第六章 安本という男

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19  混浴の湯

「戸田さん。佐賀さんという男の方から電話ですよ……」
管理人の香取隆吉から、湯船の友美に声がかかった。
友美は、奥蓼科にあるトキワという会社の厚生施設を兼ねた山荘の露天風呂で、沢野千恵子とその友人の香取幸江と三人で、のんびりと初秋の宵を楽しんでいた。幸江は、定年で別荘の管理人になった香取隆吉の後添いで夫より二十歳は若い。
友美は素早く身支度をし、ナイトガウンを羽おってスリッパの音をペタペタさせながら敷石から渡り廊下、階段を急ぎ、カラオケサロンが食堂に化けたリビングルームに駆け込み、片隅の電話コーナーのイスに座った。
「ゴメン、待たせちゃって。六本木から?」
「一日でミソつけちゃてクビだ」
「なんで?」
「ウソだ。夕べ、襲撃されて気になることがあってな。午後から暇をもらって茅野の分署に来てるんだ。なにしてる?」
「今、お風呂に入ってたの……」
「混浴か?」
「どういう意味?」
「そこは露天風呂一つしかないから混浴だって茅野の刑事に聞いたんだ。男も入ってるのか?」
「バカね。妬いてるの?」
「とんでもない。美人が入っているか聞きたかったんだ」
「からかわれたんでしょ。美人は、あたしを入れて三人いるけど、熱い湯で目を潰されるわよ」
「迎えに行こうと思ったが止めた」
「イヤね。混浴がダメだからでしょ?」
「ここの場所分かるか?」
「分かるけど、なんで?」
「諏訪のクラブへ行く。先日、ガ-ドを頼まれた歌手の……」
「小森若葉でしょ? そのコが前に働いてたクラブ?」
「そうだ。その時代の因縁が絡んで襲われた気配がある」
「そこって、安本が働いてたところでしょ?」
「そうだ……」
「安本殺しの手がかりでも見つけたの?」
「歌手の若葉が気になるんだ。なぜ、襲われるのかが……」
「彼女を警護してみて、何かあったのね?」
「すぐ来られるか? 記事ネタになるぞ」
「すぐって、今、板前兼任の管理人さんが腕によりをかけて料理を作ってくれてるのよ。 馬刺しや山菜料理、天ぷらを揚げてるいい匂いがしてるわ。昨夜も美味しかったわ」
「花の金曜日だから、この時間なら、いくら不況でもクラブは混んでるはずだ。若葉のことを知ってるのもいるだろうし、安本についての情報も得られるかも知れん……」
「でも、食事が先よ」
「友美らしくもないな。オレにも裏予算で捜査用接待費ぐらいはあるぞ」
「どんな食事?」
「ラ-メンライスとか、ニラレバ定食とか……」
「そんなの接待じゃないわよ。いま何時かしら?」
「七時半を少しまわったところだ」
「仕方ないわ。グルメはお預けにして、おにぎり二人分作ってもらいますね。飲む前に食べろっていいますから」
「三人前だ。運転手の進藤刑事の分も頼む」
「二人だけじゃないの?」
風呂から上がった幸江と千恵子が食事の席に座った。テーブル狭しと並べ立てられているご馳走を横目に、受話器を置いた友美が事情を説明すると、千恵子が同情する。
「どうしても行かなければならないの?」
「折角のご馳走を前に、残念だけど……」
「佐賀さんと、例の白骨死体の犯人探し?」
「そんなの警察の仕事よ。こっちは小森って新人歌手の働いていた店をみるだけ」
「あら、いま売れっ子の小森若葉? サイン貰ってよ」
友美が、簡単な夜食を頼み、支度に立ちながら幸江に聞く。
「一年前にあった松原湖事件のこと憶えてます?」
「誰でも知ってますよ。あれだけ騒がれた事件だから」
「地元では、その後も噂は出てますか?」
横から千恵子が説明する。
「中央高原村の青年のギャンブル熱が高じて殺し合いになったんでしょ? でも、なんとなくスッキリしないで終ったみたいね。村だって、変な噂は早く消して、利権を守るために必死だから」
「隣りの原村ともトラブル続きって本当ですか?」
「原村の人は皆さん人がいいからね。でも、あの中央高原村の含み資産はもう原村を越えてるって噂よねえ?」
千恵子の問い掛けに香取幸江が応じて、友美に話す。
「村の大半が五億会と十億会に入って三億会は解散らしいわよ」
