第二章 中央高原村

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4 殺人事件現場

事故現場では、指令車のパトカ-だけは赤色灯と警察無線を常時作動中にしておくのが通例になっている。しかも、担当係官が車から離れていても聞こえるようにと、無線のボリュ-ムも上げてあるから、相手の声がかなりの距離まで聞こえることになる。
中尾が車に走って音量を下げ、ドア-を密閉した。周囲に聞かせたくない場合があるからだ。だが、せっかく相手の声を低くしたのに興奮でト-ンが上ずった中尾の声が外部に漏れていた。
「松原湖に死体が浮いた! コロシですか?」
声を潜めたが遅かった。
まだまだ小雨が冷たく降る現場に、しぶとく残っていた少数の取材陣や野次馬が耳を澄ませてその声を聞き、我がちに動き出す。
何となく事件の匂いを感じていた全員が、過失死や自殺などと言われて欲求不満気味だったから動きは早い。
「進藤さん、黒パトの無線も……呼んでますよ」
「松原湖の件ですな。戸田さんはどうします?」
「その連絡を聞いてからにします」
進藤が運転席に走り込み、友美が後部座席に入った。
吉原警部が無線に出ている。
「いま松原湖に向かう車からだ。事件のことは聞いたか?」
「いま、指令車にコロシの連絡が入ったところです」
「深夜にな、首を締められて放り込まれたらしい。取水口から横にずれていたために、吸い込まれる前に浮いて来たってとこかな」
「ガイ者は?」
「中央高原村の古川昭夫ってヤツだ。マエ(前科)があって所轄にも面が割れていて本人に間違いないそうだ。多分、そこからの報告にあった高岩に、借金のカタに外車を取られた古川が、高岩のボロ車に乗ってたんだが、誰かに殺されたんだ」
「死亡時刻は?」
「古川が殺された時間と、高岩の死亡時刻との差が、松原湖からそこまで走った時間と合致するかどうかだな」
「大変なことになりましたな。ホトケは一応、司法解剖にまわしましたが、こっちはすでに事故で処理してます。結局、高岩が古川を殺して、衝動的に自殺したってところでしょうか?」
「まだ結論を出すのは早いぞ」
「分かりました。検視官は?」
「そっちにいた中西課長が来る。臼田に向かったところに連絡がとれてUタ-ンだ。ボヤいてるぞ。そっちが片づいたら来てくれ」
「こっちは終わりました。すぐ行きます。ところで……」
「なんだ?」
「安本はどうなりました?」
「部屋が荒らされた上に血だらけでな、安本は消えていた……」
「消されたんでしょうか?」
「拉致されたか、殺されて運ばれたかだな」
「相手は?」
「知るもんか、ヤツなんか敵だらけだろうさ。いま諏訪署が総出で調べてる。夕べ、雨の中で争った声がしたと隣に住むOLが証言してるそうだがな」
友美が口をはさむ。
「転落事故死、松原湖の殺人、その上に安本が失踪、なんだか嫌な連鎖ですね?」
「戸田さんも、謎解きに参加するかね?」
「いい記事になるなら、食いついて離れません」
「恐ろしいな。進藤、ピラニアの戸田さんには気をつけろよ」
「もう手遅れで、かなり食いつかれてます」
無線が切れた。中尾が近づいて窓から声をかける。
「これから松原湖に行くが、進藤君か戸田さん、お二人のどちらかが警視庁の赤城刑事を待って、一緒に後から来てください」
「赤城さんが来るんですか?」
「更生したはずの安本の名が出たことが、気になるようですな。私も残っていたいが、こことの関連が気になるんで……」
中尾班も松原湖に去り、事故の後始末をする交通課や作業班だけが残った。
「仕方ありません。進藤さん、先に行ってください。わたしは赤城さんと一緒に行きますから」
「いや、赤城君に失礼だから、もう少しだけ待ってみますよ」
