第八章 幻影の山

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第51回三軌展(1999) 古代の舞 松岡隆一画伯(秋田県鹿角市)

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46、鉱山奇襲

重い雲が空を覆っていることもあって、夜明けにはまだかなりの時間がある。だが行動への時間はさほどの余裕はない。
 松山画伯はほろ酔いで新内などを謡いながら帰宅し、動きの鈍い勝川は戦場には不向きだから邪魔だと石脇に宣告され、怒って帰ったが、石脇は従兄弟の勝川史郎が一人息子だけに万が一を考えての策だ、と達也に言った。
 石脇は、中里顧問をせき立てて、達也、友美らと佐田の運転する覆面パトカ-でまず深夜のうちにスト-ンサ-クル館に到着、達也と中里顧問を降ろしてすぐに立ち去った。
 これで、縄文広場が戦場になった場合の立会人は達也と中里の二人になる。二人は館内に立て籠もって、いざとなれば高見の見物としゃれこめばいいだけだ。
 部下を集めて砂金場の飯場を奇襲する石脇と、それを取材する友美を署に送り届け、佐田はそのまま紫門屋敷に向かう。紫門屋敷が戦場になるとしたら佐田一人が修羅場を見ることになる。
 これで一応は三方への備えができた。
 だが、どこで何が始まるかは誰も知らない。それは、明日何かが始まる……との達也の呟やきから始まったのだが、誰もそのことすら覚えていない。ただ何となくそれを信じ切っていた。
 すでに、紫門屋敷で逮捕されている元暴力団創世界組員らは鹿角署で、菅野署長自らの主導で、深夜から翌深夜までにおよぶ取り調べを受けていた。その結果、組員らの自供によって、河田美香拉致事件の当時の状況も徐々に明らかになりつつある。
 河田美香と加納二郎を拉致した実行犯の八人は、紫門千蔵が代表となっている紫門興業の社員や臨時職員という身分で、死亡した佐々木熊五郎の下で働いていた男たちだった。しかし、厳しい取り調べで佐々木らの黒幕は木場であることも判明した。
 木場は、昨夜のうちに出奔して行方不明になっている。
 太鼓の叩き方も知らないのに、大会参加者として偽名での登録をした佐々木熊五郎らが、拉致した美香を胴部分に細工した大太鼓に詰めて、紫門家の裏門から倉に運び入れる段取りになっていた。三億円の身代金の請求に隠れて、その目的が紫門家の血筋を絶やさないためであったことは、当事者以外は誰も知らない。
 美香を捜しに出た加納を拉致した別動隊の四人組は、加納を鉱山に運び込んだが、これは加納も知っていた筋書きで、佐々木熊五郎だけがそれを指示した上部の人間との接触をもっていたので、この四人はただ予定通りに加納を運んだだけだと主張していて拉致があかない。
 美香を拉致した佐々木ら四人は、大会の運営係のバイトから千蔵の内妻の志穂からだという運び先の変更を指示したメモを渡され、十和田湖南東から山道に入って十和利山神社の分社である小さな祠に美香を連れ込んだと自供している。
 なにしろ、四人組のボスである佐々木熊五郎が死亡しただけに、死人に口なしで、誰もが罪を佐々木になすりつけるから、それぞれのが曖昧な発言をする。
 取り調べ室に顔を出した石脇が、多少のやっかみの感情も入れて「姦ったのか!」と一喝すると、彼らは「その気だった」といい、婦女暴行未遂罪でも調書を取られる羽目になったが一様に不服顔で「邪魔が入って……」と悔しがって愚痴を続ける。
「闇夜から天狗が降ってきて暴れた末に、女を浚いやがった」
「風に乗って来た大男に殴られて、やり損なったんだ」
 男たちは劣情を遂げ損なった悔しさを顔に出し、それが罪になることなど気にもせずに本性をさらけ出している。
 その男たちの証言から、金鉱と称する砂金場の飯場にはまだ殺人未遂や傷害、賭博罪、麻薬取締法違反などで指名手配中の前科者や暴力団員などを匿っていて、賭博や売春が公然と行われていることが分かった。しかも、その連中は仲間が折角、拉致した河田美香を山男に奪われたことに憤慨し、山狩りか山男との決闘によって女を取り戻し、飯場に連れ込んで犯しまくる計画まであったという。
 これを聞いて怒った石脇が男らの頭を拳で度突き、それでも腹の虫が収まらないのか、脇腹に蹴りを入れた。
「これからその飯場に、そいつらをしょっぴきに行くんだぞ!」
 石脇はすぐ捜査令状を取り付けてきた。
 仮眠の時間はないが飲んだ勢いがあるから威勢がいい。夜明け前に飯場を急襲し、彼らの動きを封じると息巻いている。
 夜明けの闇がまだ遠い午前三時半、鹿角署を出発した二日酔い気味の石脇警部ら刑事と機動隊員ら十二人を乗せた重装備のマイクロバスは、合同捜査を申し入れた青森県十和田署の機動隊長が指揮する車列と十和田湖東の高台にある見返り峠の展望台駐車場で合流した。
 青森県警の機動隊長が、石脇から耳打ちされた内容を、まだ暗い夜明け前の涼風の中で訓示する。
「本日は、秋田県鹿角署と青森県十和田署の合同捜査で、これからドコノ森山中の猿辺川支流の源流に向かうが、行けるところまで車で入って、あとは徒歩で行き紫門興業の隠し鉱山を急襲する。
 ここには、本日、いずれかに出動するという元創世界の精鋭が約二十人ほどが潜んでいるとの確かな情報を得て出動した。
 われわれは、その機先を制して集団による危険行為を阻止するために全員を逮捕する。容疑は、銃刀火薬類不法所持容疑その他による立ち入り捜査となっているが理由など何でもいい。多分、ほぼ全員が前科者で指名手配中の凶悪犯とみて間違いない。
 従って抵抗はかなり厳しいと思うが、拳銃の使用は必要最小限にして無闇に相手を殺傷しないこと、発砲のやむなきときは脚部を狙うこと。ここには、拉致された日東テレビの島野、加納の二人が監禁されているもようなので、二人を発見したらすみやかに救助し身柄を確保すること。以上、諸君の健闘を祈る」
 友美は特別の許可を得て、というより強引に割り込んで、この歴史的なガサ入れに同行していた。修羅場をカメラで撮りまくり大スク-プ記事を書いてギャラを稼ぐのだ。
 解体されたはずの暴力団創世界の残党が、東北の山奥の鉱山に縄張りを持ち、他の組織が黄金をめぐって食い込んで来るのを防いでいるとの説は、かなり以前から流布されてはいた。
 どこからリ-クされたのか、たしかに島野泰造と加納二郎の姿を山奥の鉱山で見かけたという目撃者の証言なども出ている。
 サ-チライトを頼りに山道をかなり歩くと、やがて山陰に谷底に降りる道があり、その先に柵で閉ざされた洞窟が見えた。
「行け!」
 隊長の号令で盾を持った機動隊が、銃弾の飛来を予測しながら一斉に柵の取り壊しに取り掛かった。それを友美が取材する。
 しかし、鉱山従事者の安眠を破っての夜明けの急襲は意外にあっけなく終わった。
 主力の暴力団組員の姿が全く見えなかったからだ。
「しまった!」
 石脇は大仰に樹木に覆われた空を仰いで悔しがった。まだ、準備中と思った武闘集団はすでに出陣した後なのだ。
 こうなると、縄文広場に向かった達也、紫門屋敷を受け持った佐田刑事の動向が気になる。そのどちらかで戦闘は始まるだろう。
 それでも、鉱山の谷間の飯場に軟禁され、砂金掬いに明け暮れていた一般人や日東テレビ社員の二人などが、せっかく救出に来た秋田・青森の両警察官に対して失礼にも「オレは帰らん!」「ここがいい」などと喚いて石やザルを投げて抵抗したのだ。
 その隙に警官の油断をついて原生林に逃げ込んだ男もいるが、追跡した機動隊員に殴り倒された末に引き戻されている。
「頼む。逃がしてくれ、おれはここしか生きる場所がないんだ」
「うるさい! おとなしくバクにつけ」
 鼻水まで垂らして哀願する中年男が、自分の息子ほどの若い機動隊員に、背後から警棒でつつかれながら追い立てられて来る 石脇の厳しい尋問で、その引き戻されて不服顔の男は、数年前に失踪して行方不明だっ た日東テレビの津矢木という元社員で、この谷間の飯場に連れ込まれてから何が気に入ったのか頑強に社会復帰を否定し、自分から望んで現場監督として住み着いていたことが判明した。
「こんな山奥にいるより、早く家族の元に帰ってください」
 石脇に諭された津矢木は、警官の隙を見てまた林の奥に逃げ込んでしまった。なぜか石脇は、それを追おうとした機動隊員に「放っておけ」と声をかけ、追跡を断念させている。
 本人が逃げたために、その津矢木の失踪原因や、鉱山に入るまでの動機や経緯が明らかになっていないが、友美が、マイクロバスに収容される寸前の加納と島野に聞いたところによると、その元社員は哀れな境遇のようでもあった。今、無事に山を降りたとしてもそれを迎える家庭もなく、喜んでくれる家族や家もいないという。その妻が離婚届を出して、家も売ってしまったからだ。
 公務執行妨害で逮捕された島野泰造と加納二郎は、口裏を合わせたのか「自分たちは失踪を装い、命を賭けた体験スク-プのために自ら潜入した」などと、訳のわからぬ言い訳をして、石脇にどやされている。
 その洞窟と離れた位置にある女子寮も発見され、まだ眠っていた女性ら十五人ほどが保護され、売春行為の有無などで取り調べを受けることになる。友美はカメラのシャッタ-を切り続けた。
 後ろ手に手錠を嵌められた惨めっぽい島野と加納を慰めると、まず加納は美香のことだけを心配している。
「美香が、野蛮人に犯されてるのを思うと……」
「大丈夫よ。そんな人じゃないらしいから」
「じゃ。どんな人ですか?」
「わたしのイメ-ジじゃ、現代人より紳士って感じでした」
「その野蛮人に会ったんですか?」
「会ってはいませんが、美香さんは心配ないですよ」
「ほんとですか?」
 一方、不精で薄汚い島野は金のことで頭がいっぱいらしい。
「戸田さんも谷川まで降りてみな。ここは絵になるぞ。ナレ-ションを入れてな……この秋田・岩手の県境に近い青森県の山奥には、古代から人の目に触れたことのない金鉱があり、その麓を流れる清冽な谷川には、木漏れ日にキラキラと反射する砂金が黄金色に輝いていて、汲めども尽きぬ岩清水のごとくに、いくら採取しても、朝になるとまた黄金の川になるという……これぞ、黄金伝説で」
 そこで若い機動隊員に「やかましい!」と尻を蹴飛ばされ、加納共々連れ去られて行く。
 友美は、スナック「華」の木場にこの砂金のカラクリを聞いているだけに、金鉱については何の感動もない。
 石脇は部下に撤退の命を下した。
 早く正しい情報を把握して戦場に駆けつける算段をしないと、血気の多い達也など撃ちまくられて蜂の巣状態で息絶えている可能性もある。
 明日はどのテレビ・ラジオ、新聞・雑誌も縄文人が現代人に皆殺しにされた記事で埋まるだろう。その中で現代人の元刑事でボディガ-ドのプロが、誰にも警護されることなくひっそりと死んで行った、などとの哀れなエピソ-ドが紹介されるかも知れない……と、石脇は思った。

