第四章

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 第四章

 1、罠

 孝平が急ぐと、同じ速度で魚の群れも動く。
 孝平が立ち止まると、彼等はしらじらしく岩蔭で休んだり、仲間を追って旋回したりして遊んでいる。
 滝の音が大きくなった。
 孝平が休憩のたまに岸に上がると、魚群は一尾残らず上流に消えた。
 しばらくしてまた浅瀬を歩き、緩やかなカーブをっ曲がると、目指す釜が淵の滝が目の前に現れた。
 見上げるとはるか上空から、しぶきを上げて大量の水が流れ落ち、滝は白い奔流を吹き上げ、白泡は底見えぬ深淵をさらに包みかく
している。瀑風と冷たい霧が孝平を襲った。
 孝平は、最後の腰までの瀬を渡って右岸の狭い岩場に這い上がった。ここからは淵が一望できる。
 ここが昔、逃げ道を失った村人が飛び込んだ滝ツボだとしたら、まさしく死の魔境としかいいようがない。
 数十米の空間を白い壮厳な水の壁が、不規則な模様を描いて重厚で青い深淵に崩れ落ちている。さすがに魔の淵、人間の命や魂
などひとたまりもなく吸い込まれて行く。孝平の胸の鼓動は滝音以上に高まった。
 孝平が狙う想像上の獲物は、まさしくこの中にいるはずだ。それが、人間の姿を見ても恐れも隠れもしない相手であれば、必ず姿を表して来る。それを待って堂々と勝負し仕留めるのだ。
 孝平は深呼吸をして気持ちを整え、獲物との対決を決意した。
 岩場の上に持参した三本のヤスを並べ、いつでも使えるように用意し、大きい手網(たも)は腰のベルトに差して手尻の紐をベルトに巻いた。
 留吉の手製の太い竹竿をつないで、用意した仕掛けを結び、準備ができたところで深呼吸をした。
 まずはベストのポケットからブドウ虫をとり出しtハリ先に刺して水面に投げた。
 渓流のイワナがブドウ虫を好んで食べる程度の知識は釣りマニアでもない孝平でも知っている。孝平は釣りについては素人でさほどの知識はないが、子供時代には小魚を釣って遊んだ程度の体験はある。
 渓流の魚は、上流を向いて泳ぎながら、餌の流れ落ちてくるのを待つ習性がある。空腹時には、自分が産んだ小魚でも食べる貪欲なイワナが好物のブドウ虫を食わないはずがない。
 淵から瀬に落ちる流れを瀬頭というが、大物を狙うときはこの最前列、すなわち滝の落ち込みの白泡が渦巻くあたりから餌が自然に流れるように見せる工夫が必要になる。孝平は、聞きかじりの浅い知識を根拠に、岩蔭に身をひそめ、まき返しから滝ツボの中心に向って餌が流れるように竿を振った。
 竿いっぱいに底へ送りこんでも、餌は大物のひそむ底石にまでは届くはずもないが、餌を発見して急浮上する食性があるだけに、充
分鉤掛かりする可能性はある。
 しかし、滝しぶきに竿があおられるだけで何の反応もない。ここでの並型のイワナは目の前に群れているのだが、これらを相手にする気はないのだが、これに無視されるのも面白くない。
 そこで孝平は方針を換えて、まず、この群れイワナから釣ってみることにした。ところが何度竿を振っても見向きもされず、ブドウ虫では釣れないことが分かった。
 孝平は、ポケットのブドウ虫を全部水面に撒いた。白い虫はゆらゆらと流されなてゆく。魚の群れは何の反応も示さず、悠々と群れ泳いでいる。これで一つの実験は終わった。
 
