第三章

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1、非公式会議

 

虎ノ門に近い大衆割烹『ちか』で非公式の情報交換会が、達也も参加して行われた。
ビール、酒、小料理が出ている。
捜査共助課の大沢忠警部補が口火を切る。
「この度の奥日光光徳山林内における公安部永田巡査部長刺殺未遂事件は、犯人を名乗る地元暴力団組員が自首したことで我々も事件を表に出さず内々で処理していたが、日光関連の事件に新事実が出た以上放置できない」
達也と大沢、赤城の他に公安部三課の斉藤警部補、捜査一課の望月巡査部長が参加している。
「この写真は、雑誌記者をしている佐賀の彼女が必死の思いで撮った写真の一部を引き伸ばしたものだが、永田巡査部長の脇腹に刃物を突き刺そうとしている男は、明らかに、昨年二月に発生した日本自動車工業加藤常務殺害の容疑者、黒崎春吉に間違いない。
共助課では昨年九月以降、特定の思想的背景を持つ政策集団『創生界』が全国各地で教育福祉施設建設のためと称し、強引な手法で用地買収を行っていたことに注目している」
捜一の巡査部長の望月刑事が話を継いだ。
「この創生界は宗教団体ではありません。むしろ宗教を否定し脱宗教を表看板として、現世利益を追求する人間本来の欲求に応える社会改革を目指す過激な政策集団とみられます。
この『創生界』の名義上の代表は政治評論家として著名な藤山泰成氏になっておりますが、ご存知のように藤山氏は病気静養中であり、実際の運営は氏の女婿で、東亜投資ジャーナル社代表の中西洋一郎が引き継いでいるのはご承知と思います」
そこまでは周知の事実だった。
捜査四課の赤城刑事が発言した。
「ただし、この中西もダミーであり、バッグには国政をも左右し得る有力政治家海堂敬作の存在が確認されており、今日の交換会での討議内容も極めて危険な要素を含むことを初めにお断り申しておきます」
赤城が全員に配った黒崎の写真を挙げた。
「この黒崎の所属する六甲会は、創生界の息がかかった関西第二の暴力団です。
しかも、黒崎のバックにいるスポンサーは中西洋一郎関連の総会屋であることは間違いありません。さらに、その総会屋には、政界の大物海堂敬作が付いているのも事実です」
大沢が冷や酒を飲み干して口を開いた。
「以上の観点から本日の議題でもある『見えざる敵との闘い』をいかに進めるべきか、各人それぞれの忌憚のない意見を述べていただきたい。ここにいるメンバーは警察OBの佐賀を含めて奥日光事件に全員絡んでいますしな」
「上司への報告は?」
「とりあえず現場サイドの意見交換会にとどめ、次回改めて正式な課長会への資料を揃えよう」
「と、いうことは自由な発言を認めるということかね。ここではメモなしで」
公安部三課の斉藤警部補が沈黙を破って大沢に聞いた。まむしの斉藤といわれる男だ。
「まあ、そういうことでいいでしょう」
「ならば一言、苦言を呈しておく。
昨年一月中旬、日本自動車の株式総会は五時間にわたって紛糾し、総会屋の激しい攻勢に一人で立ち向かった加藤常務が、総会終了後一ヶ月に及ぶ抗議や嫌がらせとの攻防の末刺殺されたのは、まだ記憶に新しいと思う。
当時、初動捜査から捜一は百人近く出して、犯人割り出しのため犯人が用いたとされる日本刀の行方、遺留品の有無、目撃者の発見などに務めたが実行犯を割り出せなかった。
この事件は総会屋がらみの暴力団組員の犯行と目され、本来は捜四が担当すべきなのにわずか数名の刑事が出張っただけで捜四も逃げ腰、公安だけが深入りして犠牲者を出した。
こんなことで大同団結など無理な話だ。そのうち、黒崎ら一味は公安が挙げてみせる」
「日光署の顔をつぶすのか?大沢の立場はどうなる?」
達也があきれた。そのために刑事部は日光に共助課の大沢警部補を送り込んでいる。
「犯人逮捕をもって事成れりとする捜一と違って我々公安は、犯行の動機や背景にメスを入れ、組織の壊滅を目的とする。身代わり犯の出頭で万才を三唱しているような捜一とは次元が違うのだ。ましてや捜四など」
まむしの斉藤は酒ぐせもかなり悪い。
達也の後輩で捜査一課で切れ者の望月が怒った。目が据わっている。
「マムシの先輩。そりゃ少しいいすぎだ。公安は秘密主義で情報を一切流さず我々の捜査の頭をハネる。少々セコくないですか?」
「なんだと、もう一回いってみろ!」
「まあまあ、斉藤も望月も落ちつけ。いいじゃないか。こうして集まったんだから」
達也がなだめ役にまわり、酒を注いだ。
公安と刑事部が同席で飲むとこうなる。
これで彼らの口論は収まったが毎度のことなのだ。ときには飲み屋で始まった口論の結着を剣道や柔道の試合でつけたりする。
「ところで、大沢。今日の趣旨はなんだ?」
斉藤が静かに聞いた。酔っていないのだ。
「じゃあ。本題に入る。みんなの知恵を借りたい。創生界は奥日光に武闘訓練所を作った。
日光に単身赴任で出張して気付いたのは、栃木県北部の宇都宮東地区塩原、那須は渡部三千造だが、宇都宮西部から鹿沼、日光にかけては海堂の地盤看板カバンが効いていて、日光署ではなかなか思い切ったメスは入れられない。宇都宮中央署も同様だ」
「アメをしゃぶらされてるのか、札束か?」
「いや。栃木県警内部に不正はない。日光署長の刈谷警視もなかなかの人物だし、部下もいい。ただ組織として動くには相手が大きすぎて栃木県警だけでは手が出せない」
「なぜだ?」
「永田刺傷で自首した男は、地ゴロの栃内組だが、これを傘下に収めた関西の六甲会のスポンサーが創生会、この組織力は今や警視庁を抜いている。公安ではどう見てる?」
大沢に声をかけられて斉藤が応じた。
「刑事部は共助課の職員を関東近県各県警に送っているが、公安部は当然、各地区の創生界の心臓部に潜らせて今必死でウラをとってるところだ。日光の場合は永田が見破られてやられたが、めったにヘマをやる男じゃないだけに今後の秘密保持が重要になって来ている。今は、誰がどこに潜り込んでいるのか、公安でも直接の上司意
外知らないのだ」
「工藤殺しをどう見てる?」
「プロの仕事じゃなきゃ、鋭利な刃物で一突きとはいかんな。だが、日本自動車工業の加藤常務、永田をやった男とは違う。手首まで切って芸が細かい。佐賀、誰がやった?」
斉藤警部補の言葉に全員が一瞬驚きの表情を浮かべ達也を見た。達也と工藤の関係を知っているのだ。達也が返答に窮した。斉藤が続ける。
「工藤は、短い期間だが佐賀の下で働いていた。新宿時代、巡査だったが。都議選の違反がらみで賄賂を受けたとの冤罪に嫌気をさして退職し、大学時代の先輩である内村を頼って海堂の第二秘書になった。多分、内村が自分の立場を侵されたか、秘密を握られたかで誰かに殺らせた」
「少し違う」
達也が口を開いた。
「工藤は、警備会社メガロガに勤めようとした。オレを頼ってきたのだ。そのあと、内村から声がかかって海堂事務所に就職したのだが、聞いた話だと、工藤の父親も政治に関係していたらしい」
「工藤とは情報交換はあったのか?」
「就職した当時は多少近況報告めいたことはあったが、最近はまったく音沙汰なしだった」
「自殺ということで処理されたらしいな。胸に刃物を当て、岩につっ伏したとか」
「バカな。自殺した男を真夜中の滝の上まで引きずったのか。藪の血痕は工藤のだぞ」
「そうだ。自殺などあり得ない。鑑識医の表現を借りると、刃先の入り具合からみて左利きの可能性もあるというし」
大沢が、横やりを入れた。
「斉藤、おまえ、なんで工藤殺しにこだわるんだ?」
「理由はある。一つは、創生界の殺し屋全員の名前と、その中に左利きがいなかったかどうかということ。これで、プロの殺し屋集団の顔ぶれが再確認できる」
「テツ・・・」
達也が呟き、斉藤が反応した。
「佐賀。おまえ、今、なんていった?」
ハッとしたように達也が口を開いた。
「左利きだ。テツって奴とやり合ったんだ」
「それだ。高山鉄次だ。左利きだったのか」
赤城が驚いたように二人を見た。
「捜査四課のリストに載ってる男です」
「結論を出そう。もう野放しに出来ないな」
斉藤警部補が全員の顔を見て提案した。
「機動隊を動かし栃木県警と組んで、雛が育たぬ内にガサ入れするよう上申しよう」

