第四章、恋の島

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1、くちびるは災いの元

                      恋の三四郎島、不倫は拒絶

 

「どうだった食事は?」
かおりも、乗務員控室で食事を済ませ、控室に備えてあるバスガイド向けのトラベル出版発行のガイドブックを一冊購入し、バスの中でのんびり読んでいたが、そこに乗りこんで来た陽子とミカ、それに浅田敦子の三人組。ほんのりと酔いのせいでか色づいている。
差し入れの缶コーヒーを渡しながら、
「うん、まあまあだよ。うちのよりほんのチョッピリ上だったかな」
「なあにアッコ、あんたんとこの国際線よりチョット上ってことは、たいしたことなかったってこと?」
「かおり、それはひどいよ」
敦子も缶コ-ヒーの蓋を開け一口飲んでから、
「本当のところ、美味しかったってことよ」
「そうよね。五つ星上げようかな」とミカ。
「お腹も空いていたけれど、期待以上の料理だったね。獲れたての海のものはやっぱり新鮮だから美味しいわね」と、陽子も満足気。
「ところが、これで、梅雨が明けてカーッと暑くなると、もっと料理に気を使うのよ。食中毒が一番怖いから」と、かおり。
「それは機内食だって同じよ」
「とくにホテルはね。団体さんの中には、体調のわるい人もいるでしょ。一人でも食中毒を出すと大変なのよ。営業を一時停止しなければならないから、稼ぎ時に一ヶ月休んだら死活問題だから」
「大丈夫なの?」
「どのホテルも衛生面は一番気を使っているから今はほとんど完璧。心配無用ってこと」
「そうか。それで安心した」
「従業員はどうだった?」
「こまごまとよく気がつくし、よく働くよ。でもねえ。たった一つミスったのよねえ」
「へぇ。どんな?」
「陽子を女優だって見破ったまでは上出来」
「やっぱり、スッピンでもバレちゃうのね」
「夕べ、深夜映画のマゲものの再放送で、遊女やってたのでも見たのかなあ」
「バカネ、ヨーコ。あんな厚化粧の白粉顔と今のあなたは別人よ。それよか、あなた、何日か前のサスペンスもので、石川あゆみと主演張ってたでしょ」と、菅原ミカ。
「あれ、ミカ、それ見られちゃったの。やだなあ、私、殺されちゃうんだもんね」
「でも、ドラマの中で、推理好きのイカズ後家、ハマってて、ほかの役者、食っちゃってたわよ。竹藪のシーン、迫真の演技だったわ」
「それで、見破られてどうなったの?」
「色紙を沢山持って来たの」
「沢山?なんで?陽子に書かせるため?」
「それがね。『みなさまで』っていうの」
「みなさま?誰のこと?」
「こっちが聞きたいくらいよ。で、迷っていたら、エミちゃんが、PTAのオバさまたちにバトンタッチ。喜んで書いてたわ」
「なんでなの?」
「よく分かんないけど。『将来を期待してます』とか聞こえたようだったわ。ねぇ敦子」
「うん。多分『またのご来店を期待します』って意味じゃないかしら」
「あ、そうか。すごい社員教育をしてるわね」
「なるほど。それはお見事。すばらしい!」
かおりは納得して、残りのコーヒーを一気に飲み干し、また、疑念が湧いたのか、
「色紙か。そこまでやるかなあ?」
「そうそう。あの人たち、どうなったかな」
「誰のこと?」
「あのノラの黒川さん。上田さんってオバさまと島に渡るって出てったわよ」
ミカの発言にかおりが慌てた。
「いつ。何時ごろ?」
かおりがあわてて車内の時計を見た。
「かれこれ三十分ぐらい経つかなあ」
「帰って来てればいいけど。もう潮は上げてるのよ」
「そういえば、店員さんも、同じことをいっていたわ。今からじゃ無理だって」
「他の人は?」
「例のオレ青年が、みんなで写真撮ろうって、私の腕までつかむんだから」
「うるさい!」
「さ、ここでダベってる場合じゃなさそうだから行ってみよう」
「ここだと、建物が邪魔して海が見えないわ」
急ぎ足で、四人は建物を海側に向かった。
「多分、もう帰って来てるでしょうね」
「ここわね、さっきバスで坂を降りたでしょ、あそこに看板があるの。それを見て私が言ったように、十一時二分プラス一時間の十二時二分までが一応渡れる時間なのよね。無理に渡れば渡れるけど、帰りが遅くなるとヤバイのよ」と、かおり。その心配が当たった。海辺に出ると人だかりがしている。