 ふと、首筋に水滴の落ちるのが、滝しぶきと違った感覚で感じられて孝平は空を見た。
 雲が低く流れて、少しずつ雨が落ちて来る。
 時計を見るとまだ正午前、夕暮れまでは充分に時間はあるが、天気が崩れるとなると決着を急がねばならない。
 孝平は、用意した肉片を千切ってハリ先にチョン掛けにして滝下に流しこむと、そのまま竿先がしぼりこまれた。
 滝ツボ下の白泡に突っ込んで抵抗する獲物によって穂先は水中に没したが、それを弓なりに耐えていると、やがて力つきたイワナが暴れながらも水面に顔を出した。空気を吸わせてしまえば魚は弱る。
 手網を出してようやく取り込むと、40センチ級の見事なイワナの大物で、手網から尾の部分が入りきれずに網からはみ出して暴れている。これが水中で群れている人肉でえ付けされた並型のイワナなのだ。これは大切な証拠とし持ち帰らなければならない。ひとまず石で頭を叩いて新鮮なうちに締め、岩陰に投げておく。それを数尾続けた時に、雨が落ちてきた。
 山の気候は変りやすく、どんなに晴れていても油断はならない。万が一、谷に入って雨雲を見たらすぐに崖を登らないと命に係ることになる。これは孝平のバイト仕事ではイの一番に頭に叩き込まれていることで、雨雲を見たら沢を出なければならないことは、骨身に沁みている。そこには例外などは何もない。
 孝平は、今までにも何度かその教えを甘く見て危険な思いをしているだけに、行動は早かった。釣った獲物を持参した新聞紙でくるんでリュックに押し込み、もうヤスも竿も手編も無用だから岩の上に置き、残っている肉片を全部つかみ出して水面に投げると、魚体が群がって餌を漁り、水面がはげしく泡立った。
 孝平はデジカメを出して餌を漁る魚群を撮り、滝と滝つぼの城泡を素早く撮った。
 餌はたちまち消え、魚群も平常に戻った。
 孝平の推理通り、この淵の魚は、恐ろしいことに人肉で餌付けされていたのだ。その証拠は写真と獲物と孝平の説明で充分に人々を納得させる自信はある。
 ただ、魔の淵の怪魚伝説については、残念ながら今回は何の手がかりもなかった。多分、あれは一般の人を釜が淵に近づかせないための川漁師の生活の知恵だったのかも知れない。
 ここで飼育した天然魚を留吉は、好きなときに好きなだけ回収してそれを売り、それを食べる客がいた。
 この天然の漁場は一体いつの時代から続いていたのだろうか。恵江戸時代の飢饉で、村人が身を投げた時代からなのか?
 孝平は、この沢を遡行した先刻に、留吉が残した崖への脱出ルートを数個所ほど見つけてある。その最短距離にある崖道は、ここから50メートルもないだけに急ぐこともない。
 そこは豪雨で増水しても登れるように、手ごろな灌木が林立していて不安はない。
 しかも、そのルートの崖には必ず水が這入らないように工夫した洞穴があって、増水が少ないはここで野営して水の引くのを待つという、職漁師の生活の知恵なのだ。
 孝平は、そこには立ち寄らず一気に崖を上がって林道に出るのが危険を避けるには一番と考えた。 これなら安全だ。
 いつもならバイクで走る山道を、沢歩きで最短距離の往路と違って、山道を迂回しての復路となると倍近くの距離を歩くことになる。
 それでも、帰路は下り坂だから疲労度はさほどでもない。
 村に伝わる怪魚伝説は、この天然の漁場を代々守り続けた特殊な川漁師が流した風説に過ぎなかったのだ。孝平は目的を果たした爽快な気分で下流に向かって、瀬を渡るべく足を踏み入れ腰の深さまで進んだ。増水する前に崖をよじ登らねばならない。
 そのとき、雨の音や滝の音に交じって上流の崖上から土砂が崩れ落ちる水音がした。ふり向くと土砂に混じって黒っぽい蛇が水音高く飛沫を上げて淵に落ち、鎌首を持ち上げて二米はあろうかという体で悠々と身をくねらせて泡立つ淵を横切っている。
 突然、孝平の目の前1メートルもない至近距離の水面が盛り上がり、大きな背びれと折れたヤスを数本背負った巨大な魚体が反転して流れを遡って大蛇に襲い掛かり、大蛇共々水中に没した。
 一瞬のことで信じ難い出来事だったが、伝説の怪魚は存在した。
 孝平は身震いして足を止め、恐怖の眼で水面を凝視した。
 暫くして大蛇は浮上したが、全身がばらばらに食いちぎられていて、それに魚が群がり、頭部を含む上半身尾の一部だけが生きていて、早いピッチで狂ったように身をくねらせて流れたが、すぐに魚群に包まれて消えた。怪魚は大蛇を自分の獲物にしたのではなく、小魚(小さくはないが)の餌として細かく千切って食べやすくして与えている。
 孝平は現実に戻った。
 怪魚はいた、まさしく実在した。しかも怪魚は、孝平の行動を読み、帰路の水中で襲うべく待ち伏せていたのだ。
 加助の話によると、重傷で死んだ釣り人の臨終間際に、「釜が淵下の瀬を渡ろうとして何者かに襲われた」、との証言もあるが、死の間際の混濁した意識でのうわごとだっただけに、誰もその話を真に受けてはいない。
 だが、これは事実、この瀬が罠だったのだ。
 孝平は、夢中で流れに逆らって引き返し、岩に這い上がってリュックをかなぐり捨て、置き去りにしてあった四本刃のヤスを握って白泡の沸き立つ深淵の底を睨んだ。だが、無数の水泡と群泳する魚影が邪魔して魔の淵の底までは視界が届かない。

