第一章 光徳牧場

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1、目撃者

 

佐賀達也は、セキュリティチェックを済ませて東京国際空港の税関カウンターを通ると大きくのびをして欠伸をした。
(ああ、眠い)
とにかく、眠い。彼は地下の駅に向かった。
要人警護という職業は、達也のような暇さえあればうたた寝をしている男には不向きな仕事だが、バブル景気崩壊後の就職難の時代とあれば止むを得ない。
それに、贅沢をいったところで、警視庁捜査一課の殺人担当刑事で鳴らした男がそう簡単に民間のサラリーマン生活には入れない。
有力議員秘書自殺事件を調べ過ぎた上司の責任を被った形で退職したのだが、実際は彼自身の勇み足もかなりある。
その性向は、転職したからといってなかなか直るものではない。
元刑事の就職先は、かなり限定される。
地方自治体、金融関係、交通安全協会、消防署、各企業の調査部門などだが、やはり最も多いのが「裏の警察」と呼ばれる警備会社で、達也は、その中で身辺警護、すなわちボディガード専門の会社メガロガに就職していた。
今回は実に退屈な仕事だった。
アメリカ・テキサス州にあるコンピュータ部品会社の社長を、極東地区歴訪の間、警護するということでわずか四日間、日本と香港を往復し、成田から乗り継ぎでサンフランシスコ行きに乗せ、そこからは警護員なしで帰国してもらう。これで、会社には結構なギャラが入り、達也にはわずかな出張手当てが入る。
成田エクスプレスの車輛が地上に出て軌道を走る頃、すでに夕闇が濃く、新緑の季節の郊外の景色はすっかり影をひそめ、夕餉を楽しむベッドタウンの家々の灯の間を特急が走り抜けて行く。
「ご苦労さん。明日一日ゆっくり休め。明後日からの仕事はその日の朝、打ち合わせしよう」
警視庁時代の先輩にあたる田島社長の一言でぐったりと疲れが出た達也は、それでも習慣的に携帯電話で留守電を呼び出す。
「達也さん。お元気?わたし。またあとで電話します」
別れたはずの女から珍しく電話が入っている。眠気が覚めるほどのことでもないが、
相変らずの電話のかけ方で無性に腹が立つ。
名も名乗らず「わたし」と切り出すのは、達也が別れて半年以上にもなるのに特定の彼女がいないのを見透かしているからに他ならない。それが図星だから腹が立つ。
(お元気?だと!なにが元気なものか)
思わず口の中でブツブツと愚痴も出る。
百万ドルの夜景、九龍の町、旅情をそそるチャイナドレスの女・・なにを見ても彼女のことしか想い出せないほど好きなのに、売り言葉に買い言葉で喧嘩して別れ「せいせいした」と、いい続けて来たのは、時が忘れさせてくれると思ったからだ。
(電話なんかしやがって・・・)
達也は、そのまま睡魔に襲われ、終点の上野駅までぐっすり寝こみ、夢もみなかった。
達也が、その別れたはずの戸田友美からの電話がSOSを知らせる電話だと知ったのは、表参道などと駅名だけは体裁のいい地区にある安マンションに帰り、開幕して間もないプロ野球をテレビで見ながら缶ビールでと、くつろいだところに掛かってきた電話でだった。
戸田友美は、その日、取材を兼ねて日光にいた。明朝のテレビロケのためにホテルまで提供されていたのに、さらに、その前日にあたる昨日から日光市内をつぶさに見学し、
雑誌記事に厚みをもたせようと車を停めては、ふらふらとあちこちをカメラ片手に歩き、奥日光の光徳牧場にまで足をのばし、予約もないまま光徳のホテルに一夜の宿をとっていた。
その宿は、いつか達也と一緒に泊まろうと約束していたホテルだった。
(でも、あの人はそんなこと覚えているはずがない。多分、私のことさえも・・・)
達也という男はそんな男だった。約束してもすぐ忘れる。すべてが仕事優先なのだ。
去った者は追わない。別れた女に未練はない。それが口ぐせのバツイチ男が達也だった。
(私だって、別れた男に未練なんかないわ)
日光は何度か訪れたことがある。しかし、ここが、こんなにも恋を忘れるのに不適当なところとは思ってもみなかった。
鎌倉や京都なら一人歩きできるのに、日光は女性一人で歩くにはやるせないほど寂しい。
杉木立の中に立つ歴史を秘めた荘厳な人工美に彩られた輪王寺、東照宮、その絢爛豪華な建造物は幾度眺めても飽くことはないのだが。
重文指定の石造りの一の鳥居にかかげられた「東照大権現」の額が、徳川家康の霊廟としての威厳を示す第一歩であれば、鳥居内左手の五重塔もまた、内部に重文指定の大日如来を安置し、五層の屋根幅が全部同じという珍しい建造法であり、神馬が繋いである白木作りの厩舎の長押には「見ざる聞かざる言わざる」で知られる三猿
の彫刻もある。
日光国立公園は、栃木、群馬、新潟、福島の四県にまたがる広い地域を含め、2,484メートルの男体山、2,578メートルの白根山を中心に日光連山の峰が続き、麓に広がる中禅寺湖、そして、日本を代表する華厳の滝を頂点にした四十八滝がそれぞれの美を競っている。
友美は、たまたま霧降の滝で出会った、観光客の意識調査を集計中の市の職員に、ここ数年の観光統計の数字を聞く機会に恵まれた。
伊藤というその観光商工課の女子職員の記憶は仕事とはいえすばらしく、友美の質問にテキパキと淀みなく答えていく。
「バブルがはじけ観光にも影響したんだと思いますけど・・・」
こう前置きして友美に話した数字では、日光を訪れる観光客は平成二年をピークに減少を続けているという。
「昭和六十年に七百十五万人だった観光客は五年後の平成二年に百万人増えて八百五十万人、それが年々五十万、六十万とダウンしまして六年は六百六十万に落ち込み、鉄道、ホテルなどを含む観光業者全体が大きな打撃を受けたんです。交通でも、JR、東武鉄道、観光バスを含む外来車のすべての利用比率が減少しました」
「これから、霧降高原を見て、中禅寺湖から奥日光へ行こうと思うんですけど、日光ではどこが一番人気があるの?」
「私の記憶では細かい数字まで出て来ませんが、キャンプ地からの人気統計で、中禅寺湖が一位で霧降高原が二位、奥日光が三位でしたが、大ざっぱな比率でいうと五、三、二だったと思います」
「キャンプ人口は増えてるんでしょう?」
「いいえ。観光客の減少比率そのままで、平成二年のキャンプ場利用者総数約八万九千人に対して平成六年は約七万九千五百人、一万人近く十パーセント以上も減少してるんです」
そして、その女子職員は、こう結んだ。
「でも、日光には本当の日本の美しさがすべて揃っているんです。光徳牧場は今頃の季節に雨が降ると新緑がきれいですよ」
その光徳に、友美は一夜の宿をとった。
一人寝の寂しさは一夜明ければ忘れられる。
早朝から降り始めた雨も寂しさをさっぱりと流した。
光徳の雨は緑をさらに鮮やかに染めて降る。
友美は、精算を終えホテルを出たが、駐車場に直行するのを惜しみ、白樺やカラマツに囲まれた光徳沼の方角にカメラを持って散歩に出かけた。
雨脚の強い四月下旬の肌寒い日曜の遅い午後、奥日光の山々にはまだ残雪が見える。