「その日暮らしのわたしとは別世界ですね」
中央高原村の人達の爪に火を灯す勤勉でケチな暮らし振りは,以前から評判だったが、友美は取材してみてそれ以上の事実なのを知った。雪に埋もれた季節は、仕事小屋に籠もって木工細工や民芸品や、陶器づくりに打ち込み温室栽培に明け暮れるが、現金が欲しいから出稼ぎにも出る。高原に春が来ると、夜明け前から弁当持参で畑に出て夕暮れと共に家に戻り着替えてから諏訪地区の工場に夜勤に出る。
一年を通じて完全に仕事を休むのは正月元旦のみで、睡眠時間は一日五時間、食事時間も極端に短い。村人にとっての食事は家族の団らんなどではなく生きるための手段なのだ。これが、不毛の地といわれた山を切り開いて財を築いた先祖から受け継いだ村人の血というものだろうか。
部屋に戻って荷物をまとめて玄関口に出ると、香取隆吉が夜食の包みを友美に渡す。
「これ三人前だ。腕によりを掛けた料理が残念じゃったが」
「すみません。勝手なお願いをして……」
「また、わしの手料理を堪能して、今度は風呂も一緒に……」
幸枝が怒って、新聞を丸めて夫の薄くなった頭を叩く。
「スケベ! あんたは、よけいなこと言わないで……」
友美は、裸を見られることぐらい、本当は気にもしていない。
「ごめんなさいね、折角の楽しい夜を…」
「いいのよ。千恵子さんに電話してもらって、ご主人におばあちゃんと息子さんも連れて来てもらって、カラオケ大会しますから」
友美はシュ-ズに足を入れた。エンジのセーターにオリーブ色のブルゾン。ボディにフイットしたロングパンツ、活動しやすいようにいつもこんな服装で出歩いている。
「友美はいいけど、これでクラブじゃ佐賀さんがお気の毒ね」
「あら、あの人なんか、よれよれのジャンバ-に不精ひげでどこでも平気なんだから。一緒に歩くのが恥ずかしいくらいよ」
惜しまれて外へ出ると夜風が冷たい。
友美は蓼科の夜の闇に愛車のアウディを走らせた。
国道二九九号線、通称ビーナスラインから本町西の交差点を左折して旧道に入ると左側に公的な機関が軒を並べている。市役所、消防署、法務局茅野出張所、合同庁舎、そして茅野分署の諏訪警察署茅野市交番があり、そこに黒い車が待機していた。
駐車場に愛車を置き、覆面パトカ-の後部座席に乗り込み笑顔で挨拶をして、夜食の包みを見せると、運転席の進藤が達也より先に手を出した。
「すごい。三人分別々の包みになってます。ハイ、一人づつ」
まず、自分の包みを開き大げさに喜ぶ。
「天ぷらがまだ温かいですよ」
頬張ってから車を走らせる。友美が達也に質問をする。
「なんで、お二人だけで行かなかったの?」
「カン違いするな。友美の取材だけに行くんじゃないぞ」
達也が照れながら続ける。
「あのクラブは同伴が多いって聞いたし、警戒されないで済む」
「つまり、女友達とクラブに来たって感じに?」
「ま、そうだな」
三人とも空腹だったのか、握り飯はたちまち消えた。
車は、茅野市街から上諏訪に向かう。

 

20  クラブ「王城」

車は国道二〇号線を左折して、JRの踏み切りを越え高島城方面に向かい大手町の信号を越えると、けやき並木が続く。
本来は駐車違反だが、金曜の夜だけにビッシリと車が前後を接するように隙間なく街路樹の下に車体を連ねて、余地がない。
進藤がゆっくりと車を走らせながら、赤色灯とスピ-カ-のスイッチを入れ、片手でマイクを握り、並木通りの木陰に並んだ車に声をかける。
「ここは駐車禁止です。すぐ車を出しなさい…」
無人だと思っていた暗い車内のあちこちから顔がのぞき、覆面パトカーの屋根で回転する赤色灯を認め、あわてて数台の車がライトを点けエンジン音を響かせて動き出した。その空きスペースに車を入れ、三人は車の外に出た。
「二、三分は間を置いてから入ってね。疑われるから」
「なんだ、オレを一人にする気か?」
友美が驚いた表情で達也を見た。女はときどき冷酷になる。
「まさか、あなた。わたしとペアなんて素人みたいなこと考えてないでしょうね。土地なまりもない二人じゃ用心されるでしょ?」
「友美は?」
「進藤さんとご一緒よ。ねぇ」
友美が急に硬くなった背広姿の進藤に腕をからめ、歩き出す。
