第七章、

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1、宴たけなわ、陽子の台本が届く

                                旅の宴は最高潮!

 

「みなさま、そろそろ、お揃いでございますか。当下田一番館ホテル自慢の写真撮影部がこれから、みなさまの記念撮影をお撮りします。お食事前のほんの数分ですので、そちらの舞台の上にお上がりください」
ズラッと並んだ二の膳付きのご馳走を前に、空腹を我慢して全員、舞台に並んだ。全員の相違で中央には、陽子とかおりが並んで座り、その周辺の場所どりを争ったが、早く食事をしたい心理を巧みに捉えた写真部長のおかげで、パッパッと二回フラッシュが光り、たちまち撮影は終った。前列に座った加藤教頭の後に立った藤井の
目だけには、余分な光が小さく一回づつ反射した。
「お写真は、明朝、纏めてガイドさんのお手許にお届けします」
いよいよ、待望の食事にありつける。
「ざぶっと一風呂浴びたら、のどが乾いてお腹が空いて、目まいがしそうだよ」
若い石毛青年が、本当によろけている。
かおりが一応、最初の司会をした。
「お待たせいたしました。これより、お楽しみ、全日観光西伊豆めぐりツアーご一行さまのご宴会を華やかに開かせていただきます。はじめに、本日のツアーに多人数でご参加いただきました浜南中学PTA会長の佐山さまよりご挨拶と乾杯の音頭をお願いします」
「ガイドさんもご苦労さん!」
「カオリさん、いいぞ!」
湯上りのビールが効いたのか浴衣姿のお兄さんたち元気がいい。
「それでは、ご指名により私が・・・」
自分で自分を指名した佐山会長の一言があって乾杯も済む。
「どなたか、司会進行をお手伝いいただける方はいらっしゃいませんか」と、かおり。
「おっ、いますよ」
内藤主任がすぐ応じた。
「どなたでしょうか?」
「渋沢を推薦します。ほら、渋沢、お前だよ」
「渋沢さんですか?」
かおりが心配そうに聞く。
「こいつは、学生時代、歯科医大の受験に失敗したおかげで、今、難関を突破して、堅焼せんべい本舗に入社できたんです」
「それで?」
「だから、昔、目指したシカイをやらせてあげたいんです」
「なんだか、よくわかりませんが、お願いします」
かおりが司会のマイクをバトンタッチした。
品のいい色調のモスグリーンのワンピースに手造りのシェルのネックレスで、こざっぱりと着替えたかおりは、渋沢青年がぐずぐずしている間、カラオケ索引表を配って歩きながら、
「堅焼本舗の中川さん、浜南中学の加藤先生、作曲家の長谷部さま、女性からはPTAの出川さま、OL代表菅原さま、ヤング代表の中田さま、以上六名さまに宴会の審査員をお願いしたいと思います。皆さま、いかがですか?」
かおりが派凝ると言うと、ほぼ全員が拍手した。
かおりは、その六名に採点用紙を配った。
「審査員になられた方にも、ご出演のチャンスはあります。宴会の後で審査の結果、優秀な方には、賞品もありますし、ご出場された方の全員に、全日観光より記念品がございます。といいましても、S化粧品、M電器などスポンサーからの差し入れですが」
ほんの数秒、間をおいて続けた。
「今、あちらに、ごあいさつに見えました当下田一番館ホテルの松村次長さまからも、景品の寄贈があるそうでございます」
全員の視線が宴会場の入口際に立っている男性に集まり、誰からともなく拍手が起った。
その男が抱えている角箱を見たからである。景品の威力はすばらしい。
「本日は、ようこそ当ホテルをご利用下さいまして、まことに有難う存じます。
ささやかですが、支配人よりみなさまのご宴会用にと、ウイスキー一瓶と、海の幸珍味二ヶの差し入れがございます」
失望の声とブーイングの口笛が上がる。
「ご宴会の余興として、私が抱えております箱の中に三角くじが入っております。団体さま一回限りで、外れはありません。ただし、五等は時価で三千円のスポーツタオルセット。まあ、これが一番沢山ありますが。四等は五千円のお土産券。これは当ホテルの売店以外では通用しません。三等は一万円のお土産券です。二等は、一泊一名さま標準宿泊券です」
「標準というのは何ですか?」
沢木夫人が焦り声で突っ込み、松村次長が切り口上で応えた。
「デラックスではないということです」
「一人で来いということですか?」
「いいえ、ぜひお二人でお越しくださいまして、ただし、お一人分はお支払い頂きます」
「それじゃ結構です」
「つぎに一等。これは、標準宿泊券二名さまとなっております」
ここでようやくまばらな拍手が起った。
「今まで申し上げた景品は、それぞれに見合った数だけくじも用意してあります。つぎは、特等で、毎月お泊りの団体さま全員で一組だけご招待となります。ご家族四名さまご招待、当ホテル自慢のデラックスルーム一泊券でございます」
「エッ、あの一人五万円の部屋?」
加山青年が
「ハイ。お部屋の照らすにも超音波泡沫浴の温泉付きで、海を眺めながらの晩酌も乙なものかと存じます」
満場の拍手が静まったところで、黒川主任が、
「よしっ、それ当てて、四人で徹マンだ!」
「麻雀やるには、少々勿体ないかと」
少々どころか、とんでもない話だ。
「今のところ、今月はまだ、どちらの団体さまもくじ運に恵まれず、この中に特等の当りくじが埋もれておりますので、ぜひ、どなたか挑戦してください」
ほぼ全員の指名でかおりが、全員の「当てろ!」コールの中で三角くじをとり出した。
全員が固唾をのんで見守る中でくじが開かれ、その中に書いた小さな字が宴席に向けられた。松村という男の表情が変った。
「今月一番の大当り、特等賞です」
場内の雰囲気が一気に盛り上がり、拍手喝采が続く。
ただ、それからが大変だった。
かおりが当てた特等賞をどうするかで一悶着あったが、ホテル側の趣旨通り、宴会用として、カラオケおよび演芸大賞の商品に当てることで意見の一致を見て一件落着となった。

