人達だと思ったという。
 ひとまず、事件は終わった。

 

3、反撃(1)

 体調の回復した財相はワイン、二郎はビ-ルで無事を祝って乾杯し、ル-ムサ-ビスで取り寄せたオ-ドブルとサンドイッチで運動後の空腹を満たしていると、電話のベルが鳴った。二郎が出ようとするのを押し止めて財相が出ると、フロントマンから訪問客に代わったらしい。声が大きいいから会話が筒抜けで聞こえる。
「シイックパァウ(今晩は)」
 で、会話がはじまったが、すぐに財相の顔が険しくなる。意味は不明だが、かなり強い口調での広東語が財相の口から矢継ぎ早に放たれる。内容は不明だが、ツオックヤット(昨日)、サンシュインヤン(発信人)、サコマル、などという単語が二郎の耳に入った。
財相が受話器を置いて二郎に話しかける。
「ワシの望まぬことばかりが続いてな……」
 なにやらトラブルが起きているらしい。
 返事のしようがないから、二郎は聞かない振りをしてビ-ルとグラスを持ってドア-一つ隔てた自分の部屋に戻った。
 しばらくして、廊下側のメインドア-を叩く音がした。
 二郎がドア-越しの覗き窓から見ると、白い制服のロベルトが手に日本語新聞を持って立っている。このボ-イなら以前から財相担当と聞いていたので疑う余地もない。
 ノブを持ったままドア-を開けると、巧みな日本語で、「ユ-カンもってきました」と言う。二郎が新聞を受け取ると、ボ-イが二つに折ったメモを手渡し、「オギ大臣に……」と、念を押して去って行った。
 二郎から受け取ったメモを開いた財相が呟いた。
「女に届けさせるのか……」
 財相が機嫌のいい表情で二郎を見た。
「20分ほど席を外してくれんかね、客が土産持参で来るんでな……」
「一人で大丈夫ですか?」
「心配ない、ちょっと野暮用があるだけだからな。下のバ-ででも飲んでてくれ」
 財相の手から数枚のユ-ロ札が二郎に渡った。
 部屋の外に出た二郎は、階段への曲がり角に人の気配を感じたが振り向きもせず、素知らぬ振りで、エレベ-タホ-ルに向かった。誰が何を持って来るのかを確かめたい。
 エレベ-タに乗って利用階を押さずにドア-を閉め、廊下に足音のするのを待つ。だが10秒ほどしても足音がない。相手もエレベ-タの動く音を待っているのだ。
 5階まで降りてから戻る手も考えたが、相手が女なら気にしても仕方がない。
思い止まって一階まで降りた。ゴブラン織りの刺繍画が飾られている1階のロビ-を抜けて、二郎は奥のミニバ-に入った。職業的習性で周囲を見回したが怪しい人影もない。
 珍しくブランディなどを味わっていると、二郎を見かけて、新聞とメモを届けたイタリア人ボ-イのロベルトがが近づいてきて日本語で話しかけてきた。
「メモには女の人、とありましたが、チャイナとアラブらしい男がエレベ-タホ-ルですれ違いました」
「女じゃなかったのか? なにか土産物みたいな荷物を持ってたか?」
「いえ、なにも。でも、なにか様子が変でした。もしかすると……?」
「ヤバイな。すぐ行ってみる……ありがとう」
 ロベルトにチップを渡し、ブランディと突き出しの豆を口に放り込み、エレベ-タホ-ルに急ぐ。あの財相なら一人ぐらいなら心配ないが二人となると危ない。
 エレベ-タを降りて廊下を急ぎ、608号室のドア-前で耳を澄ませると何か激しく争う声がする。カ-ドキ-でドア-を開いて室内に躍り込んだ。
 入り口に近い応接室では、右手に拳銃を握ったアラブ系の大男と財相とが、取っ組み合いのまっ最中で、財相は大男の右手の手首を握って拳銃の操作を阻んでいた。その脇に立つ中国人らしい男が高見の見物とばかりに余裕の表情で財相を狙って拳銃を構えているのが見えた。
 ドア-の開く音で振り向いたその中国人風の男が、二郎の姿を見たあわてて引き金を引いた。だが一瞬早く、二郎が部屋の入り口にあった花瓶を投げつけたので、弾は花瓶を砕いて逸れた。二郎は迷わずにその男目掛けて突進し、2発目の弾が顔の横を熱くかすめるのも構わずに組み付いて倒して銃をもつ右手を鷲掴みにして逆に捻った。男がスジを痛めたのか苦痛に顔を歪めて膝を折り、銃がにぶい音をたてて床に転がった。
    