「進藤さんの下のお名前は?」
「秀男です。優秀の秀に男の中の男です」
「いいお名前ね。さ、行きましょう、秀男さん」
友美が振り向き、不機嫌顔の達也にダメを押す。
「あとでね…」
外でタバコを一服してから達也が歩き出し、店に入る。
「いらっしゃいませ。お一人さまですか?」
蝶タイをしたキザなボーイが、達也を迎えた。
「一人じゃ、わるいのか?」
不精ひげに皮ジャンでは警戒されて当然だ。
「いえ結構です。お席の都合でお伺いしたまでです」
「じゃあ、オレ一人だ」
達也が不快なのも無理はない。
二、三分の差ということで先に入った進藤と友美は、すでに中央に近いテーブルでニコニコと懇談しながらお絞りで手を拭き、黒服のボーイとオーダーを交わしている。情報探りの別行動とはいえ極端すぎる。達也の存在などは完全に無視されていた。
「まことに申し訳ありませんが、本日は少々混んでおりますので、こちらで我慢していただけますか?」
柱が邪魔してショータイムの舞台が見えない。ひどい席だ。
しかし、客席は見渡せる。調査と思えば我慢もできる。雰囲気もそれほどわるくない。ほんの少しだけ達也の機嫌がなおった。
改めて眺めると男女同伴が多いせいか、クラブといってもホステスの数はそれほど多くはなさそうだ。
その数少ないホステスの一人が、柱の陰でグラスを傾けつつ、屈折した顔付きでイカなどを噛じっている惨めっぽい男を見つけて、ほんの腰かけ程度に慰めるつもりでか巡回して来た。それほど若いとは思えないが、ぜいたくを言える立場ではない。
「ご出張ですか?」
氷を挾んでグラスに入れ、角ボトルのウイスキーを注ぎ、達也がグラスを勧めるのを待つが一向にその気がないようなので腰を浮かす。わざと避けていた達也の目線が戻る。
「わるいけど、一番古いおねえさん呼んでくれる。あんたみたいな若くてきれいな人だと、気が弱いんでドキドキして駄目なんだ」
ムッとした女性の顔が和んだ。嘘でもこれで一応は顔が立つ。
「お客さん、年増殺し? だったらユキエ姐さんを呼ぶわね」
「若くてきれい」とは言い過ぎたが、女は嬉しそうに去った。
一方、中央のテ-ブルに案内去れた友美と進藤は、恋人を装いながら仲睦まじくグラスを傾け、酔った振りをしながら周囲の男などと会話を重ねて、安本の評価を探り出していた。
若いホステス相手に、際どい下ネタ話をしていた常連らしい隣席の三人連れが、ビ-ルの差し入れで呼びかけに乗って来た。

 

21  安本の過去

「あなたたち、ここのバンドにいた安本さんて、ご存じ?」
「安本なら行方不明だったが、実は死んでたんだ」
「死んだんですか?」
「あんな男、最低だぜ」
「あら、評判よくないの?」
「中央高原村の連中から、ギャンブルの上前をしこたまはねてたんだ。その上、その金に利子を付けて返すなんて甘いこと言って、死んじまったら大金はどこにもない。しかも、死ぬ前に証券や約手などまで全部現金化してたっていうからな」
若いホステスは、話題も面白くないから別の席に逃げる。
「安本は、友達にも冷たかったのかね?」
進藤が巧みに誘導し、友美がボ-イを呼びさらにビ-ルを五本ほど差し入れさせる。男たちが礼をいい、調子づいて喋る。
「そんな安本でも、仲のよかった仲間ぐらいはいただろう?」
「そういえば、酒上と赤垣がよく会いに来てたな……」
「それと、高岩達だろ? ほら、古川とか…」
「そうだ。あいつら殺し合いで死んじゃったがな」
「酒上さん、赤垣さんて、どんな人?」
「酒上は警官上がりで甲府のゲ-ム機屋。赤垣は、この辺りをシマにしていたに住んでた暗いヤツでコロシのマエがあるそうだ」
「コロシ……?」
進藤と友美が目を見合わせた。
二人は、赤垣の名を頭に刻みこんだ。
達也のところには、ホステスが入れ替わって、かなり厚化粧の女が来た。夜目にもかなりの年配に見える。ニコニコしているところを見ると、あの女から「ご指名よ」に加えて「タイプなんだって」
ぐらいの一言が効いているに違いない。
自分で空グラスを持ち込み自己紹介する。
「わたし、ユキエといいます」
「源氏名かね?」
「いえ、本名も由紀江です。お客さんは?」