雨が小降りになったのを見て、友美がもう一度、事故現場の写真を撮ろうと橋の上に立ち、人気のなくなった谷底を覗いてカメラを向けていると車の音がした。
大門沢橋に至る旧街道の曲がりくねった細い坂道の両側には年を経た樹木が枝葉を伸ばし、トンネル状に暗く空を覆っている。その遅い午後の旧道を疾走して来た濃いブルーのライトバンが、進藤の覆面車と友美の白いアウディの間に割り込んで、急ブレーキをかけて停止した。車からずんぐりタイプの警視庁刑事部四課の暴力担当の赤城警部補に続いて、うす汚れたアポロキャップをかぶり茶のブルゾンを着た長身で精悍な不精ひげの佐賀達也が降り立った。
橋の上の友美が、傘のうちから目をこらして驚く。
「達也さん、なんで?」
「友美こそ、こんなところで何してる?」
「なんで佐賀さんが来たんだね?」
進藤までが邪魔そうに不審がると、赤城が説明する。
「列車でと思ったが、めったに車に乗らない先輩のボロ車を借りようと思って電話をして、安本の名を出したら、今朝徹夜明けで非番だから、助手席で眠ってるっていうんで仕方なく……」
「でも、安本は殺されたかも知れません」
「どういうことです?」
「うちの吉原隊長から、そのように連絡があったんです」
「冗談だろ。安本なんて、そう簡単に死ぬ玉じゃないぞ」
「部屋が血だらけで荒らされてて、安本はいないそうです」
「安本の血だけか? 拉致されたのかな?」
「血痕のDNAについてはいま調査中ですが、民間人がそれ以上深入りしないでください」
達也が怒る。
「進藤くん。オレが来たのがそんなに気にいらないのか?」
「佐賀さんが現れると、ロクなことが起きないんです」
「事件解決に一役買うつもりで来たんだぞ」
「じゃ、約束してください。捜査の邪魔はしないって……」
「邪魔はしないさ」
「約束ですよ。じつは松原湖でコロシが発生してるんです」
「じゃ、ここの転落事故と関係してるな?」
「ほら、すぐ刑事の癖が出るじゃないですか」
霧雨に傘を広げて、達也と相合い傘になった友美が苦笑する。
「無理です。この人は警備会社勤めになった今でも、刑事癖が抜けないんです」
「ともかく、説明してくれ」
警視庁を退職した達也が、先輩の経営する要人警護を主とする警備会社に勤務して一年余になる。にも関わらず一向に刑事臭が消えないのは、数多くの修羅場を経験して身についた職業病なのかも知れない。諦めた進藤が二人を橋の上に案内する。
「この下に裏返しになった車が落ちていて、中で高岩という男が死んでたんです」
「これじゃ、イチコロだな」
紅葉の枝葉に覆われた谷底を見ると、岩場には壊れた車の部品やガラスなどが散乱していて濁流が岩をはむ。八ヶ岳連山最高峰の三千メートル近い赤岳の中腹を源流として、清里高原を流れる大門沢は、日頃の底石まで澄む清流の面影などどこにもない。車体が滑落時に削った崖跡、岩場に残る破片などを見て、達也はその衝撃の凄さを想像した。進藤が続ける。
「この坂の上にあるゴルフ場の従業員が第一発見者で一一〇番で通報して来ました。朝五時三十分です。すぐ清里駅前駐在所、南牧駐在所と山梨、長野両県の巡査が駆けつけ、どちらの管轄かで迷ったそうですが、山梨は長坂警察署小淵沢交番、長野は小海町交番から応援が出て、落下点は山梨、死体は長野として合同調査に入りました。その結果、そこの橋際の空き地に駐車した外車のポルシェで缶ビ-ル一本を飲み、エンジンを掛けて仮眠をしていた高岩伸一が、寝ぼけたのか誤ってサイドブレ-キを外した上にギア-を入れて発進したのか、あるいは自殺、とりあえず変死と発表しました」
「そんなバカな。他殺の線もあるだろう?」
「当然です。でも、いまは手掛かりがありません」
