埋蔵金秘話

花見正樹作

第六章 暴風雨の夜

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17 民間医療隊

 

 八月の二十八日は、昨夜来の暴風雨が、ますます猛威を振るって那須地方を襲っていた。
 菊池浩子は、元看護婦・準看護婦の友人や志願者を募って十五人の民間医療隊を組織し、それを三つに分けて避難所に指定された前原の公民館や音羽町集会所、小学校や中学校の校舎をフル回転で巡回させることにした。その出先で医師を手伝い、あるいは独自にケガの手当てや急病人の世話に奔走した。家屋の倒壊でケガ人が続出したが医師の手が足りないという情報も相次いだ。
 午後三時を過ぎたが、悲劇は続いている。
 余笹川、黒川に続いて余笹川上流の四ツ川流域の池田地区が壊滅状態だという悲しい情報が、救援資材を引き取りに役場に寄った常葉から、音羽町の黒田原中学校にいてケガ人の介護に余念のない浩子の携帯に入った。
 その中学校の眼の下にある運動公園に近いところまで濁流が迫っている。中学校に避難した近くの住民の一部が、黒田原地区にある黒田原小学校への移動を希望する騒ぎを起こして周囲の動揺を誘っていた。
 浩子は足を確保しようと常葉を探したが、ケガ人を病院に運んでいて姿が見えない。周囲の誰もが多忙なのだ。会社に電話を入れると、事務員が出て、夫の信方は川を見に出ていないが、福山が応援に来ているという。
 福山に頼むと、こころよく手伝うとの返事があった。
「こんな時じゃないと、奥さんの点数、稼げませんからね……」
 福山はトラックの後部に小型クレ-ンを積んだ、特殊仕様の簡易クレ-ン車に乗って来ていて、人間も運転席を入れて五人は乗れるとのことだった。
 浩子が電話をして三十分後には、法師畑から小羽入を抜けて、激しい風雨の中を車を駆って福山が黒田原中に到着した。
 そのとき浩子は、新たに担ぎ込まれた小学五年生の男児の足に包帯を巻き終えたところだった。体育館内には、緊急避難した前原、小羽、音羽地区の住民で溢れていたが、それぞれ不安そうに、タオルで濡れた身体を乾かしていたり、布団や毛布にくるまって横たわっていたり、心配そうにラジオや携帯電話で情報を確かめ合っていたり、雑談に打ち込んだりしている。心をやわらげようとCDを聞いている若者や、将棋盤を囲んでいる老人もいる。
 中には町役場の職員に電話をして文句を言っている人、口論や幼児の泣き声も避難している人に苛立ちを増幅させている。
「菊池浩子さん、いますかあ-!」
 小学生に安堵の言葉を与えた浩子が、大型のバッグに医療用品を詰め込んでいると福山の大声が体育館内に響いた。
 浩子が振り向くと、福原が濡れた体で体育館の入り口に立って、もう一度、同じ言葉を叫んでいる。
「福山さん……いますぐに行きますからね-」
 浩子は、助手の女性を一人連れて家族の集まりの間を縫って福山の待つ体育館の入り口に向かった。
「福山さん、こちらは准看の甲斐律子さ、よろしくね……」
「こちらこそ……ここまで車を持って来ます」
 鼻の下を長くした福山が、車に向かって走った。
 三人の乗った車は豪雨をついて池田の村落に入ったが、四ツ川の氾濫で電気が通じなくなったのか、点在する住宅を豪雨が包んでいて人声も車もなく、どこに行っていいかも分からない。
「赤ちゃんの泣き声が聞こえますけど……」
 甲斐律子が声のする方角に顔を向けた。
 その方角に進むと、道はいずれも川のような流れになっていて、小さな道と交わった交差点の道路脇に横転した四駆があり、その横腹に突っ込んだのか、フロントの潰れた軽四輪がある。ケガで顔から血を流した男が、軽四輪の運転席から呻いている女性を引き出していて、その横で幼児が泣きわめいている。
「どうしたんだ!」
 急ブレ-キをかけて車を路肩に寄せた福山が、運転席からとび出して軽四輪に向かうと、浩子と助手の甲斐が緊急用の医療箱をもって後を追った。
「この女が、その道からとび出したんだ。警察に……」
「うるさい! それより救出が先だ」
 女性と幼児を福山の後部座席に運び込んでみると、女性は足の骨を折っているのと腰の打撲でか苦痛の呻きが痛々しい。
「大丈夫よ。いま、那須町の病院に行きますからね」
 横転した四駆を運転していた男も、顔面裂傷の出血が痛むのか顔を歪めている。甲斐律子がその男に傷口の消毒と止血の手当てをして、そのまま二人はクレ-ンのある後部荷台に乗った。
 車はUタ-ンし、いま来た道を急いで戻った。
「雨に打たれての三十分は辛いが、我慢してくれ……」
