第三章 八ヶ岳山麓

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7 白い妖花

また秋がめぐる。山の四季の移り変わりはめまぐるしい。
戸田友美は、友人の沢野千恵子と、北八ヶ岳山麓にある白馬ヶ池山荘に充電を兼ねて静養に来ていたが、何もない山の中だけにすることもない。薬湯に浸かって湯上がりにビ-ルを飲み、テレビの歌番組で最近急に人気が出てきた小森若葉のバラ-ド調のヒット曲などを聞いている。
「あの新人歌手の若葉ちゃんは、長野県出身なのよ……」
千恵子が得意気に友美に説明して、豪快に冷やの茶碗酒を旨そうに飲み干した。
このあたり一帯は、四季を通じて晝なお暗い針葉樹の原生林に包まれていて、土地の人は、この地域一帯をクロフと呼んでいる。それは、いつも黒々と見える陰うつな闇の世界を意味していた。
そのクロフの中にあって、白馬ヶ池の周囲一、二キロの岸辺近い樹林だけはダケカンパやナナカマドあるいは東国ミツバツツジなどの紅葉が、八月もまだ中旬なのに鮮やかに色づいて白馬ヶ池の湖面にも神秘的なメルヘン画を映している。
その山荘からわずか五百メ-トルほど山に入ると、昼でも夕暮れのように暗く、ミズナラやクヌギなどの原生林が深く続いて、いまはまだ夕日が残っているが、陽が沈むと一気に闇が訪れる。
そのうす暗い山路を、若い新婚の二人連れが急ぎ下っていた。
「早く帰ろう!」
樹林越しに、山陰に落ちる寸前の夕陽を映した白馬ケ池が見え隠れしている。二人は手をつなぎ、転げ落ちるように走った。
二人が山荘にたどりついた頃には山かげに陽が落ちて、夕闇が湖畔の美景から色彩を奪っていた。風も冷たい。
「お帰り……近藤さん。なにかあったんかね?」
山荘の玄関を入ると一坪ほどの三和土(たたき)がある。その右手の大部屋で細長い座卓の上の鍋を囲んで酒を酌み交わしていた男女の中から、山荘の主の辰原公吉が、立ち上がって二人を迎えてけげんな顔をした。二人の表情が冴えないのに気付いたのだ。
近藤と呼ばれた若い男は、辰原の質問には答えずに、連れの女性と自分の背からリュックをおろし、全員に向かって頭を下げた。
「ご心配かけて済みません。予定より大分遅くなりました」
「なあに、山の道なんて思った通りに歩けるもんじゃないさ。さ、早く上がんなさい。寒かっただろうに」
「鴨なべだ。酒とやるとからだが温まるぞ」
鍋を囲んでいた写真家の小山が声をかけ、画家の伊部が席を空けた。二人は夏の間だけ、この山荘を定宿にして仕事をしている。
宿の主人の辰原が、二人を同席させてから引き合わせた。
「紹介するべ。こちらは新婚ホヤホヤの近藤さんご夫妻で、今朝早くから丸山に登りなさっただ」
