第七章 旅の記念に

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1、不二テレビ撮影隊の大乱闘

      大滝上空の深夜の月

深夜午前三時、昔風にいえば草木も眠る丑三つ時、滝の音と河津川の流れだけが夜の静寂(しじま)に響いている。夜(や)鳥(ちょう)の羽音がした。
 月は、満月をほんの少し欠いた十八夜。谷間を覆う樹々の枝葉越しに光を投げている。
 ロケも終わった。
 本気になって殴り合いになった格闘シーンも無事に勝ち組が圧勝したことで臨時の台本通りに仕上った。迫真の場面が撮れた筈だ。
 スタッフ全員が反省会を兼ねて宴席を開き、それぞれ湯を浴び、疲れと酒で深い眠りについていた。幸いここの湯は傷にもいい。
 昼間、ロケを指揮しながら初秋の山間で仮眠の夢をむさぼっていた中林監督は、酒もやらないから眠くない。
 天城の湧水風呂と縦看板のある露天風呂に浸って静かに目を閉じ、解放感を味わい呟く。
「明日はラブシーンか、面白くもない」
 眠れない男が他にもいた。カメ部長である。深酒で熟睡したのか何も記憶がない。
 宴会場に入って乾盃して、サザエの新鮮な身を口に入れ……部屋で目覚めた。
 傷ついたマグロのようにヤマカン次長が鼾をかいている。サダとマサ両係長はいない。
 タケ課長補佐がコンビニから買って来たという三角お握りを頬ばっている。
「兄貴もどうです?」
 海苔とシャリとシャケの味が口に広がる。
「ヘイ。お茶もどうぞ」
「タケ。この血痕(ちあと)はどうしたんだ?」
 脱ぎ捨てた浴衣に血がこびりついている。
「あっしは、ヤスと出かけてやしたので……」
「ああ、そうだったな、病院だったか」
「そっちの方は、うまくいきやした」
「ヤスは今、どうしてるんだ?」
「なんだかフロントに伝言があって、よその娘たちとデートだとか……」
「おめえたち血イを抜いたんじゃねえのか?」
「へい。二発づつですが」
「なに、二発も抜いてて、またデートか。若いのはスゴイな」
 カメ部長があきれた。タケ課長補佐はもっとあきれている。玄関を入るときヤス主任はフラフラで自分が肩を支えていたのだから。
「タケ。湯でも行くか?」
「いえ、麻雀部屋を覗いてきやすので……」
 こうして、カメ部長は中林監督と通路をへだてた河原の湯でのんびりと鼻唄まじりで滝の夜景などを楽しんでいる。
 さらに、もう一人、眠れない男がいて肩叩きの湯に入っている。運転手の浜田だ。
 どうも妙な話だ。伜が交通事故だというファックスが会社からあった。病院に電話をすると出血多量で重症だという。会社に電話をして替わりの運転手を要請した。休日体勢でフル活動しているが予備を探すから待て、となり、イラ立ちながらもヘボ将棋で電話を待った。電話は来ない。そのうち伝言をかおりがもたらした。
 敬太に優しくしてくれている隣人の甲田良美からの伝言で輸血したから一安心だという。
 病院に電話をして事情を聞くと、とりあえず病院の手持分と良美の二百CCを合せて輸血し、あとから来る二人からの輸血で間に合うからという。匿名扱いが条件の約束だとか。
 赤い車で来た男達は、警視庁時代の自分を知っている。その二人が自分の知人だと名乗って四百CCづつを献血した。名前は多分、偽名だろう。聞き覚えのない名前だった。
 敬太は二、三日で退院出来るほど元気だという。世の中に善意は生きていた。
 ともあれ、息子敬太が生命拾いした。嬉しい。浜田は打たせ湯で顔を洗った。
 眠れないのは男ばかりではない。
 女性の血も騒ぎ出すと始末に悪い。
 かおりがギャアギャアいい始めたおかげで、他の親友三人も付き合わされている。
 四人は、滝を見下ろせる女性専用の見晴らしの湯に入っていた。当然きれいに丸裸だ。
「だいたいね。あんな運転手を好きになるのが間違いなのよ」と、陽子が諭す。
「みんなの噂よ。なんとかクラブのミッちゃんって娘(こ)と城ヶ崎の駐車場のバスの中でお楽しみだったって」と、ミカがいう。
「その甲田って女(こ)だって親しそうじゃない」
「きっとその女(こ)と出来てるのよ」と、敦子。
「みんな分かってないのよ」
 と、かおりがヒステリックに叫ぶ。
「どう分かってないの?」と、陽子。
「あの人は、そんな人じゃないの。本当は、情も深く、優しくておとなしくて誠実で……」
「よし。そんなにカオリがいうんなら」
「どうするの?」
「私たち三人が試すのよ。誘惑して……」
「やめて、そんなの卑怯よ」
「じゃあ怒らせちゃおう。本性が出るから」
「あの人は絶対ケンカなんかしないから。だって暴力は嫌いらしいのよ」と、かおり。
「あら、中林監督が」 陽子が岩風呂を見た。
「多勢、人を集めたみたい」
「まだ、撮る気なのかしら?」
「監督が何か怒鳴ってる。リハーサルよ」
 浴衣を着た一団が、それぞれ棒を持ったりして湧水風呂を半円状にとり巻いた。
 十人はいる。声は滝音に消されて届かない。
「ほら、監督に殴りかかったわ」
「監督もなかなかやるじゃない」
「あれ、ロケと関係ないわよ。もしかしたらさっきの本番のとき、私をさらおうとして散々痛めつけられてた人達と、その仲間じゃない?」と、陽子がカンを働かせた。
「そういえば、右足を引きずってる男、見覚えあるわ。コテンパンにやられてたのよね」
「まさか、本当にケンカしてると思わなかったから、演技の上手な人たちだと思ったの」
「そうしたら、血だらけなんでビックリしたわ」
「あら、だれか飛び入りよ」
「金融会社の亀田さんじゃない?」
「すごいじゃない。暴れっぷりが……」
「でも、無理よねえ、多勢に無勢よ」
「少し形勢が不利になったわ」
 敦子が左手を指さした。そこは少し暗い。
「見て。肩叩きのお風呂のところ……」
 男がのんびりとお湯から出た。他の人は水泳パンツで武装しているのに無頓着に丸裸だ。
「キャア!」
 一応、若い娘だから手を広げて目を覆うがもちろん指の間からしっかりと覗く。夜目遠目だから何も見える訳はないが想像力は働く。
「最低、野ばん人!」 かおりが叫ぶ。
 男はタオルをしぼり、パッと広げて身体を拭いてパンツを履き、持参の浴衣を肩にして、下駄音は聞こえないがタバコを口にのこのこと戦闘現場に向けて歩き出した。
 カチカチやってるようだがライターの火が点かない。これで、かおりが気付いた。
 いつもの癖だ。一度で点いた例がない。
「いやだ……あのひと」
「あの人? 誰? えっ、もしかして?」
「運転手? なに、あの態度。あらら……」
 もはや、四人娘は小屋づくりで高台の女性専用の見晴らし湯とはいえ、専用だから無防備であられもない姿で腰までを湯につけ、立ち上って高見の見物。かなり興奮している。
 浜田は至近距離までは出かけたが、河原風呂その一を囲む岩に腰かけ、のんびりとようやく火の点いたタバコをくゆらしていた。
 その目の前を大滝が轟音を立てて流れ落ち、滝側の湧水風呂と浜田の隣りの河原の湯その五の通路および野天風呂が戦闘の舞台になっている。足湯が滑るからケンカ上手のカメ部長も勝手が違ってやり辛いのか、かなりダメージを受けている。中林監督も勝手が狂っているらしい。自分の演技指導が相手に通じないのだ。仕方なく実技で教えるのだが二対十では相手が多すぎる。浜田は助けもしない。
「意気地ないわね。いくら平和主義だって」
 男達が、風流に木の間漏れの月と滝などを眺めている浜田に気付いたらしい。
 棒切れを振り回した男が浜田を襲った。
「イヤッ!」 かおりが今度は目を覆った。
「アラッ!」 敦子が驚きの声を上げた。
 かおりが目を開けると、棒を落とした男が浜田の背後のお湯の中でのた打ちまわっている。男はよほど温泉が気に入ったらしい。
「ど、どうしたの?」 かおりがせき込んだ。
「石でもあってつまずいたみたい」
「勝手に棒を捨てて自分でとび込んだのよ」
 脇腹を下駄で思いっきり蹴とばされたとは誰も思わない。これは、かなり苦しい。
 お湯の中の男が苦しみながらも指示をした。
 残りの九人も二人相手では労力の無駄があったから二人ばかり浜田に向かった。
 今度は、かおりも見届ける気になった。
 一人がボクシングの構えからストレートを繰り出した。浜田がびっくりしてタバコを落としたらしく首を下げたので拳が空を切る。しかも間違って浜田が下駄で相手の足を踏んだらしい。失礼な話だ。男がとび上がった。
 しかも、間髪を入れず殴りかかった他の男の脛にも下駄が当ったようだ。武蔵坊弁慶でさえ泣き喚く急所に自分から勢い付けて当ったのに弁慶以上に強いのか泣き喚かない。背を丸めて蹲(うずくま)った。その腰を走り込んで来たカメ部長が新日プロ橋本真也並みのサッカーキックで蹴とばしたから男は一回転して仲間の待つ温泉その五にとび
込み沈んだ。ここのお湯は服用しても神経痛・リュウマチに効く。
 カメ部長が手に持った棒で足を踏まれて踊っていた男を温泉その五に叩き落とした。まるで蠅(はえ)叩きの要領だ。浜田は何もしない。
「あの棒、さっき相手が落とした棒?」
 浜田が素早く拾ってカメ部長に投げたのだが、あまり早くてカメ部長以外気付かない。
 カメ部長が棒を持ったことで形勢は一気に逆転した。相手が多いほど目茶苦茶に殴れる。
 カメ部長の活躍が目立ち始めた。
 中林監督がスキを見て走り出した。
「あっ。逃げた。ズルイ!」と、ミカが叫ぶ。
 つぎつぎにその五の風呂に男達がとび込み、もがき、這い上がっては叩き落とされる。
 しばらくして、静かな宿の眠りを妨げる中林監督の大音声がフロア中に広がった。
「カメラだ。カメラ。起きろ! 仕事だっ」
 深夜の三時半。起こされる側の心をまったく気にもしていない。人使いの荒い監督だ。
 外では相手の十人、全員が入浴した。
 カメ部長が目まぐるしくその周囲を走って、這い出た男をつぎつぎに払い腰・肩車・正拳・ハイキックで叩き込んだので、ついに彼らはのぼせて岩にしがみつき、ぐったりとした。カメ部長もついにへたり込んだ。
 カメラ班が到着し、照明が彼等を照らした。
 中林監督が躍起になって叱咤する。カメ部長から奪った棒で風呂の中の男達の頭を叩いてまわった。男達が怒って中林監督を風呂に引きずり込み乱闘になる。カメラが回った。

