占いの歴史ー2

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占いの歴史ー2

人類はその発生から何らかの占いを用います。
古代日本にも当然ながら占はありました。
その一部は古代の中国から伝わって発展して独自の占いに変化したものです。
しかも古墳時代よりさらに古い大昔から勾玉(まがたな)占いや鹿の肩甲骨を焼いて占う”太占(フトマニ”という占いが行われていたことは各地の古代遺跡発掘調査の副産物として発見されています。
古い歴史に現れる卑弥呼(ひみこ)の時代には、卑弥呼自身が呪術(じゅじゅつ)家として占いを用いて国を収め、日本の古い歴史書である古事記や日本書紀にも占いに関する記述があちこちにあります。
大陸との交流が盛んになる5世紀から飛鳥時代までは遣隋使や遣唐使が様々な占いを持ち帰っています。中でも亀の甲羅を焼いて、そのひび割れや色の変化を占う亀卜(キボク)が盛んになり、政治的な意図もあって卜部(うらべ)」姓を名乗る占いを業とする集団も現れます。
さらに平安時代に入ると国策として天文や暦を扱う陰陽師(おんみょうじ)が政治の表舞台に登場し「陰陽寮」という占いの公的部門が設けられます。この陰陽寮は、明治時代になって廃止されますが、それまでは国の一機関として占が公的に用いられていた長い歴史があるのです。
とくに平安時代中期に出現した陰陽師の安倍晴明(あべのせいめい=921―1005)は、天文博士であると同時に悪霊退治や難病治療などに力を発揮して帝や貴族社会、豪族の圧倒的人気を得て時代の寵児となり、陰陽道も全盛期を迎えます。
つづく
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