47、縄文広場の決闘

 静かな黎明のひととき、クロマンタ山の方角で遠く梟の鳴き声、大湯の温泉街あたりから野犬の遠吠えが尾を引いて聞こえた後は梢をゆする風の音も静まり、不気味な静寂が黎明の闇を包んでいる。
しかし、東の空はすでに朝の気配を見せていた。まだ人の気配はない。
 充分に酔いの回っていた顧問はソフア-に横たわって外部には洩れない程度のイビキをかいて熟睡している。
 室内の電気を消した達也は、カ-テンの隙間越しに窓から外を眺めていた。
 やがて、駐車場に三台の車が滑り込み、合わせて数えるとまず拳銃や猟銃を手にした十一人の男が走り出て、予定通りの配置に着くらしく環状列石のある広場の方角に散った。
 達也のカンは当たった。主戦場はやはりここなのだ。
 その後で、それぞれの運転席から降りた男二人がスト-ンサ-クル館に近寄り、玄関先のコンクリ-トの段差に腰をかけた。多分、戦闘を通告された夜明けまでにはまだ充分に余裕があるとみて一服する気にでもなったのであろう。
 彼ら暴力団構成員にとってはこの時間の仕事は苦にならない。彼らにとっては夜明けまでが夜なのだ。
 その一人がタバコを口にくわえ、隣に座った組員にもタバコを分けてからライタ-を取り出して火を付けると、炎が二人の男の顔をおぼろげに浮かび上がらせた。
 と、その瞬間、ほぼ同時に風音を鳴らして二個の石つぶてが飛来し、顔か喉か定かではないが骨にまで食い込む激しさで二人に命中したから堪らない。はじき飛ばされ悲鳴を上げてのたうち回る二人の悲鳴が縄文広場のしじまを縫って響くが、それを助けようとする者はいない。彼らもまた、闇に紛れて狙い打った攻撃者に反撃するために拳銃を構え、息を殺して探っているのだ。
 こうして、戦いは夜明けを待たずに始まった。
 達也がソフア-で瀑睡中の中里顧問を揺り動かす。折角の見物を見せなかったら後の祟りが怖いからだ。
「う-ん……もっと飲むぞ」
「起きて、水でも飲んでくれ。ほら、先生……火事だ!」
「どこだ!」
 中里顧問が身を起こした。やはり、この言葉が一番効く。
「いま、縄文人が石を投げてヤクザを倒したところです」
 達也の説明でようやく事態が飲み込めたのか、心配そうに外を覗いた顧問がクリスびいきを露にして呟く。
「明るくなれば、石の武器じゃヤツらの銃には敵わんな?」
「そうとも限らんでしょう」
 達也は、枝にぶつけて凹んだと偽った、あのヘルメットへの石つぶての威力を思い出していた。
達也は、今の二人に石を投げたのもその男だと思った。
「先生。そこに顔を抑えて呻いてる男たちが見えますかな?」
「駐車場に向かって這ってるやつか?」
「同時に、一人の男が石で倒したんですぞ」
「そんなバカな。倒れたのは二人だろ?」
「昔、オヤジが言ってたが、ジャイアント馬場が巨人のピッチャ-だった頃、右手にボ-ルを二個握り、捕手を二人座らせてど真ん中に剛速球を投げ込んでたそうだ」
「凄いな。なぜ、プロで大成しなかったんです?」
「ピッチャ-前バントでヨタヨタ、内野安打で潰れてね」
 その間にまた広場で悲鳴が上がった。戦場が縄文広場に移ったらしい。達也は、中里顧問に誰か来たら隠れるように言い、玄関に急いだ。
 いずれ、OK牧場の決闘と並び賞される石器時代と現代との縄文広場の決闘の生き証人になるのだ。達也がまだほの暗い玄関先に出ると、駐車場に向かっていた二人が荒い息を吐いて休んでいた。
 達也が体を沈めて広場に向かうと、縄文の森から風のように現れた山男が、達也に小声で囁く。
「佐賀さんですな?」
「そうだが、あんたは誰だ?」
「秋田県警公安警部補の武田一郎、通称マタギのイチ。先日は失礼しました」
「先日?」
 達也は男に見覚えはない。紫門屋敷で豪雨の中、クリスと共に棒を振るって暴れた男とも違う。それが、マタギ? ふと、男の手に小石が数個握られているのを見て思い出した……石を投げてへルメットを凸凹にした男は?
「石つぶて……あれは一人でかね?」
「そうです」
「あんな技を誰に教わった? 警察では教えないはずだが……」
「私らマタギらの技に、森に棲む縄文人の技を加えました」
「まさか。冗談だね? それより、ここで戦うのは何人だね?」
「三人……これで充分です。手短に言いますが、ここから先に出ると撃たれます。敵の猟銃は野中堂に三丁と蓄えの丘に二丁、後の連中は拳銃で狙ってきます。狩りの沢まで走って、そこで頭を下げて見ててください」
「オレにも手伝わせてくれ」
「邪魔です。足手まといですからやめて下さい」
 男に続いて達也も背を低めて走った。
「ところで、なんで公安が?」
「万が一のためにお伝えしますが、マタギだったオヤジが遠縁の栗栖一族と暮らしていて集団で中毒死したと聞いて疑問をもち、内定を進めていて山に入ったところ、同じ目的で山に入っていたクリスと知り合い、彼にすっかり惚れ込んで仲間になったんです」
「内偵の結果はどうだった?」
「たしかに大量殺人ですが、犯人は山の金鉱を狙った木場や佐々木が仕掛けて争わせた縄文人の群れです」
「分からん。縄文村を滅ぼしたのが、木場らにあおられた縄文人だというのかね?」
「その木場をここに放したのは……佐賀さん。あなたですよ」
「その木場は?」
「ここの指揮をとってます。でも、私が倒して逮捕します」
「署からは一人だけかね?」
「いえ。青森県警から通称トシ……一課の警部です。ここには来ていませんが」
「ここには?」
「本職の阿仁マタギが二人、ここで左右に散って私が突入するのを援護します。今はクリスを含めて総勢五人、これがヘブライ村の住民全員です」
「今、トシは、どこにいるのかね?」
「トシさんはクリスと別行動です。私らは彼らの主力をここにおびき出す役割で、いわばオトリです」
「二人はどこに?」
「それは言えません」
 そこで銃声が聞こえると、男は風のように消えた。
 戦いの火蓋が切られたのだ。しかし、戦いは一方的だった。
 獣のように地に伏して走るマタギ衆の投げ撃つ石つぶては、ヤクザがめくら撃ちで乱射する拳銃の弾よりも早く、猟銃の狙いより的確に相手を仕留め、暴力団の男たちがあちこちに転がってのたうち回っている。
 達也がスト-ンサ-クル館に駆け込んでから、電話で石脇の携帯に連絡を入れると、運よく電波が届いたのか石脇が出た。
「佐賀だが、そっちはどうなってる?」
「飯場を急襲したがドブネズミだけで、ハイエナはいなかった。いま、機動隊の車で縄文広場に向かってるとこだ」
「こっちにはマタギ三人がいて、武装した暴力団員二十人ほどと戦ってるが、今のところは石を投てバタバタと倒しているが、いずれ石も無くなるし撃ち殺される。一分でも早く機動隊と救急車をよこして、ここを鎮圧してくれ」
「クリスは?」
「クリスはいない。クリスはこの広場を決闘場所に指定して戦力を分散し、トシという男と本陣を狙ったんだ。多分、紫門屋敷だと思う。オレはそこへ行くから石脇だんなもそっちへ行ってくれ」
「分かった、そこの鎮圧に部下を全部まわすだ。ワスは、見返り峠の坂を下って十和田湖に着くからそこで降りる。国道一〇三の宇樽部の交差点で待ってるから拾ってくれ。あ、戸田さんも一緒に降りるそうだ」
「そんなのどうでも……」
 電話が切れている。達也は、中里に後を頼んだ。
「顧問はここに残って争いの顛末を見届けてください」
「どう見届けるんだ?」
「写真に撮ろうと目で見ようと自由ですが、証人として調書を取られるのだけは覚悟してください」
「冗談じゃない。わしを一人にするつもりかね?」
「すぐ機動隊が来ます。それと、戸締りを忘れず絶対にここには入れないこと。ヤツらがここに逃げこむと顧問の頭に拳銃を突きつけて人質にし、ここに立てこもりますから」
「冗談じゃない!」
「ええ、冗談じゃないですよ」
 達也は駐車場に走った。
 面パトは佐田が乗って行ったし、中里の車もない。車に寄り掛かって呻いてる二人の男を蹴倒して、黒塗りの古いベンツに乗りこんだはいいが、カギがない。
 眉間から血を流して呻いてる男を脅してカギを奪うと、タイヤをきしませて発進し、新郷村への道を飛ばした。