「あら、何か騒々しいじゃない?」
波打ちぎわには、団体さまご一行が勢揃い。カメラを構えたり、8ミリビデオをまわしたり、声援をとばしたり。
なんと、長身の黒川ノラ主任、上田夫人を背にして、膝ほどの浅瀬をゆっくりと渡って来る。見た目より重いのか。風も強い。
「大丈夫かしら?」
かおりがミカに話している。
「大潮だとかなり地面が出るのよ。干潮になると海が割れて砂地が出る現象をトンボロというんだけど、風の強い日の上げ潮時になると、今見ていて分かるように両側の波がぶつかり合って白く高く砕けるでしょ。
それと、あれでもかなり潮は流れているから、からだのバランスは崩れるはずよ。
気付かないけど、粗い石がゴロゴロしていて、足許が危ないのよ。
それに、足許と膝上では流れが違うみたい」
「それじゃあ、なお危ないじゃない」
「素足だと、多分、痛いでしょ。あの人、ほら、背中にまわした手に、スポーツシューズを持ってるから素足よ、きっと」
PTA会長が異様なほどおろおろしている。
堅焼せんべい社員は無責任な野次をとばす。
「そのまま、島に、戻って暮らしてろ!」
「いい思いして来たかあ」
「手をつないで泳いで来い!」
「ノラ!本物のノラになっちゃえ」
同僚の危機を救おうなどという気は、さらさらないのだ。
もっとも、そこからの距離は、三十メートルぐらいで、浅いのを知っているから、誰もムキになって心配はしていない様子だ。
ところが、両側から押し寄せる波が二人の姿を包むように高く砕け散り、全身びしょ濡れ、波が寄せるたびに黒川ノラ主任の姿が右に左に大きくゆれ始めた。
上田夫人のウエイトも大きく影響しているのはもちろんである。
「誰か助けに行った方がいいみたいね」
陽子が心配そうに呟いたとき、不機嫌そうな男がゆっくりと、陸地を歩くときと同じ調子で、海の中を歩いていく。サングラスにまで飛沫が上っている。
「だれだろう?」
「運転手さん?」
男は、波がぶつかり合っている一番浅いところを避けて、波が合わないほんの少しだけ深いところを、巧みに同じスピードで進んだから、たちまち二人の位置にたどり着いた。
黒川ノラ主任、張りつめていた気がゆるんだのか、よろめいて、二人して海中に転倒した。
男は、すぐ、上田夫人を抱き上げて、そのまま、何事もなかったように無表情な顔で、膝上までの波をザバザバはね除け戻って来る。
彼は、迷わずホテルの建物に向かった。佐山会長以下PTA組全員が付いて行く。
上田夫人は、さすがに蒼白な顔色で、真紅だった唇も、すっかり色を失っている。
かおりが、騒ぎに気付いて野次馬にまじっていたホテルの従業員に耳打ちし、すぐ、シャワーと更衣室を借り、上田夫人の荷物を仲間が届けたことで、無事、着替えもできた。
ようやく、元気さを取り戻した様子である。
ノロノロと黒川主任が岸にたどり着き、べったりと粗い小石まじりの砂に腰を下ろした。
「イテテッ!」
黒川主任が腰を上げ、下を見た。
運悪く、砂地に露出している岩がある。
黒川主任は、大切そうに片一方のシューズだけ抱えている。一つは流されたようだった。
それでも、カメラは肩から斜めに下げているが、潮をかぶったオートマカメラは、電気系統がダメになるから、まず当面使えない。
「オヤ!」
石毛青年が、ふと、黒川主任の顔をみて驚きの声を出した。
「先輩、鏡を見てください」
砂浜に鏡などありはしない。
「なんだ?」
「どうした?」と、中川部長も見て驚く。
「あれ!黒川。お前、いつから口紅つけるようになったんだ。そんな趣味あったのか?」
潮の飛沫は、顔まで飛んだのに、唇の色までは落としていない。一度他に移ると、落ちない口紅になるかのように見事にべったりと、真紅な証拠が、黒川主任の唇、頬にあった。
上田夫人の唇が朱色を失っていた謎はこれで解けた。そこから先は本人以外知らない。
ここに、PTAメンバーが、一人もいないというのは不幸中の幸いだった。
それにしても、不運な黒川主任は、この事件以降、本当に本名を忘れられ、ノラと呼ばれることになり、いずれ、野良という名刺をつくる羽目に至るのではなかろうか。
まことに“くちびるは災いの元”だった。

