月別アーカイブ: 2018年1月

レコード会社オーディション-3

幸福を売る男

芦野 宏

3、音楽学校と卒業後

レコード会社オーディション-3

あとで開いた話だが、私の前に歌った少女は江刺チエミさんで、そのあと別のレコード会社のテストを受けたところ一度で気に入られ、初吹き込みの 「テネシー・ワルツ」と 「カモンナ・マイ・ハウス」 が大ヒットして、いちやく大スターにのし上がったそうである。チエミさんとは、第六回NHK『紅白歌合戦』に初出場したとき、彼女の相手役に私が選ばれ、その後も地方公演やNHKクイズ番組などでたびたびご一緒したが、あのときのオーディションで私が彼女の次に受けたことは知らない様子だったから、こちらも黙っていた。
淡谷さんのお骨折りにもかかわらず、レコード・オーディションは実らなかったが、放送などでのデビューのあと、北村維章と東京シンフォニック・タンゴオーケストラの伴葵により、渋谷道玄坂の映画館のアトラクションで淡谷さんのヒット曲である十小雨降る径」と「パリの
屋根の下」を歌うことになった。むかし山形の霞城館で毎日三回歌ったことをありありと思い出して多少抵抗があったものの、北村先生はNHKラジオ『虻のしらべ』で初めてのシャンソン「ラ・メール」「詩人の魂」を歌ったときに伴奏をしてくださった方であり、お断りするこ
ともできず出演することにした。
続いて大阪・産経会館に出演する話がきたので、受けることにした。慣れない映画館のほこりを吸ったせいか、風邪をひいて熱を出し、頭に水嚢(ひょうのう)をのせて寝ているところを淡谷のり子さんに見つかった。舞台では元気よく歌っていたのでだれも気がつかなかったのに、淡谷さんは楽屋を訪ねてきたのである。そして意外なことに、冷たい言葉を浴びせられ、思わず起き上がった。「芸能人は風邪なんかひいちゃだめよ。甘ったれんじゃないわよ」。このひと言はこたぇた。なんと意地の悪い女だろうと思った。しかし、この言葉の重さがしだいに、痛いほどわかってきたのは、大分たってからである。
昭和三十年(一九五五〉の年の暮れに、初めてNHK『紅白歌合戦』に抜擢されて以来、私のスケジュールは超過密になり、半年も前からの予約でいっぱいになっていた。風邪をひこうが熱があろうが、出演を断ればどれほどの人が迷惑をこうむるかよくわかってきたからである。
のちにフランスで聞いた話だが、パリのオペラ・コミック座に出ていたソプラノ歌子砂原美智子さんがオペラ『マダム・バタフライ』 の公演中に倒れたとき、予想外の違約金を請求されたとのこと、日本の興行はまだまだ人情がらみで甘いということである。
さて、大阪で淡谷のり子さんに叱られたことは、今でも身に弛みて、あれ以来、私は健康に気をつかい、少しでもおかしいと思えば、早めに処置をするようにしている。結局、病気によって人に迷惑をかける以上に、いちばん苦しんで損をするのは自分自身だということが、長い
芸能生活のなかで痛いほどわかってきたからである。シャンソンを歌える喜びとは裏腹に、歌う苦しみは常についてまわるものであるが、自分一人の仕事でないという責任感と意地が、いつの間にか自分自身をむち打って、自分が少しずつ変わっていくのがよくわかってきた。


レコード会社オーディション-2

幸福を売る男

芦野 宏

3、音楽学校と卒業後

レコード会社オーディション-2

ところが、喋りだすと淡谷さんは、とたんにお国なまりの言葉になり、気のおけない田舎の小母さんみたいな親しみをおぼえる。1あなた、シャンソンやりなさい」。これが淡谷さんの第一声だった。なぜですかと恐る恐る尋ねてみると、1あなたの喋り声聴いてわかるのよ。シャンソンやりなさい」というのである。1オーディション受けてレコード出しなさい。わたし言っておくから」。忙しい人だから決断も行動も早い。さっそく妹さんを呼んでコロムビアとビクターに電話をかけさせ、ディレクターと話をして、日取りを決めてくださった。「なんでもいいから声出して歌ってみればいいのよ。でも日本の歌、一曲入れなきやだめよ」と言われた。
そこで思いついたのが「雨に咲く花」だったのである。
帰りぎわに、私が手をつけなかった高価な栗納豆を包んでくださり、感謝と感激で胸がいっぱいになった。帰ってから、それを仏壇に供え、母と二人で一個ずつ味わいながらいただいた。
そんな贅沢な砂糖菓子は、絶えて久しく口にしたことがなかったのである。
レコード会社のオーディションは、簡単にすんだ。「ハイどうぞ」と言われてマイクの前に立ち、モニター室でディレクターが聴いてテープに収め、後日連絡します、というだけだった。
二日おいてから、もう一つのレコード会社のオーディションに行った。スタジオで小柄な少女が大声で二曲歌っていた。父親らしい人と一緒だったが、やはりテープに収められてすぐ帰っていった。ディレクターは淡谷さんのとくに親しい人だったが、私はマイクの前で一曲はフォ
スターの歌曲を、もう一曲は「雨に咲く花」を歌い、テープに収録されてすぐ帰った。
米軍キャンプのオーディションは、翌日すぐ返事があってスペシャルランクをもらっていたし、淡谷さんは「あなたの一声聴けばわかるわよ」と、いとも簡単に請け合ってくれていた。
しかし、一週間たっても一か月たってもなんの音沙汰もなく、ちょっとした慢心はあったものの、私は再び淡谷さんを訪ねる勇気もなく、いつの間にか諦めて、高橋忠雄先生のラテン、タンゴのレッスンに精を出していた。