若夫婦が「よろしくお願いします」と、頭を下げた。
「昨夜一緒に食事した長期滞在の小山さんと伊部さんは顔見知りだからいいな。こちらの新顔は、今日の午後から宿に着いた雑誌社の記者で戸田さん、それと、この先のメルヘン街道沿いで「ブルーベリー」というレストランを開いてなさる沢野さん、お二人は今夜一晩泊まりなさるで、よろしくな」
辰原は、ご飯を運ばせるからと席を立った。
友美が、腰をずらして席を開け座布団を二人にすすめてから、改めて自分と沢野千恵子を紹介して、お互いに挨拶を交わした。
友美が二年前に半年ほど費やして書き上げた、中央高原村のルポは、鬼のデスクの見解でボツになり、それ以降はスランプという長い闇のトンネルが続いている。
デスクからの注文で、得意の事件ものから突然、美談記事をつくることになったが、友美はそれほど器用じゃない。
グルメというと話題になる人気のレストランが三鷹にあった。
その店を経営していた沢野健一・千恵子夫妻と一緒に住んでいた八十歳を越えた千恵子の母が、「故郷の蓼科で老後を過ごしたい」
という願いを叶えるために、絶頂期とも思える三鷹の店を突然のように閉めて、蓼科高原の片隅に移り住んだ。
若い頃、フランス各地でシェフの修行をしオテル・ド・シャンパーニュのコック長も勤めた経歴をもち、ヨーロッパでのコンクールに優勝し名誉あるサーの称号を与えられていた沢野が、グルメファンの人気と支持を得ている最盛期の名声を捨てて、妻の母の願いを叶えて高原の片隅に厳しい自然と対処しながら生きる。これを、美談仕立てにして記事を書け、というのがデスクの注文だった。
沢野の妻の千恵子は、昔、友美の通った沢野料理教室の講師だった縁でもあり、その人間的魅力や経緯も知っている。
だからといって、当たり障りのない美談物や提灯記事などにペンをとるのは性に合わない。それでも、取材費として予算が出るのを使わない手はない。愛車のアウディを走らせて一人でカメラとカセットデッキ持参で訪れることにした。
親しい仲だから、別に予告もなく訪れても千恵子は驚かない。
記事にするとは言わず、短期休暇で蓼科に来たといい、昼食に沢野シェフの洋食を堪能しながら、千恵子にブルーベリー栽培の苦労談や静かな山里の日々の出来事などを聞く。
食後のティ-タイムを楽しんでいると、夫から夏休みを貰っているという千恵子から、白馬ヶ池山荘への一泊の旅を誘われた。
八千穂高原の南西で標高二千百メ-トルを越える白馬ヶ池は、本州でもっとも早く結氷し、一年でもっとも氷の季節の長い湖として知られている。この白馬ヶ池の神秘的で幽玄な夕景に接して、山の湯にのんびりと浸かった友美は、もう仕事などどうでもよくなっていた。どうせ迫力のある記事にはなりっこない。

