埋蔵金秘話

花見正樹作

第七章 通夜の客

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21 怪魚の噂

 

 余笹川で出会った、あの怪魚が佐吉を殺したのではないか?
 一度、そう思うと疑いは確信となって信方の頭にこびりつく。
 佐吉の住まいは、黒川上流の人里離れた黒森の林の中、栃木と福島の県境にあるが、検視時の警察の調べでは、どちらの県にも住民登録がなく、秋田の黒石市に籍があることが分かっていた。
 那須岳の麓というより山深い森の中という表現が合うような村はずれの陰鬱な林の中に、佐吉が住んでいたあばら屋があった。
 通夜は、その佐吉の家で行われる。
 その二間続きのあばら家は、家というより掘っ建て小屋とでもいうべき代物で、車がようやく通れる程度の細い林道の先にあり、車はその手間にある垣根もない香川と看板の出ている農家の庭先に自由に停められるように立て札が立っていた。
 佐吉と親交があった隣人の香川康介という足の悪い四十男が、通夜を仕切っていて、顔見知りの永山の来訪を喜び信方にも挨拶して主席の座布団をすすめ、永山には弔辞の挨拶をと懇願した。
 佐吉のあばら家には電気も水道もない。住民票がないから届けてもいなかったのかとも思われる。だが、部屋にはランプがあり、囲炉裏には炭火が燃え、土間には汲み置きの水桶があって何の不自由もない。しかも、土間には大型の冷凍ボックスがあって、中には大きな氷塊の上にポリ袋入りの尺イワナが詰まっていた。
 そのあばら屋の奥に、白木の柩(ひつぎ)が置かれ、その手前に献花が一対、ただそれだけで佐吉の写真すらない質素さが、佐吉にふさわしい通夜のようでもあった。
 しかし、通夜の始まる午後六時が近づくに従って、徐々に人が集まって来て座が賑やかになる。男ばかりの殺風景な通夜だと思っていた信方の予測は外れて、那須湯本や甲子高原などの温泉宿から続々と弔辞に訪れる男女の数の多さが予想外だった。狭いあばら家はたちまち満員になった。
 どういう訳か、福山喜一と藤堂孝二が入り口近くに座っていて、信方と永山に目線で挨拶する。
「あいつら、なんでここに来たんだ?」
「山釣りで佐吉さんに、世話になったんじゃないのかな?」
 白河の妙館寺から車で来たという若い修行僧が早口で、しかも時間短縮でか主要な部分をはしょりながら読経を上げた。
 永山が友人を代表して弔辞を簡単に読む。
「佐吉さん……末岡佐吉さんは、五十四歳のうち殆どの生涯を山で過ごしたそうです。この部屋を見ても猪や鹿を撃ち、畑を耕し、川魚を獲り、ナタで竹や蔓を切って籠やザルを作り、布を編んで暮らした日々が忍ばれます。ここに集まった人は、同じ土地に住んだ、同じ沢で川魚を追った、佐吉さんから何かを得た、など、それぞれのご縁で集まった方ばかりです。山で暮らし沢で死んだ故人を忍んで大いに飲んで語りましょう。それが故人へのはなむけです」
 若い修行僧は、お布施の包みを懐に入れると、すすめられた茶碗酒を一気に飲み干し、ご機嫌で帰路についた。
 そこからは、待ってましたとばかりに無礼講の酒宴が始まる。
 佐吉がイワナを納めていた那須温泉界隈の料亭数軒からも酒の差し入れがふんだんに有ったから、それを聞きつけて日頃は佐吉と交流のない村人までが集まり、佐吉の通夜は大賑わいになった。
 死体の第一発見者の菊池勇夫も、読経が終わる頃を狙って現れ、信方と永山が来ていることで驚いている。
「ノブさんと永山さんも一緒なら、車なしでオレは飲めたんだ」
「冗談いうな。ワシも料理長も浴びるほど飲むぞ」
 お手伝いの女性が去ると、信方を中心に車座になった酒宴は、佐吉の話題を挟んで盛り上がり、やがて、飲めや歌えやのドンチャン騒ぎが始まった。が、それも一刻、酒が底をつくと人も散った。
 あとは関係者だけになり、那須の夜は更けてゆく。
 香川康介が家まで走って酒を補給し、皆に注いでまわった。
 夜半から雨になって、夏とはいえ寒さが身にしみる夜だった。
「なんで、福さんと孝二がここにいるんだ?」
「沢の地形や、入り口や逃げ口を佐吉さんに教わってたんです」
 永山が驚く。
「あんたらもイワナ釣りか?」
「ええ、まあ……」
 信方が助け船を出す。
「どうだ、福さん。その後の成果は?」
「ノブさんも参加してりゃあ、今頃は……」
「おっと、そっから先は壁に耳あり……だぞ」
「ところで料理長とノブさんは何で?」
「こっちはイワナのことで縁があってな……」
永山総料理長がまたぼやく。
「佐吉さんが、漁場を教えてくれていたらワシでも釣れたのに」
