月別アーカイブ: 2018年8月

夏の九州-1

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

2、旅から旅へ

夏の九州-1

あのころは名古屋まで行く仕事でさえ、ほとんど夜行列車であった。夜十一時四十八分の特急列車「いずも」が東京駅を出発するまで、時間をつぶすのに苦労した。八重洲口に近いシャンソン喫茶「ルフラン」も十一時で閉店になってしまうし、アルコールを一滴もたしなまない私は、バーやクラブに馴染みの店を持たない。
夜行寝台列車は早朝六時五十分ごろ名古屋に着いてしまうから、さっそく旅館に入り、わいていれば朝風呂を浴びて朝食をとる。マネージャーは九時ごろから楽譜を持って会場に先乗りして楽団と打ち合わせをする。少し遅れて楽屋入りする私も、音合わせがあるのでゆっくりはしていられない。開演時間より一時間前から客入れをするので、舞台稽古や衣装合わせ、照明との色合わせなどで時間はけっこう必要だ。開演午後二時として、一時までの間に昼食をとり支度を整える。
そろそろ楽屋にファンが押しかけはじめるころである。当時は、東京物理学校(現・東京理科大)を卒業したばかりの、菊池音楽事務所で私の担当である若い田中宏和さんが事務局長となって「芦の会」という後援会組織を作っていた。いわゆるファンクラブであるが、当初、全国にわずかながら支部があり、この会員にかぎり、優先的に楽屋訪問もできるというような、暗黙の特典があったので、「芦の会」の入会者もしだいに増えていった。


大阪労音から全国各地の労音へ

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

2、旅から旅へ

大阪労音から全国各地の労音へ

 

ラ・メール 心をゆするしらべ
母の愛のように わが胸に歌うよ
(訳 薩摩 忠)

これは私のシャンソン・デビュー曲「ラ・メール」という歌の一節だが、菊池推城氏と約束して海の底に沈めた貴重な過去の経験から立ちのぼる、不思議な力がわき上がってくるような気がして、私は一日三回、三〇日間、初出演の日劇『夏のおどり』の舞台でこの歌を一生懸命歌い続けた。幸い、大好評であった。
その後、昭和三十年代に連続一〇回のNHK『紅白歌合戦』出場を果たしたのは、シャンソン界ではただ一人であり、この菊池維城氏と力を合わせてこそできたことであった。

2、旅から旅へ

大阪労音から全国各地の労音へ

大阪勤労者音楽協議会、略して大阪労音は昭和二十四年(一九四九)全国に先駆けて発足した音楽鑑賞団体である。例会は初期の数年クラシックのみであった。それが二十八年からポピュラー例会も組むようになり、私は初めの年の第五回『アルゼンチンの夕』 に出演した。そして三十一年三月には 『シャンソン・フェスティバル芦野宏・中原美紗緒』が四日間、三十二年には三月の 『芦野宏シャンソン・リサイタル』 が予定されると会員が急に増えて、予定の九ステージが十ニステージになり、連日、満席の盛況が続き、日曜日に昼夜二回と決まっていると「とつぜん前日になって明日三回歌ってほしいといわれ、びっくりしたことがあった。なんと会員の急増が三〇〇〇名を記録したというのだ。同年十月二十三、二十四日には『芦野宏とアンサンプル・ミュゼット』があり、会員から再演の要望が多く、しだいに公演回数が増えていった。
(注)
当時のスケジュールの一例を記述すると、大阪に次いで各地でもポピュラー例会が始まり、昭和三十一年の続きで大津、愛媛(松山)など、三十二年大阪(三月、十月)、仙台、北九州(小倉)、宇和島、愛媛(松山)など、三十三年名古屋、敦賀、東京、沼津、横浜、神戸など。三十四年の一年だけで一月に小田原で二日、二月に名古屋、三月に岐阜、岡崎、半甲五月に名古屋、六月に郡山二日、熊谷、そして大阪で六月未から七月に二二日間(昼夜二、三回もあり)、松本をはさみ、下旬に九州各地でと一か月以上連続でコンサートを続けている。同年の続きで八月に字都苧岡山各二日、十月に東京五日、京都六日、十一月に福島二日など、とある。
労音が最盛期に向かうころだったようだ。私も、ますます忙しくなっていた。それもなんとか乗り切って頑張れたのは、若さのせいと自分流の自然な発声法がようやく身についてきたからではないかと思っている。なにしろ大阪でのように二五曲ずつのワンマンショーを一日三回やったことがあり、司会者も前座の歌手もないリサイタルだから、客を入れ替える時間だけが楽屋で休める貴重な休憩であった。

 


