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アワガミ今昔・「和紙」にこだわる-3
=「人生八馨」一六年春季号・第六巻より
 私が一九四五年に生まれた町は、十年ほど前に、吉野川市として統合されたが、それ以前には、古文書にも記された「麻植(おえ)郡」という歴史的な由来を持つ地域とされてきた。
「あわ」 の表記としては、「粟」と「阿波」の二つが登場する。かつては貴重な食物だつた「粟」はこの地域から広がって、例えば千菓県などの粟の産地も、蒔き方、育て方などをこの地域から伝えていつたという歴史があり、こうした表記になつたようだ。
生まれ故郷では、古来、特産の麻布と並んで和紙製造が盛んで、我が家は「楮(こうぞ)の用紙漉職長」の名を得ていた、とされている。ちなみに当時の我が家の姓は「尾崎」で、後に「高尾」に改めたことも古文書で確認できる。すなわち「高越山の高の字と吾が本姓尾崎の尾を取り合わせて姓を高尾と改む」という。
江戸時代には、越前の国に「尺長紙」の漉き方を習得に出かけたり、阿波藩から、藩内に通用する「銀札」に用いる和紙の製造を委ねられたことなどが、古い証文などを引用して記されている‥明治に入って内国第高博覧会(明治一〇年)などに五色雁皮紙を出品した実績もあり、古文書はその頃の当主だつた高三郎の手でまとめられたもののようだ。
まだ幼かつた頃の冬の日、自宅近くの小さな川に、楢の皮などが流れに泳ぐように晒されている光景を見た記憶がある。我が家は、もうその頃は紙漉きの仕事には携わつていなかつたが、「和紙の里」というイメージは、故郷を語る時、常に脳裏をよぎる。
東京で定年を迎えた父は、故郷にあつた家を処分して、一九七〇年代に埼玉県小川町に終の棲家を構えた。なぜ彼の地を選んだかといえば、小川もまた和紙の里だったから、と聞かされた。父は六年前に九四歳で他界するまで約四〇年間を和紙の里で暮らし、自費出版の短歌集なども残した。

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緑なす オリーブオイル味噌汁に
(2016・10・10)
香川県・豊島の安岐正三さんが上京し、今年初搾りのオリーブオイルを貰った。神子が浜の収穫一〇七キロから五・九リットルを五日に搾油。濾過前なので、果実片が混じり緑色が濃い。月島の寿司屋で、産業廃棄物撤去後の計画などの話を聞いた。