第十二章 再起を賭けて

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42  目には目を!

 

「一パツ、お先にいいですか?」
達也が一応、断わるのは筋を通しただけだ。
「絶対に人は狙わんでください。先制攻撃で人を殺傷したら正当防衛になりませんから」と、地元の藤岡巡査が気を使う。
間髪を入れず達也が引き金を引く。静かな山里の夜に一発の銃声がとどろき、熊撃ち弾が五十メートルほど離れた橋の上で火花を散らし宣戦が布告された。相手の車の鼻先だから車は停まった。
二発目は標準を変え、車輛後部の橋上を狙った。
散弾が橋の欄干に当って跳ねたらしく車体の金属音が鳴った。
これで彼等は前にも後にも下がれず、車を降りた五人が車の陰から拳銃をめくら打ちに撃って来る。達也の狙いは当たった。これだと、相手の弾薬は射程距離に入る前にかなり消耗する。
至近距離十メートル以内なら拳銃の威力もあるが五十メートル以上離れて、しかも下から撃つから建物にしか当たらない。
いくら酒上がケンカ上手でも、銃撃戦はまだ蓼科以来二度目だから興奮状態で自制がきかず、自分から撃ちまくって来る。拳銃など撃ったことのないヤクザほど興奮して乱射するらしい。
一発必中を豪語した藤岡は、すぐ拳銃の弾薬を撃ち尽くして、見物にまわっている。神保も拳銃は仕舞ってライフルを撃ちまくり、これも撃ち止めになった。進藤の拳銃も残り少ないらしい。
敵は、ライトを消した車を放置して、全員が橋を渡り、営林署の建物目がけて拳銃を撃ちながら接近して来た。
弾薬の少ない籠城側が不利になった。それに、いくら射撃の名手でも相手を殺せないから急所を外さなければならない。万が一、闇にまぎれて心臓に一発食らわしたら大問題になる。
窓から顔を出すと撃たれる。少しづつ敵が押して来た。
「窓の下に隠れろ!」
いつの間にか指揮権は達也に移っている。
敵もケンカ慣れしている酒上が指揮をとるから、かなり手強い。
五人それぞれが建物を囲み、窓のガラスを叩き割り、一人が懐中電灯で室内を照らし、四人で撃ちまくる作戦に出た。
そうなると、窓の下にへばりついても反対側からの好餌になる。
「二階へ移れ!」
達也の声で、折り畳みテーブルを弾除けに担いだ富橋が妻を誘って一気に階段を駆け上がり、またテーブルを担いで走り降り、若葉と信二を引き上げる。進藤に続いて全員が上がり、援護射撃に撃ちまくって弾が尽きたた達也もあわてて二階に駆け上がった。
町のあちこちに灯がともり、半鐘が鳴った。この動きが両軍を奮い立たせた。火薬の量で勝っていた酒上らが勝ち誇って、建物内に入ろうと割れた窓のガラスをきれいに叩き壊していたとき、突然、銃声がして背後から散弾が飛来した。
地元の猟友会が橋を渡って、射撃を開始したのだ。林田町長がヘルメット姿で指揮をとっている。パトカーのサイレンが鳴り響き、点滅する赤色灯が接近して来て橋の上で停まった。暴力団の車が橋の中央に置き去りになっていて通り抜けができない。拡声器から警告が告げられる。
「こちらは遠軽警察です。橋の上の車を移動させなさい」
酒上ら全員が、建物内に逃げこむ。
追い打ちをかけて警官が追うから、彼らは一気に階段を登って二階に逃げた。こうなると二階で肉弾戦になる。どちらも少々の傷ではひるまないメンバーばかりだが、それでも、格闘となると体力の差が出た。
まず、達也が一人を蹴倒した。富橋が一人の首を抱えたまま階段を転げ落ち、下で殴り合ったあげく首を捻って悶絶させた。
勝子も負けていない。達也が蹴倒した男が起き上がったところに強烈なラリアート、これで男ははじき飛ばされた。
駐在の神保は銃で撃たれた足が痛むのか、足元がふらついたが、藤岡は元気いっぱい、適当に鼻血を流し傷をつくり怒り狂って報復したりで殴り合ってストレスを解消している。
進藤は、高見の見物をきめこみ参戦を思案していた。
酒上と達也が一騎打ちになった。酒上はさすがに手強い。