 

8 好奇心

 

小山が、湯呑みに酒を注いで新婚の近藤夫妻に渡した。寒さからか、茶碗を持つ二人の手が震えている。
「景気づけに一気に飲みなさい。朝の元気はどうしたんだね?」
「どこまで行って来たの?」
伊部が問うと、湯飲み酒を手にした近藤がチラと新妻を見た。
「天狗岳まで登るつもりだったんですけど、この人が花の写真を写したりで、中山峠でUターンして来ちゃったんです。でも帰りに丸山には行って来ました。高見沢小屋では……」
「そんなこといわなくても!」
あわてた新妻が顔を赤らめて夫の言葉をさえぎった。
「なんだよ。高見沢小屋のまわりに、花が咲いてたって言おうとしたんじゃないか」
小山が鍋に手をのばしながら、とりなすように質問をした。
「まあまあ、それでどんな花があったの?」
「千香ちゃん。どんなのが咲いてたっけ?」
男は花には自信がないらしい。
千香と呼ばれた新妻が、思い出すように指を折った。
「ヒメセンブリ、アケボノソウ、キリンソウ……」
「黙ってるが伊部画伯は、専門家だから知らない花はないよ」
「帰りに林の中で、まっ白い花を見ました」
近藤がいうと、新妻の表情が曇った。小山が首をかしげる。
「林の中だとフタバランかな?」
千香が首を振って夫に聞く。
「あの白い花は違うわ。葉がなかったでしょ?」
「たしかに透き通るような花で、葉はなかったかな……」
「葉がない? そんな花あるんですか?」
友美が思わず、花に詳しいという伊部を見た。
伊部は聞こえなかったのか、黙ってカモ鍋に箸を入れた。
友美は質問のほこ先を千香に向けた。
「その葉がない白い花……写真は撮ったの?」
「林に入ろうとしたら、足場が悪いからと止められたんです」
「だって、苔の下は根が縦横にあって、捻挫しちゃうからだよ」
「その花、群れてたかね?」
二人の食事が出来たことを告げて、敷居際に立っていた辰原公吉が小声で確かめた。
「一か所にかたまって咲いてました」
近藤が答えると、小山が落ちついた口調で聞いた。
「花の大きさは?」
新妻の千香が応じた。
「小さな可愛い花で、ミヤマウズラに似ていました」
小山が辰原を見た。辰原の表情が心なしか曇っている。
「見たのは花だけだね?」
辰原が念を押すと、若い二人の表情が硬ばった。
「それが……」
「どうした?」
「毛深くて黒い動物が何頭かいて、脅したら逃げたんです」
「ムジナだな」と、辰原が呟いた。
小山が頷いて辰原を見ると、辰原が手を上げて制した。
「今まで咲かない場所だ。ワシが一人で見て来よう」
「いや、私も写真を撮りに行く……」
小山が立ち上がり、無関心そうな伊部を誘った。
「伊部も一緒に行くか。現場には入れんからフィールドスコープ持参だぞ。オレも望遠で撮るからな」
「気乗りしないな」
その会話を聞いた友美が、けげんな表情で伊部と小山を見た。
「変ですね?」
「なにが変かね? 珍しい花だから見に行くのに……」
歯切れのわるい口調で小山が応じる。
「だって、花の写真なら明日だっていいのに。それに、宿のご主人が一人で行く、と言ったのも変です」と、友美が食い下がる。
千恵子はなにも気付いていない。
友美が立ち上がり素早く防寒用ヤッケを着て身支度をした。
小山の山支度を見て、伊部も嫌々腰を上げる。
肩にサーチライトを下げた辰原はすでに土間に降りて、長編み上げの靴に足を通していた。ひげ面の辰原が優しく友美を見た。ねちっこいルポライターの執念を振り切れないと悟ったらしい。
「温かくして行くだよ。山は相当冷えるからな」