2、「太陽が黄色い」と、ヤス主任

     宿に名残りの記念撮影会

快晴。天城の朝は風もさわやか。
 かおりもさわやかにバスの脇で全員を迎え、ニコヤカに「お早うございます」と連発する。
 ひどい顔ばかり。ごく一部の例外を除いて満足な顔がない。それだけに普通の人がすごくハッピーに見える。昨夜の行状が顔に出ている。しかし口だけは全員達者だ。
 敦子がフロントで中松という名札の係員に真夜中まで宿を騒がしたと苦情をいわれた。

 それは、なにもこの団体だけではない。
 日豊観光の団体は、退職組と残留組が宴会場で大乱闘になり、什器備品破損で弁償沙汰になっていた。残留組の一人がサザンクロスの「足手まとい」を歌い、「お荷物だから行くのです」のフレーズを熱唱したことに端を発したとか。誤解は解け仲直りはしたらしいが。
 東開観光の医師グループもひどかったらしい。三島から招いた芸者と称する女性が、芸もなにもなく飲むのは客以上。せめて手ぐらいは握ろうと思った医師の一人が、あまりにも荒れている手を見たら、伸びた爪にミカンの皮が詰まっていたとかで、仕事に狩り出される寸前まで農作業をしていたことがバレて大騒ぎ。玉代(ぎょくだい)を払う払わないから、幹事の責任問題にも波及したとか。品がない話だ。
 増多支配人代行が残念そうに呟いた。
「声をかけてくれればいい娘を集めたのに」
 それでも結果的には大盛会だったそうだ。
 目を赤くしてゾロゾロと堅焼せんべい組がバスに乗り込む。いずれも必死でつくり笑顔でかおりと朝の挨拶を交わす。誰だって負けたことなど気取られなくない。
 ニコニコ顔のトップは細田久美江。気のせいか昨日より胸元が広いのが目立つ。
 玄関から都一金融組がよろよろと出て来た。
 虚勢を張って肩をイカらせてはいるが、顔中絆創膏だらけで目だけギラついているのはマサ係長。その後にヤス主任達が続いた。
「あら、あの人、ロケにいなかったのに……」
 昨夜、窓から格闘シーンの撮影を見ていたユキちゃんが、ヤス主任の姿を見て囁いた。

「ほんとだ!」 ミツちゃんも驚く。
 ゴンとカズに支えられてヤス主任がヒョロヒョロと出て来たが、朝の太陽がまぶしいらしい。頬がこけ、目が凹んでいる。
「どうしたんだ?」 ヤス主任が叫んだ。
「なにが?」 ゴンとカズが同時に聞く。
「太陽がまっ黄色じゃねえか?」
 すぐ前を行くマサ係長が「ウフッ」と思わず吹き出し、傷の痛みで顔をしかめた。
 後に続くサダ係長とカメ部長がゲラゲラ笑った。ゴンとカズはキョトンとしている。

 あの不思議な現象は経験者しか分からない、らしい。肉体が極度に疲労すると眼球の前面にある透明な膜に濁りが入って世の中全てが黄味がかって見える、と聞く。
 ヤス主任のスタミナ切れがすぐバレた。
 待ち伏せしていたかのようにバラバラヒョコヒョコと逞しい男達が「土木栄組ご一行」の札の付いた駿馬観光のバスから降りて駆け寄り、都一金融の面々を囲んだ。
 見られた格好ではない。頭を包帯で巻いてるなどはいい方で、腕を吊ってるのもいる。

 小柄ながらケンカ上手で大活躍だった都一側エキストラの総大将ヤマカン次長が、イヤな顔もせず身構えた。絆創膏が凄味を増す。
 売られたケンカは必ず買うヤマカン次長が一歩前へ出て、敵のボスだった男の顔を睨んだ。しかし、男はヤマカン次長を無視した。
 その男、カメ部長の前へ進み、右手を斜め下に手のヒラを開いて敵意のないことを示して頭を下げた。とりまきもカメ部長に頭を下げる。
 カメ部長はロケには参加していない筈だ。
 都一金融の連中はキョトンとしている。
「夕べはどうも……」と、男が口に出した。
 カメ部長があわてて手を上げ口を封じたが、
「それで、ぜひ、あっしらと記念写真を……」
 不二テレビの中林監督も眠いのを叩き起こされて記念撮影のまん中に座らされた。
 浜田の存在はとうに忘れられている。
 片足を引き摺った男がカズに近寄る。
「あとの口は番外編だから一人五千円に負けて貰ってくれ。十人で五万円。本番分は五人で三人分は前払済み、全部で七万渡すぞ」
 不二テレビからは十人分の十万円(税込)がカズの手許に渡されている。
 そのとき、ディレクターの松崎が伝えた。
「ぜひ、これからの格闘シーンに協力してください。迫力あったと監督もいってます」

 日豊観光バスのツアー客も玄関から出て来た。退職組らしい人もさっぱりした顔をしている。年輩者ばかりの団体に紅三点、活気に溢れた若い娘が三人いた。秘書室の新人だ。
 三人が、ヤス、カズ、ゴンにそれぞれ駆け寄った。六人の記念撮影のためカメラを渡された日豊自動車秘書から課長と呼ばれた男がファインダーを覗きながらボヤいた。
「なんで、こんなチンピラと?」
 無理もない。どうみてもチンピラだからチンピラなのだ。その中のヒョロっとした男など息も絶え絶えという風情なのだ。
「あら、谷内ゆう子が出て来たわ」
 各社それぞれのツアーがバスの出発を九時としているため、旅館前の広場は大賑わい、それが今、映画でドラマで売り出し中の谷内ゆう子を見つけたから大騒動になった。
 記念写真を、サインを、握手をとモミクチャ。陽子は全日観光バスにたどり着き、敦子とミカ、かおりと短い挨拶を交わした。
「いいわね。あんな男。人の危機(ピンチ)を見てタバコを吸ってるだけの男なんて、最低なんだから」と、陽子がいい、他の二人が頷く。
「でも暴力がキライなのよ」と、かおり。
「時と場合によるでしょ。みてよあの監督」
中林監督が土木栄組に囲まれて困惑している。傷だらけの顔が腫れていた。
「負け組で我慢するからまた頼みますよ」
彼らはこう懇願し、監督が応じている。
「その度に、監督が闇討ちされるのはご免だ」
 谷内ゆう子こと陽子を囲んで五台の観光バスのガイドが集まって記念の写真を撮る。

 佐山会長の発案で、全日観光のツアー客全員が天城大滝荘の玄関前で、陽子と中林監督、旅館のマネージャー格数人を混じえて記念撮影をした。
 他のツアーも同じパターンを狙う。陽子も中林監督も快く応じた。
 いよいよ出発となり、全員がバスに乗る。
 玄関から派手な服装のペアが出て来た。
二人は玄関右端の御遠慮下さいスペースに駐車してあるポルシェにのり込んだが、男がエンジンをかけてから外に出て身体を屈(かが)め、車体の下を覗いた。なにも漏れていない。
「ダーリン、なにしてるの?」と、女の声。
「ガスが空っぽだ」 男が怪訝そうに応えた。

31、 紅女史の麻雀は悪い勝ち方?
      天城路は浄蓮の滝がポイント

「お車は、伊豆の新名所七滝ループ橋に出まして、これから登(のぼり)尾(お)、鍋失(なべうしない)、天城と三つのトンネルを抜け、天城街道を湯ヶ島、修善寺と通り、韮山から右折して富士見パークウエイから韮山峠を経て箱根方面に向かいます。
 途中、この先の浄蓮の滝、十国峠と休憩してまいります。
 七滝渓谷めぐり、天城大滝荘の露天風呂、ご宴会、ゲーム、カラオケ、麻雀と一夜の想い出はいかがでございましたでしょうか。
 今朝は早くからテニスを楽しんだ方もいたようですがお元気ですね。どなたですか?」

 座席は出発前のローテーションに戻った。
「誰です。そんなスタミナのある人は?」
 宮崎あすか先生が信じられないという顔をした。
「あなた方でしょ?」
 と、福原みずえ先生がミッちゃんに問いかけた。
 スナックバーで若手医師グループと遅くまで騒いで顧客獲得レースに打ち込んでいた銀座クラブ一同はそんな余力はない。ミッちゃんがヨコに首を振り、前の方の席のギャルグループを指さした。
 ギャルグループは、不二テレビのディレクターの松崎やスタッフと意気投合し、カラオケコーナーで大いに盛り上がって、朝のテニスまで約束していたが、不二テレビスタッフは午前三時半に中林監督に叩き起こされて、再度眠りについたのは午前六時。テニスどころではない。
 それを知らずにテニス場に出たギャル四人組。もう不二テレビではスポーツとバラエティと芸能以外は絶対見ないと怒っていたが、
「今回のドラマだけは見てやろうよ」
 エミが温情を示したので、日頃ニュースを見ない四人としては何の報復手段もない。

