講演「いま、なぜ田中角栄なのか」-10

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特別寄稿第2弾

講演「いま、なぜ田中角栄なのか」-10

高尾義彦
=「人生八馨」一六年正月号・第五巻掲載から抜粋

このあたりの謎は、亡くなつた岩見隆夫・毎日新聞特別顧問が「歴史の現場 二〇世紀事件史」(二〇〇一年毎日新聞社刊)で、「もう一度、徹底的に取材してみたい」 と語り、果たせなかつた宿題となつている。
それはともかく、事件の発端では捜査がどの峰にたどり着くのか、見当もつかない。米国の意図よりも、特捜部の動きに神経をすりつぶす日々が続いた。
被疑者としての児玉誉士夫に対する病床での在宅取り調べ、米国からの極秘資料入手、ロッキード関係者を対象とした米国での嘱託証人尋問。裁判以外には使用しないとの約束で米国から提供された証人尋問調書。この間には、最高裁も巻きこんだ証人に対する刑事免責決定もあり、捜査は異例づくめだつた。
私自身は主任検事だつた吉永祐介特捜部副部長の取材が最大の仕事だった。新宿区西大久保にあつた平屋建ての官舎に夜ごせ、通う日々。「およげ!たいやきくん」が流行した年で、「まいにち まいにち ぼくらはてつばんのうえでやかれて いやになつちやうな」と、ひそかにこの歌を夜回りソングにしながら、実りの少ない禅問答を繰り返した。
七月二七日の元首相逮捕。その前夜は、東京地検のスポークスマンである次席検事の取材に手間取って、官舎に着いた頃には主任検事は自宅に入った後だった。すでにこの時点で毎日新聞は 「検察、重大決意へ」 と大きな見出しをつけた記事を表トップで用意し、輪転機は回り始めていた。長い捜査期間の中で、主任検事が体調不良を訴えて取材陣を煙に巻いたことは初めてで、翌日の捜査の「重大性」を裏付ける情報のひとつと受け止めた。

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真葛焼 地元で知る 秋の胡  2016年10月2日

明治維新の頃、京都から横浜に窯を移した宮川香山の陶芸展が増上寺宝物展示室で。仕事場が川崎に変わり、神奈川新聞を読むようになつて、真葛焼を知った。かつては京都・真葛ケ原(まくずがはら=現在の円山公園付近)に窯を構えていたという。