ふと、怪しげな三人の男が一人の男を囲むようにして林の中に入るのが遠くに見えた。
(事件ならスクープになる!)
友美は急ぎ足で後を追い、雑木林に入った。
雨にけむる光徳牧場の横手の林の方角から怒号を抑えた激しい争いの気配がする。
友美は林の中で目をこらした。
男たちが見え隠れし、刃物が光った。
友美の胸は恐怖と興奮で高鳴った。
歯が鳴り膝はがくがくし腰が落ちる。しかし、ルポライター特有の好奇心は抑え切れない。すくんだ足が自然に前に動く。
足下のつる草を避け、腰を低くして友美は潅木の間をゆっくりと接近した。
目立ちやすい赤の傘はあわてて捨てたので全身ずぶ濡れになる。それでも、カメラだけは濡れないようにショルダーバッグに入れていたのは職業的な本能からか。
友美の視界に争っている男たちの姿が入った。
一人の男が素手で刃物を持った三人の男に立ち向かっている。すでに手傷を負っているらしく繰り出す拳が空を切り足元がおぼつかない。
友美はカメラを出しズーム式の簡易な望遠で木の陰から男たちを撮った。片手でカメラ上部を覆ったが、雨はカメラを濡らしレンズの視界をぼやけさせた。
もみ合っていた男たちがほぐれ、三人が散ると残された一人が一声、低く呻いて倒れた。闘いは終わった。倒れた男はピクリともしない。
(殺された!)
友美の背筋を恐怖の悪寒が走る。
友美は、男たちに背を向け藪をかき分け、走り出していた。無我夢中だった。雨など気にならない。それでもカメラだけは無意識にショルダーバッグに収めた。
恐怖が友美を走らせる。ワイドパンツの裾がつる草にからまったりジャケットのボタンがとぶ。
駐車場まで走れば愛車のルノーがある。
三人組に刺された男の呻きが耳に残る。足がもつれた。気ばかりがあせる。
林から道に出ようとするとバスが通過した。光徳牧場からJR日光駅行きの終バスは午後三時三十八分なのを友美は知っている。それが出たところだった。
牧場前のバス停前に、光徳サイゼリアという三階建てのホテルがある。湯元からの天然温泉を引いた露天の岩風呂やレンタルサイクル、テニスコートなどを備えたリゾートエリアとして知られている。
駐車場は、その建物に隣接する雑木林に囲まれた空地内にある。友美はそこに走った。
大型の観光バスが数台並んだ先に友美の黒いルノー・サンクが雨に濡れている。
そのとなりにグレイのベンツが駐車し、その先にも高級外車が十数台ずらりと並んでいた。
ベンツの横で傘を手に男たちが数人たむろしていて、タバコを口から離した男が腕の時計を見た。
「遅いな。まだ始末でけんのかな」
ベンツの窓が開き野太い声がとんだ。
「テツ。舎弟らの仕事、手伝うて来い」
「へい。行ってきます」
男がタバコを捨てて走り出した。
その顔に見覚えがあった。昨夜、廊下で見た細い顔の男だ。
友美はその場をそっと離れて、ホテルの玄関の階段を上がる。
ホテルで助けを求め、警察にも知らせなくては。
「お客さん、濡れましたね。少々お待ちを」
玄関口にいた制服のホテルマンがタオルを持って来てくれた。警備を兼ねているのか。
「どうなさいましたか」
「あちらの森で人が争うのを目撃したんです」
「先ほどレストランで口論をしていた方がいらっしゃいました。きっとその人たちかも知れませんね」
「殺人事件らしいの。すぐ警察を頼みます」
「ハイ、すぐに。警察が来るまでお部屋を用意させましょう。そこでお待ちください」
緊張した表情で従業員が消えた隙に、ロビー脇の電話ボックスに入ってみたが暗記しているはずの電話番号が頭に浮かばない。
携帯電話は山の中では通じない。
友人の布川奈津子は鹿沼市に嫁いで二年、まだ子供はいない。ぬくぬくと新婚生活を楽しんでいる。そこに連絡したいのだ。
口惜しいが別れた男の電話番号だけを指が記憶していて勝手にプッシュする。
日曜日の午後、アパートにいるような男ではない。
「佐賀です。現在出張中です。四月X日夜七時頃に戻ります。ブザーのあとにお名前を」
友美はつとめて明るく簡潔に話して留守番電話を切った。
曙テレビのロケ取材に招待された友美が、ロケを明日に控えて一日早く奥日光を訪れたのは、けっして男と別れた感傷からなどではない。
急に寒さが身に沁みてきた。
目を閉じて深呼吸する。少し気持ちが落ちつくと携帯電話は圏外では使用不能でも、記憶させてある番号を引き出せることに気付いた。携帯電話をバッグから出そうとすると、頭の中に数字が浮かんだ。冷静さを取り戻したのだ。
短いコールで奈津子が出た。声を殺す。
「奈津子、助けに来て!」
「なによ友美。サラ金にでも追われたの?」
「違うのよ。今、殺人現場を見ちゃったの」
「まさか。あんた。落ちついて話して」
「時間がないのよ。彼ら、私が見ていたことに気付いたら殺しに来ると思うんだ」
「なにをバカなこといってるの。ここは法治国家でしょ。そう簡単に人は殺せないわ。それより友美、車じゃないの?」
「駐車場に彼らがいるの。光徳、分かる?」
「知ってるわよ光徳ぐらい。警察には?」
「今、ホテルの人が手配してる。私の部屋も用意してくれるらしいけど、立ち会って顔を見られたら狙われるかも」
「ホテルの方が安全でしょ。それで?」
「今、ずぶ濡れなの。下着、着替え、靴。もうなんでもいいから、身のまわりのもの持って来てくれない。サイズは奈津子と同じぐらいだからね」
「ホテルの名は?」
「今、光徳サイゼリアからだけど、なんか恐い人が大勢いて、警察が来る前に襲われたらホテルの警備員じゃひとたまりもなさそう」
「じゃあ、待ち合わせ場所きめてよ。そこにいなければホテルに直行するから」
「とりあえず、逃げられたら国道120号線まで出て湯元から日光駅に行くバスに乗る」
「それはダメ。あのバス一時間に一本ぐらいよ。それより、つぎのバス停の三本松まで走ってお地蔵さんのある駐車場の茶屋で待ってて。一階が土産物屋で二階がレストランなの、閉店は六時だと思うから間に合うわ」
「でも、びっしょり濡れてるのよ」
「ホテルの売店でTシャツとビニール傘ぐらい売ってるんじゃない?」
「分かった。売ってなきゃ、トイレで絞って体温で乾かすわ。一時間半ぐらいで来られる?」
「すぐ出るわ。合図はパーキングライト点滅よ。現われなきゃホテルへ行く。顔見られた?」
「今のところ見られていないけど、帽子を買って顔は隠すことにする」
顔を知られなければあせることもない。
友美は、落ちついて受話器を置き、周囲を見まわした。警察はまだ来ない。
「この傘、だれんかいな?」
大声にふり向くと、駐車場でタバコを吸っていた男が友美の傘を玄関口でかざしている。
友美はとっさに電話コーナーとレストランの間にある通路に逃げた。奥にトイレがある。
フロントではいかつい男が声高に部屋を借りている女性を調べている。目つきの悪い男がレストランで濡れた服装の女を探している。しばらくして男たちは手分けして散った。
友美は隙をみてレストランに入り、そのまま裏口へ抜けて逃げ、林の中を走った。