レコード会社オーディション-1

幸福を売る男

芦野 宏

3、音楽学校と卒業後

レコード会社オーディション-1

「雨に咲く花」

詞 高橋掬太郎
曲 池田不二男

およばぬことと 諦めました
だけど恋しい あの人よ
儘になるなら いま一度
ひと目だけでも 逢いたいの

今日まで何度かリバイバルされ、歌われている古い流行歌である。声楽家の開種子さんが歌ってヒットした曲だった。
私は卒業演奏会を終わってから、いっさいクラシックから離れて世界のポピュラーをめざしていた。しかし、レコード会社のオーディションを受けるのに、一曲は日本の歌ということになると、この歌しか歌えないと思った。
じつは、私がアメリカ軍の将校クラブで歌えるようになったきっかけを作ったのは、ウエスタン・ランプラーズでの飛び入り出演からであった。ところが、そこでピアノを弾いていた女性が淡谷とし子さんといって、有名な淡谷のり子さんの実妹であった。楽屋でお話ししている
うちに、ぜひ姉のところへいらっしやい。姉もクラシック出身だし、きっとレコード会社を紹介してくれると思う、というのである。
当時、淡谷さんといえば多忙なスター歌手であったから、妹さんを通してやっとコンタクトをとっていただいた。昭和二十七年(一九五二) の春、陽気のよい日だった。洗足池の駅から歩いて程近いところに立派な門構えの邸宅があり、門標に 「淡谷」と書いてあった。玄関にお手伝いの若い女性が現れ、応接間に通されたが、なかなかお金いするこ.とができず、一時間ほど待たされたろうか。
とし子さんが現れて、姉は今お風呂に入っています。もう少し待ってね、といって当時では
珍しく贅沢な、菜の甘納豆を出してくださった。戦後、世の中の窮状がまだおさまっていない時代だったから、淡谷さんの生活ぶりはなにもかもとても贅沢に見えた。
さらに一時間ほど待たされたろうか。隣の襖(ふすま)があいて座敷に通されると、淡谷のり子さんが和服で現れたのである。白いきれいな肌がピカピカ光っていたことを覚えている。口紅は深紅でー○本の指をそろえて畳に手をつき、ひどくていねいなお辞儀をされてびっくりした。白い指の一本一本に唇と同じ深紅のマニキュアが施されていたのが目に焼きつくほど強烈だった。
私は動転して口もきけず、ただただ深く頭せ下げて自分の名前を告げるのがやっとだった。


幸福を売る男

芦野 宏

3、音楽学校と卒業後

「谷間の灯」ー米軍キャンプで歌う-2

オーディションでは、「タブー」をスペイン語で、フォスターの1夢みる人」を英語で歌ったのだが、翌日バンマスから電話があって、スペシャルクラスがとれたということであった。
ランクはA・B・Cに分かれているそうだが、スペシャルは特別ランクでギャラも高いということである。
当時、私は生活のために個人教授の生徒を二〇人もとっていたので、いくらギャラのよい仕事がきてもスケジュールの合わない場合が多かった。それでも夏休みの間に、三回
ほどキャンプで仕事をした。
今度はウエスタンの伴奏ではなく、ピアノ、ギター、ドラム、ベース、それにヴァイオリンが一本という変わった編成で、将校クラブのサロンで歌わせてもらった。
ウエスタン・ランプラーズのときとは違って、将校たちは夫人同伴で静かに聴いてくれ、終わってからの柏手も日
本人とは違って大きかった。ほとんどが夜の仕事で、高収入だったが、母と二人の生活を維持するためには、月々の定収入が必要だった。