 

2、気分だけはプロ並みで

                      下田の夜に花が咲く。

 

早速、余興の申しこみが殺到した。
グループ毎に代表が選抜され、それだけで大騒ぎ。進行係の渋沢は、申込順に演題と氏名を書きとるのに大わらわで、もう、料理どころではない。結局、かおりが司会を手伝う羽目になり、食べ放題飲み放題の夢は潰えていた。
トップバッターは、意外や小山家の二少年、大人たち尻目に、無伴奏でテレビアニメのテーマソング「クレヨンシンチャン」を歌うが、審査員六人の内、クレヨンシンちゃんの歌を知っているのは中田裕子だけだから評価もできず、拍手しながらもキョトンとしている。それに続いて次々に出演者が続いた。さすがにこれだけの人数だと芸人もいるものだ。
歌あり、踊りあり、漫談ありで刻が過ぎる。
加山青年と川田夫人のデュエットで「男と女のラブゲーム」、かなりアルコールも入っているから、男が「耳もとで」、女が「幸せを」と歌い、、男が「くちびるで」のところで川田夫人が加山の頬にキスをして大受け、座はますます乱れてゆく。
食前酒に珍しく、山桃の果実酒も出て女性に喜ばれている。前菜には、伊豆山中から採れた山菜の四点おしたしが出た。それにしても、さすがは下田だけに海の幸は豊富だった。良型の伊勢エビの姿づくり、金目鯛の煮付け、わたり蟹の味噌和え、さらには牛肉のステーキが付いて和洋折衷となっている。伊豆の清流からも鮎の塩焼きが出たし、松茸の土瓶蒸し、かさごの唐揚げ、くらげの酢のもの、数え切れないほどの食べ物飲み物が並んでいる。
飲み物は、ビールとお酒が各自に一本づつ付いていて、そのあとは追加自由、宴は盛り上がった。
歌が続き、踊りが出る。最初は宴会中座を企んだギャル組も、間中ジュンが抜群の歌唱力で参加したから居座っている。
ノラ黒川主任が長淵剛の「とんぼ」をフリを付けて歌って踊って喝采を浴びている、
PTA組では、出川夫人の熱演が目立った。旅行の幹事を引き受けただけあって積極的で、体格もいいから声もいい。あばれ太鼓などを熱唱、審査員としてのも自分が自分自身を審査して何点入れるのか。
「やぐら太鼓の灯がゆれてぇ、そろい浴衣の夏がゆくう・・・」
ひと通り役者が出揃って、かおり達四人組にも、司会の渋沢青年からお声がかかり、逃げるのも大人気ないから、かおりも「伊豆の浜辺で」を歌った。次いで浅田敦子が舞台に上ったとき、入口の戸が開いた。
「谷内ゆう子さん、バイク便の荷物です」
ホテルの従業員に、荷物が来たら届けるように伝言してあったので宴会場まで来たのだ。
荷物を手渡しながら若い男、用意してきたサイン用色紙を出して頭を下げた。
「谷内さん、サインをください。荷物の方のサインは私がしておきます」
席に戻ると、司会進行を渋沢に任せて、かおりが割り込んで来て「どれどれ」と、荷物を開けはじめる。
その間に、敦子が歌い始めると、飲んで騒いでいた全員が静かになり、敦子を見つめた。JTA航空スチュワーデス約五千人中一、二といわれる歌唱力抜群の敦子の歌声は、プロ顔負けで素人離れしている。
「忘れーないわ あなたの声・・・優しい仕草・・・手のぬくもり・・・」
歌のあとに続く横文字言葉を、さすがに国際線スチュワーデス、流暢な発音で歌いこなすが、江戸っ子だけに少々巻きじたなのがご愛嬌、盛大な拍手を浴びて舞台を下りると、かおりが見ている台本を覗きこんだ。
「どう、どんな役?」
荷をほどくのももどかしく、ミカが台本を先にのぞきこんでいる。
「あら、おそでの役だわ。よかった。お岩じゃなくって」と、ミカ。
「似たようなもんよ。早速、部屋へ行ったら練習しなきゃ」
ミカが張り切っている。
「えっ、今夜、お化けごっこ? 嬉しい!」
かおりまで、参加する気になっている。
「うそよ、家に帰ってから一人で練習するから、あなたたち、安心して眠ってよ」
「だめ、練習しなきゃあ。時間が足りないんでしょ」
かおりは、自分が芝居をやりたいのだ。
宴会は一通り歌も出尽くして、中締めになり、白いご飯と味噌汁、香の物、デザートの西瓜の小片が配られ始めた。
司会の大役を終えた渋沢青年は、それまでは、お酒とビールで我慢していたが、席に戻るや否や、猛烈な勢いで二の膳付きの食事を平らげ始めた。大胡坐をかいて浴衣からはみ出た膝に、刺身に付けた醤油をしたたらせながら、何日も食事にありつけなかった欠食児童のように、ガツガツと美味しそうに貪り食べている。
