第一章 東伊豆観光バスツアー

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1、今日から二日まるまるデート

     マンションにて

窓から眺めると町はまだ眠っている。
 開いた小窓から九月のそよ風が忍び入って来て寝起きの肌に快い。
 京浜川崎駅に近いバスガイドの守口かおりの住むマンションは十五階建て最上階の2LDK。結婚した兄の持ち家だが、海外同伴赴任ということになり、かおりが無償(ただ)で借りている。
「管理費貰える?」
 これで、長期ローン支払い中の兄にひどく叱られた。
 表玄関から、セキュリティ完備のキーカードで管理するマンションだから警備も万全、一人暮らしには贅沢すぎる。
 好きな人と一緒に暮らしたいくらいだが、両親の目がうるさいから不可能だ。
 それに、その好きな人は、自分のことをどう思っているかも分からない。それどころか好意を抱いてくれているか否かもはっきりしないのも癪の種だ。
 浜田芳雄、誕生日を聞いたが返事がない。会社で調べればわかるのだが、その勇気もない。
 分かっているのは元警視庁刑事、子ずれのバツイチ、それだけだ。
 ただ、月に数回、コンビを組んでツアーが出来るだけの仲で、残念ながらそれ以上でもそれ以下でもない。
 まだ、身支度を整える前のパジャマ姿でコーヒーカップを手に、出窓に出したエゾリンドウの少し赤みの入ったバイオレットの花を眺めていると、一年ほど前の初秋に見た那須高原の群落を思い出す。あの時も浜田と一緒に旅をした。そのころから仄かな憧れにも似た好意を抱き始めたような気がする。
 それからの一年、この出窓を飾る花のそれぞれが旅の想い出を秘めたものとなる。
 コスモス、マツムシソウ、萩、サザンカ、水仙、スミレ、福寿草、しゃくなげ、ガーベラ、ラベンダー、つるバラ、トルコキキョウなどの鉢植えは、旅先のドライブインや庭園の即売などで入手したものもある。それも、浜田と一緒の旅に限っていた。
 カトレアとマーガレットは、とくに好きだが、誰もが好きになる花だけに長くは飾らない。
 母の知人で花屋を開いている女性がいて、かおりの花の管理と引き取りを一手に引き受けてくれている。カトレアなどはかおりの手元を離れてから見違えるように美しい花を咲かせているという。
 かおりの愛が花開くのはいつだろうか、職業柄ファンレター、ラブレター、交際の申し込み、縁談などは決して少なくない。客観的にみて良縁と思われるものも多い。
 見合い写真なども、かおりが一瞥もせずけんもほろろに断るものだから母も友人もあきれ果て、半分はすでに諦めている。
 鉢を部屋に入れ、受皿が滲むまで水を差す。窓を閉めカーテンを閉ざす。
 トースト、ハムエッグ、あり合わせの野菜にマヨネーズをかけ洋風の朝食を済ます。
 パジャマを脱ぎ捨て、熱めのお湯でシャワーを浴びてスッキリと眠気を覚まし気合を入れる。
 ルッキンググラスにはだかの自分を映す。
 ふと、その背後に長身の浜田がいて抱き締めてくれるような錯覚に落ち入る。
 そのまま、たくましい腕に抱かれてベッドに・・・。
 ハッと時計を見る。六時十三分。妄想もそこまでで、頭のスイッチもようやく仕事の態勢に入った。
 さあ、時間に余裕がない。十七分で外出だ。
 めまぐるしい数分間となる。
 ベージュ系シャツにジーンズというスポーティでシンプルな服装に純白のカーディガンを羽織りスニーカーに足を入れた。
「さあ、今日から二日間のデートだ」
 替え衣類などを入れたバッグを肩に、気合いを入れて玄関を出た。
 駅までの数分間はジョギングになる。
 それにしても、敦子たち友人の口ぐせは、
「なんで、あんな子連れ男がいいの?」
 全くその通りだ。異論はない。しかし、何といわれようと無性に好き・・・理由はない。