 

2、名勝見物に内輪モメの花開く

                   天窓洞洞窟めぐりに神秘な光

 

「お車は、これから洞窟めぐりに向かいます。
伊豆の三四郎と小雪の恋は、悲しい結末を迎えましたは、現代の三四郎島は縁結びに霊験あらたか。好きな人と渡ると恋が実るといわれています。でも、途中で転んだ場合はどうなるかということは、私の手許のガイドブックには残念ながら記載されておりません」
「男だけずーっと世帯持てないんだ」
「一生、女性にモテないだろうな」
「いや、モテそうでいてモテないのさ」
中川部長以下、冷たくいい放つ。
しかし、持つべきものは後輩。先輩を救った。
「黒川先輩は絶対モテます。何回もモテます」
「おう、ありがとう、石毛は頼りになるなあ」
「だから、何回もモテるということは、何回もコケるということなんですよ」
「なあに、終わり良ければ全て良し、とするさ」
「いえ、終りはやっぱりコケる人です」
「うるさい!いい加減にしろ」
上田夫人は、黄地に紺の水玉模様のワンピースに着替えてから、すっきりした顔で何事もなかったかのように、仲間と談笑している。
もう、黒川ノラ主任のことなど眼中にない。
したたかさでは、ここでもやはりオバさま側に軍配が上った。
「前方に見える堂ヶ島信号の手前が駐車場です。みなさま、お仕度願います」
「えっ。こんなに近いの?ホテルから歩いてもホンの数分だね」と、石毛青年。
「そうだ。お前だけ歩けばよかったんだ」
すかさず内藤主任が切り返す。
三四郎島に近いバス停瀬浜の次、堂ヶ島バス停右側沿いの駐車場に車は入って行く。
「この駐車場の向かい側、T字路を山側に二百メートルほど上ったところに、洞窟めぐりの後に訪れる、らんの里・堂ヶ島がございます。それではまず、桟橋に参りましょう」
駐車場からほんの三十メートルほど三四郎島に戻るように下ったところに桟橋があり、その両側に、堂ヶ島マリンの遊覧船の白い船体がコバルトブルーの海に映え、その先にこんもりとした亀のような形の亀島という小さな岬があり、その裏側の断崖に目指す手天窓洞がある。遠くを何隻かの船が航行している。
透明度が高いのと、乗客が乗る前で船体が浮き加減になっているからか、赤く塗られた喫水線下の部分が水中にあざやか。船腹の前部に「どうがしま2」と青地に白文字が浮かんでいる。かおりは乗車券売場から戻った。
当然の権利のように、まずPTAのオバさま軍団が乗船し、船内の片側に六ヶある大窓の最善と思われるVIP席に悠然と席を占拠。定員五十名を空いているからと貸切りになったから、それぞれ余裕のある席取りとなる。
船の後部に中二階風の甲板がある。陽子達OL組が階段を上がると潮風が裾を煽った。
それに気付いた加山青年、小声で、
「おっ、ボクも上へ行こう」と急いだが、三人組はすでに甲板に出て景色を眺めている。
「残念、遅かった」と、加山青年の一人言。
当然、渋沢、石毛と続き、黒川と内藤も、部下にだけ先駆けされる謂れなどないから、後に続く。中川部長も何となく釣られて昇る。
で、狭い後部甲板は押しくらまんじゅうだ。
さわやかな潮風も、何となくさわやかではなくなるから、陽子達三人組は船内に戻る。
結局、堅焼せんべい本舗全員が後部甲板を独占したような形で、実は、取り残されている。
「すぐ戻ると、あの三人を追っかけているように思われますからね」
加山青年は動機が不純だから気を使う。
「それもそうだな」と、内藤主任。
「まあ、いいじゃないか。さわやかだし」と、中川部長、背のびをして風を受けている。
船は、堂ヶ島中央波止場などと、いかにも映画のメロドラマに相応しい名称の桟橋を離れ、ゆっくりと二十分の船旅へと出航した。
堂ヶ島マリンには、十数隻もの船があり、船体の横、前方両側に船名があり、堂ヶ島一号から八号、四号は欠番になっている。
二号船と前後して、桟橋に係留されていた五号船が他のツアー客を混載して出航していた。
帰って来る船もある。
黒川ノラ主任が嬉しそうに手を振り、声を上げた。
すれ違った船の甲板に、いかにも三島市あたりの夜の世界に君臨していそうな女性が数人たむろして、投げキッスをし、それを黒川主任が受けたのだ。
船内でその声を聞き、すれ違う船の甲板を見て、事情を察したエミがユッコに囁く。
「男って、懲りないのかしらねえ」
男は有史以前から同じバカを続けている。
船内には、テープのナレーションではなく、船長自らが、駿河出身独特の、ゆっくりしたテンポ、語尾に特長のあるしゃべりで案内をし始めた。
「天窓洞は、国の天然記念物になっておりましてぇ・・・」
船は、美しいリアス式海岸をのぞみ、すぐ目の前の蛇島、稗三升島をめぐる。
蛇島は緑に包まれたこんもりした島で頂上に大きな松が数本。それを見た樫山夫人、
「あら、カッコいい松ね。加藤先生のお髪を立ててヘアースプレーで固めたみたい!」
「ホント!」
川田夫人までが相槌を打つ。
「そういえば」と、追い討ちは長谷部夫人、
「ホラ、あの白い岩肌が口でしょ。下の岩盤が顎とエラ」
加藤教頭が驚いている。
「私には鰓はありませんよ。魚じゃないんだから」
「あら、ごめんなさい。ただ何となく」
長谷部夫人は、さすがに芸術家の妻だけあって、感性も人間ばなれしている。