48、志穂の策

 夜明けの時刻が近づいても、曇り日だけに山の朝はまだ暗い。
 その時、加賀志穂は賀代子の部屋にいた。
 二人とも夜明けにはまだ時間があるというのに、軽装だが動きやすいズボン姿でしっかりと服装を整え、コ-ヒ-を喫んでいた。
「賀代子さん、いいわね。私が書いた鳩メ-ルを見たら、あのクリスという男は妙な正義感があるから必ず、ここに河田美香を連れて来るわよ。紫門一族の存亡の危機で、家を守るための三億円が懸かってるって書いたからね」
「でも、そのクリスが河田という女を好きになってたら?」
「だから賭けよ。その女が好きでも、親元に帰したければね」
「来るかしら?」
「来るわよ。鳩メ-ルでは、条件を飲めば……でしょ?」
「でも、条件は、女と引き換えに紫門賀代子を、ですよ」
「そんなの、無視すればいいのよ」
「でも、わたしも以前から山で住んで見たいし、そのクリスって人にも何となく惹かれるところがあるし……」
「賀代子さんは、そのクリスに死んだ昔の恋人の面影を被せているけど、案外、くわせものかも知れないし、この前の豪雨の中での乱闘でも、佐々木を殴り殺しているんですよ」
「それは、こちらからお願いしたことでしょ?」
「殺しまでは依頼してません。でも、どうしても賀代子さんが、クリスと逃げたければ工夫しますよ。まだ間にあいますから」
「でも、ドキドキして」
「まず一番に、その男が間違いなく、賀代子さんの昔の恋人のような男かどうか確かめることよ。代行のトシさんの話だとかなりの人物らしいけど……こっちだって私が影武者をしてるんだから」
「会ってみて、気が合わなかったらどうなるの?」
「生かしては返せないと思うけど」
「私は、あなたとクリスのどっちに味方したらいいのかしら?」
「お好きなように。どうせ、この身代金の三億円がダメなら、賀代子さんは借金のカタに岡島の秘書になるのよ」
「志穂さん、それをどうして知ってるの?」
「わたしが仕組んだアイディアだから」
「そんな……酷いわ」
「でも、デッチ奉公から一代で財を築いた岡島は仕事一筋のたいした男なのよ。下町の小さな印刷屋から始めて、社長こそ取引銀行から招聘していましたが広告代理店では中堅から大手に肉薄していますよ。岡島は、電通や博報堂には及ばないまでも、DAT社を十の指に入る大手広告会社にした男です……賀代子さんが仕事を覚えれば紫門興業は建て直せると見たのと、五ケ国語ができる賀代子さんが何年かDAT社にいてくれたら、五億も十億もの価値があると踏
んだから、岡島は秘書にと望んだの……わたしも賛成です」
「でも、わたしだって、何も中年太りの岡島さんなんて……」
「あら、岡島は心配ないわ。あなたが心配するようなことなんか何も起こらないのよ」
「でも、世間の評判だと」
「エロ爺いなんて評判倒れよ。一緒に出張しててね、深夜、一度だけ酔った勢いでホテルの浴衣のまま彼の部屋に行ったのね。わたしだって女だから、アルコ-ルが入って血が騒いだのよ。彼は、まだ机に向かって仕事してたけど強引に誘ったの……そしたらね、土下座してね『恥ずかしいが、申し訳ない』って詫びられたの。彼は十年も前から重度の糖尿病で高血圧、男女関係なんてこっちが望んでも無理、あ、これは彼の名誉と見栄のために内緒だった……」
「そうでしたか……」
「だからね。あなたを秘書にしたらここの根担保を外すというのは彼の善意と、緻密な商売上の計算から成り立っているのよ。
 それと身代金を懸賞金に切り換えたのは、とにかく、一度でもここに河田美香さんが姿を見せたら、その時点でこの家で確保したことにして賞金を紫門家に渡してしまうつもりなのです。ただ、その本心を隠して、いやいや手渡すのが彼のやり方なのね。
 身代金も賞金もないとなれば、もう誰も危険を侵してまで彼女を再誘拐はしませんからね。今回は、賀代子さん。あなたの名前をオトリにしてるから、クリスは必ず河田美香を連れて縄文村を降りて来ます」
「そうかしら?」
「DAT社からの債務とは関係なくても、賀代子さんが東京で働いて電通や一流企業を相手に国際感覚を磨いて来るのは素晴らしいことだと思いますよ。わたしたちは、いずれ義理の姉妹になるんですから」
「志穂さん。まさか、あんな兄と結婚なんて、本気なの?」
「あんなって? 千蔵さんは純粋で汚れがなくて、だから人に騙されて、次から次に事業に失敗し続けてきたんでしょ?」
「それは、確かに……」
「ただ、わたしは子宮筋腫の手術で子供が生めないハンデがあります。だからといって、大旦那に指示され、千蔵さんの子供を生ませるために河田さんを拉致するなんて……良心が咎めてできませんでした。男たちを拉致するのは平気でしたが、それで……」
「それで、鳩メ-ル友達のトシさんにお願いしたっていうわけね。
それを聞いたときは、わたしもホッとしました。でも、わたしは、どうしても山で生活したいので、岡島さんの件はお断りよ」
「分かりました。いずれにしても、この家は賀代子さんとわたしが建て直すしかないんです。その第一歩がこの三億円事件よ。これからは縄文村とも合併して本格的縄文村体験コ-スに、砂金堀りコ-スと並ぶ人気メニュ-にして本格的に事業化するのよ。砂金堀りなんて、アラスカでは大人気なのよ」
「志穂さん、あなた本気?」
「本気ですよ。それにはクリスの協力も必要なの……彼が開いた縄文村にも人を送り縄文体験講習を事業にします。もっとも、これはかなり手広く進んでいますけど」
「それならば、わたしが山に入って、クリスさんをお手伝いしてもいいことになりますね」
「でも、真実はともあれ、一般的にはあなたの両親のカタキは縄文村の人たちと見ています。と、したら、賀代子さんがいくらクリスを好きでも、仇同志ではこの世で添えないんでしょ……」
「わたしは、もう二年も前に恋人に死なれた身ですから、男性は不要よ。だからこそ、好きな仕事で好意をもてる人のお手伝いをしたいだけなの」
「変ね、賀代子さんはクリスのタイプを好きなんでしょ?」
「イヤじゃないけど……」
 賀代子がふと、笑っている志穂の目を見た。
「あなた。なにか企んでるのね?」
「いいえ。わたしはなにも。知りません。わたしがナイフを渡すから、迷わずクリスの右の脇腹の血が滲んでる場所を刺すのよ」
「殺人なんて……なんで?」
「変な想像しないでください。わたしは賀代子さんに殺人なんて頼んでいません。そこを刺すと血が噴き、クリスが倒れます。ケガをするだけですから……すぐ、わたしが手伝って、クリスを車に積みますから」
「志穂さんて、恐ろしいことを考えるのね。そんな筋書きをあなたはいつ考えたの?もしかして鳩メ-ルで? それで、この前もあの人が暴風雨の中を山から降りて来て熊五郎を殺した……」
「まさか……」
「でも、あの日、あの人を見かけたような気がするの」
「幻視でしょ? だいいちあの豪雨の中で何が見えるの?」
「変ねえ。それと、加納と島野の件は?」
「加納は縄文広場、島野は岩手山サ-ビスエリアの駐車場で、それぞれわたしに近づいて……でも、彼らは結果的に喜んでるのよ。もしも法廷に立ったら、わたしは消え入るような声で涙ながらに証言するから、彼らはたちまち婦女暴行未遂で再逮捕、実刑は間違いなし……あの二人にもそう言って、耳元で囁き、フッと息を吹きこんだら悶絶しそうな顔をしてたわ。これでもう大丈夫。あの人達にも一億円の値はつくと思ったのに残念でした」
 志穂は屈託のない顔で微笑み、賀代子の目を見つめて囁いた。
「ともかく紫門家のため、あなたのためクリスのために考えたことです。いいわね。右の脇腹よ」
「なんでそこじゃないとダメなの?」
「バカね。ほかの場所を刺したら本当にケガしちゃうじゃない」
「でも、下手すると死んじゃうんじゃない?」
「彼はもともと、この世の人じゃないのよ。分かる?」
「戸籍のことね? でも、なぜ、私がクリスさんと?」
「鈍いわね。あのクリスにあなたが一生賭けてもいいと思ったら、勇気を出して腹部を刺すのよ。それで縁があれば、賀代子さんが一生寄り添って栗栖を再興して縄文の歴史をつくり、千蔵さんとわたしが組んで紫門家を守り……両家が和睦して永遠の平和を築く。分かりますね。でも、私は子供を生めない身体だから、賀代子さんのお子さんに紫門家を継がせましょうね」
「でも、千蔵が……」
「大丈夫、あの人は私がいないと何もできないんだから」
「それより、彼を車に積んだ後はどうなるの?」
「まず、クリスを積んだパジェロで湖畔に向かって逃げるの」
「警察の車が追うでしょ?」
「その前に、佐賀さんが追いついて見返峠で車を入れ替え、佐賀さんが捕まります」
「わたしは?」
湖畔に出て中山半島の根っこの休屋まで行って車を乗り捨て、桟橋まで出ると白に赤い横線の入ったモ-タ-ボ-トに普通の手こぎボ-トを牽引してあるのね。
 今朝は霧が深いはずですから誰にも見とがめられません。キ-は付いています。それで出来るだけ沖に出て、手こぎボ-トに遺書と靴、上着ぐらいを入れたら、牽引をほどいてモ-タ-ボ-トで一気に東岸の小畳石まで行くの。そこに、クリスの仲間のマタギさんが車で待ってるから……そこからは知りませんよ」
「そうね。どうせ、わたしは死んだも同然ですから」
「そこから生きなおすのよ」
 賀代子は無意識に頷いていた。