 車内では浩子が一人で苦闘していた。幼児をあやしながら、女性の足に添え木をして布を巻き、その下にクッションとしてコ-トを丸めて入れ車の揺れによる痛みを最小限にして励ました。
 携帯電話で問い合わせると、原塚、田塩、崎田……それぞれの医院がケガ人や病院で満室の上に看護婦も出尽くして、医師が手不足になり受け入れ態勢がないという。
「保健センタ-に急いで!」
 黒田原駅北口に近い保健センタ-に隣接する町民センタ-も避難所になっていて、ここには医療に従事する人手もあり、最適の条件が揃っているはずだ。保健センタ-前に到着すると、数人の職員がすぐ出て来て顔なじみの浩子に挨拶して事情を聞き、後部の荷台から下りた男には「中でお待ちください」と言い、すぐ車内の女性と泣き止んでいた幼児を抱き下ろして、頭を下げた。
「お世話さまでした。責任を持ってお引受けします」
 浩子が甲斐律子に声をかけた。
「ここに残って身体を温めてから、町民センタ-に避難した人のケア-をお願いね。わたしはもう一度、池田に行ってきます」
 幼児の手を引いた保健センタ-の女性が、律子を中に誘った。
「びしょ濡れで寒いでしょ。着替えもありますから……」
 幼児に向かっても心づかいを忘れない。
「お母さんと一緒に、美味しいもの食べましょね」
 幼児に手を振って浩子は、福山が先に乗り込んで車に急いだ。
 再び池田地域に戻り、違う道を走ると屋根が崩れた家がある。
「見て、あの家……裏山が崩れてるわ」
 福山がワゴン車のあわててブレ-キを踏むと、ビニ-ル製レインコ-トを身につけた浩子が助手席から飛び出し、門のないその家の玄関にとびついて戸を叩いて叫んだ。
「どなたか、いますか!?」
 何となく返事があったような気もするが、雨の音に消されてか判然とはしない。浩子は裏手にまわって、雨戸が外れてガラス戸が割れている窓を見つけて覗くと、そこから弱々しい声が出ていた。
「助けて……」
 見ると、血だらけの老夫婦がテ-ブルに座っている。
「どうなさいました?」
「ガラスが刺さってるんじゃ。動くと痛くて……」
 二人で遅い昼食を食べていたところに大木が倒れて戸を破り、割れたガラスが凶器となって二人の上半身を襲ったのか、ガラスの破片と真っ赤な血が飛び散っている。老夫婦は、少しでも身体を動かすとガラスが肉を裂いて苦痛が増すからか、そのままテ-ブルから動かずに、ひたすら痛みに耐えて救助を待っていたのだ。
 その家は、グレ-ドハイランド近くの造成地にあって背後の小高い丘からの土砂崩れで、倒れたケヤキが家屋の裏側から窓を直撃していて、そこから雨が吹き込んでいた。
 異常を感じたのか、浩子の医療具を詰めたバッグを持ってて後を追って来た福山が、事情を知ると窓から先に入った。
「泥棒じゃないですからね。あとで掃除しますから……」
 室内にガラスが散乱しているので、土足のまま上がって玄関の鍵を開け、表にまわった浩子を招き入れた。
 ライト付きのヘッドル-ペを頭に被った浩子は、ピンセットを用いて、老夫婦の痛いという箇所を霧吹きで血を流しておいて、年寄りの愚痴を聞きながら一つ一つ根気よくガラスを抜いてゆく。
「一人息子がな。親を見捨てて東京に出やがってな」
「いつか帰って来ますよ」
「この歳になってもまだ、田畑を耕さなくちゃなんねえ」
「でも、働くのが長寿の秘訣ですよ」
「歳をとるから、こんな目に会っちゃうんだ」
 小一時間で二人の身体からガラスが全部抜けた。そこをアルコ-ルで消毒すると痛みがかなり和らいだようだ。
 床に飛び散ったガラスを、掃除機とガムテ-プで拭き取った福山が、素足になって床を歩いてみてガラスのないのを確認した。
 さらに雨戸をはめて雨の進入を防ぐと、浩子に声をかけた。
「さあ、行きましょうや」
 浩子もバッグを持ち、老夫婦を招いた。
「ここは危険です。あとは、保健センタ-で治療します」
 老夫婦が顔色を変えて抵抗する。
「とんでもない。わたしらはここに残るんじゃ」
「ここは危険です。まだまだ裏山が危ないんですよ」
「いいの、あたしたちは、ここで死にたいんですから……」
 話し合いが平行線で、時間の経過が気になる。この暴風雨が去らないで日が暮れると、また地獄の一夜が訪れる。浩子は老夫婦二人の傷に薬を塗って包帯を巻き、応急処置をして立ち上がった。
「仕方ない、行きましょう……息子さんは必ず帰って来ますよ」
「ありがとう。恩にきるよ」
 すでに夕暮れは迫っていたが、風雨は勢いを失わない。
 見送りに出た老夫婦が、雨に濡れたまま頭を下げている。

