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シャンソン・ブーム -1

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

1、ポピュラーの世界へ

シャンソン・ブーム -1                         ー

ダミアの来日以来、日本にもシャンソン・ブームがわき起こり、日本人シャンソン歌手も脚光を浴びることになる。民放では、派谷のり子、越路吹雪、高英男、そして芦野宏も仲間入りして、ほとんど毎週シャンソンが歌われるようになった。
そして昭和三十年(一九五五)、イヴェット・ジローが来日して山菜ホールで一日だけのコンサートを開いて、さらにシャンソン・ブームをかき立てた。その少し前、石井さんもパリで活躍しているという噂が広まり、ますますシャンソン熱は高まる一方であった。
(注)
「シャンソン・ブーム到来」 の記事(森田潤)が挙げているシャンソン流行の現状
1 東芝レコードを主とした本場歌手のレコードがすごい売れ行き。
2 ニッポン放送が月・火・水に 『シャンソン・アワー』 『私の選曲』 『パリの街角㌔ ほかに『シャンソン・ド・パリ』(短波)、『パリ・東京ニーユーヨーク』 (ラジオ東京)。そして、各局ともシャンソンが音楽番組の二五~三〇%を占めている。
3 葦原英了のレコード・コンサートが毎週、山菜ホールで新曲解説、毎回満席。
4 日劇、国際劇場がシャンソンをどしどし組み込んで、大盛況。
本文の記述を引用で補うと「……ビショップ節子、中原美紗緒、深緑夏代といった歌手はショー、放送に引っ張りタコで、うれしい悲鳴をあげている。なかでも芦野は五月に五日間連続のリサイタルを開いて気炎をあげるなど……」(東京中日新聞、昭和三十一年七月十四日)。
また、アサヒ芸能新聞(右同日) も、中見出しに「シャンソン・ブーム到来か」として、各樺パリ祭(一一一ページ (注)参照)のほか、都内に「銀巴里」はじめシャンソン喫茶が出はtめたことなどを報じている。(参考・シャン、十字路、ジロー、ラ・セーヌ)


日劇出演と第一回リサイタル-5

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

1、ポピュラーの世界へ

日劇出演と第一回リサイタル-5

日劇出演の間をぬって、私は昭和三十一年四月から五月にかけて、五日間の連続リサイタルを銀座の山菜ホールで行っている。なにかパリのシャンソン小屋を思わせるような、定員五〇〇名程度の小さなホールで歌うことが気に入って、昭和三十二年、三十三年と続けて一週間ずつの連続リサイタルを行った。
(注)
連続五日間の独唱会 新記録めざす 芦野宏(産経時事、昭和三十一年三月十日)
「…‥毎年暮れに越路吹雪が三日間独唱会を催すが、芦野の五日間は新記録。しかもプログラムを三つ用意したという周到さ。『シャンソン・ルンバ・タンゴの夜』という会の名前をつけたように、曲目も「アマポ-ラ」「ジーラジーラ」「花に寄せて」「詩人の魂」「街角」「頭にいっぱい太陽を」「セ・カミニート」「星を夢みて」「ドミノ」「ボレロ」「パリの屋根の下」「ラ・ヴィ・アン・ロ-ズ」「ラ・メール」などのヒットソングに、「ボンボン・キャラメル」などの新曲を含めて約六十曲。……」。ただし、一日の曲数は三〇。
デビュー後二年間に放送などで歌った曲目をプログラムの巻末に「私のレパートリー」として載せて あり、シャンソンの一〇〇曲を筆頭にラテン・タンゴ、コンチネンタル・タンゴ、アメリカの歌、日本の歌など、全部で二〇〇曲ほど。コーラス、トリオ・ヴォラン(高毛礼誠、木村正昭、柳川語)。ピア ノは寺島尚彦、ギター国藤和枝。


日劇出演と第一回リサイタル-4

 