審査員に選ばれた六人が、幕を下ろした舞台の内側に集まって折りたたみ椅子に座り、車座になって話し合っている。意見交換を纏まらないのか、ひそひそ話が徐々に声高になってくる。
「歌唱力は、はるかに彼女の方が上ですよ」
長谷部が主張している。
「いや、絶対譲れません」
加藤教頭もかなり力んでいる。
しばらくして、審査員が幕の横から姿を現わしたが、出川夫人がニコニコしている。
「それでは、演芸大会の結果を発表します」
加藤教頭の声に、注目が集まった。
単なる旅行の夕食会が、いつの間にか演芸大会にすり替わっている。
「トップバッター賞は、小山家のご兄弟、その度胸が気に入りました」
全員に推され、陽子が景品を渡す役をした。
拍手に送られ、少年二人が嬉しそうに前に出て、景品のM電器提供の小型ラジオを一つ貰って、その場で早速奪い合いで争ったが、それを見たホテルの松村次長が部下に命じて、一つ増やして弟にも与えたから兄弟仲良く笑顔で喜んでいる。
「あとで一緒に聞こうね、お兄ちゃん」
「バカだな。ラジオだから好きな時に聞きな」
その兄の手に、ルームキーがぶらぶらしているのに気付き、景品を渡す陽子の助手をしていたかおりが聞く。
「お父さんとお母さんは?」
「さっき、ちょっと用があるからパパと出かけるからって。食事が終ったら、先に寝てなさいっていうんだ」
「そう。じゃ、これからお部屋に帰るの?」
「ううん、帰らないよ」
「じゃあ、どうするの?」
「ゲームやるんだよな、なあ雄介?」
ふと、かおりは胸騒ぎがした。
どこの演会でもあるように、がんばりま賞、今イチで賞などが続いたあと、大詰めとなり加藤教頭が発表役を買って出た。
「あと三賞ですが、甲乙付けがたく・・・優秀賞は間中ジュンさん」
これは一同が納得の拍手だった。
「歌唱賞は浅田敦子さん!」
これも、納得の拍手で盛り上がる。だが、そうなるとチャンピオンがいなくなる。誰もが疑問を持ち始めていた。
「最優秀賞は、演技力も含めまして出川さん!」
これは、不納得のブーイングで騒然となるが、無理もない。審査員の自分がゴリ押しして他の審査員を屈服させたのだ。
「まあ、これは余興ですからプロ紛いの皆さまより、場を盛り上げた迫力を買いまして」
加藤教頭は、自分もごり押しに賛同したことなどおくびにも出さない。
「審査員のみなさまも、三人の実力はほぼ横一線ということでしたが、結果は以上の通り全員一致で決まりました」
横一線どころか、景品はまるで違う。
ジュンは、S化粧品の携帯旅行用セット。敦子は、SE社提供のハンディカラオケマイク、通称マメカラ。どちらも二万円はしない。こうして出川夫人には、お一人さま五万円のデラックス宿泊券四人分が手渡された。
加藤教頭がさり気なく、小声で、
「ホテル券は、ご一緒に有効に使いましょうな」と、釘を差すことを忘れない。
それに応えて、出川夫人が渋々頷いた。
かおりが、一同に報告する。
「女優・谷内ゆう子さんは、明日の早朝、仕事で先に帰京しますので、今、ご挨拶をと」
そこで、陽子が頭を下げ、お礼を述べた。
「皆さまとご一緒で楽しく過ごさせて頂きました。また、次の機会には是非、参加させてください」
陽子を満場の拍手が送って座が中締めとなり、半数の人が席を立った。
千鳥足の内藤主任が、「カオリさーん」と、肩に触れようと近付いて来たが、かおりが横に動いたのでよろめいて倒れた。
丁度、ホテルの従業員がかおりを呼んだので、そちらに動いたからだ。
「ただ今、お客さまの佐々木さまに、ご面会の方がお見えでございます。一階のロビーでお待ちいただいております」
佐々木氏はと見ると、まだ席を立たずに、ニセ夫人にからまれながら泰然としてしてウイスキーの水割を飲んでいる。
ニセ夫人は、すでに酔い痴れて呂律が回らず、収拾のつかない状態になっている。
かおりが近付いて目くばせし、佐々木氏が立ち上がったところで、来客のある旨を話すと、
「この人を部屋に運んでから行きますので、ロビーでお待ちください」
佐々木氏はニセ夫人を抱き起こし、脇の下から手を廻して巧みに抱え、人形師よろしく、ヒョイヒョイと歩かせながら、部屋を出て行った。そこには、少しも面倒を見るなどというおこがましさもなく、優しさに溢れている感じが伝わってくる。
「あの千分の一でいいから、あの人が優しくしてくれたらいいのに・・・」
かおりは、頭を振り幻想を振り払った。

