第五章 

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1、復讐

 

寺崎香代子が宇都宮のバーで働きだしてから十日余りを経た。競輪帰りや常連の客も帰った後、ママや同僚とソ-メンを茹でて氷を浮かべ夜食をとろうとしたとき、ドアが開いた。
長身のやせた男がのっそりと入って来た。
「あら、竜二。お店閉めて来たの?」
ママの菊江が心配そうに聞いた。
「竜ちゃん、ここへおいでよ」
小夜という女の子がサッと香代子との間に席を空けイスを勧めると、他の仲間が文句をいい「ジャンケンをしよう」といった。
その結果、小夜が勝ち、彼女の思惑通り、竜二は小夜と香代子の間に座った。
「乾杯しようか?」
「竜ちゃんの顔みたら飲みたくなったわ」
無愛想な竜二を囲んで女たちがはしゃいだ。
やはり、女の世界に男が一人でも入ると雰囲気ががらりと変わり、座も盛り上がる。
「ソーメンがのびちゃうわよ」
菊江の言葉に耳を貸さず、全員にグラスが配られビールが注がれた。
「竜ちゃんと全員にカンパーイ」
百合がノースリーブの手を高々と上げ、ビールを旨そうに口を入れた。
竜二の目が香代子を見た。
「その娘は心配ないわよ。ついこの間、事情があって家を出て、ここに居ついてるの」
色白の百合という娘がフォローした。
「一応カヨちゃんと呼んでるの。源氏名じゃないわよ。この娘シロウトだから」
竜二がはじめて口を開いた。
「前にどこかで会ってるかね?」
「あら、カヨちゃん。竜ちゃんと会ったことあるの?」
百合が不服そうにいうと、香代子が首を振った。
「人違いだと思います」
竜二が頷いた。自分でも確信はない。
「そうか、人違いか・・・」
竜二の記憶では、この娘に似た女を華厳の滝のロケのとき観瀑台で見かけている。派手で生き生きした表情が印象的だった。
「実は、姉さんにもみんなにも頼みがある」
「あら、竜ちゃん、私に頼んでよ」
「わたし、喜んで寝るわよ」
「バカね。そんなんじゃないでしょう」
姉の菊江が心配そうに尋ねた。人に頼みごとをいう弟ではないのは一番よく知っている。竜二が声をひそめた。
「ケガしてる男を一人預かってほしい」
「誰なの?」
「内村雄太郎という男だ」
一瞬、香代子の顔色が変わった。
「内村って、あの海堂の秘書の?」
「捨てられた恋人が自殺したって噂よ」
有名人だが評判はよくない。
「まずいのか?」
菊江のためらいを読んで竜二が聞いた。
「実は、今、この娘が上に住んでるの」
菊江がうつ向いている香代子を見た。
「でもちょっと待って。お隣の田沢志乃さんが、夜お店に泊ってくれる人がほしいって言ってたの。
カヨちゃんがここに就職したとき挨拶に行ったでしょ。あとで志乃さん。すごくほめてたわよ。カヨちゃんが礼儀正しいって」
電話をして二分もしないうちにドアが開き、淡い藍地に赤と白の花もようの着物姿の「おしの」のママ志乃がニコやかに挨拶しながら入って来た。
「竜ちゃん。しばらくね。湖畔ホテルのバーのマスターきちんとやってるの?お姉さんに心配かけちゃだめよ。あら、おいしそうなソーメン、少しのびてない?」
田沢志乃は、細かい事情を聞くこともなく快く菊江の申し出を受け入れ、香代子の手を握って喜んだ。
「わたしが帰っても居残って飲んでるお客さんもいるけど、遠慮なく追い出してね。そのお客さんから明日、合鍵返してもらうわ」
「今日は、その常連さん来ないの?いつもの刑事さんでしょ?」
「今日はね。徹夜仕事なんですって。東京からも応援が来てるのよ」
竜二と、佳代子の食事の手が止まった。
「それと、海堂代議士も来てるんですって」
「あら、なにかあるの?」
「海堂代議士は、この前のロケのときも来たそうよ。今度は中禅寺湖でしょ。それと、今、話題の創生界っていう投資グループの団体あるでしょ」
「あら、わたし知ってる。一口百万円で入会すると二百万円分の財産になるって、あれでしょ。今、全国で会員二十万人ですって」
「わたし、一口入ってるわ」
明美という娘が言うと、百合も応じた。
「わたしもわざわざ借金して入ったの」
「その創生界がどうかしたの?」
「会員の財産を狙って殺した遺体を中禅寺湖に沈めていたんですって」
「まあ怖い!」
「そういえば、湖の底から金の仏像が出たことあるの聞いたことある?」
ピンクの派手なドレスを着た明美がビールを飲み干した口を開いて一同を見まわした。
それぞれソーメンを食べたりしている。
菊江と竜二が一瞬目を見合わせ、さり気ない素振りで明美を見た。
「これ聞いた話で、噂だからね。
鹿沼の新井というところにあるイザキ神社に奉納されている金の観音像は江戸時代のものらしいんだけど、三十年以上前に湖から出たもので生前に県議の内村さんが寄贈したそうよ」
「それで?」
「その観音像は、聖、十一面、千手と三体で一組になっていて、今のところイザキ神社の十一面観音だけで、もう一体は誰かが持っていて、残りの一体は湖の中にあるらしいのね」
「明美さん。そんな話、だれに聞いたの?」
菊江がいかにも感心したという素振りで明美に尋ねた。明美はアルコールが入ると饒舌になる。
「彼のねものがたりよ。だから嘘だっていったでしょ」
「誰?彼って若い方、年輩の彼?」
「先週もここに来た年輩の国語の先生よ」
「岡崎先生?考古学研究家の?」
「そう。それで岡崎先生たら、明日、曙テレビのロケに参加して残りの一体が発見されたら、それを基に論文を書いて、原稿料が入ったら温泉一泊おごってくれるんだって」
「鬼怒川温泉?」
「いやよ。自分の家の風呂みたいじゃない」
「岡崎先生は、その話どこから聞いたの?」
「いろいろ調べたんでしょ。先生の得意の探偵ごっこでさ。取材で必要な話なんでしょ」
「で、もう一体は誰が持ってるの?」
「それは、岡崎先生も同じ疑問をもったらしいの。テレビ局で会ったイザキ神社の宮司に聞いたら、昔、三人で宝さがしをして、金の観音像を寄贈した内村さんの他の一人はその時行方不明になって、一人は代議士になるとか言ってた人で、その人がその一体を持ってるらしいの」
「それで、本当に代議士になったの?」
「どうだか、だって三十年も前の話なのよ」
そのとき、香代子が口をはさんだ。
「金の観音像を神社に寄贈した内村さんて、ここで匿う内村さんと縁のある人?」
「多分、お父さんでしょ」
「と、すると、代議士は海堂さんね?」
志乃が遠慮がちに口をはさんだ。
「菊江さんと竜ちゃんのお父さん、海堂先生と小学校から友達だったんですってね」
夜が遅いのでお開きになる。早速、香代子は隣に帰っていった。菊江が一人ぼっちになる。
狭い二階の菊江の部屋の隅にある仏壇には、父母の位牌が並んでいる。菊江が手を合わせた。
「海堂だけが観音像を抱えて生き残ったのね。お父さん、お母さん、仇はわたしがとります。安心して見守っていてください」
菊江は、仏壇下の引出しを外に出した。その奥に油紙にくるみ風呂敷に包んだコルトがある。菊江がそれを開いた。

 

2、強制捜査

 