「しがない地方公務員さまだ」
「そうでしょ。本当は中学校の体育の先生?」
「えっ。なんで分かるんだい?」
「だって、態度が大きいんですもの」
実際は服装で見当をつけている。ノリがいいから会話が弾む。
「お客さん。前にも見えました?」
「うん。三年ほど前に何回か。バンドの演奏と歌がすばらしかったのを憶えてるよ」
「あら、どんなバンドでした? 歌手はコロコロ替わったけど」
「バンマスがクラリネットをブローしてたのを憶えてるよ」
「あ、それなら、安本マスター、信ちゃんよ。きっと」
「安本のことを信ちゃんっていうのか。派手な服装だったね?」
「派手? それは営業用でしょ。本当は地味な人なのよ」
「そうかい? だってバンマスなんて堅気じゃないんだろ?」
「お客さん! 差別するの止めてください。じゃあ、水商売で働いているわたしたちは、みんな派手だっていうんですか?」
「ごめん。そんな意味じゃ……」
「学校の先生って、なんでも極めつけようとするんだから」
「おっと、それも職業的差別だぞ」
「あら、ごめんなさい。そうでした。なんでしたっけ? あ、そうそう、信ちゃんのことね。あの人は、もういないの……」
「いないって?」
「お酒の席で縁起でもないけど、一年前に姿を消してたのが、実は殺されてたんです」
「殺された? あのバンマスが?」
「何日か前にも警察が調べに来て、わたしが一番古くて事情を知ってるもんだから、しつこく聞かれて参っちゃった」
「へえ。どんなことを?」
「人に恨まれていたか? とか…」
「恨まれるタイプだった?」
「とんでもない。恨むのはチンピラと悪党だけよ。だから犯人は、一年前に死んだ二人か、警官あがりの酒上か、この辺りで肩で風切ってた赤垣って男しか考えられないのよ。それを警察に言ったら、さすがに警察よね。重要参考人としてウラをとってます、って」
「安本とは何年の付き合い?」
「あの人は六年前に北海道から上京して、五年前にここに来て、またしばらく東京に出て、また三年前に戻ってきてたのよ」
「五年前に、流れて来て住みついたのか?」
「三年前に戻って来て、病院の院長に頼まれて和歌子と留美って娘をペアで歌手に育てて……留美ちゃんがいたら多分、信ちゃんも死ななかったわ。和歌子ちゃんが成功して嬉しいけど」
「その留美って娘は、なんでここを退めた?」
「身体を壊してね。心臓疾患で入院したの。和歌子ちゃんも一緒に入院して、それから信ちゃんの行動が変になっちゃったのね」
「そんなこともあったのか?」
「あとで知ったんだけど、留美ちゃんは、東京の病院に移って精密検査をしたらガンが見つかって、手遅れだったの」
涙を拭く。
「死んだのか?」
「あとで知って泣いたわ。辛くて切なくて……」
「そんなに好かれてたのかね?」
「留美ちゃんが高校生三年生のときに、塩尻市の広丘にある家が焼けて、お母さんと妹が焼死したのね。この地方では珍しいほどの大事件だったわ。そのショックで神経がおかしくなって入院して、退院後は、全国事業団コーラスで活躍するために就職したばかりの松本精機器って会社も退めて……火事があの娘の全てを壊したの。元をただせば火事が留美ちゃんを殺したのね」
「どこへ入院してたんだね?」
「伊那の駒ヶ根病院よ」
「安本はその娘が好きだったのかな?」
「その娘も信ちゃんを好いてたわ。あの二人は誰にでも親切だった……でも、その留美ちゃんと一緒に歌ってた和歌子ちゃんが有名な小森若葉って歌手になってるのよ。身体は弱かったけど気立てのいい子で、きっと天国の留美ちゃんの分まで歌ってるのね」
「こんないい話、みんな知ってるのかね?」
「バイトで歌ってただけだし、店の子も入れ代わってるから」
「その安本も、好かれてたみたいね?」
「あたり前じゃない。あちこちで聞いてみたらどう? 前科はあるかもしれないけど更生したんだし、誰にでも親切で優しくて、面倒みがいいし男気があって、風邪をひいて女の子が寝こんだりしてると、そっと行ってアパートのドアのノブに切り花と風邪薬とちょっとしたお茶菓子をビニール袋に入れて掛けといてくれるんだよ。本人は否定するけど、そんなこと誰にできます?」