「仕方ないさ。職漁師は、自分の漁場は命だからな」
 信方の隣にいた古老が、得意気に喋り出した。
「佐吉はな。山の奥でイワナを飼っとたんじゃ」
「飼ってた?」
「それもな、大きな雨のとき以外は釣らん」
「なんで雨のときだけ?」
「知らん。佐吉は命がけじゃった」
「なんで?」
「わしの若い頃は、まだダムがなくてな。どこでも形のいい大イワナやヤモ(やまめ)がいくらでも釣れたもんだ。いまはダムで水を閉ざされて、どの沢も渇水期にはカラカラの状態でイワナなんか腹が小砂利につかえて背びれが出ちゃうから泳ぐどころか這ってる始末でガキにでも手掴みにされちゃう。だからな、イワナはどっか山奥の淵に隠れてて、大水の時にだけ餌を求めに落ちてくるんじゃ。
それを佐吉は餌づけして釣っとったんじゃな……」
「場所は分かりますか?」
「佐吉のバイクは山の中だで、それを探すんじゃよ」
「どの辺りか見当はつきませんか?」
「あんたら、自分で探すんじゃな。人の入れない難所をな」
「難所?」
「並の釣り師が入れる淵に、川漁師が漁場をつくるかね?」
 そこで古老が、何百回となく語った得意の昔話を始めた。
「ま、少しだけ話すと……深山湖の東にある山でな、標高千二百数メ-トルの鬼が面山は知っとるか? その山を源流として板室で那珂川に落ちる、鬼面(おにめん)沢という沢があるんじゃ。これは涸れ沢じゃで地図には載っとらん。その中途に滝があるんじゃが、その滝ツボから上を見上げると断崖絶壁で樹木で覆われてて昼なお暗くて足場も悪く、うすっ気味の悪い陰気な谷間じゃった……」
 そこで古老は旨そうに茶碗酒を喉に流し、静まり返った一同を見回した。香川が話を遮ろうとする。
「六助さん……六ジイ、誰も興味ねえだよ」
「ぜひ、続けてください!」と、福山が叫ぶ。
 六ジイと呼ばれた古老が得意になって続ける。
「そこにたどり着くには那珂川本流から沢に入って、幾つかの小滝を高巻きして登らねばなんねえから、職漁師といえども滅多なことじゃ近寄ることができねえ難所なんだ。それでも、腕に自慢のある渓流マニアの釣り人が行き止まりまで車で入って、藪を漕いで谷に下りてくだが、その最後は、車を残したまんまの行方不明か、大ケガか流れ落ちての遭難事故じゃ、無事に生きて帰ったヤツも神経がおかしくなったりで、ろくな結果にならんのじゃ。ま、そこが佐吉の漁場とは言わんが、気が触れてもいいヤツは行けばいい……」
「なんで、そんな風になるのかね?」 料理長が聞く。
「そうよな。その滝ツボは鬼が淵と呼ばれる深い淵でな、そこに漁した者は必ず祟られるという昔からの言い伝えがあるんじゃよ。
 事実、この数年でもケガをして変死したり狂人になったりした例はゴロゴロしてるんじゃ。なあ、康介……そうじゃろ?」
 六ジイの話を止めようとした香川が蒼い顔で頷く。
「この辺りの村の衆は、ガキん頃から鬼が淵への出入りを禁じられて育ってるでな。なにしろ山奥に強い雨があると、ふだんは水もない鬼面沢の下流までが周りの山の雨水を一気に受けて、たちまちの間にもの凄い量に増水しちゃうから逃げ場がない。その水は太い木までを根こそぎ抱え込んで、すごい音を立てて落ちるんじゃ。
 この鉄砲水とも、コモマクリとも呼ばれる水でたいがいの釣り師は命を落とすな。ともかく、崖から水が流れ落ちる音が聞こえてからわずかな時間で、大きな壁が押し寄せるように濁り水が迫って来るんじゃ。そうなったら命はない。せいぜい念仏でも唱えて極楽浄土に行けるよう祈るんじゃ。じゃが、助かる道はある……」
「どうするんですか?」と、福山が聞く。
「雨がポツリとでも降ったら、一目散に沢を走って下るんじゃ」
 六ジイが右膝を立ててズボンの裾を上げながら、呟く。
「でもな、本当に恐ろしいのは雨じゃあねえ。見てみろ……」
 六ジイの脛の部分が、肉が削げて醜く引きつっている。
「鬼が淵には恐ろしい魔物が棲んでいて、人間を襲うんじゃ」
「まさか……そんなの」
「いないと言うのかね?」
 六ジイが凄い目つきで声の主の孝二を睨んだ。
「信じなきゃ、佐吉の傷を見るがいい。来て見ろ!」
 六ジイが立ち上がり、片足を引きずって柩に近づいて行く。
 やはり足の悪い康介がそれを止めた。
「もういいよ。皆、六助ジイさんの話を信じてる。そうだな?」
 康介が福山を見た。
「信じた……いや、信じます」
 六ジイは黙って土間に下りて、下駄を履きながら吐き捨てる。
「殺生やる人間が死ぬときや、みな、あんなもんだ……」
 孝二が六ジイに杖と懐中電灯を渡し、引き戸を開けて外へ送り出す。足が不自由だからか酒の酔いか、六ジイの足元が揺れた。