4、反撃(2)

 素早く立ち上がった二郎はその銃を拾わずに遠くに蹴飛ばし、右腕を押さえて呻いている中国人風の男の顔を蹴飛ばして失神させて飛び越え、財相と格闘中の大男のノド元にナイフの切っ先を突きつけた。二郎はすでに、執筆業の表の顔をかなぐり捨て、学生の頃にはボクシング部で活躍したこともあるファイタ-としての戦う本性を剥き出しにして、本能のまま血が騒ぐままに暴れていた。
 それでも、大男は必死で財相に自由を奪われた右手を伸ばして、二郎に向けて拳銃を発射しようとしたが、一瞬早く、二郎がナイフの切っ先を男のノドに浅く刺して一気に引いたから血が赤く筋を引いて流れた。動脈は切らないから命に別状はないが大男の戦意はこれで失せた。その顔が恐怖に青ざめ額に脂汗が浮いている。
 大男は腕に血が流れるのを感じた瞬間に「殺される!」と観念したに違いない。血を流すことで相手の抵抗を消すのに有効なこの手が戦いの集結を早めるのに役立つのは間違いない。これは、警備会社メガロガの実務隊長で警視庁出身の佐賀達也という男の得意技の一つで、彼は、「傷口は数日で完治するから問題ない」と、よく言っていた。それを実技訓練で学んでいた二郎は、とっさにそれを実践したのだ。
 自分の首から血が流れるのを見るのは、思わぬ恐怖心を招く効果を呼んだらしい。
 財相はこの機を逃さなかった。財相の股が大男の右手付け根を挟み、延びきった大男の右手を両手でしっかりと握った変形の腕しひぎ逆十字固めで締め上げると、骨のきしむ不気味な音がして大男の腕が折れた。大男の顔が苦痛に歪み、手から拳銃が落ちた。その拳銃を、立ち上がった二郎が足で蹴って遠くに飛ばした。
 大男から抵抗する気配が消え、勝ち誇った顔の財相が技を解いて立ち上がり、呼吸の乱れを整えるように両手両足を屈伸させてから、倒れている大男の鼻柱に革靴の先で強烈な蹴りを入れた。これで大男は完全に失神した。
 財相が受話器に飛びつき、メモも見ずに番号をソラでプッシュして外線に掛けると、相手が出た。これを見ると、従来からの知り合いとみて間違いない。
激昂した財相が相手と激しくやり合うが、早口の広東語だから二郎には理解できない。ついに感情的になった財相が日本語で喚いた。もう頭の中の翻訳機の回路が切れたらしい。
「金の代わりに殺し屋か、金はどうした? すぐ返事せんと、二人を殺すぞ!」
 叩きつけて電話を切った財相の目が狂暴に光った。冷たい口調で二郎に命じる。
「正当防衛にするから、そのナイフでどっちかの男を痛めなさい」
 椅子に座った二郎がナイフを財相の足元に投げた。刃先が厚手のカ-ペットに立つ。
「ご自由にどうぞ!」
「君までが、ワシに逆らうのか?」
 財相がすばやくナイフを二郎の足元に投げ返し、それも見事に刺さっている。
「オレの任務は、あんたの警護だけだ。人殺しなど受けてないからな」
 二郎はナイフを拾っ皮ジャン裏の革鞘に収めた。
「あんたとは何だ! 生意気な……プ-ルでのザマといい、気にくわん。会社に報告すれ貴様はクビだ」
「勝手にどうぞ。大臣とは成田までの付き合いですぞ」
 その時、また電話のベルが鳴った。財相が出て今度は日本語で争っている。
「なんだと! 冗談だろ? これ以上怒らすのか!」
 倒れていたアラブ男が目を覚まして這ったまま身体を動かして、左手で拳銃に触れた。それに気づいた小柄な財相が二郎を見た。二郎は表情一つ変えずに両者を見ている。
 二郎が椅子から立つ気配がないのを確認した財相が、椅子から跳んだ。拳銃を握って半身を起こしたアラブ男の顔面に、再び強烈な財相の蹴りが入った。
 鼻から血を噴いて倒れたアラブ男が、本能的にか左手の拳銃を財相に向けた。その左手を素早くつかんだ財相が、自分の膝の上に大男の左手の肘関節を乗せ両手で手首を持ち体重を乗せて全力で折った。悲鳴の中に「ボキッ」と不気味な音がして肘から下の左手が揺れて大男がまた失神し、その手から拳銃が落ちた。
 受話器にとびついた財相が怒鳴った。
「今の悲鳴が聞こえたか? 何人寄越しても同じ目に遇わすだけだ。いいか、もう一度だけチャンスをやる。ワシらは5億円を振り込んだんだ。その分をコナで4億、スピ-ドの粒で1億、金利はいらん。ライバルは一網打尽で収監させたんだ。あとは貴様らの天下じゃないか。よく考えろ! この二人は警察が来る前に引き取っておけ。裏口に捨てておくからな」
 電話を切ると、失神した大男の折れた左右の手を持ち引きずって、老人とは思えない凄い腕力で小柄な財相が戸口まで運んだ。大男が苦痛に目覚めて恥も外聞もなく悲鳴を上げた。その声で失神から目覚めた中国人の若い男は、腕と腰の苦痛に耐えて呻きながらも自分から戸口の隅に這って逃げ小さくなってうずくまっている。
「海原くん……」
 受話器に手を伸ばした財相が、何事もなかった声で二郎に話しかけた。
「帰国したら、ワシの事務所で働んかね、悪いようにはせんよ」
「結構です。まだ命が惜しいですから」
 電話がフロントに通じたようだ。
「日本語……OK? 部屋にドブネズミが2匹入った。表沙汰にはせんから裏口に叩き出しておいてくれ、飼い主がすぐ引き取りに来るはずだ」
 二郎はそれら一連の出来事を、不思議な気持ちで見つめていた。長年に渡って政界に君臨してきた小城財相が、ただ者ではないのは分かったが、その心の奥に根づく善悪の感覚までは二郎には見抜くことが出来なかった。