「マニアル車かね?」
「オ-トマです」
「左ハンドルの車で、この空き地から谷に向かうと助手席は道路側だな?」
「そうですが……?」
「落ちた車の助手席側のドア-は、閉まってたか?」
「助手席側の? そういえば水中で半開きでした…」
「古い手だが、ドア-を少し開けておいサイドブレ-キを外し、ギア-を入れて飛び出すってのがある。アクセルを踏まなくても車は進むし、座席を少し倒しておけばとっさに起きられんぞ」
「そういえば、ドア-は半開きでリクライニングは少し倒されてました。交通鑑識の調査で、駐車していたところから加速されたことが判明してます」
「じゃ、助手席側から足を伸ばして、アクセルを踏み込んでから飛び出したってことだな……」
赤城が進藤に聞く。
「安本はどう絡んでるんです?」
「古川が高岩から一千万借りて、担保がここで落ちた外車で金利は月に十パ-セント、この金利が安本の取り分らしい」
友美が浮かない表情で口をはさむ。
「仕方ないんで取材ネタをバラします。戦後に帰国した満州開拓団の人達が八ヶ岳山麓の荒れた山林を与えられて食うや食わずで開拓した結果、高原野菜でヤマを当て、裏帳簿で節税した結果、いまでは億万長者続出で、税務署には内緒で資産別秘密結社に十億会、五億会、三億会とあり、一億なんて相手にされないんです」
「一億が相手にされない!?」 達也が目を剥く。
「あなたは千円でもあれば、ビ-ルを飲むでしょうから……」
「うるさい。最近は発泡酒だ。で、十億会とかの村の人は大金をどう使うんだ?」
「使わないから残るんです。でも、脱税という村の秘密を知ったワルが、村の若者をギャンブルに誘い込み、祖父の代から築いた財産をむしり取ろうと狙ったのです」
「それが安本か? そいつらが、この事件に絡んでるのか?」
「分かりません。いずれ、取材で明らかにします」
進藤が口をはさむ。
「いま、知ってる範囲の情報を流してくださいよ」
達也が急かせる。
「とりあえず、松原湖へ行こうか」

 

5 松原湖

 

「あとを頼みます」
現場に残った所轄交番の警官に進藤が挨拶して、進藤が覆面車、中古のボロライトバンに赤城、友美の白い車に達也と、三台が連なって橋から旧道の急坂を北に向かて上がる。
旧道が、新道と合流する右手に野辺山カントリークラブがあり、その先の合流点手前の踏切脇に、JR最高地点一、三七五メートルと刻んだ鐘付きの石碑が雨に濡れていた。
高原野菜や焼とうもろこしを売る店もある。
“この先、死亡事故あり”の看板があり、“高原列車の走る里”“暴力追放宣言の村”と、南牧村に入ったとたん看板が続く。
覆面車の屋根上で点滅する赤色灯がなければ、小雨に濡れた初秋の千曲川沿いの佐久街道の風景は満更でもない。路傍にはマリーゴールドやコスモスが咲き乱れ、高原野菜直売店と信州そばの看板が目につき、達也の腹の虫が鳴く。
松原湖方面に入る丁字路を左折すると狭い急坂への道に入る。曲がりくねった山道を走ると、松原湖入口の看板が見え、舗装道路の片側に車間を詰めて報道関係などの車がぎっしりと駐車している。
道路から湖への急坂の入り口にレインコート着用の警官が立っていて警察関係以外の車輌の進入を阻止していたが、覆面車を見て挙手で通し、赤城の運転する車が続く。続く友美を見て疑いの目を向けた警官が、達也を見て挙手をした。不精髭で横柄な態度を見ただけで警察関係者と見抜くらしい。達也も軽く頭を下げた。
「エンジンを切ってニュ-トラルで降りてみてくれ……」
勾配が急な坂はゆるやかなカ-ブが続き、両側に民家がまばらに並んでいる。車は、エンジンを切ったまま軽くブレ-キを踏みながら湖畔近くにまでたどり着いた。
「こうすれば深夜でも気づかれないからな」