2、夫々のツアー参加事情

      都内下町の金融会社

旅に出る10日ほど前、八月下旬の晩夏、まだ暑い夏が残っていた。
 その数か月前から、荒川区町屋三丁目の裏通りに、「築十五年。冷暖房エレベーターなし。格安」という不動産屋のガラス戸に貼られたビラが縁で、ヤクザ崩れが「都一(といち)金融(きんゆう)」という事務所を開設して営業していた。
 看板を見ると、一応、東京都で一番サービスのいい金融会社などという解釈も成り立つが、それは極めて危険なカン違いだ。これは十日で一割という違法な高利を堂々と表看板にした闇金融会社で、借金の取り立てを正業にしている。指定暴力団解散後の転業組では、利益は少なくても成功組には間違いない。最近は家事や子育て夫の面倒を疎かにしてパチンコなどに溺れる主婦が、給料日前のやり繰りに詰まって短期借り入れに飛び込んで来る。これが常連客になる。借金が払えないと高利が重なってますます払えなくなる。そこで提携先のソープかAV制作会社に連れて行って稼がせて元金とも清算する。これが癖になって亭主に内緒で自分からAV女優になり、結構知られている女もいる。
 会社だから当然役職があり、社長代行がカメ部長、その下にヤマカン次長、タケ課長補佐、マサ係長、サダ係長、ヤス主任、平のカズとゴン、整然と組織は出来ている。
 今日は珍しく営業会議などというこの会社には不似合いな会合が開かれた。
「兄貴、こいつは一種の談合ですかい?」
「談合じゃあねぇ。集まって喋るのを会議ってんだ。それと、酒がでねぇ集まりのことだ」
「しけた集まりすね」
 評判はよくない。
 社長代行のカメ部長が口火を切る。
「この前の田川急便事件で危(やば)かった裏金スキャンダルを土俵際で食い止めたのは、上出来だったとの会長のお言葉で、どこでもいいから慰安旅行に行って来い、という有り難いお言葉と小遣いが出た。とりあえず一泊旅行だ。早え方がいい。九月の第一土曜と日曜だ」
「なら、台北はどうすか」と、マサ係長。
「一泊じゃ京城は無理かな」と、サダ係長。
「ハワイは?」 ヤマカン次長が無茶をいう。
「鬼怒川は?」
 最年少のゴンが提案する。
 遊びとなると、一同活気づく。
「そうか、鬼怒川もいいな」と、カメ部長。
「冗談じゃないすよ。うちは、栃木、群馬、埼玉、福島と北方出身者が多いんですから。オレなんか、鬼怒川出身なんだから出身地は止めてください。故郷(いなか)へ旅行なんか嫌ですよ」
 入社したばかりのカズこと勝田一夫が抵抗した。
「じゃあ、カズはどこへ行きてぇんだ?」
「伊豆す。伊豆。それも下田へ行きたいす」と、決然といい切る。
「ダメだ。下田は、絶対ダメだ!」
 カメ部長がいい、タケ課長補佐はじめサダとマサの両係長が頷いた。
「バカだなあ、カズは。下田はタブーだってこと知らねえのか?」
 先輩のヤス主任が諭した。
「細けえことは言えねえが、タケ課長補佐兄いが銃刀剣不法所持で下田署のご厄介になり、大ボスの議員の口利きで保釈されてから、まだ三ヶ月ほども経ってねんだ」
「ともかく、伊豆に行きてえんです」
「よし、分かった。下田以外なら伊豆でもいいぞ」
 と、カメ部長が断を下した。
 社員が、いっせいに三本ある電話にとび付いた。遊びとなると熱心になるのはどこも同じだ。
 こうして「都一金融」はツアーに参加した。