 

22 山の夜

 

 通夜の夜がさらに更ける。
「佐吉さんはな、やっぱり鬼が淵のヌシに殺られたに違えねえ」
 いつの間にか、これが全員の結論になっていた。
 帰り際に、あの古老は一瞬だけ、恐ろしい夢を思い出したかのように酔った目で遠くに視線を投げた。そして、屋外まで送った孝二に向かい、その反抗心を煽るかのように肩を叩いて言い含めた。
「あんたは若いからな、鬼が淵なんかに興味持つでねえぞ」
 よろめきながら外に出て、誰にともなく呟く。
「これでまた、何人かは死ぬじゃろうな……イッヒッヒッ」
 六助は杖を振って草を倒し、顔を歪めて不気味に笑った。
囲炉裏の周囲には、空になったビ-ル瓶や一升瓶、食べ残しの焼き魚の皿などが乱雑に散らばっていて、天井からしたたり落ちる雨滴が不規則な音を奏でている。雨滴は、板壁の内側にも伝わって流れ、壁に寄り掛かってうたた寝をしていた信方の背を濡らす。その冷たさが仮寝の夢から醒まさせるが、もう誰もが酔いつぶれていて酒の相手をしない。
土間から続く部屋にある囲炉裏を囲んで飲んでいた村人の姿が、酒が切れはじめると一人二人と消えて行く。
 やがて、あばら家に残ったのは、酔い潰れた勇夫や酒に未練の永山、悪酔いしている孝二、理屈っぽい福山と聞き役の信方、家が近い康介、この六人だけになっていた。それぞれが、久しぶりに目いっぱい飲んだ酒が効いたのか、意識はもうろうとして頭が重いし目はかすむ。そろそろ睡魔がやって来たようだ。
 あの老人の話は、どこまでが本当なのか? ただ、信方だけは、あの余笹川で怪魚が牛を襲った恐ろしい光景を見ているだけにこの話を否定しない。だが、一つだけ老人の話に矛盾があった。老人の話に出る鬼面沢の位置だった。那須に生まれ育った信方の知らない沢があるなんて……そこだけが信じられないのだ。
 鬼が面山を源流として、板室のグリ-ン温泉の対岸に流れ落ちるのは湯川だが、鬼が面山から一キロ南の塩沢山から流れ出る沢ならば、その上流が深沢湖だから那珂川本流の最上流となって、大物の跳梁を可能とするから納得できる話になる。あの老人の記憶違いなのか? 全部がウソとも思えないし、確かめてみる価値はある。
 福山が、まだ酒の残っている瓶を探し出して来て囁く。
「ノブさん。起きてたら一杯やらんかね?」
 信方が無意識に反応して、転がっていた茶碗を拾っている。
「例の太閤大判の話だけど……」
「ワシはもう黄金はいい。後は福さんに任せたんだ」
「それが、黒羽城址のは全部、ムショの連中にやられましてね」
「あの床下の黄金までか?」
「でも、孝二が三枚目の絵地図を持ってたんですよ」
「今度はどこだ?」
「いよいよ、いつか言っていた最終コ-スの大本命です」
「どこだ?」
「絵地図から謎解きをしたところ、その黄金は山か沢にあることが分かったんです」
「どこにある?」
「ノブさんは二枚目の絵地図を覚えてますかね? あの絵地図にも渓谷の滝があるんです」
「だから、どこなんだ?」
「あの絵地図では、本流と余笹川が太めになっています」
「多羅沢川と四ツ川も太めだったかな……」
「なんだ、覚えてるじゃないですか?」
「それより、どこで、佐吉さんと知り合ったんだね?」
「じつは、孝二と地図を頼りに山歩きしていて、どこかで地図を読み違えたのか、コンパスが狂ったのか帰り道を見失っていた時に佐吉さんに出会って助けられたんです」
「ほう……それで?」
「気を許して埋蔵金の話をしたら、びっくりして一切口をきかなくなったんです。あれは明らかに黄金の山を見た顔でした」
「佐吉さんがか?」
「金には興味ないって言ってましたが、噂だと、那須湯本の仲居さんと縁談があるそうで、家も金も結婚資金も要りますからね」
「佐吉さんは、黄金をいつでも持ち帰ることが出来たのか?」
「だから、佐吉さんの漁場を探せば大判はザクザクです」
「よかったな……福さん。これで億万長者だな」
「孝二を信じた甲斐がありました。あとは沢筋探しです」
 寝た振りをしている孝二が寒さでか震えている。でたらめの絵地図のおかげで山歩きをさせられ疲れ切っているのだが、それよりも福山をここまで騙し続けた自分が恐ろしくなったのだ。
「よく眠ってるけど、寒いんじゃないのか?」
 信方が立ち上がって押し入れの中から夜具を出し、横になって丸まっている孝二にそっと掛けた。孝二はなぜか悲しかった。
 人の欲を利用するのは快楽だが、人の善意は裏切れない。その善意が裏切られたら……二十歳の夏、大井競馬場でバイトをしたことがあった。その頃もいまと同様に、その日一日がどうにか過ぎて行けばいい、目的もなく生きていた。
 人生なんて所詮は、生まれ落ちて死ぬだけ……宇宙の創世や地球の誕生、人類の起源からみたら一瞬の生であり、自分自身が海岸の砂一粒にも及ばない存在でしかない。ならば、自堕落に生きようが好きなことに命を賭けようが同じことだと信じていた。命を賭けるほどの愛を知らない自分が辛かった。
 W大を中退したのも学問に人生の意義を感じとれなかったからだ。麻雀、競馬、酒とカラオケ……あの怠惰な日々とそれを是としていた自分が忌まわしかった。だが、それも人生と納得させている自分は、さらに醜く、それだからといって欲に目の眩んだ輩に自分の屈折した感情をぶつけて騙し続けているのも辛い。だが、いまさら真実を告白する度胸もない。
「ああ、イヤだ……」
 孝二は、冷たいセンベイ布団の中で呻いた。