 

9 ユ-レイ花

 

山荘の外へ出ると、すでに陽は落ち澄んだ空に星が近い。山も林も黒一色の世界に入っていた。白馬ヶ池にその影は映らない。夜に入り、風が出て鏡面が波立っているのだ。天気予報では、夜明けから雨になるという。山の天気は急変する。
同行を希望した近藤の案内で、辰原、小山、伊部と友美、五人が外へ出て歩き出した。吐く息が夜目にも白い。近藤の妻や千恵子には、辰原の妻を手伝って部屋の片付けを頼んである。辰原はこの先が見えているのだ。
「昔、オヤジさんに聞いたことのある話そっくりになったな」
小山が、誰にともなく話しかけた。
「昔、といってもビーナスラインが出来る以前のことだが、この辺りは山が深くて道に迷った登山者や、わざわざ死に場を求めてさまよい込んだ自殺者の死体などが沢山あったそうだ。一度この原生林に入ったが最後、誰も探すことはできない」
「変ですね。探すことの出来ない死体じゃ探せませんね?」
足元を、自分の懐中電灯で照らしながら友美が言葉をはさむ。
「どうやって探すかって疑問だろ? 花なんだよ。この茎までも白いユウレイ花が咲くと、その下に死体がある確率が高いんだ」
血の気が失せるのを友美は感じた。近藤が一瞬止まった。
「正式には、銀りょう草というイチヤク草科の腐生植物なんだけどね。ユウレイタケともいい、この辺りでは七月頃咲く花なんだが、気温と養分次第では八月に咲くこともある。それで警察や消防、地元の人が一年に一度山探しをして死体を探したものだそうだ」
辰原が言葉を継いだ。
「この草は動物の死体から出る蛋白を吸った土に育つ」
「人間とは限らんじゃないか?」 伊部が暗い声でさえぎる。
「ムジナが五、六頭も集まってたんだぞ…」
現場はすぐに知れた。辰原のサーチライトの先に音を立てて逃げるムジナが見えた。獣たちは死肉をあさったのか。
光の輪の中に、純白に輝く花の群れが浮いた。うっ蒼とした樹林の闇の中で、光の輪に浮かぶ白い花は限りなく可憐で妖しく、まぶしいほどの清冽さで輝いている。
「きれいだわ……」
友美は、寒さも恐怖も忘れて陶然として立ちつくした。それは一瞬だったが、一秒、あるいは五秒だったかも知れない。友美がこの小さな花に魂を奪われたのは事実だった。
小山が、カメラを覗きながら一歩前へ出て苔の上に足を入れるとズズッと足首まで沈んだ。引き抜こうとすると足の甲が木の根に絡む。ようやく抜けた右足首が痛むらしい。
「ダメだ。道路から一歩も入りなさんな。捜査の邪魔になる」
辰原が誰にともなくいう。
「入ったんじゃない、落っこちたんだ」
小山が舌打ちして場所を替え、足場をかためた。あとは黙々と三脚に乗せたカメラのシャッターを押し続けている。レンズは望遠五〇〇ミリ、八メートルほど離れた花でも画面いっぱいに入る。光源は辰原の持つサーチライトだが手持ちのため揺れる。小山が望遠レンズを覗く。
「オヤジさん。そのライト、もっと右へずらして…」
少し離れた位置で伊部が近藤青年の肩の上に立ち、木の幹につかまってスコープで覗いていた。小山がそれを見た。
「どうだ、伊部。見えないか?」
伊部が首を振った。
「早く交替してください。肩が抜けそうですよ」
近藤が今にも泣きそうな声を出し、伊部を肩から降ろした。
交替して伊部の肩に乗った近藤青年が、片手で木の幹につかまり片手でスコープを覗いて叫んだ。声が震えている。
「コケの少ない地面の枯葉の間から、なにか見えてます!」
「どのあたりだ?」
「花の右手奥、シラビソの根元から約二メートル右、花からは五十センチほど左のコケが少ないところです」
充分、花の写真を撮った小山がカメラの向きを少し変えると、辰原もライトのセンターを右にずらした。たしかに苔が少ない。
「どれどれ、どこにある?」
小山も見つけたらしく無言の時が過ぎた。指先が巧みに焦点深度や露出を変えシャッターを続けざまに切る。
「さあ、戸田さん。見てごらん。カメラは動かさないでよ」
小山は辰原に会釈してライト係を替わって木の幹にライトを押しつけた。光が動くと被写体が見づらくなる。
友美が、小山のカメラをのぞいた。日頃、ズーム内蔵の大衆カメラで取材にとび歩く友美にとって五〇〇ミリ望遠の視界は迫力があった。友美が見たままを口にする。
「ボロ雑巾みたいな布が…なんだか枯れ木の枝みたいな指に絡んでいて…曲がっているのか折れたのか、四本だけしか見えません」
「人間の指かね?」
辰原が念を押した。
「だと思いますが…見てください」
辰原が友美と替わってカメラを覗いた。
「人間の指に間違いないな」
近藤が伊部の肩から下りると、辰原がサーチライトを手渡す。
「この位置でいいから頼むよ」
友美の懐中電灯を借りた辰原が原生林に足を踏み出した。木の根を伝いながら慎重に、布が絡む枯れ木か、泥まみれの白骨かを確かめに行く。数秒ほど覗いて引き上げて来た辰原が報告した。
「ケモノが死体を引っ張り出して骨をしゃぶってたんだ」
突然、近藤が狭い山道の端にしゃがみこんで吐いた。友美がすぐティシュを渡して、その背をさすった。
全員が、転げ落ちるような早さで山荘に戻った。
電話口に急ぎながら辰原が口の中で呟く。
「花に包まれたホトケさんを久しぶりに見たな