 

2、議員会館

 

千代田区永田町一番地にある衆議院第一議員会館は衆議院議員の公的事務所として部屋が割り当てられ、同じつくりの同じ大きさの部屋をそれぞれが机、家具、備品等まで個性を出して使用している。
ある議員は絵を飾り、ある議員は書物に埋もれ、ある議員は地図を貼る。
共通なのは人口の扉を開くと、受付を兼ねた秘書の机があることで、この秘書を見ただけで、その時のセンセイの状態が読みとれる。
明るくさわやかな美人秘書が、週刊誌などを広げているだけの議員事務所であれば、花なども飾られて議員センセイもニコニコ顔で来客を出迎え、茶菓なども出る。
しかし、衆議院議員定数511名の内、明るくさわやかな美人秘書を抱えているセンセイはそう多くはないが、その逆は多い。その代表が海堂敬作の事務所だった。
女性週刊誌『イブ』の女性記者、寺崎香代子が海堂事務所を訪れたのは、華厳の滝のロケが終わった翌々日、海堂敬作の秘書の自殺が報じられた翌日だった。
その前日の朝遅く、香代子は電話でベッドから叩き起こされた。夜更かし朝寝坊が身についている。
「今、何時だと思ってる!」
香代子は、鬼より怖い、その名も鬼沢というデスクの鬼瓦のような顔を思い浮かべながらベッド脇の時計を見た。
「まだ、九時半ですけど?」
「まだ九時半だと?ニュースは見たか?」
「ニュースって・・・。今、電話で起きたばかりですけど」
「じゃあ、教えてやる。おまえさんのレポートだと、華厳の滝の滝つぼに女の自殺死体があるわけだったな?事故でケガしてとび込んだ」
「そうです」
「それは、警察でも認めたのか?」
「警察でもなんとなく認めていました」
「あいまいだな。とび込んだ女がロケのカメラにゆらゆらと映ったと書いたな?」
「ええ。はっきりはしませんでしたが」
「遺書はたしかなんだな?」
「ハイ。その女性は事故でケガしています。」
「その女の住所は?」
「調べた通りで、名前は戸田友美です」
「デッチ上げの原稿を書いて給料をもらおうなんてサモしい根性持つんじゃねえよ。いいか、ニュースでな、華厳の滝で釣りをしてた連中が男の死体を釣り上げたって報道してるぞ」
「男ですか?」
「そうだ。海堂代議士の秘書で工藤という」
「でも・・・」
「デモもヘチマもあるか。他殺の疑いもあり、今、日光署で死因を調査中ということだ」
「でも、たしかに私が見たのは」
「またデモか。もういい、原稿がボツだ」
その日は出社もせず有楽町マリオンで映画のはしごをし、珍しくパチンコもしたがたちまち八千円ほどつぎ込み、ミカサ華苑で広東料理を一人で食べ、夜更けて帰宅した。
テレビを見ているとニュースが、華厳の滝で発見された海堂の秘書が遺書を残して自殺をしたと伝え、インタビューが続いた。
画面に海堂の第一秘書の内村雄太郎の端正な顔があり、苦渋に満ちた口調で苦楽を共にした後輩の死を悼みながらも「自殺に追い込んだ責任は自分にある」と、断言した。
「ギャンブルだけには手を出すなと、常日頃からいい渡してありましたが、教育の不徹底によって株にも手を出し、事務所に迷惑をかけたと詫びて彼は死を選びました」
「遺書はあるんですか?」
「あります。彼のアパートから出て来ました。本物は警察が筆跡鑑定中で、コピーはこれです」
内村が示した便箋二枚にせわしなく書き込まれた粗い字の遺書は、キャスターのナレーションによると、こうなる。
「恵まれた環境にあったのに、誘惑に負け投機とギャンブルによる破滅の道を歩んでしまいました。金額は不明ですが、後援者より預かった献金を数年にわたり私物化し、お世話になった海堂先生および内村先輩に多大な損失と迷惑をおかけしたことを深謝します。
また故郷、静岡の地にある両親に。これまでの重ね重ねの親不孝、ゴメンなさい。
保証人になってもらっている友人一同には、ただただ申しわけないの一言です。
今までの人生に悔いはさらさらないが、心残りが一つ、老いた両親に嫁さんを見せられなかったこと、この期におよんで残念です」
このような内容になっていた。
手首を切ったが死に切れず藪の中を這うように滝の上まで行き、胸を刺して滝に飛び込んだという。刃物は多分滝つぼの底だ。
さらに、ニュースは、栃木県日光市のJR日光駅に近い日光警察署の二階の廊下を映し出す。そこには、墨痕あざやかな立看板がある。「華厳の滝変死事件合同捜査本部」とある。「殺人」が「変死」に変わっている。
本部長の刈谷署長のコメントが広報室を通じて発表されている。
「被害者の自殺説が出ても信じるに足る証拠が出るまで他殺の疑いは消えません。しかし、勤務先およびご家族から自殺との報告もあり、とりあえず『殺人』の看板は下ろします」
(あの女性の遺書は一体なんだったのか?)
いつ男と女がすり替わったのか?
寺崎香代子は、海堂事務所への訪問を決意した。
(こうなれば、自殺でもなんでも滝つぼロケにからめて記事にしてやる)
朝八時すぎに目覚め、九時ジャストに、調べておいた議員会館の海堂事務所に社名と名をいい、内村へのインタビューを申し込む。
電話がようやくつながった。キャッチホンらしく乱暴な男のだみ声が響いた。
「今、話し中、あとでかけ直してください」
工藤の死で事務所はかなり混乱している様子だった。
十分ほどを経て香代子はまた電話を入れた。
「さっきはわるかったね。用件は?」
「女性週刊誌『イブ』の寺崎といいますが、内村さんに工藤さんの件でインタビューをお願いしたいのですが」
「その件なら全部お断りしています」
「一昨日、華厳の滝に入った水中カメラで死体を見たんです」
「なんだって?ちょっと待って」
男が受話器の通話口を手でふさいで、短いやりとりをする気配があった。
「お待たせして済みません。内村のスケジュール無理いって空けさせます。午前十一時に議員会館の海堂事務所へ来てください」
寺崎香代子の胸がときめいた。
総理官邸寄りの二つが衆議院第一、第二議員会館、その隣りが参議院議員会館で、香代子は第一の会館を訪れた。議員会館はほぼ同じ形の建物が三つあり、一階の受付カウンターの上に議員名と部屋のナンバーが羅列されている。面会票に相手と面会者の必要事項を記入して提出すると、制服を着た警務職員が事務所に電話を入れ、
面会の承諾を確認する。
面会がOKとなると、玄関ホールから少し高くなっている一階への階段上でその面会票を警備員に見せ、退出時に面会相手の記名入りの面会票をそこで手渡す仕組みになっている。
一ヵ所だけ記入して、軒並み訪問することも可能だから殆んど形式だけといっていい。
「おはよう。私が内村です」
気さくな態度で内村が手を出した。
握手は意外に力強く意志の強さを感じさせる。香代子は内村の冷たい目を見つめた。
(野心家)
これが、内村雄太郎の第一印象だった。
インタビューはスムーズに終わった。
「そうですか。女性の遺書をねえ」