 その頃、「銀座一リュウクラブ」でも秋季旅行を早めに実施する計画が進められていた。
 一リュウのリュウは流ではない。
 銀座といっても一流クラブの集まる並木通り界隈から新橋にかけてのお店とは少々趣が違って、銀座一丁目の、地下鉄だと京橋に近い昭和通り寄りにあり、夜になるとひっそりとして、およそ盛り場とは縁が遠い場所柄だから、お客もお店も一流とはいえない。
 看板もなく、ドアに「ICHIRYU・CLUB」と、金色の横文字があるだけの、スナックともバーとも判断のつかないクラブで、知らない客は、一流クラブに似つかわしくない店内の雑然とした雰囲気に怪訝な表情をする。本名は「一竜クラブ」なのだ。
 ママを含めて総勢五人。ツアー客の中から常連客を誰がどれだけキャッチできるか。一枚千円のトトカルチョカードをお客に売って旅行資金を出したのは春代ママのいつもの手だ。
 目的のある旅だからなお楽しい。

 その他に「草加堅焼せんべい本舗」「ギャル同窓会グループ」「浜南中学教員グループ」などは、三ッか月前の伊豆下田旅行に続いて予約済みでメンバーもほぼ変わらない。とくに、堅焼きせんべい本舗では、取引先選抜麻雀大会の決勝戦としてこの旅行に参加することにしたというから、そのイベントの結果によっては売上額が左右されるだけに幹事の責任は重い。

3、旅を共にしたくない人種
      東京駅地下街喫茶店

九月の第一土曜日の早朝のことだった。
 東京駅八重洲口地下街のシャレードという喫茶店で、浅田敦子はバスガイドの守口かおりら仲間と待ち合わせていた。
 敦子は、氷の浮いたアイスコーヒーのグラスをストローで掻きまぜながら、黒目がちの大きな眼で、ガラス越しの通路を見ていた。
 衿の大きな純白のブラウスの上にサンドベージュのジャケット、同色のスカートからスラリとのびたその形のいい足・・・その敦子の魅力に惹かれたのか、隣のテーブルで、これも人待ち顔の四十代後半と思しき中年男二人の視線がねばっこくまとわりついている。二人共、替上着にポロシャツというラフなスタイルで、足元にはボストンバックが置かれている。
 敦子は、ガラスに映る中年男二人の視線を感じながら、絶対に同じ旅で一緒にならないことを祈った。
「ええですなあ、朝から結構な眺め拝ましてもろて」
「名取さん。麻雀と女性とどっちがいいですか?」
 日頃から、仕事仲間相手に麻雀を楽しむ仲間だから、温泉で一杯やりながらの麻雀大会を企画してのバス旅行参加だが、思いはバラバラの様子、当然、旅先で羽目を外したい男や、リスクの大きいインフレ麻雀で仲間の所持金を巻き上げようと企む者もいる。
「わては麻雀より、そこのベッピンさんみたいな娘(こ)探してワンナイトラブがよろしな」
「私も、麻雀に勝った余勢を駆って・・・」
 男性二人のこそこそ話が、敦子の耳には筒抜けだった。この中年男の会話は朝から病んでいる。
 菅原ミカが小走りに来て、自動ドアが開くのももどかしく走り寄った。
「アツコ。早かったわね。大分、待った?」
「十分ぐらいかな。まだ早いから大丈夫よ」
 敦子が時計を見た。
「いらっしゃいませ。ご注文をどうぞ」
「そうね。レスカでいいわ」
「ミカ。その色、きまってるよ」
「ちょっと派手かと思ったけど」
 菅原ミカは、切れ長の目でまつ毛が長い。鼻筋がすっきりした細面の美人。派手なオレンジの広衿シャツにベージュのリボン付きラップキュロットというさっぱりした服装。きれいに伸びた足の先はラベンダー色のローファーがよく似合う。
 中年男二人、思わずゴクリとつばをのんだ。
 その視線を無視してミカ、手許に来たレモンスカッシュをストローで一息で飲み、
「アツコ。初仕事おめでとう。中途入社して一ヶ月でいきなり添乗員。大丈夫なの?」
「モチ、へっちゃらよ。だってうちのJTBと全日観光はタイアップしてるし、今回のバスガイドは、カオリなんだから」
「ラッキーね。初仕事のパートナーが親友なんて」
「全部、彼女にお任せよ!」
「アツコはどんな仕事をするの?」
「お客の案内だけど、これもカオリと打ち合わせ済み、ま、カオリのお手伝いってとこかな」
 隣り客の男二人の会話は、ますますエスカレ-トして、さらに品性が下落、二人を見てテンションが上がっている。
「あないなベッピンが一緒なら、わては死んでも本望や」
「なにをバカなことを、名取さんんが死んだら、世の中が暗くなります」
 敦子は思わず吹き出しそうになって口に手を当て笑いを堪えた。こんな男が消えれば世の中はもっと明るくなる。
「よろしまんな。朝からムラムラッと来て」
 アツコが睨み返したとき、ミカが戸口を見た。
「あら、あれ。おせんべ屋さん達よ!」
 前に、バス旅行で一緒になったことがある堅焼き本舗せんべい屋の面々だった。