こうなれば、加藤先生、ダテに校長にもならず教頭という大看板を背負っている訳ではない。反撃に転じると手強い。
「あの、稗三升島をごらんなさい」
窓から指をさし、役員のご婦人方の顔をメガネの奥から一人一人見つめた。
「短靴のようなあの島の形、誰かに似ていませんか。おしゃべりそうな口の部分に岩が開き、口許が大きく出っ張り、目のあたりが草深く、耳が上方部の松、それに何やら角のように幹が伸び、あれは、まさしくあなた方の姿ですぞ。獅子舞の獅子、般若の面」
みなまで言わせず、樫山夫人、すくっと立ったが、船が揺れたのでだらしなく隣に座っている川田夫人の肩を借りる、
「なんですか。そうしますと、教頭先生は、私達が獅子とか般若に見えたのですか!」
ご婦人方がいきり立って騒ぎ出した。
昼食を境に、陽子病の緊張から少しほぐれた後輩二人と長谷部の三人が近くで頷いた。
その遊覧船が、美しい乗浜の海岸線に寄せる白い弓状の線を背にして、その教頭頭と獅子顔の島の間を抜けようとしたとき、そろそろほとぼりが冷めた頃とばかり、存在すら忘れられていた堅焼軍団が甲板から、ぞろぞろと降りて来た。船内では騒ぎが続いている。
すかさず、それと入れ替えに、ミカと敦子が目くばせし、後部階段を上ると、陽子がギャル四人組を誘い、スカートの裾を押さえながら続いた。男達が未練がましく見送った。
「ほんとだ、似ている。獅子舞いだあ」
エミが叫んだ。
船内では収拾のつかない混乱状態が続いている。堅焼組は呆然とただ傍観しているだけ。
頭のことに触れられたら加藤先生も怒るし、顔のことを言われたらご婦人方の怒るのも無理はない。
「この場ですぐ、臨時会議開催を提案します。役員会より教頭のボイコット、転出を」
川田夫人の顔は、まさしく般若の面そのものだった。
「まあまあ」と、それまで呆気にとられて成り行きを見守っていた佐山会長が及び腰で、
「教頭先生はなにも、あなた方の顔が獅子舞いや般若に似ていると言っているのではありませんぞ」
「じゃあ、何です?」と、沢木夫人。
「心が少々、それに近い状態だと」
「それじゃあ何ですか?会長まで私たちを獅子舞や般若などと同格に見てるざますか?」
「いや、それじゃ、般若の面に失礼です」
「えっ?すると、まさか? あなた?」
出川夫人が思わずあなた呼ばわりして、親密さがバレたのにも気付かない。
「あなた。私のことも他の人と同じような目で見てたのねっ?」
「副会長、なんです! 他の人とは?」
沢木夫人が、冷静さをとり戻すように一呼吸おいてから言った。
「ようございます。こうなれば会長、副会長不信任の動機も同時に提出します」
「何もそこまでコトを荒立てなくても」
「いいえ。副会長選出のときも出川さんと私は一票差。その一票も、今の発言だと明らかに佐山会長の一票に相違ありません!」
「あら、どんな発言ですの?」
出川夫人が反撃する。
「会長を、あなたって呼んでたでしょ」
「あら、私は親しくなれば誰でも『あなた』と呼びますわ」
「と、いいますと、お二人は親密な間柄と見てよろしいのですね?」
「ええ。PTAの会長と副会長として親密に」
そのとき、突然、樫山夫人が叫んだ。
「口惜しい。あなた、ダマしてたのネッ」
どうやら佐山会長、同じような体型のご婦人が好きらしい。加藤教頭が複雑な顔をした。
そのとき、船は亀甲岬と呼ばれる小さな岬の裏側にある三つの洞窟の内、手前の一番南側にある大きな岩穴、幾世紀にも亘って荒波や潮風に侵食され続けて出来た巨大な岩の割れ目からゆっくりと入っていく。
PTA役員のみなさまも冷静さを取り戻したのか、とりあえず一時停戦なのか、
「この続きは後にしましょう」
最初の発言で紛争の火種を蒔き散らした樫山夫人の発言で一応この場は納まった。
船底が浅瀬にある岩に当って無気味な音を立ててきしいだ。
「キャア」
同時に船室でも甲板でも声がした。
川辺青年が、しっかりと連れの女性の肩を抱えている。
佐々木氏は、相変らずのポーカーフェイス。
連れの女性も、無言で洞窟内の薄暗い中にも変化に富んだ岩肌を眺めている。
「まもなく、地層の弱い位置の落盤によって出来た洞窟中央部の天窓がごらんになれます」
洞窟内が明るくなり、天井が陥没して開いた大きな窓穴がぽっかりと姿を見せ、そこから午後の陽ざしが少し斜めに射し込んでいる。
「わあ、きれい!」
甲板に出ていたヤングとヤングミドルのギャル組が歓声を上げた。
太陽光線が洞窟内の海中深く照射し、海中の岩肌までがくっきりと視界に入り、エメラルド色の海底を魚の群れの走るのが見えた。
洞窟の中でも帰路に着く船とすれ違った。
航跡を曳く白い泡が宝石のように輝いていて、天窓から射し込む光の届く範囲だけが、モノクロの世界にハイビジョンのカラー映像を嵌めこんだように、美しくきらめいている。
「神秘の世界よねえ」
ミカが溜め息をついて続ける、
「こんなところに恋人と二人で来たいなあ」
「そうねえ」と、後部甲板の女性全員が頷く。
船内に、慣れた口調のナレーションが続く。
「この奥にあります横穴は、源頼朝が追手に追われたとき、引き潮を利用して逃げこみ、その入口に多量の巣を張ったクモに助けられたという伝説の残っている頼朝洞です」
洞窟を出ると、まぶしいほど蒼い海が広がり、西洋画の緑濃い陸地が目に入る。