菖蒲が浜キャンプ場で偶然捕えた運転手の自供から、中禅寺湖北岸菖蒲ヶ浜沖の深度約十~二十メートルの湖底に沈められていた遺体を光徳東方の山中に埋めたことが判明した。
日光本署が内偵したところ、光徳から山王林道を経て太郎山に抜ける山林内の海堂敬作の別荘地内に学校の建物のような訓練所が三階建てプレハブづくりで建てられ、そこが、創生界の研修道場兼居住区になっていることも分かった。
六月に入って、全国に二十万人以上の潜在的な会員を擁するといわれる創生界の、軍隊ともいえる武装グループによる自衛研修会が連日のごとく行われている。
公安の調べによると武装グループは東京本部だけでも約四百人、大阪本部は約百八十人、東亜投資ジャーナルが関東を中心に活動を始めたのがこの数字の差になっていた。
研修所全体の敷地は約一万坪(約三万三千平方メートル)、中庭を囲んでへの字型に建物が東西に延びている。
建物の裏手には、運動場と称して武道場、射撃場などがある。
射撃場の許認可は、クレー射撃場として営業許可を得ているが、防音装置を施した塀をめぐらしているだけに訓練内容は外部からは窺い知ることができない。
光徳のズミの群落、白樺にも雨が降る。
海堂敬作は不快な気分ではない。
中禅寺湖のロケ隊殲滅作戦は、撮影隊のモニターなどを破壊し、海堂が危惧した千手ヶ浜近くの湖底へは探査器を投入することなくロケが中断したことで、とりあえず満足した。
昔、身長約三十センチの金の観音像を発見したのは千手ヶ浜沖約十メートル、深さはわずか五メートルほどの、湖から見れば浅場といえる場所だった。
ものの弾みとはいえ、横手という友人を観音像で殴り殺したのは間違いだった。お互いに欲がからんでそれぞれが欲しい像を主張したが、結局凶器に用いた観音像と横手は湖底に眠っている。多分、内村のいう通り白骨でも頭蓋骨陥没は判明するし、聖観音像が発見されればその凹みから凶器に用いたことも露見する。
海堂が得た千手観音の胎内に絵図が隠されていることを知ったのは、イザキ神社所有の内村が寄贈した十一面観音像のテレビ放映でだった。うかつなことに、その番組に出演した考古学者が、胎内内臓物の可能性をいうまで、海堂は絵図のことなど考えてもみなかったのだ。
海堂の所持する観音像の胎内からも、江戸初期の金山奉行大久保長安の花押の見える中禅寺湖の三分の一絵図が出た。
皮肉にも朱印が千手ヶ浜の横手が沈んでいるあたりに付けられている。
海堂は、大久保長安が家康の命により、かなりの金塊を中禅寺湖に沈めたものと推論した。家康が、死して後も日光にこだわったのは、金は死霊をも救うという俗信を信じたからに違いない。
海堂は、イザキ神社に詣でて十一面観音像の借り入れを図ったがニべもなく断わられ、あまつさえ宮司より「絵図は紛失申した」と、腹の中を見透かされて、返答される始末だった。
創生界最強の軍団でもある六甲会高山班が全軍の撤退を命じたことで、中禅寺湖をめぐる抗争はとりあえず終結した。
「実弾を用いた脅しが効いたのか曙テレビのロケも腰くだけに終わったようですな」
テツたちと達也の雨中の乱戦のもようは、盗聴器が途中から室内に持ち込まれたため、海堂と中西には届いていない。しかし、銃撃戦の始めに銃撃に打ち砕かれるガラスや悲鳴、絶望的な嘆きなど、とてもロケ続行など覚束ない状態が手にとるように受信器のスピーカーから伝えられていた。圧倒的勝利と思われた。
「ロケが中止になれば、文句はない」
海堂の一言で創生界船団は雨の中に消えた。それぞれ船宿に釣り船を返して陸に上がった。
「この雨じゃ釣れめえ」
船宿の主が侮蔑の目で見ていたが船宿が儲かったのは確かだ。
海堂と中西は、それぞれの部下の運転する車で連れ立って光徳入りした。
研修所に行く前に、遅い昼食をと、常宿にしている光徳のサイゼリアホテルのレストランで会食することになっていた。
手配は真木がした。
車がつぎつぎにホテルの玄関に到着する。
栃内組の組長代行の猪股昇吉が若者頭を従えて出迎えた。
「組長はどうした?」
同行した六甲会の幹部橋爪龍七がなじるような口調で、栃内組の矢内源太組長の出迎えがないのを責めた。六甲会傘下に入った以上は当然の礼なのだ。意外な返事が戻った。
「日光署へ呼び出され、出頭してます」
光徳のホテル内レストランに入って上席に海堂、中西、橋爪に次いで足にケガをしている高山鉄次が座り、猪俣昇吉、真木信太郎がそれに次ぐ。あとは順次それぞれの所属する団体、事務所での格により座席がきまった。
総勢二十三人の内訳は、海堂事務所四人、創生界六人、六甲会七人、栃内組六人となっている。食事だけでも小パーティーになる。
ビールが注がれている間に「刈谷署長に状況を聞こう」と中西がいい、電話を掛けた。
署長が出た。
「刈谷君かね」
「そうだ。君は誰だ。横柄な口をきいて」
「わしだ。中西洋一郎だ」
「どこの中西だ?」
「なに?今、なんと言った」
「だから、どこの中西かと聞いたのだ」
「なにをと呆けたこと言ってる。刈谷君、海堂先生と親しい仲の創生界の中西だ!」
「創生界だと?あのインチキ投資グループか?なんの用だ?」
つねに冷静沈着な中西の頭脳コンピュータの回路が一瞬ショートして火花が散る。顔が怒りで引きつって行く。
「刈谷君!首が飛んでもいいのかね!」
「法廷でわめけ。今、栃内組の矢内を責めてるところだ。矢内からまず吐かせる作戦がまんまと当たった」
「なんだ。どんな理由でしょっぴいた?」
「死体不法投棄、死体遺棄、法で禁じられている武器の売買、警視庁公安部の永田刑事殺人未遂事件の容疑者隠匿、殺人、麻薬密売など反国家、反警察、破防法の適用が可能だ」
「刈谷。おまえ、創生界と争って生き抜けるとでも思ってるのか?」
刈谷署長が「フフッ」と笑った。
「残念だな中西。今回は、警視庁と全国の警察本部が一斉にオトリ捜査を実施した。貴様らは警察内部を懐柔したと思っていただろうが、我々はそう甘くはない。公安が内部に潜って貴様らの悪企みを調べ上げたぞ」
「なにが出たというんだ?」
「今日、警視庁公安特捜隊が湖底の密輸入の隠匿物を発見したぞ。知ってるか?」
「バカな、なにを証拠に・・・」
「赤岩沖の深いところにロープの頭にブイを付け沈めてあったそうだ。中に創生界あてらしいロシア語の伝票があったそうだ」
「最深部からどうやって?」
「水中カメラをブイの下のロープに巻きつけて引き揚げたそうだ。さ、ここまで情報を提供した。抵抗を止めて縛につくか?」
傍でそのやりとりを聞いていた海堂が我慢し切れなくなったのか、中西から受話器を奪いとり怒鳴った。
「海堂だ。どうなってるんだ?」
「海堂さん。あなたには、内村雄太郎および工藤和彦の殺人教唆容疑で捜査令状が出ましたぞ。私が直接行きますからな」
パトカーのサイレンが外に続く。
「大変だ。機動隊が道場に向っています!」