4、せんべい屋の客

     観光バス発着所

先方でも、店内にいる敦子とミカを見つけ、嬉しそうに笑顔で、手を振った。
 内藤主任は、長身にサハリルック、オリーブ系のスラックスにトレッキングシューズ。サングラスをかけて柴田恭兵気取り。口を開かなければ本物よりカッコイイ。
 黒川主任は、グレイのジャケットでビシッときめたつもりがきまらない。若者に流行のサブザックタイプのバッグを背負っている。しかも、中身はいっぱいのようだ。
 中川部長は、レモン色シャツに棒タイ。タイを締めているオニックスが渋い。
 長身の内藤・黒川両主任を従えて歩く中川部長は、本当は中肉中背なのに、背丈も低く体型も太目に感じられ、短足にも見える。実際は、短足というより胴が長いのだ。
「おはよう。相変わらずすてきだよ」
「ホレボレしますよ、美人さん」
「二人共、一段ときれいになったね」
 三人三様、店に入ると早速、敦子とミカに先制攻撃で、待ち合わせの相手には見向きもしない。
 そのあとで敦子達と少し離れたテーブルにいる二人に気付いて、あわてて挨拶をした。
「ゴマ屋の名取さん、お早うございます」
「醤油の相田さん。よろしくお願いします」
 せんべい屋の三人にとって、大事なお得意さんらしく、かなり下手に出ている。
「部長さん達、ベッピンさんに気をとられて、わてらに気付かなんだかね」
 名取も相田も、敦子とミカに睨まれて一瞬はうろたえたが、そこは海千山千の二人、さり気なくゴホンと空咳などして、出入業者どころか大切な取引先顔で威厳をただし、胸を張って強がった。しかし、一度下がった目尻は上がらない。
「わてらにもお二人を紹介してくれまっか」
 中川部長が得意げに紹介する。
「こちら浅田敦子さん。六月の旅行で一緒だったんです。JTA(ジャパン・トラベル・エアライン)のスチューワデスだったのを退職してJTBの添乗員になったそうで。今回は、JTP(ジャパン・トラベル・プランニング)と全日観光が提携して組んだツアーを友人同士が担当した案内書にあった。そうですね?」
 中川部長の説明をさえぎって内藤主任が口を挟んんだ。
「部長。ずい分と詳しいじゃないですか。こちらは、浅田さんのお友だちの菅原ミカさん。どっかの会社のOLさんでしたっけ?」
「どっかの会社は失礼でしょ! 先に行こう」
 ミカが不機嫌に立ち上がった。
 内藤主任があわてた。黒川主任がフォローする。
「外資系の証券会社の秘書さんでしたね。こちらは、相田さんと名取さんです」
「よろしゅうお頼みしまっせ」
 と、名取が、握手を求めて手をさし伸べたが、敦子は、そ知らぬ顔でミカをうながし、
「お先に行きます」と、レジに向かった。
 キザ丸出しの派手な青い替上着の相田が、あわてて、レジに向かう二人の前に立ち、最敬礼で頭を下げた。額に汗が光っている。
「先ほどは、相棒が大変、失礼なことをいいまして済みません。つい、美人とみると、口が軽くなるのが欠点でして、ご一緒の旅行で、気分悪くされると困るので、私から謝ります」
 敦子とミカが立ち去った後で、仲間割れの口論が始まった。
「相田はん。あんさん、わいに恨みでもあるんかいな。自分だけ、ええ顔しくさって。なんや、相棒が失礼を、とは、けったいなっ!」
「どんな失礼を?」
 穏やかに中川部長が糾明する。
「名取さんが、足がきれいだとか、ムラムラするとか、聞こえよがしに言ったんだ」
「ほなら、相田はんは、きれいな足と認めんのでっか? あれだけジロジロ眺めとって」
「いや、思うのは男なら、みな同じですよ。美人は誰が見たって美人なんだから」
 突然、内藤主任が口をはさんだ。
「わるいですけど、今日のガイドさんだけは、そんな目で見て欲しくないんですが」
「なんや。誰をどんな目で見ようと、わいの勝手やんか。それとも、内藤はん。そのガイドはんに惚れてるんとちゃうか?」
「図星だよな」
 中川部長にも冷やかされた内藤主任、心の中では「この旅行の間にプロポーズ」、などと妄想を抱いている。
 ドアーが開いて華やかに女性が登場した。
「遅くなりますて・・・」 ほんの少々訛る。
 私服姿の女性が婉然(えんぜん)と微笑んでいる。
 世間一般にいう美人というタイプではないが、個性的。少々狐目で、目と目の間隔が開いていて目と口が大きく、鼻が小ぢんまりとして鼻の穴がほんの少し天井を向いている。
 からだの線が細身だけに見てくれはいい。
「相変らず、紅(くれない)なお子さんは、べっぴんさんやなあ」
 名取が、得意のゴマを擦って先制攻撃だ。
「あら、嬉しいお言葉すな。お世辞と知(す)っても嬉しいのが女心というものすから。でも、東北米穀には私(わたす)同様のべっぴんがどっさりと働いてるすよ」
「あとのお客様は、うちの石毛とバスの出発所でまっていますので・・・」
 黒川主任が腕時計を見ながら腰を浮かす。
 米屋の紅(くれない)なお子部長は、あわてず騒がず注文を出した。
「コーシーください。ブレンドで・・・」
 これで、出発時刻が数分遅れること間違いない。
「じゃあ、部長。オレ達は先に行ってます」
 内藤主任が黒川主任を促して立ち上がった。