 あの日、競馬場で予想新聞を売っていたところに、赤子を背負った三十前後の女性が寄って来て、新聞を一枚欲しいと言った。
 その女性は百円硬貨を何枚か手に、小声で孝二に聞いた。
「どのレ-スの、どの馬を買えば大穴で当たりますか?」
「冗談じゃねえよ。大穴で取れるぐらいならオレが買ってるぜ」
「でも、どうしてもお金が欲しいんです」
「姐さん、いくら稼ぎたいんだい?」
「五十万です……どうしても、このお金が要るんです」
「ずいぶんと、中途半端な数字だな」
 その女性は理由は言わずに、ひたすら孝二をプロの予想屋と思ったらしく食い下がって離れない。
 仕方なく、孝二は女性を連れてパドッグで馬を眺め、いつも面倒を見てくれる三浦というベテランの先輩予想屋に千円を払って知恵を借り、女性の持ち金の三万円に自分の全財産四万円を加えて、必死の思いで比較的オッズの高い中穴の枠連に一万円単位で五レ-スほどに賭けたが無情にも全部外れた。あの時の女性の崩れるような泣き顔が忘れられない。このままでは男がすたるとばかりに粋がって、女性を連れて行って三浦に相談すると、簡単に「いいよ」と、
言って、どこからか五十万を工面してきて女に貸して、借用書は孝二に書かせた。
「いいか、孝二……金利は月イチでいいから必ず返せよ」
 そして、女に向かって言った。
「オレはこいつに貸したけど、あんたはコイツから借りたんだ。後先のことはきちんとしないと、こいつの小指が無くなるんだぜ」
 女は泣いて頷き、住所・氏名・電話番号も書き入れて、孝二あての借用書を書き、か細い右手人指し指先に口紅を付けて押印し、孝二の連絡電話を聞き、返済期日を一カ月後とキッパリと言い、何度も頭を下げてから駅に向かった。
 この話には感動的な後日譚はなにもない。女性の書いた住所・氏名・電話番号、すべてに該当者がいなかった。孝二は必死に働いて三浦に金を返して指を詰めるのだけは免れた。
 こんなこともあった。
 大学二年の夏、栃木市内の縄文住居跡発掘現場でのバイトがあった。日頃から尊敬する辻村という歴史学の助教授による、学内の掲示板に古代住居発掘のアルバイト募集の記事をみて、喜んで応募したものだ。
 暑い日差しの中、汗まみれで縄文時代と言われる住居跡を掘っていたとき、木のスコップを手にして近くにいた麦わら帽を被った女性が近づいて来て囁いた。
「あそこを見て……辻村さんが何かを埋めてるわよ」
 その女性の指摘で孝二が見たものは、明らかに異常だった。
 古代の人類の生活の手掛かりを掘り出すべき助教授が、目的に反して、周囲の視線を気にしながら布袋とポケットに隠し持った物を取り出しては、順繰りに穴に入れ素早く土を被せて埋めている。見てはいけない物を見てしまったほろ苦さが孝二の胸を突いた。
 休憩が入って冷たい飲み物が配られていると助教授が言った。
「さっき、ヘラの先になにか触れたが、まだ掘っていないんだ。誰か手伝ってくれんかね?」
 助教授の視線が、孝二と麦わら帽の女を見て止まった。
「そこの二人……君らだよ。あとで手伝ってくれんかね」
 助教授の指示通りに土を掘っていると、ヘラが固い物に当たり、堀り出すと、縄文模様に似た土器が出た。
「おっ、何だこれは!」
 それからが大変だった。麦わら帽の女の手元からも珍しい埴輪や土器が出て、周囲は黒山の人だかりになり、辻村助教授の甲高い声が騒ぎをますます大きくしていた。
 孝二と女は、この歴史的な発見に手を貸すことになったのだ。
「おい、君たちも証人として……」
 助教授の声を背に、麦わら帽の女が孝二の手を握ると、足早に現場から去り草深い木陰に逃げこんだ。
 二人はそのまま草の中に、抱き合って倒れ込んだ。
 麦わら帽を脱いだ女の顔が孝二の目の前にある。そのいたずらっぽい大きな瞳が孝平にまぶしかった。女は、「シイ-ッ」と、唇に人さし指を当て、周囲を見まわして人影のないのを確認してから、孝二の横にかがみこみ腰のベルトに手をのばした。女の健康的な匂いが鼻孔に快い。深い雑草の茂みが二人の姿を隠した。
 女は器用に剥き出しにした孝二の分身を手と口でしばらく楽しんだが、自分の我慢が限界だったのか上にまたがって来た。
「もっとイイ思いをさせてやるから、じっとしてなさい」
 女は素早く腰を落とし、声を殺して激しく律動し、孝二はただうす目を開けて喘いでいる女を見つめていた。やがて、女が嬌声を上げて果て、孝二の体に突っ伏して荒い息を吐いてから唇を寄せて舌を絡めてきた。女の胸の鼓動が孝二の体内に響いている。孝二は体を入れ替えて思うまま青春のエネルギ-を発散させた。
 ひとときの快楽の時が過ぎ、傾き始めた陽光の下にぐったりと横たわった二人は、木の間越しに青い空を仰いだ。風は爽やかだったが、なぜか心は晴れない。梢を騒がせて風がそよぐと、女が思い切りよく立ち上がって身支度をして、もう一度屈み込んで孝二の首に手をまわし、うっとりと上気した表情で口づけをして囁いた。
「よかったわよ……」
 女は麦わら帽を被りなおし、手を振って立ち去った。
 麦わら帽の女とはそこで別れたが、名前も聞いていない。
 孝二が記憶しているのは、野ヒバリのさえずりと青い空に浮かんだコッペパン状の白い雲、そして、女のノド元にあった黒い生きボクロぐらいのものだった。
 孝二はバイトのギャラも貰わず仕舞いだったし、ゴッドハンドと呼ばれたその助教授の顔を見るのが嫌で大学も中退した。
 それが今、皮肉にも自分がゴッドハンドなどと言われている。