 

5、懐柔(1)

 一夜が明けた。
「おい、起きてるか!」
 財相の声で目覚めた二郎の眼に、テレビ・ニュ-スが飛び込んだ。
 映像提供者の氏名が字幕ス-パ-で入っていて、スイス・フランス両警察合同隊による麻薬マフィアグル-プの逮捕劇を撮ったフランス警察側からの映像が流れている。
 銃弾が乱れ飛ぶ中で広報担当の警官が、その場に居合わせた観光客が必死の思いで、テラスの柵際から建物の上に向けてズ-ム使用で撮影したものらしい。
 外からだから内部の様子は見えないが、銃声と怒声が響き、二階の砕け散った窓から、激しい物音に続いて悲鳴を上げて落ちる男の映像までが写っていて迫力がある。
 英語に音声を切り替えたから、二郎にも知っている単語から多少は意味が通じる。
「昨日、午後4時過ぎ、機動隊を含むスイス・フランス両警察合同隊が、シルトホルン山頂で、12ケ国から来た多勢の麻薬ブロ-カ-を銃撃戦の末に重軽傷者を含む男性62名・女性14名の合計76名を薬物違反、公務執行妨害、武器携帯・不法使用等で逮捕、こ他に男性4人の死亡者が出ています。また、身代金目当てで拉致されていた日本のオギ財務大臣は、監禁されていたブル-ネンのホテルから、スイス・フランス両国の合同機動隊の協力を得て無事に救出されました。その際、抵抗した多国籍の男たちを不法監禁、公務執行妨害、武器携帯・不法使用等で逮捕したが、犯人側は死亡2名・重軽傷は7名、警察側は死者0、重軽傷者6名です。
 救助されたオギ財相はフランス警察の機動隊と行動を共にし、拉致されていた随員の警護官を救うためにシルトホルン山頂にのりこみ、命の危険をも省みず銃弾の中に身を呈して救助しようとしました。この勇気ある行動で、激しく抵抗していた麻薬マフィアの戦意が失せ、全員逮捕につながりました。ただ残念なのは、その勇気ある行動が実らず、随員のMr・クサカリはマフィアの凶弾に撃たれて命を落としました……」
 と、このような内容のニュ-スらしかった。
 ニュ-スが流れてすぐ、シャ-ロット刑事から電話が入った。
 この日の午前中に、クロ-ド警視が非公式にホテルを表敬訪問したいという。財相が気楽に応じ、二郎にも同席をすすめた。
 この日は、財相の無事を祝う大使館主催の昼食会が、守口大使の音頭とりでホテル内のレストランで開かれる。ゲストには、首相代行のボンド-ル蔵相はじめ、パリ市長、日本航空パリ支社長らのそうそうたるメンバ-が集まるという。ただ、急ぎの宴なのでゲストの人数なども特定できないために立食パ-ティになるという。
 クロ-ド警視は、このパ-ティのために早朝、ヘリでパリ警視庁に戻ったという。
 シャ-ロット刑事からの電話は、パリの裏通りで死亡した迫丸圭一についてだった。
 迫丸の妻咲子と実弟の圭司、故人の上司である東京税関の角田久夫部長の3人が昨日パリに到着していて、今朝一番でパリ警視庁に来て、夜明けにヘリで帰還したダニエル警部に会って、迫丸圭一の死亡前後の状況を聞き、司法解剖を終えたばかりの遺体のある地下の霊安室に入り、変わり果てた姿と対面した。迫丸の妻は、やつれた表情に涙も見せずに「ご苦労さまでした、お疲れでしょう」と、同情と労りの言葉を夫に贈り、警察手配の霊柩車でダニエル警部と共にパリ郊外の火葬場に向かった、という。