5、再開で話がはずむ

      旅のスタートへ

地下街から表に出ると青空が見える。敦子が、歩きながらミカに囁いた。
「今日は小さい団体さんの寄せ集めツアーだけど、顔見知りが多いから助かるわ」
「みなさん。元気で来てくれると嬉しいね」
 二人の視線の先に、すでに集ったツアー客がにぎやかにお喋りしている。
 二人の姿を見つけて、手を振っている娘達がいた。
「エミさんたちね。石毛さんもいるわ」
 エミやユッコ、ジュン、ヒロ子などギャル四人組に混じって、草加堅焼せんべい本舗の石毛青年が笑顔で迎えている。

二人が近寄り、それぞれ挨拶を交わした。

「アツコさん。転職したんですって?」
「スチュワーデス辞めるなんて勿体ない」
「でも、JTBのツアーディレクターも素敵よね。海外だって行けるんでしょ」
「ええ。少しバスの旅をしてからね」
 敦子が石毛青年に、
「いま、地下の喫茶店で、中川部長と一緒になったわよ」
「それで、お客さんと一緒だった?」
「ええ。とっても品のいいお客さんとね」
「品のいい? 誰だろう」 
 石毛青年が首をひねるが思い当たらない。
 敦子が、エミ達ギャル四人組に、
「すっごくきれいに見えるけど、あなたたちどうしたの。揃って恋人でも出来たの?」
「まっさかあ」
 と、四人は笑ったが、満更でもない様子。
 花の二十歳直前、華やかでいるのは確かだった。とくに、お洒落というほどでもないのに、何となく輝いて見えるのは若さなのか。
 川口ヒロ子は、ローズの長袖シャツ、ギャザーのある青地に大柄な花をプリントしたロングスカート。コギャルさが消えている。
 目がくっきりとして、髪は肩までのストレートヘアーで艶があり、しっとりとしている。
 間中ジュンは、グリーンの長袖のTシャツに紺デニムのスカート。衿元から金のネックレスがきらめいている。しかし、夏の間、海で焼いたのか肌が小麦色だけに、折角の金も目立たない。その代わり、笑うと歯並びのいい白い歯が際立って美しい。
 小岩井エミは、あわいブラウンの衿付長袖シャツの上に、フリルの付いた赤のベスト。同系の赤のショートスカートから肉付きのいい足が出て足首が細く締ってカッコいい。
“ユッコ”こと中田裕子は、薄手のオリーブ色に細い紺のチェックの入ったカシミヤウールのワンピース。茶のベストに細身の金バックルが光っている。スリム美人で男にモテるタイプだ。
 四人共、乙女らしさは多少残っているが、それでもせいいっぱい大人の女らしくなっている。
 これでは、石毛青年がくっついて離れないのも無理はない。
「アツコさんの手許に、乗客名簿ある?」
 ヒロコが言うと、エミが話を継いだ。
「実は、私たち、スポンサー付きなの?」
「なにが?」
「私たち、ナンナンって雑誌に、モデルで出たの」
「モデル?」
「ある人のデザインしたファッションでね」
「それで旅行のおマケが付いたってわけ」
「ギャラも貰ったけどね」
「何しろ、賞をとったんだから・・・」