 

3、どこにでもいる洋らん評論家

                            らんの里・堂ヶ島は花の園

 

天窓洞の感動を胸に、一同、バスに戻った。
「素晴らしかったわ。カオリも一緒に行けばよかったのに」と、敦子が席に着く。
「もう、何回もお客さんを案内したのよ」
乗客が全員揃ったのを見届けてドアを閉め、運転手に発車オーライを告げる。
「みなさま、いかがでしたか。天窓洞は、またの名を仏洞とも呼ばれ、この洞窟をめぐりますと、寿命が長くなるといういい伝えもあります」
「ちょっと、いいですか?」
内藤主任が手を上げ、口をはさむ。
「ずーっと長いことあの船の船長やってると、幾つぐらいまで生きられるですかね?」
「私は存じませんが、転職なさってお確かめになってみてはいかがでしょうか?」
内藤主任、ちょっと考えてから、
「部長、どうします?ああ言ってますが」
「好きにしろ。お前には船長は無理だろうが」
バスは、駐車場際の信号のあるT字路を山側に上るとすぐらんの里の駐車場がある。
「バスの後方をご覧ください。ただ今、みなさまがご乗船なさいました桟橋とお船が見えますね。あのすぐ右手、松林の中の二階建の白い建物が、平成四年の八月にオープンした堂ヶ島の新名所、堂ヶ島ビジターセンター・ピアド-ム天窓でございます。
館内には、伊豆水軍が使用した武具や資料の展示の他に、武田水軍との合戦の様子を再現。西伊豆の文化と歴史を目で見ることができます」
説明の間もなく、バスは「らんの里」に着く。
カオリも同行し、入口に向かった。
駐車場から少し下の位置にエントランスホールがあり、エンドレスで館内説明のナレーションが流れている。
正面入口からエスカレーターに乗り、エレベーターに乗り継いでの展示館めぐりとなる。
四階建のメインホールがあり、直径1.8メートルの地球の模型や記念撮影コーナー、喫茶、売店などもあるが、カトレアが展示され人集りがしている。
「洋ランの種類は、世界中で二万種を超える原種があるともいわれますが、中でも、このカトレアは、花の女王といわれるランを代表する花でございます。
華麗で気品の溢れるその魅力的な容姿は、誰からも愛され、一度その真の美しさに触れた人は、一生、虜になるのでございます」
らんの里の職員なのか、他のツアーのガイドなのか、まるで自分のことをアピールするかのように熱弁が続いている。
「洋ランの中で、とくにきわだって華やかなカトレアにも、ご覧のように、ソフロニチス、コクシネアなどの小さな花があれば、中には、花の最大幅が約二十センチという大きな花を咲かせるラビアタのような豪快な洋ランもございます」
一行中、最年長の加藤教頭もランには一家言あるらしく、PTA役員のご婦人相手に小さな声で語っていたが、ついに我慢できなくなったのか、教壇に上ったときのような調子で、初心者でも知っているような内容を語り始めた。しかし、その顔は生き生きとしている。
「一般に、カトレアと十把ひとからげでいいますが、カトレアの中にも系統がありましてな、このラビアタ系のカトレアはブラジル原産で、本来は、秋咲きの花ですな。
このルデマニアナ系の花は、初夏から夏にかけて美しく咲くカトレアで、ベネズエラ原産。柔らかなラベンダー色と白との調和がなんともいえません。
初心者は、よく栽培が難しいといいますが、カトレアは洋ランの中でも比較的やさしい部類に入ります。
夏咲きのカトレアと冬咲きでは、少々栽培のコツは違いますが、一般に室温十度以上といわれるカトレアも、低温に強いミニカトレアとなると最低五度以上であれば栽培できます。
夏咲きのカトレアは、五月までの成長期は、十五度以上で保温し、六月に入って戸外に出しますが、今頃の梅雨のシーズンは根腐れなどを避けるためにも、直接雨に打たれないようにする工夫が大切です。
肥料は、夏咲きの場合は、窒素分の多い液肥を二倍に薄めて月二回。水は朝早くたっぷりと・・・」
と、加藤教頭、得意満面。誰も聞いてなぞいないのに止まらない。
「このメンデリーのリップ(唇弁)の色、花芯に黄にマゼンタが入っているでしょ。この色合いを自分の好みにするまで交配して育てるの難しいのよね」と出川夫人。
「そうねえ。でも、カトレアを育て始めると開花するとき、胸がときめいて眠れないわ」
「私も今、ブラサボラ属系に凝ってるの」
樫山、上田両夫人が話を合わせる。こちらの方が詳しそうだ。
つぎに山側に移動した観賞ルームにパフィオが展示され、斜めに下ると研究開発センターがあり、ランの交配から開花までを知ることが出来る。
さらに、そこから続いてデンファレルームがあり、バンダ系とオンシジュームの展示室があるが、季節によってはその建物にはシンビ、ミルトニア、フォーミが並ぶのだ。