 

23 大魚への条件

 

 康介が押し入れから夜具を探したが、何枚もないから希望者だけに配られた。雨が強まると裏庭の柿の枝葉が板壁を叩き、石を乗せた杉皮ぶきの屋根が断続的にはじけ、あばら家は悲鳴を上げてきしんでいた。
康介が話に参加する。
「おらも、聞いた話だけどよ……」
 康介のくどい話を要約すると、こうなる。
 今から三百年ほど昔、寛永年間の全国的な飢饉は、例外なくこの那須地方をも襲っていた。
 雨の多い夏が三年ほど続くと農作物は全滅し悪疫も流行した。
 飢えた農民は種モミまでも食べつくし、栄養失調になっての死者が続出したという。
 その凶作にも関わらず代官所の役人が、飢えた農民を過酷に責め立てて容赦なく年貢を取り立てたため、売る娘もいなくなった農家では一家心中や、あてもない夜逃げが続出したという。
 当時は、慶安のお触書という「田畑永代売買禁止令」が各地で実行され、困窮した農民の土地換金の道は閉ざされた。
 やがて、各地で続発した暴動同様、那須でも百姓一揆が散発的に起こるが、税の減免を願って代官所に愁訴した村人はその場で処刑されるなどで一揆は線香花火で終わり、武装した役人に追い立てられて、反抗した者は女子供までも惨殺されたという。
 そのときに、追い詰められて鬼が面山の山奥に逃げた村人が、食料もなく生きる希望を失って次々に、途中で見つけた高い崖から滝に身を投げて鬼が淵に沈んだという言い伝えが残されている。
 その後、わずかに生き残った村人からの伝承で、淵の底にある黄金を見た者は淵のヌシに食い殺されるという噂も流れ、鬼が淵は恐ろしい禁断の地となっていた。
 近年になっても、釣りに出て行方不明だったり、神隠しに遭ったりした子供の衣類がその下流で見つかったりしていて、その都度、恐ろしい伝説が現実となって甦っていた。康介が続けた。
「どうも、その鬼が淵には化け物のような大イワナがいるらしいという噂でな。さっきの六助ジイの話もウソじゃねえんだよ。そのヌシってえのは、いつもは滝ツボの奥深くに身をひそめてな。大雨で沢の水が増えると、那珂川本流の黒羽あたりまで出没して餌をあさるらしいだ。それを見たのはいままでは何人もいるだが、みな、目が潰れるか気が狂うかしてロクなことにならねえ。これも、怨念を抱えて死んだ、ご先祖さまの祟りだべえな」
 孝二は、折角の酔いが覚めてしまいそうなシラけた気分になっていた。そんな現実離れした話など相づちを打つ気にもなれない。
 酔った頭の中で、孝二は本物の埋蔵金の事だけを考えていた。鬼が淵のヌシなど何の興味もない。本物の埋蔵金を見たかった。
 永山が知ったようなことを喋っている。
「大きい滝ツボにはな、ヌシと呼ばれる大物が潜んでいるんだ。
 ただし、そのヌシの種類はまちまちで、大ウナギだったり、鯉、イワナ、ヤマメ、川マス、ブラウントラウトだったりする。なぜ、ヌシが巨大化するかというと餌を優先的に確保するか独占するし、餌が無くなると共食いをしても生き残る。これがヌシだ。だが、その巨大化にも限度がある……たかが川魚だからだ」
「そんなことない、条件が合えば巨大化は可能なんだぞ」
 腕組みをした信方が、雨漏りのする天井を見つめた。
「タキタロウじゃあるまいし……」と、福山が呟く。
 淡水の巨大魚といえば、誰もが東北奥地の秘境に伝わる幻の怪魚に思いを馳せるのは当然だった。前氷河期の生き残りの子孫といわれ、下あごが長く発達し上あごの下に食い込んでいて、獲物を一気にかみ殺し呑み込むという巨大な水棲獣が実在する。
 信方が言葉を選びながら続ける。
「川魚が巨大化するための環境を考えると、いくつかの科学的諸条件にアプロ-チしないと生物学的にも理解できないだろうな。