 

18 孝二とアカネ

 

 保釈後の孝二は、一時期は福山の会社の社員になって、住み込んでいたが、自分から退社して那須郡湯津上村の佐良にいた。
 あの気のいい福山が、孝二の詐欺行為に気づく前に姿を消そうと思いながらも、那珂川からは離れられずにいた。
 那珂川の鮎の季節が終わるまでは何とか福山にも埋蔵金から離れて、鮎に熱中してほしいものだ。だが、この台風で全ての計画が狂ってしまう。鮎が釣れなければ福山はまた宝探しに戻るからだ。
 孝二は、台風が来たところで引っ越しの準備を始めた。どこといってあてはないが、福山を騙して得た金で財布は膨らんでいる。
 だが、どうも気になる。
 信方が、ニセ計画を見抜いて手を引いたのなら無理だが、そうでなければ、あの二枚の黄金は、品質検査に出すとか言葉巧みに説得すれば取り戻すことも可能なのだ。このまま、あの太閤大判を信方の手元に置いて去るのは孝二のプライドが許さない。原価は二枚で約三千万、もっとも資金は福山が出したのだが……それにしても、信方の投資した金額はわずか五百十万円でしかない。これで権利を放棄したなどと恩に着せるなんて、まるで詐欺ではないか……。
 一枚だけでも取り返して換金して、軍資金にしたいところだ。
 ともあれ、信方に会わねばならない。
 孝二は中古車センタ-で手に入れた四駆の中古車に乗って、強い雨の中をとび出した。ただ、栃木テレビでの情報だと、余笹川の堤防の決壊で橋も渡れる状態ではなさそうだから、那珂橋で東に渡って、寄居まで北上して黒川を渡る手しかない。余笹川の東側に出て道を選ばないと信方の自宅と工場がある法師畑には行けないのだが、その前に黒川を渡らないと行けない。だが、その黒川も決壊しているとなると、法師畑は陸の孤島になり、そこからは出ることも入ることも出来なくなる。
 とりあえず、大雨の中を那珂橋の袂まで行ってみると、橋のすぐ下を濁流が流れている。この、土手を溢れるばかりの水量から察して上流はもう絶望的な状態になっていると思われる。
 このまま引き上げて、一気に西下して東京へ出れば信方や福山との縁もしがらみも切れてすっきりする。ここで逃げきれれば、永久に自由の身になるのだ。だが孝二は腹を据えて橋を渡った。
 那珂橋を渡って北上すると牛居淵から稲沢黒羽線を高館城址の脇を通って川田から右折し、遠まわりだが中山の交差点に出て左折、雨に煙る梁瀬山を巻くようにして樋世原橋を渡ろうとしたが、濁流が渦巻いていてとても渡り切れるものではない。そこから戻って新田橋を渡ることにした。これを渡らないと法師畑には行けない。
 右に見たところで左折すると大秋津で黒川を渡るのだが橋を濁流が覆い、根のついた樹木が通行を妨げている。
 孝二は思い切りよく、豪雨の中を流れの下に見え隠れする橋の上を樹木やゴミを踏み越え、流れの勢いに負けて橋桁に接触しながらも無事に渡り切った。その時、なぜか孝二は、そのまま余笹川の惨状を見る気になっていた。雨はまだ勢いを失していない。
 黒川の新田橋から余笹川の協和橋までは、目と鼻の先にあり、道はそのまま直線で進めばいい。まもなく中国の黄河を見るような大きな湖水の様な異様な景色が広がった。
 協和橋が堰になって、壊れた家屋、牛の死骸や樹木が山のように盛り上がり、流れがその上を通って行く。手前の岸の柳が倒れて流れに突き出ていて、その枝に人間がしがみついている。よく見ると岸に上がった二人の子供が、溺れかけた男を引き上げようと必死の様子だった。停めた車から走り出た孝二が、二人の子供を手伝って顔面を下にしている男を土手の草むらに引き上げた。
 どこから現れたのか、雨着を着た近くの住民らしい男が駆け寄って、倒れている男の背を叩いて正気を取り戻させている間に、孝二は氾濫した余笹川の水から離れ、子供達二人を地元の人に任せて、車に向かった。ふと、溺れていた男の横顔が信方に似ていた上に、