まわし蹴りで延髄に打撃を受け呼吸がつまって、前のめりになったところを真っ正面から急所を蹴り上げられ、達也の目から花火がとび散った。これは、かなり効く。倒れながら酒上の腕をつかみ、足払いをかけて倒すと両足を首と胸にのせ、全身の力で手首をつかみ肘の関節を折る。もう一息のところに邪魔が入った。
達也に蹴倒され富橋の妻に気絶させられた男が、息を吹き返して達也に近づき、よほど腹にすえかねたのか、全身の体重を乗せて思いっ切り顔を蹴った。「ウッ!」と唸り、思わず酒上の手を離して達也がのけ反る。その達也を蹴った男を、参戦した進藤が組み敷いて馬乗りになりパンチの嵐を食らわす。けっこう強いのだ。
その隙に機敏に立った酒上が達也の背後にまわり、大型の折り畳みナイフを持った右手を振り上げた。それが闇の中で光った。
「あぶない!」
若葉が叫び、信二が反射的に反応して酒上に体当りした。
達也の背を貫いているはずの切っ先が、替え上衣の背を裂いたところで止まった。信二の身体が酒上と一つになって、そのまま、烈しく階段の踊り場まで体を入れ替えながらの格闘が続き、信二の肩から血が噴いた。酒上が必殺の一撃を加えようと信二の胸目がけてナイフを振りかぶったとき、若葉が凄い形相でとびつき、酒上の右手首を両手でつかむと抱きつくように身体を預けて階段に押し倒して落ちて行く。転落しながらも、若葉は冷静に両手に全身の力を乗せて酒上の腕を曲げ、ナイフの刃先を酒上の右目にあて同体となって転落し、板の間に叩きつけられた。だが、激しい衝撃の中でも若葉の手は酒上の手首を放さずに深々と刃先を埋めた。血しぶきが若葉の顔にまで飛ぶ。
呼吸がつまり胸部が痛み、意識が失せそうになるが若葉の本能がまだ生きていた。酒上の手に握ったままのナイフを右目から引き抜き、すかさず刃先を酒上の左目に当てて激しく突き刺して目の玉をくり抜く。酒上の悶絶の悲鳴を聞きながら、若葉は遠のいてゆく意識の中に妹と母を浮かべて、心の中で叫んでいた。
(お母ちゃん、美代子、やったよ!)
闇の中で転落中の一瞬の動作を誰も見ていない。ただ、階段を駆け降りた達也が若葉を抱いて、耳元でささやいた。
「これで終わったぞ、辛かったな……」
若葉は完全に気を失っていた。真の闇と静寂が若葉を包む。
その達也自身も、若葉をそっと下においてから、急激に痛みが襲ったのか両手で顔を押さえてうめいて背を丸めた。
武装した戦闘服の道警機動隊員が建物内になだれ込んだ時は、すでに乱闘は終わっていた。生田原町の歴史に残る長い夜だった。
林田町長が戦いの終わりを告げたが、戦い足りない町民と遠軽警察との小競り合いが続いていて、警官を猟銃で殴った善良な教師が公務執行妨害の容疑で逮捕された。それに気づいた林田町長が近寄り、「ご苦労さん」と、その警官にタバコを渡した。これで、地方公務員法により警官の収賄罪が成立し罪を分かちあえる。
「ま、仲良くやろうや」
この林田町長の一言で一件落着し教師は放免された。林田町長の贈賄罪と警官の収賄罪がどうなったかは誰も知らない。

43 戦い終わって

やがて、午前一時を過ぎて、旭川署で友美と赤城を乗せた道警本部のパトカ-が到着した。警備中の警官に案内された友美が建物にとびこんで、達也の姿を求めた。闇の中に硝煙と血が匂う。
みな、口をきくのもおっくうなほど傷つき疲れていた。進藤も手錠をはめられていた。警官がブレーカーに気付きスイッチを入れると、室内が瞬時に明るくなった。
「わしらは違うんだ。ワッパを外せ!」と、駐在がわめいた。
「あれ、藤岡さんと神保さん、どうして?」
遠軽署の同僚があわてて二人の手錠を外す。
「まだ生きてるぞ!」
警官に活を入れられ若葉は息を吹き返したが、身体が痛むのか歯を食いしばって呻く。その両手は酒上の返り血で染まっていた。
「あばらが二、三本折れてるかも知れんぞ。担架をよこせ!」