49、懸賞金

 
夜はまだ明けていない。
 佐田は、紫門屋敷の門が見える位置の木陰に停めた面パトの運転席で夜明けを待っていた。門は閉じられていて人影はない。
 ここに異変がないとしたら、果たし状まで出ているという紫門一族と栗栖一族の最終決闘は縄文広場ということになる。
 ただその前に、鉱山の飯場を急襲した鹿角・十和田署の合同隊が紫門側の主力を逮捕していれば、事件は収拾に向かうだろう。
 風が強まり、紫門屋敷の塀の外に聳える欅の枝が大きく揺れている。その太い枝から塀に黒い大きな影が二つ、軽く跳ねて邸内に消えるのを佐田は見た。
 と同時に、なにか胸騒ぎを感じて身震いした。
 佐田は携帯で石脇を呼んだが電波が届かないのか繋がらない。仕方なく署へ連絡し、車内無線で石脇への連絡を依頼する。
「早朝マル四〇五、紫門屋敷に何者かが侵入、この旨、石脇主任に連絡の上、至急、応援を頼みます」
 しかし、紫門屋敷内がこれだけ静かだとすると、ここには暴力団の主力部隊はいないことになる。
 佐田は覚悟を決めた。侵入者が騒ぎを起こしたら一人ででも突入するしかない。彼にとっても邪魔は省かねばならないのだ。河田美香をめぐる三億円の身代金問題は、彼女の失踪後数日にして大きな社会問題になっている。
 河田美香はすでに殺害された、との未確認情報なども夕刊紙に載っていて話題を呼んでいた。当然ながら、日東テレビの危機管理の甘さが追求され、有名タレントの日東テレビ出演辞退が続き、世論も日東テレビの人命軽視を責めて、番組を見ないようにと国民運動が広がりつつある。
 こうなると、警備会社メガロガへの救出代金三千万にこだわって救出を待っていても仕方がない。急遽、日東テレビ側は、縄文とのつながりに近いと見られるDAT社の岡島重役に犯人との折衝を依頼せざるを得なくなり、岡島が日東テレビから預かった大金持参で紫門屋敷別棟の特別室に入ったのが昨夜だった。
 その直前、東京駅で新幹線に乗り込む折りに、岡島を追って来た一部のマスコミに対して、岡島が重大発表をしている。
 日東テレビから河田美香救出を全面的に任された岡島は、身代金の支払いで河田美香の開放を図るのではなく、持参した三億円を河田美香と引き換えに、何人たりとも相手を問わずに賞金として提供すると公言したのだ。
 これ以上、手をこまねいていると実際に河田美香が死体となって発見されるなど最悪の状態も予測される。それでは遅いからだ。
 いわば警察を無視したウルトラC作戦と言えなくもない。
 岡島がそのような大胆な方法を考えたのには理由がある。
 昨夜の秋田県警本部の発表によると、河田美香拉致事件の実行犯四人のうち一人は死亡したが、残りの三人を鹿角警察署で逮捕、その供述によって、河田美香は拉致された直後に、山奥に住む野蛮な服装の林業従事者らしい男に奪われたことが判明したという。
 警察では、身代金請求がこの実行犯三人の背後関係にあると推定しているが、その真相を知っていたと思われるこの三人の兄貴分の佐々木熊五郎が死亡しているだけに捜査は難航していた。
 岡島の発表は、その情報を知った直後に行われている。
 無理もない。これだと身代金請求者と河田美香の身柄を確保している者はまったくの別人ということになり、取引は無効になる。
 警察では、徹底した山狩りをも辞さずという姿勢で犯人に投降を呼びかけようとしたが、肝心の山の住民がどこにいるかも分からないために警察としても捜索隊を出し損ねていた。
 こうなると、河田美香を岡島の元に連れて行きさえすれば、その場で三億円の現金が手に入るということなので、それを伝え聞いたにわか賞金稼ぎが、たちまち徒党を組んで十和田の山奥に殺到するだろうことは目に見えている。
 岡島の立場としては、美香さえ救出すればDAT社の倒産は免れると思うから、手段などはどうでもよくなっていた。
 すでに、日東テレビからは代理人として身代金の三億円も預かって来ている。どのような経緯でも河田美香が無事に戻ってくれればいい。加納や島野の存在などは、岡島の頭の片隅にもない。
 その岡島は早朝、離れの奥座敷で座卓を挟み当主の紫門弥吉と二人だけで対峙していた。
 紫門弥吉としても、岡島が大型バッグ二個に詰めて持参した三億円の札束は、紫門家の衰退を防ぐためにものどから手が出るほど欲しいのだが、肝心の河田美香の行方を追うべき戦力が今回の人払いをして、用意された酒食には手も触れずに、今回の事件の幕引きに関して二人だけの密談を交わしていた。
 紫門弥吉が、漆塗りの座卓の上に書状を広げている。
「これが、栗栖洋二からの果たし状じゃ」
「栗栖洋二? 彼は一族と共に死んだはずですが?」
「たしかに、木場らが煽動して現地人をあおり皆殺しにした……ならば、この署名はどうだ。洋二が不死身とでもいうのかね?」
「まさか? 死んだ佐々木が洋二の死を確認したと聞いてます」
「しかし、ここには栗栖洋二の署名がありますぞ」
 岡島が、それを手にして声に出した。
「二年前の紫門一族による栗栖一族大量殺人の清算を含め、長年の確執を清算すべくここに栗栖一族の名誉を賭けて決闘を申し込むものなり。但し、今回の争いの決着により、両家は禍根を残さず未来永劫に争いのなきように和解することを誓約すること……」
 岡島が読み淀むと、紫門弥吉が続けた。
「なお、この際に、紫門、栗栖両家を分断すべく図った陰湿な部外者を殲滅し……そう書いてないかね?」
「どういう意味ですかな?」
「岡島さん。あんた、自分のこととは考えんのかね?」
「私は、紫門家の繁栄のために力をお貸しするだけです」
「ほう、あんたは孫の千蔵を焚き付けて、奥羽の山々に眠る金鉱の利権を独占することを考えた……」
「なにを言うのです。私はご当主の考えで……」
「いや、ワシは知らんぞ。木場らは、山に棲む現地人を焚きつけて平和に暮らす栗栖一族を襲って皆殺しにした。泣き叫ぶ女子供までも殺害して埋めた……しかも、女を集めて失神するまで犯してから殺したというではないか。ワシは、そんなのは許さん」
「そんな残虐な話は私も知らん。なにもかも木場が……」
「あんたは、本当に関係ないのかね?」
「もちろん。しかし、千蔵さんのご両親の一朗さんとカネさんは、栗栖洋二らの手で殺されたという噂ですが?」
「ワシもそう思って調べたが、盗難のダンプに正面衝突されての交通事故に間違いないと警察に言われておるし、ダンプを運転してた男と会った……あれも、誰かが仕組んだというのかね?」
「分かりました。別件に移りますが、賀代子さんの就職です。志穂を千蔵さんに取られて秘書がいません。以前からお願いしている通り、ぜひ、賀代子さんを私の秘書に出してください。もう、この家屋敷もご当主の名義から紫門千蔵に変わった。しかも根抵当はDAT社の融資額に相当する三億円、それを、賀代子さんをDAT社に入社させ秘書にすることでチャラにしよという私の提案に、どこが無理がありますかな? これは、あくまでも紫門家および紫門興業
の存続を考えてのことですぞ」
「岡島さん……あんたは間違うとる。何度言われても、何億円積まれても、このワシの目の黒いうちは可愛い孫娘の賀代子をあんたの秘書などにはさせん」
「しかし、千蔵さんは紫門家と紫門興業の存続のためには止むを得ないと考えて、この案を呑んで賀代子さんを説得したのですぞ」
「千蔵がどう言おうとダメだ。まったく不甲斐ない孫で、あんたの言いなりになって観光事業だ温泉ホテルだのスキ-場だのと失敗を重ね、幾つもの山を売り何十億もの穴を開けて、紫門家を没落させている。あいつが何と言おうと賀代子がウンと言うまい」
「いや。賀代子さんは家と祖父を守るためならと……しかし、そんな大げさな問題じゃないんです。DAT社に入って私の秘書をするだけで紫門一族を守れるのです。マンションも探したし」
「では、どうしても賀代子を奪おうと言うのかね?」
「もっとも賀代子さんとは、賀代子さんの力で河田美香を救出したら、私が昨日マスコミに発表した懸賞金の三億円を賀代子さんに支払ったことにして、DAT社の根抵当を外し、この秘書の話もなかったことにする……こんな条件で話がついてます。でも、山一つ売れば三億ぐらいはすぐできるんですがねえ」