「確証はあるのかね?」
「刑事みたいな聞き方しないでよ。本人はマフラーで顔を隠したりマスクをしたりして変装するんだけどバレバレなのね。なかには、丈夫すぎて風邪もひかない娘がいてさ。お花欲しさに仮病つかったんだって。じっと起きて、耳を澄まして待ってたそうなの。来るのは仕事を終えてからだから真夜中だからね」
「どうした?」
「ところがなかなか来なくて、雪が降って来たからあきらめてたら車の音がしたんだってさ。時計を見たら午前三時、かなり離れた位置でエンジンの音が止まって忍び足で階段を上がって来たそうなのね。ドア-の透し穴から見たらやっぱり信ちゃんだったって。あの人が去ったのを見届けてすぐビニール袋と花束をとり、部屋に入って、嬉しいものだから頬ずりをしようと、ふと気づいたらリボンの裏にシールが貼ってあって、甲府の盛り場にある深夜営業の花屋さんのネームがあったそうなのね。きっと、いつも行きつけの地元の花屋さんが起きないので、雪の中を往復何時間もかけて甲府まで行
って来たらしいの。あなた、こんなこと出来る? 本人はオレじゃないって否定するのよ」
「できないね。そんなバカげたこと」
「そうでしょう? バカげた話よね。もっとバカげてるのは、その女の子、仮病だったのに嬉しくて朝まで泣き通して風邪ひいちゃったんだって、大笑いよねえ」
見ると、うっすらと涙が滲んでいる。あわててグラスを口にし、ハンカチで口元を拭く振りをして目元を拭いている。
「その安本は、恋人はいたのかい?」
返事がない。女は、小さな声で吐き捨てるように呟いた。
「誰も幸せになれなかった……」
「誰もって?」
「信ちゃんには、北海道に奥さんがいたの」
「ほう、その人を捨てて上京したのかね」
「ところが、すぐ奥さんは、女の子を生んで死んだんです」
「そうか、女の子か…いま、五歳ぐらいになるのかな?」
その時、拍手が沸いた。

 

22  酒上と赤垣

最終会のショータイムが始まる。
司会に出た男が軽妙な話術で笑いをとる。ピアノが流れ出すと小わきに抱えたサックスを吹く。舞台の袖からドレスアップした女性歌手が派手に迎えられて出て来て歌い出す。軽快なジャズを巧みな英語で歌っているのが気になって、達也が柱をまわって覗くと、顔が日本人離れしている。すぐ席に戻った。
「どこの歌手?」
「フイリピーノよ。今は、誰でもいいの。数年前からの不況でバンドは金土だけになって収入が激減するし……だから、信ちゃんは、メンバ-の給料に困って、中央高原村の若者たちのギャンブル熱に目をつけたのよ」
黒服のボーイが小声で呼びかけてきた。
「佐賀さんですか?」
達也が、渡された紙片を開いた。
「少しドライブしてきます。ごゆるりとご歓談ください。後刻お迎えに……友美」
立ち去る黒服に声をかけた。
「おい、これ、いつ渡された」
ボーイが振り向いて答えた。
「先ほど、十分後にお渡しするようにといわれまして」
「十分も前に?」
改めて見回すと、ショーを境にかなり空席が目立っている。
ユキエという女が溜息をついた。
「今は、これだけ混むのは金曜だけなのよ」
「土曜は?」
「この半分ぐらいかしら。金、土以外はショーもないしカンコ鳥、今はチップもないし、嫌な時代よ」
友美たちが迎えに来るまで達也は、延々と愚痴を聞かされた。
それでも収穫はあった。
友美と進藤が迎えに来て、達也はクラブ「王城」を出た。結局、達也が握っている警視庁筋の裏予算で会計をする羽目になる。進藤が追い打ちをかける。
「腹も空いたし、ここで出す地酒で倉出しの真澄は旨いですよ」
同じ大手二丁目にある「華扇」という日本料理屋に入った。
まずビ-ルで乾杯し、熱燗としゃぶしゃぶ、馬サシでなどをを注文する。進藤は、酔いを醒ますことなどまるで考えていない。
料理を注文し、とりあえずビ-ルで乾杯する。
「帰りは戸田さんに運転をお願いします。飲んじゃ駄目ですよ」
「進藤さんは?」
「ほんの少しだけ、佐賀さんのお付き合いをさせて頂きます」
「わたしだって飲みたいのに」
「ダメです。美人の酔っぱらいなんてサマになりません」
「いいわ、美味しいものを頂きますから」