見張りの部下が血相変えて通報した。
創生界の武闘軍団光徳集結、中西の視察を内通で知り、検察庁はついに動いた。
警視庁をはじめとする全国各地の警察本部が、創生界各施設の一斉強制捜査に踏み切ったのだ。
それは、長い道のりだった。
東京証券取引所のある兜町界隈で、金融界の神話としての「常勝将軍」を演じた藤山泰成を中心に生まれた金欲集団の異常な急発展急成長は、バブル崩壊後の二十世紀末の人間の心を完膚なきまでに唯物主義に変えた。
「カネさえあれば!!」
この思いは、倒産寸前の中小企業経営者の血を吐く叫びであり、結婚寸前の若者の切実な悩みであり、政治家、主婦、OL、サラリーマン、実業家、宗教家、警官・・・職業も老若男女も問わず、ほんの微小な一部を除くすべての国民に共通の願望に思えた。
そこに、彼らの狙いがあった。この末期的かつ究極的な物質万能の願望は果てしない。
「カネのためならば!!」
証券取引法違反のインサイダー取引からスタートした創生界の資金づくりは、ついに個人資産の吸い上げのみならず、麻薬、武器の密輸入、殺人事件へとエスカレートして末路を迎えた。
そして、全国各地で凄惨な闘いが始まる。
奥日光中禅寺湖の湖畔ホテルの食堂では、曙テレビのロケ隊が遅い昼食をとっていた。
それぞれがこの日の出来事を興奮して語った。記事にするにはあまりにも内容が不明確で、取材で参加した記者たちは頭の中が混乱したまま食事をし、帰京した。
食事前に、ロケ隊の総監督である中森部長が短くてそっけないコメントを発表している。
「私の知らない間に、部下がかなり過激な演出を企画したのと、操舵室への落雷でモニターが使用不能になり、完全な映像をお見せできず残念です。
それでも今回は中禅寺湖に棲息する淡水魚、水藻類、底の地形、超音波探査器などを用いての埋蔵物の有無など充分調査できました。
雨で景色は今ひとつでしたが、これは後日撮り直しします。つぎの機会には、晴天の奥日光中禅寺湖での撮影をお見せしたいと思います」
こうして中禅寺湖ロケは成功したが、ロケを取材した記者たちは消化不良のまま帰った。
その頃、ホテルから歩いて三分ほどの距離にある中宮祠前交番では、習得した拳銃の始末で交渉が続いていた。雨足は相変わらず強い。
日光署警ら課の佐藤巡査長が困惑した表情で本署との連絡電話にしがみついている。
日光署では署長自ら出動の緊急事態が発生していた。
「先ほどの拳銃三百丁の件ですが、私と加山巡査長、柏木、葉山の両巡査の四名中二名ずつ外勤に出ますので、二名でこれを管理するのは万が一を考慮しますと大変危険だと思います」
交番前に車ごと置いたまま、達也と星野を残して他のスタッフはホテルに戻っている。
星野が、もどかしそうに聞いた。
「大山さんを出してもらえますか?」
星野が電話口に出るというのだ。
緊張で堅くなっていた佐藤巡査長が振り向き、ホッとしたように一呼吸した。
「大山次長が出ています」
星野が親しげな口調で主旨を切り出した。
星野が話し合った結果、次長の協力により拾得したことにし、警視庁に持ち帰ることで合意した。達也も電話で挨拶をした。
曙テレビの中禅寺湖ロケに、元警視庁捜一の刑事が参加していることも大山次長は知っていた。達也とは面識もある。
「いやあ、私は前に話した通り万年警部で定年まで行きそうですな。帰りに寄るのを待ってます。あなたと星野君には一つ借りができましたな」
おや、と達也は星野を見た。とんだ狸だ。
「次長は公安出身でしたか?」
「ああそうです。星野君から聞きましたか」
星野が手柄を分けたのだ。
「次長、緊急出動は何ですか?」
「まだ、ご存じないですか?」
「さっき、機動隊とパトカーが山に向かいましたね」
「光徳で強制捜査をし、令状の出た創生界、六甲会、栃内組を根こそぎ逮捕します」
「容疑は?」
「殺人謀議、死体遺棄、殺人、輸出入法違反など十以上の罪状で令状をとりました」
「もう、始まってますか?」
「今、包囲して説得中だと思います」
「かなり組織化してる相手ですから、手強いですよ」
「現役の自衛官もいるそうです」
「ほう、内乱ですか?」
「これ以上はいえませんが、閣内では破防法の適用が検討されているそうです。まもなくニュースで流れるでしょう」
達也の会話を星野が聞いている。
車に乗ると星野がポツリと言った。
「参加しますか?武器もあるし」
「メンバーは?」
「おたくの部下と、私の部下も合わせて八名ほどになりますかな」
達也が目を見張った。
「公安からなぜ三人も?」
「中森部長を疑ったんですよ。あの人の番組はこの五年ほど巧みに入れ替えてはいますが、一年に二回は必ず埋蔵金にからむ場所でロケをしています」
「なにか、まずいことでも?」
「昔から隠し金山、埋蔵金伝説は犯罪がからみますからね。なにしろ数百億単位の財産が地中に眠ってるわけですから。しかし、なかなか見つかりませんな」
「可能性は?」
「ありますよ。なにしろあの監督は一徹ですから、いつかヤマを当てるでしょう」
「人格が変わりますか?」
「変わるかどうか、見届けたいですね」
実はすでに見つけていた。星野はそう信じた。
ホテルに戻ると、友美が駆け寄って来た。
「中森さんが取材に行くそうよ」
テレビのニュースで創生界の一斉捜査を知り、奥日光のアジト襲撃の有無を警察に問い合わせ中だという。
中森は、撮影班を残して全員帰京を命じた。残ったのは星野の部下と、原田など中森と直結しているスタッフ、警備員と友美だ。
雨はますます激しく降るばかりだが、誰も逃げ腰になっていない。
「さあ行くぞ!」
星野が声をかけるとスタッフ全員が立つ。
撮影班が二手に分かれ、原田チームと星野チームになり警護を入れ総勢十数人になる。
友美のルノーに達也と中森が乗って出発した。
国道120号線から光徳へ右折するT字路に警戒網が引かれ、一般車輛通行禁止になっている。
星野が雨の中に出て制服の警官に一言話すと警官は敬礼して、全員が関門を突破した。
やがて雨中の激しい銃撃戦現場が近づいた。
まだ闘いは始まったばかりだった。
「無駄な抵抗はやめなさい!」
スピーカーで怒鳴った警視庁第三機動捜査隊を指揮する安東警視の声が途切れない内に、銃弾が軽視の盾に金属音を響かせて的中した。これが雨中の乱戦の口火になった。
建物の窓という窓から武装した男たちの銃が火を噴き、前進しかけた機動隊員に負傷者が続出した。敵はかなり組織化されている。
警察側もはじめの拳銃携帯から狙撃隊の小銃攻撃に切り替えたが劣勢は免れない。
危険を冒して入口に殺到するとバリケードの彼方から自動小銃の乱射に遭い盾がはじきとばされ、軽傷だが被害者が続出し阿鼻叫喚の様相を呈す。
雨中の乱戦だが、敵は建物内から狙い撃ちできるだけ有利だった。警察側は苦戦した。
「無駄な抵抗は・・・」
安東警視が首をすくめた。銃弾が頭上すれすれに飛び去った。