 

10 証拠の品

諏訪警察署の動きは早かった。
通報を受けた分署の茅野警察官派出所からパトカーがまず一台、メルヘン街道沿いの白馬ヶ池入り口下駐車場に車を停め、刑事と制服の警官四人が山荘に着いたのは夜の十時、辰原の案内で現場に向かう。友美も同行した。
二十分ぐらい過ぎて、富士見町から移動して来たという吉原警部を班長とする進藤警部補以下の県警本部捜査一課機動隊の刑事、諏訪署の鑑識班が、山荘に待機していた小山の案内で到着した。
吉原警部が、辰原に頭を下げた。
「オヤジさん。またお世話になります」
「いつものことだ、気にせんでいいがね」
吉原警部が、ふとライトに浮かんだ友美に気付く。
「なんだ? 戸田さんのユウレイか?」
進藤も驚き、あわてて友美の足元を見る。
「足がない……」
「冗談はやめてください!」
「なんで、ここに? 取材は遠慮してください」
辰原が割って入る。
「この人は、ワシらと一緒に死体の発見者でしてな」
「一緒に? 第一発見者ですか?」
これで、友美は公然と取材ができる。
「あのきれいな花の右側に死体があります」
先行した茅野分署の刑事が吉原警部に説明する。分署の警官が山道から現場までの原生林内に、歩行用の細板を木の根の上に並べる作業をしていた。警官が進藤らに説明する。
「足元のコケは踏み込むと下が柔らかいし、現場が荒れますので板の上を渡るようにしてください」
「死体の状況はどうだね?」
「ケモノがホトケさんの手をくわえて引っ張り出そうとした形跡がありますが、大きく荒らされてはいないようです」
続いて、鑑識課長の中西警視。諏訪署の捜査課の制服・私服組、鑑識班などが到着、伊部の先導で山道を登って来た。
どの刑事も死体に近寄ると必ず手を合わせ、鬼瓦のような顔でも神妙になる。死体を囲んで検視が始まった。掘り出す前に写真を撮り、死体を埋めた現場の状況、地上に出た人体や衣服の状態などから調べてゆく。
若い刑事が、カメラを構えた小山の肩をこずいた。
「捜査の邪魔になる。写真はダメです」
「カメラがダメじゃ。酒でも飲んでた方がいい。伊部、帰ろう」
「オレは、もう少しここにいる」
すでに充分に撮りおわった小山が先に帰り、友美は少し移動して小型カメラを出した。伊部は木陰から捜査状況を見守っている。
吉原が検視に立ち会っているため、進藤が捜査の指揮をとる。
「各員一メートル幅を持ち場として前進。コケの上下や木の根まわり、落ち葉の下、不審な遺留品はゴミ一つとして見逃すな。ここからホトケまでの間じゃないぞ。その向こう側五メ-トルまでだ」
捜査員が並んで腰をかがめ足の抜き差しに苦労しながら、苔や土に顔を突っ込むようにして犯行の手掛かりになる遺留品を探す。それぞれの持つ懐中電灯の光の輪が、刑事達の険しい表情を闇の中におぼろ気に浮かび上がらせる。それは、不気味なデスマスクの葬列のようでもあった。
現場写真の撮影が終了すると、鑑識班による死体の発掘が始まる。死体を損傷しないように細心の注意を払って、鑑識課の職員が用意した小さな木のヘラで土を掘りはじめる。別の職員が、その土を用意したフルイにかけて残ったゴミを拡大鏡でのぞいている。毛髪や陰毛、ボタンなども探すのだ。
化学班などが中西警視の指示で、死体の損傷箇所、白骨化の状態から地中にあった期間を割り出していく。フラッシュが光った。
「まるで、埋められてから手を伸ばして地面に這い出そうとしたかのようですな?」
吉原が中西警視の顔を見た。いつの間にか友美も横にいる。
「執念ってやつか?」
中西が応じていたが表情に笑みはない。手を伸ばす死体などあり得ないからだ。友美が、吉原に聞く。
「一メートルも深く堀れば完全犯罪だったでしょうね?」
「根が邪魔して深く堀れなかったんだよ」
吉原が示した懐中電灯の光の底に、木の根が縦横に荒い網を張っているのが見えた。腰を落とし、白手袋で死体を動かした中西警視が、吉原と友美に語りかける。
「ひどいな。右側頭部が骨折陥没、まだ脳髄に悪臭が残ってる」
寒期の長い山の気温が影響して虫を避けたのが腐敗を遅らせたのか、まだ完全に白骨化していない死体を掘り出して、ビニールシートに横たえると、脳髄以外にも悪臭が強く漂い鑑識官も顔をそむける。写真班が身体各部を接写で克明に撮る。
ボロボロになった上着の袖が、腕時計の絡んだ左の骨だけの手首にまとわりついている。すでに腐蝕してはいるが太目の糸で編んだ派手なチェック柄であることが判別できる。小指の先がない。
中西警視が所見を説明し、近寄った進藤がメモをとる。友美は、ショルダ-バッグ内の小型テ-プレコ-ダ-を作動させた。