そして、入口から最も遠く最も高い位置にカトレアと並ぶらんの女王、胡蝶ラン(ファレノプシス)の観賞室が居座っている。
らんの里に来て胡蝶ランを見ずして帰るとしたら、名画の二本立て映画を一本だけ見て帰るようなものだから、少々途中は省略しても、先を急ぐことになる。
ランの里見学は、西伊豆めぐりツアーの定番だけに、かおりには、一時間以内で見終るための要領が頭の中にしっかりと刻みこまれている。
胡蝶ランの旬は春から初夏までで、ここ、らんの里堂ヶ島でも二月中旬から五月いっぱいは、胡蝶ランをメインホールに移して、全館にも配置し三万輪の大展示をしている。
移動中でも加藤教頭のランについてのレクチャーは続いたが、その切れ間を利用して、かおりのガイドがときたま入る。
「らんの里・堂ヶ島は、以前は、少し北の浮島寄りにありましたが、今はそちらを栽培センターにしまして、観賞用植物園を平成四年の一月にこの地にオープンしたものでございます。
敷地総面積は約八万四千五百平方メートル、古い呼び方では二万五千坪以上になります」
「えっ、我が家の何倍? いや何千倍かな?」
加藤教頭の頭の中のコンピューターが狂って計算できないご様子。
コンクリート造りの観賞用温室には、ウオーターガーデンなどの工夫もあり、オウムに語りかけられてドキッとしたりする。
「八千種以上、常時四十万鉢以上の洋ランを展示しているって本当かね」
佐山会長が、加藤教頭ではなくかおりに聞き、加藤教頭が気難しい顔をした。
「今は、それをはるかに上まわっているそうです。それと今ではく和ラン、洋ランも栽培していますから、かなりの株数のようです」
実は、佐山会長も洋ランが好きなのだ。
自宅の庭にある八坪の温室には、デンドロビューム、バンダをはじめファレノプシス、カトレア、そしてパフィオペディラムなどの鉢で足の踏み場もないほど、いつも、加藤教頭とは洋ランではライバルだという。
当然、何回となく堂ヶ島には来ている。
「佐山さまも洋ランはお好きですか?」
「ほんの少しですがね」
横から加藤教頭が話に首をつっ込み、
「この人は、少々どころか、ラン狂いですよ」
「いえいえ、加藤教頭ほどじゃありません」
「東京ドームでの世界ラン展には、行かれましたですか?あの二月二十日からの」
「一緒に行きましたよ。ライバル同士で」
「平日に行けないもので、初日の日曜日に行ったところ、もう目茶苦茶に混んでしまって」
「そうでしたね。私も行きました」と、かおり。
「ほう、ガイドさんはいつ行ったの?」
「月曜日に、森川陽子と二人で行きました」
「チケットはどうしたの?」
「森川の知人で千葉県市川市内で、ランの栽培をしている農園関係者から頂きました」
そのとき、移動のエスカレーターで続いていたポーカーフェイスの佐々木氏がさり気ない素振りでかおりの横顔をまじまじと見たが、同伴の女性の視線を感じると、また素知らぬ振りで禁煙パイポをくゆらせた。無論煙は出ない。彼の本職は、装飾デザイナーである。
「それじゃあ、ガイドさんも、この堂ヶ島の園長が日本大賞を獲得したのを知ってたね」
「ええ、ロイヤルウエディング“ドーガシマ”あれは最高傑作でした。リップが人間の舌のような柔らかさとピンク色、ペタル(花弁)は白地に赤点が帯状に八列、ドーサルセパル(上萼片)はうすみどりの地に濃い赤線がくっきりと入り王冠のようで神秘的でした」
「左側に伸びた枝の先の蕾もきれいだったね」
「あの蕾が開いたら、どうなるのでしょう」
かおりも結構、ランも好きなのだ。
六月の中旬ともなると、さすがに胡蝶ランもいささか疲れているように見える。
五月いっぱい咲き誇っていたスタミナが切れはじめたのだ。それでもやはり美しい。
山の中腹の最上部の観賞室から、かおりの発案で外へ出た。
「すばらしい!絶景だわ!」
全員、大きく深呼吸しながら、青々と広がる西伊豆の海を眺め、歓声を上げた。
すぐ目と鼻の先に、完成したばかりの吊り橋がある。あるいはまだ工事中かも知れない。
長さ約八十メートル。高さは約二十二メートル。その橋の先に花鳥の丘があり、色とりどりの草花が植えられ、マーガレット一万五千株、果樹など二千五百本とか。四季折々の楽しみが植えられている。
海のオゾン、山のオゾンが身体を包む。
「オレ、腹へったなあ」
満腹するほど西伊豆の幸を食して、まだ、二時間。しかし、確かに空気がいいとお腹は空く。
外で、腰に手を当て、花のないマーガレットの群落の中を歩いていた老人が、かおりの姿を見つけて、手を振った。いつも団体を引率して来るガイドさんには愛想のいい内田園長だった。