NHK『紅白歌合戦』連続出場-5

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

1、ポピュラーの世界へ

NHK『紅白歌合戦』連続出場-5

芸能界にデビューして日劇の舞台を踏むとき、私にもマネージャーというものが必要になり、そのころぼつぼつ仕事を持ってきてくれた菊池音楽事務所に籍を置くことにした。社長の菊池維城氏は東大出身のクラシックマニアで主としてクラシックのコンサートをマネージメントしていたが、佐藤美子さん、高木東六先生(作曲家、ピアニスト)、葦原邦子さん(宝塚出身のシャンソン歌手)らのお世話をしている人で、業界では変わり種といわれていたが、温厚で誠実な人柄を信頼してお願いするこ
とにした。
その菊池氏の提案により、私は年齢を偽ることになる。
大正生まれと昭和生まれとでは、まったく世間の印象が違う。新人として出発するんだから、昭和にしましょう。昭和元年は大正十五年でややこしいから、昭和二年でいきましょう、ということになり、芸能年齢は三歳若く今日に至っている。東大出のユニークなマネージャーだった菊池氏を私は全面的に信頼していた。
「芦野さん、私も大嫌いな軍隊生活の一年間は密封しましょう。蝋で固めて海の底に沈めてしまいましょう」。それ以来、私は塀の中の生活をいっさい口にしないことにし、三歳若返った気持ちで歌い続けてきた。

ラ・メール 心をゆするしらべ
母の愛のように わが胸に歌うよ
(訳 薩摩 忠)
葦原邦子さんと私(日本女子大学、1956頃)葦原さんとの想い出は数限りなくある。ヤマハホールでのリサイタルで演出をお願いしたこと
もあるし、他のホールで共演したこともある。
これは「小さなひなげしのように」の舞台で、葦原さんの語りと私の弾き語りの場面である。
このステージのために飯田深雪先生が真紅のひなげしの花を作ってくださり、ピアノの上に置いて歌うのが習いとなった。
宝塚時代は「アニキ」というニックネームだったそうだが、私にとってもアニキのような存在だった。舞台化粧のやり方からステージでの動き方まで指導していただき、ほんとうにお世話になったものである。


Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

1、ポピュラーの世界へ

日比谷の巴里祭とデビユー秘話-1

昭和三十一年(一九五六) にさかのぼって七月十四日には、相原音楽事務所の社長さんから頼まれ、日比谷の野外音楽堂で 『巴里祭シャンソンの夕』 と銘打ってワンマンショーを開き、夜の星空の下でシャンソンを一人で歌った。ファンの要望に応えるため、翌十五日にもアンコール巴里祭として山菜ホールに会場を移して催した。聴衆は合わせて数千人ともいわれ、こん
なふうによく客が入ったので、昭和三十六年まで続けた。相原事務所では巴里祭以外のコンサートも催してくれたが、石井音楽事務所がその年に設立され、昭和三十八年から『パリ祭』としてシャンソン界あげての祭典を企画して、複数の歌手を出演させるようになったので、私もそちらに参加して、昭和三十九年から相原さんの企画は辞退することになった。
(注)
芦野天下のパリ祭(内外タイムス、昭和三十一年七月十四日)
「ことしのパリ祭は、渡仏を九月にひかえて、いまや人気上昇の一途をたどる芦野宏にすっかりさらわれてしまいそうだ。せんだって行われた五日間連続リサイタルの余勢をかって十四、十五の両日、パリ祭シャンソンの夕が開かれる。初日は『パリ祭』『パリの屋根の下』等ごくポピュラーなシャンソン、翌日は『和製シャンソン』中心で、作詞に野上彰、作曲に宅孝二、寺島尚彦等の協力を得ている。…・:
都内の主なプレイガイドを一巡して前売り景気をさぐつてみると、予想どおり芦野の野外リサイタルが一番切符の出が小いようだ。一夜シャンソンをじっくり楽しもうというようなアベック組が多いとのこと」東京の空の下シャンソンは流れる(アサヒ芸能新聞、昭和三十一年七月十四日)
「後楽園遊園地では、NDC(日本デザイナークラブ)ほかの主催で『野外大巴里祭』がはなばなし く開かれた。……祭りの委員長は早川雪洲さんで、祭主は石黒敬七さん、演出はピアニストで作曲家の高木束六さんの面々である。正面入口には巨大なエッフェル塔が建ち、会場からはふんだんにシャンソ ンが流れ、この夜のために集まった約三千人近い人々が雰囲気をもりあげた。……同じ時刻、銀座の山菜ホールでは、シャンソン評論家・産原英了氏を中心に『ベル・エポックのシャンソン』研究会が開か
れ、座席をぎっしりうめた聴衆は、最新版のLPレコードを産原さんの解説でしんみりと聞きいっていた」