「いかん。今までに充分に山は売った。千蔵への財産分与はもう終わりだ。あとは賀代子の嫁入りにとっておかねばならん」
「賀代子さんなら、いい縁談もあるでしょうな」
「賀代子には、誓った男がいたのじゃ」
「誰です。そんな男は?」
「二年前に死んだんじゃが、賀代子はそれ以来、元気がなくて」
「死んだ? まさか須賀太一じゃないでしょうな? だとすると、賀代子さんは、まだ死んだ男を想ってるんですか? そんなの忘れて上京し、私のところで働いていれば、いい縁談を……」
「いい加減にしなさい。自分が散々抱いて飽きた秘書を千蔵に押しつけ、今度は賀代子に目をつけおって、恥を知りなさい、恥を」
「よく言いますな。私は、河田美香を拉致させて老いた身で若い女体を貪ってから息子の種を生ませようなどと獣じみた考えでいるご当主とは違いますよ。しかも、その身代金が三億円、これはご当主……あなたの案ですな?」
「随分と人聞きの悪い。ワシを見くびりなさるなよ」
「違うんですか?」
「まてよ。今までは岡島さん。あんたが仕組んだとばかり思っていたが……まさか、千蔵が?」
「そんな知恵は千蔵さんにはない。と、すると志穂か……」
「なるほど。あんたは、そこまで読んであの女狐を千蔵にくっつけたのかね?」 
「それは違う。あの二人は勝手に相思相愛でくっついたのだ。それに、志穂はなかなかの切れ者でして紫門家にはもったいない才女だと思うが、それに、あの二人はよく似合うじゃないですか。ところでご当主……」
「なんだね?」
「ご当主の念願通りに、創世会の残党らがヘブライ村壊滅作戦を達成しました……それを機に、志穂が主導してクリスらが取り組んでいた縄文村などを継承し、砂金堀り体験合宿と並ぶ紫門興業の大きな事業の柱にしようとしたのに、ご当主は、クリスなどという余所者の跳梁をそのまま許してヘブライ村を復活させてしまった」
「ワシのせいかね?」
「そうです。あなたが紫門興業の発展を妨げてるんです」
「なにを言うか。よくも千蔵を焚きつけて、次から次に大きな投資をさせ、ことごとく失敗させたものだ。おかげで、売れない山ばかりが残ってしまってる」
「それは違う。千蔵さんが素人商法で事業の拡大を図るのを必死で止めたのに、私の言うことを聞かないからこうなったのです」
「貴様は、うちの息子の一郎・カネの夫婦を殺し、山を奪い、孫をダメにして、可愛い孫娘までメカケにしようというのか?」
「なにを血迷ったことを……」
「一朗は千蔵と違って、あんたを信用していなかった……だから、悪い連中を札束で釣ってダンブを使って……この恨みは!」
 立ち上がった弥吉が床の間の刀架から日本刀を外すと、岡島が背広の裏側のホルダ-から護身用の小型拳銃を抜いて構えた。
「なるほど私に罪を被せて口封じかね。そうはさせんぞ」
 その時、外で乾いた銃声が響き悲鳴や叫び声、あわただしい雰囲気が伝わって来た。なにか突発的な事件が発生したらしい。騒ぎはすぐに収まったが、何やら不穏なざわめきが伝わってくる。
「邪魔が入ったようだ。この決着は後にする……」
「いいでしょう。この恨みは必ず晴らしますぞ」
 弥吉が刀を刀架に戻し、岡島がさり気なく拳銃を隠した。
 さらに、声をひそめて弥吉が脅す。
「岡島さん、あんたは一朗夫婦だけでなく、いずれ千蔵もか?」
「まだ私を疑いなさるのか?」
「違うのかね?」
「そこまで私を陥れるつもりなら……」
「だったら、どうする?」
「防衛策として、こちらも手を打ちます。あんたを軟禁して」
 岡島が昂然と顔を上げて、言葉通りに手を叩いた。
「田川君、出て来てくれ……」
 外で待機していたのか庭の裏木戸が開いて、濡れ縁の外に岡島のボディガ-ドとして付いてきた精悍な顔の警護員が重そうなバッグを手に現れた。しかし、その背後に見慣れない原始人がいる。
 岡島がメガネをずり上げて目を見開いた。
「田川君、なんだ、その後ろにいる野蛮人は!」
「こちらは、山の衆のトシさんです。いま、クリスという男が河田美香を連れて屋敷内に入りました」
「分かった。そのうす汚い山男がトシか?」
 山男がムッとした口調で自己紹介をする。
「青森県警の前田俊直警部……通称マタギのトシだ。岡島さんも弥吉さんもいい歳をして、シャバッ気が多すぎますな。取りあえず銃砲刀剣不法所持で逮捕します」
「これは、届け出済みの由緒ある刀剣じゃぞ」
「では、脅迫、殺人未遂です。ほかの容疑はその時に……」
「あんたらは縄文広場に行ったのじゃないのか?」
「あっちは三人で十分だ。今頃は木場ら全員を逮捕してるぞ」
「野蛮人のくせに生意気な」
 岡島の護衛のはずの田川がブスッと言った。
「証拠は山ほどある。木場らの逮捕状は鹿角署から出てる」
「なんだ田川君、きみまでワシを裏切るのか!」   
「田川は仮名で、警視庁刑事部二課の田辺伸吾。最近、都内に出回った偽造金塊について捜査中です。しかし、物事には順序がありますからな……まず、この懸賞金からケリを付けましょう」
 庭先のトシこと前田警部が立ったまま告げる。
「岡島さん。まず三億円を紫門賀代子さんにお渡しください」
「しかし、美香さん救出の懸賞金は、彼女を連れて来たクリスとかいう男では?」
「最終救助者は賀代子さんです。警察ではそれを確認しました」
「でも賀代子さんはこの家にいて……」
 前田警部がきっぱりと告げた。
「美香さんをここまで連れて来たのは確かにクリスだが、それを奪還したのは紫門賀代子に間違いない。証人もいます」
「その紫門賀代子は?」
「いま頃は庭先でクリスに会っているでしょう。河田美香はすでに保護しました」
 前田警部に続いて田辺刑事が諭した。
「懸賞金の権利はクリスから紫門賀代子さんに移りました。岡島さんの手元の大型バッグの一億五千万、それと、私が預かっているこの一億五千万……いまここで紫門賀代子さんにお渡しください」
 田辺刑事が重そうなバッグを室内に運び込む。
「一億五千万だと十六キロ近いですからな。この札束はとりあえず岡島さんにお返しします。この二つのバッグで三億円……さ、これで懸賞金は紫門賀代子さんの手に渡ります。それがクリスの意思であり、こにいる全員が証人として認めます」
「しかし……」
「しかしも何もないでしょう。岡島さん、あなたは東京駅でマスコミを相手にして、目的は河田さんの人命救助が第一だから、目の前に河田美香を連れて来た人が誰であれ、その人に懸賞金を手渡すと明言したではないですか……」
「分かった。では、クリスと賀代子さんに会わせてくれ」
 トシこと前田警部が言った。
「クリスと賀代子さんは、栗栖一族殺害の件と今後についての和解案について話し合い中です。これが決裂すると事態はまたこじれますからな。懸賞金は代理人の紫門弥吉さんにお渡しください」
 前田警部が田辺刑事を見た。
「表を見てくるから、この二人を見張っていてくれ」
 クリスが現れてからの、新たな事件が気になるのだ。
 確かに新たな事件が発生していた。
 事件は、クリスが河田美香を伴って堂々と紫門家の正門から入って来た時点から新たな展開になって広がっていた。
 警備を任されていた元暴力団員六人の一人が素早く美香を奪い、他の男らが隠し持った拳銃を突きつけようとしたところ、クリスが瞬間の早業で男の手を杖で打ち、暴発した拳銃は男の手から離れて地に落ちてクリスに拾われた。
 乱闘になると、ケンカ慣れしたヤクザ者らはさすがに動きに無駄がない。相手がクリス一人とみると、彼らはハイエナの集団が狩りをするときの要領で刃物を振りかざして交互に攻めては退き、クリスを傷めて動きを止めてから拳銃で仕留める作戦に出た。
 ところが彼らの目論見は狂った。
 まず、どこから現れたのか佐田刑事が叫んだ。
「銃刀砲火薬所持違反および暴力行為で、全員を逮捕する!」
 もちろん、そんなセリフに耳を貸すような者はいない。だが、彼らの誤算はさらに続いた。
 クリスが右手で杖を振るいながら、左手で拾った拳銃の引き金を引いたのだ。それがまた、狙い済ましたのか偶然なのか五人のうち三人の男の太股を順繰りに撃ち抜いたのだ。まさか、原始人が三十八口径のコルトを使うとは思ってもみなかったのが彼らの油断だったが、悲鳴と血が飛び散り三人が倒れたのは事実だった。

