月別アーカイブ: 2018年5月

日劇出演と第一回リサイタル-1

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

1、ポピュラーの世界へ

日劇出演と第一回リサイタル-1                          一

デビューした放送界で活躍し、コンサートにもいくつか出演してきたが、本格的なステージ・デビューとなったのは昭和二十八年(一九五三)八月、ダミアの来日公演で伴奏もされた原孝太郎氏の渡仏記念コンサート(ラジオ東京主催、日比谷公会堂)であり、さらに大きな舞台は、なんといっても翌年七月、日劇『夏のおどり』で一か月の長期出演をしたときである。
(注)
「夏のおどり」などのレヴューが繰り広げられた日本劇場は、有楽町マリオンの敷地にあっあった。映画とレヴューの二本立てになっており、レヴューには歌謡曲のほか、戦後解禁されて花開いたポピュラー音楽、ラテン、タンゴ、ジャズ、シャンソンが織り込まれ、時代を彩る歌と踊りがあふれていた。ジャズ・フェスティバル、ウエスタン・カーニバル、フォーク・フェスティバルなども開催。
昭和五十二年(一九七七)、レヴューが四一年の幕を閉じる。
昭和五十六年、最後のウエスタン・カーニバル開催、日劇ミュージック・ホールも閉幕。
私の出演した季節は、七月の暑い盛りだった。
そんな季節にふさわしい「フラメンコ・ド・パリ」の二曲を一日三回、映画の上映をはさんた。
「フラメンコ・ド・パリ」は、蘆原英了先生が推薦してくださり、歌うことになった曲である。先生には以前から目をかけていただき、いろいろと教えを受けていた。イヴ・モンタンがこの歌を歌っているレコードを聴かせてくださったのは、もちろん蘆原先生である。そのときはモンタンが黒っばいシャツ姿で歌っている写真も見せてくださった。
渋谷・参宮橋にお住まいの先生のお宅で、私に合う曲を何曲も見つけていただいたものだ。


ダミアの来日-2

 幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

1、ポピュラーの世界へ

ダミアの来日-2

左隣におられた杉村春子さんとは、もっとよくお喋りをした。彼女はお弟子さんらしい女性と二人で来られたが、じつは杉村先生のお弟子さんの一人が私のところへ歌の勉強に釆ていたので、親近感があったのかもしれない。ダミアの歌のなかのしぐさが非常に計算されているものであることを、杉村先生がわかりやすく私に教えてくださった。
やがてダミアの登場である。小さな会場で聴くダミアは、また違った、まるで自分のためにだけ歌ってくれるような身近な迫力である。この日はあらかじめ曲目を知って、内容を勉強しておいたので、たいへんよくわかり、新たな感動をおぼえた。シャンソンというものの本質をかいま見たような気がして、まだほんとうに駆け出しのシャンソン歌手である私自身は、語る言葉もないほどに、ただただ感動していたのである。
私がその後たびたび連続リサイタルを行った「山葉(ヤマハ)ホール」は、この銀巴里から目と鼻の先で徒歩一分くらいで行ける。ダミアから受けた感動がまだ余韻としてあとを引いていたから、この会場を選んでしまったのかもしれないと、今ごろになって思っている。


ダミアの来日-1

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

1、ポピュラーの世界へ

ダミアの来日-1

さて、昭和二十八年二九五三)五月三日、私は初めてダミアの舞台を日比谷公会堂で聴くことができた。ちょうど私がラジオでデビューした年だった。産原英了先生からぜひ来るようにとお誘いを受けて二階席の正面に陣取り、初めて聴く本場のシャンソンに出合って感動した。
ダミアは、黒い袖なしのロングドレスに、真紅のスカーフを一本だけ使い、ピアノの前奏でとつぜん下手から現れた。万雷の柏手のなかで彼女はなんの愛想もなく、その赤いスカーフをなびかせながら上手のほうまで小走りに動き、舞台を大きく使って私たちの度肝をぬいた。バックはやはり黒のビロード風のカーテンだったから、いやが上にもダミアだけが引き立ち、彼女の手の動き、哀しげな表情が際立つのである。歌いながら中央に戻ったダミアは心をさらけ出すように歌いだす。シャンソン・レアリスト(現実派歌手)としての面目躍如である。言葉の意味がわからなくても、彼女の訴えている心情が伝わってくる。ダミアは、私が生まれて初めてじかに聴いたフランスのシャンソン歌手であっただけに、その強烈な印象は忘れることができない。
東京公演の翌日、私は銀座にあるシャンソン喫茶「銀巴里」で、ダミアが少人数のために歌ってくれる会に招待された。銀巴里はパリのシャンソン小屋風で数十人しか入れないから、産原先生のおかげで入場することができたようなものである。その夜、私は水谷八重子(先代)さんと、杉村春子さんの間の席でダミアを聴くことになった。私が音楽学校出身のシャンソン歌手の卵であることを知って、八重子さんはその隣に座っていた背のひょろりとした少女を紹介された。「娘の良重恵です。歌の勉強をしていますので、どうぞよろしく」と言われた。まだ十三歳くらいの水谷良重(現・八重子)さんはお行儀よく、ぴょこりとお辞儀をしてまた席についた。


民放各社にもレギュラー番組-6

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

1、ポピュラーの世界へ

民放各社にもレギュラー番組-6

番組は昭和三十二年秋に文化放送へ移るが、引き続きレギュラーとして出演した。初めての体験を生かした「芦野宏のパリ日記」を盛り込んだり、「芦野宏のサロン」を昭和三十三年末まで絞け、その後もゲストとしてたびたび出演して、昭和三十五年秋ごろまで続いた。
(注)
昭和三十一年(一九五六)、四月二日『シャンソン・アワー』(ニッポン放送、毎週月曜日、午後十時半~同50分)始まる。
初期のレギュラーはビショップ節子。初夏と初秋に芦野宏・初連続リサイタル、初渡仏送別リサイタルを放送。
昭和三十二年一月七日から芦野宏がレギュラー、毎回違った顔ぶれのゲストを迎える。
同年十一月、文化放送(毎水曜日、昼十二時~同十五分)に移る。「芦野宏のパリ日記」ほか、「芦野宏のサロン」に多彩なゲストを迎える。
昭和三十四年一月からゲストとして月に数回、年の半ばに再びレギュラーとなる。
昭和35年、ほぼ毎週ゲスト出演。十月二十六日、番組終了。
主な出演者(順不同)深緑夏代、喜多川祐子、高毛礼誠、太田京子、丸山臣吾(美輪明宏)、福本泰子、木村正昭、橘薫(かをる)、字井あきら、高英男、淡谷のり子、河井坊茶、沢庸子、越路吹雪、石井好子、旗照夫、田中朗、士口中圭子、木下清、中島(後藤)年子、安東緑、朝丘雪路、山本四郎、小海智子、島さち子、円山洋子、久木田千鶴子、杉浩、戸川昌子、工藤勉、美和陽子、中原英氏、寄立薫、戸川聡、岸洋子、島崎雪子、伊藤鷹志、中原美紗緒、浜木浩、鈴木昌子。