3、らんの里事件解決。海辺の暗闘

                       下田港岸壁にも静かな穴場あり

 

佐々木氏を前にして、恰幅のいい年配の男が深々と頭を下げている。
「先刻は、大変なご無礼を働きまして申し訳ありません。私、父親の望月市太郎です。まさか、あの場で、日頃おとなしいこの娘が、あんな大芝居を打つなんて、これの弟もあの場にいて、乱闘争ぎで足を捻挫して帰って来ましたが、まったく、誰もが、昔の恋人に出会ったとばかり、先方とも当然、破談の話になりました。売りことばに買いことばで、結納金三倍返しでケリをつけて参りました。おかげで娘は嫌な結婚から救われました。とりあえず、お名前とホテル名を聞いていたもので、お礼に駆けつけた次第です」
「仕事の絡みはいいのですか?」
「お察しの通り、仕事は先方との提携がご破算になり、保証もとり消されて、たぶん苦境に入ると思いますが、やはり、娘の幸せが一番です。この娘は、順子といいますが、いずれは、あなたさまのような立派な方を見つけて幸せにしたいものです」
ここで包みから何かを取り出した。
「つきましては、些少ですが、お詫びの印に」
御礼、かなり厚い白封筒をテーブルの上に置く。
「いや・・・」
佐々木氏は、無造作にそのまま白い封筒を押し返し、順子という娘のきめ細かい健康そうな顔と、伏せてはいるが長いまつ毛の下の澄んだ瞳と厚みのある形のいい唇を見て、
「いい女だなあ」
は、腹の中。封筒より娘に未練はあったが、煩悩を断ち切るように、さっと立ち上がり、
「どうぞ、お幸せに・・・」
軽く頭を下げたところに、かなり酔いのまわっているニセ夫人が血相変えてよろけながら駆けつけた。
望月父娘は深々と頭を下げ、卓上の封筒を押しいただき、額に当ててから娘に手渡し、歩きながら目を伏せ、玄関を出た。
「封筒を見たわよ。慰謝料を払ったのネッ」
もう、こうなっては、百年の恋も冷めて当然。傍から見たら一緒にいるのが不思議だ。