鮎竿メ-カ-・ガマツカの名入りジャンバ-を着ているのが気になったが、孝二は首を振った。(まさか、あの信方が……)あり得ないことだ。
 来た道を少し戻り、寺子から大田原・芦野線に交差したところでまた川が気になって左折し、寺子橋方面に向かったがそこもまた見渡す限りの濁流渦巻く大きな湖水だった。
 余笹川が黄河に化けた風景は、協和橋のときと変わらない。寺子橋もまた崩壊していたのだ。
 孝二はふと、女のことを思った。
 女とは黒田原駅前のスナックで、ただ客として出入りして知り合っただけの軽い付き合いだったが孝二は惚れていた。女に男が何人もいることを知って遠のいたが、いまなら職業柄仕方ないことと割り切って付き合えるような気もする。福山には、女が孝二の子供を宿したなどと狂言を言ったこともあったが、それも過去だ。
 好き嫌いはともかく、この荒れ狂う暴風雨の中で病弱な母と二人して、恐怖で震えていたとしたら哀れではないか。こう思うと、孝二は居ても立ってもいられない思いにかられた。
 店での女の名はアカネといった。本名でもないのは確かだし、年齢も見かけよりはかなり上だと思える。一度、酔った勢いで住まいの玄関先まで送って行ったことがある。うろ覚えだが、新小羽入の那須民芸社からみて西側の余笹川に近い平屋の住宅に病弱な母親と二人で暮らしていたと記憶している。降雨量と川の暴れ方次第ではここも危ない。
 孝二は法師畑行きを止めて方針を変えた。信方を手伝う人間は幾らでもいるし、さっきの男が信方だったら、それを救ったのも前世の因縁かも知れない。こんな時に物好きにも、それほど親しく思われてもいないはずの一人の女を思い出したのも縁というものだ。
 孝二は遠回りして高台を通り、左手に広がる濁流を眺めて新小羽入の住宅地に入って行った。ただ、そのアカネのことが本当に心配なのかどうかは孝二自身でも確信はない。
 もしかすると、このような緊急事態なのに、心から心配する人がいなかったら可哀相だ、それなら自分が心から心配してやろう。だが、自分はどうだ。声一つ掛けてくれる人もいない。この辛さがやり切れないのだ。だが、それは今日に始まったことでもない。
 アカネと母親が住んでいる新小羽入地区は、豪雨に壊滅した余笹川にかなりの影響を受けていた。
 アカネの住居から近い中余笹橋もかなり痛んでいて、これ以上の増水には持ちこたえられない状態になっていた。
 路地に停車して、アカネの住む家に近寄ると意外な光景が目についた。アカネと母親らしい女性が、庭先を開放して荷物を抱えて住宅から離れる人達に、用意した握り飯を竹皮に包み、ボトル入りの日本茶と一緒に次々に手渡している。
 孝二が顔を出すと、その年老いた母親が叫んだ。
「お兄ちゃん。早くいらっしゃい。もうすぐ、ここも水没しますからね。このお弁当を持ったら早く黒田原小学校に行くんだよ!」
 思わず孝二が竹皮の包みを貰うと、アカネがお茶のボトルを渡しながら孝二に行った。
「どこの人か知りませんが、風邪にも気をつけてください」
 と、孝二の目を見て優しく声をかけてくる。もう、とうに孝二のことなど忘れているのがその表情で分かった。
 孝二は、礼を言って弁当を貰い、その場を離れた。
 妙な気分だった。信方には女との関係を演出して嘘を言った。女と深い関係になり子供ができたために母親から叱責され、手切れ金を払うからと言って、大金を引き出した。もちろん、女になど金を払う義理もない。
 孝二が作り話に利用したその女と母親は、目の前に立った孝二を哀れみの表情で見て、握り飯と日本茶を恵んでくれた。しかも、優しい穏やかな表情でだった。孝二は自分がウソ八百を並べて生きているのがますます嫌になった。あまりにも醜くすぎる。
 だが、仮にも二度ほど夜を過ごしたことのある女が、男の顔も覚えていない……孝二は腹立ちより、やる瀬ない思いが強かった。