 

3、雨中の暗殺

 

海堂敬作が雨の中で襲われたのは、秘書の真木信太郎とホテルの玄関から駐車場までを歩いたわずかの距離、わずかの時間だった。
「玄関まで車をまわします」
真木の言葉にも海堂は耳を貸す余裕がなかった。海堂の奥座敷が予測もしない警察の急襲を受け土足で踏みにじられたのだ。
「食事どころではないっ」
このあせりが命取りになった。日頃ボディガードを務める栃内組の幹部が身辺を固める間もない急ぎの出立だっただけに、日頃からの固いガードが破れ隙が出た。
駐車場は、ホテル前の広場を横切って、うっ蒼と茂る白樺と?の樹林を抜けるのが近道だったので、海堂はそこを足早に通過しようとした。
樹木の間を抜けるとき枝が邪魔になる。海堂は傘をすぼめた。豪雨の中、そこを狙われた。
傘もささず、そこから近い樹の幹の陰に息をひそめて立っていた内村がゆっくりとのしかかるように海堂に密着した。豪雨の中で刃が光り、その刃先は海堂の心臓に吸い込まれるように消え、抜かれると血が噴いた。
「ギェッ」と、石に叩きつけられた蛙のような鈍い悲鳴が何度かして、海堂がよろよろと身近な落葉松の幹に背を倒し口を開いたままこの世に未練を残すかのように天を仰ぎ、雨を受けながら絶息した。
真木が内村を追った。海堂の足下で傘が半開きのまま、落ちて来る血を受けている。
すぐ近くで女と男が争っていた。女が傘をさして歩いているのを男が追って来て、一言二言激しい言葉のやりとりがあり、男が女を突き倒し、女が必死で守ろうとする手の中の物を力ずくで奪いとった。
男は、ゆっくりと雨の中に姿を現し、海堂に近付いた。
「海堂!」
男は低く叫んで、雨宿りしているように幹に寄りかかっている海堂を狙って銃を撃った。
男の手には38口径のコルトがしっかりと握られている。横手竜二の頬のこけた暗い顔が雨に濡れて悲愴な上にもの悲しい。
銃声は三発、海堂の巨体は声もなく倒れた。
倒れた海堂の腹の上に片足を乗せ、隆二はゆっくりと至近距離から額の中央に一発止めを撃ち込むと立ち上がった。
その顔から雨なのか涙なのか、水滴がしたたり落ちていた。
銃声に気付き、中西たちが駆け寄ったとき、海堂敬作は波乱に満ちた生涯をすでに閉じていた。しかし、その目はこの世への未練を訴えているのかカッと見開かれ雨に濡れ己の正義を訴えているかのようでもあった。
逃げる男女を追い銃弾がとんだ。
駆けつけた創生界の武闘派が、海堂の息絶えているのを一瞥すると急ぎ駐車場に走った。車で追うためだ。
この朝、姉の菊江から電話があった。
「用はないのよ。元気ならいいの」
姉の不審な様子でピンと来て竜二は姉を追った。
海堂の出先を事務所で聞き、姉が現れるのを確信していたのだ。
竜二の車は、光徳牧場のバス停前の路上に、戦場ヶ原方面に向けて逃げやすい位置に停めてある。ここまでは、堅い警戒網の届いていない三本松から裏男体山林道を通って辿りついていた。
銃弾が、菊江と竜二をかすめた。
雨で視界がきかず、走っての射撃では命中精度は極端に落ちる。
それでも数人の乱射の一発が竜二の右頬をかすめた。それもさしたることはない。
中古だがBMW850の出足はいい。川のように流れる路面を吸いつくように最速で走りぬける。そのすぐ後を二台のベンツが追った。栃内組、六甲会それぞれの車が追う。
こうなると林道には入れない。ぬかるみにはまったら追いつかれる。警戒線を突破するしかない。
(姉だけは生かしたい)
この思いだけでアクセルを踏み込んだ。
国道120号線のT字路が近い。先方からワゴン車二台の前に黒いルノーが走って来る。
すれ違った。
「あの人よ!」
ルノーを運転している友美が達也に叫んだ。
「あの人、バーテンよ。あの晩、わたしたちを電話で助けてくれた人!」
「竜二だ」
達也が呟いた。
「知ってる人なの?」
衝撃音が後方から響いた。達也は振り返り、運転席の友美はバックミラーを見た。
竜二を追った二台の車の一台が、バリケード代わりのパトカーに激突して暴走し、戦場ヶ原の境界線になっている金属ロープのガードレールを乗り越えて横転し火を噴いた。
「わたしもあの手前で車にはねられたわ」
追跡のパトカーがサイレンを鳴らして湯ノ湖方面に去った二台を追った。
(竜二。どこへ逃げるんだ・・・)
走馬灯どころかビデオの最速逆まわしのように苦い想い出が達也の脳裏を走った。
横手をひねってコヨーテの竜と人は呼んだ。
新宿の歌舞伎町界隈で中国人ゴロとのイザコザが起こると竜が出て来てケリをつけた。
野生のコヨーテは群れで狩りをする。
戦闘の手法がコヨーテに似ていた。オトリになる役割の何人かが対象になる中国人犯罪者をおびき出し、竜がそれを仕留めた。証拠はなにも残らない。中国マフィアは竜に賞金を賭けた。過去、賞金を賭けられて生き残った者はいない。
五十万人の夜間人口がある歓楽の街新宿に滞留する淀んだ空気の中で竜二は荒んだ。
定員六百名の新宿警察署に配属された達也は刑事課の刑事として殺人事件を追い、竜二を知った。
三階の刑事課の取調べ室で竜二と相対したとき、本気で対等の立ち場で堂々と殴り合いをしてみたい男だと思ったのを憶えている。
彼は寡黙で取調べ官泣かせだった。口ぐせは、「好きなように書いてくれ」だった。
達也は、すっきりしない気持ちのまま調査に基づいて取調べ、彼を留置場に放り込んだ。
聞き込みと物証から彼を犯人と見て、改めて調書をとり殺人未遂で起訴した。彼もあっさりと署名し一言もいい訳をしない。
それが冤罪だったのである。
別件で逮捕した男が取調べでその犯行を自供したためである。竜二は放免された。
その後味の悪い出来事のあと、暴力団の麻薬密売にからんだ新宿地区の一斉取締まりの網に竜二がかかり、暴力団専門で捜査四課の赤城刑事が担当し、同じような経緯をたどり、彼はシロであるにもかかわらず起訴されかかったことがある。
たまたま赤城との酒飲み話に、強情な竜二の話が出た。内容が似ていることから赤城に慎重に再調査するようにアドバイスしたところ、やはり、人の罪を被っていた。投げやりに生きているとしか思えない竜二だった。
その竜二が必死で逃げた。
金精峠の下り坂に入り、菅沼と丸沼を結ぶ八町滝の美観を目にした辺りで追手からの銃弾を浴びたが、後続のパトカーが創生界のベンツに追いつきカーチェイスをしながらの銃撃戦となる。辛うじて竜二は沼田街道を渋川まで逃げ切った。だが、創生界への捜索は群馬でも同様らしく検問は厳しい。横道を走った。
いずれ、光徳入口でパトカーと接触して逃げた以上は、手配されて捕えられる。
「もうダメ。あきらめましょう」
「姉さんは、なにもしてないんだ。東京まで行って、ほとぼりがさめたら帰ればいい」
竜二の顔色が悪い。吐き気がするという。
光徳入口の検問突破時に首を痛めたのだ。
「竜二、ちょっと寄って休ませてもらおう」
国立病院バス停の左側に、珍しく鐘を鳴らす尖塔を屋上にもつゴシック様式の教会らしい建物が見えた。駐車場がある。
入口に立つと、まだ工事中らしい。
生きる気力を失った今、なにを今さら祈ろうというのか。承諾を得て玄関に向かう。
菊江の心に沁みるように、ジョルジュ・ムスタキのシャンソン「時は過ぎてゆく」が流れていた。建物の壁面の文字はフランス語のようだ。

 

4、シャンソン館

 

「聞いたことのある人の声だわ」
よろける竜二の肩を支えて菊江が玄関を入ったとき、歌声が聞こえて来た。すばらしい声だ。
「アシダ・ヒロシさんね?」
曲が変わり、哀切なメロディが流れる。
「セーヌの流れとオルセーの時計が
 永遠の旅にいざない運命の時を刻んだ
 愛と死をあなたに 愛と死をあなたにーー」