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

1、ポピュラーの世界へ

第一回「リサイタル」といっても、あのときはそれほど身構えたりしなかった。まわりの人からすすめられ、それまで歌ってきたものを改めて発表したというだけにすぎなかった。
構成・野上彰、演奏・ジャック滋野とシャンソン・ラ・ボエーム、酒井富士夫とアングルシア・ギター四重奏団、ほか。
第二回からはほとんどシャンソンが中心となっているが、やがて各種音楽鑑賞団体(労音、音協等)から連続リサイタルを依頼され、一年に二〇〇回以上も「リサイタル」と銘打ったコンサートが続くわけである。その間に、日劇のレヴューショーのなかでシャンソンを歌ったり、ラジオ番組のレギュラーを受け持ったりして、私も大衆という大きな味方を増やしていった。
(注)
昭和二十九年(一九五四)十二月、石井好子歓迎と「シャンソン友の会」発会記念フェスティバル(解説・葦原英了)開催。パリに腰を据えて劇場の長期契約、放送、フェスティバル、コンクール出演などで活躍の石井好子が一時帰国。淡谷のり子、葦原邦子、菅美沙緒、高英男らと共演し、声野宏はシャルル・トレネの1詩人の魂」1リオの春」、それに高木東六作曲の和製シャンソン「プンプンポルカ」を歌った。
                                           昭和三十年(一九五五)に入ると、新年早々また日劇からお声がかかり、石井好子さんの帰国ショー『街に花は咲く』に出演してほしいといわれ、舞台で初めでピアノを弾きながら「コクリコ(小さなひなげしのように)」を石井さんとデュエットで歌い、大好評を博した。大先輩・淡谷のり子さん、高英男さんともご一緒だった。
また、その年の日劇『秋のおどり』にはペギ一葉山さんと共演で一か月の出演。このときは共演者に四歳でデビューの童謡歌手もおり、のちにチャリティ・コンサートなどでも共演したが、今は大学で英語・英文学を講ずる小鳩くるみ(鷲津名都江)さんである。
さらに、その翌三十一年五月『巴里の屋根の下』(「巴里の屋根の下」「アデュー」「小雨降る径」「小さな靴屋さん」を歌い、共演は高英男さん、ビショップ節子さん、中原美紗賭さんら)、三十一年秋『巴里の何処かで』と出演している。


日劇出演と第一回リサイタル-3

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

1、ポピュラーの世界へ

日劇出演と第一回リサイタル-3

大編成の日劇オーケストラを休ませて、舞台の袖に立ってスポット一本で歌った。伴奏はギター一挺(ちょう)だけなので効果は抜群だったらしい。続いて「ラ・メール」はオーケストラ伴奏で華やかに歌い、どちらも万雷の柏手を浴びた。
終戦の年に、山形の霞城館で映画のアトラクションに出たからといって親類から横槍が入ったが、それとまったく同じことを、せっかく大学まで出ながらやっている自分がおかしかった。
しかし、もうだれも止めることはできない。なぜなら幕間の休み時間を利用して、マスコミからのインタヴューの申し込みも多く、全国の新聞や芸能雑誌、ラジオなどで、シャンソン歌手「芦野宏」の誕生を大々的に報じはじめていた。
この昭和二十九年(一九五四)七月の日劇デビューが好評だったせいか、同年九月の十六日から二週間、再び日劇で越路吹雪のシャンソン・ショー『シャンソン・ダムール』に、相手役としての交渉を受け出演し、「ラ・モーナ」「カナダ旅行」「マドロスの唄」「パリは恋の花盛り」を歌った。ほかに共演者は橘かをるさん、ビショップ節子さん、芸大後輩の中原美紗緒さんであった。
その年の十一月一日、第一生命ホールにおいて、記念すべき私の第一回リサイタル(独唱会)が開かれた。プログラムには著名なイラストレーター、長沢節先生の表紙絵・デザイン、東郷青児画伯の扉絵をいただき『芦野宏シャンソン・ルンバ・タンゴの夜』と書かれている。
曲目は「詩人の魂」「マリア・ラオ」「カミニート」など、それぞれのリズム(ジャンル)の代表曲を並べて歌った。たった一日のためか聴衆は長蛇の列をつくるほどの大盛況であった。


日劇出演と第一回リサイタル-2

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

1、ポピュラーの世界へ

日劇出演と第一回リサイタル-2

先生はエコール・ド・パリの画家・藤田嗣治の甥にあたり、慶応の仏文科を卒業後にフランスに留学され、シヤンソン、バレエ、サーカスなどを鑑賞・研究された。フランスに歌手をはじめ多彩な交友をもたれ、それらを『パリの街角』や『午後のシャンソン』など数多くの放送出演、執筆ほかの解説などで紹介・普及に尽くされた。わが国におけるポピュラーな芸能評論の草分けである。直接・間接、先生の教えを受けない日本のシャンソン歌手は一人もいないといっても過言ではあるまい。昭和五十六年に七十四歳で他界された。高橋忠雄先生ご逝去(六十九歳)のひと月後のことだった。
産原先生のシャンソン、オペラ、バレエ、サーカスなどに関する膨大なコレクションは没後、遺族から国立国会図書館に寄贈されているが、私が副会長を務める日本シャンソン協会(会長・石井好子)はその活動が評価され、第一三回産原英了賞(昭和五十七年設立)を受け(平成六年)、館長職にある「日本シャンソン館」(平成七年オープン)にも先生の遺影と著書などが飾ってある。
ところで、日劇の舞台に話を戻すと、「フラメンコ・ド・パリ」のフラメンコ・ギター伴奏は当時ナンバーワンと謳われた酒井富士大先生で、私もモンタンをまねて黒いシャツ姿でステージに立った。フランス語のほうはマスターしていたが、日本語でワンコーラスといわれ、急いで自分自身の訳詞で歌うことになった。

ひとり聞く あのギターの調べ
胸によみがえる ああモナミ、レ・スパニョール
遠いマドリード われはひとりパリの裏町