 

 2、対決

 滝しぶきと雨滴とでけぶる水面下を凝視すると、その視線に気づいたのか、イワナの群れの下から背に折れたヤスを背負った巨大な魚影が悠々と浮上してきて、水面下30センチほどの至近距離まで接近して孝平を睨んで口を開き、鋭い歯を剥き出して孝平を威嚇した。その態度は明らかに挑発でしかない。
 1メートルをゆうに超す巨体は苔むすように黒ずんでいて、川魚というよりは水棲獣という表現が相応しく、孝平は息をのんだ。
 孝平の背筋に悪寒が走ったが、たかが川魚、人間を恫喝するなど身のほどを知らなすぎる。
 孝平は、衝動的に相手の脳天めがけてヤスを突いた。怪魚は軽く身をかわし、鼻の先でせせら笑うように浮上して跳躍し、空中で素早く巨体を反転させて尾びれで孝平の顔面を強打した。その衝撃で岩に叩きつけられた孝平の胸は恐怖と怒りに震え、同時に燃えた。
 孝平は水際に立ち、怪魚目掛けてヤスを振り下ろした。手応えはあったが、皮が硬くてヤスの刃先を受け付けない。孝平は、怪魚の反撃で何度も倒されたが、ひるまずに闘い続けているうちに勝機を見つけた。相手の跳躍する勢いを利用するのだ。
 孝平が水際に顔を出すと、案の定、怪魚が少し身を沈めてから跳躍した。孝平は怪魚が反転する瞬間を狙って、頭部目掛けてヤスを突いた。タイミングが狂ったが手応えは充分にあり、ヤスは背に近い腹部に突き刺さっている。ただ、うかつにも手を離すのが遅れたため孝平の体が宙に舞い、水面に叩きつけられた。
 慌てて岩場に戻るべく必死で泳ぐ孝平の目の下で、怪魚が孝平を襲う気配を見せたが、魚の弱点でもある腹部に刺さったヤスが邪魔したのか動きが鈍く、辛うじて孝平の左足を噛んだのが精一杯、孝平の右足の蹴りですぐ口を離した。
 すかさず岩に這い上がった孝平は、足の痛みなど忘れて二本目のヤスを握って水中を睨んだ。その目は常軌を逸してギラギラと輝いて異様に吊り上がっていた。それは、闘争心を失っていた格闘家が、マットに倒されてから闘魂をとり戻したように闘志に火がつき、孝平は壮快な気分に浸っていた。
 もはや恐怖はない。獲物を仕留めるだけだ。怪魚も一休みして動きを取り戻していて形成は五分と五分、ここからが正念場となる。
 怪魚が跳び、孝平が突くが、怪魚の動きが変幻自在になって次の一撃が決まらない。孝平の手が空転するとその手を怪魚が襲う。激闘は続き時は流れた。
 雨は烈しさを増し、岩の上に立ちはだかる孝平の足元にも濁流は迫っている。
 はじめは岩の上の孝平が優位にあったが、うえまで水位が上がると、当然ながら怪魚が有利になる。今はまだ勝機は充分にある。
 相手の疲れに乗じて孝平から仕掛け、相手が跳躍したところを的確に狙って二本目のヤスを背ビレ近くに突き刺し、すぐ手を離したから水中に引き込まれることもない。二本のヤスは相手にかなりのダメージを与え、動きを鈍らせたのは確かだった。
 だが、怪魚は岩に体当りして刺さったヤス二本の柄を折り、身軽になったところで深淵に身を隠した。しばしの休戦で疲労を回復させる策に出たのか。それとも増水で孝平が流されるのを待つのか。あるいは、深手を負っている相方の様子を見に戻ったのか?
 このままでは、もはや孝平に逃げ場はない。怪魚を倒して早瀬を泳ぎ下り、川漁師の通い道を探して崖上に脱出するのだ。
 孝平は三本目の最後のヤスに勝負の全てを賭けることにした。これで仕留めなければ自分が死ぬ。
 それでも孝平は勝利を確信していた。怪魚は傷つき疲れている。孝平もよろめいてはいたが闘魂には一点の曇りもなく、気力も充実している。