 

2、人身事故

 

四月下旬、山間の午後四時半は雨が降るとかなり暗い。その上、強い雨で道路の見通しもわるい。
戦場ヶ原を右手に逆川橋を越えると、東の光徳牧場方面からの道と出合うT字路がある。
雨足が繁くなり視界が効かない。コンタクトレンズがずれたらしいが痛みに耐えて友美は走った。
雨の中、右手から車が見えた。
「あっ、危ない!」
助手席の男が大声を上げ、運転席の男も確かに友美の顔を見た。友美は激突した。
一瞬、左ボディに衝撃を感じたのと運転手がブレーキを踏んだのがほぼ同時だった。
「轢いた!」
思わず声を出したが、運転していた男の心臓は凍りつき鼓動が速まり頭の中が真っ白になる。
後輪駆動のセダンは見事にスリップし、対向車線にとび出して湿原と遊歩道との境界線に張った二本のワイヤーに全部を突っ込むように激突して停車した。手前の遊歩道の支柱を一本曲げたようだ。光徳入口バス停の看板が見える。
対向車線を走って来たトラックが急ブレーキをかけながらハンドルを切り、事故車と接触すれすれの状態で辛うじて擦り抜け急停車し、雨中にもかかわらず窓を開け、罵声を浴びせて走り去った。事故車に手を貸すつもりはないようだ。
友美は、運転手がドアを開けて転げ出すのをぼんやりと眺めていてハッと気付き起きようとしたが、死んだ振りをきめこむことにし様子を見る。
シートベルトを掛けていた助手席の男にケガはないようだったが、運転席の男は、顔をハンドルの上部に打ちつけたのか額から血が流れていた。
「一郎、死んでるか!」助手席から降りた男が叫んだ。
友美は、仰向けの状態で雨に打たれていた。
一郎という二十五、六の若者が友美に駆け寄る。声が震えている。素顔のままの友美の顔が血の気を失ってか透き通るような白さが蒼みを帯び雨に打たれている。
夢中で近寄った一郎が友美の顔をのぞくと、一郎の額の傷から血が滴り落ち、友美の顔と淡いモカブラウンのジャケットの胸元を染め、舗道に朱の色を広げる。
光徳方面から走って来た車が急停車し、人相の悪い男たちが数人とび降りて駆け寄り、朱に染まった女を見て、声をひそめた。一郎の肩越しに凄惨な女の横顔がある。血の色で顔はよく見えない。
「どうした。死んだんか?」
ドスの利いた男の声に思わず助手席にいた男が答えた。
「ハイ。死んじゃったみたいです」
一郎はおろおろし、友美の手首に触れた。
「自業自得や。自分でとび出したんやろ」
男たちは、隠し持った拳銃を収め、関わりを避けるように車に乗り込み、光徳方面に戻った。
「大橋、脈があるぞ!」
一郎が叫んだ。
「医者を探そう」
「いや、救急車を呼ぶんだ」
一郎が冷静さをとり戻したのか、手拭いで友美の顔を拭いながら片手を首の下に入れ、抱き起こそうとした。
友美が目を開き一郎を見上げた。
「ありがとう。救急車はいらないわ」
女が口を開いたことで一郎があわてた。頭を打っていたら、やたらに動かせない。
「ケガは?どこか痛む?」
「大丈夫。ケガはないわ」
一郎が手を添えるとその手を友美が握った。
友美はゆっくりと立ち上がり、傍のガードレールを支える鉄パイプに掴まって空を仰いだ。雨はさらに激しく降り、顔の血を洗い流す。衣類に付着した一郎の血もかなり薄まった。
友美の豊満なボディがスーツに密着した。
大橋という青年が気を遣い、道路脇に散乱した化粧ポーチなどを、ラジカセやカメラがのぞいて見えるバッグに入れ、友美に手渡した。
轢かれて潰れた白のシューズ・サイドゴアは後部座席下に入れ、そのまま運転席に乗り込み、車の向きを変えるため二人を残して光徳方面にバッグした。運転が粗くなっている。
とりあえず、女が無事であれば現場を離れたいのは犯罪者心理として当然なことだ。
光徳入口バス停には雨を避ける屋根がない。
一郎が釣りキャップを友美の頭にのせた。
事故発生から車の発進まで、長い時間のようにも思えたが実際は五分ほどもない。
その間、交通量が少なかったのも幸いした。
大橋が、光徳方面へのT字路に一度バッグし車の向きを変えている間に、バス停に濡れて立っている友美と一郎の姿を見て、行楽帰りの車も停まったが、大橋の運転する車の存在を認めて安心したように走り去った。
多分、額を手拭いで押さえている男とシューズも履いていない女が傘も持たずに濡れている異様な光景に驚いたものと思う。けげんな表情をしていたのが印象に残った。
「本当に救急車呼ばなくていいですか?」
「いいわ。示談にしましょ」
「あとでたんまり治療費請求されるのは嫌だからな」
「事故はなかったことにして。わたし、身元明かしたくないの」
「えっ、なんで?」
大橋が少し首をひねるようにして後部座席を振り向こうとして一郎に制止された。
友美は一郎が差し出してくれたタオルをスーツの下にさし込み、バッグからとり出したハンカチーフを上において手で叩き、濡れた身体と衣類の水分を拭き取っている。
友美は窓から外の景色を見た。雨足が強い。
白樺とズミの林が続き、右手奥に湿原が見える。途中、道路工事をしている場所があって、それを越えると右手に戦場ヶ原湿原の展望台があり、左手に三軒ほど土産物を並べたレストハウス風の茶屋が軒を連ねている。
「その先にお地蔵さんがあるのご存知?」
「カッコー茶屋の駐車場?」
「ええ。そこで停めてくださる?」
「いいけど、なんで?」
女が「フフッ」と笑った気配がある。事故の際の恐怖が去り、心にゆとりが生じたのか。
一郎の疑問に友美が答えた。
「濡れたままじゃ、どこにも行けないでしょ。茶屋の人にお願いして着替えを分けて頂こうと思ったのよ」
「あ、そうか。そうしてもらったほうがいい」
一郎は片手で自分の茶と黒のウールの縞シャツに触れてみた。カーヒーターの温度を三十度に設定して汗ばみながら衣類を乾燥させているが、湯気が上がる割にはまだ少しも乾く気配がない。身体の震えはおさまった。
「高速で東京まで帰るけど。どこまで?」
「もうここで充分よ。なんとかするわ」
レストハウスの建物が雨にけむっている。
徐行すると左手に、台座の上に立つ一メートルほどの石の地蔵尊が雨に打たれて寒々と濡れていた。首に巻いた赤い布が揺れている。
「そこ。そこよ。左に入って」
車は徐行して戦場ヶ原展望台前で左折し、奥隅のトラックの影に入って行く。
広いパーキングスペースに車の影はまばらだが、死角になり、外からは見づらい位置に停めた。大橋がふり向いて友美に語りかける。
「まだお互いに名前もいってなかった。オレは大橋弘。相棒は松山一郎っていうんだ。釣り仲間だけど今日はまるっきしダメでね」
「大橋弘さんと一郎さん?苗字は忘れちゃうけど名前なら憶えられるわね。私は友田雅美。優雅の雅に美しいで雅美」
友田雅美は、友美のペンネームだ。
「雅美さんか。いい名前だな」
「会わなかったことにしましょ」
戸田友美は、バッグを抱えて一瞬考えた。