 

4、披露宴帰りの花嫁、乱れ狂う

展望台より駿河湾眺望は絶景

“花より団子”
昔の人は名言を残している。
わずか食後二時間少々で、お腹が空いたコール。らんの里・堂ヶ島の展望台兼軽レストランのぼうちょう亭目指し自然に足が向く。
山腹に足場が組まれ、京都清水寺の舞台を見晴らしの良い西伊豆に移したような、あるいはスイス・マッターホルンに相対して建てられたカフェテラス風のしゃれたお休み処。
「のどが乾いたな。とりあえずビール!」
「おっ、こんなところで山菜うどんが!」
「ここはやっぱりコーヒータイムよねえ」
それぞれ勝手に注文し、折角テンポよく時間に余裕を持たせて来たかおりの苦労も水の泡。一時間の予定が少々怪しくなって来た。
ぼうちょう亭から眺めた駿河の海は、水平線に白いもやが入って空と海を辛うじて区別しているが、空も海も蒼一色。雲もない。
眺望絶景、お腹満腹、花に包まれた下り坂。
らんの里の屋外には季節の花が咲き乱れている。ホタルブクロ、ヒメシャラ、アカバンサス、気温が低い日が続いたせいかシャクナゲ、マーガレットもまだまだ鑑賞に耐えられる。
「おっ、花一輪だぞ」
と、目ざとく黒川ノラ主任、屋外の遊歩道を一行がぞろぞろと下っているときに、ぼうちょう亭に向かって登って来る披露宴帰りらしい一団に出会い、その中から花嫁をいち早く見出したのだ。若者の中に年輩者もいる。
メインホールから、いきなり遊歩道に出てぼうちょう亭に向かうということは、ラン見学のコースから外れているだけに地元の人達であることは一目瞭然。堂ヶ島にあるホテル名入りの大袋を下げている。
多分、伊豆の松島といわれる絶景を眼下に二次会を開き、その後で二人をハネムーンに送り出すという予定ででもあるのだろうか。
盛装のまま、汗をふきふき登って来る二十人ぐらいの一団の中心に花嫁花婿がいて、緑と花の中、まことに絵になる。
その新郎新婦を囲んで、新郎の友人らしいグループ、新婦の友人、それぞれの親戚数人、道いっぱいに騒ぎながら登って来る。
かなりアルコールが入っているのは、足並みの乱れ、呂律の回らない会話の乱れからも推察できる。
新郎は、地元では珍しく色の蒼白い神経質そうなタイプで小柄。二流の歌舞伎役者の女形から美しさを除いたようなタイプで、視線も落ちつかず、仲間からハッパをかけられ、皮肉っぽい顔で曖昧に返事をしたりしている。
新郎は白の上下、新婦はローズピンクのツーピース、このまま、新婚旅行に旅立つ雰囲気である。
ただし、俯き加減の花嫁、何故か元気がない。ゆるい坂道を登るローヒールの足元にも重そうな気配が漂っている。
かおりをはじめ、ツアーの面々、当然のように道を開け、新たに誕生したカップルに拍手を贈った。
「おめでとうございます」
「おめでとう!」
「がんばれよ!うまくやれ!」
「うまくやったな!」
と、祝福に混じって妬みの野次もとぶ。
「みなさん。祝福、ありがとうございます」
仲間を代表した感じで陽に焼けて真っ黒な漁師風四十男が丁寧に立ち止まって、律儀に直立不動の姿勢から、腰を折って礼をした。
そのときだった。
新郎の背後を、疲れた顔で歩いていた花嫁が伏せていた顔を上げ、ほんの数秒、ツアーご一行の顔を見つめた。そして、一瞬の間をおいて、迷いを振り切るように横にいた男を突きとばし、禁煙パイポを口に遠い海原を眺めている佐々木氏目がけて走った。
そして、胸元にとびついて泣きじゃくる。
とっさの出来事で、誰もがポカーンと口を開けたまま、静寂の時が流れる。
青空の下。初夏の風は、潮の香りと新緑、さらには花の香りをのせて頬に涼しい。
佐々木氏には、さらに花嫁の甘い香りが付録としてプラスされている。しかも美しい。
ビデオの静止画像。それも一瞬。ポーズが解かれて「静けさやランに染み入る嫁の声」も現実に戻り、阿鼻叫喚の修羅場の二幕目がスタートした。
まず、最初に仕掛けたのは、佐々木氏の同伴者。自分より若さで勝る花嫁に嫉妬したのか、形相変えてとび出し、花嫁の背後から躍りかかると、まず帽子をむしり、スーツの衿と肩に両手をかけ、花嫁を引き離しにかかった。
「こら!小ムスメ。あんた、人違いだろう!」
つい、数秒前までは上品なヤングミセスだったはずの佐々木夫人、なにやら、一気に化けの皮が剥がれたような口の利きようである。
どんな女性でも、多分、この場合はこうなる。
佐々木夫人、必死の努力も空しく徒労に終わった。理由は単純。泣きじゃくる花嫁を、ゴルフ焼けしたぜい肉のない佐々木氏の筋肉質の体躯が、しっかりと抱きとめていたのだ。
これでは、女性の力では剥がせない。
花婿が動転したのか、頭の中がパニックなのか、ふらふらと何の意志もない夢遊病者のように近付いて行く。
すると、背後に人の気配を察知したのか、佐々木夫人が、振り向きざまに、花婿の顔に爪を立てた。
花婿の顔から一筋、僅かだが血が流れた。
これでも一応、東スポ風に表現すれば「流血の惨事、平和な西伊豆山腹に発生!」となり、販売部数を数部は伸ばすことができる。
血を見ると、人間は平常心を失うことがある。花婿の友人らしい男が勇敢にもさっそうと西部劇のヒーローよろしく、というより、酔っているからひょろひょろと出て、思いっきり力を入れたフックを佐々木氏に噛ました、つもりだったが、佐々木氏が軽く首を竦めたので、遠心力の働きで二回転して草叢に尻餅をつき、ギボウシを数本倒し、駈けつけた職員に「花とあなたとどっちが大切だと思いますかっ!」と叱られている。
「おやめなさい!」
かおりの声が澄み切った初夏の山に響く。
いつの間にか、ツアーご一行の前面に、かおり、陽子、敦子とミカの四人が両手を斜め下に広げて、適当な間隔で足を開き、血気に逸って、堅焼せんべいのお兄さま方が参戦しないようにフォーメーションを組んでいる。
かおりは、参戦はしたものの事情が解らないから口出しもできない。