 やがて、体力を回復したのか折れたヤスを背負った雌ヤマメらしい怪魚が戻って、戦いは再開された。
 相手は、二度の失敗に懲りたのか、孝平の挑発にも乗らず、跳躍は低く速くなってヤスで突くタイミングが外され、一方的に孝平が叩かれ倒され続けた。さりとて、水際から離れれば勝機はなく、増水での自滅を待つだけになる。
 孝平は一か八かの決着をここでつける気になった。
 まもなく伝説の魔の淵の主との死闘の結末が来る。
 孝平はヤスの柄を両手でしっかり握りしめて頭上に振りかぶり、雨滴で曇る水中を睨んだ。その上で、すでに傷つき出血している左足を寄せ餌にすべく、ゆっくりと水に浸けた。
 策は当たった。誘いに乗った怪魚が深淵から猛烈な速さで浮上して孝平の足に噛みついた。その瞬間、孝平の振り下ろしたヤスが怪魚の脳天深く突き刺さり怪魚が孝平の足を加えたまま暴れた。孝平もヤスの柄を離さず、大きく息を吸って水中に飛び込んだ。怪魚と孝平の両者は水中で回転してもみ合ったが怪魚は食いついた口を開かず、孝平はヤスの柄を離さずで、どちらも音を上げない。
 高校生時代、水泳の中距離選手だった孝平は肺活量は4,500mlと一般男性平均の3,500を遥かに凌いでいて水中でも不安はない。しかし相手は滝つぼの主だけに孝平を深淵に引き込もうとし、孝平は浮上して空気を吸わねばならないから、ヤスを持つ手に力が入る。
 両者の必死の戦いで、急所を突き刺されている怪魚が先に力尽きた。孝平を噛む口が緩んだ瞬間、孝平が暴れると足が抜けた。孝平は思いっ切り足を煽って水面に浮き、息を吐いて滝の水の混じった空気を吸った。水中で争っているわずかな時間の間に、孝平は落下する滝の近くまで引きずり込まれていたことに愕然とした。あとは、このヤスの柄を離さず、増水した釜ケ沢を流れ下って赤岩村に凱旋し、村長や加助、駐在などを驚かせるだけだ。雨は止まず荷を置いた岩場も水没し、孝平の荷は、この大物の川魚だけになった。ひとまず休憩しないと体が持たない。
 左手で握ったヤスの柄の下で暴れる獲物に噛みつかれないように、気配りしながら淵から岸へと流れに逆らって泳いだ。孝平の左足の感覚はすでに失われているが、それでも勝った喜びは格別で、足の痛みも忘れさせてくれる。
 孝平は、断末魔のあがきで暴れる重い獲物を刺したヤスの柄をしっかり掴み、右手右足で水を蹴って右岸に近づいた。
 その時、異変が起きた。
 何者かが水中を走り、猛烈な勢いで孝平の腰に体当りしたのだ。
 その衝撃で思わずヤスの柄を離してしまい、すぐ手を伸ばしたがその手を何者かが噛み、左手の小指が失せ、血が水に溶けて赤い筋になって流れた。
 一瞬の間で何が何だか理解できなかったが、水中を凝視して事態を知った。
 いま戦った相手とは違う大型の魚影があり、孝平の手から逃れた相棒を労り護るように寄り添って滝の裏側の深淵に沈んでゆくのが見えた。そのとき深淵の底に石か人骨かは知らねども白い物体が敷き詰められているのが見えたが、それも一瞬、濁りと水泡と魚影が邪魔して視界を遮った。獲物を奪い返された孝平は、この場から逃れるべく岸に向かって泳いだ。
 孝平と闘った怪魚はずんどうで胴長の雄イワナだが、怪魚の片割れは明らかに魚種が違う。パーマークこそないが青みがかった豊潤な胴太の体形からみて雌ヤマメとも思われる。だが、魚種の違う渓流の覇者の雄雌が結ばれるなどあり得ない。それでも、孝平の傷の痛みからして夢ではないのは事実なのだ。無事に帰れたら、これをどう説明すればいいのか。
 