 

 

19、職漁師の死

 

 信方は余笹川復興資金として県に、太閤大判二枚約一億円の寄贈を申し出ていた。金と口を出してもこの川を蘇らせるのだ。
あの悪夢の暴風雨が去って一週間が過ぎた。
 あれは一体、幻だったのか?
 死を覚悟した夜明けの濁流の中でかいま見た恐ろしい光景と大きな矛盾を、信方はまだ忘れることが出来ない。信方は毎夜のようにうなされて寝汗をかき深夜に目覚めた。
 あの、溺れる牛を襲った巨大な怪魚の奇妙な親しみの目と、断末魔の悲鳴を上げて水中に没した大型牛の悲しげなあの表情と目、この違いを忘れることは出来ない。なぜ、怪魚の目は信方に優しかったのか? あの時、信方を襲えば襲えたはずなのに、溺れかけた子供まで救っている。信方と怪魚になにか共通項でもあるのか?
 冷静に考えれば考えるほど、信方の頭が乱れて怪しくなる。
 この混沌とした悩みを解決するのには、あの怪魚にもう一度出会ってみるしかない。あの怪魚は増水に紛れて那珂川本流から余笹川に上ったのは間違いない。なぜなら、渇水時の各支流は、川幅も狭く余笹川も含めてどの沢も清く澄んでいてあの怪魚を隠す深淵もなく、大ヤマメ一尾でも見逃すことはあり得ないからだ。
 信方は、那珂川流域に生まれ育ち、幼い頃から川魚の種類から居つきの場所までを熟知し、那珂川の主とも言われている。しかし、それでもなお、山深い那須連山から流れ出る清冽な源流の深淵に棲む大物についての情報は完璧ではなかったのか。以前、自分が釣り上げた五十二センチをはるかに越す大イワナが実在するなどとは考えてもいなかった。
 何年に一度かは、豪雨での異常な水量増加に乗じて五十センチ近い化け物のように巨大化した天然イワナが獲物を求めて下流に下がって来て、水が引いたときに上流に戻ろうとして浅瀬を遡行して釣り師の目に触れることもある。
 以前……数年前のことだった。那珂川の晩翆橋下で鮎釣りをしていた信方も、オトリ鮎を食い契ろうとした天然イワナを三本イカリで掛け、糸切れを恐れながらも水中を五百メ-トルほど下流に泳がされ駆けさせられたが相手の疲れを誘って仕留めたことがある。
 そのイワナが五十二センチだった。これが信方が仕留めた最大のイワナである。その獲物を食するために、釣り仲間二十余人を招待しての馬洗い場での贅沢なイワナパ-ティは、今でも仲間の語りぐさになっている。
 その天然イワナは、花月ホテルの永山総料理長とタメ寿司の鈴木マスタ-の見事な包丁裁きで、刺し身、天プラ、塩焼き、フライ、味噌汁などに化け、高級料亭の味となって大皿に盛られて参加者の味覚を満足させた。料理が美味だからビ-ルや酒も旨い。
 その折りに、永山料理長が首を傾げて妙なことを口走った。
「こいつは、うちのイワナと同じ味だな?」