酒上は気絶したまま右手に握りしめたナイフを左目に深く突きたてたまま、おびただしい血を流して気絶していた。飛び散った血で周囲の床が真っ赤に濡れている。
「こいつは自業自得ってとこだが、生きてるのか?」
進藤の目的は酒上の逮捕だから、出血多量で死なれるのは好ましくない。手錠を外した手首を痛そうにさすりながら叫んだ。
「医者を呼んでくれ。こいつを助けたいんだ!」
散弾でケガをした善良な町民の治療で忙しい、町営生田原診療院の東嶋という院長が走り寄り、一目酒上を見てどなった。
「止血の処置をしないと死ぬぞ。早く診療所へ運んでくれ!」
院長が酒上の身体をゆすると、失神から覚めてからが苦しいのか歯を食いしばって呻いた。それを見た進藤が安堵の表情をする。
「よかった、生きてたか」
ボランティアの町民が酒上と、その横に倒れていた若葉をそれぞれ戸板に乗せて運び去ると、院長が、近くに座っていた信二の額に手を当てて慌てる。
「すごい高熱だ。すぐ、これも診療院へ運んでくれ!」
赤城が、手を貸して信二を抱え起こして車に運ぶ。
院長は、うずくまっていた達也にも目を向けが、吐き捨てる。
「これは大丈夫、五日もすれば誰だか見分けがつくからな」
それで、あちこち達也の姿をを捜し求めていた友美が、ようやく気がつき、おどろいて達也を見る。どす黒いアザが頬に浮かび二目と見られた顔じゃない、まるで男お岩さんなのだ。友美がその前に座りこんで珍しいものでも見るように眺め、感じ入ったように両手で頬を抱え、額にくちびるを付ける。
「生きててよかったわね」
「よせ、みっともない。人が見てるぞ」
さすがに、達也も不きげんになる。進藤刑事が見てませんよ、とばかりに首を振り、笑いをこらえていた。
暴力団側は重傷の酒上をはじめ他の四人全員が、かなりの手傷を負っていた。結局、暴力団側以外は軽い質疑応答で釈放された。
銃砲火気類を不法に用いたのが、現職の町長、警視庁刑事、元刑事で警護員、山梨県警本部刑事、元営林署司法官、現職の駐在所巡査二名、町議多数、団体役員、町役場職員、こんなのを逮捕したらマスコミのかっこうの餌食になる。緊急時正当防衛として生田原町の特例で無罪放免とする以外には方法がない。
診療院に押しかけた進藤と赤城が、安本を見舞った。
「安本! 赤垣殺しに有利な情報が出たが、ワシは信じんぞ」
進藤が、悔しそうに安本に告げた。
安本は確かに赤垣と争った。「大声で口論してました」と、同じアパートの住人が証言している。警察内部でも、赤垣が安本を殺したのか安本が赤垣を殺したのか、複顔が出るまで割れていた。
それが、一年もたって目撃者が出たのだ。
情報提供が遅れたのには、それなりの理由もある。そのときは、自分が妻子ある身での不倫の露顕が怖かったのだ。
雨の降る暗い闇夜のその夜、同僚の女性と、木の下に車を止めて愛を確かめあっていた近くの妻子ある銀行員が争いを見ていた。
彼の証言では、同乗の銀行員の不倫相手は倒した助手席のシ-トにもたれて目を閉じて、うっとりと音楽を聞いていたのを、眠ってしまったと思ったた銀行員が、その女を起こして身支度を整えさせていたときに、駐車場での騒ぎに気づいたという。
車内からのぞいたとき、最初は男と女が争っていた。それが、ほぼ同時刻に、別々に駐車場に入って来た車から降りた二人の男が、襲われている女を助けようとして男に殴りかかり、そのうち、女と争っていた男が殴り殺されたのか動かなくなったのが見えた。
男たちはかなり動揺したらしく、懸命になって倒れた男をゆすったりしていたが死んだのを確認して腹が決まったのか、死体を車の方に運び始めた。そのとき階段に足音がして二人の男が隠れた。
二階から、バッグを肩に黒メガネの男が降りて来て傘を広げ、銀行員の車の脇を通り去った。その男が、クラブ王城のバンマスであるのは、接待で通ったクラブだけに一目で分かったという。
しかし、その不倫がつい最近になってバレて離婚になり、一攫千金狙いの大穴買いの競馬も不発で、勤め先の銀行金を使い込んだのがバレてクビになり退職金もない。ヤケになって通報する気になったらしい。