犯罪のプロなら必ず死を確かめるはず。部下の報告を聞いた男たちは救急車の到着する前にもう一度確認させる。生きていたら止めを刺す。この二人も道連れだ。逃げたとなれば組織を動員しても網を張る。二人も危ない。
「ハイ。お菓子。お腹空いてるでしょ」
「おっ。サンキュー。せんべいかな?」
「ケーキよ。手づくりなの」
二人を救うには、時間をずらすのがいい。
空腹だった二人の若者は、すぐにむしゃぶりつき、少し雑談しているうちに欠伸をして深い眠りに落ちて行く。
友美が時計を見た。
ずい分長い間待ったような気がする。
友美は走った。激しい雨が身体を叩く。
パーキングライトを点滅しながら、小型車が駐車場の入口からゆっくりと、すでに閉まっているカッコー茶屋の前を通過して、午後七時まで営業している三本松茶屋の灯りに向かって入ってきた。
二人の若者はまだ熟睡している。
春雷がなった。素足に小砂利が痛い。
後部座席にとび込む。
「奈津子。サンキュー、助かったわ」
運転席から奈津子が振り向いた。
「なにがSOSよ。光徳から鹿沼は近いんだから最初から私を誘うべきでしょ」
「ごめんね。折角の休日を呼び出しちゃったりして。ダンナさん怒ってない?」
「怒ってるわよ。もういい加減に友美とは縁を切れって。これ以上あなたのことに首突っ込んだら必ず警察沙汰になるって」
「それがもう手遅れなの」
「なにが?」
「警察も探すわ」
下着を替えながら他人事のようにいう。
年齢は同じ二十八歳、布川奈津子は新婚ほやほやの主婦だが戸田友美は独身。大学の同窓生で、性格も違えば生き方も異なる。
奈津子が眉をひそめた。
「私は巻き添えはごめんだからね」
それには返事をせずに友美が喋った。
「華厳の滝ロケの取材より一日早く来ちゃって光徳に泊ったでしょう。ところが変なのよ。関西から暴力団が来てるの。それも大勢よ」
「旅行で来たんじゃないの?」
「わざわざ光徳まで来るのも変でしょう。それも地元の有力者らしい人とも会っているんだから」
「関西の広域暴力団、奥日光に進出か?」
「バカらしい。野生のサルがいるとこよ」
「そんなところで事件?夢じゃないの」
「殺しは本当よ。見たから追われてるの」
「そりゃそうね。よく逃げられたわね」
「すぐそこまで二人連れの青年に乗せてもらって来たの」
「それで、その車は?」
「ほら、そこの左側にあるグレイのセダン。近付いてみて、ゆっくり徐行して」
「いいの?変に思われない?」
「大丈夫。ぐっすりお寝みだから」
「どうしたの?まさか」
「眠らせただけよ。あと一時間ほどね」
「あなたヤバイことやるわね」
「私はいいけど。奈津子がここに来たこと知られたくないし、一時間たったら彼らももう大丈夫だわ」
「どうして?」
「私を助けたことバレたら命を狙われるのよ。運転席が大橋君で助手席で眠ってるのが一郎君ていうの。ちょっと車停めて」
「どうするのよ」
「傘ある?ちょっと降りてキスしてくる」
「なにバカいってんのよ」
「いいじゃない。命の恩人なんだから」
奈津子が用意して来た傘を手に友美が二人の眠る車に近付き、運転席のドアを開き額にキスをした。
大橋が心なしか嬉しそうな表情をした。夢を見ているのかも知れない。
助手席側の一郎は、腕を前に重ねてそこに顔を埋め上半身を伏せている。
傘を片手に持ったまま、左手で抱き起こしシート側に体を倒した。顔色が少し蒼い。
口を少し開き、間が抜けた顔に見える。眉が濃い。額に巻いた鉢巻き状の手拭いの中央に血が滲んでいる。
「なにしてるのよう!早くしなさい」
アスファルトにはじける激しい雨音をついて奈津子のいらだち声が聞こえた。
友美は、一郎の唇に軽く唇を重ねた。
「つかない口紅だからね」
友美は、もう二度と会わないかも知れない二人に別れを告げ、ドアを閉めた。
釣りキャップを返すのを忘れている。
車が国道120号線に出たところで、豪雨をついて湯の湖方面に向かうパトカー一台とすれ違った。警戒灯がまわっている。
「まだ事件が続いてるのかしらね」
駐車場で助手席に移った友美が首をひねる。
「私も今、頭の中が整理ついてないのよ。少しずつ思い出してゆくから奈津子も一緒に交通整理をしてよ」
「冗談じゃない。私の方が頭の中渋滞よ」
「困ったな。なにがなんだか思いがけないことばかり続いちゃて・・・」
雨が少し小降りになって来たのか、夕闇の中から男体山の黒い影がのしかかる。この先は竜頭の滝を経て中禅寺湖菖蒲ヶ浜に出る。
「さっきの若い二人連れに出会わなかったら私、多分、殺されてるな」
「別れた彼もほんのちょっぴり悲しむわよ」
「どうかな?昨夜、廊下で私を追って来た男たちの仲間とすれ違ったとき、中禅寺湖の話をしてたの」
「日光なんだから当たり前でしょ」
「それが声をひそめてなの」
「変ね。観光の話はタブーなのかな」
「それと、朝食のバイキングで一人で食事をしていたら見覚えのある人にあったの。でも人違いかな。達也さんの知り合いの永田さんだと思って挨拶したら素っ気ないの。しかも東北弁だし」
「栃木弁も似てるわ。まるで東西合流ね」
「東西合流か。知ってたら写真撮ったのに」
「そんなのバレたらもっと大変よ」
「もう、とに角夢中で走ったわ。必ず彼らは私を追うと分かってるから、必死だった。光徳牧場から1.5キロ。ものすごい雨で視界がわるくて出会い頭にあの車にぶつかったの」
「道路ぐらい分かるでしょ」
「コンタクトレンズがずれちゃって痛くて目が開けられなかったの。それにあの雨でしょ。車来るのが見えなかったのよ。それにしても、運転してた男たちも災難だったな」
「そんな・・・大事故と紙一重だったのに」
「まともに激突、即死のはずが」
「どうして大丈夫だったの?」
「それがね。ずっと前、当たり屋のルポやったでしょ。とっさにそのワザを使っちゃたのね。体を開いてバッグを叩きつけたの」
「あきれた。それじゃプロの手口じゃない」
「あっ、そこ左に曲がって!」
友美の声に反応して奈津子が急ブレーキをかけながらハンドルを左にまわしたからタイヤがスリップし車体が大きく振れた。奈津子の運転する車は速度を落として竜頭の滝の駐車場に滑り込み、地獄茶屋の前を越えて滝側の崖下にバックして駐車した。
「あの道路左側に停まっている黒いシボレーに見張り役が乗っていて、多分、五百メートル先にも一台。マークしたら先で停めるの」
「ずっとここで網張ってたのかしら?」
「彼らのやり方はね。警察が来ると故障で修理者待ちだといい、無理に停めた通行者には怪しまれると地理や修理屋を聞いたりするの」
「警察で取り締まらないの?」
「警察は犯罪行為か道交法違反がないと」
「あの場所は駐停車違反じゃないの?」
「故障車に見せかけて三角板を出してるわ」
「殺人事件だったら彼らも怪しまれるでしょ」
「多分、ホテルからの通報で警察が出動したのを知ったときに、身代わりを出頭させてると思うの。警察でも暴力団同士の争いだと大目に見て深く追求しないから」
友美が奈津子の肘をつついた。
「ほら、見て。あの車から人が降りるわよ」
友美はバックミラーを見ていたのだ