 花月ホテルの目玉料理は、尺イワナの塩焼きで、これは絶品との評判になっている。料理長は、信方が掛けた大イワナと花月ホテルで仕入れる尺イワナが同じ味だというのだ。グルメ通ならずとも、この日の天然イワナの味はいまだに忘れられない。那珂川の本流には、まだ、釣ってよし食べてよしの大型の天然イワナがいるのは間違いないとなれば、全国からの釣り人を招くことも出来る。
 いま、余笹川の復活にかけて仕事の合間を見ては、役所めぐりを日課にしている信方だが、鮎釣りの競技会や地方への出張講演などもあり、なかなか気持ちが落ちつかない。その原因の一つに、あの暴風雨の余笹川の怪魚の視線が頭から去らないことにもあった。信方も六月の鮎の季節までは、イワナとヤマメを追って雪の残る山深い渓流に入るのだが、あの日のことを想うと信方の胸がうずく。
 信方は、那須地方各地のイワナ情報を集めることにした。
 まず、過去に四十センチからの大イワナを数多く仕留めている釣り仲間からの沢情報を集めてみると、その結果は予想どおり、那須地方の西に位置する塩原奥の標高一四二九メ-トルの小左飛山を源流として流れる大蛇尾(さび)川と小蛇尾川が一番であることが判明した。だが、蛇尾川から箒(ほうき)川を経て那珂川本流、そこから遡上して余笹川に上るには、あまりにも旅程が長すぎる。
 那珂川の上流には、深山湖から箒川との合流点までに湯川、高雄股川、高野川、余笹川、黒川、奈良川、野上川、小手沢、亀久川、松葉川を含めて大小数えきれないほどの河川や小沢が流れ込んでいる。しかし、ここに、あの怪魚が隠れ住むとは考えられない。
 やはり、本流を探すのが正解なのだろうか?
 そんな時に、弟の健二郎から妙な話を聞いた。
 イワナ釣り専門の川漁で生計を立てている信方とも顔見知りの職漁師の佐吉という山の人が、まだ水位の高い濁流の那珂川に死体となって流れついたというのだ。しかも、発見者は信方の縁者である菊池勇夫だという。
 この直後に、花月ホテルの永山総料理長から電話が入った。
「昨日、寒井下の岩場で死んでた川漁師の話は聞いてるかね?」
「弟から聞いた……苗字は知らんが、佐吉さんだろ? イワナ専門の職漁師のあの人とは、三度ほど沢で会って、五十メ-トルぐらい離れて釣りをしたことがあるんだ」
「どうだった?」
「無口だがさすがに職漁師だ。疑似餌のテンカラ釣りでも、川虫の生き餌でも百発百中のすご腕だった。佐吉さんの後を釣ったが、一尾も出なかった。ワシの後も釣れないようだったがな……」
「今晩、その通夜だが、ノブさんも一緒に行くかね?」
「あの人間嫌いの佐吉さんと、付き合いあったのか?」
「わけは会った時に言うよ。酒を抱えて行くからな」
「酒よりビ-ルがいい……佐吉さんの小屋は那須の山中だろ?」
「法師畑からの方が近いから、ワシがそっちへ行くよ」
「川を見ながらワシが行く。飲むから車は預けるぞ」
 普段着のまま黒ネクタイを用意し、不祝儀袋に一万円を包んだ信方は直ちに乗用車で花月ホテルに向かった。