女が階段を上がって、すぐまた何か荷物を抱えて下りて来たが、二人の男は倒れた男を赤い車のトランクに入れて走り去り、取り残された女は青い車で立ち去っていたという。やはり、犯罪の影に女はいたのだ。
さらに、その少し前に酒屋の店員が、階段を見知らぬ男がふらふらと降りて来るのを見た、と証言している。これが赤垣だったらしい。酒屋の店員が部屋に寄って、タオルで顔を冷やした安本から二ヵ月分の酒代を集金して、階段を降りたときに駐車場で争う声を聞いたとも証言している。と、すると、それが銀行員が見た古川と高岩だった可能性もある。いずれにしても安本はシロになる。
中央高原村の若者から安本が集めた多額の証書類も金も、殆どが裏金だから実態はつかめないが、それぞれの家に充分な利息付きで利全額戻されているという噂も事実らしい。明らかに一時金作りのプロの手口だが、多額の利息がついて元金がもどれば誰も文句はない。安本への訴訟は消えた。それらの報告を進藤が知ったのは、札幌に飛んで来る直前だった。
酒上はなんの因果か、わざわざ北海道まで来て自分の手にした刃物で両目を刺し、その刃先が脳内にまで達して危篤状態、再起不能の重傷を負った。一命を取り留めたとしても植物人間になる。
北の果て、オホーツクの海鳴りが聞こえる湧別の港町から逆のぼること四〇キロの山間の小さな町で起こったこの事件は、翌日、道北新報夕刊の片隅に、目立たぬ小さな記事として掲載された。
…  …  …
「○日、二十三時すぎ、紋別郡生田原町大字生田の営林署分室の旧庁舎に、暴力団員とみられる五人組が押し入り、無人の庁舎を荒らして内一名が二階から転落し、両目に重傷を負い町営診療所に入院中である。重傷のこの男は別件の殺人容疑で指名手配中であった山梨県生まれの酒上荒吉(40)。警察ではこの五人全員を銃器等不法所持、住居侵入で逮捕した。なお、この暴力団員の負傷は襲撃を防いだ民間人の正当防衛によるもので、さらに詳しい事情を調査中であるが、生田原町で臨時緊急議会を招集し、この事件に参加した町民全員を表彰するこに決定した。さらに、遠軽警察署でも署長賞の授与を検討中である」
…  …  …
記事下に生田原町の林田照夫町長の談話が載っている。しかも、この不親切な記事よりも大きいニコやかな丸顔の写真付きだ。
「過疎化対策が進み、厚生施設も充実している私達の町へは、物騒なものは持たず、ぜひ一本の釣り竿をお持ち下さい。ヤマベのすむ町、暴力のない町が生田原です」
ここでは安本信二と若葉については触れていない。安本信二の殺人容疑は長野県警がまだ継続調査中だが、ほぼ八十パ-セントはシロだという。若葉については周囲からソックリさんと思われているから、記事にする価値もないのか。若葉の記名もここではワカバに変えている。

44 五時四十五分

友美の取材も大詰めで、ウラをとる段階をむかえている。
達也に無理に休暇をとらせて二人で、旭川からレンタル車を馳せて、ふたたび湧別川流域の遠軽町と生田原町をおとずれることにした。自分の出した結論と、中央高原村から発した事件の全貌を記事にまとめるには、どうしても若葉と安本に会わねばならない。誤った記事は書きたくないからだ。二人はまず遠軽町の富橋家に立ち寄り、夫妻の手厚い歓迎を受けた。
酒上らと共に戦った富橋夫妻と達也の心は、目に見えない太い絆で結ばれているようだった。寡黙な達也と富橋、雄弁な勝子と友美が酒を飲み、富橋が真剣勝負の気迫で打つという手打ちソバを味わった。
養女に入ったヒトミも順調に学校になじんでいるという。
「うちの宝になったヒトミちゃんは、今日はまだ幼稚園だから会ってもらえませんが、可愛いですよ。ここによく出入りするワカバさんの影響なのか歌が大好きで、幼稚園の年長組でコ-ラス部に入って活躍してるらしく、園内一の人気者になってるそうです」