 結局、四人だけで小一時間テニスをした。
「麻雀は、どうなりました?」と、かおり。
 それまで、紅女史に身を預けるように左側の窓から深く切れ込んだ河津川上流の渓谷を覗き込んでいた名取所長が急に睡魔に襲われたらしくコトッと頭を下げ、空いびきをかく。
 相田課長は、聞こえない振りをして窓の外を過ぎて行くまだ紅葉には早い樹々の緑に空ろな視線を多田女史越しに投げている。
 中川部長などは最初から不機嫌で、身体を預け気持よさそうに眠っている細田久美江を邪険にはね除けていた。もったいない話だ。
 内藤主任が石毛青年と敗因について語り合っている。
「オレは、ツモもよかったのになあ」
「ボクだって絶好調でしたよ」
 なにが敗因かが理解出来ないらしい。
 黒川主任は隣りの片岡美佐から麻雀に勝つための確率論を、死んだ子の齢を数えるように教わっている。いつもと同じパターンだ。負けてからあわてて敗因を反省するが、つぎの機会に役立った試しがない。
 ロケが終わってから途中参加の都一金融組のサダ・マサ両係長と、夜中の三時頃から参加のタケ課長補佐も勝ち組の顔ではない。
 はじめは故意に負け、甘い夢を見させておいてここ一番で大きく勝負して骨までしゃぶる彼等の常法が通じなかった。ここ一番という前に夜が明け、お開きになったからだ。
 紅・多田両女史、片岡美佐はニコニコ顔だった。少ない勝ちでもお土産ぐらいは間に合う。ギャンブルはプラスになりさえすれば腹は立たない。仲よく一万円余り浮いた。
 三番目に勝ったのは宮崎あすか先生だった。
 メガネ越しにジーッと相手の手許、指の動き、表情などを眺め、スジを読み、危険と思うと、手が揃っていようと安全パイ以外は一切切らない。振り込まないからマイナスが少ない。勝てる手だとダマテンツモのみでも何でも上がる。ミミッチイ手で上がられるから役マンでテン張っていた中川部長など一気に腐る。
 宮崎先生は徹夜など平気という顔をしている。三万円以上の勝ちだがさほど嬉しそうではない。予算を下まわっているらしい。
 優勝はダントツで細田久美江。圧勝だった。女性からは勝たないが男性からはトコトン絞り上げている。いや、自然に勝てるのだ。
 パイを場からツモるときにかなり低い態勢をとる。そのときに大きく開いた胸元から豊満できめ細かく美しい乳房がゆらゆらと、見ない振りをしてチラと眺める男性の劣情をそそるのだ。これは効いた。
 男達の思考は中断し、集中力は台風に吹きとばされる木の葉の如く失せ、無意識の内にドラなどを切る。内藤主任達はこれが敗因だ。
 他のテーブルでそれに気付いた多田女史が納得したように頷いて、それを真似たところ、それまで敗色濃かった女史のツキが変わり、またたく間にマイナスがプラスに転じた。
 ブラウスの胸のボタンを全部外し、さり気なくブラジャーも外したから、巨大な胸のふくらみがゆさゆさ揺れるが久美江と違って魅力的とはいい難い。ただ大きいだけだから男達も目のやり場に困っている。それでも人情としてチラチラ眺めるのは止むを得ない。
 その間に危険パイを捨てたり前(さき)ツモしてパイを取り換えたり、好き勝手なことをしてプラスに持ち込んで多田女史は挽回した。悪い勝ち方を身に付けたものだ。
 紅女史となるともっと性(たち)が悪い。
 立膝をするから皆ひきつけられる。座卓の陰になるならまだ救いがあるが、テーブルから少し離れてそれをやるからゲームに集中出来ない。焦るからミスが出る。つい危険パイを打ち蟻地獄に落ちる。女史は微笑み、男は嘆く。これで彼女もプラスになった。麻雀のときも和装だった。
 準優勝に輝く春代ママは誉め上手おだて上手で勝った。これは、ビジネス社会で青息吐息で生きぬこうとする特技なし能力なしのサラリーマン諸氏にも参考になる。ただし、何事もやり過ぎは逆効果になるのは当然だ。
「あら。スゴイ! 場に三枚も捨てられてる一(イー)ソーの単騎待ちだなんて。ひらめきネー。さすがに相田さん。やるわね」
 対面(トイメン)の清(チン)一色(イーソー)が怖いから捨てられないだけだった相田氏、流れたから手(て)牌(はい)を開いたのにこういわれて妙な顔をする。誰が一枚もないパイを待つものか。万事この調子で誉めまくるから対戦相手は自分で吸うタバコの煙にもまかれて徐々にペースが崩れてゆく。
 誉め殺されたカモの一人の名取氏、ハコテンを何回も繰り返しながら「お上手ね」をいわれてやに下がって鼻の下を長くしている。
 お上手ならそんなに負けない筈だ。
 プロ雀士の小島名人が名言を吐いたことがある。
「ツモられるのは仕方ないが絶対に振り込まないこと。勝てるときはトコトン勝ちに行くこと」 これが出来れば名人になる。
「昨日のロケで大活躍だった都一金融のみなさまはいかがでしたか。よく眠れましたか」

 ヤス主任はすでに熟睡中、顔色はいくらか生気を取り戻しつつあるようだ。
 あとはもう似たり寄ったり、傷だらけの顔でぐったりしている。
 ヤマカン次長がカズから渡された十七万円をカメ部長に報告した。前の三万円と合わせて、二十万円になる。
「麻雀で負けた奴に補填(ほてん)してやれ」
 サダ・マサ両係長と、タケ課長補佐がこれで救われた。まだ残りが十三万円ほどある。

 タケ課長補佐が、運転手の息子のケガと、自分達が輸血に行くことは事前報告してあるからカメ部長だけは知っていた。
「五万円だけ残してくれ。あとはみんなで分けていいぞ」
 かくして都一金融の面々は、不二テレビ出演記念のギャラを手にして生き返った。
「ようし、これで、大井の軍資金だ」
 ゴンがはしゃいでいる。
「人を殴ってギャラが貰えるなんて……」
 カズがかなり真剣になにかカン違いして転職を考えている。
 車は、天城トンネルに入った。

 3、ミッちゃんは歌を忘れたカナリア

韮山から富士見パークウエイに

「お車は、まもなく左手に昭和の森会館、右手に山の傾斜を利用したワサビ畑などを見て浄蓮の滝にまいります。
 昭和の森は、昭和天皇在位五十年を記念して誕生したものですが、森林博物館と近代文学博物館を併設して、昭和の森会館が建てられました。
 天城山にちなむ動植物の標本や資料、地元ゆかりの川端康成、井上靖、若山牧水、梶井基次郎など百二十名以上の作家の資料が展示されています。
 左手をごらんください。あの大きな屋根とその右側の六角形の建物がこちらの昭和の森会館のシンボルとなっております。
 天城路といわれますのは、昨日通りました湯ヶ野から、これからまいります湯ヶ島あたりまででございますが、この天城路を代表する観光スポットは、今朝通った七滝ループ橋、伊豆の踊子の舞台となる旧天城峠トンネルと旧道、そして今通過した昭和の森会館、まもなく右手に見えます天城いのしし村、これから訪れる浄蓮の滝な
どとなります」
 山が右側に迫り、左の路肩からは深い谷になっている天城路をバスは快適に走る。
「おっ。見えたぞ!」と、黒川主任が叫ぶ。
 道路の右側の小高くなった柵内の広場で、茶の縦線が黄色い身体をきれいに染めたウリッコといわれるイノシシの子供たちが駆けまわっていた。
「こちらでは天城山に棲むイノシシを飼育しまして玉乗り、輪くぐり、障害レースなどの芸を仕込み、観光に生かしております」
 やがて、車は浄蓮の滝入口の広場に到着した。伊豆観光の定番コースだけに、すでに十台以上の観光バスが専用駐車場に並んでいた。
 男性は石毛青年と三宅先生・ゴン・カズだけ、女性は全員参加で滝への坂を降りた。
 やがて伊豆の名瀑浄蓮の滝に着く。
「天然記念物に指定されているシダ類がびっしりと自生する岸壁の真ん中を割いて幅七メートル、高さ二十五メートルの滝が地響き水飛沫(しぶき)を上げて流れ落ちています」
 ガイド役で来ている敦子が滝の音に負けじとばかりに大声で浄蓮の滝について説明する。
「感動的だわ!」 ギャル組も壮嚴な瀑流に圧倒されている。解説は不要かも知れない。
「日本の滝百選に入るこの浄蓮の滝の奥深く女郎グモが棲みつき、渓流魚を常食としていますが、餌が不足したときなど、時折滝つぼから躍り出て人を襲うこともあるそうです」
「それ、ホント?」と、紅女史が疑う。
「ホントだと思いますが、私は聞いただけですから」と、敦子が困った顔をする。誰も聞いていないと思うから、伝説に色を付けて話してみたら、聞いている人もいたのだ。
 あとから降りて来たグループの中に日豊自動車の秘書室の三人組もいて、ゴンとカズを見つけて近付いた。実に嬉しそうだ。
「あら、ヤスダさんは?」
「ああ、ヤス兄ィは、ここの女郎グモの毒気が恐いからってバスで寝てるよ」
 今、聞いたばかりの話を持ち出す。
 ブナやカエデなどが渓谷を包みこむように密生し、樹々の枝葉が空をおおっているため、晝なお暗く、谷風は肌に冷たい。
 他社の秘書ごときに同行者を奪われるのは、細田久美江としてはプライドが許さない。

 楽しそうに語らっているゴンと秘書の間に久美江が割って入った。ゴンの腕をとって坂道を登りかける。秘書達は谷に降りたばかりだからゴンを引っぱる。上と下、かなりの力で引っぱるから、ゴンが悲鳴を上げる。浄蓮の滝周辺の観光客がいっせいにふり向く。
 今まさに、一人の男が数匹の女郎グモに食い殺される地獄絵が始まろうとしていた。
「なんだ、ありゃあ?」
「今、すれ違ったバスは?」
 ゴンとカズが驚きの声をあげた。全員の目がすれ違った時代もののボンネットバスを見送っている。
「ガイドさん。なんやあのバスは?」
 名取所長が質問し、かおりが時計を見た。
「ただ今、すれ違いましたバスは、東海バス修繕寺駅九時二十五分発、天城峠経由のレトロ定期バス『踊り子号』でございます。
 河津行きの他に、浄蓮の滝から出発するバスもあります。運行は日曜と祝日に限りますが、バス停でなくても手を上げれば止まって乗せてくれますし、自由に好きなところで降りることも出来ます」
「車掌さん。着物着てなかった?」と、カズ。
「ハイ。かすりの着物にわらじ履き、おさげ髪の踊り子姿で、大きなガマ口カバンを肩から下げております」
「車はどこの?」と、石毛青年が聞く。
 かおりが運転席に顔を寄せ、浜田になにか聞いてから答えた。
「製造年月までは分かりませんが、みすずボンネットBXD30型で、二十九座席あって定員は四十九名。木の床で出来ているそうです。」
「フーン……」 ゴンが少しの間考えた。
「なんで、あんなバスがあったのに踊り子一座も学生もこの山道を歩いたんだろうな?」