 

5、誤解が誤解を生んで誤解だらけ

                            平和な伊豆にも嵐は襲う。

 

花婿の親類なのか、脂ぎった短躯肥満体の中年男が肩をゆすって前へ出て、佐々木氏に、
「きみ。なんだね、他人の花嫁を昼日中、臆面なく抱いたりして、恥ずかしくないかね。誰だってしたくてもできないんだから」
理由の分からない台詞を口に出し、ハッと我に返って可笑しいのに気付いたのか、
「この娘が、東京の大学に通っていたとき知り合ったのかね、君は?」
佐々木氏を見たが、佐々木氏が、海側から舞って来て上空で輪をえがいている番の鳶を目で追っているのを知り、気勢を削がれトーンダウン。花嫁にターゲットを変える。
「そんな男のところを離れて婿殿に戻りなさい。いや、まず私のところに来なさい」
脂ぎった男が花嫁の二の腕を引っ張った。
すると、先刻礼儀正しく礼をした漁師男が出て、脂ぎった男の横顔を平手で勢いよく叩く。
「痛っ!な、なにをするか!」
「失礼。虻が逃げましたかな?」
少し酔いの覚めかけた同行者に向かう。
「いや、まだ一匹止まってるぞ!」
「もう少しスピードつけなきゃ」
「拳の方がいいな」
圧倒的に脂ぎり男は不利になっている。
「ガタガタいうな。何が不服だ!」
脂ぎり男が礼儀正しき男の胸倉を締め上げ、
「お前なんか、招待したのが間違いなんだ」
「わしは、嫁のオヤジの友達で呼ばれたんだ。なにか都合がわるいことでもあるのか!」
「ある、ある」と若者達。漁師が続ける、
「聞くところによると、この狭い西伊豆に一族で入りこみ、金にものをいわせての土地の買い叩き。転売でのボロ儲け。ホテルを建てれば地元との共存共栄など考えず形振り構わず呼び込みまで使っての利益独占。しかも、材料の買付けなどは足許見ての業者泣かせでエゴ丸出し。ほんの少しでも安いと他地区から買うという強欲ぶり」
「だから何だ。企業が利益を追求して何がわるい!」
「それだけじゃあないぞ。町のうわさじゃ」
「どんなうわさだ」
「競争相手のホテルをからめ手から攻め、借金だらけにして、高利の金を貸し付け、相手がニッチもサッチも行かなくなったのを見届けての合併話。ファミコンとパチンコしか趣味のない能なし息子を、それ、そこのバカ婿だが」と、もはや礼儀正しき姿も消し飛ぶ。
「そいつが一目惚れした相手の一人娘を、これ幸いと札束でほっぺたを引っぱたいてのこの縁談。泣いて断っていたのを、ついに金の力でモノにした」
芝居がかって迫力がある。拍手が沸いた。
いつの間にかあちこちから人が湧いて黒山の人集り。
「どれどれ、ロケやってるの?」
「リハーサルだってさ。まだカメラは来てないみたいよ」
「本当だ。谷内ゆう子がいるわ」
「本番はまだかしら」
「すぐよ。もしかしたら、あの立ち姿がすでに演技かもよ。あとでサイン貰おう」
「ゆう子さーん。がんばって!」
「あいつが一番悪役かな。ほら、女を抱いて」
「いや、庇ってるんじゃない?」
脂ぎり男がうそぶく、
「なんだ。金の力のどこが悪い。所詮この世は金次第。いや、地獄の沙汰も金次第じゃないか。えっ!そうじゃないかサカナヤ。あいや貧乏人!」
最後の一言が効いた。国民総中流を気取っているとはいえ、バブルが弾けた昨今の並の日本人で危機感を持たない者はないから、己の真の姿を言いあてられたら腹が立つ。
観客全員がこの一言で脂ぎり男を敵と見た。
「やっちゃえ!」
「がんばれ、サカナヤ!」
「オレが付いてるぞっ!」
そんなもの付いたって邪魔なだけだ。
「ようし、サカナヤとは何だ!てめぇだって肉ばかり食ってる訳じゃあねぇだろ。サカナヤさんとさんぐれぇ付けられねぇのか。それに貧乏人だとお、もう一回言ってみろ!」
「おう、何回でも言ってやらあ、貧乏人!」
「畜生め!腹は立つけど、仕方ねぇ」
「サカナヤさん。がんばってえ!」
黄色い声でハッとしたのか元礼儀正しき男、
「野郎言わせておけば、言いやがって。ミス西伊豆の誉れ高いあの娘を、あのバカ息子にと達ての願いにや裏があった。それも醜い」
「どんな裏だ?」
「今度は、オマエのことだが」
「オレがどうしたってんだ?」
「まあ、いいづらい話だが」
「なら、いわなきゃいいじゃないか」
「じゃあ、聞かなくてもいいのか!」
「いや、キサマが話し始めて、オレが聞きはじめたんだから、止めていい道理があるもんか。さあ、話してみろ」
「世間のうわさは鬼より怖い」
「大政、小政も風邪をひく」と観客が叫ぶ。
「済みません。みなさま、お静かに」
内藤主任は、かなりその気になっている。
「世間の、まあいいや、あまり体裁のいい話じゃないから。武士の、いや、サマナヤの情けだ。小さい声でいってやらあ」
「ああ、いってみろ!」
「オヤジとオジキ、すなわちオジキはおまえだが、どちらも娘にホの字だそうじゃねえか。それぞれ身勝手に、嫁にした上でなだめすかして自分のモノに、という身の毛もよだつような怖ましい話が、まことしやかに流れるのも、あんた方兄弟の人徳のなさ、ちっとは反省しろ!」と、小声どころか園内に響く大声。
「その通りだぞっ!」と、地元の観客が後押し。
「ラブレターが残っているそうだっ!」
「エロおやじ!」と、野次がとぶ。
「娘が可哀相だぞっ!」
「この辺りじゃ有名な話だぞっ!」
「うるさい!」と、脂ぎり男が怒った。
「ようし、名誉毀損で裁判だっ!」
「おう、西伊豆の住民全員と争うか。ついでに聞いとけっ!。あの娘がドラ息子に嫁ぐのは、カトレアがドクダミに嫁ぐみてぇだってぇうわさを知らねえのか!」
「だから何だっ!ドクダミは高血圧にも効くんだぞっ!ドクダミ飲料だって高いんだ!」
と、取っ組み合い。仲裁が手を出し、蹴られ、披露宴帰りのほぼ全員が入り乱れてのなぐり合い。ドサクサにまぎれてうろうろしていた新郎も数発喰らって目を腫らし、額を割られている。
「あなたっ!いつまでその娘を抱いてるのよ!」
佐々木夫人が怒って、花嫁を引き剥いだ。
かおりがハッと気付いたように時計を見てうろたえる。茶番劇を見過ぎたのだ。
「みなさま、急ぎましょう」
佐々木氏が立ち去ろうとすると花嫁が、
「済みませんっ、今日はどちらに行きます?」
必死の面持で花嫁が佐々木氏に迫る。
思わずPTA組の長谷部夫人、余計な一言を言った。
「下田の一番館ホテルですけれど、佐々木さんは奥さんとご一緒なんですよっ」
西伊豆ツアーご一行が急ぎ足で坂を下ってエントランスホールに急ぐと、野次馬の群れが幾重にも一行を包んで動いた。
「いよいよ、本番らしいわよ」
「谷内ゆう子は、女性刑事ってとこかな」
「あのオバさんたちは何かしら?」
「中年売春団で逮捕されたりして」
「相手の男は、あの若い男たち?」
「あの頭の薄いめがねのおじさんもよ」
ガヤガヤと騒々しい人の群れを、らんの里の職人が拡声器を用いて、注意している。
「植木を大切にしてください。遊歩道を歩いてください。あっ!花を倒さないでください」
観客のいなくなった乱闘現場では、やる気を失った男達が、よれよれのフォーマル姿で草いきれの中に倒れたりへたり込んで座ったり、それを同行の晴れ着姿の女性が甲斐甲斐しく介抱している。花嫁の姿は、とうに消えていた。