ヒトミは、富橋ヒトミという名に変わって歩いて五分ほどの距離にある幼稚園に通っている。明るい子だが元気がよすぎて、女の子いじめの男の子がいたりすると平手打ちで泣かせたりするらしい。
正義感の強いのは親ゆずりなのか。
道東の十月は月の半ばになると朝夕の風はかなり冷たい。
富橋善吉が二人を門前まで見送り、低く走る雲を眺めて呟いた。
「そろそろ、雪になるのう」
すでに大雪山連峰には初雪が降ったという。ナナカマドやダケカンバが色濃くなるころ、秋味(サケ)がオホーツクの海から川が盛り上がるほど重なり合って産卵に適した川底のある場所へと大挙してのぼって来る。これが道東の秋の風物詩だ。
若葉は、生田原町の林田町長が保証人になって、生田原役場教育委員会の臨時職員に雇用されることになった。本籍も長野県から抜いて、紋別郡生田原町字清里一一二にある町立の宿泊研修施設に籍を入れ、音楽指導員になって本名の沢井和歌子として新たな人生を歩むことになったが誰も本名を呼ぶ者はいない。みなワカバさん、とかワカバ先生などと呼ぶ。
安本信二の経過もどうやら快方に向かっているらしい。
達也と友美は、湧別町の駅裏にある総合病院に、見舞いという口実で向かった。面会の許可はナ-ス室で得て病室に向かった。
果物の缶詰の差し入れを持って病室を訪れると、意外にも安本から先に「佐賀さんですか?」と、驚きの声で迎えられた。
「蓮田くん。オレが見えるのか?」
「もう安本でいいです。この目ですが……手術したら右だけがボヤ-と見える程度に回復して、誰か来るのが楽しみなんですよ」
「それはよかった。これは戸田友美、エル社のライタ-だ」
「凄腕の事件記者で有名ですから誰でも知ってますよ。佐賀さんの恋人だが頭が上がらないそうで」
「余計なことだぞ。それより具合はどうだ?」
「ここは生田原の林田町長の紹介で入ったんですが、みなさん親切で、オレみたいな半端者には勿体ないくらいでね。ま、面会室へ行ってなにか飲みましょう」
「警官の監視はないのか?」
「ここは警察病院じゃないですよ」
担当のナ-スに断って病室を出た。達也が肩を貸し、ゆっくりと歩いてエレベ-タ-ホ-ル横の面会室に移動してテ-ブルを囲み、自動販売機からホットコ-ヒ-を出して三人で語りはじめた。
「若葉さんも心配してましたけど、健康状態はいかがですか?」
「不摂生な生活がたたってか、少々肺炎を患ってるらしいけど、徐々に体力も回復してるようだから心配はないですよ」
「若葉さんも時々見えるんでしょ?」
「いや、警察でも、そろそろ病床での取り調べを開始して真相を究明したいとか伝えられたので、こにには近づかないように言ってあるんです」
「なぜですか?」
「あの娘は歌を歌ってただけで事件とは何の関係もないし、せっかく新天地で立ち直って再出発しようと言うのに、あの進藤って刑事は、しつっこく過去を暴こうとするからね」
「進藤さんは、安本さんは赤垣殺しの真犯人じゃないと、言ってましたが?」
「もうどうでもいいですよ。こうして半病人で暮らすなら、シャバにいても塀の中でも何も変わらんですからな」
「二億に近い大金をギャンブルに絡めて、中央高原村の青年たちから搾取したなんて、みんなデッチ上げなんでしょ?」
「なるほど、戸田さんは元刑事を彼氏に持つだけに誘導尋問のコツを知ってますな。佐賀さんなんか、オレのことを六本木の事務所で会った瞬間に見抜いてましたからね。じっとサングラスの奥を見られてビビったところで右手袋の小指を見られた時はゾッとしましたよ。その上、忍び込んで来たチンピラに切られたオレの血をティッシュで吸い取って持ち帰った。あれはどうしました?」
「赤城に渡して分析させたら、元赤城が担当して厚生させた安本信二と分かったが、その時は甲府であんたが拉致された後だった。まあ済んだことはいいじゃないか。オレはもう刑事じゃないんだ」
「これだから恐ろしくて、ジュク署の刑事時代から佐賀さんは余計な詮索をしないが全てを見通してるようで怖かった。それで、戸田さんの質問への解答ですが、あれは全部、本当のことです。ただし金は競輪競馬、丁半博打ですっかり擦ってしまいました。ただ、非合法な集金方法でしたが、いま誰か文句を言ってますか?」