 草苅秘書の火葬には家族が間に合わず、斎場には日本大使館から守口大使、浜美代と麻薬捜査課の職員らが立ち会っている。草苅秘書の火葬には二郎も行きたかったが、朝から財相の身辺警護に多忙となり、野辺の送りに間に合わず心残りだったが仕方がない。
 予定では、迫丸圭一の白骨は妻の咲子が抱き、草刈秘書の白骨は財相が抱いてシャルル・ドゴ-ル空港でドッキングし、夕刻出発の便で日本に向かうことになっていた。
 午前10時過ぎ、昨夜から一睡もしていないというクロ-ド警視が、疲れた顔も見せずに明るいブル-系のス-ツに朱の玉模様の入ったネクタイでさっそうと現れた。同行した通訳役のシャ-ロット刑事もまたベ-ジュの上着に緑のセ-タ-、紺のスカ-トという華やかな服装で、パリの貴婦人という雰囲気が漂っている。
 クロ-ド警視から財相と二郎にと、土産にと超高級ワインが渡され、4人は、、ル-ムサ-ビスで取り寄せたコ-ヒ-を前に室内の応接コ-ナ-で雑談に入った。
 クロ-ド警視のしゃべりをシャ-ロット刑事が通訳する。
「昨日は徹夜で、逮捕した麻薬マフィアら全員を取り調べました。その結果、今回の逮捕者の中にはオギ大臣を拉致した主犯はいません。拉致事件の首謀者は別にいて、麻薬マフィアのボス・フランクと何らかの提携関係にあるらしいのですが、フランクには大物弁護士がついて口を割らせません。主犯について、なにか心当たりがありましたらお聞かせください」
「ワシから言うことはもう何もない」
「今までの捜査では、オテル・リッツでの目撃者の証言からオギ財相と秘書二人を拉致したのは、髭の濃いアラブ系とイタリ-系フランス人、中国系と見られる東洋人で構成された7~8人のグル-プで、この連中が3人を脅して拉致した……それでいいですか?」
「いきなり布を被せられ目隠しをされたから、ワシはなにも知らん」
「しかも、ミュ-レンのホテルでオギ財相を監禁していた連中は、拉致犯グル-プから監禁を頼まれただけらしく、逮捕された全員が「報酬を貰う約束で、拉致犯からオギ財相を預かった、と自供しているんですが」
「もう何度も言ったが、ワシは何も知らん」
 会話は平行線をたどった。
 シャ-ロット刑事が補足した話だと、パリの裏通りで死亡した迫丸圭一の妻咲子と実弟の圭司、故人の上司である東京税関の角田久夫部長の3人が昨日パリに到着した。
 今朝、その3人がパリ警視庁に来て、夜明けにヘリで帰還したダニエル警部に会って、迫丸圭一の死亡前後の状況を聞き、司法解剖を終えたばかりの遺体のある地下の霊安室に入り、変わり果てた姿と対面した。中迫圭一の妻咲子は、やつれた表情に涙も見せずに「ご苦労さまでした、お疲れでしょう」と、同情と労りの言葉を夫に贈り、警察手配の霊柩車でダニエル警部と共にパリ郊外の火葬場に向かっていた。
 草苅秘書の火葬には家族が間に合わず、斎場には日本大使館から守口大使、浜美代と麻薬捜査課の職員らが立ち会っている。二郎も立ち会いたかったが、朝からマスコミの取材が重なって財相の身辺警護が多忙となり、野辺の送りに間に合わず心残りだったが仕方がない。
 予定では、迫丸圭一の白骨は妻の咲子が抱き、草苅秘書の白骨は財相が抱いてシャルル・ドゴ-ル空港でドッキングし、夕刻出発の便で日本に向かうことになっていた。
 それによっては、空港でのセレモニ-も考えねばならない。クロ-ド警視とシャ-ロット刑事はその打ち合わせを終えると「では、後ほど昼食会で」と、立ち去った。