 

 

20 天然イワナ

 

 濁流に呑まれた愛用の四駆は、台風が去って二日目に一メ-トルほど水位が下がったところで無残な姿を現した。寺子橋の橋桁に横倒しの形で引っ掛かっていた。それを見る度に胸が痛む。あの日、対岸に住む元教師のご夫妻は、破壊された家屋に閉じ込められたまま帰らぬ人になって下流の橋桁で発見されていた。共に竿を出して河原で語り合った日々が懐かしい。
 堤防の崩れた法師畑近辺の余笹川は川の形を失って、川と田が境目なく水に浸かっていてまるで入り江のような状態に見える。
 料理長の永山が応接室に案内すると、信方とは顔なじみの女性従業員がコ-ヒ-を運んで来て礼儀正しく挨拶をして去った。
 会ってみると、永山の顔色が冴えない。
「元気ないな、どうしたんだ?」
「じつは弱ったことになって……うちは、あの佐吉さんからイワナを買ってたんで、名物料理の仕入れル-トが切れたんだよ」
「イワナなら養殖してる友人を紹介するぞ」
「養殖じゃ味が落ちてダメなんだ。天然じゃないと……」
「バカ言いなさんな。天然イワナは数がいないだろ?」
「それが……うちのイワナは全部、天然イワナなんだよ」
「まさか?」
「見るかね?」
 永山が信方を厨房に誘った。大型の冷凍庫を開くと、イワナがびっしりと凍りついて並んでいた。
「これでも二週間分しかないんだ。どれでも見てくれ」
 信方が手にしてみると、肉の締まった三十・三センチ前後の尺イワナが揃っていて、どう猛な顔つきが明らかに養殖とは違っていて背びれの先端が赤く色づき斑点も鮮明で、身体全体から精気が漲っている。さすがに職漁師が釣っただけあって、釣り上げてすぐ締めているから鮮度がまったく落ちていない。思わず信方が唸った。
「いいイワナだ……」
「一尾、塩焼きで食べてみてくれんかね?」
「いいのか?」
 厨房では頭を下にした串焼きのイワナが炭火の上で程よく焼け、ジュ-ジュ-と脂を落としていい匂いを出し食欲をそそる。
 永山がその中の二尾をそれぞれの皿に乗せ、割り箸を添えて運んで来た。
「味見してくれ。残していいからね」
 永山が信方の心を読むように念を押す。
「ビ-ルは?」
「ビ-ルなしだと味が分からん」
「ふつうの人だと逆だがな……」
 それでも、エビスの大ビンを運んで来るから嬉しい。
 さすがに塩加減も焼きぐあいも上々、皮ごと口に入れると柔らかく適度に脂の乗った白身の肉が絶妙の味覚をかもし出している。
「旨い!」
「そうか……ノブさんも、そう思うか?」
 頭と骨を残してきれいに食べて、ビ-ルで口をきれいにする。
「こいつは、確かにワシの釣ったヤツと同じ天然の味だな」
「だから、養殖イワナは使えないんだ……」
「ぜいたくな話だな」
「そこで……ノブさんに頼みがあるんだ」
「なんだね?」
「ノブさん……名鮎会のメンバ-でノブさん以外にイワナ釣りの名手は誰かね?」
「弟も上手いけどな」
「健二郎さんか?」
「自分で釣ってくればいいじゃないか?」
「ワシはこの通りの体型だ。とても山歩きはできんよ。それに時間もないしな」
「それは、弟だって同じだ。工場長なんだからな」
「弱ったな、養殖じゃ……鮎釣り客に鮎を出すのもヤボだし」
「佐吉さんは、これをどこで釣ってたんだ?」
「それは分からん。一度だけ聞いたが、返事がなかった……」
「職漁師は生活がかかってるから、漁場は言わんよ」