 こんなの相手にしている暇はない。
「お車は天城山懐の名泉、湯ヶ島温泉郷を通過中です。カルシウム硫酸温泉で通風や皮膚病・切り傷・高血圧に卓効があります。
 湯ヶ島温泉は、本谷(ほんたに)川と猫(ねっ)越(こ)川の谷筋に湧く温泉ですが、その合流点近くに二つのアーチ型の木橋があります。本谷川側がひと回りして、大きい男橋、猫越川側が女橋となっておりまして、男と女が腕組みをして二つの橋を続けて渡るとたちまち仲が深まるそうです」
「アッコさん。今度ぜひ一緒に……」
 声の主は三宅先生。宴会で優勝したから鼻息が荒い。敦子に無視されたと知ると、
「菅原ミカさん、いかがですか?」
 それでも返事がないと、
「こうなりゃ、誰でも」と、声も小さくなる。
「誰でもじゃないでしょ。私がいるくせに」
 多田女史がかなり強い口調で叱った。
「よしっ。媒酌人を引き受けよう」
 佐山会長が叫んだ。
 いよいよ、三宅先生は追い詰められた。
「ママさん、席を替わってください」
 多田女史が、三宅先生の隣りに座った。
「媒酌はともかく、挙式の日取りをきめましょ」 麻雀と同じ乱暴で強引なやり方だ。話の筋が通らない。
「湯ヶ島は第二の故郷(ふるさと)と語った川端康成をはじめ多くの作家に愛され「文豪の里」ともいわれる湯ヶ島温泉をあとに、お車は、京都の嵯峨野に似た雰囲気の土地柄から名付けられたという嵯峨沢温泉街に入ります。この左手奥の吉奈(よしな)温泉、この先の月ヶ瀬温泉、西伊豆への国道一三六号沿いの船(ふな)原(ばら)温泉
、それに日活(にっかつ)温泉が加わって、一
大温泉郷を形づくっているのでございます」
「日活? なにそれ、映画の?」
「ハイ。数年前に天城日活ゴルフクラブのところに温泉が出まして、天城観光協会では、湯ヶ島、嵯峨沢、吉奈、月ヶ瀬、船原、日活の六つの温泉に合わせて天城温泉郷としたのです」
 嵯峨沢には町営の温泉プールがありまして、一年中泳ぐことができます。
 また、この嵯峨沢から月ヶ瀬にかけての瀬は、狩野川でも一、二を争う鮎の好釣り場でもあるそうです。
 吉奈温泉は子宝の湯として知られています。このいい伝えのもとは、徳川家康と側堂の阿万の方がこの地を訪れて、ふたりの子供を授かったことによるといわれます。
「私たちも一緒に来ましょうね」
 多田女史が三宅先生に囁いたが、声が大きいからバス中に筒抜となり、失笑と同情を誘っている。
 やがて、月ヶ瀬地区に入ると厚いコンクリート壁が三ヵ月から満月に至るまでの月の形で抜かれている名物の小学校が右手に見える。
「月がもっとも美しく映える狩野川べりの温泉ということで月ヶ瀬という名が付いたといわれるこの月ヶ瀬温泉は、旅館は一軒だけですが桧風呂、温泉プール、冬でも入れる川沿いの露天風呂があり、ここでの月見酒は最高だそうでございます」
「そりゃあ、いい」
 飲ん兵衛の中川部長が手を叩いた。
 車は修善寺町に入った。
「修善寺といいますと、源頼家と修善寺の里に住む能面作りの名人『夜叉王』の娘『かつら』の悲恋物語を思い浮かべる方もいらっしゃると思います。
 北条一族の野望により、ここ伊豆の修禅寺というお寺に幽閉された前将軍源頼家は当時二十三歳。面作りの名人夜叉(やしゃ)王(おう)の評判を聞き、自分の顔を面にして欲しいと依頼しました。
 幾度作り直しても頼家の面には死相が漂っていたために、夜叉王が迷っていると、頼家が面を引き取りに来て持ち帰ります。
 そして、北条方に暗殺されてしまったのは歴史に出てくる通りでございます。
 父に命じられてお供をしたかつらは、頼家を襲った北条方の刺客のまっただ中に頼家の衣装とその面を付け切り込み、重傷を負って父の元に帰りました。
 頼家は、達磨(だるま)山の中腹から流れ出る清流桂(かつら)川の修禅時入口にかかる虎溪(とっこ)橋(ばし)際の温泉に入浴しているときに襲われ、暗殺されたのです。
 それを知ったかつらも後を追いますが、その死相を夜叉王は写します。
 二十歳の娘の今際(いまわ)を見届けた夜叉王は、頼家の面に死相が現われたのは、わが技(わざ)の拙(つたな)さではなく、頼家の武運の尽きたのを神が知らしめ給うた神技よと凄惨な笑みを浮かべます」
「二十歳か、惜しいなあ。美人だったろうに」
 と、石毛青年が昔(いにしえ)に思いを馳せる。
「ここ修善寺周辺は、源氏ゆかりの地でもあり、悲劇の地でもあったのでございます。

 平安時代の名僧弘法大師がこの地を訪れ、病に倒れた父を看病する少年の姿を見て、川岸の岩を手に持った独鈷(とっこ)という金属製の杖で叩いたところ、岩間からお湯が湧き出て、その父親の病は湯治によってたちまち治ったという話が伝わっています。
 その独鈷の湯が、修善寺温泉発祥の地となりますので、修善寺を語るときには欠かすことのできない名所となっており、現在も、共同浴場として多勢の人に利用されているのでございます。
 その弘法大師が開祖となる修禅寺は、はじめ真言宗のお寺で、桂(けい)谷(こく)山寺(さんじ)と呼ばれていましたが、南北朝時代に戦火にあい、室町時代に入って北条早雲により曹洞宗のお寺として再建されたものです」
 車は修善寺橋方面に曲がらず修善寺道路を直進し緑濃い山間を快適に走り抜けた。
 大仁(おおひと)温泉街に入り、狩野川大橋を渡ると狩野川の流れと広く草深い河原を左側に眺めることになる。車内では歌謡大会が始まった。
 伊豆長岡温泉街から韮山温泉も過ぎた。
「平治の乱に破れた源頼朝が流されまして、十三歳から三十三歳までの二十年間、蛭ヶ(ひるが)小島(こじま)の地に……」
 誰も聞いていない。ビデオカラオケの音が消えたから画面も歌い手も口パクになる。
「ガイドさん。カラオケに切り替えて!」
「音を出してよ」
 多田女史と三宅先生が同時に叫んだ。
「勝手に歌わしておきましょ」
 敦子がかおりに囁いた。
 ビデオを流しておけば、つぎからつぎに歌える人がマイクを奪う。マイクは、前と後部にあるから二人が同時に歌い出し競演となる。
 やさしい歌だと車内大合唱となる。
 アルコールが入っているから調子がいい。
 前の席では、多田女史と席を入れ替わった春代ママが紅女史と、マイクの奪い合いを演じるが、残念ながら紅女史は知っている曲が片寄りすぎていて、すぐ春代ママに奪回されてしまう。ギャル四人組は会話に夢中だ。
 後部席は、完全に多田・三宅組対その他全員という図式になった。歌は知らなくてもモニターには発声箇所が色変わりで表示され、その上、素人用にメロディ主体のオケになっている。無理に歌えば歌えないこともない。
 ただでさえ大音響の多田女史が、マイクを用いてのデタラメ歌い。これで気持の悪くならない人がいたら正常ではない。帰宅次第、すぐ精神科の病院で精密検査をするべきだ。しかも、海水に浸(ひた)って板が歪(ゆが)み調(ちょう)弦(げん)の狂ったウクレレと下手なのに自信に溢れた三宅先生の調子外れの声が追い打ちをかける。
 まず最初に川口ヒロ子が「ウッ」と口を押えた。裕子が背をさすりながら後部席を睨む。裕子自身も頭痛がし始めていたのだ。
 つぎの被害者は、ミッちゃんこと半田みち子。なんと正しい歌い方を忘れてしまった。
 歌詞に合わせ細やかな情愛をメリハリのきいた美声にこめて歌うべきところを、ヤケになって叫ぶから多田女史に声も似てくる。
 隣りのユキちゃんに注意されてハッと気付いた時にはすでに遅かった。どう修正しても多田流になっている。ミッちゃんが泣き出した。
 かくして全員、聴くも歌うも多田・三宅軍団に屈したのだ。浜田運転手まで調子の狂った鼻歌が出ていることに気付かない。ハンドルまで微妙に狂っている。危険な歌だ。
「よしっ。こうなったら……」
 宮崎あすか先生が隣りの坂本なつえ先生に提案した。
「あの裏切り者の三宅先生を絶対、結婚させちゃおうよ」
「えっ。それ本気、あの女(ひと)と?」
 死刑に価する判決が出た。この宮崎先生の一言が三宅先生の人生を狂わせることになり、強いては人類を美しく歌うという文化から遠ざける遠因をつくることになりかねない。
 何故なら、多田女史の体型は多産系であり、かつまた要求も激しく、三宅先生がそれに応じかねる時は多分首を締められるかベッドの下に叩き落とされギロチンドロップで処刑されると予測される。子孫が増えそうだ。
 宮崎先生達の会話を洩れ聞いて媒酌人役の佐山会長が加藤教頭に相談する。
「日取りは学校の行事などを考えて、教頭先生が決めてください」
 これで、三宅先生の運命が確定した。あとは二人の努力と三宅先生の辛抱次第だ。
 韮山高校の南側、小高い丘に北条早雲の築いた韮山城の城跡があり、その東三百メートルほど離れて幕末の世襲代官江川太郎左衛門邸がある。竹林が風にそよいでいた。
 その目の前に韮山町立郷土資料館があり、江川邸の北東に本立寺(ほんりゅうじ)がある。
 車は、江川邸から北に抜け、代官屋敷横からバス停五十三次入口から富士見パークウエイに入った。
「あれっ。韮山の反射炉は?」と、三宅先生。
「さきほど、伊豆長岡駅の南側踏み切りを通りまして反射炉を見物しましたが、お気付きになりませんでしたか?」と、かおり。
 モニターを眺めて歌いまくっていては名所見物どころではない。
 急坂とカーブの多い高地を走ると、右手に伊豆富士見ランドが見えた。
 かおりが施設などをくわしくガイドする。
 料金所で車がストップしたところで歌声が止んだ。かおりはすかさずモニターをオフにしてマイクを握った。

4、箱根到着、いよいよ昼食
 
十国峠から見える十の国は?