こちらは、夜の闇に包まれた海岸べり。
五、六人の人影が暗い方へ暗い方へと動いていく。散歩にしては緊張感が漂っている。
小さい声で罵る声がして、反論を試みた男が足蹴りにされて沈黙した。
女の声がヒステリックに反抗したが、それも脅迫されてか静かになる。
囲まれているのは、小山夫婦。囲んでいるのは、身のこなしからみても一般社会人とは思えない。彼等は、債権取立の仕事を歴とした職業だと自負し、プロだから依頼された仕事を完遂させるためには手段を選ばずという信条を守っている。それが彼等の正義なのだ。
しかも、昼より夜に強いから始末が悪い。
小山電器店は、電機工事を主体にしていたが、事業拡大を計り、家電製品やパソコンの販売に手を出し、秋葉原にも出店して熾烈な安売り戦線に介入した。経営者の体質からみて激しい争いは無理。たちまち借金と不良債権と在庫の山で、ついに倒産に至ったのだ。
遊覧船サスケハナ号の停泊している埠頭は人が多いが、そこから下田公園方面に入ると人気も少なく照明も届かない。
雲が出て月明かりもない。
暗いのを幸いに、小山夫人の肩を掴んでいた男が、その手を腰に回して、足と踏まれた。
低く押し殺すような声が闇の中で続いている。兄貴分らしい男が凄味を利かせて、
「何回も同じことを言わせるな。今、ここでお前ら二人を消してもいいが、それじゃ債権取立業のわしらの顔が立たねぇんだ」
脅しをかけ、ふっと軽く口調を変えた。
「明日になれば、債権者が押しかける。鍵のかかった家に押しこめば家宅侵入罪になるが、本人承諾の上で鍵を借り、売上帳を拝借する分にゃ誰に文句を言われることもねぇだろう。
わしらは合法的な正しい仕事をモットーにしてるんだ。それも今晩中に片付けたいんだ」
他の男が、
「な、今、兄貴、いや部長のいう通り温和しく鍵を渡しな。ポケットにあるんだろ」
「鍵はありませんよっ。ホテルの荷物の中に置いて来ましたから。あなた方、それに何ですかっ。帳簿をどうしようというんですっ?」
「おっ、亭主は怯えて口も利けないのに、威勢のいいオバさんだな。帳簿があればな、掛け売り先や在庫、財産なども分かるだろ。売り先から合法的に回収できるってぇ寸法さ」
「そんなこと法律で出来ないでしょ」
「出来るからこうして紳士的な談合をしてるんじゃねぇか。きちんと承諾書にサインさせるさ。あくまで正しく平和に美しくだ」
「サインなんかしませんっ」
「おっ、オバさん。強気だな。ホテルでうろうろしてるガキ二人、道に迷って海で溺れ死ぬってぇ筋書きはどうだ。それとも、事業の失敗で一家心中って新聞の見出しもあるぜ」
「子供には、関係ありませんっ」
「あるかないかはこっちが決めることさ。おいっ、サダ。てめぇ、この亭主を連れてカギを取って来な。帰りにまたこの亭主も連れて来るんだぞ。そうだ、マサ、おめぇも一緒に行ってガキも一緒にかっ浚って来い」
「カメの兄貴、いやカメ部長、その亭主より、そっちのオバさんの方がよかありませんか?」
「バカいえ、この女は、もう亭主なんかに未練はねぇからホテルで騒ぐに決まってるじゃねぇか。さすりゃ、こんなダメ亭主の生命取ったって一文にもなりゃしねぇやね」
「あっ、そうか。さすがカメの兄貴だ」
「兄貴はやめろ。部長っていえって言ったろ」
「じゃ、オレのことも課長って呼んでよ」
「マサ。おめぇ、いつ課長になった?現場主任ってとこだろ。その辺で手を打て」
「じゃあ。係長まで格上げしてくださいや」
「分かったよ。じゃあ。マサ係長、サダ係長と一緒に行って鍵とガキを預って来い」
「へい。これが会社でいう業務命令ってやつですかい。こら!亭主、なにボヤボヤしてやがる。とっとと来い」と、小山氏の腰を蹴る。
「こらっ、お客様に手荒なことは止せ。済みませんね、ご主人。よろしく頼みますよ」
「あんた。子供たち連れて来ちゃ駄目よっ」
「うるさいオバさんだな。連れて来るのはうちの舎弟、いや係長なんだから心配しなさんな、温和しくしていりゃ、全員無傷だし、どうせ債権者に行くものを譲渡するんだから、あんたたちの腹が痛むもんじゃないだろ」
岸壁のはずれに二人残って小山夫人の監禁を続け、サダが短刀を手に小山氏に続いた。
ほんの少し歩いたところで異変が起きた。