 

 

3、偽装殺人

 

「テツ兄ィ、あの女を乗せた奴らの車と違いまっせ」
「いや、一応調べとくだけや。急に曲ったのが気になってな」
「死んだ女。あの二人連れがトランクにでも押し込んでどこぞへ捨てたんと違いまっか」
「足立ナンバーで末尾二ケタだけは覚えとるんやけど」
二人の男がそれぞれ傘をさし、懐中電灯を手に近付いて来る。
「どこぞで車替えて逃げたんやろか。それとも途中でどこぞに隠れてるんやろか」
「それにしても永田が生きていたとは」
「悪運のつよいやっちゃな」
「病院から出たら今度は絶対に」
当人たちは小声のつもりでも、夜のしじまは滝の音、雨の音と共にその声を運ぶ。
駐車場の街灯が二人の男の顔を浮き出す。
友美が奈津子の肩に手を置いた。
「ちょっと、奈津子。こっちへ寄って」
「友美。なにをするのよ!」
友美が奈津子を抱き寄せ頬を密着させる。
男たちが車内をのぞきこみ、奇声を発した。
「地獄茶屋の前でやると地獄へ落ちるでえ」
後輪のあたりを足蹴りにして痛そうに足を引きずりながら車に戻って行く。
「友美のその帽子で男だと思ったのね」
「奈津子。車を出して」
「大丈夫?多分、まだこの先にいるよ」
「彼らはさっきの二人連れの車を探しているみたいだから、今なら逃げられるわ。あたりも暗くなったし、この雨だから車の中は見えないと思うの」
「それにやっぱり、顔憶えてないのかな」
「轢き逃げで死体は棄てられたと思ってるのね」
「生きてるのがバレたら、とことん狙われるんじゃない?」
「ホテルで調べて、身元は割れてると思うわ」
車は、ゆっくりと国道120号線に滑り出した。道端に停めた車の脇に傘をさした男が一人立っていて手にしたライトで友美たちの車を照らしたが気付かない。肩から下げたベルトにトランシーバーが揺れているところをみると仲間がこの先で網を張っているに違いない。
中禅寺湖畔に出たときには夕闇は深まり、雨は滝のようにライトの光の先に降り注いだ。
「友美。いいアイディアがあるんだけどな」
「どんな?」
「あなた、生きているから狙われるんでしょ」
「当たりまえじゃない」
「いっそ死んじゃったら」
「急に変なこといわないでよ。気持ちわるいな」
「死ぬっていっても本当に死んだら命がなくなっちゃうから死んだ振り・・偽装自殺をするのよ」
「どういう方法で?」
「きまってるじゃない。ここは日光よ。華厳の滝にとび込むのが常識でしょ」
「バカバカしい。そう簡単に殺さないでよ」
「華厳の滝は死体が出ないケースが多い自殺の名所。この場はとりあえず一度死んだ振りして彼らの目をごまかしておいて、その間に警察に協力して犯罪を立証して検挙させる手よ。どう名案だと思わない?」
友美は返事をせず目をこらして窓の外を見た。湖畔のホテルに出入りする観光客の姿もない。土産物屋やレストランもほぼ閉店している。山あいの観光地の夜は寂しい。
「華厳の滝って何時まで営業してるかな?」
「友美ったら。華厳の滝はいつでも流れ落ちてるでしょ」
「違うわよ。有料展望台に降りるエレベーターの営業時間のこと」
「それなら、四時か四時半だったかな」
「もう五時半過ぎだから、誰もいないわね」
「あなた。なに考えてるの?私いったの冗談だからね」
「冗談にしちゃあグッドアイディアだな」
「どうするの?」
「彼らに顔を見られてないから、このまま明日のロケ取材に参加して、明日の夜から姿をくらますの。華厳の滝に魅せられて」
「偽装しても警察が滝つぼを探すわ」
「華厳の滝は死体が揚がらないって、あなたいったでしょう。マスコミには顔を出さず名前も変えて仕事するの。変身願望も満たせるし。あ、徐行して。ホテルに看板出てる。曙テレビロケ隊ご一行様って」
「ここで降りる?」
「このまま走ってその右の駐車場に入って」
華厳の滝第一駐車場に車が入って行く。
「雨でよく見えないけれど駐車場はガラガラみたいね、その右側の奥が茶の木平の自然植物園に昇るロープウェイの発着所。もう営業時間は終わってるのかしら」
「たしか五時で終わりだったと思うな」
ライトの先に建物が見え、自然植物園と奥日光大パノラマの立看板が目に入る。
「この防護柵の高さどのぐらいかしらね?」
駐車場と大尻川流域に連なる森との境界の防護柵を車から眺めて友美が真顔で口を開いた。金網の下まで熊笹が生い繁っている。
「二メートルぐらいあるし、上の部分が曲がっているのは侵入防止用でしょ」
「遺書を書いて一日早くおいとこうかな」
「おしゃれも忘れちゃダメよ。死に装束、死に化粧ってね。滝つぼに美人が浮かぶのもいいものよ。まさか、ジーンズじゃねえ」
「靴も揃えて・・あら、私、自分の靴轢かれて潰れたからと思ってそのまま捨ててきちゃった。まてよ、あの車に入ってたんだ。あんた余分にない?」
「一つは持って来たけど余分はないわよ」
友美はそれに答えず、自分の茶のショルダーバッグから奈津子持参の濃紺色ボストンに中身を移し替えている。靴は白に紺のストライプの入ったスニーカーを借りている。
一郎から借りた魚マーク刺繍入りキャップ意外は上から下まで奈津子からの借り物だ。傘も借りた。
「これだと、さっきまでの私とは別人ね。これで名前も変えちゃえば見破られないでしょ。私の濡れた衣類わるいけど預かって」
「じゃあ、ニセ自殺はなし?」
「まあ一晩、頭を冷やして考えてみるわ。とりあえずここまででいいわよ。サンキュウね」
「友美一人置き去りにできないわよ」
「私ねえ。今までも体当たり取材でずい分と危ない目に遭っているけど、やはり奈津子を巻き込むのだけは避けたいんだ」
「だから?」
「彼らの正体が何者かは私も知らないんだけど、奈津子が私といるところを見られたら助けに来たのがバレちゃうでしょ。そしたら狙われるかも知れないからね」
「分った。とりあえず私は帰る。」
「じゃ。ダンナによろしく」
勢いよくドアを閉めたとき、帽子が落ちた。
友美が窓を叩くとガラスが開いた。
「奈津子。おうちへ帰ったら110番じゃなく日光署に電話して。友人が滝に投身自殺するらしいってね。明日の晩だからね」
「忘れちゃうから今晩電話しちゃうわよ」
「殺人を見て追われてケガしたらしいって」
「名前を聞かれたら?」
「匿名でいいのよ。ガセネタでも警察は動くから、その騒ぎで充分彼らには伝わるわよ」
「このあと、どうするの?」
「さっき、奈津子に電話する前に、彼の職場に電話したんだけど今晩、海外出張から帰る予定なんだって。アパートにも留守電入れておいたから」
「彼って?別れたんでしょ、半年前に」
「でも、困ったときの彼頼みよ」
「まだ懲りないで付き合ってるの?」
「付き合ってはいないけど便利屋はあの男しかいないでしょ」
「勝手にしなさい」
車が去った。華厳の滝の轟音が闇に響く。

 

4、再開

 

 