「十一・三キロの富士見パークウエイの旅もまたたく間に過ぎまして、お車はこれから霊峰富士のお山を左手に見ながら伊豆スカイラインを北にドライブしまして、十国峠から箱根へまいります。
 右手前方をごらんください。形のいい小山が玄(くろ)岳(だけ)でございます。こちらは十国峠と並ぶ見晴しのいい展望地として知られております。
 その先の玄岳インターチェンジでは、昨日通りました熱海城横から登る熱海新道と合流します。この辺り一帯は、秋になりますとすすきの群落が銀色の穂をなびかせて、さわやかな高原の旅情を満喫させてくれます」
「おっ。やってる、やってる」
 パラグライダーが初秋の空を軽やかに幾つか舞っていた。縄張りを犯された鳥が眺めている。熱海街道を横切るとそこからは十国峠道路になる。
「まもなく十国峠に到着します。こちらでは三十分の休憩とさせていただきます」
 数百台駐車可能のパーキングに車が入る。
 富士山が快晴の空にその全容を現わしていて、頂上付近に白煙がなびくように雲が流れていた。エミリーが感動している。
「わあ、きれい。富士山が大きくなったわ」
「富士山の大きさは変らないよ」
 ユキちゃんが水を差す。
「みなさま、五分後にケーブルカー乗車口前にお集まりください。ほとんど歩かないで済みます」
 歩かないで済むから全員が参加する。
 緑の山に映える白い車体に、紺囲みの赤い横線の入ったケーブルカーが四台、約三分おきにフル回転している。
 九月の第一日曜、観光シーズンがスタートしていて観光バスも多いが、家族連れのマイカーがつぎからつぎに入れ替わっている。
「あんな高いところから下見るの恐いな」
 三宅先生が城ヶ崎海岸の吊り橋を思い出したらしい。多田女史がその腕をとった。
「軌道があるんだからこわくないのよ」
 多田女史が前に並んでいた他の観光客をはねとばして下側の窓辺の席を確保し三宅先生を座らせ、自分もその隣りにどっしりと腰を下ろし、甲斐甲斐しく彼の額に汗などをハンカチで拭きとっている。車内はかなり混んでいる。
 ケーブルカーが発車した。
「こわい……」
 三宅先生が多田女史に抱きついた。
 無理もない。高所恐怖症に落ち入った三宅先生に限らずに、その位置から見る下界の景色はもっともスリリングだったのだ。
「まあ、きれい!」「すてきね!」
 三宅先生の前に立って遠のいて行く発着所の彼方に、雄大な富士山から裾野にかけて広がる高原や町並みを眺めていたエミリーやユキちゃん、ミッちゃんたちが感嘆の声を上げた。三宅先生は目を閉じている。
 上部の頂上側の車内から男の声が響いた。
「君ィ、その手を離しなさい!」
「痴漢か?」「誰だ!」
 乗客の視線が山側の満員通勤ラッシュ並みの混雑の中にいる男に注がれた。
 中年の男性が額に青筋を立て目を吊り上げてヤス主任を睨みつけ怒っている。
 ヤス主任の手を日豊自動車の秘書課の若い娘が握っていて、さらにその上にヤス主任の手が重なっている。しかも身体を寄せていた。
 怒っているのは天城大滝荘の玄関前で記念写真のシャッターを押させられて嘆いていた日豊自動車の課長だった。その周囲に同じ会社の同僚が殺気立って集まって来た。
 ヤマカン次長があわててカメ部長に目くばせしたがカメ部長はニヤリと頬に笑みを浮かべ、そ知らぬ顔で近付きつつある山頂の上に広がる蒼く澄んだ空を眺めていた。
 ヤマカン次長もそれに倣(なら)って車内の騒ぎを無視することにした。痴漢の仲間はご免だ。
 カズとゴンも秘書課の娘の手を握っていたがあわてて離れ、ヤス主任を守るように、リストラ退職問題で不機嫌な男達に対決した。
 同行者が痴漢容疑で突き上げられているのを無視するのも出来ないから全日観光グループも前側に集まり、怒号がとび交う。
 敦子もあせって人波を掻き分け前に出た。
「よしっ。その手をそのまま上げなさい!」
 日豊自動車の偉そうな男が出しゃ張る。
 困惑顔の二人がしぶしぶと握り合った手を緊迫した空気に包まれた群衆の上に翳した。

「なんだこりゃ?」
「どうしたんだ佐賀くん!」
 佐賀といわれた秘書嬢の、きめの細かく白いきれいな指がしっかりと色黒のヤス主任の手を握りしめていた。指先の淡いマニキュアが印象的だった。課長が唖然としている。
 ケーブルカーが山頂駅に着いた。
 ドアーが開くと高原の涼風が車内の気まずい空気を一気に吹きとばした。その風はすでにさわやかな秋の気配を運んでいた。
「十国峠日(ひ)金山(かねやま)から眺めたパノラマ風景はいかがでしたか。山頂から眺めた駿河湾、富士山から箱根連山、相模湾側には初島が見え、伊豆七島から房総方面までごらんになられたことと思います。
 片道三分の軌道車で恐怖の体験をされた方もいらっしゃるようですが、みなさま無事にバスに戻られまして、さわやかな初秋の風そよぐ草原を抜け十国峠道路を湯ヶ原峠から箱根峠、さらに箱根芦の湖湖畔へとお車を進めてまいります。
 十国峠の十国とは、昔の地名で十ヶ国を見渡せるという伊豆(いず)、駿河(するが)、相模(さがみ)、遠江(とおみ)、上総(かずさ)、下総(しもうさ)、安房(あわ)、甲斐(かい)、信濃(しなの)、とあと一つの国、これをクイズにします。
 正解の方にテレカをさし上げます」
「ハーイ、分かった」と、ゴンが挙手した。
「あら、もうお分かりですか? それでは権田さん、どうぞ」
江戸。今の東京のことだけどね」
江戸ですか? ほかのいい方はありませんかね? 江戸の国といいましたか?」
江戸じゃあダメ? じゃあ、もう一つもダメかな、湘南は?」
「ダメです」
「武蔵だよ。バカバカしい」と、加藤教頭。
 全員が「なーんだ」という顔をした。
「ハイ、ご名答です。景品のテレカをさし上げます」
 とたんに加藤教頭、笑顔で手を出した。
 もしかしたら、やっぱり考えていたのだ。
「十国峠はドライブ天国の交差点として、周辺のどちらからでも景色を楽しみながら来ることができるのでございます。
 私たちのコースのように伊豆スカイラインからも一つのルートですが、熱海方面から熱海街道、三島方面からは函南町(かんなみちょう)経由で熱函(あつかん)道路、湯河原方面からは湯河原パークウエイで訪れることができます。もちろん、私たちがこれから向かう箱根芦ノ湖方面からも、小田原からの箱根ターンバイク経由、さら
には御殿場方面からは芦ノ湖
スカイラインという手もございます。
 昭和天皇と皇太后さまお手植の植林が見えますが、その前方はるかに富士箱根ランドの施設が見えております。自然を生かしたオリエンテーリングやフィールドアスレチックなどを楽しむことができます。
 早朝ですとこの辺りは霧が深く、視界をさえぎられることの多い地域ですが、本日は快晴、雲は少々ありますが申し分のないツアー日和りです。
 今、湯河原峠を通過しました。
 お車は右にか鞍(くら)掛山(かけやま)を見て箱根峠の交差点に入ります。三島から箱根宮ノ下方面に抜ける国道一号線、箱根湯本温泉方面から長尾峠へと抜ける箱根新道もここで交差しています。
 また、こちらは神奈川県と静岡県の県境にもなっています」
 箱根峠から国道一号線に入ると下り坂になる。芦ノ湖が澄んだ水を湛えて一望の下にその姿を現わした。
「わあ、すてきね」
「遊覧船が見えるわ」
「それよりオレ、腹がへった」
 内藤主任が喚いた。これは全員同じだ。
「箱根は、富士箱根伊豆国立公園の中心となる一大観光地として外国にも聞こえている日本を代表するリゾート地となっております。
 旅館、ホテルは三百軒に近いといわれ、民間企業や教育関係の保養施設は数え切れないほど沢山あります」 かおりが続けた。
「これからの紅葉の季節もまた、春の新緑、夏の避暑、冬の雪景色に劣らない箱根ならではの美しい景色として観光客の目を楽しませてくれます。お車は神奈川県箱根町に入っております。
 箱根の地形は変化に富んで『箱根の山は天下の嶮』と謳われた往時の変らぬ険阻な山と、おだやかな湿原の仙石原、煙たなびく大桶谷(おおわくだに)と小涌谷(こわくだに)の硫黄泉、蒼い水を湛えた山の湖芦ノ湖、豊富な湯量の温泉など、休日などは都会から憩いを求めて訪れる観光客で百十三平方キロといわれる国立公園箱根地区
はどこもかしこもいっぱいで
ございます。
 道の両側をごらんください。
 しゃれたブティック、ティールーム、レストラン、スーベニールショップ、民宿などがところ狭しと軒を並べております。
 箱根町のバス停を過ぎまして左手に箱根登山バスの発着所がありますが、その湖寄りに箱根駅伝記念碑がございます。
 さらにその先の湖畔に見えますのが湖畔箱根ホテルで、ホテル前の棧橋から出航しますのが箱根観光船です。左手の湖上をごらんください。今、就航中の派手な遊覧船がございますね。緑あざやなか船体に赤の見張り台の付いた四本マスト、金色の獅子などの飾りの付いた海賊船バーサ号六百五十人乗りでございます。今、元箱根経
由で桃源台に向かっています」
「海賊船だと身ぐるみ剥がれない?」
 所持金が残りわずかな石毛青年が心配する。
「海賊船はこの他に、赤と白を基調にしたロワイヤル号、赤と青を基調にしたビクトリア号が就航しております」
「今日、オレ達も乗れる?」と、黒川主任。
「本日は、伊豆箱根船舶運航の七百人乗りの大型双胴船はこね丸を予約済みでございますので、海賊船はつぎの機会にご乗船ください」
 いよいよ食事になる。

5、多田、三宅ペア婚約仮発表

芦ノ湖湖畔のドイツレストラン

昼食は、レストランシュミットサロンで今回唯一のステーキ。全員大満足となった。
 シュミットサロンは、箱根駅伝スタート地点近くにあり、そこから地続きの湖畔箱根ホテルが経営する。味で勝負の本格的な洋食レストラン。建物こそコンクリート剥き出しという感じだが、シェフ、店長はじめテキパキと動いてムダが感じられない。
 シュミットという店名は、日本に初めてライカというカメラの名品を輸入したドイツ人パウエル・シュミットの名にちなんだとか。
 在日期間は四十年。シュミット氏は箱根に別荘を持つ日本通として外国にも広く箱根を紹介したことでもよく知られているという。
 その別荘跡地にあるのがこの店だった。
 全日観光は、国際実業グループとも業務提携しているから箱根での昼食にはこの店もよく利用する。
 十二時二十分の予約に二十分ほど遅くなったが実に見事な手際で食事が運ばれて来る。