 まず、いの一番目に上げるのは、四季を通じて水量が安定していること……そのためには、冬の渇水期を乗り切る豊富な湧き水があることが最低条件になるんだ。
 二番目は、水温の安定という問題かな。
 湧き水の多い沢は、当然ながら冬と夏の温度差が少ないから、水温が安定していると、冬眠期がなくなって採食活動が活発化になるし、発育成長が著しく増進されることになるんだ。
 三番目は、餌が豊富であること……これは、水温が安定することと水質が関係してくるだろうな。川魚の餌になる水生昆虫の生育に必要な条件は、その餌になる藻やプランクトンの育ちやすい環境でなければならない。
 四番目の必要項目は、川魚の成長に大切な酸素の溶解量だな。これもかなり重要になるんだ。流れが速く、川底の起伏や曲折のはげしい河川ほど溶解酸素量は大くなるはずだからね。
 これを、理学系の専門用語では、乱流度係数とかいうんだが、那珂川支流の余笹川上流での係数は多分、9・00cc/L ぐらいかな。これは高い酸素量を示しているんだ。これだと餌も豊富に育つし、この沢に生きるすべての生き物が大きく成長する可能性を物語っているんだ。
 五番目は、水棲動物の生態を知る手がかりとなる水素イオン濃度すなわちph値だが、那珂川上流では6・5と安定した数値をしめしている。だから、いい川魚が育つんだ。
 六番目は、生物が育つために必要な水質のよしあしだが、以前、那珂川上流で測定した記録では、カルシュ-ム濃度が9・0ppm、珪酸8・5ppm、鉄0・03ppmとなり、気温23度で、水温は16度だったんだ。
 これは、川魚の棲息と成長に適した条件となる。ただし、これは季節によって変動するものだが、この六つの条件を総合して考えると、大物の育つ環境が見えてくると思わんかね? ただ、ワシは、鬼が淵とかいうところには行ったことないから、大物が潜んでるかどうか知らん……」
 永山が加えた。
「以前、只見川の三条の滝の滝つぼには、三尺(九〇・九センチ)のイワナが棲みついていたが、谷が深くてそこまでは辿り着けないという話を聞いたことがある……多分、那須の河川水系にもそれに近い川魚が実在している可能性はあるし、その鬼が淵にも大きな川魚が生存しているに違いない。ま、そう思いたいな」
 信方の思いがまた川に戻る。
「那珂川上流流域には、トビケラなどの水生昆虫類は約百八十種、川魚類は十二科二十種で、イワナ、ヤマメ、カジカ、ウグイ、シマドジョウ、アブラハヤ、オオサンショウオ、マスなどで、いまだとアユもいるからな。
 もしも、鬼が淵のヌシが、大イワナなら、サケ科の淡水魚の中でも生命力最強、食欲もどん欲で旺盛、あらゆる小生物を餌として源流に君臨するからな。とくに、大きな滝つぼに棲む大イワナは、上流から流れ落ちるトカゲ、ヘビなどを好物としてるし、飢えれば共食いも……」
 信方が大きく欠伸をした。すでに孝二以外の全員が眠りについて
いる。孝二も急に睡魔に襲われていた、とにかく眠い。
 夜が更けて、雨降る那須の山里は、さらに寒さを増している。
 雨滴を含む冷たい風に頬をなでられて、眠りに落ちかけた孝二が夢うつつに目を閉じていた。囲炉裏にくべた薪も炭もすでに消えかかり、天井から吊り下げられたランプの灯も弱々しくすき間風に揺らいでいる。
 暗いあばら家の中には、徹夜覚悟の康介をはじめ、帰りそびれた永山、信方、福山、孝二、勇夫らが佐吉の柩と夜を共にしている。
佐吉には親類縁者がなかったのか。身内は誰も来なかった。
 このあばら屋には、妻をめとることもなく川漁師で一生を終えた五十男の怨念と、佐吉に仕留められた獲物たちの怨念が充満し、陰湿なかげりを漂わせていて肌寒い。

 

24 美貌の客

 