下のフロアには、ルーブル博物館の光のピラミッドのレプリカがあり、フランスと日本のシャンソン歌手のレコードや写真が展示されていた。
「上へ行ってみよう」
子供のころ、音楽が好きだった竜二が歌声に誘われるようにふらふらと二階への階段に足を乗せた。二人は肩を組んでゆっくりと上がった。
左の部屋をのぞくと、華やかな舞台衣装や歌手の愛用品、楽譜、遺品などがガラスケースに納まって展示されていた。
腰地吹雪の赤い衣装や、イヴ・モンタン、イヴェット・ジローなどの名も見える。
「すごいコレクションね」
菊江が感嘆の声を上げると、右側の部屋のドアが開いて、僧と覚しき人が「シッ」と、唇に手を当ててから手招きする。
二人がその部屋に入ると景色は一変して、アンティーク風の小劇場があり、舞台の上で白いシャツ姿のアシダ・ヒロシが、舞台袖のピアノを弾く青年と音合わせをしていた。
「練習してるんですよ」
柿葉色の作務衣を着た僧が、二人に椅子をすすめながら小声で説明した。
照明係が赤や青のスポットを適当に加減しながら照射位置をテストしている。
座席数が二百ぐらいある広さのホールに関係者らしい人たちが十四、五人、思い思いの場所に座ってアシダ・ヒロシの歌うのを待っている。
後援会の幹部グループなのか三人連れの六十歳前後の女性の二人が注文を出した。
「『枯葉』、『街角』、このどちらかお願い!」
「それより、『ラ・メール』がいいわ」
竜二がせき込んだ。
菊江があわてて肩を抱きドアの外に出ると、僧が心配そうに後を追って出た。
「ご主人、顔色の悪いのはムチ打ちで呼吸困難なんですよ。医者がすぐ隣りだからね」
竜二が、大丈夫というように手を振った。
「そうか。医者嫌いか。よしっ、家においで、古い家だけど二人ぐらいは泊まれるから」
「お坊さん。ご親切にすいません。心配はいりませんから・・・」
「そうはいかん。心配が顔に出てる。車ならわしを乗せて家まで来なさい。実はね、わしは車なしでヒッチハイクでどこへでも出かけるんで、帰りの車を探しとったんじゃよ」
シャンソン館と庭続きに、パリのムードそのままのカフェがあり、そこで僧が二人にコーヒーを振る舞った。お互いに名乗り合う。
「タクシー代だと思えば安いものさ」
「おうちはどちらですか?」
「信越本線の磯部という駅をご存知かな?」
「イソベせんべい、舌切り雀のイソベ?」
「そう、そこだ。生きるのが嫌になったら自殺の名所もある。そうだ、案内してやろう」
アシダ・ヒロシが入って来て僧に挨拶をした。
コーヒーで竜二も元気をとり戻したようだ。
竜二を後部座席に乗せ、菊江が運転することになった。道案内は、その大林と名乗る僧が助手席であれこれ指示を出す。
高崎市のはずれ、群馬八幡駅近くから国道18号線に合流する交差点で検問の網にかかった。笛が鳴り、警官が走り寄り警棒で左斜線に入り停止するよう指示が出た。
「手配の車輛発見!」
群馬県警のパトカーが走り寄り、中から私服と制服の男たちがとび出し、駆け寄る。
「なんだ、高松、血相変えて?」
助手席の窓を開けて僧が刑事に話しかけた。
「オヤジさん、いや大林さんこそなんで?この車は、日光署の検問を破ってるんです。この車を追った暴力団の車とパトカーが銃撃戦の末、転覆炎上、死者が出てるんですよ」
「なに。この車は追われてたのか。じゃ、この車の主は被害者じゃないのか?」
「この車輛に、海堂敬作殺害の容疑者が乗っている可能性があるんです」
「なに、あの悪徳代議士の海堂が死んだか、そりゃあよかった。天の裁きが下ったのじゃ。分かった。わしが事情を聞き、責任を持って安中署に出頭させる」
「ダメです。あんな田舎じゃ。高崎へ出してください。今、すぐです。それに、その男、凶悪犯ですよ。拳銃を所持しているかも知れません。調べさせてください」
「バカだな。わしの家までタダで送ってもらってるんだぞ。しかも、うしろの男、病人で今にも死にそうじゃないか。殺人犯がどうして検問の多い道を通ってヒッチハイクのオヤジを家まで送らなきゃいけないんだ。海堂殺しは、この二人を追った男たちの仕業だろ」
「とりあえず、免許証だけでも・・・」
「防犯の大林が保証しているのにか?署には仲間が暮れになると大型トラックいっぱいのラーメンを毎年送ってたんだぞ」
「そんな古い話時候ですよ。免許証を」
「おや、なにか違反をやったか?」
「いや、とりあえず身元だけでも・・・」
「こちらは横手菊江さん、そっちは横手竜二さんの姉弟で、姉は宇都宮、弟は奥日光に住み、二人のオヤジは横手周造、宇都宮の市議だった」
「どうしてそれを?」菊江が驚く。
「名前を聞いてピンと来た。高崎の今の市長の杉浦のテッちゃんのオヤジさんが市議の親玉で、よく隣県各市と市議に県議を混じえて剣道大会をしたもんだ」
「それはそれとして、免許証を・・・」
「よしっ。高松。分かった。オレも坊主だ。頭を丸めて出直すのを先に丸めちゃった。おまえも潔くトラック十台分のインスタントラーメンを返せ。小型じゃないぞ、大型だぞ。さあ、出せ!」
「なにを今さら。もう食べちゃいましたよ。もうダメですよ、その手は。先月もスピード違反のとき、その手を使ったそうじゃないですか?防犯協会の会長の名が泣きますよ」
「分かった。とに角、うちまで連れて行って休ませて、犯人ならば、高松、あんたの手柄にさせよう」
「それはありがたい。ぜひ、頼みます。じゃ、おたくまで先導しましょう」
「冗談なのに、しつこい男だな。刑事にはピッタリだ。あ、先き愛妻橋に寄ってくれ」
私服の高松が、検問を解くように部下に指示し、制服の警官の運転でパトカーを先導させ国道18号線をまっしぐら、鷹ノ巣城跡を右に見て西に走った。
やがて、磯部温泉沿いに流れる碓氷川を見下ろす真新しい橋に出て、二台は停まった。
「オヤジさん。ここでどうするんです」
「さあ、お二人とも降りてごらん。いい景色だよ」
雨は止んでいた。二人は車を降りて川を眺めた。
橋の手すりに寄りかかって下をのぞくと、増水して濁りの入った激流が岩を噛んでしぶきを吹き上げ、渦を巻いて流れている。
「この橋が出来て、たて続けに飛び込み自殺が出た。わしの祠の厄除け地蔵を拝んで供養したらピタリと止まってしまった。
すると、地元の観光協会の役員が、『余計なことをしたため名所が一つ減った』とエライ剣幕だ。少々反省してたところへ、死相の出たお二人さんだ。どうだとんでみるかね」
道路を横切って反対の上流側を見ると、夕焼けの西空にくっきりと妙義の山々が見えた。
左下に観光簗があり、鮎の焼く匂いがして、竜二の腹が鳴った。朝からなにも食べていないのだ。
「どうだ高松。死刑囚と一緒に飯でも食うか。それとも一緒じゃ嫌か?」
「なにも死刑と決まったわけじゃないですから、飯ぐらいは付き合いますよ」
「そうか。それはよかった。まだ鮎は解禁したばかりで簗はやってないから野鮎は食べられないが、養殖でも鮎は鮎だ。冷たいビールで塩焼き、フライ、味噌焼き、鮎汁と鮎づくしもいいもんだぞ」
「私はビールより冷酒がいいな」
「分かってるよ。昨日今日の付き合いじゃあるめえし、この前はいつ一緒に飲んだ?」
「一昨日でしたかね」
「みろ、たいがい週に二、三回はどっかで一緒に飲んでる仲じゃねえか」
二人は喋り、二人は黙々と食事をした。
高松刑事のポケベルが鳴り、電話に走った。
「なんだと、殺しは内村だと!!」
電話を切って戻る高松の顔が和んだ。
「まあ死体損傷、銃器不法所持ってとこか」

 

5、逃避行

 