内村雄太郎は、食後のコーヒーを楽しむように口にしながら香代子の話にあいづちを打ち、その労をねぎらった。
「さすがに女性ジャーナリスト、見る目に細かい配慮がいき届いていますな」
議員会館の食堂では「お口に合わないでしょう」と、運転手付きの専用車で赤坂のプリンスホテルのレストランに香代子を誘った内村は、ランチタイムにもかかわらずスペシャルメニューのフランス料理をフルコースで注文し、見事な健啖ぶりでそれを平らげた。
「無理しないで遠慮なく残してください」
香代子が少しずつ残し始めたのを見て、内村がやさしくフォローした。
食事中も、香代子の一言一言を反復しながら思慮深そうに考えている内村の表情に、香代子の仕事ぶりを理解しようとする気持ちが見えていた。
食事中の中頃までは寺崎さんと呼んでいた香代子への呼びかけが、デザートの出る頃には、ごく自然に「香代子さん」になっていた。
「今まで誰にも言っていませんが・・・」
と、前置きをして内村が話し始めた。
「香代子さんとこうして一緒にいると、初めてお会いしたような気がしません」と、いい、内村は「秘密ですよ!」と念を押した。
「実は、工藤は女優の高原ひとみに恋をしていたのです。彼女が宝塚時代の人気絶頂期にアルバイトでボディガードを務めて以来、強いあこがれを抱いて来たようです。
ボディガード派遣の専門会社メガロガ、そこに就職するつもりになっていたようですが、女優への派遣なしと知ると、先輩にあたる私を頼って来て就職しました。政治家と芸能人のつながりの深さを考えたフシもあるんです」
「実際に政治家のパーティーなどに参りますと、芸能人の方が多いようですね」
「でも、それはビジネスなんです。事務所を通じてきちんとギャラを払うから拘束できるんで、よほど深い関係にないとそう自由に交際できるものではありません」
「工藤さんはどうなったんですか?」
「元来が彼は体育会係出身ですので、百の理論より一つの実践タイプなんですね。私らに内緒で高原ひとみにファンレターを出し続けていたそうです。あちらとしては、ファンの一人として考えますので代筆などで適当にいいように返事をしていたんです」
「それだとエスカレートしますね」
「そうなんです。彼は返事が来るたびに字体の違うことなどに気がつかず、すっかり舞い上がってファンレターがラブレターになり、とうとう引退公園に駆け付けたんですが、とり巻きががっちりとガードしていて会えなかったんです」
「それで失望して?」
「いや、その程度であきらめる男ではありません。前にアルバイトで働いたことのあるボディーガード派遣会社の社名を用いて、自分を高原ひとみの所属する会社に売り込んだのです」
「それでどうなりました?」
「念願がかない、新宿大劇場での高原ひとみ宝塚退団一周年記念公演にボディガードとしてうまく仕事が入りました」
「するとこちらのお仕事は?」
「母親が急病ということで休暇をとり、郷里の静岡に帰ったことにしました。それはウソだったのですが」
「そうまでして会いたかったんですか?」
「あの工藤がそこまで思い詰めるのはよほどだったんでしょうね」
「どうなりました?」
「もうたまらないほど好きでしたから、楽屋裏で挨拶したときに、これまでの手紙のやりとりのお礼をいい、つい肌に触れたんですね。それが大騒ぎの元なんです」
「肩あたりに触れたんでしょうか?」
「真相は藪の中なのですが、彼女のマネージャーが事務所に報告したところ、プロダクションの役員が大げさに騒ぎ立てて告訴も辞さずとなりました」
「濡れぎぬかも知れませんね」
「とばっちりで迷惑をこうむったのは工藤が前にバイトしていたボディガード会社だったんです。彼はすでにその会社と無縁であるにもかかわらず、プロダクションはメガロガの信用で採用したのだから責任をとれと迫ったのです」
「プロダクションも無理をいいますね」
「当然、メガロガの田島という社長が、工藤の勤務先であるこの海堂事務所にクレームをつけてきました。でも彼は退職してます」
「えっ。秘書じゃなかったんですか?」
「事件の起こる半月ほど前からバイトに切り替えてました。それまで、その件については知らなかったし、工藤はそのまま休んでいましたから、母親の容体が思わしくないとばかり思っていました」
「どこに行ってたんですか?」
「ギャンブルです。工藤としてみると自分の不始末の片を自分でつけたくてサラ金から金を借りて、五十万円を示談金として持っていったそうです」
「五十万円もですか?」
「そしたら、鼻の先であしらわれ『一千万円出さないと海堂事務所の名を出すぞ』と、脅されたのです」
「一千万円は半端じゃないですね」
「まあ、少しお灸をすえるつもりの冗談だったんでしょうが、それで、彼は五十万円から始まって借金を重ねた挙げ句、うちの事務所と親しい創生界から海堂先生の名前を使って一千万円借りたが、示談も進めるでなく返済もせず、またギャンブルで使い果たしてしまったんです」
「触れた、触れないで怖いものですね」
「事務所、プロダクション、メガロガ、サラ金に追い詰められ、彼は死を選んだんです」
「そうまでしなくても・・・」
「そうなんです。私が口をきいて一つずつ話をつけるつもりでいたところなんですがねえ」
「海堂先生はご存知なんですか?」
「いや。この程度のことは先生の耳に入れませんよ。先生が動くのは億の金が入るか出るかするときです」
「曙テレビのロケの前夜、中禅寺湖畔ホテルに海堂さん、見たそうですね」
「どうしてそれを?」
「私は部屋にいましたが翌朝、取材陣やスタッフの間で話題になっていました」
「そうですか。私も一緒に行きましたが、曙テレビの中森というプロデューサーに用があったのです」
「億単位のお金が動くお話ですか?」
内村の口元の笑みが一瞬消え、コーヒーカップを持つ手が止まった。しかし、それも香代子に気付かれないほどの短い時間だった。
「メディアの扱い方についてレクチャーを受けたんですよ。たまたま私たちも選挙区に戻って後援者と日光で食事をしてましたからね」
「ホテルのバーでスタッフとヤクザがもめたとき、海堂さんが仲裁されたそうですね?」
「仲裁というほどのものではありませんよ」
「でも、関西のヤクザがペコペコしてたと聞きました」
「それは、なにかの間違いですよ。飲食代を海堂事務所がもったのがカン違いの元ですかね。あれも工藤の借金の取り立てから出来た縁で、工藤がいなければ関係ないんです」
「工藤さんの自殺、書いてもいいですか?」
「どうぞ。事務所と私の名さえ出さなければ」
香代子は握手をした内村の手のぬくもりをそっと胸に寄せた。自分だけの記事が出せる。
香代子が玄関を出て振り向くと、内村がまだ見送っていて軽く手を振った。
帰路、内村雄太郎は自動車電話を用い、毅然とした口調で部下に指示を出した。
「工藤は借金と使い込みで追われ自殺したことになる。一千万ほど裏金をつくれるぞ」

