月別アーカイブ: 2017年9月

 東京音楽学校受験-3

しあわせ
幸福を売る男

芦野 宏

東京音楽学校受験-3
少し歩くと「星の流れに身を占って……」という歌が‥…・。
次の角を曲がると、「港が見える丘」が流れてきて、戦後の日本は流行歌にあふれていた。
一度は映画館のアトラクションで流行歌手のようなことをした自分だったが、今は違う。やはり学校で音楽を勉強したいという気持ちに変わっていた。粗末な建物が並び、アメリカのものを中心に細かい商品があふれている、活気のある路地裏を、値段を見る気もなくゆっくり通り抜けて、御徒町の駅から国電に乗り久我山へ向かった。
父が亡くなってから、めまぐるしく変化してきた自分の環境。徴用、徴兵、復員、流行歌手のまねごと、かつぎ屋、ダンス教師。戦争は終わったが、私の戦争はまだ終わっていない。受験に失敗しても、しなくても、私は負けない。負けてたまるものか。胸を張り、空を仰ぎながら堂々と歩きだした。あいにくポッポッと雨が降りだしてきたが、気にもせずわが家に帰り着いた。
今でもそうなのだが、いちいちその日の出来事を家に帰って報告しないくせがある。自分の心の中で燃えているものを吐き出すと、意欲がそがれるような気がするのだ。何かをやろうとする意欲が高まっているとき、逆に失敗のあったとき、自分の心の中で処理してしまいたいと思うのだ。だれに相談したって、解決できるのは自分自身だけだと思うからだ。母はなにも聞かなかった。
その日は雨にもかかわらず、ダンス教室のほうは十数人も来て忙しかったが、八時半ごろには終わり、明かりを消して奥へ引っ込んだ。それから雨はだんだん激しいどしや降りになってきたようである。しばらくしてから、二回ほど玄関のブザーが鳴った。だれか忘れ物でもしたのかなと思ったが、もうあれから一時間もたっている。私は不審に思って玄関の明かりをつけてみると、ずぶ濡れの大男が立っているではないか。アッ、石津先生だ。どうしたことか、そこには石津憲一先生が立っておられたのである。


東京音楽学校受験-2

しあわせ
幸福を売る男

芦野 宏

東京音楽学校受験-2

上野の試験は、なんと数日間続くのである。一日目が専門の歌、二日目がピアノ、三日目が専門の二曲目、四日目は学科、五日日が面接であるが、二日目で落ちたら、もう三日目以後は釆なくてよいことになる。
さて、二日目は私のいちばん苦手なピアノである。
子供のころあんなに好きで夢にまで見たほどなのに、10年も弾かずにいると自己流のくせが出てよくないものである。
朝倉靖子先生のところで一週に一度レッスンをしていただいていたが、指定曲・モーツァルトのソナチネを二ページ目に移るところでミスタッチしてしまった。落ち着いてすぐやり直せばなんのことはなかったのに、もう一度弾いたらまた音をはずしてしまった。
さらにもう一度少し前から弾き直したが、また同じところで引っかかり、頭に血がカーつと上ってもうなにがなんだかわからなくなり、口は渇き目はかすみ完全に舞い上がっていた。
カーンと鐘が鳴り、それまでで終わりという合図を受けた。
申し訳なくて、審査員席の朝倉先生のほうを見る余裕もなく、肩を落として退室した。
中山先生と初めて上田でお会いしたとき、一年くらいの勉強じゃ合格は難しいぞと言われた言葉を思い出しながら、無理に自分を落ち着かせて帰路についた。
しかし、まっすぐ家路につく気持ちにはなれなかった。
ブラブラと公園の坂を下りていくと、有名なアメ屋横町があった。
スピーカーから笠置シズ子の「東京ブギウギ」が流れていた。