ヤマメ釣りの基本&仕掛け – 渓流の女王にチャレンジしてみよう ...

その雌ヤマメと思しき怪魚の片割れが、相棒の安全を確認したのか反転して浮上し孝平を襲った。
 ここからが修羅場だった。孝平には武器がない。ブルゾンのポケットにはスイス製の万能ナイフがあるが、もう取り出す時間もない。 孝平は一方的に被害を受け、喉だけは手で庇ったが体のあちこちを噛み千切られ無惨な姿を晒し続け、このままでは逃げ切れないと悟った時、一発大逆転の荒業で勝負することに覚悟を決めた。肉を切らせて骨を断つ、これ以外にはもう生きる道はない。
  孝平が傷だらけの左手を出すと、怪魚の片割れが勝ち誇ったように大きく口を開いて襲い、鋭い歯がが光った。その瞬間、孝平から先に延ばした左手を怪魚の口に突っこみ、左エラから手先を出して、さらに肩先までを口に押し込み、暴れる魚体を抱えて相手の抵抗を封じ、一気に流れに乘って下流に流され窮地を脱した。
 これで、相手は換わったが獲物は確保したが、本当の死闘はここからだった。
 闘いの場は、濁流になりつつある早瀬に移り、二体は流されながらも死闘を繰り返した。
 獲物を確保した孝平は、雨中の濁流に流されながら怪魚の目を見た。その目が孝平を憎悪と怨みで見据えている。その目は留吉の通夜の晩の幻想でみた妖しげな女にも思えてくる。あれは正夢か幻覚か、または現実だったのか?
 この魚体はしなやかでしっとりとして人肌のように柔らかい。 怪魚は歯を上下させて孝平の腕を食い千切る策と、全身をくねらせて孝平を川石に叩きつけて致命傷を与えるという二面策で来たが、孝平はひたすら左腕を揮って怪魚の頭部を岩石に叩き続けた。
  怪魚は必死に孝平をふりほどこうともがいたが、口からエラへと手を差しこまれては動きがっとれず呼吸も自由にならない。暴れる力が劣え、一気に力が抜けた。もはや孝平の腕を噛むことさえできなくなっていた。
 水面と水中を流され岩に叩きつけられ回転しながら孝平は勝利を確信した。
 水を呑み、岩に打ちつけられ、流され、小滝を落下し、滝ツボにもまれ、気が遠くなりまた目覚め、雨の鎌ヶ沢をどこまで流される
のか、往路に辿ったカラ沢も、水満ちて流れぬけている。
 二体が鎌ヶ沢中流を落ちて何とか岸の岩場にしがみついた時、雨は止み、夕暮れが谷を包んでいた。長い闘いだった。
 孝平の左手は、怪魚のエラの内側にくし状に鋭く尖った気管部の突起した骨にも当ていて出血も痛みもひどかった。
の赤い筋が流れを染めている。
 もはや満身創痍ではあったが、この大きな獲物を仕留めた爽快感は、多少のケガや苦痛など何でもない。
 孝平の心は歓喜に震えていた。
 孝平は獲物をしっかりと抱えながらも、右手両足をフルに活用して何度も岸への接近を試みたが、急流の中では石が滑って手で動きをとめることは不可能なのだ。鎌が沢の中流まで流されて、川幅が広がって流れが緩やかになり、平坦な岩場か続くところで、孝平は右足を底岩にかけ、身を縮め、全身をバネにして横倒しに水中を跳ねた。ここで二体は流心から外れ、必死で斜行して右岸の岩場にしがみつき、長い川下りの旅は終わった。
 孝平は岩場に倒れたまま、空を見た。すでに雲はなく崖上は夕焼けの気配だが山の暮れのは早いから早く沢から脱出しないと凍死することになる。孝平は、力を振り絞って瀕死の獲物を岩場に引き上げようと試みたが、ふと考えが変わった。
 すでに怪魚の抵抗は終わり、勝敗の結果も出ている。
 孝平はニ尾の怪魚に勝ち、留吉の仇も討った。わざわざ死体を運ぶこともない。これらの事実を公表する必要もなく、名誉欲や売名行為とも無縁なのだから、これ以上の殺戮も必要ない。
 孝平は、魔の淵・鎌が沢伝説の真実を知った。これだけで充分なのだ。
 この沢の主の片割れをこの手で殺すには忍びない。ここで解放すれば、蘇生する可能性もある。
 孝平は右手を大きく振り上げ、「ウオー」と勝利の雄たけびで吠えた。すると、あちこちから山犬の遠吠えが応じた。
 ついに勝った!
 孝平は伝説の魔の淵の怪魚に勝ったの