 

3、男と女

 

「借金苦による工藤の華厳の滝自殺をリークしたあなたの記事、迫力ありましたよ」
ネクタイを結ぶ手を休めた雄太郎の、鏡の中の顔がベッドの香代子を優しく見つめた。
内村雄太郎は、県議であった父の死後、弁護士志望の道を捨て海堂事務所に秘書として勤め、八年になる。
東都大学法学部出身のエリートで、地元に貢献した父の人脈にも恵まれて年を追うごとに頭角を現してきた。
今では海堂の第一秘書として、金庫から後援会まで全てを見ていた。いずれは海堂の地盤を継ぐものと周囲の期待を集めている。
将来を嘱望される雄太郎の夢もまた大きい。
豪放だが粗野な面の多い海堂敬作の陰にあって雄太郎の礼儀正しく節度のある秘書ぶりは、永田町界わいでは評価も高く、議員の間では秘書の鏡とさえいわれていた。
自制心が人一倍強いのか私生活でも浮いた話一つなく、数年前に婚約まで進んだ恋愛が壊れて以来、後援会から推挙される縁談などにも一応は顔を立ててお見合いはするが、それ以上の進展を見ることはなかった。
亡父の後援会がそのままそっくり雄太郎後援会として残り、役者としてもそのまま使えそうな甘いマスクもあって女性会員が激増し、一介の秘書が大後援会を持つという珍現象が話題になっていた。
女性誌記者一年目の寺崎香代子が、雄太郎の甘い誘いに自分から進んで乗ったのも無理からぬことであった。
香代子が議員会館を訪れてから一週間後、コンサートに誘われた夜に結ばれて以来交際は秘密裏に続いていた。
いつか「必ず正式表明する時期がくる」と彼はいい、香代子は半信半疑ながら深い交際にのめり込んでいった。
男と女、それは周囲の思惑や常識を時として逸脱することもある。だからこそ玉の輿という言葉が死語になっていない。
香代子はかつて恋に破れ、結婚より仕事に生きようと考えたこともある。その心が雄太郎に抱かれていると揺らいだ。
(この人に尽くしてみたい)
めくるめく悦楽の歓喜と嗚咽を重ねるごとに香代子は新しい世界を知った。
それは、今までに味わったことのない、魂が宙をとぶ白一色の恍惚の浮遊体験だった。
問われるままに過去を語り、夢心地に今を語る。まるで超一流の催眠術師にかかったように自分をさらけ出している。
一度、帰り支度をした内村雄太郎が腕時計を見て、余裕があったのか背広を脱ぎ、香代子に近付き、頬に唇を寄せた。
香代子は余韻を楽しむようにベッドで目を閉じた。唇を重ねる。舌がからむ。
内村が耳許で囁いた。
「あの記事の反響は大きいですね。海堂事務所への問い合わせも結構ありますよ」
「ご迷惑をおかけして済みません」
「例の女性の自殺記事は控えめでしたね」
「あの事件は、刑事さんが記事にしないように、と私に念を押していたんです」
「記事にしないでくれと?」
「事情は分かりませんが、そういわれました」
「変ですね。なにか都合のわるいことでも?」
「私には分かりません。いたずらだったんでしょうか?私は自殺と見ましたが」
「それでも、事故でケガした女性が自殺したという話はかなり広まっていますね」
「真相は警察でも教えてくれないんです」
「とりあえず、すべてが霧の中。それで平和が保たれている場合もありますから」
「ルポライターとしては納得できませんが」
「無理に火種をほじくり出すと大ヤケドをしますよ。香代子さんにだけはケガをさせたくないですから。自殺は事実でしょうけど」
「実は、気になっていることがあるんです」
「どんなこと?」
「私が金網のところで警察に遺書を拾った場所の説明をしているとき気付いたんですが、観瀑台で名刺交換した女性が、友田雅美。遺書の名は戸田友美、なんとなく同一人物のような気がしてならないんです」
「名前は似ていますね」
「ペンネームを使うときに、本名から一字をとることってよくあるでしょ。あれだと思ったんです」
「それで?」
「でも、変なんです」
「なにが?」
「観瀑台で刑事らしい人と親しげに小声で話しているのを再三見ていますし、私がエレベーターホールで遺書を拾ったことを警官に告げたときも近くにいて平気な顔をしていました」
「その人が友田雅美さんですか?」
「ええ。名刺には、フリーライター、友田雅美とあります」
「電話番号と住所は?」
「現在契約中の雑誌社『エル』の住所と電話だけが書いてありました」
「電話番号は今、分かりますか?」
「ハイ。雑誌関係はノートにあります」
「戸田友美と友田雅美が同一人物であるかどうか問い合わせてくれますか?」
香代子は下着のままハンドバッグからノートを出し雑誌社名簿からエル出版を拾い出し、ベッド脇の電話を用いて、ナンバーをプッシュする。女性が出た。
「ハイ。エル出版編集部でございます」
「寺崎と申しますが、戸田友美さんを・・・」
「戸田、ハイ。友田雅美さんのこと?・・・」
電話が保留になりチャイムが鳴った。
男が出た。
「名前が似てるからか、問い合わせが多くて参っちゃうよ。うちの仕事をしてるのは友田雅美。あ、そうそう、戸田友美って人は四月下旬から行方不明ということでね。自殺したことになってるんだけど。あんた誰?」
「寺崎香代子といいます。自殺はウソ?」
「あ、ちょっと待って」
電話の相手が替わって友美本人が出た。
「寺崎さん。お元気?友田雅美です。日光でお会いしてあれっきりですわね。お会いして食事をするつもりがのびのびになっちゃって。今、どこにいるの?」
「ちょっと、仕事中で・・・」
香代子はスリップの上から空いている手で胸を押さえ、ふと自分を恥じた。
「そう。お忙しいんでしょ。あなたの記事読んだわ。
華厳の滝で発見された海堂敬作議員の元第二秘書の工藤和彦は、ギャンブルにのめり込み、多額の借金をして追いつめられた末の投身自殺。遺書の女性も自殺だ?迫力も説得力もある記事でした。でもね寺崎さん」
「ハイ」
「ルポを書く以上は、真実を追い求めることをしないと失敗しますよ。人の話をまとめるだけでは真相が分からないときもありますでしょう」
「でも、私は真実を知ったのです」
「例えば、あなたは遺書は見たけど、遺書を書いた本人は今こうやってあなたと話してるでしょ」
「やっぱり。ひどいわ。私が遺書の紙片を警官に渡したとき、あなたは黙って見ていましたね」
「ごめんなさい。いろいろこみ入った事情があって、これ、内緒にしてくれる?」
「ずい分と、ひどいことしますね。本当のことをいってくれればよかったのに」
「じゃいうわ。工藤は自殺じゃないのよ」
「え。どうして?」
「あとでまた電話ちょうだい」
受話器を置いて香代子は内村を見た。
やさしく肩を叩いて内村は先に部屋を出た。
内村は車内から部下に指示を出した。
「友田はやはり戸田友美だ。女を消せ。それから寺崎香代子も用済みだ。変な記事を書かれる前に始末しろ。先生の名に傷がつく」
内村は目をとじ、端正な顔に戻った。

 

4、彼らの狙い

 