 東京音楽学校受験-1

しあわせ
幸福を売る男

芦野 宏

東京音楽学校受験-1

昭和二十三年(一九四八)、呑まだ浅い受験当日、私はいつものように朝早く起きて仏壇に向かって父の霊に報告し、この日のために母が古い毛糸で編んでくれたベストを上着の下に着た。母が一針ずつ祈りをこめて編んでくれたベストは、あまり体裁のよいものではなかったが素直に着て出かけた。
心配をかけている母の心は、痛いほどわかっていたからである。
朝は早いので井の頭線は空いていた。久我山から吉祥寺へ出て中央線に乗り換えた。中央線はいつも進行方向の左側が見えるように乗る。市ヶ谷の堀を隔てた向こう側の高台に、私が育った懐かしい左内坂が見えるからだ。
さらにお茶の水と秋葉原で乗り換えて、上野駅公園口で下車し、公園を突っ切って学校に向かった。
1時間10分かかった。
1時間目は専門の歌唱で、『コールユブンゲン』のなかの1曲をその場で指定されて歌った。
そして、イタリア古典歌曲のなかから高1ソン・トウツタ・ドゥオーロ(嘆かわし)」を歌った。
なにしろ一人ずつ教室に入って歌わせられるのだが、審査の先生が十数人もいて、いずれも有名な声楽家の先生ばかりだから、あがらないほうがおかしいが、私はなぜかあまりあがらずに素直に歌えた。
終わってお辞儀をして出るとき、ちょつと中山先生のほうを見たら、先生が立ち上がって赤い顔をしているように見えた。きっと心配してくださっていたにちがいないと、申し訳なく思った。


しあわせ
幸福を売る男

芦野 宏

上野をめざす-2

私は再び神戸へ戻ってきた。
案の定、母宛に叔父から手紙が来ていた。絶対に戻ってくるようにと書いてあった。叔父に言えば必ずだめになることがわかっていたので、私は黙って急いで帰ってきたのだが、あの叔父の温顔を思い浮かべると、申し訳ない思いでいっぱいだった。
しかし、自分の決心はもうあとには戻れなかった。
私の決意を知った兄夫婦は、神戸を引き払って東京への移住を考えてくれた。そうすることが家族の全員に好都合だったのである。これをいちばん望んだのは義姉で、千葉の実家が近くなること、子供たちを東京の学校で教育すること、また私の母親も子供たちが全員東京周辺に集中していたから、願ってもないことだった。
私にとっては上野の受験があったから、なおさらである。ただ、神戸の造船所を離れなければならない兄だけが、家族のためにいちばん大きな犠牲を払った。
兄が探して決めた東京の家は、杉並区久我山であった。有名な画家の建てた家で、大きなアトリエがあり、部屋数も十分だった。二科会の東郷育児郎から折れて奥に入った静かな住宅地で、向かいの島崎邸は島崎藤村の令息で画家の鶏二氏がアトリエとして使っていた。三月までに引っ越す予定だったが、遅れて五月ごろになった。広いアトリエのそばに応接コーナーがあ
り、そこにドイツ製のピアノが運ばれた。義姉は女子美術大学で油絵を習っていた人だが、この大きなアトリエはダンス教室に使う目的であった。
ここで私が神戸の家で先生に習ってきたダンスの基礎を初心者のために教えた。昼間は遠慮なくピアノの練習ができ、一週に一度、歌を世田谷の中山悌一先生のお宅までレッスンに通い、ピアノは奥様である朝倉靖子先生に習った。夜はレコードをかけてダンス教室を開いたが、時代の波に乗って大繁盛し、神戸の家でやったときよりずっとうまくいった。
義姉の考えた計画が予想以上にうまく当たって、私はダンス教室のアイドル的な存在になり、休憩時にはピアノを弾いて歌った。ダンス教室は私の学資稼ぎのためという錦の御旗を立てていたが、私は毎晩の収入を全部渡して兄からその一部をもらっていた。それだけでも相当な金額になっていたし、進駐軍のエレメンタリー・スクールで子供にピアノを教えたりして、けっこう小遣い銭には因っていなかった。
久我山には文化人が多く住んでいて、歩いて五分くらいのところに上野の研究科に籍を置くソプラノの石田莱先生がおられ、ときどき基礎の勉強を見ていただいたが、彼女の紹介で同級の石津憲一先生にも見ていただいた。あのクラスは有名な先生方が多く、作曲家の圏伊玖磨さんや声楽家の伊藤京子さんもみな石田先生の同級生であった。東京に出てきて、私は昼間は
音楽の勉強、夜は自宅でダンスのアルバイトという生活が続き、やがて音楽学校受験という大きな山場を迎えるわけである。