曙テレビロケ隊が光徳の創生界研修所の敷地内に入ったときはすでに警視庁と栃木県警の合同機動隊が建物を囲み、戦闘の火ぶたは切られていた。
ナレーターの西隆太郎は、中禅寺湖ロケ終了時に昼食もせずに帰京している。他局のバラエティ番組の仕事があるためだ。
中森が困っているのを見かねて、友美が自分の取材を中断し、カメラに向かって喋った。
さすがに元ニュースキャスター、新人時代はレポーターとしても鳴らしている。迫力満点の音と映像で、曙テレビが超スクープをものにした。銃声と怒号の上に友美の声が続く。
撮りまくったビデオを車で日光市内の通信施設のある会社まで運び、新宿河田町の曙テレビに送る。衝撃的な映像が茶の間に流れた。
中森は、護衛を一人付けたカメラ一台と助手三名、友美を伴って捜査現場を走った。
「間もなく捜索を通告して十二分を過ぎようとしています。建物の中に立てこもっているとみられる関西の暴力団六甲会を含む創生界の戦闘員は、機動隊長の非公式コメントによりますと、約二百名とみられています。
今、そのほぼ全員が建物の窓から銃を乱射し始めました。すさまじい銃声です。
約五十名の機動隊員は金属製の盾で身を隠し撃ちまくられて後退しています。今、ケガ人が出ました。倒れた同僚を抱えて隊員が物陰に隠れました。危ない!危険です!
今、曙テレビの車輛にも銃弾が当たりフロントガラスが砕けました。私たちも車の陰から一歩も動けません」
ふと、友美は左の奥の林から身を低くした人影が一団となって建物の端に消えたのを見た。中森からは死角になっていて見えない。
友美はいい淀んだ。先頭の男のベタ足の姿勢で達也だと分かったからだ。相変わらずの無謀さに心臓の鼓動が変化し胃が痛む。
「戸田さん。実況をつづけてください」
小声だが、脅すような中森の低音の渋い声が友美の耳元で囁く。
「あまりにも無謀です。あ、これは、今、無抵抗の民間人の私たちにまで銃口を向けている野蛮な人たちに向けてのコメントです」
そのとき、三階の左端の部屋のガラスがバリバリと音を立てて砕け、銃が何丁も空を舞った。それが、人間が走るような速さで三階、二階と伝染してくる。ガラス戸がどの部屋も破壊され、窓から銃が降り注いだ。
「不思議な光景です。霧雨の降る光徳の空に、旧ソ連軍の軍用銃といわれるカラシニコフ型と思われる銃がつぎつぎに投げ捨てられます。
逃げられぬと知って建物を破壊し武器を捨て、投降して来るのでしょうか。今までの必死の抵抗がウソのようです。
あ、ゾロゾロと頭上に手を乗せ、投降して来ました。警察側が一人ずつ逮捕します。
頭や手足から血を流し凄惨な状況です。かなりひどいケガのようです。どうしたのでしょうか。末期を迎えた創生界内部の内ゲバでしょうか、警察側の過剰攻撃でしょうか」
誰よりも驚いたのは、機動隊を指揮する安東警視だった。まだ攻撃に転じてはいない。
突撃命令は出したが状況は不利だっただけに合点がいかない。しかし、推測はつく。
こそこそと森から出た男たちを見たからだ。
「くそ忙しいのにどこへ消えてた!」
姿を消していた曙テレビのスタッフとボディガード会社の数人が監督の中森に叱られている。無理もない。この命がけの撮影で中森もバッテリーを運んだりしていたのだ。
「少し、様子を見に移動したら迷ってしまって申し訳ありません」
安東警視が驚いた。逮捕術では警視庁内で一、二を争う公安部の星野警部補と、とかく話題の多かった元刑事部の問題児佐賀達也がいて、他の男たちもなにやら見覚えがある。
安東警視が近づいて達也の肩を叩いた。
「こんな危険な場所で民間人が勝手な行動をとらんでください」
硝煙の匂いが達也たちの身体中に浸みている。武器が拳銃としても中途半端な発砲ではない。達也が安東警視にウインクした。
「ちょっと、この二人をお借りします」
警視が中森に断り、達也と星野を木陰に呼んだ。中森がそれを視線で追い、友美に、「あの警護員を徹底的に悪人仕立てで喋ってくれ」
「お断りします」
友美が瞬間的に反応して決然といい、自分で驚いた顔をし、あわてて言い訳をした。
「あの人は、悪人ではありません」
中森が、達也を友美の元恋人と知っているなら、人が悪い。
安東警視が部下を遠ざけ三人で話し合う。
「おまえら、武器はどうした?」
「トカレフを三百丁持ってます。機動隊とでもいい勝負ができますよ」
「バカなこというな。ここへ置いてけ。そんなのどこから手に入れた?」
「ロケ中に湖底で発見、日光署へ連絡、警視庁へ配送中、ほんの少し拝借しました」
「なにが配送中だ、どう使ったんだ?」
「腰に二丁で手に二丁、四丁の自動拳銃を数人で撃ちまくれば大概の敵は手を挙げますよ。好きなだけ撃ちましたからね。スカッとしました」
「相当ケガさせてたぞ」
「ガラスの破片でしょ。運の悪いヤツは自分から弾の来る方角に動いてケガしたのもいますが、こちらに殺意はありませんから」
「佐賀君、あんたも撃ったのか?」
「まさか。警視!佐賀さんたちは元刑事とはいえ民間人ですよ。そりゃ示威行動の都合上、拳銃所持で私らの後方で脅してもらいましたがね。私は背後は見えませんでしたが」
実際は達也が先頭で撃ちまくっている。
「分かった、早く銃を運んで帰れ」
報道陣の車が続々と到着する。
曙テレビと業務提携している宇都宮放映の中継車が他社とほぼ同時に到着し、中森のロケ班と交替した。
宇都宮放映に出向中の曙テレビ報道部のニュースキャスター向芳恵が、友美と握手でタッチをし情報交換をしてから実況放送に入った。
「平和なご家庭にお届けした衝撃的な事件も今、ようやく終焉を迎えようとしています。すさまじい銃撃戦の痕跡は、窓ガラスがすべて粉砕され、逮捕された創生界の武装集団のほぼ全員が傷ついたことでも理解いただけるでしょう。
それにしても、警視庁と栃木県警の機動隊の戦闘力はすばらしいものがあります。
それでは機動隊を指揮し、一人の死者もなく捜査を敢行し抵抗者を逮捕し排除した、警視庁刑事部第三機動捜査大安東警視にお話をお伺いします。奇襲はいつ頃からお考えだったのでしょうか」
安東警視が一つ咳をして渋い声を発した。
「ご承知のごとく最近の創生界は、豊富な資金力にものを言わせ、政財界を含むあらゆる分野に進出し非合法的な方法を用いてまでも国政を左右させる力を発揮しはじめています。しかも、外国から武器の密輸入の噂も流れていました。これを野放しにすると、以前世界中を震撼させた例の宗教団体の再来になりますので、全国規模の
一斉捜索に踏み切ったものです」
「抵抗は予測した通りですか?」
「予測以上のはげしさでした」
「どのように闘いましたか?」
「作戦通り表面上は彼らの攻撃にさらされたように見せ、裏側から精鋭部隊を投入し威嚇射撃で武器解除させました。全員勇敢でした」
「以上、機動隊隊長安東警視のコメントをお届けしました。先刻はニュースでお知らせした通り、元衆議院議長も務められた元自主党幹事長の衆議院議員海堂敬作氏が元秘書に刺殺されるという悲惨な事件が発生したばかりです。
犯人の元第一秘書内村雄太郎は、女性連れで逃亡中。創生界の数人がそれを追い、警察ではその両者を捕捉すべく追跡中です」