50、再会

 達也は、慣れない左ハンドル車を飛ばして十和田湖畔に出て、宇樽部の交差点で友美と石脇を拾うと、あの豪雨の乱闘を思い出しながら、快晴の朝であることに感謝し、後は全てが平和に終わることを心の中で祈っていた。
「あの男は絶対に現れる」、これが達也の出した結論だった。
 ただ、現れてからどう出るのか、クリスや栗栖一族の流れを組むマタギ衆が本家筋がみな殺しにされて黙って引き下がるとも思えない。その幕引きをどこにするのか……。
 しかし、達也の仕事は、まず美香を救出することだ。紫門と栗栖の長年の怨念を断ち切らせることは、その次の段階になるが、それには、どのような和睦の条件をクリス望むかで異なってくる。
 発荷峠の手前の上り坂で、縄文広場に向かう鹿角署の機動隊用マイクロバスとすれ違った。石脇から事情を聞いていたのか、運転席の警官が挙手をしたのが見えたのであわてて答礼の敬礼をしたが、その時は窓の鉄格子の中から逮捕された金鉱従事者がけげんな顔で眺め、それも一瞬、車は遠のいた。
 峠の展望台を越えると下り坂になり、曲がりくねった道をへだてて眼下はるかに碧く澄んだ十和田湖の神秘的な姿が浮かぶ。
 紫明亭の趣のある建物を左の崖上に見て、対向車もない国道一〇三を一気に下ると、和井内のヒメマス養魚場の看板が目に入る。
 湖畔に出ると景色はさらに秋を告げていた。この季節になると、十和田の朝は風が冷たく、ススキの群落の白い波穂が揺れ、湖畔の道を覆う樹木の枝葉も秋の色に色付いていた。
 湖畔から別れて五戸から太平洋側に抜ける山道へのT字路の信号下で、友美と石脇が寒そうに立っていた。
「ちょっと会わない間に景気よくなったすな。ベンツかね?」
 とぼけたオヤジだ。まだ別れてから四時間しかたっていない。
「まあね……」
 それからの快適なドライブも長くは続かない。あの豪雨の中で賀代子のパジェロに遭遇した山道を進み、勝手知ったる紫門屋敷に近づいて行く。屋敷からは見えない位置に車を停めて様子を伺うと、門の周辺が慌ただしい。すでに事件は起こっていたのだ。
 達也ら三人が車を乗り捨てて門内に駆け入った。石脇が叫ぶ。
「佐田、どうした!」
蒼白な顔の佐田が早口で叫ぶ。
「見ての通りです」
 見ると、賀代子が河田美香の肩を抱えて立っていて、その二人を守るように杖を持ったクリスが仁王立ちで構えている。
 その足元で暴力団風の男三人が倒されてもがき苦しみ、その至近距離で凶悪そうな男二人が拳銃を構えていた。しかし、弾が外れて賀代子らに当たるのを恐れてか引き金を引けずにいた。
 その男二人がクリスに迫ってゆくのを見た達也が、背後から飛び蹴りとラリアットで前のめりに倒すと、同時にクリスの杖が二人の頭上に続けて打ち下ろされた。
 これで、五人の元暴力団員は苦痛に呻いていた。石脇と佐田が地上に呻いている男たちに走り寄り、片っ端から手錠と縄をかけた。
 達也がクリスの手から拳銃を奪う。
「暴発じゃ仕方ない。正当防衛だしな……」
 太股だけ狙い撃って暴発はないが、ともあれ戦闘は終わった。
「美香……生きててよかった」
 駆け寄った友美に、美香が抱きついて声を上げて泣いた。
 その光景を賀代子が見つめていると、その背後に近づいた志穂が刃物を手渡しながら耳元で囁く。
「今まで黙っていたけど、あの人が須賀太一さんなのよ……」
「まさか、目の色が違うのよ」
「目はコンタクトで誤魔化せるでしょ。近寄ってみて、名前を呼んでみて。いいわね。本物だったら右の脇腹よ。ほら、赤く血が滲んでるのが見えるでしょ……車はすぐまわすからね」
 友美がその声に気づいて顔を上げると、美香も振り向き、賀代子にはっきりとした口調で告げた。
「賀代子さん。あの人は、あなただけを愛し続けていました……悔しいけどお返しします」
 その美香の言葉を聞いた志穂はすぐ駐車場にあるパジェロに向かって急ぎ、賀代子は頭の中が真っ白になったのか夢遊病者のような表情でまっすぐにクリスに近づいてゆく。
 欅の木を背景にしたクリスは、賀代子を見つめてただ立ち尽くしていた。賀代子の目は虚ろだった。なにか不思議なものを見るように一歩二歩と歩み寄り、「太一さん」と抱きつき、身体を捻って隠し持ったナイフでクリスの右の脇腹に突き刺した。
 長い間、恋い焦がれ待ちつづけていた二人だけに万感の思いがあったであろう。満たされることのなかった愛がいままさに花ひらこうとした瞬間に、血が噴き出たのだ。
 友美は、信じられない光景を見た。
 汚れたとはいえ白衣を身にまとった長身の青い目のクリスと、これもやや青みがかった瞳をもつ彫りの深い顔だちの賀代子が、しっかりと抱きついて言葉にならない愛情を交わす、誰の目にも羨ましくも美しく映る絵のようなシ-ン……こう思って見守っていた友美の思いは裏切られた。
驚いたのは友美だけではない。それを見た佐田が大声で叫びながら近寄ろうとしたところに……正門からパジェロが疾走してきて急ブレ-キをかけて停まり、運転席から走り降りた加賀志穂が、「医者に!」と叫んで、賀代子を急かせて血塗られてよろめくクリスを後部座席に押し込んだ。
「大丈夫か?」
 手伝おうとする佐田を押し退けた賀代子が素早く運転席にまわって、アクセルを踏んだ。車はタイヤをきしませて門を抜け、猛スピ-ドて走り去り、志穂も追うのをあきらめた様子だった。