「いや、それが以前の取材ではあなたのことをボロクソに言ってた人が、もう金の話はなかったことにしてくれ、ってわざわざ電話してくるんです。それも五人も六人もですよ」
「ほう、それはよかったですね」
「よくないですよ。誰かが裏で不正な大金を操って、彼らに返済したとしたら税法上の問題が出るはずです。それと、赤垣の殺人では直接には手をくだしてませんが、部屋の血痕に赤垣の血が散ってたそうですから、争いはあったんですね?」
「金の無心で脅すから、一発殴っただけです」
「自分を死んだように装った上で蓮田という偽名で、若葉のマネ-ジャ-に化けてたのは、やはりバンドマスタ-時代の自分が育てたという思いがあって、どうしても成功させたかったのですか?」
「若葉が好きだからですよ。戸田さんだって佐賀さんと離れられずに、こうやってツルんでるじゃないですか? ただ、オレの場合は若葉を幸せにできないのが分かってるからね。そこがお二人との違いですかな」
「オレも同じさ」
達也が本音で呟いた。
「ま、どっちにしても戸田さん。オレは自分の犯した罪の重さは知ってるつもりで、それは必ず何らかの形でつぐなうからね。記事はそれからにしてくださいよ」
「そうしてください。町の噂では、あなたがいずれ罪に服して戻ってきたら若葉さんと結婚して、二人で研修施設キヨサトの管理人として住むことも決まっているらしいんですよ。あのキヨサトという施設は教育委員会が管理してますけど、廃校になった小学校跡だけにあの周辺には体育館やグラウンド、スキ-用のゲレンデなどがそのまま残っていますからね」
「そんなにいいところなのか?」と、達也。
「町内、町外の団体やグループの利用を考慮して、大浴場や宿泊施設に会議室、自炊用厨房なども併設してますし、屋外レジャーとしてすぐ近くにサイクリングロードをつくり自転車も貸出しているんです。そのコースに沿って断崖がそそり立つ屏風岩という名勝もあって景色も最高なんです。それに、町営の梶田沢という牧場も近くにあってハイキングコ-スにもなるんです」
「自然がそっくり残ってるって感じだな?」
「エゾシカ、キタキツネなどを見るのは日常茶飯事で、生田原には自然そのままの生活があるんです。安本さんが戻るまでは、通勤で働いている前任者がそのままいて、夜だけ一人になりますから、寝泊まりするのは若葉さんだけになりますが、誰かがピアノや歌を習いに来てますから寂しいことはありません」
「じゃあ、若葉さんの生活は心配ないんだな?」
「昼間は、あちこちの小学校や幼稚園、施設などから教育委員会を通じて声がかかりますし、歌の指導をするのが日課になりますし、未だに小森若葉のソックリさんで通っていますから、どこでも、若葉のカセットを用意して、自分で歌うだけですから楽ですよ」
「それを聞いて安心しました……」
安本がホッとした表情で、深々と友美に頭を下げた。
安本と別れた二人は、これから若葉のいるキヨサトという施設に向かう。これも、アポなしで不意の訪問にする。
達也は別行動で町営の温泉に入り、夕方、そのまま温泉のある建物の宿泊施設とレストランにも予約済みだから世話はない。

その頃、若葉は子供たちの相手をしていた。
信二と二人で、オホーツクの海に死のうと思って旅に出たあの日が、遠い昔のように思えてならない。それでも、ふと、いたたまれない思いをすることがある。
こんなに恵まれた環境で生活できる日が来るなんて、想像もしていなかった。ここでは何もかも新鮮に感じることができる。歌もまたさらに好きになった。おかげで最近は「ワカバ先生、本物より上手になったね」などと言われている。町長だけは、本物の若葉だと見抜いているが、富橋夫妻はいまだに半信半疑のようだ。
マスコミの間では、もう話題にもならない。