その通りだった。
実質的な会長でもあった海堂という後ろ楯を失っては栃木県内での栃内組のしのぎはかなり難しくなる。警察の追及に手心が加えられなくなるからだ。
創生界もまた、栃木県内に根を下ろす手掛かりを失うことになる。
海堂を失った怒りが内村に向かった。
内村が海堂を刺して逃げるのを真木が目撃していた。刺されて息絶えたのか、その後を襲った男の拳銃が息の根を止めたのかは、その時はだれも知らない。
本能的に反応して、創生界本隊は内村を追って山に、栃内組と創生界各一台の車が竜二を追う。その結果、竜二を追跡した二台の車は事故、負傷、逮捕という結末を迎えた。
内村を追って山に入った六甲会を含む七人ほどの精鋭隊も結末は惨めだった。
追っているつもりが追われていた。
光徳の創生界研修所を警視庁と栃木県警の合同隊が武器等不法所持の嫌疑で急襲するため、露払いとして早目に来た羽根警部補ら日光署の刑事六人ほどが、事件を知り勝手知った山道を行けるところまで車で追い、威嚇射撃で足を止め格闘の末、全員を逮捕し刑事三人を残して山を下りた。
羽根、坂口、矢野の三刑事は必死で足跡を探し、草木の倒れ具合などから逃走経路を求め後を追った。遠くへはまだ行っていない。
内村が女連れで逃げていることも判明している。
足にケガの内村と女では遠くへは行けない。木の陰、崖裏、窪地まで探しながら足跡を求め、雨上がりの露とぬかるみの中を追った。
いずれ二人は力尽きるだろう。
夕暮れになると一時夕陽で明るくなる。
内村と、後を追って合流した香代子は、太郎山の手前で沢に下りた。このハガタテ薙の水場から先はしばらく水がない。
香代子は、バックの中から小物を入れたビニール製の袋をとり中身を捨て水を汲んだ。
内村がそれを見て呟いた。
「バカな女だ」
内村雄太郎は、精魂つき果てていた。このまま山の斜面につっ伏して風に吹かれ雨に打たれ朽ち果てたい思いが身体を突き抜ける。
代議士として国政に携わり、世界の桧舞台で活躍する夢破れ、殺人犯として道なき山をさまよう身になった内村自身の場合は身から出た錆といえたが、香代子となると理解できない。
利用され、弄ばれ、捨てられただけでなく自分を殺害しようとさえした男を命がけで助けようとする。
内村は彼女を疑っていた。どこかで隙を見て殺そうとしてくる。(それもいい)と、内村は思った。今は、ただ無性に休みたかった。
だが、疲れて倒れると香代子が抱き起こす。
香代子は、内村が自分を殺害しょうとしたことを知らなかったのだ。
環境が心を変えるのか内村の口調から棘が消えた。追われる恐怖もない。生に執着する気が失せた。彼は死に場所を求めていた。
生まれついての駿馬でも、たった一本のバラの棘がのどに刺さっただけで誰にも手のつけられない凶暴な暴れ馬になる。
その棘が、ふと何かの調子で抜けると本来の駿馬に戻る。今の内村がそれだ。
内村雄太郎は、まぶしいものでも見るような目で香代子を見た。
化粧っ気のない素顔の香代子が夕暮れ迫る山並みを見つめる。まるで、幼な子が初めて気付いた夕陽の大きさに驚いてでもいるかのような無心無欲の天使の輝きが、夕焼け空の紅を浴びて映えている。
それは、駿馬に戻った内村の心に鮮烈な感動を喚起し、愛することの尊厳を改めて知らしめるのに充分な光景でもあった。遠い昔、同じような光景があった。
「京子・・・」
思わず声に出して気付かない。
香代子はふと我に返った。内村の呟いた「京子」という声が聞こえた。多分、お店での会話で聞いた昔の恋人のことに違いない。
別れてすぐ死んだと聞いた。自殺だという。
心に残る恋人がいる。すばらしいことだ。
内村は、哀れにもそのことで苦しんでいる。
香代子は今、自分がなぜここにいるのかをはっきりと悟った。これでいい。
今までは漠然と「真実を知りたい」思いで雑誌記者を捨て、場末のバーで働き、ひたすら何かが見えてくるのを待ったが、それは、華厳の滝の変死体がどうの、中禅寺湖がこうのという問題ではない。
ただ一つ。内村雄太郎の真の姿を知りたかったのだ。もう、これで思い残すことはない。
内村雄太郎の心は愛を知っている。
香代子は、晴れ晴れとした気持ちで内村の手を引いてからだを寄せた。愛しかった。
岩清水をすくって飲んだばかりの冷たくなったはずの手が温かく感じられた。
バーでの菊江の行動を見ていて、異変を感じたのと内村の外出、湖畔ホテルへ電話して知った曙テレビの中禅寺湖ロケ。レンタカーを借りて湖畔に停め、双眼鏡で見届けた達也と狙撃者たちとの船上での乱闘。なにか窺い知ることのできない恐ろしい事件に自分もまき込まれていたような気がして背筋の凍る思いをした。
同時に、内村雄太郎のおかれている危険な立場を思いやると、無力な自分が無性に腹立たしい。追われている内村を救う道はないのだろうか。香代子はそう思った。
湖畔に停車しているとき、パトカーの先導で機動隊を乗せた小型バスタイプの車輛が通過したとき、香代子は内村は必ず来ると確信し、国道120号線に目をこらしていた。
あれは、推理が正しかったのかインスピレーションだったのか今でも判然としない。
やがて、豪雨をついて小夜という女から借りた小型車に乗って内村が来た。
香代子は距離を置いてそれを追った。
そして、内村の凶行を双眼鏡で見た。車に戻る間もなく内村は追われ山に逃げた。追手がためらい一度報告に戻った間に香代子が追いつき逃避行を共にしたのだ。
香代子がいつ自分を襲って来るか。傷ついた内村は香代子の襲撃から身を躱せるかどうか不安だった。
それが、今は違う。死ぬなら香代子の手にかかって死にたかった。雨は止んでいた。
夜になって月が出た。
女峰山から唐沢小屋へ下りるつもりが道を間違え、また尾根に出た。月明かりで救われる。
ハイマツ林を抜け急斜面を下ると水場がある。空の袋を持ち香代子が谷に下りた。
一里曽根の峰は女峰山より二百メートルほど低い2.272メートルの峠のような地形で、さらに下ると赤薙山頂下の赤薙奥社跡に出る。夜目では色彩は見えないがツツジの群落があちこちに見受けられた。
「夜が明けたらすばらしい景色でしょうね」
香代子が内村の手を握って微笑んだ。
内村は、足が痛むのか歩行がままならない。
それでも痛む素振りは見せなかった。
小さな祠に参拝し、赤薙山頂下をまくようにして横切り針葉樹の林に入った。
「おおい!」
遠くで野犬の遠吠えのように人声がする。
「内村あ。観念して稜線で待ってなさい!」
「もう、逃げ切れないぞ!」
「のたれ死にするのがオチだからな!」
二人は無言で顔を見合わせ頷いた。
どちらもおだやかですっきりした表情をしていた。追手はその声で遠い距離と分かった。
夜が白々と明け始めた頃、まだ少し時期は早目だったがニッコーキスゲの群落に足を踏み入れていた。キスゲ平に辿り着いたのだ。
「リフトが動いていればなあ」
冬はスキー場、夏はリフトから高原一帯が黄金色に染まるニッコーキスゲの大群落が眺められる。
六月中旬、花は三分咲きでツボミは実の入っていない枝豆の莢のようにすぼんでいた。
もう一息で山を抜けて道に出る。