だ。

 

 3、終章

東京からTOKYOへ | HMSports

 孝平は、満ち足りた心で恍惚としていた。かつて味わったことのない充実した達成感で満足していた。
 いま、この手の中に、命がけで手に入れた素晴らしい獲物が、まだ息づいている。
 勝利の快感に酔うというのは、こういう気持だったのか。
 全力をつくして闘う男の本能も、忘れていた闘魂も、今は存分に味わい燃焼しつくしている。
 孝平は今、欲しい玩具を手に入れた子供の頃の満足した気持を味わっている。幼い日に母に抱かれた思い出、兄弟で遊んだ日々、父親に連れられて魚釣りに過ごした夏休み、懐かしい過去が脳裏に浮かんでは消え、また浮かぶ。
 孝平は、つい数日前までの怠惰な日々を忘れていた。
 もはや、うす汚れた見栄や欲望、よこしまな心、それらが浄化され、忘れていた純粋な魂の叫びを孝平は見つけた。これが生きる喜びだったのか。
 疲労と寒さで意識が遠のくが、孝平は安堵した心で獲物を抱きしめている。その睡魔のおとずれの中で官能と幻覚が襲ってくる。
 閉じた目に、通夜に垣間見た妖艶な女が浮かび、その裸身が孝平を包んでいる。弾力のあるやわ肌が密着し。口からエラに差し込んだ手を通じて粘っこいぬめりが快い感触を呼ぶ。
 ひもじいまでに飢え続け、求め続けて来た自分の自由になる女体が腕の中にいる。

鹿児島のタコクラゲと人魚 - YouTube

 冷えていた肉体はほてり燃え、快感を伴う律動の中で、とめどなく打ち寄せる官能の波にもまれ震えた。孝平の情念は本能のおもむくままにさまよい、あこがれてやまなかった煩悩の源泉をつかみとって自由だし、何の束縛もない。孝平は、間断なく訪れる快感に酔いしれ、白痴のようにだらしなく弛緩し、あるいは陶酔の中に埋没した。
 しかし、それも一瞬、このまま睡魔に襲われたら死ぬことに気づき、自分で頬を叩いて眠気と幻覚を振り払った。
 そろそろ、この獲物を沢に放して家路に着かねばならない。
 このままでは体温が下がって凍死する。
  雨はすでに止み、宵闇が谷をおおっていた。雲が切れ、薄い雲の彼方にぼんやりと月あかりが感じられる。
 月が出れば夜道も苦にならない。

千葉県成田市からの帰り道で野生のフクロウに遭遇しました!