 茶系で統一したシックな調度品も落ち着くが、オールガラスの前面は芦ノ湖から富士山まで一望できるというロケーションのよさ。
 ビールまたはワインを手にまず乾盃、音頭を春代ママがとる。
 スープが出て、分厚いサーロインステーキが続いた。大盛りのサラダ、当然ドイツパンが付く。特注で特選ソーセージが出た。
「グループのツアーってすてきだわ」
 ユキちゃんは、すっかりこの旅が気に入ったらしい。年に一回は、お店の慰安旅行をしているが、これを三ヵ月に一回に増やそうという魂胆でエミリー、ミッちゃん、チイママは抱き込んである。あとは春代ママを政略するだけだ。
 お気に入りのチョコトルテを口にしながら、春代ママに聞こえるように、せい子チイママに話かける。
「嬉しいわね。佐山会長さんもPTAの二次会にお店を使ってくれるんですって」
「そう。よかった。都一銀行?さんも、銀座でのお客の接待はうちに来てくれるんですって……」
 そこへミッちゃんが口を出す。
「黒川さんもいらっしゃいますわよネ」
「オレも行くよ」と、内藤主任が叫ぶ。
 エミリーがニッコリして敦子に声をかけた。
「浅田さんもぜひ来てくださいネ」
「仲間全員で行くから安くして」
「モチよ。当然スペシャルプライスOKよ」
 春代ママも考えた。自分のカンでもほぼ全員が一度は来店し、三分の一は常連になる。温泉めぐりで遊びまわり食べまくって営業成績が倍増するなら会費など安いものだ。
「今度、改めて箱根に来ようか……」
 つい小声だが口に出してしまった。
 それを聞き逃がす四人ではない。
 たちまち箱根ツアーが決定した。
 黒ビールなど飲んでいた佐山会長が、
「おや、ママは私と二人で来るんじゃなかったの?」と、冗談か本気か分からない。
「あら、それはそれでしょ」
 と、春代ママも巧みにはぐらかす。
「箱根か、いいなあ……」と、カメ部長。
「下田でカモられたアイツに今回は逃げられちゃったから仇討ちやるか?」
 と、中川部長が内藤・黒川両主任に耳打ちしている。
「敦子とかおりが絡むんなら私も来たいな」
 ミカもあらためて来たいらしい。
 突然、多田女史が立ち上がり、三宅先生にも立つように指示した。二人は並んで仲睦まじく食事をしていたが、その間も会話を絶やしたことがない。全員が注目した。
 栄養の行き渡った多田女史の頬がゴルフ焼けの上に紅潮したからマホガニー色になっている。ほんの少し照れ気味に口を開いた。
「本当に突然ですが、私たち二人の婚約を発表させていただきます。正式には両親とも相談しなければなりませんが、私、決心しました。実は、お見合いと恋愛合わせて三十二回の経験がある私が、今回は生まれて始めて胸がときめきました。この人です。この人を私は待っていたのです」
 拍手の中で、紅女史のボヤきが聞こえる。
「ウソばっかり。ずーっと振られ続けたのに」
 それでも手が痛いほどの拍手を送った。
 三宅先生の挨拶が続く。
「私は、見合いの経験は麻紀子さんほど多くはありませんが、実家の紹介も含めて十五回まで覚えていますから似たり寄ったりです。
 私の同僚にも、独身女性は何人かいますが、このように純粋で正直で誠実な人には初めて出会いました。結婚するなら、この人です」
  まわりの独身女性の中の一人宮崎あすか先生が隣りに座った赤木ひとみ先生にさり気なく囁いた。
「明日(あした)から、三宅先生のお茶は私が入れますわ」
「どうしたの、急に優しくなって」
「少量ずつ砒素(ひそ)を混入しますの」
 これだから結婚の話はどこからも永遠に来ない。人間は本能的に危機を避けるからだ。

 お客の盛り上がりに気付いた店員がマネージャーにご一報におよんだらしく、責任者らしい男性が同系列のホテルに電話をしている。
 やがて、ホテルから大きなケーキが届いた。
「マネージャーの小佐山といいます。
 全日観光さんにはいつもご利用いただいていますが、この店でおめでたい話が生れたので私もあやかろうと思いまして、ささやかですがエンゲージケーキをみなさんにプレゼントさせていただきます。食後の飲みものにコーヒーまたは紅茶が付いておりますのでごゆるりとお過ごしください」
「マネージャーもお一人?」と、片岡美佐。
「ハイ。家に一人はいるんですが……」
 これもよく分からない話だ。
 通常、乗務員はツアーメンバーと一緒に食事をしない。別に乗務員コーナーがある。この日は日曜日ということもあって別のテーブルに空きがなく、かおりも浜田も端に座って昼飯を共にし、座が結婚話に盛り上がるのに参加して、ケーキのお裾分けにあずかっている。
 浜田は甘いものが苦が手だが、出されたものは一応口に入れる。
「媒酌人として一言」と、佐山会長が立つ。
「このツアーには、浜南中学PTAの代表として先生方に付き合ったのですが、先生方の参加が少なくて残念に思っていたところ、このように急転直下電光石火の結婚話によってまことに実り多い旅となりました。
 もちろん、まだ本決まりではありません。
 お互いの気持が変わらなければ、挙式は二人の実家のある千葉か甲府、あるいは本当に伊豆高原の教会、箱根という場合もあるかも知れませんね。これもご縁です。そのときは堅苦しくないパーティで集まりましょう」
「いいわね。派手にやりましょ」
 紅女史が急に乗り気になって来た。恋人のいない女性が交際相手と出会うチャンスと場所の上位に、友人の結婚披露宴がランクされていたことを思い出したのだ。
「ドレスアップして、ダンスもやるのよ」
 勝手にイメージをふくらませている。
 小佐山マネージャーがパンフレットを持参し多田女史に手渡した。商売熱心だ。
「神式も教会もスタイルは、どちらでも式場があります」
 箱根だけではなく、関東近県に同系列のホテルがあり、結婚式場がある。
 敦子とかおりが時計を見てあわてた。
「箱根では美術館を一ヶ所覗く予定です。
 お時間の都合であまり長くは見られませんが、今回は、ここからほど近い元箱根の高台にある成川(なるかわ)美術館に立ち寄りまして、そこからすぐ近い伊豆箱根船舶の遊覧船棧橋に直行します。
 お車は、遊覧船の終着地湖尻(こじり)にまわっておりまして、そこから乙女(おとめ)峠を経て東名高速御殿場インターチェンジへとまいります」
 都会にいて通勤の満員電車に揺られ、見慣れた同僚や見飽きた風景を眺めての二日間の時間と、一刻も飽きることなく変化し続ける旅路の二日間、まるで生命の洗濯機だ。
 日本絵画の粋を集めた成川美術館は、近代的な建築様式を採り入れ、天井に明り取りのある明るい室内に、所蔵絵画六百五十点以上の中から四ヶ月毎の展示替えによって常時八十点以上の名品が壁を飾っている。
「いいわあ、やはりこの群青の使い方はいちばんよね」 美術の赤木ひとみ先生が東山魁夷の絵の前で腕組みをする。
「色彩が?」と、福原みずえ先生が感動する。
「量よ。群青をこんなに……、高いのよ」
 さすがに、鑑賞の仕方が一味違うらしい。
 高山辰雄、山本丘人(きゅうじん)、杉山寧(やすし)などの著名な絵画の傑作が揃えられていて、観る人の心を日本画の雅びの世界に引きずり込んで行く。
 展望室から眺める芦ノ湖とそれをとり巻く箱根・富士の風景と、現代の巨匠の作品が、訪れる人の心を幽玄の世界に誘い込む。
 ときには魂を抜かれる場合もある。
 サダ係長を一つの例としよう。
 美術館を出るときに、モヒカン頭の若者とすれ違いざま、身体が当った。サダ係長は頑強だからそのままフラフラと夢遊病者のように立っている。若者がはじき飛ばされて、倒れながらサダ係長に怒声を浴びせた。
「どこえ目え付けてやがる。ドタマかち割るぞっ。このトンマ野郎!」
 カズとヤス主任が目を見合わせた。若者が鼻血を流し腕をへし折られる筈だ。ところが、
「ああ、ごめんよ。ケガはないかい」
 サダ係長はふり向きもせずバスに向かった。
 三十分の芦ノ湖の船旅は快適だった。
 双胴船はこね丸の白い船内に一行が乗り込んだのは元箱根棧橋を二時五十分、あわただしい午後の一刻(ひととき)だった。
 湖上にはボートが浮かび、釣り人が竿を出していた。富士山がくっきりと眺められる。

 湖の色は周囲の緑を映して深い蒼緑を湛えている。箱根神社下の湖中に朱塗の大鳥居が、その蒼緑の中にくっきりと美しい姿を浮かべていた。波が鳥居を打っている。
 遊覧船は、さわやかな初秋の風にかすかに波立つ湖上を白い航路を曳いて、駒ケ岳ロープウェイの始発地点でもある箱根園に立ち寄り、そこで乗り降りの客を整理して終着の湖尻ターミナルに向かった。
「こちらの箱根園水族館では、世界の淡水魚を集め、珍しい魚やアマゾンに棲む魚など約百五十種数千匹を飼育し観光客の目を楽しませているそうです」 敦子がガイドする。
 湖畔の箱根Pホテルの赤い屋根が目立つ。
 右手に白龍、九頭(くず)龍(りゅう)両神社を眺めて、先回りしたバスの待つ湖尻に到着した。
「お土産は小さいものにしてください」
 敦子が叫ぶ。バスはすでに土産物の包みでいっぱいなのだ。一行がまた買い物をする。
「あら、おまんじゅうを蒸かしているわ」
 せい子チイママがほんわかとした香りに乗せられて、注文でつくる芦ノ湖まんじゅうの蒸(せい)篭(ろ)の前に立ったから「私も」「私も」と、つぎつぎに女性陣が並んだ。
 駐車場のバスから降りてターミナルビルに一行を迎えに来たかおりが、この光景を見て驚ろいた。また、バスの出発が大幅に遅れる。