 孝二は突然、夢うつつの中で背筋が凍る寒気を感じて震えた。
 引き戸が音もなく開いてゆく。夜風はそこから吹き込んでいるらしい。夢の中なのか錯覚なのか、孝二の、うつろな視線の前を、音もなく雨に濡れた髪の長い女の人影がよぎって行く。
 意識を目覚めさせようと焦るのだが、もやが深くなるように視界がかすみ、思考力が失われている。手をのばして隣で寝息を立てている福山をゆり起こそうとするのだが、気持ちとは裏腹に孝二の身体は金縛りに遭ったように動かないし声も出ない。やはり、夢の中の出来事なのか。だが、たしかに目の前を美貌の女がゆっくりと通過し、信方を見て妖艶な表情で声もなく微笑んだ。思わず横目で信方を見ると、うっとりとした表情で信方が女を見返している。その
視線の交わりには不可思議な光の交差が感じられた。
 その孝二の不審を読み取ったかのように女が一瞬、鋭い殺気の目で孝二を見た。その口許から白い牙が光った。孝二は思わず肩をすくめ、布団を被り直して震えた。
 女は、佐吉の柩に近づき、ゆっくりと蓋に手を掛けて持ち上げると、柩の中からドライアイスの白煙がゆらいだ。女は手に持った短い棒のような物を、左吉の遺体目がけて振り下ろした。
「グシャッ!」と、不気味な音がした。
 一瞬の出来事だった。
 孝二は、思わず叫び声をあげたが、のどが締めつけられるように苦しいだけで声が出ない。
 やはり夢なのだ。夢だから声も出ないのに違いない。夢なら怖くないはずだ。孝二は目を見開いて女を見据えた。
 怪しい艶麗さを秘めた女の表情には、悲愁をはらんだ恐ろしい殺気があり、この世のものとも思えない冷やかな妖気がただよっていて、その目は深く淀んで暗い光を放っている。
 恐怖に震える孝二の脇を、女の姿が音もなく滑るように通って土間に降り、そのまま開いていた戸口から消えた。派手な着物姿でもあったのかとも思えるが、服装はまったく記憶に残っていない。
 外の闇に、雨の音と低く重く不気味な猫のうなり声が響く。
 壁に寄り掛かっていた孝二の身体が、自縛から解けたのか夢遊病者のように動き、よろけながら立ち上がった。福山は、孝二につまずかれても反転して寝言を言うだけで、また熟睡に落ちている。
 ランプの油が切れるのか細くゆらぐ。
 土間から柩に向かってボロ畳には、雨に濡れた女が着物を引きずった跡が続いていた。
 孝二は、佐吉の柩の少し開いているフタを持ち上げ、中をのぞいて息をのんだ。佐吉の白装束の胸には、竹の先が短く折れた三本刃のヤスが深々と突き立っている。
 孝二が、そのヤスを抜こうとしたが返し刃が邪魔して思うに任せない。力いっぱい引き抜くと、佐吉の遺体が生き返ったように弾んで、その反動で孝二は仰向けに倒れて小皿を割った。
 その音で福山が目覚めた。
「おい、止めろ。孝二。そんなもの持って何をするんだ!」
 起き上がった孝二があわててヤスを土間に投げ捨てると、ヤスは土間で弾んで壁に当たって烈しい音を立てた。
 康介が寝ぼけ声を出す。
「なにしてるだ?」
「だ、誰かいたんだ」
 そのときランプが消えた。
 いまさら横になっても寝つかれないし、寒さもあってか身体の震えが止まらない。恐怖と寒さで眠気の失せた孝二は、起き上がって消えかかった囲炉裏の火を火箸でかきまわした。
 酔いの醒めた顔の全員が、囲炉裏を囲んで身体を丸めた。
 孝二がいま見た出来事を話すと、福山が反り返って笑った。
「悪い夢見ただな」
 康介が、台所にあった一升瓶に残っている酒を見つけ、茶碗を全員に分け、少しづつ分けてからぼそぼそと話しはじめた。
「おらも昔、ここで、悪い夢を見たでな……」
 康介は、茶碗酒を一口あおってから、視線を囲炉裏の火に向けたまま、過去の記憶を手繰り寄せるように口を開いた。
「大分、昔のことだが、左吉さんが、ここさ来る一年ほど前にな、白河から那須にかけての山中に住み着いた山の人で、掟を破って追われた男が、この辺りに姿を現しただ」
 山の人と呼ばれた特殊な人達は、各地の山間部を転々と渡り歩く無籍の山職人で、炭焼き、狩猟、木工竹細工、皮製品などを扱い、それらを担いで里に降りては、衣類や食料と交換して行く。部族の掟はきびしく、里人とのトラブルなどまったく皆無に近かった。だから、その男は例外だったのだ。
 村に届けられた部族長からの通達は、仲間を傷つけて逃げた危険な男だから、警察で逮捕して欲しいという要望だった。
 そんなある日、都会から泊まりがけで渓流釣りに来ていた二人連れの男が、那珂川上流に遡行して、一人が行方不明、一人が瀕死の重傷を負うという事件が起こった。