51、心中事件

 クリスを乗せた賀代子のパジェロが、門外に去るのを呆然と見送っていた石脇が、追っていた佐田に向かって叫んだ。
「おい、あの車を追え!」
 あわてた佐田が門外の空き地に停めてある面パトに向かって走り出すと、横から走った志穂が誤ってよろめいた振りをして佐田の足を蹴飛ばし、二人して転倒した。志穂が佐田にしがみついたから二人ともすぐには起き上がれない。
「放せ。放さないと蹴飛ばすぞ」
 その横を達也が走り抜け、石脇が血相変えて走り寄る。
「早く車を出せ!」
 達也に置いていかれた石脇が、志穂の両肩を背後から抱いて佐田から引き離すと、佐田も思わず腰を崩して倒れたが、すぐ立ち上がって門の外に走り、石脇も続いた。
 だが、すでに遅かった。達也が、借用中のベンツで後を追い、その車影もすでに遠のいている。石脇が戻って叫んだ。
「田辺刑事、青森の本部に連絡を。幹線道路の封鎖でグレ-のパジェロだ。直ちに幹線道路に網を張って検問を実施!」
「承知、秋田県警にも手配を頼む。パジェロのナンバ-は?」
「知らん。とにかくグレ-のパジェロだ。佐田、すぐ連絡を!」
 佐田、田辺の両刑事が無線連絡のためにパトカ-に走った。
 友美にもこの事態は飲み込めない。肝心のクリスが傷つき、賀代子が消えたのだから、何が何だか分からない。
 美香が友美に囁いた。
「クリスさんは、賀代子さんの窮地を救うつもりでした」
「どうして?」
「懸賞金があれば紫門家の破産と、賀代子さんの望まぬ就職が防げるのです」
「なぜ、そんなことまで知ってるの?」
「鳩メ-ルです」
 傍らにいた山男姿の前田警部が美香を見て応じた。
「なんだ、知ってたのか。確かにその通りだが……」
 石脇もそれを聞いて少しは不審が解けたらしい。
 これで、友美の腹がきまった。
「美香。行こう!」
 前田警部が石脇に言った。
「わたしは庭先から行く。あんたはお二人さんと座敷側にまわってくれ。こじれたら石脇警部、あんたの出番だ」
 そう言い残した前田警部は、さっさと裏木戸から庭にまわる。
 いきなり、縁側から顔を出した前田警部の顔を見た瞬間、先刻からの騒ぎが気になっていた紫門弥吉と岡島が同時に叫んだ。
「何があった!?」「どうしたんだ?」
「大したことないです。騒ぎは収まりました。それより……」
「なんだね?」
「最終的に河田美香を救ったのは紫門賀代子さんでした。いま代理の方を呼びます……どうぞ」
 座敷の襖が開かれ友美がまず和室に入った。岡島が目を剥く。
「戸田さんが何で? 一体全体どうなってるんだね?」
「美香さんは無事に戻りました。美香さん、どうぞ……」
 友美の背後から前に出た美香が、誰にともなく頭を下げ、友美と並んで腰を下ろして座った。岡島が不審の目で友美を見た。
「賀代子さんは?」
「いま、手違いがあって来られませんので私が代行です」
「戸田さんが代行?」
「そうです。賀代子さんから頼まれました」
「しかし……」
 友美が改めて弥吉に向かった。
「賀代子さんの祖父でいらっしゃる紫門弥吉さんですか?」
「そうじゃが?」
「私は雑誌社記者の戸田友美と申します」
「それがどうした?」
「わたしは、当家にも賀代子さんにも何の関わり合いもありませんが、こちらの河田美香とのご縁で、このようになりました。こちらの河田美香本人が最終的に紫門賀代子さんに救出されたと証言していますので、わたしが賀代子さんに代わって受け取ります」
「あんたがかね?」
「と、言っても、この大金を持ち逃げする気はありません。これは賀代子さんのお祖父さんである弥吉さんにお預けします」
 岡島が不服そうに言う。
「なにか、変ですな?」
「では、もう一人、証人を呼びますね。石脇さん、どうぞ」
 開いた襖の陰から石脇が現れて立ったまま証言した。
「私が証人になる。たしかに紫門賀代子が河田美香を救出した」
 庭先の前田警部も口をはさむ。
「その通りに間違いないです」
 岡島が手元にある大型バッグ二個を、渋々と弥吉の前に押し出すと、石脇警部が念を押す。
「いいですか。この懸賞金は紫門家にではありませんぞ。あくまでも紫門賀代子にです。代行の戸田さん、念書を頼みます」
 それから暫くの間、多少のいざこざはあったが弥吉が用意した和紙に、紫門賀代子代行戸田友美による三億円受け取りの念書がなかなかの達筆で墨痕鮮やかに書き留められている。
 友美が弥吉に告げた。
「改めてこの三億円は、賀代子さんに代わって紫門弥吉さんにお預けします。ぜひ、賀代子さんが考えた用途に役立ててください」
 岡島も弥吉を見て納得したように頷いた。
「これをDATへ返済金に。これで賀代子の就職もないですぞ」
 これで、三億円の懸賞金問題だけは一応の解決をみた。

52、検問突破

 それからが大変だった。
 欅(けやき)の大木の根元に流れていた大量の血が、もしかしたら「鶏の血かも知れない」などと言う者もいて、駆けつけた鑑識課職員が検査したところ、石脇警部が縄文村のクリスの住居で採取した髪などの体毛、布に付着した体液などとの比較で、血液型、DNA鑑定ともにクリス本人の血に間違いないことが判明し、その出血量から察しても命を失っている可能性が高いと案じられた。
 また、落ちていたクリスの杖から得た指紋が、石脇が縄文村の高床式住居から、さらには、かつて大湯ホテル本館の長男が失踪した折りに室内や蒐集した土器などから採取した指紋と同一であると断定され、クリスなる者が、すでに未発見死体死亡者として葬儀まで行われている須賀太一であることがはっきりした。
 瀕死の重傷者を含む五人の元暴力団員らは、駆けつけた青森県警機動隊の車両で十和田署に運ばれ、岡島と紫門弥吉、玄関先で擦り傷の手当てをしている加賀志穂らは、そのまま紫門屋敷内で任意での事情聴取を受けることになった。
 石脇はクリスが拳銃を用いたことや、達也が過剰に暴力を振るったことには触れず、当然ながら正当防衛を主張している。
 河田美香や加納・島野の拉致や不法監禁、縄文村の大量殺人事件への示唆や偽造金の流通などに、岡島、弥吉、志穂ら三人がどう絡んでいたのか……それによってはこのうちの誰かが逮捕され起訴されることも考えられるのだ。
 賀代子がなぜクリスを殺さねばならなかったかは諸説がある。
 しかし、加賀志穂の証言から、賀代子は何世紀にも渡る紫門と栗栖一族の争いの幕引きを、自分とクリスの死によって清算しようとしたのではないか、との説がもっとも説得力があった。
 いずれにしても、逃亡した賀代子本人の確保こそがその真相に迫る最善の方策であるだけに、警察でもその行方が気になる。
「佐賀さんが追いついたかどうか……」
 石脇らの心配をよそに、元暴力団から強制借用のベンツで後を追った達也からは何の連絡もない。
 田辺刑事が庭先から顔を出して、当主の弥吉に、玄関脇の応接間に十和田警察署の仮本部に借りたい……と、頼んでいるところに、庭先から駆け込んだ佐田が石脇に向かって叫んだ。
「主任。手配のパジェロが網に掛かりました!」
「どこでだ?」
「宇樽部T字路手前に設置した十和田署の検問です」
「クリスは死んでたか?」
「それはまだ分かりません」
「追跡していた佐賀さんは?」
「手配したのは、パジェロの確保だけですから」
「よし。すぐ車を出してくれ! 戸田さん、後を頼みます」
 庭先の田辺刑事にも「任せますぞ」と声をかけた石脇が前田警部を誘い、庭先から消えた佐田を追って部屋を出た。
 だが、後に残された友美が面白くない。
「田辺さんですか? 美香の警護をお願いします」
 思い切りよく友美も腰を上げ、石脇らの後を追った。
 ともあれ、佐田の運転する面パトで石脇、前田、友美らはパジェロが確保されたという宇樽部に向かって急いだのだ。
 ものものしい厳戒態勢の警察車両に混じって、確かに手配されたグレ-のパジェロがあり、その先の警官の輪の中から、緊迫した空気を割いて聞き慣れた男の怒声が聞こえる。
「あら?」
「また、佐賀さんだ。何をしでかしたんだ?」
 本部との連絡に佐田を残して、面パトを降りて急ぐ石脇と前田の後を、愛用の小型カメラをバッグから取り出した友美が、クリスの死体と逮捕された賀代子を被写体にする辛さに耐える心の準備をしながら警官の輪を分けると、達也が周囲を睨んでいる。
「何度言わせるんだ! 女に刃物を突きつけられて死体を積み替えさせられたんだ。オレを殴ったヤツ、前へ出ろ!」
「うるさい。オレは前歯を折られ、あいつは腕を折られてる」
「こっちは正当防衛だ。公務執行妨害で訴えるぞ!」
「それはこっちのセリフです。あんたは民間人だろ?」
 石脇が舌打ちする。
「また、下手な芝居をしおって……」
 石脇と前田が警官の輪を掻き分けて前に出た。
「鹿角の石脇さん……あれ、前田警部、なんだその恰好は?」
 山男姿の同僚を見た機動隊の隊長が驚く。
「説明は後だ。その人は、元警視庁刑事の佐賀達也さんで……」
「オレも顔なじみだ。だからって怪しくないのか?」
「いや。怪しいけど悪人じゃない」
「しかし、手配のパジェロに乗ってたんだ」
 石脇が口をはさむ。
「ベンツは見なかったか? 女が運転してたはずだ」
「さあ? おい、誰かベンツを見たか?」
 機動隊員が挙手をして答えた。
「見ました」
「いつだ?」
「パジェロを停止させて、抵抗するその人を引きずり出していた時に、ベンツが通り抜けて行きました」
「どんなヤツが乗ってた?」
 他の隊員が応じた。
「なかなかのベッピンでした」
「バカめ、なぜ停めなかった!」
「指示されておりません」
「すぐ手配だ。もうかなり遠くに逃げてるだろうが」
 友美が行き掛かり上、達也の怒り顔を撮ってからカメラを収め、時計を見た。賀代子はクリスの死体と共にどこに行くのか?