6、三宅先生、暴力をふるう

乙女峠経由御殿場から高速道へ

車は、すすきのなびく仙石原から、乙女峠を経て御殿場ICから東名高速道路に入る。

 本来であれば、盛り上がりを考えてカラオケ大会にしてもいいところだが、多田・三宅組に独占され精神的肉体的苦痛を味わった苦い経験から誰一人としていい出す者がない。
 しかし、その平和を乱したのはエミだった。
「この旅で結ばれたお二人のために、お二人は聞き役にまわっていただいて、みんなで歌謡大会をしませんか?」
「ほう、お祝い歌謡大会かね」と、加藤教頭。
 媒酌人の佐山会長が必死で、めでたい歌を歌詞カードで探し出す。
「冬の木枯し 笑顔で耐えりゃ
 春の陽も差す 夫婦坂(めおとざか)……」
 紅女史は、遠慮がない。
「不幸つづきの おんなに似合う
 つかむそばから消える雪……」
 切々と哀愁をこめて歌うからジーンと来る。
 ユキが歌う。悪気はない。
「ボトルに別れた日を書いて
 そっと涙の小指かむ……」
 同僚の赤木先生まで情容赦ない。
「生きてあなたを恨むより
 いっそ死にたい、この海で……」
「わしが目出たい歌を……」と、加藤教頭。
 結婚披露宴で歌って評判がよかったからと夫婦心中を歌うという。
「夫婦と心中?」 誰だって驚ろく。
「心中じゃない。春と秋で春秋(しゅんじゅう)だ」
「夫婦(めおと)春秋(しゅんじゅう)のこと?」 ゴンだって知ってる。
 加藤教頭のだみ声が響き渡った。
「明日のめしさえ
 なかったなァ……」
「もう少し慎重に考えませんか?」
 三宅先生の結婚熱が急激に冷めたらしい。
 みるみる多田女史の顔が鬼の形相に戻った。
「なにィ、こらあ。もう一度いって見ィ!」
 モニターを切ったから、ハイウエイを走るみすず自動車製デラックス観光バスのエンジン音が快く響いている。
 おだやかな日射しを浴びて霊峰富士の頂きが蒼い空にくっきりと稜線を浮き出させている。麓の町の緑の中に点在する屋根のさまざまな色彩がそれなりに美しい。
 かおりは、座ったまま、まっすぐ前方を見つめた。右側の追い越し車線を、つぎつぎに走行する一般車輌や、つぎつぎに現われては消える沿線の風景に漠然と視線を投げながら、思考がゆっくりと仕事から離れて行くのを感じていた。
 最近、とぎどき目眩がするようにフッと意識が宙を彷徨(さまよ)うように感じるときがある。
 それは、突然のようにかおりを襲った。
 その原因が浜田にあることにかおりは気付いていない。浜田のことを無意識に感じたときにこの現象が起こるのだ。
 殆んど喜怒哀楽を表情に出さない浜田は、昨夜、一人息子の怪我のことでも狼狽(うろた)えを見せなかったが、非情なのだろうか。その沈着冷静さは、陽子や敦子がいうように冷酷さから来るのだろうか。だとしたら、そんな男を好きになる自分は何だろうか?
 今夜は病院に敬太少年を見舞う。
 そこでまた思考が浜田に戻る。
 好きという感情だけは押さえられない。
 車内では、多田、三宅組の口論に加担する者、宥(なだ)める者、争いを煽(あお)る者でけたたましい。
 そのうち、厳しい平手打ちの音がした。
 ついに、多田女史が暴発したか。かおりがハッとして立ち上がり振り向いた。
 車内がシーンと静まり返っている。
 全員が中腰になったりして二人を見つめた。
 頬を押さえた多田女史が驚愕の眼(まなこ)で三宅先生の顔を見つめたが、見る見るその瞳に涙が溢れて来た。殴ったのは三宅先生だったのだ。
 やられたら数倍にしてやり返す筈の多田女史が、突然、三宅先生に抱き付いて嗚咽(おえつ)した。
 意外な展開に一同呆気(あっけ)に取られる。と同時にバカバカしくなったから席に座り直してそれぞれ違う話題を見つけようとするが立ち直れない。二人のことが気になるのだ。
「まもなく、ラスト休憩の海老名サービスエリアです。お時間は二十分の予定です」
 かおりの声で全員が救われたようにリラックスし、車内が平常に戻った。
 バスを降りるとき、三宅先生が優しく労(いたわ)るように多田女史の大きな肩を抱いてる。寄り添うように首を傾(かし)げた多田女史の仕草がいかにも初々しい。
 全員が降りるまでかおりは車内に待機して笑顔で送り出す。ラストはカメ部長だ。
「ちょっと、運転手さんに用あるんで……」
 かおりが心配そうに浜田を見ると、サングラスの奥の目が「先に行け」と伝えているように感じられた。かおりがバスを離れた。
 敦子とミカが建物の入口で待っている。
「どうしたの、あの二人。口論してるわよ」
「昨夜(ゆうべ)のことよ。加勢しなかったから」
 かおりが振り返ると、確かに言い争いをしているように見える。
「最後は、どうせあの運転手、頭下げるんだから」と、ミカが予言した。
「そんなこと絶対ないわよ」
 未練がましく、かおりが目を凝らしたとき、浜田がカメ部長に頭を下げた。
 意気揚揚とカメ部長がバスを降り、その後に浜田が続いた。かおり達は建物内に入った。
 二人の会話を再現するとこうなる。
「夕べは、助っ人を済んません。危なかったところだったのに助かりやした」
「なんのことだ……」
「知らばっくれなさんな。うちのタケが昔、あんたが万世橋署にいたころ、同業のヤクザもんを三人ばかり痛めて傷害でパクられたとき、あんたが担当して粋な計らいで正当防衛にして保釈(はな)してくれたって話してますぜ。その代わりイヤっていうほど殴られて歯が折れて、それを奴らが先に手を出したことにしたとか……」 と
んでもない話を持ち出す。
「人違いだね」
「まあ、いいや。タケも今は堅気のサラリーマンだから。それよか伜さん交通事故で?」

「どうしてそれを?」
「タケが電話で聞いたらしいんで、それで、これは少ないがお見舞いに……」
「それは筋違いだ」
「いや、夕べだって、あのまま続けば、あっしが病院行きだったのは間違いないんだからね」
 押し問答が続いて、見舞金は浜田に渡った。
 悪い金じゃない。テレビ出演のギャラだという。それならそのチャンネルを少し余分に見れば気が済む。浜田は素直に頭を下げた。
 休憩時間を余してバスは再び帰路に着く。
 仲直りした三宅・多田(順位が逆転した)カップルが中心になってカラオケ大会が再開した。今度は、お祝いでも何でもないのに目出度い歌が続く。人の心は単純なもの、素直に喜べるようになれば自然に明るくなるものだ。お互いにビールで乾杯を重ねている。
 坂本なつえ先生が「祝い酒」を歌うと、タケ課長補佐が「祝い船」を歌い、ゴンと久美江が「いい日旅立ち」をデュエットで歌う。
 旅は、名残り尽きない歌の宴で花を咲かせた。
 東京料金所を過ぎ、首都高も渋谷の町が見える位置にまで近付いた。誰もが、渋滞を願ったがバスは刻々と終着駅に近付いている。
 頃合いを見てかおりがマイクを握った。モニターの画面が消える。
「二日間の東伊豆から中伊豆、箱根への旅も無事終りに近付いております。
 想い出に残る出来事もあったと存じます。この旅についてどなたかご意見ご感想などございますか?」
 中川部長が立ち上がった。
「いやあ。申し分ありませんな。ただ残念なのは……」
「なにか、お気に召さないことでも?」
「いや、前の旅行で勝ち逃げされた相手に挑戦するのをすっかり忘れてしまったことです」
「そうだ、そうだ」と、内藤・黒川両主任。
 カズが立ち上がった。
「こんなに旅行が楽しいなんて始めて知りました。ロケに参加したり、徹夜でトランプをしたり……」
「なんだ。おまえたちあの娘(こ)たちとトランプか?」 タケ課長補佐があきれる。
「ええ、こちらはオイチョカブを主張したのに、彼女たちにスピードというゲームを仕込まれて散々カモられやした」
 ユキちゃんが立ち上がった。
「私たち一リュウクラブは近い内に箱根にバスで来ます」
「近い内じゃないでしょ。その内でしょ」
 春代ママがあわてた。ユキちゃんが続ける。
「箱根にもう一度来て、今度は海賊船に乗り、いい男を一人略奪したいんです」
「オレじゃダメ?」と、内藤主任。
「お店に来てくれたら考えます」
 春代ママが納得したように頷いた。
 ギャル組のヒロ子が立ちマイクを握った。
「まだ学生の分際でといわれるかも知れませんが、今まで好きになった人はいます。でも、結婚ということを考えたのは初めてです」
 何を言い出すかという表情で全員が見つめる。
「まだ漠然とした夢ですが、ある人を好きになりました。二歳上です。彼は実業家になるといい、私も信じます。これからこの夢を育てようと思います。今はまだゴミみたいな会社らしいのですが……」
「ゴミだけよけいだ」と、カズが呟いた。
「それ、カズ兄貴のこと?」と、ゴン。
 ヒロ子が悪びれずにニッコリ笑った。
「もしかしたらそうです。あなたは社長室長ぐらいにはなれます」
 カメ部長が手を叩いて喜んだ。
「よしっ。これはいい。社長にひっかけて、写真の写を使って写長にしょう」
「そうすね。写長と、写長室長ってえのはいいすね」と、ヤマカン次長も悪乗りする。

「今日からカズ、おまえは写長だ。いいな。だけど図に乗るな。立場は今までと同じでヤスの下だからな。まあ主任見習いってとこだ」
 都一金融においては、カメ部長の一言が日本の法律より重いことがある。かくして写長および写長室長、略して室長(しつちょう)が誕生した。
「主任が写長をこき使うなんていいすね」
 ヤス主任が隣りのマサ係長に微笑んだ。
 ヒロ子が再度立ち上がり質問する。
「ただ今の勝田さんの件、株主会議で決議し議事録に記載の上登記簿謄本にも載るのでしょうね? 取締役になれるんでしょ?」
「登記簿?」 カメ部長が首をかしげた。
 敦子がマイクを握る。
「箱根の旅行をお考えの方は、ぜひ、私のところにお電話ください。また全日観光のこのバスでご一緒しましょう。お一人でもお二人でも結構でございます。たまたま、何組かのグループから箱根ツアーのお申し込みを受けておりまして、コースその他を検討中のところでした」
 早速、春代ママが希望日時を告げていた。
 東京タワーの横を過ぎ出口も近付いて来た。

7、かおりの想いは実るのか?