 あわてて、敦子が旅行の申し込みメンバー表をとり出し、改めて目を通した。
「あら、もしかして?」
「どれどれ・・・」
 ミカも首をつっ込む。
「片岡? 片岡美佐さんね?」
「アッタリーッ」
 なるほど、以前からバイトでモデルをしていたジュンを含めて、全員素質はあったのだ。
 そのとき、構内に、黒塗りの高級外車が乗り入れて来てドアが開いた。
 上品なソフトマスタード色のブラウスジャケット、ラベンダーグレイのタイトスカート。ベージュ系デザインパンプスのトウエナメル部分が紺のシューズ。優雅でシックなご婦人のご登場。ローヒールなのに背は高い。
「ほら、スポンサーが来たわよ」と、ユッコ。
 敦子とミカが同時に驚きの声を出した。
 前の旅行のときの疲れた姿は消えている。
「片岡さん?」
 ミカが思わず近寄って、美佐の手を握った。
 わずか三ヶ月でこんなにも化けるのか。
 そのとき、走り去る外車の運転席の窓から男が顔を出して手を振り、美佐が応えた。
 細面の顔に鼻の下のチョビひげが見えたが、サングラスで顔ははっきり分からない。
「彼、建築家なのよ」
 片岡美佐が悪びれず、聞きもしないのに昂然と言った。
 言い訳なのか惚気(のろけ)なのか判然としないが、これで前の男と別れたのははっきりした。
「やあ。みなさん、お揃いですか」
 敦子をはじめ、バスターミナルに屯していた女性群が、大きな声に驚いていっせいに振り向くと、加藤教頭先生が、相変わらずの紺スーツ上下にボストンバッグ持参で近寄って来た。片手に白いハンカチを握り、汗を拭きながら、団体の先頭に立っている。
 三ヶ月前より、さらにお腹が出ている感じがした。
 こちらは、浜南中学校教職員の有志主体の親睦旅行で、PTAの佐山会長が参加したのを混じえて総勢七名。ウクレレを抱いた長身の男の先生を除いて、女性教員が四人いた。
「久しぶりだが、相変わらずピチピチだなあ」 
 佐山会長は、この時とばかりに図にのって、敦子から始まってむりやり若い娘たちに握手を求めたが、美佐を見て驚く。
「あなた、佐々木さんの? 本当はええと・・・」
「片岡です」
「そうそう、片岡・・・ミサさんだったかね」
 堅焼せんべい本舗の内藤、黒川両主任が後輩の石毛と合流し、ほかの人達と挨拶し終ると、すぐ、ギャル四人組に近づいた。
「仲良くしよう」
 片っ端から声を掛けて抜け目がない。
「あのバスかな!」
 石毛の声で、全員が見ると、前面の五分の三以上が総ガラスという視野の広いバスが横付けになって停まった。全日観光の赤文字が白いボディにくっきりと浮かび、その下に赤線が横に伸びている。まだピッカピカの新車だった。
「ミスズ自動車製デラックス仕様リーフサスペンションLR型ジャニィですな」
 車に詳しいらしい内藤主任が自慢げに、周囲に聞こえるように呟いた。
「みなさーん。お早うございます」 
 バスが停まってドアーが開き、ガイドの守口かおりが、笑顔で手を振っている。