「どうだ。旨いだろ」
友美の反対を押し切って、赤城と松木由紀子を招いての夕食会でスキヤキを主張した達也は、ホストを任されて汗だくで肉や野菜を鉄鍋に運びながら負け惜しみを口にする。
「ねえ。達也さんてわりとスジいいでしょ」
友美が、ニコニコしながら由紀子と楽しそうに食べ役にまわり同意を求めている。
テレビでスキヤキのタレのCMを見て「スキヤキにする!」と叫んだのが運のツキ。
「お任せします」といわれて一人で材料を揃え、腕を振るったのはいいが、都会の安マンションで風のない梅雨前の初夏、扇風機が多少は熱を散らす。女性二人に加えて赤城も手伝おうとしない。しっかりとビールの空き瓶を増やしていた。しかも、ねぎと肉とシラタキをしっかりからめて口いっぱいに頬ばりながら納得したように頷
く。
「なるほど、男ヤモメは料理が上手・・・か」
聞きとがめた由紀子が友美に質問した。
「男って一人暮らししたがるの?」
友美も返事をしかねた。男性心理にそれほど詳しくない。それでも一応先輩づらをする。
「本当は一人じゃ寂しいのよ」
赤城が酔いがまわり始めたのか抵抗する。
「さみしかないっすよ」
「あら、じゃあ、由紀子さんとの結婚延期する?」
「とんでもない。今日、お二人に媒酌人をお願いすることになってるんですから」
「でも、私たち正式の夫婦じゃないのよ」
「そんなの、明日の月曜日に役所へ届けてくればいいじゃないですか」
「そんな簡単にいかないのよ」
「なんでですか?」
達也が汗をふきながら弁解する。
「オレがバツイチで、友美が旧家の一人娘。親からみると故郷へ帰って堅気の男を養子に迎えてほしいそうだ」
「なるほど。先輩みたいなヤクザな男じゃね」
「なにがヤクザだ。赤城とどう違うんだ?」
「ボクは公務員ですよ。今のところ地方公務員ですが、昇格すれば国家公務員です。先輩は重役待遇とはいえ、ただの警備員ですから」
「だからなんだ?」
「寄らば大樹のかげってことですよ」
「なにをいうか。人の命を守る職業としての誇りは今の仕事の方がはるかに上だぞ」
「ボクもそう思いますが一般の人には分からないことですよ」
「いいのよ赤城さん。あきらめてますから」
「もっとも先輩なら引く手あまたで仕事には困りませんがね」
「仕事のことばかりで私のことなんか考えてないみたいですから。それも危険な仕事ばかり」
「なにが危険だ。友美の方がよっぽど危ない橋を渡っているじゃないか」
達也がボヤいた。
「そういえば・・・」
赤城が思い出したように達也の顔を見た。
「友美さんがきっかけをつくってくれたおかげで警察庁上層部でも創生界の動きに注目し公安の内偵が進んでいるようです」
「それで?」
「永田、工藤事件どころじゃなくなってますよ」
「どうしたんだ?」
「スタートの投機集団時代は、せいぜい企業買収と総会屋グループのまとめ役だった中西洋一郎の東亜投資ジャーナルが、創生界を開設して一般の法人個人から資金を集め出してから急テンポで組織が拡大してるんです」
「そんなことは誰だって知ってるさ」
「確証はないんですが、各地で創生界に入会した老人などの失踪があい次ぎ、その直前に土地、財産を創生界に寄贈し法的手続きが完了しているという奇妙な共通点があります」
「殺人か?」
「分かりません。それと、武装集団を育成してるという噂があります」
「武装?なんのために?」
「なんのためかはまだ内偵の段階ですが、武器の調達については、北方漁場でロシアと漁船を使ってバーターをしているらしく、どうやらその物々交換用に質の悪い麻薬を製造しているそうです」
「まさか?」
「公安が情報を隠してるんでまだはっきりはしませんが、薬物対策の連中が総出動ですから、この噂は間違いありませんね」
「永田刺傷の真犯人逮捕はどうなる?」
「やりますよ。あのとき永田とやり合った三人と、私刑を命じた中西に令状をとります」
「工藤の件は?」
「これは今、調査中です。誰が何のために工藤を殺したのか。ほぼ解明されていると思います。ボクは、内村が消したと思っていますが」
「根拠は?」
「立場ですよ。内村は第一秘書として好き勝手な行動をとっていますから。秘密を握られたんじゃないでしょうか?」
「どんな?」
「そこまでは知りませんよ。カンだから」
「ねえ。仕事の話なんかやめて由紀子さんが腕をふるったデザートをいただきましょうよ」
友美が、見事に空になったスキヤキの鍋をテーブルから運ぼうとすると、達也があわてて箸をのばし、焼け焦げて丸くなった残り肉をあさりながら口をとがらせた。
「おまえな、仕事の話をするなっていうが、切っ掛けは光徳事件なんだぞ」
「でも変ねえ。私が撮った写真に写った人はまだ捕まらないの?あの刺す寸前の」
「顔の写った黒崎は短刀を振るったが刺さなかったといい、顔の写っていない二人の内の一人が自首して犯行を自供したんだ」
「じゃ、写真がウソを写しているの?」
赤城が思い出したように口をはさんだ。
「そういえば、大沢忠さんが来週、日光に私を呼ぶっていってました。佐賀さんも日程の都合がついたら一緒に行きませんか?」

数日後、達也と赤城は宇都宮にいた。
「栃木県警はなぜ黒崎を野放しにしてる?」
冷やのコップ酒を傾けながら警視庁公安部公安三課の斉藤清二警部補が口を開いた。
日光署内での会議が終わり、宇都宮市内の小料理屋『おしの』に集結した警視庁刑事部の共助課大沢警部補、捜査四課の赤城巡査部長、それにすっかり日光づいた佐賀達也の東京組。
『おしの』の常連、羽根警部補と宇都宮中央署常駐の栃木県警察本部刑事部捜査一課の武藤警部補の栃木組、六人が日本酒、ビール、水割りとそれぞれ勝手に飲み、勝手に喋っている。
斉藤の疑問に県警の武藤警部補が答えた。
「六甲会の息がかかっている黒崎の身代わりに、六甲会と手を結んだ地元栃内組から永田刑事を刺したという男が自首し、凶器も出て一応辻つまが合っているんです」
「ふーん?」
斉藤警部補が蕗の煮物をつまみながら鼻であしらった。公安はなかなか本音をいわない。
「斉藤さん、なにがおかしい?」
羽根警部補がとがめた。
「羽根係長。失礼ですが、あんた、栃木県警公安部の主任クラスの顔と名前を全部いえるかね?」
「春の移動で大幅入れ替えがあったので、半分ぐらいは知らないですが・・・」
「海堂事務所の連中に知られた顔は全部外したはずだよ。県警もなかなかやりますぞ」
「どうしてそれを?」
「公安には公安のやり方がありますからな」
「警視庁と共闘ですか?」
「いや。狙いが違うからね。今まではお互いに隣り合っても知らぬ振りだった。永田が連れ去られたとき、県警の公安は駐車場で拉致を見送り、黒崎の逃亡を助けている」
「バカな。それでは公安が殺人を幇助してるんではないですか?」
「いや。その刑事はすぐ本部に通報してるんだ。ホテルから110番が入ったより早かったはずだな。だから永田刑事の生命は助かったじゃないか」
「通報じゃなく救助できなかったですか?」
「多勢に無勢じゃね。それに、公安はこういう機会を利用して内部に入り込む」
「黒崎との密着は成功してるのか?」
大沢が聞いた。大沢も初耳だったのだ。
「県警公安部は、永田を見殺しにして借りができたため、今は情報を送って来る」
「と、いうことは、黒崎のアジトも?」
「当然だよ。今は共同でマークしていて、つぎの動きを待っているんだ」
「つぎの動きということは?」と、達也。
「やつは、殺しのプロだぞ。今は、つぎの指令を実行に移す寸前だな」
「今度は誰が狙いなんだ?」
「永田刑事は、まだやつらの実態をつかむ前に潜入をチクられて刺された。とりあえず自首した男を殺人未遂で起訴しはしたが、全体の動きを取材している戸田友美が当然第一ターゲットになっているだろうな」
「やつらには、偽装自殺など効かんですか?」
「大笑いしてるだろ。今、家に帰らず佐賀のマンションに転がり込んでいるのも知ってるはずだ」
「斉藤、なぜオレに言わなかった?」
「今、教えてるじゃないか。お前に知らせるとなにを仕出かすか分からんからな」
「と、いうことは公安は友美さんを見殺しにするつもりだったんですか?」
「分からん。私の担当ではないからね」
「第二ターゲットは?」
県警の武藤警部補が聞いた。県警の公安部からはなんの情報ももらっていない様子だった。
「寺崎香代子だ」
「寺崎?」
「工藤を自殺ときめつけ、かなり詳しくサラ金などを取材し、借金による自殺説を書いた女だ」
「その女なら、よく知ってる」
羽根の声に、赤城と達也が頷いた。
「あと一人、とばっちりを受ける男がいる」
斉藤がもう一人の名を挙げた。
「松山一郎という男だそうだ」
「なぜ?」羽根警部補が妙な顔をした。
「追われた戸田友美に接近してるからだ」
「接近?」と、達也が驚く。
「彼女に惚れたんですな。雅美と名乗ったペンネームと、その後の経緯で彼女を知り、彼女も助けられた恩義があるし、わるく思ってないんじゃないかな。佐賀、気をつけろよ」
「まいったな」
赤城が嘆いた。
「折角、よりが戻ったと思ったのに佐賀先輩また振られるのか。気の毒に」
「ちょっと待った」
県警の武藤警部補が不思議そうな顔で達也に聞く。
「さっき、その友美という女は、佐賀さんと同棲中って羽根から聞いたんですがね?」
「同棲?たしかに一緒の部屋には住んでるんだが」
「一緒に住んでいて知らなかったんですか?」
「達ちゃんには女心は分からんよ」
と、大沢が吐き捨てるようにいう。
「もったいないな。あんないい女・・・」
羽根警部補までがわるノリしている。
「仕事は手抜きしないんでしょうな?」
武藤がまじめな顔で達也を見た。
「オレはいつも真剣だけど・・・」
と、達也。
それを赤城が否定した。
「手ぬるいんです。相手に同情の余地があると逮捕してから庇いだてしたり、出所後の就職を斡旋したり、上司からは公私混同だといつも注意されたり、友美さんにもダメです」
「おや、羽根チョウさんと同類じゃないか。この羽根係長も栃木じゃ有名なんです。捕まえておいて調書をとりながら泣いた話なんかありましてね」
武藤が笑うと、それまで黙って料理を並べたりしていたママの志乃が口を開いた。
「だから、ここにもファンがいるんですよ」
「おや、これはお安くないな」
「あら、羽根チョウさんのファンは宇都宮だけじゃなくて栃木県全域、それも飲み屋の後家さんママに限るって評判なんですよ」
「ほう、そんな評判もあるのかね」
羽根警部補がしらばくれて酒をあおる。
その鼻先にキーを握った志乃の手がのびた。
「私だけカンバンにしますので、朝まででも自由に飲んでってください。いつもの予備キーですけど預かっていただいて結構です」
「よしっ。店の酒、全部飲んじゃうぞ!」
「どうぞどうぞ、いくら飲んでも『今日は会費制だ。一人五千円ポッキリだぞ』でしょ」
「それだけ分かってりゃいうことないや。じゃあ、今、会計を・・・」
「また、無理して。ツケでいいわよ」
「おっ。美人。いいぞ!着物も似合うし」
「じゃ、皆さん。ごゆるりと。子どもが夜泣きするといけないから、お先に失礼します」
「気をつけてお帰り、後家さん」
「わるい男に誘われるなよ」
「いい男でも誘われるなよ」
それぞれの声を背に、ママが去った。
羽根警部補が淋しげに見送り、首を振った。
「さあ。本題に入ろう」
「おや、羽根チョウさん。無理に元気を出したな」
「斉藤さん、まぜっ返さないで警視庁公安部のマル秘情報を話してください」
「日光については地元の方が詳しいでしょうが。
男体山の名が歴史に現れたのは鎌倉時代の1217年、それまでは二荒山、男女二神が現れる二現山、ふたら山などといわれ奈良時代には山岳信仰の対象の山でしたな。
山が噴火したり崩れたりして遺跡の一部は湖底に沈んだが、どうもこの中に超高価な物があるらしく、海堂の狙いはこれらしい」
「そうか。中禅寺湖が事件に絡んでるのか」
羽根警部補が納得したように頷いた。