 

6、霧の六方沢

 

「内村の性格から分析して自首はあり得ないな、プライドの高い男だから」と、捜査会議で、議長の刈谷署長がいう。
「海堂敬作代議士殺人事件合同捜査本部」の看板が深夜、日光署に掲げられた。単純な事件だ。
犯人は内村雄太郎と判明している。
鑑識医の検視で、直接の死因は心臓に達する鋭い刃物による創傷であり、海堂の遺体に拳銃を用いて凶行におよんだ横手竜二は、すでに高崎署で身柄を拘束したという報告が得られている。
内村を追う羽根警部補に同行して途中から帰署した古川刑事の話では、内村には女性の同行者がいるという。
逃走経路は三つに絞られ網が張られた。
一つは、ハガタテから山王帽子山の尾根を越え山王林道へ抜けて川俣温泉に向かう。
一つは、大真名子山から志津小屋を経て二荒山神社の裏手に出るという警察の意表をつく大胆な脱走コースがある。
あと一つは、太郎山西峰に近いツツジの名所のお花畑と呼ばれる高地から、国道120号線の三本松に下りる新薙下りのコースが考えられる。この三方向に武装した警官が散った。
まさか、傷ついた内村雄太郎が女連れで夜中じゅう歩いて山々の峰をめぐる尾根歩きを完走しようとは、思いもよらなかったのだ。
「一晩中歩けばケガ人でも抜けられるぞ」
刈谷署長の言葉に頷きはするが、わざわざ四つか五つの山を縦走する殺人犯などまずいない。しかもケガ人で女連れなのだ。
山を抜けても逃げ場はない。幹線道路はすでに厳しい検問体勢が敷かれている。
夜が明けようとしている。
光徳で捕えられた創生界の武装集団は、日光署だけでは間に合わず宇都宮中央署と東署、今市署と四か所に分散され取調べを受け、夜の内に東京の検察庁に送られた。そこで、本格的な取調べを受けることになる。
曙テレビの中禅寺湖撮影班は、中森自身がどこまでを放映の許可範囲内にするか迷っていた。それによって視聴率は大きく変わる。
公安刑事の星野は中禅寺湖からの拳銃引き揚げの状況説明に残され、日光署手配の宿に泊った。
達也もまた、日光署出張の赤城と大沢刑事に引き止められて日光一泊となり、当然のように友美が湖畔ホテルにツインの部屋をとる。
「内村逮捕は夜明けがヤマらしい」
自分に関係のない仕事なのに帰ってこない。
むしゃくしゃしてドライブでもしたいのに、友美の愛用車ルノーは達也が乗りまわしていて、ここにはない。
友美は一人で夕食を済ませバーに来た。
友美は、あのとき竜二が目の前にいたのを思い出しながらカウンターでグラスを傾けていた。看板になり、部屋に戻る。
五階のツインの部屋の窓から湖が一望に眺められた。夜の湖は闇に沈んでいる。
仮眠に近い状態で目が覚めた。
ドアが叩かれたような気がしたのだ。
ホテル備え付けの寝巻の紐をきちっと締めて覗き窓から廊下を見た。
達也がブルゾンの襟を立てて立っている。
顔付きは相変わらずのんびりに見えるが足元が忙しなく動いているところを見ると、また事件なのか。まったく落ちつかない男だ。
「どうしたの?」
「内村を探しに行く。一緒に逃げてる女は通報で寺崎香代子らしいと分かった。どうする?」
これは一応形式を踏んだだけで、目は「早く支度をしろ」と言っている。
窓の厚手カーテンを開くと白レースを通してガラス越しの空が白んでいた。夜が明け初めている。雨の心配はないようだ。
「まだ、羽根警部補たちも帰っていない。時間から考えて夜明け頃、霧降方面に抜ける可能性が出てきた」
友美にとってはどうでもいいことだ。達也が優しくベッドに潜り込んでくれるだけでいいのに、余分な仕事を持ち込んで来る。
ふくれっ面で着替えている友美の姿をチラチラと達也の視線が追うが顔は見ていない。
「どなたか一緒に行くんですか?」
「大沢と赤城が一台出す」
「じゃ、私たちは二人だけ?」
これで多少は友美の機嫌が直った。
フロントで部屋に五分といない達也の料金までも払ってホテルを出た。
左ハンドルに慣れた達也の運転で、いろは坂をエンジンブレーキを利かせ、タイヤを鳴かせて急降下し、JR日光駅手前を左折、日光署に着く。
パトカーの運転席の窓から赤城が手を振った。同乗は大沢刑事で、少し顔が赤いところを見るとアルコールが残っているのか。
大沢が下りて来て高性能の警察用トランシーバーを友美に手渡した。
「佐賀さんじゃあてになりませんからね。友美さんと連絡をとり合いましょう」
「いいわ。大沢さんとテレホンデートね?」
「なにバカなこと言ってる」
急に不機嫌になった達也がアクセルを踏んだ。二台の車が大谷川の清流にかかる霧降大橋を渡る。窓を開けると涼風が快い。
有料道路は早朝七時前は係員不在で無料だ。鳴沢を過ぎ赤薙山入口を通過した辺りから急な上り勾配となり緑濃い霧降高原への道は、曲がりくねった山道になる。野猿が逃げた。
ヤマツツジが咲き乱れている。
霧が深くなったり晴れたりする。
洒落たペンションや店が目に入る。
高原ハウスの建物と休止中のリフトが霧の中に霞んで見え隠れした。
「この辺りで待ち伏せしますから」
大沢の声がトランシーバーから響いてパトカーが停まった。バックミラーの視界から遠ざかる。先方に疲れた様子の三人連れがいる。
「あら、羽根さんじゃない?」
三人の刑事が泥にまみれズボンは破れ、見る影もないみすぼらしい姿でよろよろと道路の左側を歩いている。見られた姿ではない。
急ブレーキをかける。
達也が窓を開けると、羽根警部補が地獄で仏にあったような顔をして汗を拭いた。
「なにか食糧持ってないかね?」
「ごめん。何もなくて。内村は?」
「やつら、足が速い。この先らしい」
道はかなり登っている。達也が発信した。
「おーい。こら佐賀あ、乗せてけえ!」
羽根警部補の怒り声が爆発する。
「トランシーバーで大沢に連絡してくれ」
「なんで、そんなに急ぐの?」
「やつらは死ぬ気だ。行き先が分かったぞ」
「どこ?」
「六方沢橋だ。霧が湧くと魂を奪われる」
「なんで、そこじゃなければいけないの!」
「そこが自殺の名所だからだ」
道が大きく左右にカーブして下り坂に入った。夜明けの霧が薄れ視界が広がった。
「すてき!」
友美は絶景に目を見張る。
橋脚が谷底に長く伸びた白い橋が見えた。
夜明けの山間の緑の中で眩しいほど白い。
これが霧降高原の六方沢橋だ。
橋の長さは三百二十メートル。
深さ約百五十メートルの谷が両側の山にはさまれて、ほぼ45度のV字型に深く切れ込んでいる。道が右に大きくカーブした。
「ほら見て、あそこよ!」
友美が指をさした先に、肩を組んで歩く男女二人の姿が小さく見えた。
二人はほぼ橋の中央で立ち止まり、それから沢の下流方向に道を横切る。
谷から湧く霧を撮るために夜中から来てベストポジションを確保し、カメラを三脚で固定し根気よくシャッターチャンスを狙っている人が何人かいるが、二人には無関心のようだ。
長身の内村からみると橋の手すりの高さは腹部ぐらいしかない。
内村が欄干に手をかけ、香代子の肩を抱いた。
その手から感謝の心が伝わる。
霧が頬に快い。
風の音、山の音が囁く。
「さあ、とべ!思いっ切りとべ!」
内村と香代子が目を見合わせ「フッ」と笑った。泥にまみれ枝木で傷ついた顔も、見るかげもなく汚れ破れた衣服も二人に似つかわしくないだけに何となくおかしい。
二人共、白っぽいズボンがガレ場の土泥などで黒っぽく変色していた。
「化粧もさせられないで」
「いいのよ。あなたと一緒なら」
孤独だった青春が充実した永劫の時を迎えようとしている。もう思い残すこともない。
愛が全てに勝るなら、今、香代子はその瞬間を迎えた。香代子は内村の愛を信じた。
二人は頬を寄せ唇を合わせた。
内村雄太郎は目を閉じていた。
昔もこんな気持ちを感じたことがある。なにか心が温かくなってなにかほのかに懐かしくて、やるせない。
急停車した車から達也が走り、友美が続いた。
「カメラの人、その二人を止めてくれ!」
内村が振り向いて微笑んだ。朝霧に洗われた顔が服装の汚れと対照的にさわやかに見えた。香代子が訴えながら、泣いていた。
「お願い救けて!このままとばせて。この人と一緒。これでいいんです・・・」
語尾は宙にとんだ。達也が内村の足首を?み損ねて欄干に激突し肩を打って呻いた。
友美が手すりに手を乗せて下を見た。
二人は手をつなぎ舞って行く。
谷のはるか下から霧が湧き、二人を包んだ。
そのわずかなシャッターチャンスを徹夜して待っていた男が三脚からカメラを外し、欄干に身を乗り出して撮った。若い男だった。
その男の肩を急停車した車から降りた赤城がつかみ、驚いて振り向いた男の横っ面を力いっぱい平手で張った。
男は悲鳴を上げながら転倒したが必死でカメラを抱えている。その脇腹を羽根警部補の泥だらけの靴が蹴った。
「人の命より写真が大事なのか!」
矢野、坂口両刑事も欄干につかまり下をのぞいた。
百五十メートル下の石塊の中に小さく重なるように、一つのからだから二人の白っぽいズボンの足が四本出ている。
「きっと、内村さんが香代子さんを庇って先に落ちたのよ。香代子さんを大切に思って」
友美が感動したように恨みっぽく達也にいったが、達也は無視した。
水の流れが細く糸を引くように谷底を流れている。達也があわてて声をかけなければ、あの内村のことだ、計算したように清流にとびこんだことだろう。
「残念なことをした・・・」
羽根警部補の呟きが風に乗ってかすかに友美の耳に入った。鬼の警部補が鼻をすする。「バカな男だ。総理になれる器量なのに」
霧がまた深くなり、谷底を包む。
友美がしっかりと達也の腕をつかんだ。
達也が珍しくまじめに友美の肩を抱いた。