 

6、乗るバスを間違えたグループもある

       東京駅前を出発 

ガイドの守口かおりを見て、誰もが秒読み状態で支度して家を出たようには見ない。だが、いつもこうなのだ。
 まだ夏の名残りが濃くジャケットは不要。衿幅の広い白い半袖シャツに黄と赤の縞模様リボンタイ、ネイビーブルーの丸型ハットに同色のタイトスカート、帽子の帯とウエストの赤いベルトがアクセントになっている。靴は白い中ヒール、きまっている。
 ステップを踏み軽やかに降り立つかおりに見惚れて敷石につまづいてケガをした男や、ポカーンと開けた口が閉まらない男もいた。
さらに、澄んだ目と形のいい唇を見たら最後、男ならツアーに参加して良かったと思う。
「ヒエーッ、ガイドさん、カッコイイ!」
 ウクレレ持参の長身で細身の教員がカン高い声を出し、堅焼せんべい本舗の石毛青年に、「はしたないな」などと、聞こえよがしに軽蔑されている。石毛青年は、以前、自分が叫んだ台詞と同じであることなど、とうに忘れていた。
「お早うございます。お待たせいたしました。東伊豆箱根ツアーの全日観光バスでございます。本日はJTPの窓口でお申し込みいただいた方もご一緒でございます。座席表は、こちらのJTPツアーガイドの浅田敦子からお受け取りください。本日は五つのグループさまで、一グループだけ遅れていますが、四団体の幹事様に座席表をお渡しいたします。どうぞ順次ご搭乗ください」
 そして、小さい声で、
「アツコ、お早う。初陣仕事、おめでとう」
「ありがとう。よろしくね」
 短大時代の同窓生、すでに呼吸(いき)がピタリと合っている。
 菅原ミカも、何となく手伝ってみたくなったのか、運転手がバスの横腹の口を開いた格納庫に乗客の荷物を押し込んでいるのに手渡ししたりしたが、腰を曲げて作業するのは美容に悪いと思ったのか、車内に入って座席の案内などをしている。
 十メートルほど離れた位置の観光バスでなにやら大声で言い争う声がしたが、その中の一人が走って来て息を弾ませながら叫んだ。
「そのバス、伊豆行きの観光バスかね?」
「ええ、団体貸切ですが・・・」
「じゃあ、こいつだ」
 その若者が、大声で怒鳴った。
「あにき。いや、部長っ。こっちらしいですぜ。そいつは、富士五湖めぐりさせてやりやしょう」
 富士五湖めぐりのバスに乗り込んで「伊豆へ行け」などと無理難題を吹っ掛けて脅していた金融業・都一金融ご一行の面々がぞろぞろと、そのバスを降り、こちらに向かって来た。
 降り際に、ヤマカン次長が、
「迷惑かけて悪かったな。わしらの間違いだったから、詫び料に取っといてくれ」
 富士五湖めぐりバスの若い運転手に一万円を渡して一悶着起こしている。
「そんなものは頂けません」
「なんだ。そんなものとは。かりにも日本国政府発行の一万円の価値がある紙だぞ!」
「知ってますよ。そんなの」
「分かってりゃいい。一度手放したら捨てたも同然、こっちは受け取らん」
 一万円札を無理に押し付け、車を降りたヤマカン次長が仲間の後を追って走り、その後を若い運転手が追って来る。