 信方の車をホテルの駐車場に入れ、料理長の四駆で二人は出掛けた。吟醸酒の一升ビン五本にビ-ル三ダ-ス、酒の肴も積んだ。
 信方は、料理長との車中の会話で、小柄な五十代の佐吉についての知識を得た。秋田の辺境から移り住んで独身の職漁師の佐吉の噂は、那須地方だけではなく東北を含む東日本の渓流釣り人の間では知らぬ者もなかったが、その過去については逆に誰も知らない。
 川魚専門の職漁師である佐吉は、寡黙で人間嫌い、山から下りることもないから、山奥の渓谷でその姿を見かけた釣り人のほとんどが会話を交わしたこともない。
 佐吉は、那須連山の高地にある谷川を自分の庭のように熟知していてイワナの居場所を見透しているかのように拾い釣りする。佐吉の釣り上がった後では、小物すら岩に潜んで出て来ないから、並の釣り人では型を見るのでさえ困難になる。
 したがって、イワナを追った釣り人が沢で佐吉に出会ったら、さっさと竿をたたんで帰路につくか、別の沢に逃げるしかない。
 しかし、山深い渓谷を漁場として佐吉が、天候の予測を誤って豪雨で増水した谷で鉄砲水に迫られて溺れ死ぬことなどあり得ない。
なにかが不自然で、死因は別にあるとさえ思われる。
 余笹川を壊滅させた暴風雨から数日を経た那珂川流域は、かなりの減水ではあったが濁流はまだ石を動かす勢いで流れている。
 しかも、その佐吉が死んだ朝も短時間ではあるが、豪雨が山を襲っていた。
 警察の検案では、獲物を求めて上流に遡行した佐吉が、天候の急変に気づくのが遅れて濁流に呑まれ、岩角に打たれて傷つき流されて力つきたものと解釈したが、どこから流されたのかは皆目見当がつかない。みな一様に首を傾げるばかりだった。
 だが、イワナ釣りをやる釣り人達の見解は違っていた。台風の後の澄み際の濁り水こそイワナの入れ食い状態の釣りチャンスで、これを職漁師の佐吉が見逃すはずがないと言うのだ。
 佐吉の住まいは栃木と福島の県境にある黒森の林の中で、警察で調べたところ住民登録もなく、公安委員会発行の免許から調べて、ようやく本籍と住所が秋田県黒石市長坂の地番になったままだということが分かった。それだと、多分、免許の書き換えだけに秋田に戻っていたのだろうか?
 佐吉の死体は、まだ平常より五〇センチも水位が高い那珂川の岸辺の流心から外れたゆるやかなカ-ブの瀬脇の岩場に打ち上げられていた。職漁師独特の漁衣なのか、法被に厚手の細はかまにゴム布製の脚絆に地下足袋姿で死んでいて、左足の脚絆が食いちぎられて破れ、肉が裂け骨が剥き出しになっていた。検視後に駆けつけた隣人の康介という男が、「いつもは藍で染めた脚絆なのにな……」と
呟いた。
 警察医は検視の結果、佐吉がかなりの水を飲んでいることから直接の死因は溺死と発表した。だが、右太股の傷の深さからその出血もかなりの致命的なダメ-ジとなっているのは間違いない。
 警察医が首を傾げた。那須にはさまざまな獣が棲息している。
「この傷は岩だとしたら深すぎる。子連れ熊と出会い頭にバッタリってこともある。それだと、熊避けの鈴も役に立たんだろう」
「飼い犬が山に放されて野生化したってことは?」
「それもあるだろう」
「冬の狩猟シ-ズンに下手な鉄砲撃ちにやられた手負いの猪が凶暴化して、ノタ場に近づいた佐吉さんを襲うことも考えられるぞ」
 山奥で餌を求める獣の恐ろしさを信方は知っている。
 しかし、信方は迷いながらも、あの怪魚のことを考えていた。

続く