そこで、友美が達也にクラブ王城でのリサ-チを話す。
「安本は、相当のワルだったようですね?」
「まさか? オレの席についた女の評価は高かったぞ」
「ギャンブルで金を巻き上げていたのは確からしいです」
「変だな……ところで、二人でどこへ行ってきたんだ?」
「ちょっと気になることがあって、諏訪署まで行って来ました」
「夜景を見に行ったんじゃなかったのか?」
「あの店に、酒上と一緒に赤垣が出入りしてたんです」
「赤垣か…オレに付いた女は、安本殺しの犯人にしてたぞ」
食事をしながら、お互いに得た情報を交換する。
「安本は、留美という歌手にも去られてヤケになったようだな。その上、不況で週二日になったバンドの仕事ではメンバ-の給料もままならないし、どうも生活が苦しくなって、中央高原村の若者達をギャンブルに誘いこんで荒稼ぎしてたらしいな。赤垣は、酒上と組んで安本の上前をはねていたのかも知れんぞ」
「諏訪署で調べたら、赤垣は茅野に住んでいて、酒上興業のゲ-ム
機の嘱託販売員として各地の盛り場に出没して押し売りをやって地元の暴力団と問題を起こしていたらしいんです」
「いまでもか?」
「ところが、ここ一年ほど、どこの警察にも名前が出てこなくなってるそうです。変でしょう? 独り暮らしの茅野のアパ-トも、荷物もそのまま、どこに潜ってるのか行方不明、荷物だけ小屋に仕舞って部屋はほかの人に貸したそうです」
「こいつのマエは?」
「傷害、脅し、婦女暴行、賭博、ヤク扱いなどで八つあります」
「とんでもないワルだな。どこでショッピかれてる?」
「甲府、諏訪、塩尻署だそうです」
「甲府、諏訪は分かるけど、塩尻あたりで何やったんだ?」
「さあ……」
「なんだ、調べて来なかったのか?」
「四課の担当ですから……事件でも起こしてれば別ですが」
「当たり前だ。気になるから聞いてみてくれんか?」
友美が携帯電話を渡すと、進藤が塩尻署の夜勤の刑事と手短に要点を話し、すぐ切った。
「たまたま泊まりの刑事が、当時の担当者でした。不起訴ですが放火と婦女暴行容疑で調書が残ってます。すぐ行きましょう」
「すぐって、ビ-ルだけでまだ、真澄って地酒が来てないぞ」
「酒は、あとで飲めます。先方でも待ってるんです」
あわてて酒をキャンセルし、食事だけで店を出た。
予算は少なくて済んだが「真澄」への思いは残る。

 

23  過去の悪夢

諏訪湖の夜景を左に眺めて、車は塩尻峠の坂道を上る。
「塩尻署へ行くって、サツまわりだけじゃ味気ないわね?」
「じゃあ、墓参りもしてくるか?」
「だれの?」
「だれって、中条留美に決まってるだろ。ほかに誰がいる?」
「留美って子は、よほど運がわるいのね。お母さんと妹を火事で失って、病死なんて……」
進藤が、運転席から振り向いた。
「そのときの調書を特別に見せてもらう約束です」
「それが、塩尻署にあるのね?」
友美の頭の中で、一年前からの事件がグルグルとうずをまく。
進藤の運転する覆面パトカ-が塩尻警察署に到着、三人で署に入ると、出迎えた坂井という五十年配の捜査一課の警部補が三人を会議室に招き、挨拶をかわしてから、書類を抱えて来た。
「警察の内部資料は民間の人にお見せできません。私たちには国家公務員として、また地方公務員法第六節第三十四条による守秘義務があり、職務上知り得た秘密を発表する場合は……」
「任命権者の許可ならうちの班長から、後であんたの上席に電話させるよ。緊急の場合は事後承諾でいいんだ」
「分かってます。ま、一応たてまえを言ったまでです。ここから先は、私と進藤さんの打ち合わせで、民間人のお二人は耳をふさいでいてください」
「こうですか?」
友美が二秒ほど両手で耳を抑えると、坂井警部補が笑顔を見せて頷き、書類をひろげた。
「これが、その中条留美からの五年前の告発、こちらが不起訴になった調書のつづりです」
「なんの告発ですか?」
友美がいきなり覗きながら、ごく自然に質問をする。
「家の不審火で死んだ母と妹の死が単なる事故ではないと、数人の男たちを告発して来たんですな」
この時点で、すでに守秘義務はあえなく破れ去った。
「どのような内容なんです?」