ただ、あの緊迫した恐ろしい世界がおぞましい。もう思い出したくない消えたはずの過去が黒い霧が湧くように頭を狂わせる。
そんな過去の思いに浸っていると、このキヨサトに研修合宿した小学生の団体の一人が、管理人見習いの若葉の姿を見て玄関入口右にある管理人室にとびこんで来て元気に叫んだ。
「ワカバ先生!」
「なあに?」 若葉も表面だけ明るく応じた。
「電車の時間わかる? 時刻表見てえ」
「時刻表?」 一瞬間をおいて、若葉は立ちくらみがしたのか、床に崩れ落ちた。ちょうど、その時刻表を思い出していたからだ。
厨房にいた通いの正管理人や引率の先生が駆けつけると、「五時四十五分……」と、何回かうわごとを言ったという。

45 招かざる見舞い客

生田原診療院に運び込まれた若葉は、東嶋院長の診察を受け、安心したのか、深い眠りに入っていた。
「強度の精神的疲労から来ています。このまま安静にしていればすぐよくなります」
資格は町役場の職員でもある通いの管理人が「あとで車で送ります」という谷際事務長の一言で、安心したのか、生徒達の待つ研修会館に車で戻って行った。それから一時間ほど若葉は眠った。
目覚めて起き上がっているところに看護婦が来た。
「若葉さんに、お見舞いの方が見えました」
院長も声をかける。
「一度見えたんだが、熟睡してたから起こさなかったんだ」
起き上がって礼を言い表に出た。見舞い客は友美だった。
診療院のすぐ隣りが公民館で、小道をへだてて町役場がある。
友美は、安本信二と若葉のたどった道を、出会った人、食べた食事にふれて来た。だれもが親切で優しい。北の大地は、穏やかな小春日和が続いていたが、明日あたりから天気は崩れるという。
やがて流氷の季節がくる。
「若葉さん。どう? 散歩できる?」
二人は、少し離れて土手道を歩いた。足は中央橋に向かい、やがて橋を渡ってゆく。河川敷の芝も枯れ始め、風に揺れている。
「こちらの生活はどう?」
「みなさん。とてもよくしてくれるんです」
「そう。それは、あなたが必死だからよ」
達也が、若葉の警護に本気だったのも理解できる。しかし、それも気に入らない。なぜみんながこの女の肩をもつのだろう。
今回の取材は、女満別空港からスタートしたが、妙なことばかりが続いている。空港出入りのタクシーの運転手の談話も聞いた。
若くて品のいい女性が外車の追跡を命じたという。
その車の前を、同僚の運転するタクシーが走り、網走の南東にある涛沸湖(とうふつこ)近くで前のタクシーから男女二人が降りる
と、その女性も降り、そこでタクシーは折り返したという。
外車は、そのまま国道際に停まった、とも言った。多分、海側の砂丘国道側の原生花園に咲く深紅のハマナスや、エゾキスゲの黄、エゾスカシユリのオレンジ色の花などを車内から眺めていたのだろうと、言葉を加えた。単なる観光客かも知れないからだ。
外車は、かなり古いグレイのベンツだったと言う。しかも、その車は翌朝、網走市郊外の天都山近くの崖下に転落炎上し、二名が死亡している。運転ミスの多い場所だとはいうが。
「その、タクシーを降りた男女は、あなた達でしょう?」と、友美が聞くと、若葉が笑顔でうなずいた。そこには作為はない。
橋を渡ると、少し高台になっていて、木造の古い二階建ての営林署庁舎の板壁は、弾痕でささくれ立ち、屋根も破損して風にパタパタと音を立て、ガラス窓は割れて砕け散ったままになっている。
「入ってみる?」と、聞くと若葉は、顔色を変えて首を振った。
無理もない、階段を転げ落ちて肋骨二本にひびが入っていて、一ヵ月ぐらいの間、歌うと痛みがあったという。
坂を右に上がると、オホーツク文学碑公園のある丘に出た。公園の入口に駐車場があり、子供用の自転車が十台ほど、まばらにおかれていた。その上から森の道が続いている。
「ワカバ先生!」
遠くから若葉の姿を認めた小学高学年の女の子たちが、駆け寄って来て若葉を囲み手を握ったり抱きついたりしたが、一緒にいる友美に遠慮してか、すぐにまた散って行った。たくましい健康美のブロンズ裸像の横顔と右側面が丘を照らす夕陽に輝いている。