 重傷で生き残った男の話だと、大物の魚影を求めて困難な岩場を越えかなり上流に進み、大きな滝の下にたどり着いたとき、強い雨に降りこめられた。あわてて、崖上への逃げ場を求めたら、滝の手前にブッシュに隠れた巻き道があるのを見つけて、そこをよじ登ろうとしたとき、崖上に奇妙な風体の大男が現れて、奇声を発しながら石を投げ落としてきたという。驚いて見上げると、崖の上に突き出た灌木に片手をつかまりながら、大男が奇声を発して石を投げ続け、あわてて瀬尻を徒渉しようとした友人が、頭に石を受けて川の中に倒れ込み、そのまま姿を没してしまった。腰までもない浅い瀬だったが、まったく一瞬の出来事で、叫び声を残して激流に飲み込まれて姿を消している。
 重傷で救助された釣り人も、上からの投石では身を隠すすべもなく対岸に逃げようと、急流に身をのり入れたとたん、脚部に激痛が走り激流の中に倒れこんだ。彼は、必死で瀬脇の石にしがみつき、そのあと気が遠くなりながら流され、岩場に乗り上げて失神していたところを救助されていた。片足の肉が削げていたという。
 彼らの車が林道にあったことあら、それを発見した村人の通報で翌日、雨上がりの沢筋が捜索され、九死に一生を得たのである。
 駐在所の警官をはじめ、村人総出で山狩りをしたが、大男の姿はなかった。その事件から一ヵ月もたたない内に、山採を採っていた農夫が、それらしい大男に威嚇され、弁当を脅し取られるという事件が起きた。男は、皮ばかまの腰に山ナタを下げていた。農夫は抵抗した折に殴られ、前歯を一本折った。その際も山狩りは効果がなかった。古い漁小屋を見つけたが、人の住んでいる気配はない。
 それからも、村人は何度かその男と遭遇したが、その都度逃げ帰っていて傷害事件には至っていない。
 それから数カ月後、康介の家に、村の長老と駐在所の巡査が、左吉を連れて挨拶に来て、康介所有の無人小屋を貸してやってくれと頼まれた。左吉はその日からその小屋に住み着いたのだ。
 まだ結婚前だった康介は、母と二人だけの生活が淋しかったこともあり、十歳上でおだやかで寡黙な左吉とすぐ親しくなった。
 左吉は、口数も少なく遠慮がちで、康介の母が菓子を出しても、お茶だけ飲んで恐縮して絶対に家にも上がろうとしなかった。
 左吉が来たのは、康介が役場に勤めて二年目の初夏だった。その頃の康介は、勤めから帰ると病弱な母に代わってひとしきり畑仕事をしてから、左吉の家を訪ねるのを日課としていた。
 左吉の出漁するときの身支度は、筒袖の山着物に股引き、藍の染料で染めた脚絆と手っ甲、地下足袋にわらじ、ブドウ蔓で編んだ背負い籠に手製の継ぎ竿や三本刃のモリ、飯盒(はんごう)、米、味噌、漬物など数日分、肩からカマス、遠出するときは獲物が傷まないように途中で川に浸しておくための一斗缶も籠の上に積む。
 夜は、仮こしらえの漁小屋や、崖下の岩穴で野宿し、ケモノ避けの焚き火をし、その周囲に竹串に刺した獲物を並べて焼くか、缶の中で蒸して燻製にする。その緊急非難用岩穴には、煎り米などの非常食を用意してあるという。
 佐吉は、帰るときは燻製にした良型のイワナやヤマメ、風通しのいいカマスに入れた獲りたての生きのいい獲物を、めいっぱい背負って帰宅する。そのため、川漁のシ-ズンには、康介も週に数度しか左吉に会えなかったが、左吉に会えた日は、竹細工編みを教わったりする。帰宅時には、必ず獲物の源流育ちの身の締まった大イワナや、病弱な母のためにと薬草を貰ったりした。
 それにしても、左吉の獲物は群を抜いて素晴らしく、他の川漁師や、康介がモリで突いて得た川魚とは、色も艶も魚体もまるで違っていた。囲炉裏の炭火でじっくりと塩焼きにしたときの、味はまさに天下一品、食欲がないという母でもきれいに食べ尽くす。
 左吉が帰って来るのを見計らったように、松本や近辺の温泉宿の料亭に、川魚を卸す仲買人が、康介の母にも手土産持参で、康介の家の庭に車を停め、林の道を散策しながら左吉の家に入って、佐吉の帰りを待つのだった。
 仲買人は、左吉から薬草なども買い上げ、生活用品や食料などと交換した。康介の母も、左吉が採取した薬草を煎じて飲み続けるうちに、寝たきりだったのがウソのように回復して、左吉が獲り立ての新鮮な川魚を届けに寄ると、起き上がって茶を入れたりした。
 左吉は、いつも一杯の茶ですっかり恐縮し、どんなにすすめられても、家にすら上がらず、食事や酒はもちろん、出された茶菓子などにも絶対に手をつけなかった。
 それは、他の村人の家に寄ったときでも同様だった。
「あいつは、変わり者だ」
 誰もがそういい、康介もそう思っていた。
 母の手作りの餅菓子持参で康介が遊びに行くと、左吉は仕事の手を休めて、相好を崩して喜び、「うめえなあ」と、何度も屈託なく感嘆し「母さまによろしくな」と念を押すのだった。そんなときの左吉の表情は子供のように明るい。

続く。