友美のペ-スに坂井警部補はすっかり巻き込まれて、再度の質問からは抵抗なく調書に書き留められている内容を、かいつまんで説明する。
「中条留美は、この地方では少女時代から歌の上手な子として知られていまして、高校卒業後は、松本精密機器に入社することが決まっていました。その会社の音楽部は県下一、全国的にも有名で、社会人音楽大会のコ-ラス部門ではいつも上位入選を果している名門で、ここの正部員は将来の音楽活動を保証されたも同じです。
彼女は高校時代から目立つ子でした。のど自慢で三っつの鐘を鳴らして地方大会で優勝、全国大会のチャンピオン大会では準優勝、テレビでも雑誌でも引っ張りダコでした。そんな彼女を狙った狼もいたんですね。この頃は甲府市内の女子高校生の援助交際が話題になったときで、いかがわしい男たちは女子高生とみると積極的に声
をかけて誘うという風潮のあった時代です。
その破廉恥な男が、酒上と赤垣という男でした。
留美の高校のコ-ラス部が、甲府の市民会館で開催された公開放送の「文化の日・音楽祭」に招かれて出演して、現地解散し、応援に来た高一の妹と駅裏のホ-ト-の店に入っていた時に、丁度、その店でビ-ルを飲んでいた酒上と赤垣が、留美に気付き「将来はすごい歌手になれるよ」などと、言葉巧みに近づいて住所や電話番号や家族構成、家の地形などを聞き「ファンレタ-出すからね」と言ってアイスクリ-ムを差し入れしたそうです。それからは、酒上と赤垣の名で姉妹に贈り物をしたり、電話をしたりして何かにつけていい寄って交際を迫ったそうですが、純粋に音楽にとり組んでいる
若い留美には、三十男のギラギラした欲望丸出しの態度は、とても耐えられるものではなかったのでしょう。しつこく迫る酒上からの誘いを素っ気なく断ったそうですから、彼らは自分の身勝手を棚に上げ、プライドを傷つけられたと思ったんでしょうな」
そんな、ある日のことだった、と、話を続けた。
「正式入社寸前の研修が春台風の接近で中断となり、中条留美は、塩尻市広岡の西に位置する村外れの家に向かって駅から続く農道を自転車で帰路についたと記述にあります」
「台風の中をですか?」
「みぞれ状の強い雨が雷鳴を伴って横なぐりに降る寒い午後。傘をかぶるように自転車をぐらつかせながら進んだところへ、突然、前方から白っぽい乗用車が迫り、驚いた彼女は避け損ねて泥田に転落したが、その一瞬の間に助手席の男の顔がはっきり見え、それが間違いなく酒上だったと言い張ります」
「酒上の他に、何人か乗っていたんですか?」
運転していた男を含めて全部で四人は乗っていたそうです」
「赤垣も一緒だったんですか?」
「そこにいたことすら彼らは否定してるんです。中条留美は、正規の研修だと帰宅は夜になるんですが、早退で午後二時頃、たしかに雨風で暗かったでしょう。しかし、稲妻が走った瞬間に酒上が見えたと、真剣に言い張っていました」
「でも、事故じゃないんでしょ? ケガでもしたんですか?」
「ケガはしてませんが、泥だらけで立ち上がった彼女の目に、紅蓮の炎に包まれたわが家があったそうです。一軒家ですから見誤るはずもありません。夢中で駆けつけた彼女が目にしたのは、奥の部屋で燃えさかる火に包まれて倒れている下半身剥き出しの妹と、頭から血を流し、うつ伏せに覆いかぶさるように妹を抱いていた長靴をはいたままの母の姿でした。野良仕事から帰って異常な情景を目にして狂乱状態になったその母を、誰かがなぐり殺したんです」
と、坂井は一気に言って唇を噛んだ。
「留美は、酒上だと言い張るんですね?」
焼け跡から出た母親の焼死体の頭部に、かなり深い陥没痕(かんぼつこん)があったと、坂井が示した書類に記されていた。
「すぐ天井が燃え落ちて二人は火に包まれ、家に駆け込もうとした留美は豪雨の中で気を失い、駆けつけた村人が抱き起こしても、口もきけず放心状態で腰が抜けたのか、すぐには立ち上がれなかったそうです。その後、気が狂ったように泣き叫び、バクチ仲間の家から飲んだくれて帰って来た父親に殴りかかって始末におえなかったと聞きました」
調書の中に、酒上に並んで赤垣の名が見え隠れする。
「この赤垣は、マエ(前科)が大分ありそうですな?」