 

6、懐柔(2)

 この日は、財相の無事を祝う大使館主催の昼食会が、守口大使の音頭とりでホテル内のレストランで開かれる。会場入り口には、早朝のテレビ放送を見た日本のマスコミ支局をはじめ各国からも続々と取材陣が殺到し、はげしい取材合戦が始まっていた。
 その後も、インタビュ-の申し込みなどが続いて、帰国前の財相は多忙だった。
 小城財相は、在パリの日本のマスコミ支局の取材に対しても、思いも寄らぬ災難のために死亡した二人の随員に対する哀悼の思いを丁寧にしんみりした口調で語った。それは、国会で舌鋒鋭く相手に迫る激しさと違って、優しい眼差しに満ちていた。それが本音なのか偽りなのかは誰にも知るよしはない。
「あの夜、プライベ-トな外出に誘ったために、このような事件にまきこまれて二人の有能な後輩を死なせてしまいました。私にも大きな責任があります。帰国後は、残された家族の方に、最大限の公的な保障が得られるように協力するつもりです」
 誘拐犯人の心当たりについて質問が出ると、小城財相は困惑した顔で応じた。
「こちらの警察の調査に任せてありますので……」と、口を閉ざした。 
 列席した関係者にも次々に取材のマイクが突きつけられたが、事件の表面に出ていない二郎には取材は一つもない。
 昼食会には、首相代行のボンド-ル蔵相はじめ、パリ市長、日本航空パリ支社長、日本放送パリ支局長などの他に、銀行関係、商工会他企業関係者に加えて、パリ警視庁のロメ-ル総監以下クロ-ド警視、マ-シャ警部補、通訳としてシャ-ロット刑事も出席し、二郎も小城財相の警護員として参加していた。
 昼食会はマスコミなどの人数を確定しづらい出席者にも配慮してか、立食パ-ティ形式で行われたが、財相をとりまく10人ほどのグル-プが円形テ-ブルを囲んで毎にに分かれていて、ゲストりっせきの人数がシャンペンの乾杯から始まり、ゲストそれぞれのジョ-クの効いたスピ-チで、豪勢なフルコ-スの食事が出て、小城財相の無事を祝った型通りの挨拶が続いた。ロメ-ル総監は小城財相を讃え、シャーロット刑事が訳した。
「オギ大臣はクサカリを救うために争いの現場にとびこんだ……その特攻セイシンには感服しました。部下の中には、サムライ・オギと呼ぶものもいます……」
 事件のニュ-スと、この昼食会の中継取材から、日本の小城大臣の勇敢な行為は、同時多発テロ以降の世界を覆った重い雲を一掃するかのようにパリどころか世界中の話題になることだろう。
 財相警護の役割に徹して二郎がさり気なく見ていると、財相は周囲と歓談しながらも豪華で贅沢なフランス料理のフルコ-スを豪快に平らげていた。その小さな身体のどこに入るかと思うほどの健啖ぶりに、ただ驚くばかりだった。
 会の途中で、早朝に火葬に付した迫丸圭一の火葬に立ち会ったダニエル警部、草苅警部のお骨を抱いた守口大使と同行の浜美代が斎場から戻って宴席に連なっていた。
 パ-ティは、友好を深めて無事に終わった。
 小城財相が出口に立ち、ゲストの一人一人と再会を約し握手を交わして見送り、遅れて席を立った守口大使から、白い布に包まれた骨壺入りの桐の箱を受け取った財相が二郎を見た。