 

5、危機脱出

 

「こんどのニューフェイス、なかなかいいじゃないか」
「この娘、水商売初めてなんです」
来客の評判はすこぶるいい。
宇都宮市戸祭元町というと県庁、宇都宮中央署、競輪場のある八幡山公園などに囲まれた古い町で、東武線宇都宮駅からも近い地の利を得てかなり密集した一角となっている。
『バー トマツリ』の飾りドアの表に、破いたカレンダーの裏にマジックで「住込み店員募集」と書かれたポスターに釣られたのか、事情あり気な娘がとび込みで迷い込み、そのまま居ついている。身許は免許証が保証した。
その娘はバーの二階でママの菊江と隣り合わせの部屋に住む。
口数も少なく、なんとなく冴えないが裏表なく働くのが一目で分かったから、ママも三人ばかりの従業員も三日もしないうちに「カヨちゃん」の愛称で、すでに身内扱いにしている。こうして、寺崎香代子は宇都宮に移り住んだ。自動車免許証の住所は、両親の住む仙台のままになっている。
香代子は、ルポライターとしての失敗を恥じた。少ない情報に推測を交えて、虚構のドキュメントを記事にしたのが致命傷だった。戸田友美は自殺などしていなかったし、内村から得た工藤の死の裏事情も、認めたくはないが、操作された情報だったのではないかとの疑念がよぎる。
編集部のデスクは当分、校正と雑務に専念するよういい渡した。正社員ではない弱味で、原稿を書かなければパートの時給で残業もないから収入も少ない。
と、なれば、四谷三丁目のマンションでは高くて家賃も払えない。夜のアルバイトをすることも考えた。
だが、香代子の情念は仕事に向いた。
どんな逆境にあろうと一度、ライターを志した以上は初志貫徹、挑戦する心を失ってはならない。
香代子は、戸田友美あてに手紙を出した。
フリーライターの友美は、女性週刊誌『エル』をホームグラウンドにレギュラー執筆者として堅実でタイムリーな情報を読者に提供している。その文章には背伸びをする様子もなく、気負っている姿勢もない。それでも、気にして読み返してみると心を打つものがある。
香代子はそれに気付いたのだ。
それは、戸田友美が自分の目で見た美しさや、心に覚えた感動をごく自然に、淡々とした文章の行間に目立たないように気遣いながら織り込み、さらに鋭い批判精神を随所にワサビのように効かせて筆者の友田雅美に託したのだ。
さすがに過去、テレビの世界でレポーターやキャスターとして磨き抜かれたセンスが文章のあちこちに宝石のようにちりばめられている。そこには真実を見つめる目が生きている。香代子は自分の実力のなさを恥じた。
香代子は悔し涙を滲ませ手紙を書いた。
「私は功をあせり、急ぎすぎました。自分の思い込みが正しいと思いました。しかし、その思い込みが歪められた情報によって操作されたのではないかと思いはじめたのです。
人を好きになることは苦しいことです。
その人のためならどんなことでもしたくなります。それも一つの真実です。そのためにその人のために役立とうとする自分の気持ちと、真実を!と叫ぶ心とが葛藤しもだえ苦しみます。私は今、真実を求めて心の旅に出ます。
友田雅美さんと戸田友美さんが同一人物だと、華厳の滝の観瀑台で知り合った時点で気がつくべきでした。駐車場で拾った遺書も、ただくしゃくしゃに丸めて捨てられていた紙切れをそのままとして受けとればよかったのです。イタズラ書きの紙片としてゴミ箱にポイすれば、こんなチグハグな思いをしなくてもよかったのです。あ
なたは卑怯です。
私は、あなたを恨みます。
自分のことばかり考えています。
あのとき・・・そうです、一言でいいんです。
一言、イタズラですといってくれれば、私もこんな惨めな思いをしなくて済んだのです。
でも口惜しいけど、あなたの華厳の滝のルポ、荘厳で美しい早朝の放瀑シーンが見事でした。私は今、あの滝にとび込みたい気持ちです。
でも、今のままでは死んでも死に切れません。なにかが引っかかるのです」
第一線でバリバリ取材活動をするときの香代子は、ファッションメガネ、ツバの長いスポーツキャップ、派手なスカーフを風になびかせ派手めの化粧、パンツルックも躍動的なスニーカーとフィットする粗い布地にする。ボーイフレンドとコンサートやディナーショーに出かけるときは貴婦人風にドレスアップするなどと、気分やそ
の時の雰囲気でおしゃれに気配りしてもいた。
それが、下働きに近い仕事とはいえ、着のみ着のまま、お化粧っ気抜きの女性がスナックバーにいるのも奇妙なものだ。見かねた先輩の百合という娘の発案で、古衣装を持ち寄って香代子に手渡した。
「これね。買ったときは気に入ったんだけどどうも私に似合わないのよ。カヨちゃんならピッタリかなっと思ったの。よかったら使ってくれないかな。これはアケミちゃんから。このワンピースはサヨちゃんからよ」
高価なものではない。だが、嬉しかった。
辛くても苦しくても理解してくれる人、愛してくれる人がいれば耐えられる。
内村雄太郎は香代子に優しかった。逢えば必ず健康を気づかい励まして抱きしめる。微に入り細に入り心ゆくまで愛して満たそうとしてくれる。
しかし、香代子の仕事上の悩みには冷淡だった。心の通わない愛の行為は惨めだ。
複雑な思いで香代子が、誤った内容の情報を週刊誌に載せた悔いを話すと「フフッ」と冷たく笑った。
「政治の世界では白を黒、黒を白というのは日常茶飯事の出来事なんだよ。ある首相が汚職事件で追いつめられ崖際に追い込まれたときのことです。
東京地検特捜部は、首相の秘書を出頭させて徹底的に絞った。その四日後にその秘書は、手首と首をカミソリで切り、さらにネクタイで首を締め、カーテンレールにぶら下がって自殺した。死ぬ前の日友人に『家族の命が心配だ』と洩らしているんです。
この秘書は、たしかに形としては自殺です。
しかし、脅迫によるプレッシャーが彼を殺したとすれば、それは他殺といえないこともありませんね。でも、この他殺は立件できません。工藤も同じで、誰かが追いつめ圧力をかけたとします。それで、追いつめられて自分の意志で自分から滝にとび込んだとします。
これは明らかに自殺です」
「戸田友美は、自殺してなかったんです」
「ほう。でも、これから自殺することになればあなたの記事は予告になります」
内村が平然といい放った。
内村の本心を量りかねて香代子が聞いた。
「雄太郎さん。私のこと愛してますわね?」
「もちろん。あなたが私に尽くしてくれている内は。でも、あなたの仕事の結果までは心配できませんな」
その夜、香代子は悩みぬき、翌日家を出た。
仙台でタウン誌の編集をしていた香代子が、中央で華々しく活躍する日を夢見て新幹線に乗ったあの日をダブらせて、宇都宮に来た。
あの日と状況が違うのは、胸躍らせるものがなに一つなく、絶望的な暗い落ち込んだ気分の中でメラメラと燃え上がる真実探求の執念だけだった。怨念といい換えてもいい。
今までも何度か日光警察署にも足を運んだ。しかし、マスコミに対してのサービスには限界がある。警察からはなにも出ない。
香代子は、華厳の滝の取材を通じて、日本全体を覆う暗雲の一部がこの日光にも暗い影を落としているような気がしてならなかった。
工藤和彦の死と、戸田友美の偽装自殺、さらには表面に出ずに闇に消え噂だけが流れている光徳の森の殺人未遂、轢き逃げ事件、なにか恐ろしい出来事が起こる予兆ではないだろうか。
香代子は、もつれた糸をあせらずゆっくりと解きほぐすべく、心の整理をしながら生活の態勢を整えた。
真実が見えれば心の霧も晴れる。
香代子は、まだ内村を信じようとしていた。
政治家の秘書の非業な死を語ったときの内村の目には冷たい中にも悲しみがあった。
いつか必ず真実を知るときが来る。
寺崎香代子が休暇届けを出して会社を休み、一人暮らしのマンションを手荷物一つで出奔したのは、友美と電話で話し合った二日後のことだった。