湖畔入口手前の崖上と、湖畔のたちばな荘と看板の出た旅館兼土産屋の駐車場に、県警の車輌と、警察が認めた一部の報道関係の車がぎっしりと駐車している。
「こちらに進んでください」
警官の誘導で、三台の車が土産店脇の狭い湖側の空地に縦列に駐車する。
「降りる時、足元に気をつけてください。浅いように見えても結構深いですから」
なるほど警官の注意がなければ、危ふく湖に落ちるところだ。岸辺に滞積した落ち葉が地面と湖水の境界を隠している。よく見ると水は澄んでいてかなり深い。
湖面には、霧雨の小さな波紋がさざ波のように広がり、朽ちて崩れたままの桟橋には白鳥を模した足漕ぎボートが寒々と首を伸ばして係留されていた。小魚が跳ね、波紋をほんの少し残した。
「お揃いで邪魔しに来たのかね?」
進藤の知らせで、笑顔で軽口を叩きながら吉原警部が歩みより、達也ら三人と握手で再会を喜んだ。達也よりかなり年上の吉原だが酒の上で達也には頭が上がらない。吉原は、達也と友美が民間人だろうと気にもせずに状況を説明する。
「古川昭夫は首を締めてから突き落とされてる。いま、鑑識の中西課長が到着して、大門沢で高岩が残したスポ-ツタオルの織り目と合わせたらピッタリだった。やはり、高岩が古川殺しの本ボシに間違いないようだな」
「死亡時刻は?」
「血液の凝縮状態などからみて午前二時前後らしい。投げ込まれて沈んでた死体が、午後になって浮いたんだな。それを通りがかった観光客が発見して、ここの宿に知らせてからの通報だから、大門沢より遅れたがコロシはこっちが先ってことになる」
進藤が頷く。
「なるほど、高岩の転落時刻はは午前三時五分ですから、その一時間前に古川を殺害して移動し、気持ちを落ちつけようとビ-ルを飲んでから、結局は死を選んだ……」
「しかし、金を貸した高岩がなんで古川を殺したんだ?」
吉原が達也に顔を向ける。
「高岩が殺したと決めつけるのはどうですかな?」
そこに中尾が来た。
「吉原隊長、ここにいたんですか?」
「なにか用か?」
中尾は、顔見知りの達也と赤城の顔を見て挨拶はしたが、報告をためらう。
「遠慮する仲じゃないだろ。はやく用を言え」
「高岩と古川が、昨夜、一緒に食事していたのを目撃したという人が出てきました」
「それで?」
「今朝、一番で大門沢の現場に駆けつけた南牧村交番の巡査が、野辺山駅前の観光案内所に寄って赤いポルシェが谷に転落したことを話してたら、そこの職員が彼女とデ-ト中に、その車らしいのを見たと言うんです」
「どこで?」
「国道一四一号を南に走って、清里駅入り口の十字路を駅と反対方向に左折すると、ガーデン・キヨサトという深夜営業のシャレた店があります。夜中の十二時頃、その店に行くと玄関前の駐車場にポルシェがあったと……」
「確かなのか?」
「駐車場のライトでも赤は目立ちますし、車種も見ています」
「高岩が店内にいたのか?」
「何組かの客の中に、男の二人連れがいたそうですが、ふと気付いたときはその二人も外のポルシェも消えていたそうです」
「青い車は?」
「記憶にないそうですが、その店に電話したら、住み込みの店員がいました」
「どうだった?」
「青い車は見てないそうです。来客があると必ず車を見る習慣があって、それで結構注文や消費金額を推定できるそうです」
「赤いポルシェの客は?」
「二人の男が来店してます。人相や服装からも古川と高岩に間違いありません。二人共小ジョッキの生ビ-ルとスパゲッティを注文したので、車種の割にケチだと思ったと証言してますが、一人はスリッパだったそうです」
「高岩だな。その時点でもう靴はなかったってことかな?」