 

4、肩書を気にし過ぎる

                        世の中は甘くない。

 

よろよろと先を歩く小山氏をやり過ごして、それに続く係長二人が目の前に来たとき、暗闇の底に石のように動かなかった影が跳躍し、疾風のように二人を襲った。
少年の頃、地べたに蛙を叩きつけたことのある人は、あのグエッという音を耳にした筈。また、蝮の尾を持って頭部を叩きつけたときの鳴き声のない不気味さを味わった人もいよう。二人の崩れ方がそれに似ていた。
蛙の方は少し身体をよじったが、気絶したのかお寝みになったのか静かに倒れている。
蝮の方は脇腹を抱えながらも、右手を上着の左裏に特別誂えしたポケットに手を入れ、隠し持った短刀の柄を握って引き出したまでは上出来だが、跳びかかった影に強烈なヘッドロックを食らわされ、力が抜け、完全に落ちた。小山氏は何も気付かずに歩いて行く。
「なんか今、妙な気配がしたな。タケ、おまえちょっと行ってみて来い」
「あっしにも肩書きをください」
「よし、タケはやつらより先輩だから、課長、いや、課長補佐ってとこかな」
「ホサって何です?」
「何でもいいから早く見て来い。補佐ってぇのは偉いんだよっ」
「そりゃ、嬉しいな」
一応喧嘩も仕事の内だから、用心深く、左手の甲にメリケンと呼ばれる鉄製のギザ山が三つほど付いた金具をはめ、右手に短刀を抜き、身構えて斜行しながら用心深く係長たちの後を追った。
さすがに夜行性の獣だから目が効く。
五メートルほど先にボーッと無防備に突っ立っている人影を認めたのだ。
低く「サダッ。マサッ」と、呼びかけたが返事がない。ならば、相手は敵に間違いない。
喧嘩のコツは先手必勝、即断即決、積極果敢と教科書に書いてあったかどうか、あったとしても難しい漢字は読めないタケ課長補佐、今まで成果を上げてきた戦法通り、体を低くして左手を斜め左前に出し、顔への攻撃を防ぐ体勢で、右手を脇腹につけ、短刀の刃先を前にして一気に走った。相手に触れた瞬間、右腕を前に突き出し
串刺し。これで何回も刑務所の世話になっている。
相手がどう動こうと摺り足だから右でも左でも体勢を変化させながら臨機応変に戦える。あとは闘争本能と経験がモノを言う。
もう一息で勝利の女神は、タケ課長補佐に輝いたかに思えたとき、足が躓いた。蝮のマサ係長が、今までの睡眠不足を補うかのように、ぐっすりとお寝みになっていたのだ。
蹌踉いた課長補佐の前で、黒い影がとび上がり、勢いのついたゲタの角が、前のめりで低い姿勢になってお誂え向きに突き出した後頚部の急所に、全体重をかけ宙から振り下ろされ叩き込まれた。踵落としとは洒落た芸だ。
その瞬間、頭の中が真っ白になり、その白いスクリーンに電線がショートするように火花が散った。その火花の向う側に、大きく羽を広げた蝙蝠が飛んだのを、悶絶する前に確かに見た。しかも、羽ばたいた影に白い部分も見えたのだ。彼は恐怖の中で気を失った。
幽霊見たり枯れ尾花、とか、真実はいつも大それたものではない。
タケ課長補佐が将来語り継ぐことになる恐怖体験も、実は種を明かせば簡単。大きく羽を広げたように見えたのは、浴衣がだらしなく広がっただけ。白いのはトランクス。そこからはみ出たモノまでは見えなかったらしい。
「ちょっと待ってろ。絶対にここを動くな。少しでも動いたら亭主を殺すぞ!」
そこで亭主では効き目がないことに気付いて訂正する。カメ部長は異変に気付いたのだ。
「ガキ共を海の中に叩きこむぞ」