 若い運転手とヤマカン次長が押し問答をし、焦った若い運転手がカッカしながらガイドのかおりに手短かに事情を話して一万円札を押しつけ、客を待たせた自分のバスに全速力で駆け戻って行った。
「どうします?」
 かおりが運転手の浜田芳雄に相談すると、浜田は一万円札を黙って受け取り、自分の白い開衿シャツの胸ポケットに押し込んだ。
 指定席となった後部座席からそれを見たヤマカン次長が、急に惜しくなったのか納得出来ないのか、足音荒く近付いた。
「おい運転手。お前さんには関係ない金だから返してくれ」
 浜田は、まだ乗客が揃わないから落ちついてお茶など飲んでいる。車内はお喋りと笑い語で賑わって運転席の会話など誰にも聞こえない。
「おい、運転手、聞こえねえのか!」
 凄味を効かしたつもりで表情を歌舞伎でいう安手の悪党風な端敵(はがたき)につくり、ぬうーっと顔を出して、運転手の浜田を睨みつけたが、険しい顔が急にへなへなとなり、だらしなくへり下った。
「す、すみません。か、金はいいです」
 逃げるように振り向こうとしたヤマカン次長の鼻先に、浜田の手が伸びて一万円札が突き出されている。
「持ってきな」
 ヤマカン次長は、あわてて一万円札を引ったくり、背を丸めて逃げるように後部座席に戻った。
 ほんの一瞬の出来事で、出発前のざわめきの中にいる乗客には無縁の出来事だから誰も気にしない。
 事情を知らない隣の席のサダ係長が、ヤマカン次長の手に握られた一万円札を見て目を見張った。
「次長、さすがに凄腕っすね。もうカツアゲでひと稼ぎですかい?」
 それにしては次長の顔色が冴えない。
 ヤマカン次長が振り向いて、すぐ斜め後の最後部の窓際に座ったカメ部長に小声で囁いた。
「あにき。あの運転手、元警視庁出の猛者ですぜ。前にほら、万世橋署にいた奴でタケが傷害でパクられた時の・・・」
「バカいえ。これは観光バスだぞ。ヤマカン次長、おめえ、頭どうかしてねえか?」
「鏡のところにある運転手の名札に、浜田芳雄ってありやした。間違いありやせんぜ」
「勝手に気にしろ。人違いだってあっら。仮に本物だとしても、もう関係ねえことだ」
 戸口で陽気な声はイチリュウクラブの女性五人、見るからに派手づくりだから、バス内の空気がさらに華やいだ。
「みなさん。ご一緒にトラベルさせてくださいね。宴会係ぐらいは引き受けますから」
 車内の先客に、ソツなく挨拶をしながら、若造りのローズ系のスーツに淡いクリーム系シャツの胸元を開いた石沢春代ママ、敦子から渡された座席表を見て、従業員に席を指示し、自分は、窓際に一人で座っていた浜南中学のウクレレ持参の男性教員の隣に座った。
「仲よくしましょうね」
「こ、こちらこそ」
 香水の香りに刺激されて眩暈がしたのか、その教員がふらっとして、あわてて恥ずかしそうに外を見た。すでに落城寸前である。
 定刻を五分ほど過ぎて、堅焼せんべい本舗の中川部長以下、喫茶店で待ち合わせをしていたメンバーが急ぎ足で乗り込み、役者は揃った。 出発は七時三十五分、車は、静かに東京駅前を離れて行く。
 こうして、東伊豆観光ツアーの幕が開いた。