終着、つぎなる旅へ

かおりがマイクを握った。
「名残り惜しいことではございますが、東伊豆の海辺から河津七滝、天城から箱根への二日間にわたるツアーも残りわずかとなりました。
いつまでもいつまでも忘れられない想い出もあるかと存じます。
この旅を一つのきっかけとして、さらに豊かな日常生活を迎えることが出来ることをお祈りしまして、全日観光のツアーガイド私守口かおりと運転手浜田芳雄、JTP添乗員浅田敦子の三名、行き届かなかった点をお詫び申し上げ、楽しいツアーをご一緒できましたことに厚く感謝申し上げますと共に、またご一緒出来ますことを心か
ら願っております。
まことに有難うございました」
 深々と頭を下げるかおりと敦子に惜しみない拍手が送られた。
 バスは一般道路に出て終着の八重洲口に近付いている。
 やがて、ゆっくりとターミナルに入った。
「お疲れさまでした。無事到着いたしました」
 ほとんど定刻通りだ。エンジンが止まった。
 いよいよ別れの時が来る。
「来週の土曜日にご両親に挨拶に行くよ」
 と、三宅先生。相当せっかちらしい。多田女史がしおらしく「ハイ」と答えた。
「写真の交換会、みなさんも来てね」
 春代ママがニコニコしている。会場が一リュウクラブに決まったからだ。
「待ってるわよ」
 セイ子チイママはじめエミリー、ユキちゃん、ミッちゃんが全員に声をかけまくっている。荷物をまとめて一人ずつ降車する。
「ヤス、少し顔色よくなったな」
 タケ課長補佐が安心したようだ。
「どっかのガキにオレの血が入ったと思うともう悪いこと……」
「しっ」
 タケ課長補佐が何気ない素振りで指で抑えてヤスを睨んだ。
 車体横の格納庫から荷物を出していた浜田がチラと二人を見たが、何事もないように作業を続けた。謎が解けた。
 工具、赤い車、二人連れの人相・・・そうか? この二人が浜田に力を貸してくれたのだ。
 浜田は心の中で二人に手を合わせた。
 昨夜は、ほとんど寝ていない。敬太の傷が痛んでいないか。眠れたか。食事はしているのか。本当に大丈夫なのか。離れていて心配しても仕方ないのは分かっている。血が足りなければ一滴残さず自分の血を抜いてもいい。
 何回も病院には電話をした。医師も大丈夫だから心配するなといい、看病に来ている甲田良美も「安心して」という。
 かおりも心配してくれていた。
 その気持だけでも嬉しい。
「これ、荷物逆さじゃない?」
 宮崎あすか先生の声でハッとした。生魚の入った発砲スチロールの冷凍ボックスの天地が逆になっている。あわてて上下を直した。
 中腰になって荷物をつぎつぎに出している浜田の視線の先に白い足がある。ステップの下で降車する乗客の一人一人と挨拶を交わしているかおりの形のいい白い足のふくらはぎ部分が避けようとしても目に入る。見てはいけないものを見たように彼は視線をわざとずらせて仕事をスピードアップさせ腰を上げた。
「今度はお手合わせ頼むよ」
 中川部長がわざわざ念を押しに来た。
 タケ課長補佐が近付き、軽く頭を下げる。
「どうも……」浜田も軽めに頭を下げる。
 お互いに言葉は要らない。心が通じた。
 カメ部長が離れた位置から右手をチラと上げた。浜田も同じ動作で応じた。
 女性は、誰も近付かない。
 城ヶ崎駐車場におけるバス内での着替えがどうも誤解を生んだままらしい。その秘密の事情は浜田には伝わっていない。
 その噂はかおり達も耳にした。
 もちろん、かおりは浜田を信じている。
「お土産まとめたいんだけどヒモない?」
 紅女史が、景品で稼いだり買ったりした荷物を抱えかねて、まだ車内でゴソゴソしている。
「ハイ。ちょっとお待ちください」
 かおりが、小物入れボックスを開けた。
「あら、ないわ?」
 それを小耳にはさんだ内藤主任が、
「ロープなら、浮き輪を引っぱったときのロープを貰っていたからオレの席の下に……」

 気軽に車内に入ってゴミをまとめたビニール袋の中から薄い透明なPPヒモの玉を見つけ、かおりに手渡した。
「ありがとうございます。あっ、これ?」
 ロープにハサミを添えて紅女史に手渡しながら、かおりの頭の中が混乱した。
 城ヶ崎の駐車場に入ったときに、ゴミ用の半透明ポリ袋をとり出している。美しくて丈夫ときゃっちコピーの入った赤ラベルのPPヒモの玉をたしかに見ていた。全く同じ品だ。
「変なのよ……」
 かおりが下に降りてから敦子に告げた。
「あのタケさんっていう人。海水浴するのにわざわざ、PPヒモを身につけて泳ぎに行ったみたいなの。でもいつ持ち出したのかしら」
「でも、海に浮いてたのを拾ったって聞いたわよ」
「ウソよ。あれ、この車の備品だから」
「じゃあ、今、流行の超常現象よ」と、ミカ。
「やっぱり……」と、敦子。
「夕べの出来事も……」と、かおり。
 あまり妙なことが続きすぎる。
 三人は、顔を見合わせて首をすくめた。
 棒を持った男が自分で棒を捨てて野天風呂にとび込んだのも超常現象に相違ない。
 これならば納得できる。
 水と油のような三宅先生と多田女史が中睦まじいのも超常現象だとしたら、その呪縛が解けたときが愛の終りになるのだろうか。
 その二人が誰彼となくニコやかに握手をしながら再会を約している。
「結婚式は、今回いただいたパンフを見て式を挙げることにしました」 主導権を得たらしい。
 三宅先生の背後で多田女史が頭を下げている。頬を一撃されて以来、急にシオらしくなっているが、誰もそのままとは信じない。必ず三宅先生が大反撃を受ける事態が訪れる。それがいつかは誰にも予測はつかない。
「あの二人、結婚してうまくいく?」
 ヒロ子が裕子に聞いている。
「占わなくっても幸せになれるわよ」
「二人の結婚を祝して萬歳を三唱しよう」
 少し酔っているのか、佐山会長が提案した。
 調子づくというのは恐ろしいもので、全員が図に乗って三宅、多田ペアーを囲んだ。

 舗道からはみ出してバスの駐車スペースに出たご一行が佐山会長に唱和した。
「三宅ご夫妻の誕生を祝福してバンザーイ!」
「バンザーイ!」
「バンザーイ!」
 何事が起きたのかと道行く人が足を止める。駅の構内からも人が集まった。
 盛大な拍手が観衆から沸いた。
「みなさま、ありがとうございました。これで解散とします。また、お会いしましょう!」
 敦子が手を振ったのを合図に、それぞれがタクシー、バス、JRの乗り場へと散る。

 片岡美佐は、ゆっくりと滑り込んだ車の右の助手席に乗り、立ち去った。出発の時に送って来た車とは車種が違っている。運転している男も違う。美佐が助手席で手を振った。
 ギャル組は、荷物入りのバッグを肩に、銀座へ出て、ヒロ子のショッピングに付き合うという。
「写長も一緒に行かない?」
 声をかけられたカズが遠慮して断わった。
 内藤・黒川両主任と石毛青年は、エミリー、ユキ、ミッちゃんと食事をして帰るという。
 加藤教頭と佐山会長は、春代ママを誘ってタクシー乗り場に急いだ。行き先は不明だ。

セイ子チイママは道路を横切って八重洲ブックセンター側に渡った。荷物がかなりある。

 停車していた車の窓から女の子が手を振っている。夫なのか運転席の男が降りて荷物を受け取り、トランクに入れ、助手席にチイママを乗せ走り去った。
 ゴンと細田久美江は何やら話し合ったが、久美江の誘いを断わったらしい。久美江が一人で駅の構内に消えた。淋しそうだ。
 堅焼せんべい組と教育組の残りは、三宅、多田ペアを囲んでビヤホールへ行くという。日本橋方面に向かってゾロゾロ歩いて行く。多分、雀荘があればそこで二手に分かれる筈だ。
「ヤキニク屋にでも行くか?」
 都一金融社長代行のカメ部長が、スタミナ切れのヤス主任に声をかけ、全員が賛同して有楽町方面に歩き出した。身内だけならカメ部長も自分のペースで酒が飲める。
 この旅でさらにチームワークがよくなった。
 未練気に車内に戻ってゴミを集めていたかおりに、浜田が声をかけた。一秒でも早く社に戻って仕事を整理し、病院に駆け付けたい思いなのだ。かおりの仕事ぐらいは手伝える。
「友だちと一緒に帰りなさい」
 ゴミはほぼポリ袋に可燃と不燃に分けた。
「お言葉に甘えます」 すなおに答えた。
 かおりが手袋をとり右手を出す。浜田のごつい手が柔かく弾力のある手をしっかりと握った。力強い手だ。たった一秒の交流でかおりの胸は高鳴り、身体中熱くなる。顔はとても見ることが出来ない。
 ステップを降り、敦子とミカがかおりの来るのを期待して待っているところに走り寄りながら、いつもと違う浜田を感じていた。
 いつもはかおりが手を出してから手袋を脱ぐのに、右手の手袋を脱ぎ左手に持っていた。
 タバコも吸っていない。
「さあ。カオリ、どこへ行こうか?」
「ごめん。お茶して別れよう」
 敦子とミカが顔を見合わせた。
「カオリ……」と、敦子がいう。
「なによ?」
「あんた。病院に見舞いに行くんでしょ?」
「どうして?」
「顔に書いてあるわよ」
「そうか。書いてあるんじゃ分かるわね」
「あたりまえよ。私たちは仲間だもん」
「一緒に行くよ。だけど認めたんじゃないよ」
「お菓子とお花も買って行こう」
「ありがとう」 涙腺がうるうると弛(ゆる)む。
 ボディに全日観光と書いたバスが、三人の目の前を通過した。三人が手を振った。
 浜田は気付かないのか前を見ていた。
 浜田の頭の中には、母親を持たない淋しさを顔に出すことなく痛みをこらえ、じっとベットに横たわって待つ子への愛しさと、何も出来ない片輪な父に替って救いの手をさしのべてくれる周囲の人に対する感謝の気持が渦まいていた。
「カギッ子待ってろよ。すぐ行くぞ……」
 タバコを口にくわえる。
 カチッカチッと音はしたが、相変わらずライターの火はそう簡単には点かない。
 夕陽が落ち、都心にも夕暮れが忍び寄っている。タバコをケースに戻した。
 街の灯がだいぶ灯り始めている。
 ほんの一瞬、フロントガラスにかおりの笑顔を垣間見たように感じて首をすくめた。
 やはり、今夜の浜田はどこかおかしいようだ。
                      了

         恋揺らぎ城ヶ崎
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 一、
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 二、
 伊豆の山路に分け入れば
 瀬音がさわぎ 胸さわぐ
 Lovesick Heart
 カマダル エビダル 出会いダル
 ヘビダル カニダル xxダル
 渦巻く流れの恋ゆらぎ
 湯ヶ野 湯ヶ島 天城越え
 明日を夢見る城ヶ崎
 苦しい想いの恋ゆらぎ
 恋にゆらぐか城ヶ崎

                       了

 ご愛読ありがとうございました。 花見 正樹