これも、海水浴に来た少年だったら喜ぶだけだと気付き、あわてた部長、
「方法はこれから考えるが、とに角動くな」
と、何やら妙な空気を感じたのは確かだ。
一応、背広下のホルダーから、共産圏らしい密輸入の不良品で弾道の定まらない拳銃をなどをとり出し、闇の中で凄みを効かせるが相手には見えない距離だから迫力がない。
ゆっくりと用心深く、音のした方に近づいて行く。
ただ、この部長の出足が一歩遅れたため、相手は余裕が出来たのか、暗闇で草に腰掛けてタバコを喫っていた。
闇の中にタバコの火がかすかに浮かんだ。
部長は、引き金に指を当て、いつでも引き絞れるように構えてゆっくりと接近した。
すると、その赤い火がゆらゆらと闇の中に揺れ、それは、前後左右上下にと変幻自在に、しかも消えたり点いたりと不気味に変化する。
さらに、カメ部長には運が悪いことに、風が海から吹いているため、海を背にしている自分にはタバコの匂いがせず、相手の姿も闇に包まれて正体が見えない。
カメ部長の姿は海を背にして、くっきりと黒い影となっていた。
風が急に強く吹き、カメ部長、本名亀田吉五郎の背中がゾクゾクっとして寒気がした。
本当は、風邪を引き加減で寒気がしたのだが、少々、人魂めいた赤い火のゆらめきで腰が引けていたから、その寒気が気味悪く、喧嘩なら恐れを知らないカメ部長の心臓の入口に、弱気の虫がチョロチョロと蠢き始めていた。それでも一応、その道のプロだから逃げはしない。いざとなれば生命を捨てる覚悟もあるが、幽霊相手じゃ
死んでも死にきれない。
そのとき、フッと、ゆらめいていた火が空をとんで消えた。まるでUFOだった。
その流れ星にも似た航跡を目で追ったのが間違いだった。柔道三段でも油断はある。
古いビルを壊すときにクレーン車で吊ってビル壁をたたく鉄の丸玉を目いっぱい遠心力をつけて叩きつけられるような衝撃を額に食らってカメ部長がよろめき、足を乗せたところがぐにゃと動き、「ゲッ」と人の声、思わず本能的に一歩退って思いっきり蹴とばした。
痛いから蘇生する。目が覚めたとたんに倒れる前の自分に戻るから、蹴って来た男に殴りかかる。寝ているヤツを蹴とばす。蹴られて痛いから起きて殴りかかる。それで、四人入り乱れて乱闘となる。喧嘩のやり方は各自それぞれ決まりきった型があるから、身内だということはお互い分かっているのだが、殴られて嬉しい筈はない
から、一つやられたら二つ殴り返そうとする。二つが四つになり・・・。
それに、この際、日頃は手を上げることの出来ない兄貴分を、思いっきり殴り倒せるから意識してカメ部長を狙って手と足を繰り出したから堪らない。いくら強いといっても三人を敵に回しては、川田と三沢それに小橋の三人と闘う馬場社長のようなもの。
「オレ、オレ、オレだ。カメダだ!」と叫んで身内の争いが終ったときには、四人共歩くのもままならない姿で、ジャングルの中を飢えとマラリヤで死の寸前を彷徨う敗戦の将兵さながら、まず立つのがやっと。
服はボロボロ、血だらけ傷だらけ。二人一組で肩を寄せ合ってフラフラと、中古だがベンツなど停めてあるホテルの駐車場にと這う。
「幽霊だ」「蝙蝠だ」と、敗因を妖怪に転嫁。
カメ部長の額をカチ割ったのは、下田一番館ホテル名入りのゲタだった。
ゲタを投げた男も、片方のゲタは履いたままへっぴり腰でゲタ探し、百円ライターをカチカチさせて、ゲタの代わりに匕首や短銃を見つけて困惑している。
しかし、それに触れようとしないところを見ると、どうやらこれも素人ではなさそうだ。
指紋が付着するのを避けたのだ。