53、霧の十和田湖

 この朝、初秋の気配の漂う十和田湖は霧に包まれ、岸辺からの視界をさえぎっていた。
「賀代子さんが死ぬ気なら十和田湖に……」
 これが友美の直感だった。渋る石脇と達也を誘い、佐田の運転する面パトで湖畔には来たが、達也だけは散々に厭味を言われ、すっかり不機嫌で無口になって視線を外に投げている。
 湖水に突き出る御倉半島周辺、千本松の瞰湖台などから湖水を眺めたが霧が深くて何も見えない。さらに国道一〇三号を南下して中山休平園地の信号を右に曲がると、木立の中にホテルや土産物店が林立し湖畔一番の賑わいを見せる休屋地区に入る。
 不機嫌そうな達也が突然、鋭く叫んだ。
「おい。止めてくれ!」
 その視線の先の土産物店の駐車場に見慣れたベンツがある。すぐ脇に面パトを停めて捜査を開始したが、まだ朝が早いのかどの店のシャッタ-も閉ざされていて人影もない。
 すぐ近くに駐車して、乗り捨てられた車を調べると、死体を引きずった跡があり、それを追うと、かすかな血痕の跡が休平茶屋先の桟橋に続いている。
「そうか、ボ-トでか……」
 石脇が額にしわを寄せ、霧深い湖面を睨んだ。
 湖畔を散策する観光客の姿もチラホラと見えてはいたが、すでに時間が経過し過ぎているのと、湖上の霧が視界を奪っていることもあって目撃者はいない。誰に聞いても首を横に振るだけだった。
 石脇からベンツ発見の情報を得た青森県警本部は、クリス殺害容疑の紫門賀代子探索の輪を周囲四十四キロにも及ぶ十和田湖の周辺に絞って地元署の警官らを手分けして湖畔に配置したが、霧が晴れないうちは捜索もできない。
 遊覧船乗り場の桟橋から西湖と中湖に挟まれた中山半島の方角を望むと、湖面を覆う白い霧の彼方に雲海に浮かぶ古城のような幻想的な影がかすかに霞んで見えるだけで、たとえ湖上のどこかにボ-トが漂っていたとしても探すのはまったく不可能だった。
 だが、霧が晴れはじめた午前九時前後、乙女の像をバッグに記念撮影をしていた男女によって、御前ケ浜の沖合い百メ-トルほどの位置でゆらゆらと漂っていた一叟のボ-トが発見されたのだ。
「あれ、なんでしょうね?」
「ボ-トらしいが、人影がないな?」
 十和田神社前をパトロ-ル中に、その声に気づいた警官二人が、砂を蹴って駆けつけ、沖合に漂う無人のボ-トを確認した。
 離れた位置でその動きに気づいた友美も沖合を凝視してみると、確かに霧の晴れ間にボ-トらしい物体が波間に揺れて見え隠れしている。
「あのボ-トね?」
「行ってみるか?」
 石脇が桟橋に係留されていたモ-タ-ボ-トに乗り込み、キ-の差し込み口を点検し何やら作業をしていたが、エンジンが音をたてると、あわてて手を振って達也と前田警部に友美を招き乗せ、無断借用のボ-トのスクリュ-をフル回転させた。ボ-トは桟橋を離れて波を割き、たちまち湖面に漂う無人のボ-トに接舷した。
 身軽な前田警部一人がボ-トに乗り移り、賀代子の走り書きの遺書を発見して文面を読み上げた。それによると、「死んでお詫びをします。二人の死をもって栗栖・紫門両家の抗争を閉じ、永遠の和をもたらすように願います」とある。
「あとで筆跡鑑定にまわすか?」
 石脇が「血痕の照合もな……」と頷く。
 ほどなく、十和田署刑事部捜査一課の刑事や鑑識班を乗せた大型ボ-トが到着したが、風が出て波が揺れボ-トがかなり流されるのに気づき、休平茶屋先の桟橋へ牽引してから本格的な現場検証を実施することになった。
 ボ-トには遺書以外にも賀代子のシュ-ズなどの遺品、クリスの重い死体を引きずり上げ、さらには引きずり落とした痕跡……それは、船縁に乾燥してこびりついた血痕などにも残されていた。
 この朝の風は、すでに秋なのか西北から流れている。と、すればボ-トは湖の中央から流されて来たことになる。
 最深部は三二七メ-トル。いくら百メ-トルを越す透明度の高い十和田湖でも死体は見えず、水温が低いために死体の腐敗が進まずにガスの発生もない。これでは、深い湖底に沈んだ死体は浮いてこないから捜しようもない。
 それからは、十和田湖の湖上や湖畔周辺の至る所で警察の捜査や聞き込みが始まり、早朝からの大事件を聞きつけた各テレビ局や新聞社を始めとするマスコミ各社が、挙って集結したこともあって野次馬と化した観光客を含めての時ならぬ喧騒が東北有数の風光明媚で知られる観光名所の十和田湖界隈を包んだのだ。
  この日、湖畔のホテルや土産店は人で溢れ、電話やFAXはマスコミ各社の臨時契約で埋まった。
 事件の渦中にいた友美は、取材する身が取材され、自分が得た貴重な情報を少しだけづつ吐き出す羽目になっていた。
 それにしても悲しい出来事だった。
 愛し愛されながらこの世で結ばれることのなかった二人は、永遠の安らぎをこの神秘な湖の底に求めたのか。ともあれ、霧の彼方にと去った二人の死によって事件は終わった。
 つい数日前に発生した縄文フェスティバル会場からの河田美香拉致事件に端を発した奇妙な事件は、紫門・栗栖家の永久和解という命題を遺書に残すという意外な展開で幕を閉じたのだ。
 昔、相思相愛で激しい情熱で結ばれた賀代子と太一がまだ高校生だった頃、交際を厳しく禁じられていながらも、親に隠れてバイクで落ち合ってデ-トしたであろう十和田湖畔……そのときに将来を誓った二人が、家に縛られ過去の因縁から敵味方に別れて争い、旧い体質を清算すべく死を選んでこの神秘な湖の底に眠る……。
 しかし、これを記事にする友美としては何か気に入らない。たしかにマスコミが飛びつきそうな話題ばかりだが、あまりにも安っぽいスト-リ-に仕上がり過ぎている。
(ロミオとジュリエットじゃあるまいし……)、これが友美の正直な気持ちだった。しかも、これを両家の和睦に最善の方策として賀代子が考えたとしたならば、そこには大きな矛盾がある。
 なぜなら、紫門家はそれでいいにしても縄文村の栗栖家の血脈だけがクリスこと須賀太一の死によって断たれたからだ。
(これは、栗栖家を抹殺するための誰かの謀略では?)、事件は解決しても、この疑問が友美の頭から離れない。
 警察では、山の斜面から発掘された白骨死体を山岳族の栗栖一族のものと発表したが、巷間の噂にある動物のウイルスによる変死事件なのか、殺人事件なのかには触れていない。
 警察では殺人事件としての聞き込み捜査もしたが、その真相を知るという元暴力団幹部・佐々木熊五郎が、公務執行妨害で反抗した折りに心臓発作で急死していた。その上に、熊五郎が集めた実行犯のほとんどがアジア系の犯罪組織の構成員で、すでに海外に逃亡してこの地にはいないと、誰もが口裏を合わせたように言う。
 それを示唆した木場という容疑者にも明確な証拠がないこと、さらに木場にそれを依頼したとされる複数の容疑者にも犯行動機はあれども明確な証拠がなく、結局は、両親を栗栖一族に殺されたと信じて生きてきた紫門佳代子が、栗栖一族を代表するクリスこと須賀太一を殺害し、その死体を抱えて湖に身を投げるという悲劇的な結末になっている。
 ただ、これによって十和田の奥地にはまだ金鉱のある山や、砂金を得られる谷があること、それを求めて暴力団や現代の山師が隠れ住んでいたこと、その飯場生活の実態など話題には事欠かない。
 さらに、山奥でのヘブライ村で縄文生活を体験したという匿名の投書が新聞に載り、モザイクで顔を隠した複数の女性によって縄文村には本物の縄文人が数人いたことなども明らかにされたことで、ますます謎が謎を呼んで話題を広げている。テレビでも連日にわたって特集が組まれた。
 事件は、河田美香の失踪から始まり、クリスと賀代子の死によって終わった、この猟奇的な事件に世間の話題は沸騰した。
 ただ、テレビに匿名で出演した女性に呼応するかのように、それまで沈黙を守っていた拉致被害にあった当事者の河田美香が、ヘブライの縄文村について重い口を開いたのである。テレビに出演した女性や美香によると、それまでは歴史上の通説とされていた縄文人のフリ-セックス説と違って、ヘブライ村の戒律はモ-ゼの十戒によって厳しく守られ、男女とも地上の楽園どころか修道院以上の厳しい禁欲生活を強いられていたという。
 それがまた、事実かどうかという論議を生んで、ますます縄文村への関心は高まってゆくのである。
 しかし、マスコミ各社や新聞・雑誌などの扱いが加熱すればするほど友美の原稿は進まなくなっていた、事件の概要を一番よく知っているはずの友美なのに何故か気が重い。
 デスクからは「取材費を返せ!」と怒鳴られ、助手の長野智子からは「なんでもいいから書いてくれないと、わたしの給料まで引くって言うのよ」と、泣きつかれたが気が乗らないのだ。
 ただ、日東テレビだけは、懸賞金に化けた三億円に加えて、別途に警備会社メガロガにも河田美香救出資金の三千万を拠出していたから、その分だけでも取り戻そうと、現地取材や当事者の証言を交えて何度も特番を組み、予想外の高視聴率を取っていた。
 ただ、視聴者からの反応はさまざまで、単純に「面白い」という多数組に反発するように、「巧妙なヤラセ番組だ」とする意見もあるのが意識調査で分かったが、視聴率という錦の御旗を追い風に、次々に特番の企画を出すDAT社の岡島やプロデュ-サ-の島野の手腕が買われて、一時は消えていたテレビ岩手と滝沢村の縄文祭りの番組企画も息を引き返し、実行委員会も発足したらしい。
 これも、友美は気に入らなかった。