「赤垣ってヤツもケダモノですな」
坂井という刑事が書類に目を通しながら吐き捨てるようにいい、気をとりなおしたように説明した。
「赤垣と酒上は、婦女暴行の常習者ですが、問題になると裏で手をまわして示談とか和解とかで仲直りして、そのままずるずると関係を続けたあげく、相手を脅して金品をまきあげるという汚ないやり口なんで、残念ながらいつも立件できなくて、いつか仮面をひっ剥がして塀の中に押し込めないと大変なことになるぞ、と、諏訪署の仲間ともつねづね話してたんです」
「なんで、逮捕しなかったんですか?」
詰問口調で、友美が問い詰める。
「酒上は、山梨の巡査長上がりですが交通事故の示談の仲介で収賄という不祥事があって、退職させられてゲ-ムセンタ-を開いて、悪の限りを尽くしていたんですな。ただ、警察の裏を知っているだけにズル賢く立ちまわって、シッポを出さないんです。その上、彼はアリバイ工作が巧妙なんです。この事件の場合も、酒上を見たと中条留美が言いだしたのは火事がおさまって約二時間後の警察の事情聴取時で、精神的に少し落ち着きはじめてからでしたから、その間に彼らに工作されたんです」
「立件出来なかったんですか?」
「重要参考人として酒上を呼び、きびしく追求しましたが中央高原村の仲間の家で麻雀をしていたと言い張り、仲間も村人達も全員でそのアリバイを支持したんです。しかも、酒上は山梨県警出身ですから上からの圧力も強烈で、彼女の証言だけでは起訴に持ち込める雰囲気ではなかったのです」
「妹の死体から証拠を採取出来なかったんですか?」
友美の詰問するような問いに、坂井が首を振った。
「まるで燃料で出来ているような古い家屋でしたから、なに一つ残さず燃やしてしまったんです。微量でも彼らの体液の残滓を検出出来たらと悔やまれてなりません。焼けて小さくなった焼死体も、その時は、まだ留美が動転していて酒上について証言してませんでしたから、犯罪を立証しようとする姿勢になかったため、行政解剖もしないまま荼毘にふしてしまいました。これで、犯罪への手掛かりを失ってしまったのです。
消防署でも出火の原因は、堀りごたつの火が布団に引火した不始末火ということで処理してますし、多分、その高二の妹が読書しているうちにうたた寝をしていて布団を火の中に引き落としたのだろう、との見解でした」
「タイヤ跡などは?」
「狭い道を消防車をはじめ警察や報道、一般の車は通行止めにしたとはいえ、かなりの車両が雨でぬかるんだ道を往来しましたので、交通鑑識でもお手上げで、かなり後になって酒上のことを留美が見たと言ったときは、彼らのアリバイ工作は完ぺきでした」
「ほかの目撃者はいないんですか?」
「いません。なにしろ、村はずれの一軒家でしたからねえ」
「麻雀をしていたというメンバ-の四人の氏名は?」
「当然、呼んで調べました。酒上と赤垣、あとは古川と高岩ですがこの二人はすでに二年前に死亡しています」
友美が追い打ちをかける。
「再調査したらどうでしょう?」
「もう、告発者の中条留美もいませんし……」
坂井が、いかにも哀れという口調で続けた。
「地元の医師にも見離され、東京の病院に行って、だれ一人として見舞いに行かないうちに急死して、駒ヶ根の堀川副院長が東京でダビに付してお骨にして持ち帰り、ひっそりと葬儀をして村の共同墓地に埋めたそうです」
肩を落とした坂井が、署内連絡用の受話器をつかんだ。
「お茶、四つ頼むよ」
坂井は書類を閉じ、「そこまでです」と言い、誰にともなく軽く頭を下げた。
三人は塩尻署を辞した。
塩尻駅前の店で花を買い、坂井警部補に書いてもらった地図を頼りに広丘の共同墓地を訪ねた。
卒塔婆一つのわびしい留美の墓前に花を添えて手を合わせ、薄幸だった留美の霊に安らかなれと祈るとき、友美の頬には、留美が感じたであろう無念の涙が、やはり流れ出る。
車は諏訪に向かい、山道を下った。
塩尻峠の展望台に車を停めて眺めた諏訪湖の夜景は、東洋のスイスとの看板に偽りのない美景で、月明かりが、かすかにさざ波を立てて揺らぐ湖面を金色に染めている。
「すてきだわ!」
友美の横顔にも、ほんのりと月の光がさしていた。