「おい。友美。おまえ今、どこから電話してるんだ。なんだかよく聞こえないぞ」
「なにしてるの?ビール飲んでる?」
缶ビールを開けたらしい。泡の音がする。
「きっぱりと別れたはずじゃないか?」
「再会っていうのもドラマチックでしょ」
達也が舌打ちをした。泡がこぼれている。
「そうやっていつも自分勝手なんだから。オレはもう嫌だよ、振りまわされるのは」
「あら、達也さん。今日は弱気ね」
「香港から帰ったばかりで疲れてるんだ」
「疲れついでに迎えに来てよ」
「どこだ。六本木で飲んでるのか?」
「日光よ」
「ニッコー?銀座のニッコーホテルか?」
「冗談じゃないわよ。都内ならあなたなんかに声をかけないわよ」
「ほう、ご挨拶だな。まさか栃木県の日光なんてアホなこと言わないだろうな?」
「そのアホなところにいるのよ」
「なんで日光なんだ?」
「曙テレビの華厳の滝ロケの取材を女性誌に載せるのね。一日早くきて光徳に一泊したら事件にまき込まれちゃったの」
「どんな事件だ?」
友美が見たままを手短に話す。
佐賀達也にほんの少し反応が出た。
「関西の暴力団がなんでそこにいる?」
「それが、まだ私にも分からないんだけど、日光に大きな利権があるのかしら。ホテルで見かけた人たちのことを従業員に聞いたら、県議クラスの顔役がその中にいるの。なにか変よ」
「記事にするのか?」
「だって人が殺されてるのよ」
「危ないな。これは」
「あら、心配してくださるの?」
「いや、心配なんかしてないさ」
「ほんとに?どうなってもいいの?」
「おしゃべりしてる間に刻が過ぎるぞ」
「じゃあ、来てくれる?」
「行って、なにを手伝うんだ?」
「光徳に私のルノーが置いてあるの」
「それをどうする?」
「一緒に行って乗って帰ってほしいの」
「オレの車は?」
「私が乗って帰る」
「なんで自分の車で帰らないんだ?」
「狙われてるような気がするの」
「罠をかけられたら危険だな」
「だから、あなたに頼むのよ」
「なんだ。オレは殺されてもいいのか?」
「お葬式はちゃんと出すわよ。お金はかけないけど。ちゃんとお墓に埋めてあげるわ」
「なんか嫌な予感がするな。焼却炉で焼かれて湖に撒かれるんじゃ浮かばれないからな」
「そんな相手じゃないから大丈夫よ。せいぜい山に埋められるぐらいだわ」
「いいから早く行き先を教えろ」
「ありがとう。恩にきるわ」
「いいか。これっ切りだぞ。間違っても借りを返そうなんて悪い了見を起こさないでくれよ。迷惑なんだから」
「ほんとに迷惑なの?」
「当たり前だ。いい加減にしないと電話切るぞ!もう他人なんだから」
「分かったわよ」
「分かったら早く居場所をいえ。日光なら二時間ジャストで着く。どこからかけてる?」
「今ね、中禅寺湖畔ホテルのロビー横の公衆電話からかけてるの」
「ホテル?そんなとこ危くないのか?」
「曙テレビ御一行様って玄関先の歓迎看板があるホテル。ペンネームの友田雅美でチェックインしてるからね。社名はエル出版」
「分かった。この真夜中にうろうろしているよりは部屋にいるかホテルのバーで人待ち顔にカクテルでもチビチビ飲んでるんだな。まさかホテルまでは押しかけて来ないだろ」
「そうだといいけど。ギャラは払わないわよ」
「誰がギャラなんか貰うものか。こっちからのしを付けて断わりたいぐらいだ」
電話が切れ、友美の耳に断続音が残った。
山上の観光地は店を閉ざすのも早い。観光客も帰宅を急ぎ、往来する車もめっきり減り店の灯は消え、寂しい町になる。
友美はロビーのソファーに座り、備え付けの木枠に挟まれた新聞を眺めた。受付のカウンターに人がいないのだ。
表に車が停まり、数人の男女が降りた。
「受付はいないのか?」
カメラを抱えた男が友美を見た。その見知らぬ男が友美に声をかけようとしたとき、奥の方から、制服姿の女性従業員がスリッパをパタパタさせて小走りに出て来た。
「いらっしゃいませ」
「双草社という雑誌社だけど、曙テレビのマスコミ取材招待はこちらでいいですか?」
「ハイ。ちょっとお待ちください」
従業員がカウンターの上に宿泊客リストを広げ、社名をチェックしている。
その様子を友美は新聞を横にずらせて眺めた。リストを見れば顔見知りの有無が分かるのだが・・・。
「双草社さまは五階のこの二部屋です。浴室はお部屋にもありますが大浴場は三階です」
「ありがとう。食事はまだ間に合う?」
「ハイ。遅くお着きのお客さま用には和食のお弁当をお酒の膳付きでご用意してございますので、お部屋までお持ちします」
「それは有難い。全員この和室に頼むね」
「それから明朝はみなさま、お早いのでご出発時にお握りをご用意させていただきます」
「何時に?」
「スタッフのみなさまは四時にここを出て準備に入るそうですが、取材の方は滝が止まる三十分前に現地集合と聞いております」
「滝が止まるのは?」
「五時半だそうです」
「明るいかな?」
「四時半頃から明るくなりますが、谷はまだ暗いと思いますよ」
「サンキュー。さあ、ひとっ風呂浴びて一ぱいやろうぜ」
彼らが立ち去るのを見て友美が立ち上がり、カウンターをデかかった従業員を呼び止めた。
「ちょっと、すみませんが。そのリストを見せてください」
社名を見ると取材陣の中に知り合いはいないようだ。
「バーは何時まで開いていますか?」
「土曜は十二時までですが今日は十一時までです。その扉をお入りになって左がコーヒーショップ、右側がバーになっています」
「ありがとう。それからエル出版、二名に増やしてください」
「友田雅美さんで登録されてますが、ご一名さま追加ですか?」
「佐賀達也という男性が来ます。バーで待っていますので声をかけてください」
従業員が部屋割りを眺めた。
「お部屋は一つでよろしいんですか?ツインですけど」
「かまいません。夫婦同然ですから」
昔は、という言葉を友美はのみ込んだ。
スナックバー「ロザ」は賑わっていた。
ビートのきいた曲が流れている。
紫色の壁面にミラーボールが丸くぼやけた七彩の妖しく幻想的な光を投げかけて回る。カラオケで男女が歌っていた。
「待ち合わせに使わせてね」
カウンターの一番奥に座りバーテンの男にチェリーカクテルを注文し、さり気なく室内を見まわす。
入った時は目が慣れていなかったが、目がなじむと、隅のテーブルまでぎっしりと浴衣姿の宿泊客がグラスを傾けているのが視界に入った。
「取材ですか?」
器用に振った手をグラスの上にかざして、ピンク色のカクテルを友美の目の前のワイングラスに注ぎながらバーテンが低い声で囁いた。頬のこけた男で目付きが鋭い。
曙テレビのスタッフらしい男女がかなりノッていた。
外へ出ても遊び場のない山の上の湖畔のホテルでは、麻雀か飲むかカラオケしかない。
貸切り同然の店は、満員御礼の状態で賑わっていた。さすがに芸人揃いだ。
タレントの西隆太郎が率先して司会兼主役でマイクを独占すると、明日の滝つぼ探険隊に参加するメンバーが得意の持ち歌をつぎつぎにレーザーディスクカラオケ機にインプットし、マイクの奪い合いになる。
部屋にいた取材班も徐々に集まって来る。
テーブルもソファーも不足しているからカウンターにも人が群がる。立っている人は誘い合ってダンスを始めた。女性は少ないだけにモテモテになる。友美も踊った。断わり切れずに一人に付き合うと切れ間がなく男たちが友美を誘った。踊ってカウンターに戻り、また飲んだ。
「おう、混んどるな」
酔った洋服姿の男が数人肩をそびやかして入って来ると、その中の一人が入口に近いカウンターの椅子に腰をかけて飲んでいた若者の肩を強く突いた。若者が一回転するようにもんどり打って倒れ、グラスが割れる激しい音がして周囲の騒ぎが一瞬止み、カラオケの音楽だけが流れた。男たちは、見るからに堅気の風体ではない。
倒れた若者が怒った。立ち上がると素早い動作で突き倒した男に殴りかかった。
「おっ。ええ度胸やな」
男が軽く上体をのけぞらせ左拳で若者の右頬を殴り、膝をとばして下腹部を蹴った。
若者が息をつめ、身体を丸めて床に崩れ落ちた。声を出す間もない出来事だった。
「おつぎは誰や」
男が落ち着いた声で暗い店内にひしめいている客を睨めまわした。
当然、黙って見ている男ばかりではない。
「よしっ。オレが相手になろう」
「星野チーフ。止めたほうがいいスよ」
仲間が制止するのを振り切って、中肉中背の男が前へ出た。気負っている風もない。
「お、テツ兄イ、歯応えのありそな奴やで」
一目でヤクザと分かる男たちはニヤニヤしながら腕組みをして成り行きを見守っている。全部で六人だが、いずれも凶悪そうな顔付きで、いざとなれば暴力行為に出ようとする気配はありありだった。
友美は、奥のカウンターからその男たちを見て、カウンターに肘を乗せ頬杖で顔を隠す。
入口からは遠い位置にいる友美の目に男たちの顔が照明の加減ではっきりと見えた。
テツと呼ばれた男は駐車場で見ている。
「お客さん!」
全員が一斉に声の方向を見た。
バーテンが短い手ぼうきと樹脂の塵取りを持ち、一触即発の状態の二人の間に入り、腰をかがめて割れたグラスをゆっくりと掻き集めた。あわてるでなく恐れる風もない。
「早うせんか!」
怒ったテツがバーテンの腰を蹴った。バーテンが少しよろけ折角集めたガラスを床に散らした。バーテンは無言でテツを一瞥し、無視するように再びほうきでガラスの破片を集めた。
「なんや、その目付きは。おのれは客に対してきちんとした挨拶もでけんのか!」
テツの足が風を切りとんだ。バーテンは顔を床に向けたまま軽く腰をひねってその一撃を避け、ほうきの先でテツの足を払った。
テツの足からスリッパがとびバランスを失った身体が床に這った。
その無様な姿を見て緊張していた客が一斉に笑った。中には手を打って喜ぶ者もいる。
激高したテツが仲間をあおった。
それまでニヤニヤして成り行きを見守っていた残りのヤクザが、狼の群れが羊をいたぶるようにバーテンにとびかかり壁際に押し付け、一斉に殴る蹴るの暴挙に出た。バーテンは相手の為すがまま反抗もせず平然と殴らせる。
そのとき、達也がドアを開けて入って来た。達也の目の前になぜか公安部刑事の星野がいる。目が合った。お互い目で頷く。
達也はすばやい動作で男たちの間に割り込む。
星野と呼ばれた曙テレビ側の男が達也に加勢して男たちと殴り合う。バーテンは下がった。
テツという男の右ジャブ左フックが達也を襲い達也が応戦した。乱闘になる。
先ほどまで男たちとデュエットを楽しんでいた女性スタッフやホステスの悲鳴でホテル側責任者も駆け付けたが、ガラス製の灰皿で頭を殴られこん倒した。加害者も被害者も判断がつかない。友美と二人のホステス以外の女性客がバーの外に逃げた。
「テツ。やめんかい!」
大声が響いて、乱闘が止まった。
入口に恰幅のいい和服姿の男がステッキを持って立っている。その後に黒背広姿の数人の男がついている。その男たちは到着したばかりの様子だ。
「あ、海堂先生」
代議士の海堂敬作を見て男たちが下がった。
その時、騒ぎを聞いて曙テレビの責任者の中森平治が入って来た。
「中森部長。申し訳ありません」
星野の一言で曙テレビ側も静まった。
「警察には通報したのか?」
ロケの監督権プロデューサーでもある制作部長の中森が部下に聞いた。ケガ人が出れば当然被害届も治療も必要になる。
「いや。そんな必要はありません」
海堂の秘書が静かに周囲を制した。
「すぐ医者を呼びます。重傷者は何人いますか。治療費はこちらで持ちます」
血を流した者も顔を見合わせた。重症といわれるほどのケガ人は誰もいない。バーテンはすでに黙々と壊れた食器や倒れた椅子などを片づけている。達也が友美の横に来て座った。
乱闘の経緯を聞いた中森が口調を強めた。
「明らかにそちら側に落ち度がありますな」
決然としてヤクザグループを見た。そこには一歩も引かないという強い姿勢がある。
「まあいい。面倒を起こしたこの連中は直接わしとは関係ない筋の者だが、行きがかり上全部わしが被ろう。済まなかった」
海堂は軽くわびて頭を下げ、持ち前の大声を出した。
「さあ。ここはパーッといっぺえやって景気をつけてからお開きにしなさい」
部下が飲みものを注文するのを見届け、ホテル側と曙テレビ側への償いの額までも指を出して示した。意外に芸が細かい。
納得しかねた中森が口を出そうとするのを海堂の秘書が制した。
「私は秘書の内村です。中森さんですか?」
中森がうなずくと、長身の若いその秘書が親しげな笑顔を見せた。目は笑っていない。
「先ほど、当方からの電話を入れた件で直接先生がお話ししたいとおっしゃっています」
いんぎん無礼な態度を表に出さない賢さがありありと見える。いわゆる秀才タイプとでもいうのだろうか。
秘書が右手でさし示した先にはロビーの通路を隔ててコーヒールームがある。
「星野君と原田。あとを頼むぞ。明日早いから適当に切り上げてな」
と、中森が部下に伝えた。
海堂を囲む洋服の一団がバーから出た。内村という秘書がヤクザの中のテツという男に分厚い封筒をさり気なく週刊誌にはさんで手渡すのを、中森の近くに立ち、成り行きを見守っていた達也が見た。バーテンの視線がそれを追う。
テツという男が恐縮した顔付きで頭を三度ほど下げ、仲間で占拠したテーブルに戻り、小声でなにかいい週刊誌を少し開いて見せると下卑た歓声が沸いた。そこだけが陽気になる。
バーを出ようとする中森の左手に友美の手が触れた。中森が驚いた表情で友美を見る。星野が中森の顔を見て大きく頷いた。
中森の手の中に盗聴器の端末がある。
星野がさり気なく達也に近付き、友美の横顔を見ながら肩で達也の肩を押し、小声で「なかなかやるな」といい、そこを離れた。バーテンが鋭く細い目で達也を見て会釈した。