5、へこ帯で人間が釣れる下田港

                          夜風が運ぶ紫陽花の香り

 

下田港のほとりは、快い夜風が、咲き誇る紫陽花の香りを運んだりしていた。
風向きが変ると、魚釣などでも、入れ食いだった魚が一瞬にして餌を見向きもしなくなる。ここでも何やら風向きが変っていた。
ふらふらと生気を失った男が闇の中を歩いて来る。お題目のように何かを言っている。
「鍵を持って来たぞ。ワイフを返せ」
その声をようやく聞きつけて、
「あなた。無事だったの?子供たちは?」
「おまえ一人か?」
「あの人たちみんな、あなたと一緒じゃなかったの?」
「いや、途中からいなくなったようだ」
「じゃあ、子供たちは無事?元気なのね?」
「ああ、ゲームコーナーで夢中だった」
「よかった。それにしても、どこへ行ったのかしらね。その辺にいるかも」
「シッ。聞いているかも知れないから、小声で」
「あの執念深い男たちが、諦める筈ないわよ」
「やっぱり、囲まれてるかな。とりあえず、家の鍵を渡しておくから預かっておいてくれ」
「これで、明日帰るとすべては終りなのね」
「やはり、当初の計画通り、保険金をいただく工夫しかあるまい。それには、私が死ぬか、殺されるしかないが、それも怖いことだ」
「だから、私が言うとおり、死んだことにするのよ」
「そんなことできっこないさ」
「あなたに度胸があればできたわよ。堂ヶ島でも船に乗ったでしょ。なにか方法はあったはずよ」
「どうすればいいんだ」
「あなたは、あなたの家族を残したいと思わないの。子供たちを幸せにしたいと思わないの。あなたが力もないのに無理な拡張をしたからなのよ」
「だから、どうしろといいたいんだ」
「私からは言えないわよ。石廊崎の岬から間違って滑ることもあるでしょ」
「そんなことしたら、死んじゃうじゃないか」
「滑ったことにして隠れていて、一時、姿を消すのよ。私が目撃者で証言するわ」
「そんなことできっこないさ」
「できるわ。時刻表も用意してあるから、人の目に触れない時刻を見計らって移動し、地方に身を隠すのよ。別人になりすまして」
「そんな恐ろしいこと。考えられないな」
「考えるのよ。それで一家安泰なんだから」
「じゃあ、こうしよう。今、ここで、海にとび込むことにしよう」
「でも、ここはダメよ。港の中だから潮も流れてないし。潮の流れのはげしいところなら、死体が流れたことにできるでしょ」
「でも、本当に死ぬなら」
「バカねぇ、あなたが、そんなことできるわけないでしょう。それぐらいなら今までに」
「ようし。できるかどうか見てろ」
「できっこないわよ」
「できたらどうする?」
「驚くだけよ」
「ようし!驚かせてやる!」
「いつも、それなんだから。無責任!もっと真剣に死んだ気になって働けば、どうにでもなるのに」
「もう、私は疲れたんだ」
「疲れた?あなた卑怯よ。逃げてるのよ」
「ああ、私は弱虫で卑怯だよ」
「自分だけのことしか考えないんだから、エゴ!意気地なし!」
「なんだ。そんな眼で見てたのか」
「あんたなんかと結婚したのが間違いなのよ。もっと早く離婚しておけばよかった」
「そんなに嫌いだったのか?」
「嫌い。嫌い。大っ嫌い。顔を見るのも嫌い。こんな人と一緒に寝たかと思うとゾッとする」
「もう一度聞くが、本当に嫌いなのか?」
「当り前でしょ。こんな詐欺亭主」
「ようし、そこまでいうんなら」
「どうするのよ」
「ようし、死んでやる」
「いつだって口ばっかり」
「口ばっかりかどうか見てろ」
いきなり、男が走り出し、海にとび込んだ。
車の音や、街の騒音、岸辺を打つ波の音に消されて、人一人の水音などさしたることもない。
人通りのない堤防際だったが、夜景もよくないから人が近付かない。
魚の居つきも悪いのか、夜釣りをしている人もいない。ここだけが死角になっている。
浴衣で涼んでいる男が一人、タバコをくゆらせながら、バシャバシャとシャツを着たまま海中で暴れている男を、堤防に座ったまま、動く素振りもなく眺めている。
「た、たすけて下さい。お願い、あの人、泳げないんです」
男は、タバコをくわえたまま、浴衣の帯を解き、浴衣を脱いだ。ゲタは両方の足にある。
夜目にも筋骨隆々とした鍛えぬかれた身体であるのが一目で分かる。しかし、雲が月を隠している所為か、顔は定かではない。
男は、パンツ一枚になったにしては、飛び込むそぶりもなく、ゲタ履きのまま、足先から堤防下の岩場にゆっくりと降り、のんびりと、帯の端を右手に巻き付けて、毛鉤の釣りでもやるように海面めがけて、投げては引き、投げては引きを繰り返している。
帯は見えないが、バシャバシャと水面をたたく。
溺れている側は塩水を飲んで苦しみながらも、本能的に手をのばし、どうやら帯につかまったらしい。
その結果、帯を投げる側にはググッと手応えがあり、強く引くとやがて人間が釣れた。
しばらくして闇の中で女の泣き声がくぐもって響いた。
「ごめんなさい、あなた、冷たかったでしょ」
男は返事どころじゃない。
帯を投げた男に背中を叩かれて、ゴホッゴホッと苦しそうに水を吐いていた。