「小声でコソコソと妙に落ち着きがなく、変に思った店員が注意していると、食事が終わると会計を済ませ時間を気にしていたが、駐車場の外の道に車の止まる気配がしたら急いで外に出て、二人共ポルシェに乗り込んで走り去ってます」
「外の道路に車か?」
「これは、気のせいだったかも知れない、と言ってます」
「どっちが運転してた?」
「小柄なスリッパの男が運転席に乗ったそうです」
「変ですね?」と、友美が続ける。
「その時点では、二人の間に争いはなかったんですね?」
「場所を移してから話し合いがこじれたんじゃないかな」
ふと、達也が吉原に聞いた。
「高岩の車を見てもいいですか?」
「私が案内しましょう」
達也と友美を誘った中尾が先に立って坂を上がる。吉原は進藤と赤城を連れてテントに向かった。

 

6 記者会見

取水口の上が低い崖になっている。その崖の上に駐車場があり、古川はそこから投げ込まれたらしい。
崖の上に車なら四、五台ご停まれる空き地がある。駐車場とは名ばかりので昨夜来の雨でぬかるみ、わだちの跡さえ定かではない。
その駐車場に立ち入り禁止のテ-プの中に高岩の青いク-ペタイプの国産車だけが駐車している。下取り価格ゼロどころか引き取り料を請求されそうな古い車だった。これだから億万長者はさらに金持ちになる。
「このボロ車から何か出たかね?」
達也の質問に中尾が応じる。
「ビ-ルの空き缶一個に覚醒剤が二グラム、避妊具が出ました」
「それだけかね?」
「何人もの髪の毛や指紋も出てるし、細い縮れ毛も多いことから複数の女を引き入れてたのは間違いありません」
「こんな車に乗る女がいるのか?」
達也が友美を見ると、無言で軽蔑の視線が返って来た。
「だろうな。無理やり乗せたってことか……ところで、この車に気付いた人は?」
「高岩の車は昨夜十二時頃ここにはなかったそうです」
「深夜だと静かだから、車の音に気付くはずだが?」
「それが誰も聞いてないんです」
友美が達也を見た。達也は、これを予測してエンジンを切るように指示したのか。
「雨で消えたようだが、この太い筋になっている溝が、死体を車から引きずった跡かな?」
達也の指さすぬかるみの筋は、崖の上にたどりつく。古川の体重は八十キロ近いというが、ここからならば、引きずって来て湖に放り込むのに、さほどの労力を要しないかも知れない。
達也に続いて友美も、古川が浮いていたという取水口をのぞき込んだ。湖の水は、取水口の外側の金網で流木やゴミなどを濾過して浄水場に流れ出ている。死体はその内側にあって取水口に流れ入る寸前で発見されているという。友美が中尾に疑問を投げた。
「犯人はここに取水口があるのを知っていて、この駐車場を選いだのかしら?」
「当然です。犯人の高岩は地元の人間ですから」
「とすると、あと二メ-トル運んで取水口の真上から投げ入れてたら、地下水道に吸い込まれて長い浄水場へのトンネル内で引っかかってたかも知れませんね?」
「少し焦って、落とすポイントを間違えたんです」
「そうじゃないぞ」
達也が口をはさむ。
「ほう、佐賀さんは、どう違うと見たんですか?」
「力尽きて、取水口の真上まで運べなかったんだな」
「なるほど、古川は八十キロ近い巨体ですからな」
部下の声で中尾が去ると、友美が達也に聞いた。
「音なしで坂を降るのは分かったけど、上るのは?」
「無理だ。エンジンをふかすから赤子だって起きちゃうさ」
「変ね? 二人が二台で来て、一人は車で戻ったのに…」
「死体を運ぶのに車が二台もいるか? 歩いても帰れるだろ」
「でも、どこまで歩くの?」
「湖畔入り口の道路に止めておけばいいじゃないか」
「なるほど、たしかにその通りね」
「死体を見るが、行くか?」
二人は死体の安置してある仮設テントに向かった。