「これは成田までワシが持つ。遺族に届ける義務があるからな」
 財相と、二人の白骨が帰国する時間は、すでに大使館を通じて日本の外務省にも、それぞれの家族にも届いているはずだ。
 小城財相の無事を知らされた関係者の喜びや狼狽ぶりは想像に難くない……政府や党、財相のイスを狙うライバルの政治家、代議士後援会や老妻など、立場の違いでその喜びや落胆ぶりには天と地ほどの隔たりがあった。いずれにしても、身代金を惜しんだ弱みを埋め合わせするためもあってか、財相の帰国時に合わせての歓迎セレモニ-が盛大なものになるのは仕方がない。
 二郎の警護契約は、小城財相帰国までとなっていたから、成田の東京国際空港の入国手続きを終えた時点で無事にお役ご免となる。それまでの時間、事件も事故もない安全な旅を祈るのみだ。
 空港までは大使館の車で送られた。財相の大きな荷物と二郎の小バッグ一つをトランクに積み込み、パリの市街から北にやく25キロ離れたシャルル・ド・ゴ-ル空港に向かうと、見送りの人を乗せた車が続いた。
 円筒形のビルの1階カウンタ-で搭乗手続きを済ませた財相一行は、ビル中央の動く歩道に乗り、2階のトランジット・フロア-に上がった。
 白い布で肩から吊るした白木の骨箱を両手で抱えた小城財相が、骨箱を左手に抱え直して右手を空け、見送りに来ていたボンド-ル蔵相と再会を約して握手を交わすと、クロ-ド警視とダニエル警部、シャ-ロット刑事らも手を出して蔵相と握手を交わした。
 しかも、ボンド-ル蔵相以外の3人は、財相の背後に続く護衛の二郎にも手を差しのべて握手を求め、親しく財相救出や警察への協力をねぎらっていた。
 その後を歩くた。見送りの関係者からの拍手に応えて、財相が手を振ってチェックゲ-トに入った。
 二郎がそれに続こうとすると、二郎の影の活躍を知っているパリ警視庁シ-クレット・サ-ビス数人が、財相警護の役目を終えた安堵感の笑顔で二郎に近寄り、それぞれが警護の無事を祝して握手をした。クロ-ド警視とダニエル警部、シャ-ロット刑事が財相と二郎と握手を交わし、クロ-ド警視が小さな包みを手渡す。シャ-ロット刑事が訳した。
「ウナバラさんにはフランスの名誉を守っていただき感謝に堪えません。これは、カンシャの気持ちです。ニホンに帰って恋人へのプレゼントにしてください。ここから先もまだユダンはできません。ニホンに着くまでは気をぬかないでください」
 二郎が礼を言いそこで別れた。
 出国手続きを済ませた二郎が、小城財相を護るようにその背後1メ-トルの距離を保って動く歩道も利用してJAL404便の便名が標示されたサテライトに進むと、すでに、小城財相救出のニュ-スは大きな話題になっていたらしく、搭乗待ちの一般乗客の拍手と機長の出迎えが白い木箱を抱えた小城財相を待っていた。
 特例なのか、一般乗客に先立って先に搭乗するように促された小城財相が、ボ-ディング・ブリッジから機内に入ると、制服姿のパ-サ-や客室乗務員が並んで出迎えて、いっせいに「お帰りなさい」と声をかけたので、思わず二郎も深々と頭を下げていた。

                               完