香代子のマンションは、四谷三丁目の地下鉄を出て徒歩二分の便のいい場所にある。
半蔵門から新宿に向かう大通りから一軒分だけ南に入った裏通りにあり、一階が車六台ほどのスペースのある駐車場、その脇の階段を上がった二階の三号室、玄関を入ると右にユニットバス、左にキッチンがあり、その奥に和室六畳、洋間六畳と細長い2Kのつくりとなっている。
車庫に赤いフェアレディが放置されたままということは、電車などで外出中なのか。
深夜、二人の男がその車庫に忍び込んだ。
忍び込むといっても柵もなく、誰でも自由にいつでも入れるところだけに深夜、車を手入れしていても誰も不審に思わない。
新宿、四谷は都会の不夜城で深夜でも人影は絶えない。彼らは、はじめ二階の灯りが消えているにもかかわらずドアを叩いて不在を確かめ、郵便受けに、販促キャンペーンの札を付けた乳酸飲料の五本パックを入れ、車庫に入って車の制動が効かなくなる工作をして姿を消した。彼らはどこかで目を光らせている。
残業から帰って青酸ソーダ入りの飲料を飲めば即死、夜中にドライブすれば交差点で停止できず衝突で大事故。外出から帰ったところを待ち伏せて刺殺という手もある。
しかし、香代子は戻らない。
真実を求める旅に出て危険を逃れたのだ。
香代子は、自分の身に危険が迫っていようなどとは露ほどにも思っていない。
傷心が自分の命を救っていた。
ある夜、乳酸飲料が郵便受けからなくなっているのを暗殺者が気付いた。部屋の中はコトリともしない。
暗殺者は、寺崎香代子の死を確信した。

 

6、殺し屋

 