森に向かって散策路が続き、オホーツク流域の人と自然を描いた詩や散文を刻んだ石碑が、森の小道沿いに点在している。渡辺淳一の「紋別」、高見順の「納沙布岬」、戸川幸夫の「知床半島」などがあり、子供達が声を出して文面を読んでいる声が木の間越しに聞こえてくる。
「本当にあなたより、安本さんが狙われてたの?」
「さあ、それは……」
何気ない会話だが、友美にとっては、生活がかかっている。
「中央高原村始末記」が、脱線してから一向に正しいレ-ルに戻る気配がないため、元々少ない取材費の打ち切りも宣言された。
デスクに採用させる記事にするには、なんとか、この生田原を舞台にして事件の結末をまとめ上げるしかないが、どこかで間違いを犯しているような気がしてならなかった。
どう見ても、若葉は沢井和歌子ではなく中条留美に違いないのだ
が、その全貌が見えないから友美の推理が矛盾だらけなのだ。
大門沢転落事故。松原湖殺人事件。白骨死体発掘事件。
それぞれが、その背景を考えれば、一つ一つ単独で充分記事にできたのに、若葉にこだわり過ぎて、つい欲ばって関連させて考えたためにタイミングを逃してしまっていた。無理しなければ、大きなルポの連載を三本も抱えて、今頃は順調に多額のギャラを稼いで、南仏コ-トダジュ-ルあたりでのんびり静養とシャレていたに違いない。
専属記者とは名ばかりのフリーライターだけに、固定収入は雀の涙程度のものでしかないから、ここ一年、少ない貯金もすっかり使い果たしている。
「藤井さんが北海道行きをすすめたんですって?」
「ハイ……」
これで、藤井が北に二人を逃がしたことは分かった。
友美の調べによると藤井オフィスも、若葉のために借りていたマンションも解約の手続きが済んでいて、もはや二人には、戻るべき家も仕事も場所もない。藤井は二人を逃がしたのか、死に場所を与えたのか……。しかし、女満別の運転手も、北浜駅の喫茶店の奥さんも、「あの二人は死ぬ気らしい」と感じたと証言した。これは、重大な意味をもつ。あの時点では、たしかに二人は死ぬ気だったはずだ。しかし、ただ単に酒上達を恐れたとは思えない。
それが一変して、生きぬく気になっている。これは、死なないでもいい状態に変化したからとしか思えない。
達也が突然のように、この北の果てまで若葉を護るために来たのも変だった。酒上が北の暴力団と組んで二人を殺害するために追いつめたことを知っての行動だとしたら、行動が早すぎて辻つまが合わない。
達也以外の誰かが、二人を護衛するためか見守るためにか一緒に搭乗して女満別まで飛んで来て、空港で暴力団に狙われた二人の危機を知って依頼者に知らせたのだ。だからこそ警護の依頼を受けた達也が、わずか数時間遅れで駆けつけることが出来た。その早い情報は誰からどこに入ったのか。見えないナゾが続く。
以前、達也を指名する依頼者の一人に、前橋秀子代議士の名があった。前橋女史は東洋の易学の大家でも知られ困った人達の人生相談では救世主的存在で知られている。その前橋女史が若葉のスポンサ-だったとする説もある。だがそれも怪しい。
しかも、歌手をやめた若葉と殺人犯と見られた安本を、どこまでも護りぬこうとするのは何故なのか? それが、歌手とマネージャーとして稼いでくれた二人への資金提供者のはなむけだとしたら、それはいつまで続くのか……? しかも、それを自分の恋人の達也までもが危険を承知で命がけで守り抜こうとしている。こんな詐欺女のために……友美は若葉が憎かった。
「町役場で生田原の研修会館キヨサトのことを聞いたのね。キヨサトへ行ったら、あなたが倒れたっていうでしょ。びっくりしちゃった。一ヵ月ぐらい前にも一度、発作が起きたことあるんですって?
管理人さんが言ってたわ」
「ええ、一度だけですが、体調がわるくて」
「雷と稲妻の強い日の夕方ですってね」
一瞬、若葉の顔色が蒼白になるのを友美は見逃さなかった。