「骨格と骨盤からみて頑健な成人、歯の磨耗から診て三十歳前後だな。身長は約百七十センチか? 埋められて約一年前後と推定できる。死因の可能性として鈍器による撲殺、例えば、石、石膏、バット、花瓶などだな。左手の小指が第二間接からない。これは詰めたか、詰められたかだが……安本も左の小指がなかったな?」
「動物にかみ切られた、ということはありませんか?」
進藤が疑問を投げる。
「動物だと牙で噛むから切断面がグシャグシャになる。これは鋭利な刃物で切った跡だ」
中西警視が死体の顎を開かせて、懐中電灯で上下の歯を見る。
「下左の奥歯に虫歯治療の痕跡がある。歯型をとるから歯科医師会にすぐ照会してくれ」
進藤が頷いた。
「これで、家出人、指名手配中の男などの中から検索できます」
「ところで……」
中西が、吉原警部に進言する。
「司法解剖が済んだら、頭部だけを科警研に送り、カービング(複顔)依頼を出してくれ。それが出来上がったら、このホトケが誰だか一発で分かるだろう」
「ガイシャさえ割れれば簡単な事件ですな。複顔は十日もあれば出来るでしょう」
進藤が口をはさむ。
「もう死体が誰だか分かってるのに、慎重すぎませんか?」
誰も答えない。解答は一つだけだが、確信はない。
木陰に立って捜査状況を見ていた伊部が、夜寒に負けてギブアップしたのか、静かに移動し山荘への道をたどる。その懐中電灯の光の輪が、深い霧にぼやけて遠のいて行く。
山荘にいた連絡係の刑事が、息をはずませながら駆けつけ山道から呼びかける。
「吉原班長! 東京に出張中の諏訪の高尾署長から電話です」
吉原がその所轄の刑事に電灯を向けた。夜は明けていない。
「なんだね?」
「死体発掘と検案は朝一番からでもいい、という伝言です」
「バカいえ、明朝の予報は雨だぞ! 降る前にカタをつけるために夜中に始めたんだ。それともなにか、諏訪署の諸君は、夜の仕事は嫌いか?」
「夜のお仕事、大好きです!」
刑事の一人がウラ声で答えたから、あちこちから笑いが沸く。
「まじめにやれ! 署長に伝えろ。全員、夜が好きだってな」
また、笑いが出た。
「了解しました。その通りに伝えます」
「あったぞ!」
刑事の一人が、林の中で得意気にボロ靴を高くかざした。
その日の収穫は、その片方の靴だけだった。鑑識の仕事は一段落したが、遺留品探しは翌日も続くことになる。
白い透明なユ-レイ花は、無惨に堀り返されて見る影もない。
ビニ-ルにくるまれた半白骨死体は、服飾品などの証拠品と山林内で発見された靴の片方の参考品共々、司法解剖のために山を降りた。中西警視らその一行ほぼ全員が、山荘に立ち寄り、熱い茶碗酒と山菜ソバなどを振る舞われて山を下りた。
所轄の刑事は翌日早朝、茅野分署に集結して会議を開き捜査の方針を決める。吉原隊長は諏訪署に向かい、機動隊は進藤班の数名が山荘に残った。したがって山荘に滞在する第一発見者の調書作成は進藤が代行することになる。
深夜になって予報通り雨になった。雨が降ると山の気温は極端に低くなる。白骨死体発見から調書の作成までの協力で、宿で待っていた辰原の細君をはじめ、新婚の近藤夫妻、沢野千恵子も寝ていない。瞼が腫れぼったい顔の友美もアクビを連発している。
一泊二食の宿泊費を払う進藤班のために、辰原の細君が朝から律儀にカモ鍋を出したから、その匂いが山荘中に広がると、もう誰も眠れる状態ではない。歌は出る、口論はするで大宴会になった。とても死体発掘後とは思えない。
夜明けが近いのか、白馬ヶ池を囲む森に棲む山鳥がうるさい。
そのうち夜が明けた。宿の電話が鳴り、辰原が刑事を呼んだ。
酔ってロレツのまわらなかった若い刑事の口調が、電話に出た途端にピシッとする。職業意識というものなのか。
「そうですか、片方の靴が臼田署に保存してありましたか…」
刑事が電話口を離れて進藤に近付き、走り書きのメモを手渡す。
進藤の隣に座っていた友美が、さりげなく横目でメモを見た。
メモには、走り書きで「クツはタカイワ」とある。
若い刑事が進藤にメモを渡してから、スト-ブの上のヤカンを持ち上げ、進藤の茶碗に注ぐが手元が狂って酒をこぼす。
「一レンまえにライモンザワれれんらくした……」
またロレツが怪しい。器用なものだ。翻訳するとこうなる。
「一年前に大門沢で転落死した、高岩の靴の片方です」
「そうか、やはり高岩と吉川が安本を殺し、高岩が吉川を殺したあげく自殺だったってことか……」 進藤が頷いた。
友美は、二人の会話を耳にしながら、ルポ記事の変更と取材の方向についてデスクに申し入れるために、ひとまず帰社することに思いを巡らせていた。今度こそはいい記事になる。