戸田友美は、結構今の生活をエンジョイしていた。一人よりやはり二人がいい。
殺し屋に狙われるからと、表参道の駅に近い達也のマンションに転がりこんで二か月が立つ。
極めて不自然な共同生活にも思える。
この渋谷区北青山三丁目の達也の住む平和マンションは、かつて結婚を前提として一緒に住んだことのある二人の愛の巣でもあった。
管理人の柳という証券会社を定年退職してこの仕事についた男は、友美の姿を見て、「お帰り」と一言いっただけだったし、その妻にいたっては、「これでまた、少しは部屋がきれいになるでしょ」と歓迎の意を表明した。隣人は友美との再会を喜んでいる。
当の二人はというと、以前にも増してすれ違いの生活が続いている。
ワンルームマンションに間仕切りをおいて友美がテラス側の上座を占め、以前は二人が抱き合って寝たセミダブルのベッドにのうのうと眠る。
達也はというと、キッチン側の狭いスペースで、山歩きで使い慣れた寝袋にパンツ一枚で眠るが、深夜帰って来て熟睡しているうちに袋から全身はみ出して、枕など抱えてだらしなく鼾をかいている。
アラームで起きると毛布がかけられ、ときには頬や額にうすい口紅が付いていたりして、ヒゲ剃りの鏡を見て苦い顔をすることになる。友美の姿は出勤していれば当然ない。
それでも軽い食事の支度があるのは、友美が料理好きなのと、味と栄養に小うるさいことにもある。
キッチンには小テーブルがあり、ハムエッグとサラダなどのシンプルな洋食だったり、味噌汁と焼魚等の和食だったりする。
達也は早番のときは帰って来ない。会社に泊り込むからだ。会社側もいちいち達也に電話をして出勤の催促をするのがわずらわしいから泊りは歓迎なのだ。
二人が揃って朝食や夕食を共にすることは少ない。それでも一人で暮らすよりはいい。
少なくとも部屋の中にぬくもりがある。
そのぬくもりが閉ざされる日が来た。
達也が交通事故に遭遇し、入院したという。
その知らせは、友美の仕事の拠点となるエル出版に届いた。警察からではあったが交通課ではなく、赤城からだった。
電話の口調に緊迫感がない。
職業柄、達也が事件にまき込まれるのは友美にも覚悟があった。しかし、駐車場を出て最初の十字路で一時停止せずに他の車と激突で人身事故ではあまりにも情けない話だ。
赤城が続けた。
「と、いうわけでとりあえず先輩は、瀕死の重傷ということで警察病院に隔離されることになります」
「容体は?すぐ病院に行きます」
「面会謝絶ですが、病院に来るより、まずは身のまわりの物をとりに戻ってください」
「面会謝絶?頭でも打ったんですか?」
「頭を打てば少しは正常に戻るんですが」
「は?口はきけるんですか?」
「さいごに聞いた言葉は、友美さんのことです」
「なんと言ったんですか!?」
「たまには、赤城とお茶ぐらい付き合ってもいいぞっていってましたよ」
「なにをバカなこといってるの、赤城さん。冗談いってる場合じゃないでしょ!」
「あ、そうです。冗談です。ここからまじめに聞いてください。今日暗くなる前、どんなことがあっても、マンションに戻ってください。あわてふためき血相変えて、病院に持ち込めそうなものを持ち出して帰ってください。
いかにも、なにかを取りに戻ったって感じが大切です。五時頃がベストです」
「下着とかですか?」
「瀕死ですからねえ」
「なにを用意するんですか?」
「さあ。とりあえず急いで帰りますから、のどはカラカラになりますね」
「多分、そうなると思います」
「飲みものはなにを飲みますか?」
「とりあえず、冷蔵庫から冷たい水を出して一口飲むと思います」
「その前に、郵便受けを見てください」
「なぜですか?」
「乳酸飲料が数本、冷えたのと絶えず入れ替えて、すぐ飲めるようになっています。販促キャンペーン用クイズ付きです」
「どうしてご存知なんですか?」
「部下が見張って、絶えず報告が入ってくるんですよ。すでに二回入れ替えてます」
「佐賀の容体が相当わるいんで私に気を遣ってくださっているんですか?」
「いえ。これは先輩と関係ありません」
「では、なぜですか?」
「あなた用なんです」
「では、いただいていいんですか?」
「飲む真似だけで、倒れてください」
「どういうことですか?」
「青酸ソーダが入っているからです」
「まさか!?」
「ほんとです。寺崎香代子も仕掛けられましたが外泊中で難を逃れています。夜中に婦警がそっと飲料を抜き科捜研で分析しました。
あなたは、のどがカラカラ。とり出してみたら冷たい乳酸飲料、周囲を見ると誰もいない。
思わず飲んだら、五秒ほどでのどが苦しくなり崩れ落ちるように倒れる。
どこかで見張ってるヤツが確認しに来るか、発見者が現れるのを待っているでしょう」
「それまで倒れているんですか?」
「家に入れば中まで押しかけて殺す手はずになっているはずです」
「そんなの困ります」
「仕掛けたヤツは必ず逮捕しますが、あなたはしばらくそのまま倒れていてください」
「もしかしたらオトリ捜査?佐賀も?」
「衝突したのはスタントマンの車で、先輩も救急車で運びましたがどこも悪くないです。車は少しへこみましたがすぐ直します。おかげで挙動不審の男を調べ検挙しました」
たとえ演技でも毒殺される役などというものは嫌なものだ。
それに、駐車場の汚れたコンクリートの上に倒れるのに新しい服ではもったいない。
友美は正社員ではないがエル社編集部に専用のロッカーを借りている。緊急の取材などでラフな服装が必要な場合があるからだ。
「なんだ。急用か?どこへ取材に行く?」
デスクの加川が、けげんな顔をした。
これ以上は無理という、友美にとってはせいいっぱい汚れ仕事向きの服装でデスクに早退を申し出たのだ。
「雅美。ひょっとしたらまた振られたか?」
「どうしてですか?」
「急にまたイロ気が脱けちゃったじゃないか。それとも、彼の好みがそれか?」
ジーンズのジャケットとロングパンツに紺のキャップと白と紺のスニーカー。これはこれで清潔だが歴史を刻んで膝も抜けている。キャップも紺がグレイに変わり、シューズの白の部分は茶色っぽく見える。工事現場の取材でもこれならすぐ出動できる。
これで布バッグを肩から下げて急いで帰れば、多少は取材途中であわてて帰ったように見えるはずだ。
達也と友美が同居中のマンションは、表参道から五分ほど東に入った路地の奥にある。マンション一階の空間に駐車場があり、駐車場の片側がエレベーターホールになっていて、その右側に郵便ボックスが三段に並んでいる。
友美の愛車ルノーは、鹿沼市の布川奈津子に預けたままになっている。友美は、達也のマークⅡを必要に応じて使っていた。
その車は特別仕様で強化してあるだけに、少々の事故で壊れるようなヤワではない。
ましてや達也が事故で入院などというのは、はじめから妙なつくり話と気づいて当然だったのだ。とりあえず家路をたどることにする。
神田錦町にあるエル出版から地下鉄に乗るときは、神田駅が近いが、この日は遠まわりして竹橋駅に出た。
日本橋川を橋の上から眺めると年々透明度が高くなっているといわれる飴色の川に、緋鯉が見え、足を止めて薄日の下の水面をよく見ると黒い真鯉も群れていた。水は流れている。
何年前になるか。二人はパリにいた。
橋の名はロワイヤル、達也と腕を組み、セーヌの流れを見つめていた。鴎が舞い船が行き交う。左岸にあるオルセーの時計が時を刻んでいた。あのとき友美は二人の愛が水の流れのように永遠に続くものと信じた。
しかし、もう、あの日の二人には戻れない。
愛の絶頂期は持続できない・・・。風が吹いた。
友美は、地下に入らず皇居の方角に歩いた。
道を隔てて、皇居の堀があり白鳥が数羽、涼しげに水面を滑っている。
右手の竹橋から一般の人も皇居内の庭園に出入りできる。ここも以前、達也と一緒に腕を組んで歩いたことがある。今は、無性にあの日が懐かしい。あの愛は戻らないのか。
白亜の城やぐらがいつもよりくっきりして見えた。堀端の柳が強い風に揺れている。
東西線を日本橋で乗り換え、銀座線に乗り継ぐ。
赤城は、敵は必ずどこかで友美の行動を見張っているといい、どんな危機が迫っても身辺に警察の目が光っているから安心するようにと告げた。信じるしかない。
達也まで事故を偽装しているということは、刺客の手を逃れることが出来なくなったことを意味している。警察も陰の行動から勝負に出ざるを得なくなったのだ。
地下鉄の吊革を握りながら、友美は何回も頭の中で小さなポリ容器入りの飲料を飲む練習をしていた。
犯人たちが近くにいれば、キャップを外す手元の動作を見ているに違いない。遠くであれば双眼鏡を使うだろう。家に入ったのを見たら押しかけて来る。あるいは合鍵か鍵を壊して三階の部屋で待つ場合も考えられる。
犯人の隠れている位置に関係なく飲んだ振りで相手を信じさせるには、階段を上りかけて口にあおり、飲料をこぼしながら頭から階段を転げ落ちる手もある。これは、かなり効果的だが本当にケガをする危険がある。
ふと、赤城が告げた飲料のメーカーと品名がひらめいた。同じ品を用意すればいい。
友美は、銀座駅で下車し地下続きのデパートの食品売場に行き、小さなポリ容器五本で一セットの品を購入し、また電車に乗った。
駅を降り、歩き慣れた商店街を抜けマンションへの近道を急ぎ足で歩いた。
人混みはいつもと違う平日の夕刻、つけられている可能性もあるが避けようもない。
ポストをのぞくとたしかに赤城のいう通りに乳酸飲料がチラシやDMと一緒に入っていた。駐車場には怪しい人影はなかった。
(リラックス、リラックス!)
心にいい聞かせ、コードナンバー7を右に二回、左にダイヤルをまわし2に合わせるとキーが外れポストのドアが開く。
からだで一度郵便受けを視界から防いで、ダイヤルが合わないふりをしてガチャガチャとドアをいじる。そのとき、ドアを開けずに郵便を入れるように上の隙間から購入したばかりの乳酸飲料を放り込む。ドアをいじる手に丸めた新聞を持っていて、それが少し開き目になっていて乳酸飲料の投入を容易にした。
ようやく、ドアが開いた振りをし半開きのまま今入れた飲料をとり出し、すぐパタンとフタを閉め、疑わし気にポリシートでパックした五本入りの乳酸飲料を眺め、周囲をうかがう。ハンカチを出し汗をぬぐう。実際に汗が噴き出て、のどはカラカラになっている。
人影のないのを見定めて外装を破り、まず一本のフタをとる。
いかにも旨そうに一本を一気に飲み、二本目もフタを外し、口許に運び半分飲む。
冷たいから実に旨い。もっと飲みたいところを我慢して、手から妖気を放ち、よろめく。
「ウッ!」
と、呻いてのどを掻きむしる仕草をし、痛くないように膝から腰と体をひねるように布製ショルダーバッグを下にコンクリート床に倒れ伏し、手足を少し痙攣させてから薄目を開けて手足の動作を止めた。こぼれた乳酸飲料が頬に付いた。われながらいい演技だ。
友美の動かなくなったのを見定めたのか駐車場の車が一台、エンジンをかけると同時に路地にとび出した。
やがてパトカーの警報があちこちから聞こえ遠のいて行った。
友美は、そろそろ起き上がりたいのだが「絶対にOKを出すまで起きないで」と、赤城にいわれたのを思い出し、じっと我慢をしている。乳酸飲料の甘みに誘われた蟻が一匹二匹と目の前にちらつく。それが手に触れた。
思わず手を引っ込めようとしたとき、人声がした。このマンションは昼間は誰もいない。独身者と共かせぎだけでセールスもまず来ない。
階段の踊り場で足音が動いた。二人組か。
「サツはいないようだな」
「女はメンだけ確かめ、脈があったらのど笛切っとくか」
小声だが、床に伏せた友美の耳には届く。
鏡を階段にセットして望遠鏡を用いて友美の様子を監視していたらしい。
このままではまずい、逃げなければ。
起きようとするが腰が抜けたのか動けない。
(殺される!)
友美の心を恐怖が襲った。
「動くな!黒崎春吉!」
赤城の声だ。
「殺人未遂の現行犯だ!」
頭の上で拳銃が火を噴き、応戦の銃弾がとぶ。男が一人、友美の上に倒れ血が流れた。
赤城が抵抗する男にとびかかって行く。
泣きじゃくる友美を達也が抱き起こした。