 

5、海堂代議士

 

「ごちそうさま。おいくら?」
「今晩のお代は海堂先生から過分にいただいております」
「また、どうぞ」のホステスの声をあとに友美が達也をうながし、バーを出た。
急がなければならない。
すでにバーの中の客も減り、唯一の女性客が立ち上がったから注目する男もいる。
カウンターにいる時は顔を伏せ、グラスを傾けていたが、帰りぎわの横顔がほんの少し光に浮いた。
「おやっ」という空気が室内に動いた。
「あの二人は取材でしょうかねえ?」
曙テレビの原田というディレクターが外注会社役員の越塚に聞いている。
「あの二人?オレは知らんよ」
「ほら、三年ほど前に雲仙岳の取材に行ったとき、立入禁止のロープを潜って捜査隊の取材をして警官にさんざん絞られた女、いたでしょ」
「そうだったかな」
越塚は関心がなさそうだ。
「あの頃は地方局のメインを張ってた娘で今は週刊誌専門のライターらしいスね。なんで来たんでしょうね?」
「そんなの知るか。ここにいるってことは滝つぼのロケを取材に来たにきまってるだろ」
「うちの提灯記事を書くぐらいじゃたいしたことありませんね」
「涙が出るほど嬉しいじゃねえか」
少し離れた位置でウイスキーのボトルを空けているヤクザグループにもその会話は断片的に届いた。閉店時間の予告もあって軽音楽がBGMとなって室内に流れている。
「夕べ、光徳でみかけなかったか?」
ヤクザの一人が友美に気付いたが、まさか自分たちが追った女とは思わない。
「光徳のフロント脅して見た名はなんや?」
「そや、戸田友美とかちゅう名でした」
「なら、宿泊者調べて来い」
ヤクザの一人が、ロケ隊の取材参加表を見せて貰って戻った。エル出版の友田雅美と名がある。
「雅美やて。友田雅美ちゅう女子やった」
「友田?雅美?上と下で友美やぞ」
「ひょっとして?」
「分からん。もし同じ女子なら、坂の入口、高速道路の料金所と網張ってもキャッチできん訳や。こんなところに潜られとったらな」
「兄ィ。どないします?」
「あの男とできてるんかな」
「戸田友美と同じ女かどうか調べまひょか」
「どうやって?」
「「部屋へ押しかけますのや」
「男がいるのにか?」
「届けものとかいえば」
「なら、やってみい」 友美と達也は半年ぶりの再会だった。
「ありがとう。今日は地獄で仏に見えるわ」
達也を伴ってフロントに行き、備え付けのベルを押して従業員を呼んだ。テーブルカウンターに拡げてある取材受付一覧表を眺めて、ホテルの部屋割り用見取図と照らし合わせる。
コーヒーショップの真上の部屋がいい。
「お呼びですか?」
遅い時間なので案内も男性に替わっている。
「エル社の友田です。こちらの部屋を二階の南館のこの部屋に替えてもらえません?」
「この人が高所恐怖症なもので」
達也が驚いた。今どき五階が怖いという男がいようとも思えない。それでも日曜日の夜は空き部屋が多いのか友美の無理が通り、スイートに近いツインルームの213号室が借りられた。達也は部屋に入るまで友美のこだわりが理解できなかった。
「同じ部屋で泊るの、オレは嫌だぞ」
「泊らないわよ。ちょっと休むだけ」
「そんな目的もあってオレを呼んだのか?」
「どんな目的よ」
「どんなって、アレだろ」
「単細胞、ケダモノ、ブタ!」
「ブタとはなんだ。怒るぞ」
部屋に入ると友美は、気恥ずかし気にベッドをちらちら垣間見ている達也を尻目にさっさとバッグからラジカセを取り出し、イヤホンを外しボリュームを上げた。カセットテープもまわっている。男の激しい口調がとび出した。
『さっきから何回も先生が聞いてるだろ。君たちの目的はなんなんだ?』
『分からん人たちだな。テレビはエンターテイメントなんだ。目新しい出来事を視聴者に提供し、楽しんでもらう。ただ、それだけで他意はない』
雑音がかなり入るが会話は聞きとれる。
「なんだこれ、新手のAVか?」
「もうやだ。達也のバカ。今、この真下のコーヒールームを借り切って代議士の海堂敬作と、テレビロケ隊のプロデューサーが話し合いをしてるんだから」
「なんの?」
「分からないわ。だからこうして聞いてるんでしょ」
「どうやって盗聴マイクを仕掛けた?」
達也は友美の小技に気付かなかったのだ。」
「その男知り合いか?」
「初対面よ。名乗り合ってもいないわ」
「変に思われなかったか?」
「どう思ったかは知らないけど、敵とは思わないでしょ」
その間にも激しいやりとりが続く。
『きみい。長生きしたくないかね』
栃木なまりで「きみ」が「ちみ」に聞こえる。
「あれ?本物の海堂の声か?」
「そうよ。だからただ事じゃないでしょ」
「うん。おかしいな。かなり体調がわるいと聞いていたが、意外に元気そうだな」
「きっと、理由があって仮病でカモフラージュしてるのよ」
「なにを話し合ってるんだ?」
「明朝、華厳の滝を止めて滝つぼに水中カメラを入れるらしいの」
「それが、どうしてまずいんだ?」
「知らないわよ。そんなこと」
激しいやりとりのあと、海堂側が迫った。
『よしっ。手を打とう。じゃあ、滝つぼだけで湖の方は一切手え着けんと一筆書いてくれるな?』
『いや。先生の顔を立てるのは今回だけだ』
その時、室内の電話が鳴った。友美は一瞬表情を強ばらせたが意を決して受話器をとった。先刻までいたバーのざわめきを背景にバーテンの押し殺した低い声が耳に入った。
「今、部屋に何人かゴロツキが行く。戸田友美を探してる。ボロを出すと、二人とも消される。逃げ口は押さえられてるはずだ」
「その人たち、何人ぐらい?」
「全部で五、六人だな」
「ありがとう」
電話を切って、友美が達也を見た。
「五、六人だって、どう?」
達也が首を振った。
「それほどタフじゃない。友美一人でたくさんだ」
替え上衣を脱ぎ、ベルトをゆるめズボンを脱ぐ。
「こんなときに、なにするのよ!」
「いいから早くベッドにもぐり込むんだ。顔も出すなよ。カセットは音を消せ」
間もなく廊下に男たちの気配がした。スリッパを脱ぎ捨て、素足で忍び寄って来るようだ。
ドアを叩く音がする。
「戸田さん。戸田さん。急用です!」
達也が縞柄のパンツ一枚でドアを開けた。
「戸田友美だと。オレも用がある女だ。そいつはどこにいるっ!?」