検視はとうに済んでいて、ちょうどテントからシートに包まれた古川の遺体が解剖に向かうために死体運搬用のワゴン車に積まれているところだった。涙の涸れた両親が付き添っていた。タオルで顔を覆った母親の肩が嗚咽のたびに激しく動いている。
取材陣が群らがっていて、心ないレポーターが、その母親にマイクをつきつけ、テレビ局のカメラがまわる。
「やめなさい!」
思わず友美が怒鳴った。
仕事がはかどらずイライラしていた女性レポーターが友美に牙を剥いて、はしたないののしり声を浴びせる。
「オバさん! 営業妨害しないでよ!」
達也は女の争いから逃げるようにその場を離れ、たちばな荘の玄関から広間に入った。怒りを抑えた友美もそれに続く。
遺体が去ると、県警本部の吉原警部と鑑識を代表する中西警視が報道陣を集めてインタビューに応じた。中西警視が説明する。
「被害者は長野県諏訪郡八ヶ岳中央高原村一-三三の古川昭夫・二十六歳。死因は絞殺。推定死亡時刻は二十七日午前二時二十分。被害者は取水口上の駐車場において、今、放置してある友人の高岩伸一所有の乗用車内で殺害され、駐車場西端の崖から生活用水取水口の金網内に突き落とされたものと思われます。犯行に凶器として使われたスポ-ツタオルは今朝午前三時五分過ぎに大門沢で事故死した高岩伸一の車内から発見されております。この高岩所有の車内からは高岩以外の指紋も複数あり、現在照合中です。
なお、高岩伸一所有の車内から覚醒剤二グラムが発見されましたが、この車は古川と高岩両名が使用していましたので、覚醒剤の所有者、入手経路などもこれから徹底捜査します。本事件の犯人および犯行動機等についても今後の捜査により解明し発表します」
新聞社の腕章を腕に巻いた男が発言した。
「薬物絡みの争いで高岩が古川を殺害して自殺、警察の見解はこうですか?」
吉原が前に出て形だけ頭を下げた。
「長野県警の刑事部捜査一課課長の吉原です。現在のところ、高岩が古川を殺害して自殺は、疑わしいがもっとも近い線と見ておりますが、殺害場所、共犯の有無、動機の解明などまだ不明の点が多くあり、本日はまだ結論を出せる段階にありません。正式コメントは臼田署署長より改めて発表されますので、それまでは〔?〕付きで報道してください」
「高岩と古川が争った形跡はあるんですか?」
「日頃から反目していたということは?」
「金銭の貸借関係は?」
「被害者について、もっと詳しく話してください」
「男女問題などでもめたことは?」
「高岩と古川には前科はないんですか?」
「覚醒剤は?」
あちこちから質問がとぶ。
「今後の経過は、臼田署に設置される捜査本部を通じてコメントさせていただきます。以上です」
押し問答が続き、記者会見は終った。
達也と歩きながら、湖畔の看板に目を留めた友美が勝手に省略しながら声を出す。
「松原湖は別名を猪名(いな)湖または長湖といい、周囲約四キロの湖で南西に二キロと長円型の湖水で冬はスケートとワカサギ釣り、夏はキャンプと淡水魚の釣り場として知られています。水質は、生活環境を保全するためのpH値6・5~8・5、CODは3ミリグラム内で基準を満たしています。ゴミ投げ捨て禁止! 松原湖を美しくする会……ですか」
「ゴミどころか人間を投げ捨てるなんて、とんでもない話だ」
達也が吐き捨てたところに、赤城が近寄る。
「先輩、今日はどうしますか?」
「オレの車で勝手に行動していいぞ」
「それじゃ、諏訪署に寄って帰ります」
赤城が友美に一礼して立ち去る。
「あなたは?」
「オレか? オレは友美の車があるじゃないか……」
「私は取材ネタがこんなに増えたんですから当分帰りません」
達也があわてて駆けだして大きく手を振った。
「おい、赤城! オレも帰るから乗せてってくれ」
続く