 崖上でフクロウが友を呼び、瀬音に負けじとカジカの澄んだ声が響いている。濡れて冷え切った体は多量の出血もあって重いが、忍び寄る初秋の夜の谷間から脱出するのは今しかない。すでに体力は限界にちかづいていて、噛まれた左足と左手は感覚を失っている。
 孝平は水中に仮死状態で動かずにいる獲物の口に差し込んだ手をゆっくりと抜きにかかった。エラの骨や鋭い歯が邪魔してとなかなか抜けず、口に余裕が出来た怪魚の噛み付きも怖れたが、すでに衰弱した怪魚にその力もないらしく、どうやら腕が抜け獲物は孝平から離れかけた。その直後だった。
 ほぼ息絶えていたかに見えた怪魚が、首をふって孝平の手をふりほどき身をひねった瞬間、大きく口を開き歯を剥き出して孝平を襲った。
 怪魚の鋭い歯に孝平の喉は骨ごと噛み砕かれ、かすかに微笑みの表情を残したまま孝平の意識がフッと消えた。
 孝平の右手は、巨魚の背を断末魔の力でかきむしったが、そのまま岩に落ちて動かなくなった。その右の拳の内に、虹色の光彩を秘めた大ヤマメの魚鱗の一片が握られている。これが魔の淵の伝説を解き明かすかどうかは、孝平にはもう知る由もない。
 怪魚は、転がり落ちるように、岩から流れに身を滑らせ、少し下流の岩かげに横たわって身を沈めて喘いだ。
 しばしの休息の後、怪魚は全身の力をふりしぼって一寸刻みに流れをさかのぼり、孝平の倒れている岩場下に辿り着いた。怪魚は流れに浸かって揺れている孝平の下流側の左脚を咥えて岩場からずり落として水中に引き込み、そのまま下流に流れた。
 怪魚は流れの淀んだ岩陰の浅場に孝平を持ち込み、鋭い歯で難なく孝平の右腕を、先刻まで自分が咥えていた左手の肩の付け根近くで噛み千切った。
 怪魚は、しっかりとその手を咥え、肩口から縦に喉の奥に呑み込み、口先から手首と五本の指がはみ出た状態で、ゆっくりと上流に向かって泳ぎ始めた。
 巨大な川魚が人間を獲物にして魔の淵に旋する。

上弦の月|マリッジ|結婚指輪・婚約指輪|俄 NIWAKA

 流され、休み、またさかのぼってゆくその凄愴な姿は、谷をおおう梢のはるか上空から雲間洩れに射す、不気味なほど冴えて輝く上弦の月に照らされて、すさまじい艶麗さを湛えている。
 その怪魚の片割れは、先刻までの壮絶な死闘で見せた恐ろしい殺気など微塵も見せていない。そこに見えるのは美しい魚体の大ヤマメが、この獲物を咥えて、必死によろめき、流され、休み、喘ぎながら・わずかずつ上流へ上流へとさかのぼる壮絶な姿があるだけだ。
 戦利品でもある人間の腕という獲物は、先の闘いで孝平に敗れて深淵に沈んだ怪魚の伴侶への餌だったのか。
 今にも力尽きそうになりながらも、岩陰から岩陰へと巧みに流勢を読みながら怪魚は流れを遡った。その執念は、何処から湧くのか、生きることへの執着なのか。最愛の伴侶を思う情念なのか。その気力はすさまじい。
 やがて、かなりの時を経て、巨大な大ヤマメは獲物を土産に、魔の淵の淵の滝裏の棲み家に没した。
 滅多にあり得ないイワナとヤマメの交配も、長い歳月の一こまには、種の違いを越えて結ばれることがあり得るのか。断ちがたい愛縁によって結ばれ、ひっそりと深淵に身を寄せた二体の怪魚は、どのような思いで獲物を分かち合ったのか。この一対の巨大な川魚のひたむきな情愛の炎は、歴史を秘めたこの魔の淵の伝説の陰に隠れて、永遠に誰からも語られることはない。
                            終