 

6、マル暴刑事

 

「どうだ穀つぶし。相変わらず税金のムダ遣いやってるか?」
「落伍者の先輩。口だけが達者だと思ったらまだ友美さんに未練たらたら、とり戻し作戦を続行中ですか?」
「余計なお世話だ。口惜しかったらモテてみろ。どうした、返事はないのか?」
警視庁捜査四課いわゆるマル暴の巡査部長赤城直孝が電話の向こうで静かになる。
ベッドから裸の友美が首を上げた。
「どうしたの?赤城さん、黙っちゃたの?」
「いや。どうも誰かいるらしい。ごそごそ話し声がするんだ。ちょっと聞いてくれ」
受話器が友美に渡った。パンツ一枚の達也が冷蔵庫から缶ビールを二本出す。
「赤城さん、お元気?ウン大丈夫。誰を?ええ紹介して・・・・。はじめまして、松木由起子さん?私、戸田友美です。こちらこそよろしくお願いします。佐賀さんに替わるわ」
「なに佐賀さんだ。他人行儀に」
それでも受話器を持つと声が弾む。旧知の間柄なのだ。
「由起ちゃん?とうとう桜田門のお茶くみ卒業か。なに、そこでは赤城がお茶を入れてる?そりゃいい。これで赤城も落ち着く」
相手が赤城に替わった。
「と、いう訳でいつの間にかこうなったんです。一番先に先輩に知らせなきゃと思いましたのでまだ誰にもいってません」
「いや、よかった。ミス桜田門がいつまでも嫁の口もなしでは心配だからな。赤城にはもったいない、せいぜい逃げられないようにしろよ」
「そちらこそ今度逃がしたら終わりですよ」
「余計なお世話だ。それより頼みがある」
「なんですか?急に」
「実は、友美が殺人の現場を見たらしい」
「殺しは先輩がいた一課じゃないスか」
「それが、相手は暴力団がらみらしいんだ」
「だと、いよいよ四課で私の出番ですね。ところで場所はどこですか?」
「奥日光光徳牧場だ」
「ええっ。日光ですか?そんな山奥、栃木県警にお任せですよ。妙な事件に首突っ込むのはご免ですからね」
「なにも、日光へご招待なんて思ってないさ。ちょっとだけ手伝って欲しいだけだ」
「なにをしろっていうんです?」
かなり警戒しているのが口調で分かる。
「日光署へ電話して、光徳のサイゼリアとかいうホテルの駐車場に黒いルノーがあるが、持ち主は事情があって姿を隠してるって伝えてくれ」
「友美さんの車ですか?」
「そうだ。友美が取材で追ってる内に事件に巻き込まれたらしいんだ。どうも、嫌な予感がある。ここにもさっきお客があった」
「日光署は殺しを知ってるんですか?」
「ホテルから一応通報はしてるそうだ」
「それで?どんな予感ですか?」
「赤城、おまえ何か知ってるな。その口調」
「知ってる訳ないでしょ、無茶ですよ」
「なにが無茶だ。組織は手の内にあるはずだ。関西から繰り出している。相手は誰だ?」
「駄目ですよ先輩。こればっかりは公僕としての守秘義務が・・・」
「なにが公僕だ、ムダ飯ばかり食ってるくせに。人の命がかかわってるんだぞ」
「だったら、友美さんにきっぱりと手を引くように伝えてください。これは危いです」
「なんだって?なぜだ。知ってることを教えてくれ」
「これ以上言えません。公安も動いてるんです。公安特捜隊がですよ。内緒ですが」
「公安が?奴らを泳がせてるのか?」
「刑事部では捜査共助課の数人を栃木県警に送り込んでいます。日光は忠さんがいます」
友美が通話の内容を一言洩らさず聞きとろうと達也の顔に頬を密着させている。息遣いが赤城の耳に届いていることなど気にしていられない。達也の表情も険しくなった。
「忠さんが日光か。で共助は栃木だけか?」
「群馬、山梨、長野もです」
きっぱりと赤城がいい切った。そこからは話の進展がない。極秘事項だという。
「じゃあ、一つだけ教えてくれ」
「もう一つも二つも駄目です」
「一つだけだ。保安二課は関係してるか?」
「古い言葉ですね。それなら薬物対策課と言ってくださいよ」
「じゃあそれでいい、どうなんだ?」
「ノーコメントです」
「なぜ駄目なんだ?」
「友美さんに書き立てられたら大変なことになります」
「どうして?」
「熊ん蜂の巣をとろうとしてるのに巣のありかも分からないうちに無防備のまま蜂を怒らせたら、一方的に刺されるだけでしょう」
「そうか。敵は組織なのか」
「もう、これ以上は勘弁してくださいよ」
「分かった。ありがとう。それと、もう一件日光署にいる大沢忠さんに頼んでほしい」
「なんです?」
「友美を自殺したことにしてくれると有難いんだが・・・」
「それは無理ですよ。警察がそんなガセを流せません」
「遺書を書いて滝の上に置くと言うんだ」
「華厳の滝の上?無茶しますね」
「あとで置いて来る。これからどうなる?」
「狙われます。自分たちの敵に対しては彼ら容赦しません。かなり手強い相手ですよ」
「まさか創生界じゃないだろうな?」
「先輩が守ってやるんです。24時間密着で」
「バカな。オレも仕事あるぞ。本気か?」
「ウソです。もっといい手はあります」
「どんな手が?」
「先輩が自首して出るんです」
「なんでだ?」
「友美さんを過って殺害したって・・・」
「なんだと?」
「冗談ですよ。冗談・・・」
電話の向こうで赤城の笑い声が響いた。
「わるい趣味だな。人殺しめ!」
「人殺しは先輩ですよ。私はそれを日光署に通報するだけです」
「本気か?」
「本気ですよ。戸田友美、二十・・・えーと二十六歳は、その仕事振りに反対する先輩が別れ話の末、カッとなって首を締めた。どうです?」
「どこへ出頭したことに?」
「そうですね。先輩が前にいた新宿署はどうです。元部下がたっぷりお礼をしますよ」
「バカ。もっといい手を考えてくれ」
「ま、なんか考えますよ。日光署に出張している大沢忠さんは仲間ですから大丈夫です」
「とりあえず敵はだませるか?」
「友美さんの面が割れてなければしばらくは大丈夫でしょう。家には帰らないで、先輩のマンションに転がり込むんです」
「またケンカばかりになる」
「アイディア倒れってとこですか」
「それと二十六じゃなくて二十八、イテテ」
友美が達也の頬を思いっきりつねった。
「それとな。曙テレビの連中が明朝、華厳の滝にカメラを入れるそうだ」
「マスコミの連中のやることは分かりませんねえ。狙いは何でしょう?」
「なにもないさ。相談してまた電話する」
友美が頬にキスするのが気になるのだ。
殺人者と自殺者が唇を重ねた